愛洲宗通(あいすむねみち、号:元香斎)が生きた戦国時代中期から後期(16世紀)は、日本社会が大きな変革の渦中にあった時代です。応仁の乱以降、既存の権威は揺らぎ、各地で戦乱が頻発する中で、武士階級にとって武芸、とりわけ剣術は、実戦における生死を分かつ技術として、また個人の武勇や家門の誉れを示す重要な要素として、その価値を飛躍的に高めていました。この時代には、塚原卜伝の天真正伝香取神道流や上泉信綱の新陰流など、後世に大きな影響を与えることになる多くの剣術流派が興隆し、それぞれが独自の技術体系と戦闘理論を編み出しました。
このような剣術勃興の潮流の中で、愛洲宗通の父・愛洲移香斎久忠が創始した陰流(かげりゅう、影流とも)は、剣術の歴史において初期の重要な源流の一つとして位置づけられています 1 。陰流は、その後の新陰流をはじめとする多くの流派に影響を与えたとされ、日本剣術の三大源流の一つにも数えられています 1 。愛洲宗通は、この陰流の正統な継承者として、父から受け継いだ剣技を研鑽し、さらにそれを次代へと伝えるという重要な役割を担いました。特に、剣聖と称される上泉信綱に陰流を伝授した可能性が濃厚であることから、宗通は単なる一介の剣術家にとどまらず、剣術史の大きな転換点において、古流の精髄を新興流派へと橋渡しする触媒のような存在であったと考えられます。宗通の活動時期は、剣術が単に戦場で敵を倒すための技術から、より洗練された身体操作や精神性を伴う武道へと体系化されていく過渡期にあたっており、彼が伝えたとされる「奇妙」と評される技法は、この過渡期における技術革新の一端を示すものとして注目されます 1 。
本報告は、戦国時代の剣術家・愛洲宗通(元香斎)について、現存する文献史料、伝承、そして近年の研究成果を総合的に検討し、その生涯、剣術家としての活動、彼が関わった陰流および猿飛陰流の特質、主要な弟子や後世への影響を多角的に明らかにすることを目的とします。特に、ご提供いただいた資料に含まれる情報を基盤としつつ、関連する諸情報と照らし合わせることで、伝説と史実の狭間にいる宗通の実像に可能な限り迫ることを試みます。
本報告の構成は以下の通りです。まず、宗通の生誕から晩年までの生涯と、その出自について、諸説を交えながら詳述します。次に、剣術家としての具体的な活動、特に常陸国佐竹氏への仕官と陰流の伝承に焦点を当てます。続いて、宗通が創始したとされる猿飛陰流の成立経緯と、その技術的特徴、特に新陰流に大きな影響を与えた「燕飛の太刀」について深く掘り下げます。さらに、佐竹義重や上泉信綱といった主要な弟子との関係性と、陰流の技法や思想が後世の剣術界に与えた広範な影響を考察します。そして、宗通にまつわる逸話や伝説を分析し、近年の研究動向を踏まえた歴史的評価を試みます。最後に、本報告の総括として、愛洲宗通の剣術史における総合的な評価と、今後の研究課題について展望します。
愛洲宗通の生没年については、伝承によれば永正16年(1519年)に生まれ、天正18年(1590年)に没したとされています 1 。この生年が正しければ、父・久忠が67歳頃の子ということになります。しかし、これらの年代は主に後世の記録や伝承に基づくものであり、同時代の確実な一次史料による裏付けは現在のところ確認されておらず、今後の研究によって検証されるべき課題として残されています。
宗通の父は、陰流(影流とも表記される)の創始者として知られる愛洲移香斎久忠(いこうさいひさただ、または、ただひで)です 1 。久忠は享徳元年(1452年)に伊勢国(現在の三重県の一部)の豪族・愛洲氏の一族として生まれたと伝えられています 1 。愛洲氏は熊野水軍の流れを汲むともいわれ、伊勢を拠点とした武家でした 1 。久忠は通称を太郎左衛門、後に日向守を称したとされます 4 。
陰流創始にまつわる最も有名な伝承は、久忠が日向国(現在の宮崎県)の鵜戸神宮(鵜戸大権現)の岩屋に参籠し、厳しい修行の末に霊夢を得て剣術の奥義を悟ったというものです 1 。この霊夢の内容については、蜘蛛が変じた老翁から秘太刀を授かったとする説 1 や、鵜戸明神が化けた神猿から教えを受けたとする説 3 があり、これらの神秘的な体験を通じて陰流を開いたと語り継がれています。こうした創流伝説は、当時の武芸流派の開祖によく見られるもので、流派の権威を高める意味合いも含まれていたと考えられます。
陰流の名称については、「陰」の字を用いる場合と「影」の字を用いる場合があります。宗通の子孫である平澤家に残された記録や、東京国立博物館が所蔵する天正10年(1582年)写の目録では「陰之流」または「愛洲陰之流」と「陰」の字が用いられています 1 。一方で、中国明代の兵書『武備志』には「影流之目録」として「影」の字で記載されており 1 、この表記の揺れは、流派が伝播する過程や記録される文脈によって異なっていた可能性を示唆しています。国内で正式に伝えられる際の名称と、例えば倭寇などを通じて海外に非公式に伝播した際の名称が異なっていた可能性も考えられ、単なる誤記や異体字の問題として片付けるのではなく、流派の多面的な性格や複数の伝播ルートの存在を考慮に入れる必要があるかもしれません。
愛洲宗通は、通称を「小七郎」といい、父・久忠の子として陰流の家系を継いだとされています 1 。しかし、前述の通り、父・久忠が宗通をもうけたとされる永正16年(1519年)には、久忠は既に67歳前後という高齢に達していました 1 。当時の平均寿命や活動年齢を考慮すると、この年齢での実子の誕生は稀であり、この点を根拠として、宗通は久忠の実子ではなく養子だったのではないかという説が一部で指摘されています 1 。
この高齢での子の誕生という状況は、いくつかの解釈を生みます。一つは、久忠が晩年に至るまで剣技の研鑽と後継者の育成に並々ならぬ情熱を注いでいた証左と見ることです。もう一つは、養子説が生まれる直接的な背景となった可能性です。仮に宗通が養子であったとしても、当時の武家社会において家督相続における養子は決して珍しい存在ではなく、血縁関係の有無にかかわらず、流派の技と精神を継承するに足る人物が選ばれることは十分にあり得ました。重要なのは、宗通が実子であれ養子であれ、陰流の正統な継承者として認められ、その発展に寄与したという事実です。この出自に関する不確かさや特異性は、宗通の人物像をある種神秘的に見せる一因となると同時に、史料の乏しい戦国期の武芸者の実像を解明する上での困難さを示しています。
愛洲宗通の正確な出生地や幼少期を過ごした場所については、残念ながら明確な記録は残されていません 1 。父・久忠の出身地が伊勢国であること 1 、そして陰流創始の地とされるのが日向国であること 1 から、これらの地域が宗通の幼少期に関わっていた可能性は考えられます。
しかし、諸説が存在します。一つの説では、宗通が生まれる頃には、父・久忠は既に九州の日向を離れ、関東の常陸国(現在の茨城県)で佐竹氏に仕えていたともいわれています 1 。この説に従えば、宗通は常陸国で生まれ育った可能性が出てきます。一方で、父・久忠は晩年まで日向国に在住したとの伝えもあり 1 、この場合は宗通が日向で幼少期を過ごした可能性も否定できません。
このように、宗通の幼少期の育成環境については不明瞭な点が多く、どの地で陰流の基礎を学んだのかを特定することは困難です。しかし、父・久忠が伊勢から日向、そして常陸へと活動の足跡を残している可能性は、親子二代にわたる広範な活動ネットワークの存在を示唆しており、久忠の晩年の活動が、宗通の後のキャリア、特に常陸佐竹氏への仕官に何らかの影響を与えた可能性も考えられます。
以下に、愛洲宗通に関連する出来事を年表形式でまとめます。
表1:愛洲宗通 関連年表
年代(西暦/和暦) |
愛洲宗通の出来事・活動 |
関連人物・事項 |
備考・史料 |
1452年(享徳元年) |
(父)愛洲久忠(移香斎)誕生(伝) |
愛洲久忠 |
1 |
1487年(長享元年)頃 |
(父)久忠、日向国鵜戸神宮にて陰流創始(伝) |
愛洲久忠、陰流 |
1 |
1519年(永正16年) |
愛洲宗通(元香斎、小七郎)誕生(伝) |
愛洲久忠(67歳頃) |
1 。父久忠の高齢により養子説あり 1 |
1538年(天文7年) |
(父)愛洲久忠 死去(伝、享年87) |
愛洲久忠 |
1 |
(不明) |
宗通、父より陰流を継承・研鑽 |
陰流 |
1 |
1561年(永禄4年) |
(『武備志』)戚継光、「影流之目録」を倭寇より入手 |
影流之目録、倭寇、猿飛、猿廻、山陰 |
1 。陰流の海外伝播を示唆 |
1564年(永禄7年) |
常陸国の佐竹義重に陰流の奥義書を伝授、剣術師範となる |
佐竹義重、太田城 |
1 。宗通の活動を裏付ける一次史料 |
(不明、永禄年間以降) |
佐竹義重より常陸国那珂郡松原村・平沢村を拝領、平澤姓に改姓 |
平澤姓 |
1 |
(不明) |
上泉信綱に陰流を伝授した可能性(年代諸説あり) |
上泉信綱、新陰流 |
1 。久忠との年齢差から宗通が指南役と推測される |
1573年(天正元年)頃 |
常陸国真弓山にて修行、老猿の啓示により猿飛陰流と改称(伝) |
猿飛陰流、真弓山 |
1 。主に伝承上の呼称か 1 |
1582年(天正10年) |
「愛洲陰之流目録」写本作成(東京国立博物館蔵) |
愛洲陰之流目録 |
1 。平澤家伝来を示唆する奥書。宇喜多→湯原伝来説も 10 |
1590年(天正18年)頃 |
愛洲宗通 死去(伝、享年72) |
|
1 。嫡男早世のため孫が家督継承 1 |
(江戸時代以降) |
平澤家、佐竹氏の秋田移封に従い秋田藩士として存続 |
平澤家、秋田藩 |
1 。陰流の技術伝承は途絶えたが、家系と一部記録は残る 2 |
この年表は、宗通の生涯と彼を取り巻く環境を時系列で把握する一助となるでしょう。各出来事の背後にある伝承や史料の性質を理解することで、より深い歴史的考察が可能となります。
愛洲宗通は、父・愛洲移香斎久忠が創始した陰流の剣術を正統に受け継ぎ、その奥義を深く学んだとされています 1 。父から授かった技法を基礎としつつ、宗通自身もさらなる研鑽を積み、陰流の技を磨き上げていったと考えられます。戦国乱世という実戦が日常であった時代において、剣術は単なる遊戯や精神修養に留まらず、直接的に生命の維持に関わる切実な技術であり、宗通もその厳しい環境の中で、陰流の有効性を追求し続けたことでしょう。
宗通の剣術家としての具体的な活動を示す重要な記録として、常陸国(現在の茨城県)の有力な戦国大名であった佐竹義重への仕官が挙げられます。永禄7年(1564年)、宗通は佐竹義重に陰流の奥義書を伝授し、義重の居城である太田城に招かれて剣術師範の役に就いたと記録されています 1 。この事実は、宗通が単に一介の武芸者として諸国を流浪していたのではなく、特定の戦国大名家に正式に仕え、その武芸指南役という重要な地位にあったことを示しています。この記録は、宗通の活動を裏付ける貴重な一次史料として、その実在性と社会的地位を証明するものです。
佐竹義重は「鬼義重」の異名を持つほどの勇猛な武将であり、彼が宗通を召し抱え、陰流を学んだということは、陰流の剣技が実戦的にも高く評価されていたことの証左と言えるでしょう。義重から厚遇された宗通は、所領として常陸国那珂郡松原村および平沢村の地を与えられました 1 。これにより、宗通は経済的な基盤を得て、安定した環境で剣術の指導と研究に専念することができたと考えられます。この時期から、宗通は関東地方、特に常陸国を主な活動拠点としたと見られています 1 。戦国大名への仕官は、武芸流派の存続と発展にとって極めて重要な要素であり、宗通が佐竹氏という有力なパトロンを得たことは、陰流が常陸国という特定の地域に根を下ろし、藩の公認武術として保護され、その名が後世に伝わる上で大きな意味を持ちました。
佐竹義重から拝領した所領の一つである平沢村の地名にちなんで、愛洲宗通は後にその姓を「平澤(平沢)」と改めたと伝えられています 1 。武士が主君から与えられた領地の名を姓とすることは、当時しばしば見られた慣習であり、これは宗通が佐竹家臣として定着し、その土地に根を下ろしたことを示しています。
伝承によれば、天正18年(1590年)頃に宗通が没した後、その嫡男は父に先立って早世していたため、家督は宗通の孫によって継承されました 1 。宗通の系統は平澤家として、引き続き佐竹家中で剣術師家の役割を務めたとされています。慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの結果、佐竹氏は常陸国から出羽国秋田へと転封されますが、平澤家もこれに従い、秋田藩士として存続しました。そして、秋田においても平澤氏が代々陰流を伝え続けたといわれ、その系譜は現代まで続いているとの伝承も残されています 1 。
ただし、陰流の「技術的な流儀」としての完全な伝承については、異なる見解も存在します。一部の資料では、陰流の剣技としての伝承は平澤家では途絶えたと記されています 2 。この一見矛盾する記述は、「流派の技術体系の完全な継承」と、「家系・名跡の存続および部分的な伝承」を区別することで理解できるかもしれません。つまり、陰流の全ての技法や理合が失われずに伝えられたわけではないかもしれませんが、平澤家としては存続し、流派の名称や創始者に関する記憶、そして一部の教えは何らかの形で保持されたと考えられます。実際に、平澤家には宗通が記したとされる「陰之流 私」という巻物が代々伝えられていたことが記録されており 2 、これは陰流の教えの断片が家内で大切に守られていたことを示唆しています。江戸時代を通じて多くの武術流派が変質、衰退、あるいは断絶していく中で、平澤家が秋田藩士として存続したこと自体が、陰流という名を後世に伝える上で重要な役割を果たしたと言えるでしょう。この「断絶」と「継続」の二重性は、武術流派の歴史的変遷の複雑さを示しており、流派の歴史を評価する際には、技術体系の純粋な継承だけでなく、それを伝えた家や人々の社会的・文化的な側面も考慮に入れる必要があることを教えてくれます。
愛洲宗通は、父・久忠から受け継いだ「陰流」に、彼自身の工夫と研鑽を加えて、新たに「猿飛陰流(さるとびかげりゅう)」と名乗ったと伝えられています 1 。この流派名の変更には、非常に興味深い伝説が付随しています。
その伝説によれば、天正初年(1573年)頃、宗通は常陸国久慈郡に位置する真弓山に籠り、祈願を込めた厳しい修行を行っていました。その最中、宗通は不思議な「異人」に遭遇し、さらにその後、一匹の老いた猿が現れて、剣術の極意とも言える動きを演じて見せたといいます 1 。この常人には理解し難い霊妙な体験を通じて、宗通は新たな剣術の境地を開き、自らの流派を「猿飛陰流」と改称したのだと語り継がれています。
この「猿の剣術伝説」は、宗通の父・愛洲移香斎久忠が日向の鵜戸の岩屋で蜘蛛の化身である老翁、あるいは神猿から陰流の秘太刀を授かったという創流伝説と対をなすものとして、武芸者の流派創始にまつわる神秘的な啓示の物語の系譜に連なります 1 。実際、一説には「鵜戸権現が化けた神猿が(久忠に)教えた」とする異伝も存在しており 1 、猿が剣技を伝授するというモチーフは、愛洲父子の剣術に深く関わっているようです。
しかしながら、宗通自身が「猿飛陰流」へと改称した経緯を記した公式な文書は、現在のところ確認されていません。佐竹家への提出文書などでは、依然として「陰流」の名称が用いられ続けた可能性も指摘されています 1 。このことから、「猿飛陰流」という呼称は、主に伝承上あるいは口伝として語られたものであり、実際の史料上では、宗通の流派も引き続き「愛洲陰流」や「陰之流」といった名称で記録されていた可能性が考えられます。それでもなお、「猿飛」という名称とそれにまつわる伝説は、陰流の持つ特異な技術体系や思想を象徴的に表し、人々に強い印象を与えたことは想像に難くありません。
愛洲宗通が継承し、発展させたとされる猿飛陰流(または愛洲陰流)の剣術は、当時の他の主要な剣術流派、例えば鹿島新当流や念流系統の剣法と比較して、際立った特徴を持っていたと評されています。その最大の特徴は、「縦横に変転する軽妙な剣さばき」にあったとされています 1 。
具体的には、一つの攻防の局面において、単に直線的な攻撃や防御に終始するのではなく、上下左右へと自在に身体を運用し、状況の変化に応じて機敏に攻撃と防御を入れ替えるような、予測しづらい巧みさを備えていたと考えられます 1 。このような動きは、あたかも猿が木々の間を飛び回るかのような、立体的で変化に富んだものであったのかもしれません。
宗通が見出したとされるこの陰流独自の工夫は、後に新陰流を興すことになる上泉伊勢守信綱によって高く評価され、「奇妙(きみょう)」あるいは「不思議なる剣法」と評されたと伝えられています 1 。この「奇妙」という言葉は、単に珍しいという意味だけでなく、従来の剣術の常識では捉えきれない、奥深く優れた工夫や理合を含んでいたことを示唆しています。実際、新陰流の兵法伝書の中にも、陰流由来の技法として猿が剣技を演じる姿が図で描かれたり、「猿飛」の名を冠した型が伝えられたりしていることから 1 、陰流系統の剣風が当時として斬新かつ高度なものであったことが窺えます。
愛洲宗通が猿飛陰流の修行の過程で編み出したとされる秘技の中でも、特に重要なものとして「燕飛の太刀(えんぴのたち)」が挙げられます 1 。この名称は、文字通りには「燕(つばめ)の飛翔」を意味しますが、剣術の技法としては「えんぴ」と読まれ、後に上泉信綱が創始する新陰流兵法において、基本かつ極めて重要な太刀技の一つとして知られることになります 1 。
伝承によれば、上泉信綱が諸国の剣術を学ぶ中で、最初に愛洲陰流から学んだ技こそが、この「猿飛の太刀」(燕飛の太刀の原型)であったとされています 1 。信綱は、この猿飛の技に陰流の精髄を見出し、これを基盤として自らの新しい流派である新陰流の鍛錬体系を構築したといわれています。そして、信綱は「猿飛」の「猿」の字を、より洗練され俊敏なイメージを持つ「燕(燕子=つばめ)」の字に置き換えて「燕飛」と名付け直し、さらに自らの工夫を加えて六箇条からなる太刀技法として完成させました 1 。
江戸時代に伝わる上泉信綱直筆とされる影目録(新陰流の伝書)や、その門人たちの伝書には、「燕飛(猿飛)は懸待表裏(けんたいひょうり)の行。五箇の旨趣を以て肝要となす」といった文言が記されており、陰流の初伝であった「猿飛」が、新陰流の「燕飛」として、その名称と本質的な理合を変えずに踏襲・継承されていることが確認できます 1 。新陰流の諸派において、最初に教えられる基本の形がこの燕飛であるという伝承もまた、「燕飛の太刀」の淵源が愛洲陰流(猿飛の太刀)にあることを強く物語っています。
「燕飛の太刀」の技術的な特徴は、使太刀(仕太刀)と打太刀が互いに間合いを測りながら、一度太刀を交えた後も動きを止めることなく、あたかも水が流れるように途切れることなく循環させながら連続して技を繰り出す点にあります 1 。これは、攻撃(懸かり)と守り(待ち)、表と裏といった相反する要素を、状況に応じて絶えず入れ替え、敵の動きに柔軟に随従して自在に転変することを基本理念とする高度な技法です。一方向や一箇所に固執することなく、攻防一体となって立ち回ることを旨としています 1 。
このような「懸待表裏」「敵に随って転変」という理合こそが、「燕飛の太刀」の神髄であり、上泉信綱は陰流からこの「奇妙」と評された動きの本質を抽出し、それを洗練させることで剣術の極意を悟り、自らの新陰流を創始したと伝えられています 1 。剣術史の研究においても、「燕飛の太刀は愛洲移香斎が創始した陰流の太刀であり、上泉伊勢守は燕飛によって剣術の極意を悟り、新陰流を創始した」と評価されています 1 。このように、「燕飛の太刀」は、愛洲宗通父子の陰流から生まれ、新陰流へと受け継がれた象徴的な技法であり、後の近世剣術全般に大きな影響を与えた基礎技術と言うことができるでしょう。「猿飛」から「燕飛」への名称変更は、上泉信綱が陰流の持つ革新的な要素(素材)を活かしつつ、それをより普遍的で洗練された武術体系(新陰流)へと昇華させた創造的継承のプロセスを象徴していると言えます。
愛洲宗通の門下には、戦国時代を代表する武将や剣豪が名を連ねていたと考えられますが、その中でも具体的な記録として確認できる主要な弟子の一人が、常陸国の戦国大名・佐竹義重です 1 。前述の通り、宗通は永禄7年(1564年)に佐竹義重に招かれ、陰流の奥義を直接伝授しました。この事実は、宗通が義重に授けたとされる免許状(伝書)が佐竹家に現存していることからも裏付けられており、陰流が当時の武家社会において、実戦的な価値を持つ兵法として高く評価され、受容されていたことを示す具体的な証拠となっています 1 。
佐竹義重は「鬼義重」と称されるほどの勇猛果敢な武将であり、彼が愛洲宗通から剣法を学んだことは、義重自身の武勇を高めるだけでなく、佐竹家中の武芸水準の向上にも資したと考えられます。戦国時代において、有力な剣術流派の免許を持つことは、武将個人の武勇を示すステータスであると同時に、大名としての威信や文化的洗練度を示すものでもありました。義重が陰流を学んだ背景には、実利的な武力向上への期待と、先進的な武術を取り入れることによる名声の獲得という両面があったと推測されます。
愛洲宗通の弟子として、そして日本剣術史において最も大きな影響を与えた人物として特筆すべきは、「剣聖」と称えられる上泉伊勢守信綱(秀綱)です 1 。上泉信綱は上野国(現在の群馬県)出身の武将ですが、諸国を巡って剣術修行を行い、飯篠長威斎家直の天真正伝香取神道流や念流などと並んで、愛洲陰流も学んだとされています 1 。
上泉信綱が誰から陰流を学んだかについては諸説ありますが、陰流の創始者である愛洲移香斎久忠(宗通の父)と信綱との間には約50年もの年齢差があったため、実際に信綱に陰流を指南したのは、息子の愛洲宗通(元香斎)であったとする説が有力視されています 1 。この説は、後世に編纂された伝書の中に「上泉伊勢守に陰流を相伝したのは子の愛洲宗通である」と明記されていることからも支持されており 1 、宗通が上泉信綱に陰流の極意を授けた可能性は非常に高いと考えられます。
上泉信綱は、愛洲陰流から学んだ「奇妙」と評される独特の工夫や理合に、自身の深い見識と創意を加え、新たに新陰流を創始しました 1 。この新陰流の成立において、陰流、特に宗通が伝えた「燕飛の太刀」(猿飛の太刀)の技法と思想が根幹的な役割を果たしたことは前述の通りです。
上泉信綱によって創始された新陰流は、その高弟たちによって日本各地へと広められ、江戸時代を通じて剣術界に一大勢力を築き上げることになります。代表的な弟子としては、柳生新陰流の祖となる柳生宗厳(石舟斎)や、タイ捨流の開祖となる丸目蔵人佐などが挙げられます 1 。
これらの高弟たちを通じて、新陰流はさらに多様な分派を生み出し、柳生新陰流、タイ捨流、そして江戸柳生から分かれた直心影流など、数多くの有力な流派が形成されました。これらの流派は、いずれも上泉信綱を源流としていますが、そのさらに奥深くには、愛洲宗通が伝えた陰流の奥義や思想が息づいていたと言えます 1 。
一方で、愛洲宗通自身の直系である猿飛陰流(愛洲陰流)は、主に仕官先であった佐竹家中の一門によって細々と伝えられたに留まり、新陰流系統のような全国的な広がりを見せることはありませんでした 1 。江戸時代中期以降になると、愛洲陰流は次第にその勢いを失い、ついには途絶えてしまったとされています。
このように、愛洲宗通が直接指導した流派の系統は歴史の表舞台から姿を消すことになりましたが、彼の教えを受けた上泉信綱を介して新陰流系統が隆盛を極めたことにより、宗通は間接的ながらも日本剣術史に絶大な影響を及ぼした人物として評価することができます 1 。陰流は「日本剣術の三大源流」の一つに数えられており、愛洲宗通はその正統を継承し、新陰流という新たな潮流への橋渡し役を果たした、剣術史における重要な連結点に位置する人物と言えるでしょう。この陰流の「直接的断絶」と「間接的隆盛」という一見パラドックスにも見える現象は、武術流派の歴史において、創始者や直系子孫の系統が必ずしも最も広範な影響力を持つとは限らないことを示しています。むしろ、優れた弟子が流派の本質を捉え、時代に合わせて発展させることで、元の流派のDNAがより広範囲に受け継がれるケースがあることを示唆しています。愛洲宗通の功績は、新陰流という形で結実し、日本の武道文化に深く刻まれたと言えるでしょう。
愛洲宗通にまつわる逸話として最も著名なものは、やはり常陸国真弓山における老猿から秘剣を授かったという「猿飛の剣術伝説」です 1 。この伝説は、宗通の父・愛洲移香斎久忠が日向国鵜戸の岩屋で鵜戸権現の霊験(蜘蛛の化身の老翁または神猿)によって陰流の極意を悟ったという創流伝説と対をなすものとして語り継がれています 1 。
これらの伝説は、江戸時代中期の享保元年(1716年)に箕輪涼月(日夏繁高の別号ともされる)によって著された『本朝武芸小伝』などの武芸書で紹介され、後世に広く流布しました 1 。ただし、『本朝武芸小伝』における愛洲久忠の影流・陰流に関する記述については、独立した詳細なものではなく、久忠の事蹟が当時既に定かでなかったため憶測に基づいた記述が多いとの指摘もあります 16 。それでもなお、猿が剣を使うというユニークで神秘的な発想は人々の想像力を刺激し、例えば藤沢周平氏の小説『飛ぶ猿 愛洲移香斎』のように、近代以降の剣豪小説や伝奇的な物語の格好の題材となりました 1 。
宗通の出自に関しては、父・久忠が高齢であったことから、「猿飛の由来となった猿は実は宗通の実父(愛洲氏とは血縁がない)」といった荒唐無稽な俗説まで生まれたとされています 1 。また、宗通が陰流を改めて猿飛陰流と称したことについても、「猿の秘剣を得た」という夢物語のような伝承であるため、後世の潤色や創作ではないかという見方があります。一方で、宗通が晩年に至り、武術の技術的な側面だけでなく、その精神性、例えば「不殺生の精神」を追求した結果として流派名を改めたのではないか、といったより思想的な解釈を試みる研究者も存在しますが、その真相は定かではありません 1 。
愛洲陰流(影流)が、日本国内のみならず、当時の東アジア海域で活動していた倭寇としばしば呼ばれる海上勢力と何らかの関連を持っていた可能性を示唆する史料が存在します。それは、中国明代の万暦49年(1621年)に茅元儀によって編纂された兵法書『武備志』の記述です 1 。
『武備志』巻八十六「陣練制・紀效新書十八巻本巻十四・短器長用解」には、明の将軍であった戚継光が嘉靖40年(1561年)に、倭寇との戦闘における戦利品として「影流之目録」を得たと記されています 6 。この「影流之目録」には、猿が剣術の型を演じているかのような図と共に、「猿飛」「猿廻」「山陰」といった太刀の名称が掲載されており 1 、これらは日本側で伝えられる愛洲陰流の「猿飛」の技名や、猿にまつわる伝説と奇妙に符合します。この事実は、陰流が正規の外交ルートを経由せずとも、倭寇のような集団を通じて海外、特に中国大陸沿岸部へ伝播していた可能性を強く示唆しています。
さらに、東京国立博物館が所蔵する陰流の伝書(「愛洲陰之流目録」)に描かれている剣士の風貌が、東京大学史料編纂所蔵の「倭寇図巻」に描かれた倭寇の人物像に似ているという興味深い指摘もなされており 6 、陰流と倭寇の活動との間に何らかの接点があった可能性を補強します。陰流の「縦横に変転する軽妙な剣さばき」 1 は、多様な状況に対応しうる柔軟な戦闘技術であり、特定の型に縛られない実戦性を重視する倭寇のような集団にとって魅力的だったのかもしれません。この「非公式な国際性」は、陰流が日本国内の武士社会だけでなく、より広範な東アジアの武術交流の一端を担っていた可能性を示し、その歴史的評価に新たな次元を加えるものです。
愛洲宗通の歴史的評価は、長らくその高名な弟子である「剣聖」上泉信綱の輝かしい業績の陰に隠れがちでした 1 。しかし、近年の武術史研究の進展に伴い、宗通の剣術史における役割は再評価されつつあります。彼は単に陰流の第二世というだけでなく、陰流の正統を継承し、それを上泉信綱へと橋渡しすることで、新陰流という日本剣術史における一大潮流の誕生に決定的な影響を与えた人物として、その重要性が認識されるようになってきました 1 。
宗通の実像は長らく不明瞭な点が多かったのですが、近年になって史料の発見や再検討が進み、特に東京国立博物館所蔵の「愛洲陰之流目録」に関する詳細な分析(宮本光輝・魚住孝至両氏による2012年の研究報告など)は、宗通の流儀やその伝播に関する具体的な情報を明らかにし、彼の実在性と活動を裏付ける上で大きな貢献をしました 1 。一時期、愛洲移香斎・宗通父子は伝説上の剣豪と見なされる風潮もありましたが、現在では各種の古文書や伝書の分析を通じて、その活動や系譜が歴史的事実として再構築されつつあります 1 。
愛洲宗通および陰流に関する理解を深める上で、いくつかの重要な史料が存在します。
これらの史料と伝説を相互に比較検討し、批判的に吟味することで、愛洲宗通という人物像とその流派の実態がより立体的に浮かび上がってきます。当初は伝説が先行して実像が不明瞭であった部分も、近年の史料研究によって具体的な活動や流派の内容が明らかになりつつあります。しかし、史料だけでは埋められない部分、例えば「猿飛」という名称の真意や技の具体的なイメージについては、伝説が一定の示唆を与えてくれることもあり、両者を相互補完的に捉える視点が重要です。
以下に、陰流・猿飛陰流に関する主要な伝承と、それに関連する史料を一覧表にまとめます。
表2:陰流・猿飛陰流に関する主要伝承と比較史料一覧
伝承/史料名 |
主な内容 |
成立年代/関連年代 |
特徴・意義 |
関連資料 |
伝承 |
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愛洲久忠 鵜戸神宮の創流伝説 |
日向国鵜戸の岩屋で修行し、蜘蛛の老翁または神猿から啓示を受け陰流を創始。 |
長享元年(1487年)頃 |
陰流の神秘的な起源を語る。武芸創流伝説の典型。 |
1 |
愛洲宗通 真弓山の猿飛伝説 |
常陸国真弓山で修行中、老猿が剣術の極意を演じ、猿飛陰流と改称。 |
天正初年(1573年)頃 |
宗通独自の境地と流派名の由来を説明。父の伝説と対をなす。 |
1 |
史料 |
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佐竹義重への陰流伝授書状・目録 |
愛洲元香斎宗通が佐竹義重に陰流の奥義を伝授した記録。 |
永禄7年(1564年) |
宗通の具体的な活動と、陰流が武家社会で受容されたことを示す一次史料。 |
1 |
『武備志』所収「影流之目録」 |
明の戚継光が倭寇から得た戦利品。猿が剣技を演じる図、「猿飛」「猿廻」「山陰」の技名を含む。 |
1561年(入手年) |
陰流の海外伝播と「猿飛」の技名が古くから存在した証拠。倭寇との関連を示唆。 |
1 |
東京国立博物館蔵「愛洲陰之流目録」 |
天正10年写本。全5巻中3巻現存。平澤家伝来を示唆する奥書。内容は新陰流との関係や『紀效新書』の記述解明に貢献。 |
天正10年(1582年)写 |
宗通の流儀が文書で伝わった証拠。近年の研究で詳細が分析され、宗通の実像解明に不可欠。宇喜多→湯原伝来説も。 |
1 |
『本朝武芸小伝』(箕輪涼月/日夏繁高) |
愛洲父子の剣術伝説(鵜戸の岩屋、猿飛陰流の故事)を紹介。 |
1716年(正徳6年)成立 |
江戸時代における愛洲父子伝説の流布状況を示す。ただし久忠に関する記述は憶測との指摘も。 |
1 |
平澤家伝来「陰之流 私」(巻物) |
二代元香「宗通」の私的な巻物。「兵法とは縣侍表裏」「性根を据えて学ぶ」等の教え、初手・中手・合処者・无手の根元の記述。 |
宗通の活動期 |
宗通自身の言葉や教えが直接的に記されている可能性があり、陰流の具体的な理念や稽古段階を知る上で貴重。平澤家による陰流の記憶の断片。 |
2 |
この表は、愛洲宗通と陰流に関する情報の種類、成立背景、そして信頼性の度合いを整理し、読者がより深く情報を吟味するための一助となることを意図しています。
本報告を通じて、戦国時代の剣術家・愛洲宗通(元香斎)の生涯、彼が継承・発展させた陰流および猿飛陰流の剣術、そして後世への影響について、現存する史料と伝承、近年の研究成果を基に多角的に検証を試みました。
愛洲宗通は、父・愛洲移香斎久忠が創始した陰流の正統な継承者として、その技と精神を受け継ぎました。彼の剣術家としての活動は、常陸国の戦国大名・佐竹義重への仕官という具体的な史実によって裏付けられており、陰流が当時の武家社会において実戦的な価値を持つ兵法として認識されていたことを示しています。
宗通にまつわる最も著名な事績は、やはり「剣聖」上泉伊勢守信綱への陰流伝授の可能性です。父・久忠と信綱の年齢差を考慮すると、実際に信綱に陰流の「奇妙」と評される技法を伝えたのは宗通であったとする説が有力であり、これにより宗通は、新陰流という日本剣術史における一大潮流の源流に位置づけられることになります。「猿飛の太刀」から「燕飛の太刀」へと昇華された技法は、陰流の革新性が新陰流へと見事に継承されたことを象徴しています。
宗通自身が創始したとされる猿飛陰流は、真弓山での老猿の伝説に彩られ、その名称や由来には神秘的な要素が含まれます。この伝説は、陰流の特異な剣技や思想を象徴的に表している可能性があり、また、中国の兵書『武備志』に「影流之目録」として「猿飛」などの技名が収録されている事実は、陰流が倭寇などを通じて海外にも影響を及ぼしていた可能性を示唆し、その国際的な広がりと技術の普遍性を物語っています。
宗通直系の猿飛陰流は、佐竹藩内での限定的な伝承に留まり、やがて歴史の表舞台から姿を消しましたが、彼が上泉信綱に与えた影響を通じて、その教えは新陰流系統の諸流派へと広範に受け継がれ、江戸時代の武士社会、さらには現代武道にもその精神的・技術的遺産を残しています。
このように、愛洲宗通は、その名が上泉信綱ほど広く知られてはいないものの、まさしく「影の剣豪」として、日本の剣術史、特に新陰流系統の発展に決定的な役割を果たした重要人物であったと結論づけられます。彼の存在は、古流から新興流派への橋渡しという、剣術史における大きな転換点に位置し、その影響力は計り知れないものがあります。
愛洲宗通および陰流に関する研究は、近年の史料発見や分析によって大きく進展しましたが、未だ解明すべき課題も多く残されています。
愛洲宗通および陰流の研究を深めることは、新陰流の成立背景や本質をより深く理解することに繋がり、ひいては日本武道文化全体の歴史的展開や思想的特質を明らかにする上で不可欠です。今後の研究の進展は、戦国時代の武術史、さらには日本文化史全体の再評価や新たな解釈を生み出す可能性を秘めていると言えるでしょう。
本報告書の作成にあたり参照した主要な文献、史料、ウェブサイトは以下の通りです。