大内氏滅後再編(1557)
1557年、大内氏滅亡後の防長再編は、毛利元就が旧大内統治を継承しつつ、石見銀山と瀬戸内海交易で経済基盤を刷新、「毛利両川体制」を確立し、中国地方の覇者となった。
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日本戦国史における権力再編の研究:大内氏滅亡と毛利氏の防長経略(1551年~1557年)
序章:西国に沈む巨星 ― 大内氏衰亡の序曲
西国に巨大な版図を築き、勘合貿易を掌握して栄華を極めた大内氏の滅亡と、それに続く周防・長門両国(以下、防長)の領国再編は、単なる一地方大名の権力交代に留まらない。それは、戦国時代中期における西日本の政治・経済構造を根底から覆し、安芸の一国人に過ぎなかった毛利氏を中国地方の覇者へと押し上げた、日本史上の画期的な出来事であった。1557年の大内義長の自刃をもって一つの区切りとされるこの事象を理解するためには、その発端である1551年の「大寧寺の変」に至る、大内氏内部の構造的矛盾を深く分析する必要がある。
大寧寺の変(1551年)に至る構造的要因の分析
大内氏第31代当主・大内義隆の治世は、当初こそ九州北部への出兵を成功させるなど、戦国大名としての力量を発揮し、大内氏の最大版図を現出した 1 。しかし、その治世後半、特に天文11年(1542年)の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)の惨敗は、大内氏の運命を暗転させる決定的な転換点となった。この戦いで嫡男(養子)の晴持を失った義隆は、深く嘆き悲しみ、以後、軍事への関心を急速に失っていった 2 。
この当主の心境の変化は、大内家中に深刻な亀裂を生じさせた。軍事から遠ざかった義隆は、京都から下向した公家衆との交流や、学問、文学、宗教といった文化的活動に傾倒し始める 2 。それに伴い、政治の中枢では、出雲遠征に反対していた文治派の相良武任らが重用されるようになった。一方で、これまで大内氏の軍事力を支え、領国経営の実務を担ってきた守護代筆頭の陶隆房(後の晴賢)ら武断派は、次第に政治の中心から疎外されていった 2 。この対立は、単なる家臣間の個人的な確執ではなく、拡大した領国を統治するための新たな官僚的システムへの移行を目指す義隆・文治派と、従来の軍事力と国人連合に立脚する武断派との間における、統治方針を巡る深刻な路線対立であった。
さらに、義隆の「京都化」した生活は、領国経済に深刻な影響を及ぼした。山口に滞在する公家や文化人との遊興にかかる莫大な費用は、領民への過酷な臨時課役となって跳ね返った 2 。この経済的負担は、分国の統治を担う陶ら重臣の危機感を増幅させた。彼らにとって、義隆の統治は領国の疲弊と崩壊を招くものと映り、主君への諫言も聞き入れられない中、謀反という強硬手段を正当化する土壌が形成されていったのである 2 。
謀反の実行と大内義隆の最期
天文20年(1551年)8月28日、周防富田若山城にあった陶隆房は、ついに挙兵する 2 。その動きは周到に準備されており、安芸の毛利元就や石見の吉見正頼といった周辺勢力との間で、少なくとも黙認を取り付けていた可能性が指摘されている 4 。隆房の軍勢が山口に迫ると、義隆の政権は瞬時に瓦解した。
義隆は山口を脱出し、長門国の大寧寺へと逃れた 5 。しかし、彼に味方する援軍は現れず、最後まで付き従った重臣の冷泉隆豊らも次々と討死、あるいは自害した 4 。9月1日、万策尽きた義隆は、大寧寺において自刃。享年45歳であった 2 。西国随一と謳われた名門大内氏は、この家臣によるクーデターによって、事実上崩壊したのである。
陶晴賢の傀儡政権と毛利元就の台頭
主君を討った陶隆房は、晴賢と改名し、大内氏の家督に豊後大友氏から迎えていた義隆の猶子・大友晴英(後の大内義長)を擁立した 1 。これにより、晴賢は大内氏の実権を完全に掌握したが、その政権は主君殺しの汚名を着た簒奪者による傀儡政権であり、正統性に大きな問題を抱えていた。旧大内家臣団の中には晴賢に従わない者も多く、領国は不安定な状態が続いた。
この権力の空白と混乱は、安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就にとって、千載一遇の好機となった。元就は、大寧寺の変後の混乱に乗じて備後方面へと勢力を拡大し、着実に力を蓄えていく 4 。かつては大内氏という巨大な権力の庇護下で勢力を伸ばしてきた元就であったが、今やその大内氏を内部から食い破った陶晴賢と対峙し、自らが新たな覇者となる道を模索し始めていた。大内氏の滅亡は、陶晴賢という強大な敵を生み出すと同時に、毛利元就という新たな時代の主役を歴史の表舞台へと押し上げたのである。
第一章:厳島の激闘 ― 権力交代の分水嶺(1555年)
大寧寺の変後、大内氏の実権を掌握した陶晴賢と、安芸国で急速に台頭する毛利元就との対立は、時間の問題であった。両者の衝突は、単なる領土争いではなく、旧大内領の支配権、そして西国全体の覇権を巡る決定的な戦いへと発展していく。その帰趨を決したのが、弘治元年(1555年)の厳島の戦いである。この戦いは、毛利元就の類稀なる智謀と、陶晴賢の慢心が交錯した、日本戦国史上に名高い奇襲戦として知られている。
防芸引分から厳島へ
天文23年(1554年)、毛利元就は陶晴賢との関係を完全に断ち切り、対決姿勢を明確にした(防芸引分)。元就は電光石火の速さで安芸国内の旧大内方拠点を次々と攻略し、厳島対岸の桜尾城などを制圧した 7 。さらに元就は、戦略的に極めて重要な一手を打つ。大内氏が篤く信仰し、瀬戸内海の海上交通の要衝でもあった厳島を占拠し、その地に宮尾城を築城したのである 9 。これは、晴賢の神経を逆なでし、大軍を擁する彼を、狭隘で大軍の運用には不向きな島嶼部での決戦へと誘い込むための、周到に計算された挑発であった。
この戦いの本質は、単なる軍事拠点や宗教的聖地の争奪に留まらない。当時の厳島は、瀬戸内海を航行する船舶から駄別料(通行料)を徴収する経済的拠点でもあった 4 。晴賢が大内氏の権力を継承した証としてこの権益を確保しようとしたのに対し、元就はここを支配することで、敵の経済的動脈を断ち、同時に瀬戸内海の海上交通を支配する海賊衆(村上水軍)を自陣営に引き込むための絶好の舞台として選んだのである。
毛利の謀略と陶の慢心
元就は、軍事行動と並行して、得意の謀略を駆使した。重臣の桂元澄に偽の内通書を持たせて晴賢を欺き、毛利本領への攻撃を躊躇させたり、「江良房栄に謀反の疑いあり」といった偽情報を流したりすることで、晴賢の猜疑心を煽り、有能な家臣を自らの手で粛清させることに成功した 7 。
一方の陶晴賢は、2万とも3万ともいわれる大軍と、毛利方を圧倒する500艘以上の水軍戦力を擁していた 7 。この圧倒的な兵力差を背景に、彼は自らの水軍が瀬戸内海の制海権を完全に掌握していると過信していた。重臣の弘中隆兼らが、狭い厳島での決戦の不利を説いたにもかかわらず、晴賢は元就の挑発に乗り、大軍を率いて厳島へ上陸するという、致命的な判断を下してしまう 10 。
決戦の経過と村上水軍の役割
弘治元年(1555年)9月、陶晴賢率いる大軍は厳島に上陸し、宮尾城への攻撃を開始した 11 。元就は好機到来と判断し、同年10月1日、折からの暴風雨の夜陰に乗じて、わずか4,000ほどの兵を率いて厳島への渡海を決行する 7 。
この奇襲作戦の成否は、瀬戸内海の制海権を握る村上水軍の動向にかかっていた。能島・来島・因島の三島村上氏は、陶晴賢が厳島の通行料徴収を始めたことに反発しており、元就は次男の小早川隆景を通じて彼らを味方に引き入れることに成功していた 4 。村上水軍の協力により一時的に制海権を確保した毛利軍は、無事に厳島への上陸を果たした。
夜明けと共に、元就の本隊は陶軍本陣の背後にある博奕尾から奇襲をかけ、宮尾城に籠城していた兵と呼応して陶軍を挟撃した。暴風雨の中、敵襲を全く予期していなかった陶軍は大混乱に陥り、我先にと海岸へ殺到するが、海上は毛利方についた村上水軍によって完全に封鎖されていた 7 。退路を断たれた陶軍は壊滅し、大将の陶晴賢は島からの脱出も叶わず、大江浦で自害して果てた 1 。この劇的な勝利により、大内・陶軍の主力は瓦解し、毛利元就は防長経略への道を切り開いたのである。
第二章:防長経略 ― 周防・長門平定戦のリアルタイム詳解(1555年~1557年)
厳島の戦いで陶晴賢を討ち取り、大内軍の主力を壊滅させた毛利元就は、間髪を入れずに大内氏の旧領である周防・長門両国の完全平定作戦、すなわち「防長経略」を開始した。この約1年半にわたる軍事作戦は、単なる領土拡大ではなく、抵抗勢力を徹底的に殲滅する「恐怖」と、早期に恭順した者を許す「寛容」を巧みに使い分ける、元就の戦略家としての一面を如実に示すものであった。以下に、その経過を時系列で詳述する。
防長経略の展開(1555年10月~1557年4月)
厳島での勝利からわずか10日後、毛利軍は周防侵攻の拠点へと移動し、作戦を開始した。その進軍は、調略による切り崩しと、抵抗拠点への武力攻撃を組み合わせながら、計画的に進められた。
表1:防長経略 主要戦闘・事象年表(1555年10月~1557年4月)
年月日 |
場所 |
主要な出来事 |
関連人物 |
結果・影響 |
1555年10月12日 |
周防国小方 |
毛利軍、厳島から移動し、防長攻略の拠点とする 13 。 |
毛利元就 |
防長経略の本格的開始。 |
1555年10月18日 |
周防国蓮華山城 |
毛利元就、調略により城主・椙杜隆康を降伏させる 13 。 |
椙杜隆康 |
周防東部の有力国人が早々に毛利方に寝返り、戦況を有利にする。 |
1555年10月27日 |
周防国鞍掛山城 |
毛利軍の奇襲により落城。城主・杉隆泰は奮戦するも討死 13 。 |
杉隆泰 |
抵抗する者への厳しい姿勢を示す。毛利軍の進撃路が確保される。 |
1555年11月 |
周防国宇賀島 |
村上水軍が大内方の宇賀島水軍を討伐 13 。 |
村上水軍 |
大内方の水軍勢力が一掃され、瀬戸内海の制海権が毛利方に確定。 |
1556年2月12日 |
周防国成君寺城 |
周防山代一揆の拠点であった成君寺城が落城 13 。 |
(周防山代一揆) |
玖珂郡における組織的抵抗が終焉し、周防東部がほぼ平定される。 |
1556年4月-9月 |
周防国須々万沼城 |
小早川・毛利軍の攻撃を城主・山崎興盛らが撃退 13 。 |
山崎興盛, 江良賢宣 |
毛利軍、初めての大きな抵抗に遭い、攻略が長期化。粘り強い抵抗の象徴となる。 |
1557年2月-3月2日 |
周防国須々万沼城 |
元就自らが出陣し、総攻撃の末に落城。籠城者1,500人以上が惨殺される 13 。 |
毛利元就, 山崎興盛 |
抵抗者への見せしめとして徹底的な殲滅戦を行う。防長経略中、最も凄惨な戦いとなる。 |
1557年3月2日 |
周防国富田若山城 |
陶晴賢に父を殺された杉重矩の子・杉重輔が、毛利と通じて陶長房を襲撃 13 。 |
杉重輔, 陶長房 |
陶晴賢の嫡男・長房が自害。陶氏嫡流が断絶し、大内家中の内紛が最終局面を迎える。 |
1557年3月4日 |
周防国勝山城 |
毛利軍の攻撃を受け、城主・内藤隆世が降伏 13 。 |
内藤隆世 |
山口防衛の最後の砦が陥落し、大内義長の孤立が決定的となる。 |
1557年3月11日 |
周防国山口 |
毛利軍、山口へ無血入城。大内義長は長門国へ逃亡 13 。 |
毛利元就, 大内義長 |
大内氏の本拠地が陥落。事実上の大内氏の終焉。 |
1557年4月3日 |
長門国勝山城→長福寺 |
追撃された大内義長が、内藤隆世と共に自害 6 。 |
大内義長, 内藤隆世 |
名実ともに大内氏が滅亡。防長経略が完了する。 |
作戦初期、毛利元就は調略を多用し、周防東部の国人・椙杜隆康らを早々に味方に引き入れた 13 。これにより、抵抗勢力を孤立させていった。しかし、鞍掛山城の杉隆泰のように抵抗する者は容赦なく攻め滅ぼし、その首級を晒すことで、毛利氏の武威を示した 13 。
作戦の大きな障害となったのが、都濃郡の須々万沼城であった。城主の山崎興盛と援軍の江良賢宣は、沼沢地に囲まれた地の利を活かし、小早川隆景や毛利隆元が率いる大軍を半年以上にわたって撃退し続けた 13 。この頑強な抵抗に対し、弘治3年(1557年)2月、元就は自ら1万余の大軍を率いて出陣。沼を編竹や筵で埋め立てて総攻撃を敢行し、ついに城を陥落させた。この時、毛利軍は籠城していた男女1,500人以上(一説には3,000人)を惨殺したと伝えられる 13 。この徹底的な殲滅戦は、これ以上の抵抗が無意味であり、悲惨な結末しかもたらさないという強烈なメッセージを、防長全域の未だ抵抗を続ける勢力に植え付けた。
須々万沼城の陥落と時を同じくして、陶氏の本拠地・富田若山城では、陶晴賢に父を殺された杉重輔が、毛利と通じて晴賢の嫡男・陶長房を襲撃し、自害に追い込んだ 13 。これにより陶氏の嫡流は断絶。大内氏の屋台骨であった陶・杉という両重臣家が共倒れする形で、大内家臣団は完全に瓦解した。
大内氏の滅亡
山口防衛の最後の砦であった勝山城の内藤隆世が降伏すると、大内義長は孤立無援となった 13 。3月11日、毛利軍が山口に迫ると、義長は戦わずして長門国へと逃亡。毛利軍は無血で大内氏の本拠地・山口を占領した 13 。
長門の勝山城に籠もった義長であったが、もはや彼に味方する者はいなかった。毛利軍に包囲される中、4月3日、義長は家臣の内藤隆世らと共に長福寺(現在の功山寺)にて自害した 6 。これにより、百済の琳聖太子を祖とすると称し、約400年にわたり西国に君臨した名門・大内氏は、名実ともに滅亡した。毛利元就は、厳島の戦いからわずか1年半で、防長二国を完全にその手中に収めたのである。
第三章:大内氏滅亡後の領国再編 ― 毛利元就の統治戦略
1557年の大内氏滅亡は、毛利氏にとって軍事的な勝利であると同時に、広大で複雑な旧大内領をいかにして統治するかという、新たな課題の始まりでもあった。毛利元就がこの課題に対して示した統治戦略は、旧体制の有効な部分を「継承」しつつ、支配の核心部分では大胆な「革新」を行う、極めて洗練されたハイブリッド・アプローチであった。この再編作業を通じて、毛利氏は単なる征服者から、安定した支配基盤を持つ戦国大名へと脱皮を遂げる。
1. 政治的再編:旧秩序の解体と新体制の構築
防長平定後の統治において、元就は旧大内家臣団、特に在地に強い影響力を持つ国人衆の扱いに細心の注意を払った。大内氏が守護、自らが国人という出自の格の違いを認識していた元就は、彼らを力で押さえつけるだけでなく、その権威や統治機構を巧みに利用する道を選んだ 14 。
その最も象徴的な例が、長門守護代であった内藤氏への処遇である。当主の内藤隆世は大内義長と運命を共にしたが、元就は隆世の叔父にあたる内藤隆春を新たな当主として認め、引き続き長門守護代の地位に就けた 13 。これは、長門国における内藤氏の人的・統治的ネットワークをそのまま継承することで、占領行政を円滑に進め、在地勢力の反発を最小限に抑えるための、極めて合理的な判断であった。一方で、最後まで抵抗した陶氏の嫡流は断絶させるなど、服属・登用と粛清の峻別は明確に行われた 13 。
旧大内家臣を登用し、既存の統治システムを活用する一方で、支配の要となる拠点には毛利一門や譜代の重臣を配置し、軍事的な支配を固めた。嫡男の毛利隆元が全体の統括を行い、吉川元春や小早川隆景といった一門衆、そして福原氏や口羽氏といった譜代家臣が防長の要地に配された 6 。こうして、旧大内家臣(国衆)を在地行政に活用しつつ、その上層部を毛利一族・譜代家臣が監督するという二元的な支配体制が構築されたのである 17 。この統治構造は、後の長州藩に見られる「宰判」という行政単位の原型になったとも考えられている 19 。
2. 経済的再編:富の源泉の掌握
元就は、大内氏の富の源泉であった勘合貿易が、大寧寺の変後に明朝から正統な政権と見なされず、事実上終焉していたことを見抜いていた 4 。権威に依存する不安定な交易に見切りをつけ、自らの実力で直接支配できる、より確実な富の源泉へと経済基盤をシフトさせた。その二本柱が「石見銀山」と「瀬戸内海の制海権」であった。
防長経略と並行して、毛利氏は尼子氏との間で石見銀山を巡る激しい争奪戦を繰り広げた 20 。一時は尼子方に奪われるなど苦戦を強いられたが、永禄5年(1562年)にはついに銀山を完全に掌握する 22 。この銀山から産出される莫大な銀は、毛利氏の財政を潤し、鉄砲や火薬の大量購入、兵員の動員などを可能にする軍事費の根幹となった 22 。元就の孫・輝元が後に「もし石見銀山に異変があれば、毛利家は戦ができず無力になる」と語ったほど、その戦略的価値は絶大であった 20 。
また、厳島の戦いで村上水軍を味方につけたことで、毛利氏は瀬戸内海の制海権を確立した。これにより、大内氏が行っていた公式な国際貿易に代わり、海上交通路を支配することで通行料を徴収したり、商人たちによる私貿易を管理・保護したりすることで、安定した経済的利益を確保する体制を構築した 25 。これは、国家間の権威に依存した交易から、実力に根差した海運利権の掌握への転換であり、より現実的で強固な経済基盤を毛利氏にもたらした。
3. 軍事的再編:毛利軍団の拡大
防長平定は、毛利氏の軍事力を質・量ともに飛躍させた。降伏した防長の国人衆や、旧大内氏配下の水軍を毛利軍団に編入することで、その兵力は大幅に増強された。
この巨大化した軍団を統制し、大内氏のように有力家臣の暴走によって組織が崩壊するのを防ぐため、元就は一族による強固な中央集権体制の確立を目指した。その理念が最も明確に示されたのが、防長平定直後の弘治3年(1557年)11月に三人の息子に送った「三子教訓状」(三矢の教えの元となった書状)である 6 。これは単なる兄弟の結束を説く教訓ではなく、毛利宗家の当主・隆元を頂点とし、軍事は次男の吉川元春、政務・水軍は三男の小早川隆景が補佐するという、巨大化した毛利家の統治・軍事指揮系統を明確化する政治的文書であった 6 。この「毛利両川体制」の確立により、毛利氏は個々の国人領主の連合体から、当主の下に一元化された強力な軍事組織へと変貌を遂げたのである。
第四章:新秩序の確立と次なる戦い ― 防長領有の影響
大内氏を滅ぼし、防長二国を完全に掌握した毛利氏は、安芸の一国人という立場から、西国に覇を唱える大大名へとその地位を劇的に向上させた。しかし、この領土拡大は、毛利氏を新たな、そしてより大規模な紛争の渦中へと引き込むことにもなった。毛利氏は、大内氏の領土(ハードアセット)だけでなく、その地政学的な立場と、それに伴う周辺勢力との対立関係(ソフトアセット、あるいは負債)をも継承することになったのである。防長領有は、毛利氏を西日本の覇権を争うプレイヤーへと強制的に引き上げ、北の尼子、西の大友との三つ巴の戦いを運命づけた。
北部九州を巡る大友氏との激化
大内氏が長年にわたり影響力を行使してきた北部九州および関門海峡の権益は、防長を領有した毛利氏と、九州の覇者である豊後の大友宗麟(義鎮)との間で、新たな火種となった 13 。大友氏は、大内義長が自らの弟であったこともあり、大内領の正統な継承者を自認しており、毛利氏の九州への進出を断じて許すことはできなかった。
永禄元年(1558年)、毛利氏は関門海峡の要衝である門司城を攻略。これを橋頭堡として九州への影響力を拡大しようと試みた 32 。これに対し、大友宗麟はただちに大軍を派遣し、門司城を巡る数年にわたる激しい争奪戦が開始された 31 。この戦いは一進一退の攻防となり、永禄4年(1561年)の戦いでは、大友方が府内に停泊していたポルトガル船を動員し、その艦砲で門司城を砲撃するという、当時の日本では極めて珍しい戦術が用いられたことも記録されている 33 。この毛利・大友の対立は、毛利氏が尼子氏との最終決戦を優先する間、断続的に続き、後の豊臣秀吉による九州平定まで続く長期的な対立関係の始まりとなった 32 。
山陰の宿敵・尼子氏との最終決戦
防長二国を平定し、西からの大友氏の攻勢を門司城で食い止める態勢を整えたことで、毛利元就は後顧の憂いなく、長年の宿敵であった出雲の尼子氏との最終決戦に全力を投入できるようになった 13 。石見銀山を巡る攻防戦は、この最終決戦の前哨戦であった 22 。
永禄5年(1562年)、元就は尼子氏の本拠地である月山富田城への大侵攻を開始する。尼子氏も頑強に抵抗したが、元就は力攻めを避け、城を厳重に包囲して兵糧攻めを行う持久戦に持ち込んだ。長期にわたる包囲により城内の食糧は尽き、士気は低下。永禄9年(1566年)11月、ついに尼子義久は降伏し、城を明け渡した 36 。これにより、戦国大名としての尼子氏は一度滅亡する。
この勝利によって、毛利氏は中国地方のほぼ全域を手中に収め、名実ともに中国の覇者となった。しかし、その後も山中幸盛(鹿介)らに擁立された尼子勝久を大将とする尼子再興軍のゲリラ的な抵抗に、長年にわたり悩まされることとなる 37 。
西国における毛利氏の覇権確立
大内氏の旧領である防長二国に加え、石見銀山、そして瀬戸内海の制海権を掌握した毛利氏の国力は、飛躍的に増大した 13 。その勢力は、かつての尼子氏や大友氏と伍する、あるいはそれを凌駕する規模となり、織田信長が台頭するまでの間、西国における最大の勢力として君臨した。政治的にも、大内氏に代わる西国の雄として室町幕府や朝廷からも一目置かれる存在となり、その後の日本の歴史に大きな影響を与えていくことになる 39 。
結論:大内氏滅後再編が戦国史に与えた影響
1557年の大内氏滅亡と、それに続く毛利氏による防長二国の領国再編は、戦国時代の西国史における最も重要な転換点の一つであった。この一連の事象が戦国史全体に与えた影響は、単なる領土の変遷に留まらず、権力の質的変化と地政学的構造の再定義という、より深く広範な次元に及んでいる。
第一に、この再編は毛利氏を、一地方の有力国人から、独自の統治機構と強固な経済基盤を持つ洗練された「戦国大名」へと完全に変貌させた画期であった。毛利元就は、軍事力による征服に留まらず、旧大内氏の統治システムを一部継承しつつ、経済基盤を石見銀山と瀬戸内海交易という実利的なものへ刷新した。さらに、「毛利両川体制」に象徴される一族中心の集権的な支配構造を確立することで、大内氏が陥った有力家臣の暴走という内憂を克服し、より強固で持続可能な権力基盤を構築した。これは、毛利氏がその後数十年にわたり西国に君臨し、織田信長や豊臣秀吉といった天下人と渡り合うことを可能にした原動力であった。
第二に、西国に君臨した大内氏という巨大な権力ブロックが消滅し、毛利氏がその遺領の大部分を継承したことで、中国地方から北部九州にかけてのパワーバランスは完全に塗り替えられた。これにより、戦国時代後期の西日本は、中国の毛利、九州の大友、そして中央から進出する織田(豊臣)という新たな勢力軸で展開していくことになる。毛利氏は大内氏の領土と共に、大友氏や尼子氏との対立関係をも継承し、より大きなスケールの紛争の当事者となった。この地政学的な宿命が、毛利氏を中国地方統一へと駆り立て、戦国時代の終焉まで続く西国での覇権争いを規定したのである。
最後に、この再編過程で毛利氏が構築した統治システムは、近世へと続く遺産を残した。旧大内家臣を国人として組み込み、その在地支配を認めつつ、上層部を毛利一門・譜代で固めるという二元的な支配体制や、「宰判」といった行政区画の萌芽は、江戸時代の長州藩における統治体制にもその影響を見出すことができる 19 。したがって、「大内氏滅後再編」は、戦国時代の勢力図を一時的に変えただけでなく、近世大名領国の形成へと繋がる、長期的かつ構造的な意義を持つ歴史的出来事であったと結論付けられる。
引用文献
- 大寧寺 大内義隆の墓 - 山口 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/yamaguti/daineiji.html
- 「大寧寺の変(1551年)」陶隆房による主君・大内義隆へのクーデターの顛末とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/86
- 大寧寺の変 諸説検証~通説から最新説まで 【豪族達と往く毛利元就の軌跡・補遺05】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kToK0AFWJZs
- 大寧寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
- 第13話 大寧寺の変(後) 当主義隆の栄光 - 龍造寺家の御家騒動(浜村心(はまむらしん)) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816927859143119156/episodes/16816927861281870328
- 「防長経略(1555-57年)」毛利元就、かつての主君・大内を滅ぼす | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/77
- 厳島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11092/
- 厳島の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 【合戦解説】厳島の戦い 大内 vs 毛利 〜 陶晴賢と毛利元就 智将の両雄が遂に激突 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=O_OVTyrvc5g
- 戦国武将の失敗学③ 陶晴賢が見抜けなかった「状況の変化」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-086.html
- 毛利元就の厳島合戦 - 安芸の宮島で旅館をお探しなら みやじまの宿 岩惣 https://www.iwaso.com/17138661111028
- 激闘!海の奇襲戦「厳島の戦い」~ 勝因は村上水軍の戦術 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/11740
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- 杉原盛重と天野隆重(毛利氏「家中」と「国衆」) - 備陽史探訪の会 https://bingo-history.net/archives/11913
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- Contents はじめに - 尾道市ホームページ https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/47873.pdf
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- 中国地方の覇者 毛利元就。あの“三本の矢”の真実とは?! - 山口県魅力発信サイト「ふくの国 山口」 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202108/yamaguchigaku/index.html
- 毛利元就は何をした人?「謀略と兵法と折れない三本の矢で中国地方を統一した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/motonari-mouri
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- 尼子盛衰記を分かりやすく解説 - 安来市観光協会 https://yasugi-kankou.com/amagokaisetsu/
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- 晴英の同意を取り付け、杉重矩・内藤興盛・毛利元就の支持を得て、 義隆義尊父子を滅ぼした。 http://miyako-museum.jp/digest/pdf/toyotsu/4-4-1-1.pdf
- 山口県の歴史【第1回|中世編】大内氏-毛利氏~中世史から見えた、近代の先鋭的な政治力 https://discoverjapan-web.com/article/46435