青景隆著(あおかげ たかあきら)は、日本の戦国時代において、周防国を本拠とした戦国大名・大内氏に仕えた武将です。彼の名は、大内氏の奉行人としての活動、大内氏内部の深刻な権力闘争であった「大寧寺の変」、そしてその後の中国地方の覇権を巡る毛利氏との戦いといった、戦国時代の西国における重要な歴史的局面に登場します。しかしながら、その具体的な事績や人物像については、断片的な史料が多く、総合的な理解が必ずしも容易ではありません。
本報告書は、現存する史料や近年の研究成果に基づき、青景隆著の出自、大内氏家臣としての生涯と業績、大寧寺の変における彼の立場と役割、そして毛利氏との対立と最期に至るまでを詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とします。これにより、青景隆著という一人の武将の生涯を追うことを通じて、戦国期における大内氏の盛衰や、当時の武士たちが置かれた複雑な状況の一端を考察することを目指します。
年代(西暦) |
出来事 |
典拠 |
不詳(推定1514年) |
生誕 |
1 |
天文10年(1541年) |
奉行人として吉原秀親への知行安堵・佐東銀山城城番命令の連署状に関与 |
2 |
天文11年(1542年) |
大内義隆の第一次月山富田城の戦いに従軍 |
1 |
天文12年(1543年) |
奉行人として厳島神社関連の関所停止命令の連署状に関与 |
3 |
天文17年(1548年) |
従五位下に叙せられる |
2 |
天文18年(1549年) |
備後国村尾要害(神辺城)の城督に就任。毛利元就らの山口訪問の際、陶隆房と共に元就らを歓待 |
2 |
天文20年(1551年) |
大寧寺の変。陶隆房(晴賢)に加担し、大内義隆を討つ |
1 |
弘治元年(1555年) |
厳島の戦いで陶晴賢が敗死。以後、大内義長と共に毛利元就に対抗 |
1 |
弘治2年(1556年) |
防長経略。青景城の戦いで毛利元就勢と戦い戦死 |
1 |
官位 |
右京進、従五位下、越後守 |
1 |
この年表は、青景隆著の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものであり、彼の活動の全体像を把握する上での一助となることを意図しています。戦国時代の武将の多くがそうであるように、彼の生涯もまた、主家の盛衰や周辺勢力との関係の中で、激動の時代を生き抜いた軌跡を示しています。
青景隆著の理解を深めるためには、まず彼が属した青景氏そのものの出自と背景を知る必要があります。青景氏は、その祖を藤原秀郷に求めるとされ、当初は長門国豊浦郡(現在の山口県下関市周辺)に移り住んだと伝えられています 2 。
より具体的な記録としては、元暦2年(1185年)、源平合戦の最終局面である壇ノ浦の戦いの後、一族の藤原秀通が長門国美祢郡青景村(現在の山口県美祢市)および上桑原の地を与えられ、地頭職に補任されたことが挙げられます。これ以降、子孫は代々青景村に居住し、その地名を姓として「青景」を名乗るようになったとされています 2 。この美祢郡青景村に築かれた青景城が、青景氏代々の居城であり、隆著の時代においてもその本拠地であったと考えられます 1 。
青景氏の系譜を辿ると、その本流は後に「門多(かど)」と改姓したとされています。しかしながら、この門多氏の系図の中に青景隆著の名は見当たらないことから、隆著は青景氏の主流ではなく、庶流の出身であった可能性が高いと考えられています 2 。
庶流出身であったという事実は、彼の生涯における行動原理や選択に影響を与えた可能性があります。戦国時代において、庶流の者は本流に比べて家格や初期の経済的・政治的基盤が弱い場合が多く、自身の能力や時勢を見極める力によって地位を築き上げていく必要性が高かったと言えます。大内氏のような巨大な戦国大名家において、奉行人や城督といった重要な役職を歴任した隆著の経歴は、単なる家柄だけでなく、彼自身の実務能力や主君からの信頼が高かったことを物語っています。一方で、本流ではないという立場が、大寧寺の変のような主家の体制を揺るがす大きな政変に際して、旧主への恩義よりも新たな権力構造への参画という、より現実的でリスクを伴う選択へと彼を駆り立てた一因となった可能性も否定できません。つまり、失うものが相対的に少ない、あるいは新しい秩序の中でより大きな飛躍を期待できる立場にあったのではないか、という視点からの考察も可能でしょう。
青景隆著は、大内氏の家臣として、義興、義隆、そして義長の三代に仕えたと記録されています 2 。ただし、大内義興の治世は永正5年(1508年)から享禄元年(1528年)であり、隆著の生年が推定1514年 1 であることを考慮すると、義興の晩年から仕え始めたか、あるいは主に義隆と義長の時代にその活動の記録が残されていると考えるのが自然です。
青景隆著の活動の中で特に注目されるのは、大内氏の奉行人としての役割です 1 。奉行人は、主君の命令を奉じて行政実務を執行する重要な役職であり、彼の名は大内氏が発給した複数の古文書に見られます。
例えば、天文10年(1541年)9月21日付の文書では、龍崎隆輔や陶隆満(後の陶晴賢の重臣)と共に、吉原秀親に対して知行安堵と佐東銀山城(安芸国)の城番を命じる連署状に名を連ねています 2 。また、天文12年(1543年)5月21日付とされる大内氏奉行人連署書状(厳島野坂文書)では、大内義隆が厳島神社の祭礼を再興するにあたり、毛利氏・小幡氏・大塚氏が設けた新たな関所を停止するよう命じた内容の文書に、龍崎隆輔と共に青景隆著(花押)として署名しています 3 。この文書は、大内氏が厳島神社に対する影響力を強め、安芸国の国人たちの動きを牽制しようとしていた当時の政策の一端を示すものであり、隆著がその実行に関与していたことを示唆しています。
さらに、天文15年(1546年)6月12日付の陶隆満・青景隆著宛杉興運書状写には、戸栗・重富両所における所領の半済(年貢などを半分ずつ徴収すること)に関する記述が見られ 5 、彼が領地経営に関する実務にも深く関わっていたことがうかがえます。
これらの事例から、青景隆著の奉行人としての活動は、知行安堵、城番命令、関所の管理、さらには宗教政策や領地問題といった、大内氏の領国経営の広範な分野に及んでいたことが明らかになります。特に、毛利氏のような有力国人の行動にまで影響を及ぼす可能性のある命令に関与していたことは、彼が単なる事務処理を行う官僚ではなく、大内氏の政策決定とその実行において重要な役割を担う、実務能力に長けた人物であったことを示しています。こうした経験は、彼に大内領内の複雑な利害関係や、諸勢力の動向に対する深い洞察力を与えたと考えられます。
青景隆著は、奉行人としての行政能力だけでなく、武将としての側面も持ち合わせていました。天文11年(1542年)から始まる大内義隆による出雲遠征、いわゆる第一次月山富田城の戦い(尼子氏との戦い)に従軍しています。この戦いは大内方の大敗に終わり、義隆の権威失墜の一因ともなりましたが、隆著自身もこの敗戦を経験したことになります 1 。
官位に関しては、天文17年(1548年)3月16日に従五位下に叙せられた記録があります 2 。また、右京進や越後守といった官途名を称していました 1 。従五位下という位階は、戦国大名の有力家臣が受けることのできるものであり、彼が大内家中で一定の地位を築いていたことを示しています。
軍事面でのさらなる活躍としては、備後国における神辺合戦が終結した天文18年(1549年)11月3日、大内義隆の命を受けて、大内氏が獲得した備後国村尾要害(神辺城)の城督として守備に就いたことが挙げられます 2 。城督という役職は、城の防衛責任者であり、軍事的な指揮能力と信頼がなければ任されません。
第一次月山富田城の戦いでの敗北は、大内氏の軍事力の限界を露呈させ、義隆政権に対する家臣団内部の不満が表面化するきっかけの一つとなった可能性があります。隆著自身がこの敗戦を目の当たりにした経験は、その後の彼の大内家中の動向に対する認識や、自身の判断に少なからず影響を与えたかもしれません。それにも関わらず、後に神辺城の城督という軍事的に重要なポストに任命されていることは、敗戦後も彼が軍事指揮官として一定の評価と信頼を維持していたことを示唆しています。
青景隆著が神辺城の城督を務めていた時期、安芸国の有力寺社である厳島神社の棚守(神社の管理・運営を行う役職)であった房顕との間で交わされた文書が相当数残存していると指摘されています 2 。
具体的にどのような内容の書状が残されているのか、その詳細は必ずしも明らかではありませんが 2 、『岡七郎兵衛尉殿御報』という史料には、毛利氏が大内氏に従属していた段階で、弘中隆兼と青景隆著の名が見える棚守房顕宛の毛利氏書状について言及があります 6 。これは、隆著が備後方面での活動中に、厳島神社と何らかの形で連絡を取り合っていたことを示唆するものです。
神辺城は備後国に位置し、安芸国との国境に近い戦略的要衝でした。一方、厳島神社は安芸国に広大な社領と大きな影響力を持つ宗教勢力であり、その情報は地域情勢を把握する上で非常に重要でした。城督という立場にあった隆著が、厳島神社の棚守と頻繁に文書を交わしていたとすれば、それは単なる儀礼的なものではなく、物資の調達、地域情報の収集、あるいは宗教的権威を通じた在地勢力の懐柔といった、軍事・統治上の具体的な必要性に基づいていたと考えられます。「相当数残されている」という事実は、彼がこの任務に熱心に取り組んでいたか、あるいはこの連絡ルートが大内氏にとって重要視されていたことを示しています。これらの書状の内容が将来的に詳細に解明されれば、当時の備後・安芸地域の具体的な情勢や、大内氏による支配の実態、そして青景隆著の外交・情報収集活動といった、単なる武辺者ではない彼の多面的な活動ぶりが明らかになる可能性があります。
青景隆著の人物像にさらなる奥行きを与えるのが、彼が和歌を嗜んでいた可能性を示唆する史料の存在です。『汲古集』あるいは『或家蔵』とされる史料には、青景隆著(右京進、越後守、奉行人、1514年~1556年)の作として、「初郭公 それとのみきゝこそそむれ時鳥 雲のはつかの一ゑの空」という和歌が収録されています 7 。
戦国時代の武将が和歌や連歌といった文化的素養を身につけていることは決して珍しいことではありませんでした。特に主家である大内氏は、京都文化を積極的に導入し、山口が「西の京」と称されるほどの文化都市を築き上げたことで知られています。その家臣であった隆著が和歌を残していることは、彼が単に実務や軍事に長けただけでなく、大内文化の影響を受けた教養人であった可能性を示唆しています。奉行人や城督といった実務的な役職をこなしながらも、こうした文化的活動に触れていたとすれば、それは彼の人間性や当時の武士の教養レベルを理解する上で興味深い点と言えるでしょう。
天文20年(1551年)に勃発した大寧寺の変は、戦国大名大内氏の運命を大きく変えた事件であり、青景隆著もこの政変に深く関与しました。この事件の背景には、大内義隆政権末期の深刻な内部対立がありました。
大内義隆は、当初こそ意欲的に領国経営や対外交渉を行っていましたが、天文11年(1542年)の第一次月山富田城の戦いにおける大敗を喫して以降、次第に政務への関心を失い、文治派の側近である相良武任らを重用するようになりました 4 。これにより、大内氏の軍事を支えてきた武断派の重臣、特に筆頭重臣であった陶隆房(後の陶晴賢)や、同じく重鎮であった内藤興盛らとの間に深刻な対立が生じました 2 。義隆が相良武任らに政治を委ね、自身は学問や遊興に耽るようになったことは、武断派の不満を一層募らせる結果となりました。
このような大内家中の不穏な空気の中で、青景隆著は武断派の中心人物である陶隆房へと接近していきます。複数の史料によれば、隆著は主君義隆による相良武任の重用を快く思わず、これを陶隆房に讒言(事実を曲げて告げ口すること)したとされています。そして、この隆著の讒言が、陶隆房を主君に対する謀反へと踏み切らせる一因を作ったと言われています 4 。
隆著がいつ頃から陶隆房と連携を深めていたのか、その正確な時期を特定することは難しいものの、天文18年(1549年)4月から5月にかけて、毛利元就が嫡男の隆元、そして吉川元春、小早川隆景らを伴って周防国山口を訪問した際、陶隆房と青景隆著らが元就一行を歓待し、深く誼を通じたという記録があります 2 。この時点で、隆著が陶隆房派の主要な一員として認識されていた可能性は高いと言えるでしょう。また、天文19年(1549年)には、陶晴賢(隆房)と共に、義隆の側近である杉重矩(すぎ しげのり)や相良武任と対立したとも記されています 1 。
青景隆著の讒言が「謀反の一因を作った」という評価は、彼がこの政変において単なる追従者ではなく、むしろ陶隆房の決起を後押しするような、ある程度能動的な役割を果たした可能性を示唆しています。奉行人としての立場から大内家中枢の情報を得やすかった彼は、義隆政権の内部矛盾や家臣たちの不満の鬱積を敏感に察知し、それを陶隆房に伝えることで、結果的に隆房の行動を促したのかもしれません。また、毛利元就との早期の接触に同席していたことは、陶派が単独での行動だけでなく、外部勢力との連携も視野に入れていたことをうかがわせます。
天文20年(1551年)8月28日、ついに陶隆房は大内義隆に対して兵を挙げます。これが大寧寺の変です。青景隆著はこの謀反に陶方として明確に加担しました 1 。そして、陶晴賢(隆房)と共に大内義隆の軍勢と戦い、義隆を討ち取るという戦功を挙げたとされています 1 。主君大内義隆は、山口を脱出して長門国深川の大寧寺へ逃れましたが、そこで陶軍に包囲され、9月1日に自害しました 9 。
青景隆著の大寧寺の変における立場を考える上で重要な史料の一つが、江戸時代後期から明治時代にかけて編纂された『大内氏実録』です。この史料の目次 10 を見ると、「列伝第十四 反逆」の項に、大内義長(変後に陶晴賢によって擁立された大内氏当主)、陶晴賢、杉重矩、内藤隆盛、弘中隆兼といった人物たちと共に、青景隆著の名が挙げられています。この配列は、編纂者である近藤清石が、青景隆著を大内義隆に反逆したグループの主要な一員として明確に認識していたことを強く示唆しています。
一方で、一部の資料 10 は、『大内氏実録』のこの「反逆」の列伝について、「彼(青景隆著)が大内義隆に忠義を尽くし、陶晴賢の謀反に抵抗したため」に記載されたと解釈していますが、これは『大内氏実録』の目次の構成や、他の多くの史料が示す青景隆著の動向(陶方への加担)とは著しく矛盾します。 10 の解釈は、陶晴賢らと共に「反逆」した人物たちを列挙した中に青景隆著が含まれている、という一般的な理解とは異なり、特異なものと言わざるを得ません。
「反逆」の列伝に陶晴賢ら中核人物と共に名を連ねているという事実は、青景隆著が義隆に対する謀反に主体的、あるいは重要な役割をもって関与したと編纂者が判断したと解釈するのが最も自然です。この点に関する 10 の特異な解釈は、史料を読む際の批判的検討の重要性を示す一例と言えるでしょう。
人物名 |
大寧寺の変における立場・動向 |
典拠 |
青景隆著 |
陶晴賢(隆房)側に加担。大内義隆を討つ戦功を挙げる。変後も活動を継続。 |
1 |
青景隆時 |
青景弘忠の子。官途は越前守。大内義隆側に与し、陶晴賢勢と戦い討死。 |
1 |
大寧寺の変は、大内家臣団を二分する未曾有の大事件でした。上記【表2】が示すように、同じ青景一族の中にあっても、この政変において異なる立場を取った人物がいたことは注目に値します。青景隆著が陶晴賢に与した一方で、青景隆時(青景弘忠の子、越前守)は大内義隆側に立って陶晴賢の軍勢と戦い、討死したと記録されています 1 。
この事実は、青景氏が一枚岩で陶方に加担したわけではなく、一族内部にも異なる意見や立場が存在した可能性を示唆しています。あるいは、個々の武将が置かれた状況や、主君との関係性の違いが、このような袂を分かつ結果に繋がったのかもしれません。これは、当時の武士たちが直面した厳しい選択のありようや、一族という単位が必ずしも運命共同体ではなかった戦国社会の複雑な様相を浮き彫りにしています。青景隆著個人の行動を追うだけでなく、彼が属した「青景氏」という集団全体の動態にも光を当てることで、より深い歴史理解が可能となるでしょう。
大寧寺の変によって大内氏の実権を握った陶晴賢は、豊前国の大友氏から大内義長(大友宗麟の弟)を新たな当主として迎え入れ、傀儡政権を樹立しました 11 。しかし、その支配体制は盤石ではありませんでした。
弘治元年(1555年)、陶晴賢は、急速に勢力を拡大していた安芸国の毛利元就との間で、厳島において決戦に及びます(厳島の戦い)。この戦いで陶晴賢は毛利元就の奇襲策にはまり、圧倒的な兵力差にもかかわらず敗北し、討死を遂げました 1 。この厳島の戦いは、中国地方の勢力図を塗り替える決定的な戦いとなり、大内氏の勢力は急速に衰退の一途をたどることになります。
陶晴賢という最大の支柱を失った後も、青景隆著は大内義長のもとに留まり、毛利元就の勢力に対抗する道を選びました 1 。
厳島の戦いで勝利を収めた毛利元就は、勢いに乗じて大内氏の本拠地である周防・長門両国への本格的な侵攻を開始します。これは「防長経略」として知られています。
この毛利氏の侵攻に対し、青景隆著は自らの居城である長門国美祢郡の青景城に籠もり、抵抗したと考えられます。そして弘治2年(1556年)、この青景城において毛利元就の軍勢と戦い、討死したとされています 1 。この戦いは「青景城の戦い」として記録に残っています。『歴名土代』という史料にも、青景隆著が弘治2年(1556年)に毛利氏との戦いで戦死した旨が記されています 2 。青景氏代々の居城であった青景城も、この防長経略の頃に廃城になったと伝えられています 2 。
陶晴賢が亡くなり、大内氏の屋台骨が大きく揺らいだ後も、青景隆著が大内義長方として毛利氏への抵抗を続けた末に、自らの居城で最期を遂げたという事実は、彼なりの義理立てや武士としての意地を示しているのかもしれません。あるいは、厳島の戦いでの毛利氏の圧倒的な勝利の後、旧陶方の多くの武将が降伏または逃亡する中で、彼にはもはや降伏という選択肢が残されていなかったという厳しい状況も考えられます。いずれにせよ、最後まで抵抗を選んだ彼の動機や胸中は、さらなる考察に値するでしょう。
青景隆著の最期については、毛利氏との戦いでの戦死説が有力ですが、いくつかの異説も存在します。例えば、軍記物語である『陰徳太平記』には、大内義隆の怨霊によって狂死したという記述があり、また『吉田物語』では、陶晴賢が杉重矩を殺害するよりも前に病死したとされています 2 。
しかしながら、これらの異説は、その内容の奇抜さや他の史料との整合性のなさから、いずれも荒唐無稽であり、歴史的事実として信を置けるものではないと考えられています 2 。
異説が存在すること自体は、青景隆著という人物、あるいは彼が深く関与した大寧寺の変という事件が、後世の人々にとって印象深いものであり、様々な物語や創作の中で脚色される対象となった可能性を示唆しています。特に「義隆の怨霊による狂死」といった逸話は、主君を裏切ったとされる人物に対する因果応報的な物語として、あるいは事件の悲劇性を強調する要素として、当時の人々に受け入れられやすかったのかもしれません。
青景隆著に関する断片的な史料を総合すると、いくつかの人物像が浮かび上がってきます。まず、大内氏の奉行人として行政文書の発給に携わり、また神辺城の城督として軍事的な責任も担ったことから、実務能力と軍事能力を兼ね備えた、いわゆる文武両道の武将であったと考えられます 1 。
彼の生涯における最大の転機は、大寧寺の変において旧主君である大内義隆に背き、陶晴賢に与するという大きな決断を下したことです。この行動が、個人的な野心によるものだったのか、義隆政権の腐敗に対する義憤から出たものだったのか、あるいは単に時勢を読んだ現実的な判断だったのかは、現存する史料だけでは断定できません。しかし、複数の史料が伝える「相良武任を讒言し、隆房を謀反に走らせる一因を作った」という評価 4 は、彼がこの政変において単なる追随者ではなく、ある程度能動的な役割を果たした可能性を示唆しています。
また、和歌を嗜んでいたという一面 7 は、彼が武辺一辺倒の人物ではなく、大内文化の影響を受けた一定の教養も持ち合わせていた可能性を示しています。そして最期は、毛利氏の圧倒的な軍事力の前に、自らの居城である青景城で戦死しており、これは武士としての意地を貫いた最期とも解釈できるでしょう。
青景隆著の行動を理解するためには、彼が生きた時代、特に大内義隆政権末期の深刻な内部対立という文脈が不可欠です。義隆政権下で台頭した文治派と、旧来の武断派との対立が先鋭化する中で、隆著は明確に武断派の領袖である陶晴賢の側に与しました。彼のこの選択は、結果として大内氏の権力構造を根底から覆した大寧寺の変の成功に寄与したと考えられます。
奉行人としての経験を通じて、義隆政権が抱える問題点や、家臣団の間に鬱積する不満を敏感に察知していた可能性があります。それが、彼をして旧主に見切りをつけ、新たな権力に与するという大胆な行動へと踏み切らせたのかもしれません。彼の行動は、戦国時代における家臣のあり方の一つの類型を示していると言えます。主家内部の対立において、家臣が自らの判断で一方に与し、時には主君の運命をも左右する行動を取ることは、下剋上が常態化したこの時代においては決して珍しいことではありませんでした。
青景隆著の歴史的評価は、彼が深く関与した大寧寺の変をどのように捉えるかという歴史観と密接に結びついています。伝統的な儒教的倫理観に基づけば、主君である大内義隆に反旗を翻した陶晴賢に加担した彼の行動は、「裏切り」として否定的に評価される可能性があります。実際に、『大内氏実録』において「反逆」の列伝に名を連ねていることは 10 、編纂当時の彼に対する一定の評価を反映していると考えられます。
しかしながら、当時の大内氏が置かれていた具体的な状況や、相良武任らの専横に対する家中の反発といった文脈を考慮に入れると、彼の行動に一定の理解を示す評価も成り立ち得ます。例えば、大友氏の重臣であった戸次鑑連(後の立花道雪)が後年、大寧寺の変を振り返り、「思慮を欠いた義隆が、道理を説いている陶隆房より、無道を企てた相良武任を贔屓した」と述べている史料 13 は、陶方の行動に一定の正当性を認める見方も同時代に存在したことを示唆しています。
現代の歴史学においては、青景隆著の行動を善悪二元論で単純に断じるのではなく、彼の行動原理や、彼が置かれた複雑な歴史的背景を客観的に分析し、その行動が歴史の展開にどのような影響を与えたのかを考察することが求められます。彼の選択は、結果として大大名であった大内氏の滅亡という大きな歴史の流れの中で、どのような意味を持ったのかを評価することが重要です。彼個人の資質や能力(奉行人・城督としての実績)と、政変における彼の選択という二つの側面から、総合的に評価する必要があるでしょう。また、彼に関する史料が断片的であることも、その評価を一層難しくしている一因と言えます。
本報告書では、戦国時代の武将・青景隆著について、現存する史料や研究に基づいてその生涯と活動を概観しました。彼は、大内氏の奉行人および武将として、行政と軍事の両面で活動し、特に大内氏の歴史における一大転換点である大寧寺の変において、陶晴賢に与して重要な役割を果たしました。そして、その後の毛利氏の台頭と防長経略の中で、自らの居城である青景城で戦死するという最期を遂げました。
彼の出自は青景氏の庶流とされ、実力で大内家中に地位を築いたと考えられます。奉行人としての広範な活動、神辺城督としての軍事的責任、そして和歌を嗜む文化的な側面も持ち合わせていた可能性が示唆されました。大寧寺の変への加担は、彼の評価を大きく左右する行動であり、その動機や背景については多角的な考察が必要です。
青景隆著に関する研究は、史料の制約もあり、未だ多くの課題を残しています。特に、彼が神辺城督時代に厳島神社の棚守房顕と交わしたとされる多数の書状について、その具体的な内容の解明が進めば、彼の活動実態や当時の備後・安芸地域の情勢、大内氏の支配構造などについて新たな知見が得られる可能性があります。
また、『大内氏実録』における「反逆」の記述に関するさらなる史料学的検討や、青景隆時など、大寧寺の変において隆著とは異なる立場を取った青景一族全体の動向に関する包括的な研究も、当時の武士たちの多様な生き様を理解する上で有益でしょう。これらの研究が進むことで、青景隆著という一人の武将を通じて、戦国時代の西国社会の複雑な様相がより鮮明に浮かび上がってくることが期待されます。