日本の戦国時代の武将「青田顕治」に関する調査報告
1. 序論
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青田顕治の概要と本報告書の目的
本報告書は、戦国時代に相馬氏の家臣として活動した武将、青田顕治(あおた あきはる)に関する包括的な調査結果を提示するものである。青田顕治は、通称を信濃守と称し、陸奥国黒木城の城代を務めた人物として史料にその名が見える
1
。特に永禄六年(1563年)に主君である相馬氏に対して謀反を起こしたことにより、歴史に名を刻んでいる。 本報告書の目的は、現存する研究資料を基盤とし、青田顕治の出自、経歴、彼が起こした謀反の背景と具体的な経緯、その最期、そして彼の一族が辿った運命について、可能な限り詳細かつ多角的に明らかにすることにある。特に、史料間に見られる情報の異同や矛盾点に着目し、客観的な分析を通じて青田顕治の実像に迫ることを試みる。
2. 青田顕治の出自と背景
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相馬氏家臣としての青田氏
青田氏は相馬氏の一族に連なる家系であり、顕治自身はその庶流の出身であったとされている 2。相馬家における青田氏の具体的な位置づけや、顕治以前の青田一族の活動については、現存する資料からは詳細を把握することが困難である。しかし、顕治が黒木城代という戦略上重要な役職を任されていた事実から、青田氏が相馬家中で一定の勢力を有する家柄であったと推察することは可能である。
顕治は青田常久の子として生まれ、兄弟には常義がいたと記録されている 1。大永五年(1525年)に勃発した白戸館の戦いにおいて兄の常義が戦死したため、顕治が家督を継承したとされる 1。
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青田顕治の官途と黒木城代としての立場
顕治は「信濃守」を称していたことが複数の史料で確認できる 1。これは当時の武士が用いた受領名の一つであり、彼の家格や地位を示すものと考えられる。
彼の主要な役職は、陸奥国黒木城の城代であった 1。黒木城は、現在の福島県相馬市黒木字西館に存在した平山城であり、その築城は建武年間(1334年~1338年)に黒木大膳亮正光によるものと伝えられている 4。戦国時代においては相馬氏の支配下にあり、隣接する伊達氏の領土との国境に近い、戦略的に極めて重要な拠点であった 4。相馬氏14代当主・相馬顕胤の時代には、黒木城代として青田信濃(顕治)が任じられたとの記録が残されている 6。
黒木城が伊達領との境界に位置していたという地理的条件 4 は、城代である青田顕治が、伊達氏との外交交渉や諜報活動に深く関与していた可能性、あるいは伊達氏からの影響を受けやすい立場にあったことを強く示唆している。黒木城は対伊達氏の最前線であり 5、城代はその地域の防衛責任者として、必然的に敵対勢力との接触点となる。青田顕治が後に伊達氏に通じたという事実は、この地理的条件と無関係ではなかったと考えられる。逆に伊達氏側にとっても、相馬領の重要拠点である黒木城の城代を調略の対象とすることは、戦略的に非常に有効な手段であったと言えるだろう。この地理的・政治的背景が、後の伊達氏との内通、そして謀反へと繋がる遠因の一つとなった可能性は否定できない。
3. 永禄六年の謀反
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当時の相馬家中の状況:木幡盛清との関係、讒言説
永禄六年(1563年)に青田顕治が起こした謀反の背景には、当時の相馬家中における複雑な権力闘争の存在が指摘されている。特に顕著なのが、青田顕治と相馬氏の重臣であった木幡主水正盛清との深刻な対立である。
複数の史料によれば、天文十二年(1543年)、青田顕治が木幡盛清が謀反を企んでいると主君・相馬盛胤に讒言し、盛胤がこれを信じた結果、盛清を誘殺するという事件が起こったとされている 1。この時点で、青田氏は家中における権力闘争において一時的に優位に立った形となる。
しかし、その後、永禄年間(1558年~1570年)に入ると状況は変化する。一説には、盛胤がかつて青田顕治の讒言を信じて木幡盛清を殺害したことを後悔し、顕治の罪を問おうとしたことが、顕治による謀反の直接的な引き金になったとされている 8。この約20年越しの確執と、それに対する主君・相馬盛胤の対応の変化が、青田顕治の謀反の根本的な原因であった可能性は高い。この流れは、讒言による政敵排除、主君の心変わり、そして追い詰められた家臣の反乱という、戦国時代においてしばしば見られる権力闘争の典型的なパターンを示していると言える。単なる個人的な野心や伊達氏の調略のみならず、こうした長年にわたる家臣団内部の対立構造が、顕治を謀反へと駆り立てた主要な要因であったと考えられる。
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伊達氏との関係:伊達晴宗または輝宗の関与
青田顕治と中村城代の草野直清は、隣国の伊達氏と内通して謀反を起こしたと多くの史料で一致して伝えられている 1。
この謀反に関与した伊達氏の当主については、史料によって伊達晴宗の名を挙げるもの 1 と、伊達輝宗の名を挙げるもの 10 が存在する。永禄六年(1563年)当時は、伊達晴宗が伊達家の当主であったが、その子である輝宗も既に政治活動を開始していた時期にあたる。そのため、晴宗と輝宗の両者が関与した可能性、あるいは輝宗が主導した可能性も考慮に入れる必要がある。史料 16 は永禄七年(1564年)以降の輝宗の台頭と相馬領への野心を記しており、その前段階として永禄六年の謀反に関与していたとしても不自然ではない。
当時の伊達家と相馬家は、伊具郡や宇多郡の領有を巡って激しく対立しており 8、伊達氏にとって、相馬家臣の謀反は自らの勢力拡大を図る絶好の機会であったと言える。
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中村城代・草野直清(中村式部)
青田顕治の謀反における主要な共謀者として、中村城代であった草野直清の名が挙げられる。草野直清は、通称を式部といい、相馬顕胤ならびに盛胤の二代に仕えた武将である 10。その生年は永正十一年(1514年)、没年は謀反が起きた永禄六年(1563年)とされている 10。
直清は相馬顕胤の代には相馬中村城の城代を務めるなど重用されたが、顕胤の死後、何らかの理由で主家である相馬氏に対して不満を抱くようになり、青田顕治と共に伊達輝宗(あるいは伊達晴宗)に内通したとされている 10。相馬家の記録である『相馬氏家譜』には、「反逆ノ族徒中村城代草野式部モ宇多郡馬場野ニ於テル」との記述が見られ、彼の謀反への関与を裏付けている 17。
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木幡盛清(主水正)の関与に関する史料の異同
木幡盛清の関与については、史料間で記述に大きな異同が見られる。一部の史料 2 では、木幡盛清も青田顕治や草野直清と共に永禄六年の謀反に加担し、その結果として殺害されたと記されている。
しかしながら、前述の通り、より多くの史料 1 は、木幡盛清は天文十二年(1543年)に青田顕治の讒言によって相馬盛胤に誅殺されたとしており、永禄六年の謀反とは約20年の隔たりがある。
この情報の錯綜は、いくつかの可能性を示唆する。木幡盛清が永禄六年の謀反に加わったとする記述は、天文十二年の事件との混同、あるいは青田顕治と木幡氏の長年にわたる対立関係を簡略化して伝える過程で生じた誤伝である可能性が高い。青田顕治と木幡盛清は家中で対立しており 7、天文十二年に木幡盛清が青田顕治の讒言で誅殺されたという説がより具体的である 1。永禄六年の青田顕治の謀反は、この過去の事件が遠因となっている可能性も指摘されている 8。後世の記録において、青田顕治の主要な対立相手であった木幡盛清が、顕治の最終的な失脚事件である永禄六年の謀反にも関与したかのように記述が混ざってしまった可能性が考えられる。特に、両者が共に相馬盛胤にとって問題のある家臣として記憶された場合、事件が統合されて伝わったのかもしれない。なお、ユーザーから提供された参照列伝においては、木幡盛清の名は謀反の共謀者として挙げられていない。
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謀反の経過
史料 9 によれば、永禄六年(1563年)三月、陸奥国行方郡において、相馬黒木館主であった青田顕治と、相馬中村城代であった草野直清が、伊達氏に通じて謀反を起こしたとされる。
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伊達勢の介入と磯部城攻防戦
謀反に際し、草野直清は伊達輝宗(あるいは晴宗)と連携し、坂本城から舟山豊前や大谷地掃部といった伊達勢の部隊を引き入れ、相馬領の磯部城に攻め寄せたとされる
11
。 当時、磯部城の城代は佐藤伊勢守好信であり、彼は相馬家中でも屈指の勇将として知られ、伊達勢の猛攻によく耐えたと伝えられている
11
。
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相馬盛胤・義胤父子による鎮圧
磯部城が攻撃を受けているとの急報を受けた相馬盛胤は、嫡男である義胤と共に小高から本隊を率いて出陣した。この時、義胤は十六歳であり、この戦いが彼の初陣となった
11
。 相馬本隊は磯部城で佐藤好信の守備隊と合流し、反撃に転じて伊達勢を大いに打ち破ったと記録されている
11
。
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田中城攻撃計画の有無と詳細
ユーザーから提供された参照列伝には、青田顕治らが「田中城攻撃を企てた」との記述が存在する。 しかしながら、提供された他の主要な断片史料
1
を検証した範囲では、永禄六年の青田顕治の謀反において、彼らが具体的に田中城を攻撃した、あるいはその計画を立てたという直接的な記述は見当たらなかった。 田中城(現在の福島県南相馬市鹿島区に所在)は、元々は桑折氏の居城であったが、後に相馬義胤の弟である相馬郷胤が城代を務めた城である
19
。 この「田中城攻撃計画」については、いくつかの可能性が考えられる。参照列伝が独自の史料に依拠している可能性、謀反の初期構想には含まれていたものの実際には実行に至らなかった可能性、あるいは他の事件との混同である可能性などである。この計画が事実であれば、謀反の規模や戦略目標を考察する上で重要な情報となるが、現時点では他の史料による裏付けが乏しいと言わざるを得ない。田中城は相馬氏の重要な支城の一つであり
19
、反乱軍がその攻略を目標とする可能性は理論的にはあり得るものの、具体的な行動や計画の証左が他の史料で確認できないため、この計画の重要度や実行段階については不明瞭である。
4. 謀反の結末と青田顕治の最期
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草野直清:
磯部城への救援に駆けつけた相馬盛胤・義胤父子の軍勢との戦いにおいて討死したと、複数の史料で一致して記録されている
10
。『相馬氏家譜』にも「中村城代草野式部モ宇多郡馬場野ニ於テル(中略)、討たる」との記述があり、これが裏付けとなる
17
。
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木幡盛清:
前述の通り、木幡盛清の最期については史料間で情報が錯綜している。永禄六年の謀反で殺害されたとする史料
2
も存在するが、天文十二年(1543年)に青田顕治の讒言により誅殺されたとする史料
1
の方がより具体的であり、信憑性が高いと考えられる。仮に永禄六年に存命であり謀反に加担したとすれば、草野直清と共に討たれた可能性が高いが、その確証は得られない。
-
伊達勢の将として参戦した舟山豊前と大谷地掃部も、この磯部城周辺での戦いで戦死したとされている
11
。
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青田顕治の最期に関する諸説
青田顕治自身の最期については、史料によって記述が分かれている。
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戦死説:
ユーザーから提供された参照列伝には「相馬盛胤・義胤の軍に敗れて戦死した」と明確に記されている。また、Wikipediaの青田顕治に関する記述
1
においても、「盛胤は直ちに出陣し黒木城を攻撃。これに耐えきれず戦死したとも、田村清顕のもとに次男の胤治と共に落ち延びたともされる」と、戦死説と逃亡説の両方が併記されている。
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田村氏への逃亡説:
一方で、多くの史料では、青田顕治は敗れた後、一時的に中村城に逃れたものの、相馬盛胤からの開城勧告に従い、三春城主である田村清顕のもとへ逃亡したとされている
1
。 青田顕治の最期に関して、逃亡説がより優位であると考えられる。その理由として、顕治の子である胤治や常治も父に続いて田村氏を頼って逃亡しており、特に胤治は後にその智謀を評価され、相馬家に帰参を許されて重用されているという事実がある
2
。もし父である顕治が戦場で討ち死にしていれば、その子がこれほど厚遇されるのは戦国時代の慣習から見て異例であり、主君への反逆者として一族が断絶となってもおかしくない状況であった。顕治が戦死ではなく逃亡し、田村氏の庇護下に入ったという事実は、胤治の帰参の背景としてより説得力を持つ。田村氏が何らかの形で仲介した可能性も考えられる。したがって、参照列伝に見られる「戦死」という記述は、謀反の首謀者としての最終的な政治的生命の終わりを象徴的に表現したものか、あるいは一部の伝承に基づくものであり、史実としては「逃亡」の可能性が高いと判断される。
5. 青田一族のその後
青田顕治の謀反とその失敗は、彼の一族の運命にも大きな影響を与えた。
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青田顕治の子・青田(新館)胤治(左衛門尉、山城守)
顕治の嫡男とされる胤治は、父・顕治と共に三春の田村清顕のもとへ逃れた 2。その後、仙道(福島県中通り)の三坂という地に新館を構えて住み、新館山城守を称したと伝えられる 2。
胤治は智将として知られ、ある時、岩城常隆が田村清顕の領地である菅谷に攻め入るという事件が発生した。この際、田村清顕は兵を集める時間的余裕がなく、智謀に優れた胤治を起用してこの難局を乗り切ろうとした。胤治は一計を案じて伏兵を配し、寡兵をもって岩城の大軍を打ち破るという目覚ましい武功を立てたとされる 2。
この戦功が相馬盛胤の耳にも入り、盛胤は胤治の旧罪を許して相馬家へ呼び戻した。帰参後は草野堡の主将に任じられ、後に新田村において五十貫六百十文の知行を与えられ、家老に抜擢されて家政にも参与したという 2。胤治は慶長十一年(1606年)八月十五日に没したと記録されている 2。
その子孫は、胤治の子・繁治(彦左衛門)が家老職を継いだが嗣子がなく養子を迎えた。さらにその後の代で罪を犯して所領を没収され、一時困窮したが、後に伊達家に仕え、仙台藩士として300石を領した。この際に青田姓に復したとされている 2。
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青田顕治の子または弟・青田常治(修理亮)
顕治の子、あるいは弟ともされる青田常治(修理亮)も、顕治と共に田村清顕を頼って三春に逃れ、釘山という地に住んだ 2。
その後、常治も相馬家への帰参が許され、牛越村に居住したと伝えられる 2。
しかし、常治の運命は再び暗転する。小斎城代であった佐藤宮内が伊達家に寝返るという事件が起きた際、常治はその子である青田常重(孫右衛門)と共にこの動きに呼応し、再び相馬氏に対して謀反を起こした。しかしこの企ては失敗に終わり、敗れた常治は三春に逃れて客死したとされる 2。
その子・常重も流浪の身のまま世を去り、孫にあたる青田八郎左衛門の代になってようやく罪を許され、相馬家への帰参を果たしたという 2。
青田一族のその後の動向は、当主の赦免と再度の反乱、他家への仕官など、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家の流転と複雑な生き様を象徴している。顕治の謀反後、一族がまず田村氏を頼ったことは、当時の田村氏が反相馬勢力にとって一つの受け皿となっていた状況を示唆する。胤治がその能力を評価され、相馬家に復帰し重用された背景には、相馬氏が有能な人材を確保しようとした現実的な判断に加え、田村氏との間に一定の関係改善があった可能性も考えられる。一方で、一度は帰参を許された常治が、後に伊達方に与して再度謀反に及んでいる点は、相馬家に対する不満が根深かったのか、あるいは伊達氏からの強い働きかけがあったことをうかがわせる。一族が完全に相馬家への帰属を回復するのは孫の代になってからであり、一度失った主家からの信頼を取り戻すことの困難さを示していると言えるだろう。これらの出来事は、単に一族の盛衰だけでなく、当時の相馬・伊達・田村という三者間の勢力関係や外交戦略が複雑に絡み合っていたことを物語っている。
6. 関連人物と城郭
青田顕治の謀反事件を理解する上で、関与した主要人物と事件の舞台となった城郭についての情報は不可欠である。
氏名
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通称/官途
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所属/役職
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事件における主な役割・行動
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結果/最期
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関連史料(代表)
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青田顕治
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信濃守
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相馬氏家臣、黒木城代
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謀反の首謀者、伊達氏と内通
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敗北後、田村氏へ逃亡(有力説)
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2
, ユーザー参照列伝
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相馬盛胤
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(弾正大弼)
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相馬氏第15代当主
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謀反を鎮圧、青田顕治を追放
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天正八年(1580年)没
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7
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相馬義胤
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(長門守)
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相馬盛胤嫡男、相馬氏第16代当主
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謀反鎮圧戦で初陣
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寛永十二年(1635年)没
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11
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草野直清
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式部
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相馬氏家臣、相馬中村城代
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青田顕治と共に謀反、伊達勢を誘導
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永禄六年(1563年)磯部城攻防戦で戦死
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10
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木幡盛清
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主水正
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相馬氏家臣
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天文十二年に青田顕治の讒言により誅殺(有力説)。永禄六年の謀反への関与は史料により異同あり。
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天文十二年(1543年)誅殺(有力説)
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1
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伊達晴宗
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(左京大夫)
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伊達氏第15代当主
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青田顕治らの謀反に背後で関与したとされる
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天正五年(1577年)または六年(1578年)没
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1
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伊達輝宗
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(左京大夫)
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伊達晴宗嫡男、伊達氏第16代当主
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青田顕治らの謀反に背後で関与したとされる
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天正十三年(1585年)没
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10
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田村清顕
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(大膳大夫)
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三春城主、相馬盛胤の妹婿
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謀反に敗れた青田顕治親子らを庇護
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天正十四年(1586年)没
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2
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佐藤好信
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伊勢守
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相馬氏家臣、磯部城代
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磯部城を防衛し、伊達勢の攻撃を撃退
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没年不詳
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11
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城名
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所在地(推定含む)
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当時の城主/城代
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事件における役割/出来事
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関連史料(代表)
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黒木城
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福島県相馬市黒木字西館
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青田顕治(城代)
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青田顕治の居城、謀反の拠点の一つ。謀反失敗後、攻撃を受けた可能性あり。
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1
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相馬中村城
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福島県相馬市中村
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草野直清(城代)
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草野直清の居城。青田顕治が敗走後一時逃げ込むも、開城勧告により放棄。
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10
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田中城
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福島県南相馬市鹿島区田中
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(当時は桑折氏か、後に相馬郷胤が城代)
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ユーザー参照列伝によれば青田顕治が攻撃を企図。他の史料での裏付けは乏しい。
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19
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磯部城
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福島県相馬郡新地町周辺か
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佐藤好信(城代)
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謀反に呼応した伊達勢(舟山豊前、大谷地掃部ら)の攻撃を受けるが、佐藤好信が防衛。相馬盛胤・義胤の援軍により伊達勢撃退。
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11
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7. 考察
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史料間の矛盾点の分析
青田顕治に関する史料を比較検討すると、いくつかの点で記述の矛盾や食い違いが見られる。
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青田顕治の最期(戦死説 vs 逃亡説):
前述の通り、顕治の最期については「戦死説」と「田村氏への逃亡説」が存在する。しかし、その後の子である胤治や常治が田村氏を頼って逃亡し、特に胤治が後に相馬家に帰参して重用されている点などを考慮すると、父である顕治が戦死ではなく逃亡していたと考える方が、子らの処遇やその後の経緯をより自然に説明できる。参照列伝に見られる「戦死」という記述は、謀反人としての彼の政治的生命の終焉を簡潔に示したものか、あるいは特定の伝承に基づいた記述である可能性が考えられる。
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木幡盛清の最期(天文十二年讒言死説 vs 永禄六年謀反加担死説):
木幡盛清の最期についても、史料間で年代と死因が大きく異なる。天文十二年(1543年)に青田顕治の讒言により相馬盛胤に誅殺されたとする説は、具体的な状況と共に複数の史料で記されており
1
、これが永禄六年の青田顕治の謀反の遠因の一つとなった可能性も指摘されていることから、より信憑性が高いと考えられる。永禄六年の謀反に木幡盛清が加担したとする記述は、青田顕治との長年にわたる対立関係から生じた情報の混同である可能性が否定できない。
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田中城攻撃計画の実態:
青田顕治らが「田中城攻撃を企てた」という記述は、ユーザー提供の参照列伝にのみ見られるものであり、他の提供史料では確認することができなかった。計画段階に留まり実行には至らなかったのか、あるいは参照列伝が依拠する特定の史料群にのみ見られる情報である可能性が高い。現時点では、この計画の確証を得ることは困難である。
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謀反が相馬氏および周辺情勢に与えた影響
青田顕治の謀反は、単に一個人の反乱に留まらず、当時の相馬氏および周辺の政治情勢にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。
第一に、この事件は相馬氏内部の権力闘争や家臣団統制の難しさを露呈させ、一時的にせよ家中の動揺を招いた。
第二に、伊達氏の介入を招いたことにより、かねてから緊張関係にあった相馬・伊達両氏間の対立をさらに深めた可能性がある。
第三に、この謀反の鎮圧戦が相馬義胤の初陣となり、彼の武将としてのキャリアの出発点となった。この経験は、その後の義胤の領国経営や対外政策に何らかの影響を与えた可能性が考えられる。
第四に、田村氏が相馬氏の反逆者である青田顕治らを庇護したことは、相馬氏と田村氏の関係にも影響を与えた可能性がある。ただし、田村清顕は相馬盛胤の妹婿という関係でもあり、両者の間には単純な敵対関係だけではない、複雑な外交的側面が存在したことがうかがえる。
この謀反事件は、永禄年間(1558年~1570年) 16 の奥州における大名間の勢力争いや、家臣団の離合集散といった流動的な状況を色濃く反映している。当時、奥州では伊達氏の勢力拡大や蘆名氏の台頭など、勢力図が大きく塗り替わりつつあった 16。相馬氏は伊達氏と最前線で国境を接しており、常に軍事的緊張に晒されていた 16。このような厳しい外部環境の中で、相馬家中の内紛(青田顕治の謀反)が発生したのである。伊達氏がこの内紛に介入したのは、当時の大名間の勢力争いにおける常套手段であり、好敵手である相馬氏の弱体化を狙ったものと考えられる。この事件は、単に相馬家内部の一つの謀反事件であると同時に、より大きな視点で見れば、当時の奥州全体の勢力変動の一端を示す象徴的な事例として捉えることができるだろう。
8. 結論
青田顕治は、戦国時代の相馬氏家臣であり、信濃守を称し、陸奥国黒木城代を務めた人物である。永禄六年(1563年)、同じく相馬氏家臣で中村城代であった草野直清らと共に、伊達氏と内通して主君である相馬盛胤に対して謀反を起こした。
この謀反の背景には、相馬家中における青田顕治と重臣・木幡盛清との長年にわたる権力闘争、そして木幡盛清の死(天文十二年の讒言による誅殺説が有力)を巡る経緯から生じた、主君・相馬盛胤との関係悪化があったと推察される。
謀反は、相馬盛胤とその嫡男・義胤(この戦いが初陣)の迅速な対応によって鎮圧され、共謀者である草野直清らは戦死した。青田顕治自身の最期については、戦死したとする説と、三春城主・田村清顕のもとへ逃亡したとする説が存在するが、その後の彼の子孫の動向などを考慮すると、逃亡説がより有力であると考えられる。
ユーザー提供の参照列伝に見られる「田中城攻撃を企てた」という記述については、他の史料からの明確な裏付けは得られなかった。計画のみに終わったか、あるいは特定の伝承に基づく情報である可能性が残る。
青田顕治の謀反事件は、若き相馬義胤の初陣を飾る出来事となったと同時に、当時の相馬氏が抱えていた家臣団統制の難しさや内部矛盾、そして伊達氏や田村氏といった周辺勢力との複雑な外交・軍事関係を浮き彫りにするものであった。青田一族のその後の流転の道のりは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家の厳しい現実と、主家との関係性の変化を象徴していると言えるだろう。
9. 付録:主要参考文献・史料について
本報告書は、提供された研究資料(
1
~
18
、
1
~
11
、及びユーザー参照列伝)に基づいて作成された。これらの資料の中には、ウェブサイト上の歴史解説、Wikipediaの項目、個人の研究ブログ、学術論文データベースの断片などが含まれていた。
特に、青田顕治に関する具体的な情報を得る上で重要であったのは、『千葉一族』ウェブサイト (chibasi.net) に掲載されている相馬氏関連の記述
2
、及びWikipediaの青田顕治、草野直清、相馬盛胤、相馬義胤などの関連記事
1
であった。これらの情報源は、しばしば『相馬藩世紀』、『奥相茶話記』、『東奥中村記』、『相馬氏家譜』といった具体的な郷土史料や藩政史料の名を挙げている箇所が見受けられた
6
。これらの一次史料、二次史料への直接的なアクセスは叶わなかったものの、提供された断片情報から、これらの史料群が青田顕治および関連事件を考察する上で中心的な役割を果たすことが示唆された。
本報告書の記述は、これらの断片的な情報を相互に比較検討し、可能な限り客観性と整合性を保つよう努めた結果である。
引用文献
-
青田顕治 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E7%94%B0%E9%A1%95%E6%B2%BB
-
千葉一族【に】~【の】
https://chibasi.net/ichizoku71.htm
-
青田顕治とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E9%9D%92%E7%94%B0%E9%A1%95%E6%B2%BB
-
黒木城
http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/tohoku/fukusima/kuroki.html
-
相馬中村城 鬼越館 黒木城 余湖
http://yogokun.my.coocan.jp/hukusima/soumasi.htm
-
相馬顕胤 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E9%A1%95%E8%83%A4
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相馬盛胤 - 千葉氏の一族
https://chibasi.net/soryo314.htm
-
不屈之赤駒~相馬義胤(伍)-宿敵輝宗 - 日本史專欄
http://sengokujapan.blogspot.com/2019/09/blog-post_29.html
-
二階堂合戦記 - 1563-2 輝宗 - 小説家になろう
https://ncode.syosetu.com/n2505fo/21/
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草野直清 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E9%87%8E%E7%9B%B4%E6%B8%85
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相馬義胤 - 千葉氏の一族
http://chibasi.net/soryo32.htm
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相馬義胤 (十六代当主) - Wikipedia
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相馬中村城
http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.soumanakamura.htm
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草野直清とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E8%8D%89%E9%87%8E%E7%9B%B4%E6%B8%85
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相馬義胤 (十六代当主)とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
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相馬盛胤(そうま もりたね) 拙者の履歴書 Vol.139~浜通りの雄、風雪を越えて - note
https://note.com/digitaljokers/n/nd2eafc4521f4
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戦国時代の新地城 * 宇多郡の中世社会 - 福島県新地町
https://shinchi.fcs.ed.jp/file/134
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소마 요시타네, 소우마 요시타네(相馬義胤, 상마의윤) - 블로그
https://blog.naver.com/chaocho/223690802268
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田中城の見所と写真・全国の城好き達による評価(福島県南相馬市 ...
https://kojodan.jp/castle/2199/
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戦国時代 (日本) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
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相馬盛胤 (十五代当主) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E7%9B%9B%E8%83%A4_(%E5%8D%81%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
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相馬顕胤(そうま あきたね) 拙者の履歴書 Vol.138~浜の守護、乱世を生きる - note
https://note.com/digitaljokers/n/n877ad0802cfb
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伊達輝宗 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97