本報告書は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将、青地元珍(あおち もとたか、永禄3年(1560年) – 寛永10年9月29日(1633年10月31日))の生涯と事績について、現存する史料に基づき詳細に解明することを目的とする 1 。青地元珍は、近江国の国人青地氏に生を受け、織田信長、織田信孝、蒲生氏郷といった戦国時代の主要な人物に仕え、最終的には加賀前田家の大名に臣従し、激動の時代を巧みに生き抜いた武将である。彼の生涯は、戦国武将が主家を変遷させながらも、いかにして家名を維持し、後世に繋いでいったかを示す好個の事例と言えるだろう。
本報告にあたっては、『信長公記』や『寛政重修諸家譜』、『加賀藩史料』といった信頼性の高い史料の記述を基礎とする。しかしながら、これらの史料に見られる情報の断片性や、時には解釈の多様性が生じうる点にも留意し、客観的な記述を心がけるものである。青地元珍の生涯を辿ることは、戦国時代から近世初頭にかけての武士の生き様、そして彼らを取り巻く社会構造の一端を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれるものと期待される。
以下に、青地元珍の生涯における主要な出来事をまとめた略年譜を提示する。
表1: 青地元珍 略年譜
年代(和暦) |
年齢 |
主要な出来事 |
関連人物 |
主な典拠 |
永禄3年(1560年) |
1歳 |
近江国にて青地茂綱の長男として誕生(幼名:千代寿) |
青地茂綱 |
1 |
元亀元年(1570年) |
11歳 |
父・茂綱、志賀の陣で戦死。家督を相続し、領地・与力・家来は安堵される。 |
青地茂綱、織田信長 |
1 |
元亀2年(1571年) |
12歳 |
12月、織田信長の家臣・佐久間信盛の与力となる。 |
佐久間信盛 |
1 |
天正元年(1573年) |
14歳 |
槇島城の戦いに参陣。 |
佐久間信盛 |
1 |
天正4年(1576年) |
17歳 |
天王寺の戦いに参陣。 |
佐久間信盛 |
1 |
天正8年(1580年) |
21歳 |
佐久間信盛、織田家を追放される。元珍は近江衆として織田信長の旗本(直臣)となる。 |
佐久間信盛、織田信長 |
1 |
天正9年(1581年) |
22歳 |
1月、安土城での左義長に参加。同年、第二次天正伊賀の乱に参陣。 |
織田信長 |
1 |
天正10年(1582年) |
23歳 |
本能寺の変で織田信長横死。その後、織田信孝に仕える。 |
織田信長、織田信孝 |
1 |
天正11年(1583年) |
24歳 |
賤ヶ岳の戦い後、織田信孝自害。羽柴秀吉により所領を没収され浪人となる。 |
織田信孝、羽柴秀吉 |
1 |
時期不明 |
- |
従兄弟とされる蒲生氏郷の客将となる。 |
蒲生氏郷 |
1 |
慶長4年(1599年)頃 |
40歳頃 |
蒲生秀行の代に蒲生家を去り、前田利長に仕官。知行二千石(または二千俵)を得る。 |
蒲生秀行、前田利長 |
1 |
寛永10年(1633年) |
74歳 |
9月29日、加賀藩にて死去。 |
前田利常 |
1 |
青地元珍の生涯を理解する上で、彼が属した青地氏の背景を把握することは不可欠である。青地氏は近江国に根を張った国人領主であり、その出自や地域における勢力は、元珍の行動原理や人脈形成に影響を与えたと考えられる。
青地氏の起源については、主に二つの説が伝えられている。一つは、平安時代に遡る名門武家である宇多源氏佐々木氏の支流、馬淵氏の馬淵廣定の四男・青地基綱を祖とする説である。この説は、鎌倉時代に成立したとされる系図集『尊卑分脈』に記されている 2 。もう一つは、より古くからの在地勢力に繋がるもので、当該地域の古代豪族であった小槻山君(おつきやまのきみ)の末裔である小槻氏の子孫が、本拠地である近江国栗太郡青地庄(現在の滋賀県草津市青地町)の地名にちなんで青地氏を称したとする説である 2 。後者の説では、後に青地定兼に男子がなかったため、前述の基綱を養子に迎え、小槻姓から佐々木氏の源姓に改めたとされている。中世の武士団が自らの家格や正当性を高めるために、より権威のある氏族の系譜に連なろうとする傾向はしばしば見られる。青地氏の場合も、元来の在地領主としての性格と、近江守護であった佐々木氏との関係構築の中で、このような二重の出自伝承が形成された可能性が考えられる。
いずれの説を採るにしても、青地氏は近江国栗太郡青地庄を拠点とした国人領主であったことは確かである 2 。佐々木氏が近江守護として勢力を確立すると、青地氏もその影響下に入り、近江佐々木源氏七騎の一角を担う有力な武士団として、地域支配の一翼を担ったと伝えられている 2 。
青地氏の居城は青地城と称し、初代基綱の子である忠綱によって築かれたとされるが、その詳細な築城時期や構造については不明な点も多い 2 。ただ、この城が東海道や東山道といった主要街道に近く、琵琶湖の湖上交通の要衝である志那港へも通じる交通の要地に位置していたことは、青地氏が地域の流通や軍事において重要な役割を果たし得たことを示唆している 3 。
なお、青地氏の家紋は「丸に角立ち四つ目」とされている 2 。これは佐々木氏やその支流が用いた「四つ目結」紋の変形の一つであり、佐々木氏との関連を強く意識していたことの表れであろう。
青地元珍の父は、青地茂綱(あおち しげつな)である 1 。茂綱は近江国の国人として、戦国時代の動乱期を生きた武将であった。彼の経歴で特筆すべきは、蒲生氏との関係である。一説には、茂綱は蒲生氏から青地家に養子として入ったとされている 2 。より具体的には、近江の有力国人であり、後に六角氏の重臣、そして織田信長の配下として活躍する蒲生定秀の次男が、青地長綱の養子となって茂綱を名乗ったという記録もある 4 。
戦国時代において、国人領主間の養子縁組は、家名の存続のみならず、同盟関係の強化や勢力拡大のための重要な戦略であった。青地氏が当時、近江南部で勢力を伸長しつつあった蒲生氏から養子を迎えたとすれば、それは両家の連携を深め、激化する周辺勢力との角逐の中で生き残りを図るための現実的な選択であったと考えられる。この蒲生氏との血縁的・政治的結合は、後に元珍が苦境に陥った際に、蒲生氏郷を頼る伏線となった可能性が高い。
茂綱は織田信長に仕え、元亀元年(1570年)、信長と浅井・朝倉連合軍との間で行われた志賀の陣(宇佐山城の戦いとも関連が深い)において、信長方として奮戦したが、討ち死にした 1 。父の戦死は、当時まだ幼少であった元珍が、若くして青地家の家督を継承し、戦国の荒波に漕ぎ出す直接的な契機となったのである。
父・茂綱の戦死により、青地元珍は若くして青地家の当主となり、織田信長の家臣団に組み込まれていく。彼の織田家臣としての経歴は、佐久間信盛の与力としての活動から始まり、信長の直臣へと昇格する過程を経て、信長政権下での主要な戦役に参加するという、当時の典型的な武将のキャリアパスを辿っている。
元亀元年(1570年)、父・青地茂綱が志賀の陣で戦死したことにより、元珍(幼名:千代寿)はわずか11歳という若さで家督を相続した 1 。特筆すべきは、幼少の当主であったにもかかわらず、織田信長によってその領地や与力、家来はそのまま安堵されたことである 1 。これは、父茂綱の戦功に報いるという信長の恩賞政策の一環であると同時に、近江国における支配体制を円滑に進めるため、在地勢力である青地氏を懐柔し、取り込むという戦略的判断があったものと考えられる。信長は急速な勢力拡大の過程で、旧来の在地勢力を完全に排除するのではなく、自らの支配体制に組み込むことで、占領地の安定化と軍事力の確保を効率的に進めようとしていた。
家督相続の翌年、元亀2年(1571年)12月、元珍は織田氏の重臣である佐久間信盛の与力となった 1 。与力とは、ある武将の指揮下に配属され、その軍事行動を補佐する立場であり、元珍は佐久間信盛の軍団の一員として、織田家の戦いに動員されることになった。幼少の元珍が父の旧領と家臣を安堵された上で、有力家臣である佐久間信盛の与力に配されたことは、織田政権下における国人領主の統制策の一端を示している。独立性をある程度残しつつも、経験豊富な重臣の指揮下に置くことで、その勢力を確実に掌握し、反乱のリスクを低減させつつ、軍事力として活用しようとする信長の意図が窺える。佐久間信盛は当時、対石山本願寺戦線などで軍事指揮の中核を担っており、その与力として近江の兵を組み込むことは、戦略的にも理に適った配置であったと言えよう。
佐久間信盛の与力となった青地元珍は、織田信長の主要な軍事行動に相次いで参加している。天正元年(1573年)には、室町幕府15代将軍・足利義昭が信長に反旗を翻した際、義昭が籠城した槇島城(京都府宇治市)への攻撃戦である槇島城の戦いに、信盛の配下として参陣した 1 。この戦いは義昭の追放と室町幕府の事実上の滅亡に繋がる重要な戦役であった。
続いて天正4年(1576年)には、長期にわたる石山合戦の中でも激戦として知られる天王寺の戦いに参加している 1 。これは、石山本願寺の救援に現れた雑賀衆などの勢力と織田軍が、大坂の天王寺砦周辺で激突した戦いである。これらの主要な戦役への参加は、元珍が織田軍の一員として着実に軍務を果たし、武将としての経験を積んでいたことを示している。
天正8年(1580年)、青地元珍の直接の上司であった佐久間信盛が、突如として織田信長から19ヶ条にも及ぶ折檻状(譴責状)を突きつけられ、高野山へ追放されるという事件が起こる 1 。信盛は織田家中で最も多くの兵力を動員できる立場にあった重臣の一人であり、その追放は家臣団に大きな衝撃を与えた。
しかし、元珍はこの信盛の失脚に連座することなく、逆に近江衆の一人として織田信長の旗本、すなわち直臣へと取り立てられた 1 。これは注目すべき点であり、元珍自身の能力や日頃の忠勤が信長に評価されていたか、あるいは近江における青地氏の在地勢力としての重要性が考慮された結果である可能性が考えられる。佐久間信盛の追放は、信長による家臣団の引き締めと、能力主義・成果主義を徹底する姿勢の表れであったが、元珍がその危機を乗り越えて昇格したことは、彼が信長の新たな期待に応えうると判断されたことを意味する。近江は信長の居城である安土城に近く、戦略的にも極めて重要な地域であり、その地域の国人である元珍を直臣化することは、近江支配の安定化に繋がり、信長にとっても有益であったろう。
信長の旗本となった元珍は、その地位を内外に示す機会にも恵まれた。天正9年(1581年)1月には、信長の居城である安土城下で行われた江州衆(近江出身の武士たち)による盛大な左義長(さぎちょう、爆竹を鳴らし、飾り物を燃やす新年の火祭りであるが、この場合は大規模な軍事パレードや馬揃えの要素も含む催しであったと考えられる)に名を連ねている 1 。これは、元珍が信長直属の武将として、織田政権の中枢に近い存在と認識されていたことを示唆するものである。
さらに同年、元珍は第二次天正伊賀の乱にも参陣している 1 。これは、織田信雄を総大将とし、信長自身も軍勢を率いて伊賀国に侵攻し、徹底的な殲滅戦を行った戦いである。旗本としてこれらの重要な軍事行動に参加したことは、元珍が信長の信頼を得ていた証左と言えるだろう。
天正10年(1582年)6月、織田信長が京都本能寺において明智光秀の謀反によって横死するという未曾有の事態(本能寺の変)が発生する。これにより、織田政権は崩壊の危機に瀕し、元珍をはじめとする織田家臣たちは、新たな主君の選択という困難な局面に立たされることになった。元珍のその後の足跡は、まさに戦国武将の流転の生涯を象徴するものとなる。
本能寺の変後、織田家の後継者争いが激化する中で、青地元珍は信長の三男である織田信孝に仕える道を選んだ 1 。信孝は、変報を受けていち早く光秀討伐軍を組織しようとした人物の一人であり、一時は柴田勝家ら織田家宿老の後援も得て、後継者として有力視された時期もあった。元珍が信孝に与した背景には、信孝が美濃岐阜城を拠点としており、近江の元珍にとっては地理的に連携しやすかったことや、旧主信長の子である信孝への忠義立て、あるいは当時の織田旧臣間の力関係などが複雑に影響したと考えられる。
しかし、織田家の実権を巡る争いは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の台頭によって大きく動く。天正11年(1583年)、秀吉と柴田勝家が雌雄を決した賤ヶ岳の戦いにおいて勝家方は敗北し、信孝もまた秀吉に追い詰められ、同年中に自害に追い込まれた 1 。主君信孝の没落は、元珍の運命にも直接的な影響を及ぼした。信孝に与していた元珍は、勝利者となった秀吉によって所領を没収され、ここに浪人の身となったのである 1 。これは、戦国時代において主君の選択がいかに武将の将来を左右するかを示す典型的な事例であり、元珍は「敗者側」に属したことで、一時的に安定した地位を失うことになった。当時の武士が常に「勝ち馬」を見極める必要に迫られていた過酷な現実が、元珍の境遇からも窺える。
所領を失い浪人となった青地元珍であったが、彼には一つの重要な縁故があった。それは、近江の有力武将であり、当時秀吉のもとで伊勢松坂12万石の城主、後には会津若松92万石の大名となる蒲生氏郷との関係である 1 。前述の通り、元珍の父・茂綱が蒲生氏から養子に入ったという説が有力であり 2 、これが事実であれば元珍と氏郷は従兄弟(いとこ)の関係にあたる。実際に複数の資料で「従兄弟」と明記されており 1 、年齢的にも氏郷(永禄元年/1556年生)が元珍(永禄3年/1560年生)より年長であることから、この関係性は妥当と考えられる。
この血縁を頼り、元珍は蒲生氏郷のもとに身を寄せ、客将として迎えられた 1 。戦国時代において、血縁、特に母方や養子縁組による繋がりは、武将が困窮した際の重要なセーフティネットとして機能した。氏郷は文武両道に秀でた名将として知られ、千利休の高弟(利休七哲の一人)としても有名であった 6 。そのような人物の下で客将として遇されたことは、元珍の武将としての能力や経験がある程度評価されていたことを示唆する。単なる食客ではなく、一定の敬意と能力評価を伴う「客将」という待遇は、彼のこれまでのキャリアが氏郷に認められた結果であろう。
しかし、この安息も長くは続かなかった。氏郷が文禄4年(1595年)に40歳の若さで急逝すると、その子・蒲生秀行が家督を継ぐ。元珍は秀行の代にもしばらく蒲生家に留まったようであるが、やがてその許を去ることになる 1 。その明確な理由は史料からは判然としないが、氏郷という個人的な繋がりの強い庇護者を失ったことに加え、秀行の幼少期に起こった家臣団の対立(会津騒動)や、関ヶ原の戦い後の蒲生家の減封(会津92万石から宇都宮18万石へ)といった不安定な状況が影響した可能性が考えられる。客将という立場は、主家の状況変化に左右されやすく、元珍は新たな安定を求めて蒲生家を離れる決断をしたものと推察される。
蒲生家を離れた青地元珍は、新たな仕官先として加賀百万石の大藩である前田家を選んだ。これは彼の武将としてのキャリアの最終到達点となり、青地家の家名を近世へと繋ぐ重要な転機であった。
青地元珍が前田家に仕官したのは、慶長4年(1599年)頃とされている 4。当時の前田家当主は、豊臣政権下で五大老の一人であった前田利家の跡を継いだ前田利長であった 1。元珍は利長に召し出され、知行として二千石 1、あるいは二千俵 4 を与えられ、加賀藩士となった。
「石」と「俵」の表記の違いは、史料による差異か、あるいは実際の支給形態の違い(知行地からの現物収益か、藩庫からの蔵米支給か)に起因する可能性がある。いずれにせよ、二千石(俵)という禄高は、当時の大藩である加賀藩においても上級家臣に属するものであり、元珍がこれまでの武将としての経験や能力を高く評価されて迎えられたことを示している。
戦国末期から江戸初期にかけて、有力大名家は、関ヶ原の戦いなどを経て改易されたり浪人となったりした他家の武士を積極的に登用し、自家の家臣団を強化する動きが活発であった。元珍は織田信長、織田信孝、そして名将と謳われた蒲生氏郷といった人物に仕えた豊富な軍事経験を有しており、その武勇や指揮能力は、大藩を運営し、万一の事態に備える必要があった前田家にとって魅力的なものであったろう。特に蒲生氏郷の客将であったという経歴は、彼の能力を保証する一つの指標となった可能性も考えられる。
元珍は、前田利長に続き、その養嗣子で跡を継いだ前田利常にも仕えた 1 。これにより、彼の加賀藩士としての地位は確固たるものとなった。
以下に、青地元珍の主君の変遷と、判明している範囲での知行をまとめた表を提示する。
表2: 青地元珍 主君変遷と知行
主君 |
期間(推定含む) |
主な立場・役職 |
石高(俵) |
典拠 |
佐久間信盛 |
元亀2年~天正8年 |
与力 |
不明 |
1 |
織田信長 |
天正8年~天正10年 |
旗本(直臣) |
不明 |
1 |
織田信孝 |
天正10年~天正11年 |
家臣 |
不明 |
1 |
(浪人) |
天正11年~時期不明 |
- |
- |
1 |
蒲生氏郷・秀行 |
時期不明~慶長4年頃 |
客将 |
不明 |
1 |
前田利長・利常 |
慶長4年頃~寛永10年 |
加賀藩士 |
二千石(俵) |
1 |
青地元珍が加賀藩において具体的にどのような役職に就き、どのような活動を行ったかについては、提供された資料からは詳細を明らかにすることはできなかった。しかし、二千石という比較的高禄を得ていたことから、単に客分として遇されたのではなく、何らかの軍事的な役職や番方(武官)としての重要な任務を担っていたと推測される。例えば、城代や組頭といった一定の兵を指揮する立場にあった可能性も考えられる。
この点に関しては、石川県立図書館などが所蔵する『加賀藩史料』の第二編に「青地氏由緒」という記録が収録されていることが確認されており 7 、この史料には元珍の加賀藩におけるより詳細な事績や家系の由来などが記されている可能性が高い。今後の史料調査によって、彼の加賀藩における具体的な役割や貢献が明らかになることが期待される。
加賀藩士として前田家に仕えた青地元珍は、比較的安定した晩年を送ったものと考えられる。彼の死没は、寛永10年9月29日(西暦1633年10月31日)と記録されている 1 。この没年月日は、『加賀藩士稿』という史料によって確認できる 1 。
元珍は永禄3年(1560年)の生まれであるため、享年は74歳であった。戦国時代から江戸時代初期という、平均寿命が現代よりも短かった時代において、70歳を超えるまで生きたことは長寿の部類に入ると言える。織田信長のもとで戦場を駆け、本能寺の変後の混乱期には浪人の苦労も味わった彼が、最終的に大大名である前田家に仕え、その地で生涯を終えたことは、戦国武将の一つの到達点であったのかもしれない。
青地元珍の血筋は、彼自身に実子がいなかったため、養子によって受け継がれていくことになる。彼が築いた加賀藩士としての地位は、この養子縁組を通じて子孫に継承され、青地家は近世を通じて存続することになった。
史料によれば、青地元珍には実子がいなかったとされている 1 。当時の武家社会において、家名の断絶は一族にとって最大の不名誉の一つであり、実子がいない場合に養子を迎えることは極めて一般的な慣行であった。元珍もこの慣例に従い、養子を迎えて家名を継がせた。
彼が養子として迎えたのは、六角義定(ささき よしさだ、近江源氏佐々木氏の嫡流である六角氏の一族)の四男であった 1 。この養子は青地等定(あおち などさだ)と名乗り、元珍の跡を継いだ。この事実は、『青地系図帳』という史料に記載されていることが確認されている 1 。六角氏はかつて近江守護として強大な勢力を誇った名門であり、そのような家柄から養子を迎えたことは、青地家の家格を維持し、高めようとする元珍の意識の表れであったのかもしれない。
青地家の家督は、養子である等定によって継承されたが、等定自身もまた養子によって家を繋いでいる。等定は、加賀藩の家老職を務めた有力家臣である本多政長(ほんだ まさなが、加賀本多家)の一族から定政(さだまさ)を養子として迎えた 1 。このように養子を重ねながらも、青地家は代々加賀藩士として前田氏に仕え続け、幕末の明治維新期まで存続したことが記録されている 1 。
武家社会において家名の永続は至上の命題であり、実子に恵まれない場合に適切な養子を迎えることは、当主の重要な務めであった。等定が藩の重臣である本多氏の一族から養子を迎えたことは、藩内における青地家の立場をより安定させ、有力家臣との縁戚関係を構築することで家の安泰を図るという、戦略的な意図があった可能性も考えられる。
青地元珍の子孫からは、江戸時代中期に儒学者として知られた青地礼幹(あおち れいかん)のような人物も輩出している 2 。礼幹は、著名な儒学者である室鳩巣(むろ きゅうそう)の門人であり、その学識によっても知られていた。これは、青地家が武辺だけでなく、学問によっても家名を高め、藩政に貢献しようとしたことを示唆しているのかもしれない。加賀藩士のカテゴリには、元珍や礼幹の名が確認できる 8 。元珍が加賀藩に仕官したことにより、青地氏は近江の国人領主から加賀藩の世襲家臣へとその性格を変容させ、近世武家社会の中で家名を後世に伝えることに成功したのである。
青地元珍の生涯を明らかにする上で、彼の墓所の特定と、彼に関する記述を含む史料の確認は極めて重要である。これらの情報は、彼の最終的な帰着点と、後世に彼がどのように記憶されたかを示してくれる。
青地元珍の墓は、現在の石川県金沢市寺町5丁目にある西方寺(さいほうじ)に存在することが確認されている 10 。この事実は、大正8年(1919年)に刊行された『金沢墓誌』という史料によって裏付けられる。『金沢墓誌』の上編16頁には、西方寺の墓碑の一つとして「青地元珍」の名が明確に記載されている 7 。さらに、同書の上編17頁には、元珍の養子である青地等定の名も同じく西方寺の墓碑として記録されており、親子が同じ寺院に葬られていることがわかる 10 。
墓所が金沢にあることは、元珍が加賀藩士としてその地で生涯を終え、前田家の家臣として葬られたことを強く示唆している。残念ながら、提供された資料からは元珍の法名(戒名)までは確認できなかったが、西方寺の過去帳などには記録が残されている可能性がある。
青地元珍の事績を辿る上で参照すべき主要な史料は多岐にわたる。以下に主なものを挙げる。
これらの史料群は、中央政権の動向を記した全国的な史料(『信長公記』や『寛政重修諸家譜』の可能性)と、元珍が最終的に仕えた加賀藩という一地方の記録(『加賀藩史料』、『金沢墓誌』など)とに大別できる。これは、元珍の生涯が、織田信長という中央の覇者のもとでキャリアを積み、本能寺の変という中央政界の大事件に翻弄されつつも、最終的には加賀藩という有力地方大名の家臣として定着し、その地で生涯を終えたことを如実に反映している。これらの多様な史料を丹念に突き合わせ、分析することで、より多角的かつ正確な青地元珍像を構築することが可能となるのである。
本報告書では、戦国時代から江戸時代前期にかけて生きた武将、青地元珍の生涯と事績について、現存する史料に基づいて詳細な調査を行った。
青地元珍は、近江の国人領主である青地氏の子として生を受け、父・茂綱の戦死により若くして家督を相続した。織田信長の家臣として、佐久間信盛の与力から信長の旗本へと昇進し、槇島城の戦いや天王寺の戦い、第二次天正伊賀の乱といった主要な戦役に参加するなど、武将としての経験を積んだ。しかし、天正10年(1582年)の本能寺の変という歴史的転換点において、織田信孝に仕える道を選んだことが、その後の彼の運命を大きく左右する。信孝の没落と共に所領を失い、一時は浪人の身となった。この時期の主家選択の困難さは、当時の武士が常に生死の岐路に立たされていたことを物語っている。
その後、従兄弟とされる蒲生氏郷を頼り、客将として一時的な安息を得るが、氏郷の死と蒲生家の内情変化により再び新たな道を模索することになる。最終的に、慶長4年(1599年)頃、加賀藩主前田利長に二千石(俵)という厚遇で迎えられ、加賀藩士としての地位を確立した。以後、前田利常にも仕え、寛永10年(1633年)に74歳でその生涯を閉じるまで、加賀の地で過ごした。実子には恵まれなかったものの、六角氏から等定を養子に迎え、さらにその等定も本多氏から定政を養子とするなど、家名断絶を避けるための努力を重ね、青地家は加賀藩士として明治維新まで存続した。
青地元珍の生涯は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士の典型的な生き様の一つを示すと言える。中央の政争に翻弄されながらも、血縁や縁故、そして自身の武将としての実力によって新たな道を切り開き、最終的には安定した大藩の家臣として家名を再興し、子孫に繋いだその軌跡は、激動の時代を生き抜いた一個人の力強さと、それを可能にした当時の社会構造の一端を浮き彫りにする。また、青地氏という一つの「家」が、近江の独立性の高い国人領主から、加賀百万石という巨大な藩組織に組み込まれた世襲家臣へと、その性格を変容させながら存続していく過程は、中世から近世への移行期における武家社会の成立と安定化の一側面を具体的に示している。
今後の課題としては、本報告ではその存在の確認に留まった『加賀藩史料』所収の「青地氏由緒」の具体的な内容の読解や、『寛政重修諸家譜』における青地氏の記述の有無とその詳細な確認が挙げられる。これらの一次史料に近い記録をさらに渉猟し、分析することで、青地元珍の加賀藩における具体的な役職や活動、さらには彼の人物像について、より詳細かつ深みのある理解が得られるものと期待される。青地元珍という一武将の生涯を通じて、戦国・近世移行期の歴史のダイナミズムをより鮮明に描き出すことができるであろう。