青山忠俊(あおやま ただとし、天正6年(1578年) – 寛永20年(1643年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、徳川家康、秀忠、家光の三代に仕えた譜代大名である 1 。特に三代将軍・徳川家光の傅役(もりやく、教育係)として、また老中として幕政に参与したが、家光への度重なる諫言により改易され、不遇の晩年を送った人物として知られている。彼の生涯は、近世初期における主君と家臣の複雑な関係、譜代大名の担うべき役割とその苦悩、そして個人の信念と組織の論理との間に生じる葛藤を象徴する事例として捉えることができる。本報告書では、青山忠俊の生涯、その人物像、そして彼が生きた時代の歴史的背景を、現存する史料に基づき詳細に検討する。
青山忠俊は、天正6年(1578年)3月18日(旧暦2月10日)、徳川家康の拠点であった遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)において、青山忠成(ただなり)の次男として生を受けた 1 。幼名は伊勢千代、後に藤蔵、藤五郎と称したと伝えられる 1 。
青山氏は、その出自を辿れば藤原北家師実流の嫡流である花山院家の支流とされ 4 、三河国額田郡百々村(ぬかたぐんどうぞむら、現在の愛知県岡崎市百々町)を発祥とする国人であった 5 。祖父・青山忠門(ただかど)、父・忠成が松平広忠(家康の父)ならびに徳川家康に仕えた譜代の家臣であり、この譜代という立場は、忠俊が若くして徳川政権の中枢に関わる上で重要な素地となった 5 。徳川家からの信頼の基盤であり、忠俊が後に家光の傅役という重責を担う大きな理由の一つと考えられる。また、花山院家という公家の名門の血を引くとされる点は、武家社会における青山家の格式や教養の背景を考察する上で興味深い視点を提供する。
父・青山忠成は、徳川家康の重臣として、江戸幕府の町奉行、関東総奉行、さらには老中を歴任し、常陸国江戸崎藩(現在の茨城県稲敷市江戸崎)の初代藩主となった人物である 5 。家康からの信任は極めて厚く、家康の三男であり後の二代将軍となる徳川秀忠の傅役も務めた 5 。
現在の東京都港区にその名を残す「青山」という地名は、忠成が家康から原宿村(現在の東京都渋谷区原宿)を中心に赤坂の一部から上渋谷村(現在の東京都渋谷区渋谷)にかけての広大な屋敷地を賜ったことに由来すると言われている 5 。この事実は、江戸の都市形成における大名屋敷の役割と、有力な譜代大名の存在感を示す具体例と言えよう。父・忠成の幕府内での高い地位と輝かしい功績は、息子である忠俊のキャリアに大きな影響を与えたことは想像に難くない。父子二代にわたって将軍の傅役を務めるという事実は、青山家がいかに徳川将軍家から深い信頼を得ていたかを如実に物語っている。忠成自身も一時期、内藤清成と共に蟄居を命じられたがすぐに赦免されるという経験をしており 5 、これは幕府初期の権力構造の流動性や、主君の勘気に触れることの危うさを、忠俊にも示唆していた可能性がある。
青山氏の家紋として知られるものの一つに「丸に葉菊草(まるにはぎくそう)」がある。この家紋の由来として、次のような逸話が伝えられている。幼少時の徳川家康(当時は竹千代)が、岡崎の法蔵寺の裏山で美しい花を見つけた。供をしていた忠俊の祖父・青山忠門にその名を尋ねたところ、忠門は「葉菊草にございます」と答えた。すると竹千代はその花を摘んで忠門に渡し、「これを汝の家紋とせよ」と言ったという 8 。この逸話により、「丸に葉菊草」が青山氏の家紋に加えられたとされる。その他、「青山銭紋(あおやまぜにもん)」なども用いられた記録がある 9 。
このような家紋の由来譚は、青山家と徳川家、特に家康との古くからの深い結びつきを象徴的に示すものであり、家の由緒を語る上で重要な意味を持つ。主君からの寵愛や信頼を家中に示すとともに、家臣としての忠誠心を高める効果もあったと考えられる。
父・忠成が徳川家康に仕えていたことから、忠俊もまた、最初は家康に、後に二代将軍・徳川秀忠に仕えることとなる 1 。忠俊自身が記したとされる家譜によれば、7、8歳の頃に秀忠に仕え始め、家康と秀忠が浜松城から駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)へ居城を移す際に同行したとされている 3 。幼少期から将軍継承者である秀忠に近侍した経験は、忠俊の将来のキャリア形成において極めて重要な意味を持った。この秀忠への近侍は、後の家光傅役抜擢への布石であったと考えることもできよう。秀忠との個人的な関係の深さが、後に改易された忠俊が秀忠の死後に再出仕を幕府から請われたものの、これを固辞したという行動の背景にある複雑な心情を理解する鍵となるかもしれない 1 。
青山忠俊の初陣は、天正18年(1590年)の小田原征伐であったと記録されている 1 。この時、主君である秀忠に同行したとされる 3 。武士としての第一歩を印したこの戦いの後、兄である青山忠次が早世したため、忠俊が青山家の嫡子となった 1 。兄の早世がなければ、忠俊の人生は大きく異なっていた可能性があり、嫡子となったことで、父・忠成の後継者として、より大きな責任と期待を負うことになったのである。初陣と嫡子相続は、忠俊が武士として、また青山家の後継者としての道を本格的に歩み始めた重要な出来事であった。
慶長12年(1607年)、忠俊は土井利勝、酒井忠世と共に、徳川家康の孫であり、後の三代将軍となる徳川家光(当時は竹千代)の傅役(守役)に任命された 1 。元和元年(1615年)に家康と秀忠によって正式に任命されたとの記述も見られる 13 。傅役としての忠俊は、家光に対して非常に厳格な教育を施し、将来の将軍としての心構えや振る舞いを徹底的に叩き込んだと伝えられている 7 。その厳しさは、時に若き家光の反感を買い、恨みを買うほどであったという 10 。
家光の将軍継嗣問題においては、乳母である春日局と協力し、家光の擁立に尽力したとされる。家光の弟である忠長(国松丸)を推す声もある中で、忠俊と春日局は渋谷の金王八幡宮に共に熱心に祈願し、後に家光の将軍就任が決定すると、感謝の意を込めて社殿を寄進したという逸話が残っている 2 。この協力関係は、家光の初期の立場が必ずしも盤石でなかったことを示唆しており、傅役としての忠俊の職務に対する忠実さと、主君を育成するという強い使命感がうかがえる。しかし、その厳格な教育方針が、後の家光との不和の遠因となった可能性は否定できない。
元和元年(1615年)には本丸老職に任じられ 1 、翌元和2年(1616年)には老中(当時は一般に老職と称された)に就任した 12 。これにより忠俊は、幕政の中枢に深く関与することになる。酒井忠世、土井利勝と共に若き将軍家光を補佐し、後世「寛永の三輔(かんえいのさんすけ)」と称されることになる 13 。
しかしながら、「寛永の三輔」としての具体的な政策決定への関与や、他の二人との詳細な関係性については、現存する史料からは判然としない部分が多い 13 。忠俊の老中としての具体的な実績よりも、むしろ家光への諫言の方が記録として後世に残りやすいのは、その行動が異例であり、かつ劇的な結果を招いたためであろうと考えられる。「寛永の三輔」という呼称自体が後世のものである可能性も考慮しつつ、当時の幕政運営における彼らの役割を具体的に明らかにすることは、今後の研究課題と言える。
傅役や老中としての文官的な側面が強調されがちな青山忠俊であるが、武将としての側面も持ち合わせていた。慶長19年(1614年)から翌元和元年(1615年)にかけて起こった大坂の陣では、勇戦し、武将としての名を挙げたとされる 13 。忠俊自筆と伝わる家譜には「組中善悪之書付」という記述があり、これは大坂の陣における忠俊自身の戦功をまとめたものと推測されている 3 。また、『青山忠俊伝』には、大坂の陣における忠俊の部隊の奮戦や、忠俊自身が記した戦功録に関する記述が見られる 31 。
これらの記録は、忠俊が単なる教育係や事務方の官僚ではなく、戦場経験を持つ武士であったことを示しており、その後の家光に対する剛直な諫言の際の態度の背景の一つを形成していた可能性が考えられる。具体的な戦闘記録や「青山隊」の活躍については、軍記物や専門的な研究によるさらなる詳細の解明が待たれるところである 30 。
青山忠俊は、傅役や老中としての幕政への参与と並行して、大名としての地位も着実に昇進させていった。慶長8年(1603年)に5,000石を与えられ 1 、慶長15年(1610年)にはさらに5,000石を加増されて合計1万石を領する独立した大名となった 1 。
慶長18年(1613年)、父・忠成の死去に伴い家督を相続し、常陸江戸崎藩2万5千石(父の遺領と合わせて3万5千石であったとする記述もある 13 )の第2代藩主となった 1 。その後、元和6年(1620年)には5万5千石(4万5千石とする記述もある 13 )をもって武蔵国岩槻藩(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)の藩主へと栄転した 1 。この岩槻城主時代には、二代将軍秀忠が日光東照宮への参拝の帰途、忠俊の岩槻城に宿泊したという逸話も残っており、彼のキャリアにおける頂点の一つであったと言える 3 。
忠俊自筆とされる『御拝領地譯書(ごはいりょうちわけがき)』には、下野国鹿沼(現在の栃木県鹿沼市)5千石や常陸江戸崎領1万石などを拝領した経緯が記されており、彼の所領形成の一端をうかがい知ることができる 35 。これらの順調な加増と栄転は、忠俊が幕府内で重要な地位を占めていたことを物語っている。各藩の藩史(例えば『江戸崎町史』、『岩槻市史』、『大多喜町史』など 36 )に忠俊の藩政に関する具体的な記録が残されていれば、藩主としての彼の事績をより詳細に明らかにできるであろうが、現時点では提供された情報からは詳細は不明である。
青山忠俊は、三代将軍・徳川家光に対して、しばしば諫言を繰り返したことが記録されている 2 。その中でも特に有名な逸話として、家光が傅役である忠俊の言うことに不平不満を漏らした際、忠俊は自らの刀を家光の前に置き、「拙者の言うことをお聞き入れくださらないのであれば、まずこの青山の首を刎ねてから、お好きなようになされませ」と迫ったというものがある 7 。この逸話は、山本博文氏監修の『改易・転封の不思議と謎』などでも取り上げられている 7 。
これらの逸話は、忠俊の剛直な性格と、傅役としての強い責任感、そして主君である家光を正しい道に導こうとする真摯な姿勢を浮き彫りにしている。「首を刎ねてから」という言葉は、単なる脅しではなく、自らの命を賭してでも主君を諌めるという、戦国時代以来の武士の覚悟を示すものと解釈でき、これが後の「豪傑」という評価 17 に繋がったと考えられる。
忠俊の諫言は、政治的な事柄に留まらず、家光の私生活や風俗にまで及んだとされる。若い頃の家光は、小姓たちとの男色に耽ったり、若衆歌舞伎に傾倒して派手な格好(一部史料では女装とも解釈できる記述もある 7 )を好んだりしたと伝えられている。これに対し、忠俊は「天下を治めるべき将軍が、かかるはしたない格好をしていては、国の風紀の乱れにつながります」と厳しく忠告したという 7 。
当時の将軍の私生活や個人的な嗜好に対して、家臣がここまで踏み込んで諫言することは異例であり、忠俊の並々ならぬ勇気と、家光の将来に対する深い懸念がうかがえる。これらの行動は、家光の個人的な感情を害しやすく、後の勘気に繋がる直接的な原因の一つとなった可能性が高い。一方で、このような諫言が記録として後世に残ること自体が、忠俊の行動の異例さと、それに対する周囲の関心の高さを示していると言えよう。
元和9年(1623年)10月19日、三代将軍に就任したばかりの徳川家光の勘気を被り、青山忠俊は老中を罷免された 1 。その理由は、家光への度重なる諫言であったとされる 2 。罷免と同時に、それまでの武蔵岩槻5万5千石(または4万5千石)から、上総国大多喜藩(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)2万石へと大幅に減転封された 1 。
『青山忠俊伝』に所収されている「青山家譜」や、幕府の公式記録である「徳川実紀」などを参照しても、勘気の具体的な理由は必ずしも明確ではないものの、「強諫失礼(きょうかんしつれい)」、すなわち度を越した諫言が無礼であったとされたことなどが挙げられている 31 。この「徳川実紀」における具体的な記述内容については、さらなる史料調査が求められる 1 。
さらに追い打ちをかけるように、寛永2年(1625年)には、その大多喜藩も除封(改易)となり、忠俊は完全に大名の地位を失った 1 。その後は、下総国網戸(あじと、現在の千葉県旭市網戸)、相模国溝郷(みぞごう、現在の神奈川県相模原市)、遠江国小林(現在の静岡県浜松市浜名区小林)などを転々とした後、最終的に相模国今泉(現在の神奈川県海老名市上今泉・下今泉、または相模原市南区下溝とも 1 )に蟄居させられた。老中罷免からわずか2年足らずでの完全な失脚は、家光の怒りの激しさと、一度君主の不興を買うことの恐ろしさを如実に示している。減封後、忠俊は大多喜の領地を返上し、何の言い訳もせずに蟄居したという行動 7 は、彼の潔さの表れか、あるいは幕府の決定に対する無言の抗議であったとも解釈できる。
青山忠俊が改易に至った理由については、いくつかの説が挙げられているが、最も有力視されているのは、やはり徳川家光の勘気を被ったことである。
これらの要因が複合的に絡み合った結果、改易という厳しい処分に至った可能性が高い。特に、家光が将軍に就任した直後の出来事であることから、新将軍としての権威確立や、自らにとって意に沿わない重臣を排除するといった政治的な意図も背景にあったのかもしれない。秀忠の死後(寛永9年(1632年))に忠俊が赦免されていること 10 は、秀忠の存在が何らかの影響を及ぼしていた可能性を示唆している。
改易後、青山忠俊は相模国今泉などで十数年に及ぶ蟄居生活を送った 1 。この間、寛永11年(1634年)以降に、幕府への再出仕を許された息子たち、長男の宗俊(むねとし)と次男の宗祐(むねすけ、またはそうゆう)に宛てて手紙を書き送っている。これらの手紙の中で、忠俊は息子たちに対し、普段の生活における心構えや倹約の重要性を説き、特に酒の飲みすぎを戒めつつも、朝食に二杯、昼食に一杯、夕食に二杯、寝る前に二杯といった具体的な許容量を示すなど、興味深い内容も含まれている 10 。手紙の文面からは、長年の蟄居生活による経済的な困窮ぶりや、それでもなお武士としての矜持を失わず、息子たちの将来を案じる父親としての一面がうかがえる 10 。これらの書簡は、忠俊の逆境における価値観や人間性、そして彼の教養の深さを知る上で貴重な史料と言える 53 。
寛永9年(1632年)に大御所・徳川秀忠が死去すると、幕府は忠俊に対して再出仕を要請した。しかし、忠俊はこの申し出を固辞したと伝えられている 1 。この再出仕の辞退は、忠俊の武士としての矜持の表れであったのか、あるいは長年の不遇による幕政への失望感からであったのか、その真意を正確に測ることは難しいが、彼の強固な意志を示す行動であったと言えよう。赦免されてもなお出仕を拒んだことは、単に家光に恨みを抱いていたというだけでなく、自らの信念を貫いた結果としての改易であったという認識、あるいは息子たちの代での青山家再興に望みを託したためかもしれない 55 。
寛永20年(1643年)6月1日(旧暦4月15日)、青山忠俊は蟄居先の相模国にてその生涯を閉じた。享年66(満65歳)であった 1 。
忠俊の墓所は、神奈川県相模原市南区下溝にある曹洞宗寺院の天応院(てんのういん) 1 と、京都府京都市北区紫野大徳寺町の臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である芳春院(ほうしゅんいん) 2 にあるとされる。また、兵庫県丹波篠山市の蟠龍庵(ばんりゅうあん)も青山家の菩提寺の一つとして挙げられている 56 。
天応院は、父・忠成が開基となって創建された、あるいは忠俊が父の菩提を弔うために再興したと伝えられており、青山家とゆかりの深い寺院である 48 。複数の墓所や菩提寺の存在は、彼の生涯の複雑さや、彼を慕う人々が各地にいたことを示唆するのかもしれない。菩提寺である天応院の歴史や、忠俊に関する寺伝、遺品、墓碑銘などを詳細に調べることで、彼の信仰生活や晩年の心境について新たな知見が得られる可能性がある 1 。
青山忠俊の生涯において、徳川家光の傅役としての役割は極めて重要である。彼が家光に施した教育は非常に厳格であり、それが結果として自身の不遇を招く一因となったことは否めない。しかし、その厳格さの根底には、次期将軍を育成するという強い使命感と、家光の将来を深く案じる真摯な姿勢があったと考えられる 7 。
後に家光自身が、忠俊の厳しかった指導が実は自身のためであったことを悟り、そのことを深く後悔したという逸話が伝えられている 16 。この逸話は、忠俊の教育者としての真摯な姿勢が、時間を経てではあるものの、家光によって理解され、評価されたことを示している。忠俊の教育方針は、当時の武家社会における「傅役」の理想像と、現実の人間関係の複雑さ、そして教育の難しさを如実に物語っている。彼の教育が、その後の家光の治世に具体的にどのような影響を与えたのか、あるいは与えなかったのかを考察することは、忠俊の歴史的評価において重要な論点となるであろう。
青山忠俊は、その剛直な性格から「豪傑」と評されることがある 17 。主君である家光を、時には公衆の面前で叱責したとされる行動 17 や、自らの首を賭して諫言したという逸話 7 は、まさに彼の気骨を示すものと言えよう。この剛直さは、父・青山忠成譲りであった可能性も考えられる。忠成もまた、家康に対して臆せず意見具申する人物であったと伝えられているからである 5 。
忠俊のこれらの行動は、単なる頑固さや短気によるものではなく、主君への揺るぎない忠誠心と、武士としての高い矜持に裏打ちされたものであったと解釈できる。しかし、このような人物が、なぜ改易という厳しい処分を受けなければならなかったのか。それは、家光個人の性格や感情だけでなく、将軍の権威が絶対的なものとして確立されていく徳川幕府初期という時代背景において、旧来の主従関係のあり方と、新しい秩序との間に生じた摩擦を表しているのかもしれない 19 。
前述の通り、徳川家光は後に、青山忠俊の厳格な指導が自身を思ってのことであったと悟り、忠俊を不当に罰したことを深く後悔したと伝えられている 16 。この家光の心境の変化は、青山家の将来に大きな影響を与えることになった。
忠俊の死後、その長男である青山宗俊は、父の改易により一時蟄居の身となっていたが、寛永11年(1634年)に赦免され、幕府への再出仕を許された 10 。宗俊はその後、書院番頭、大番頭といった要職を歴任し、旗本から身を起こして信濃国小諸藩3万石の大名へと復帰を果たす 63 。さらに、寛文2年(1662年)には大坂城代に任ぜられ、5万石に加増の上、遠江国浜松藩主となるなど、目覚ましい栄進を遂げた 2 。弟の宗祐もまた出仕を許されている 2 。
息子たちのこのような取り立ては、家光の忠俊に対する後悔の念の表れであると同時に、青山家の能力や幕府への忠誠を再評価した結果とも言えるだろう。忠俊の厳格な教育やその生き様が、息子・宗俊の処世術や幕府への忠誠心にどのような影響を与えたのか、例えば宗俊が残した和歌「一すじに ふた心なく つかえてむ わが孫ひこの 万代までも」 10 などから考察することは、青山家の歴史を理解する上で非常に興味深い。忠俊の悲劇は、結果として息子たちの代での家の再興という形で、ある種の救済を見たと言うことができるのかもしれない 7 。
青山忠俊の生涯は、徳川幕府初期という激動の時代を生きた譜代大名の一つの典型を示している。主君への諫言がいかに困難であり、時としていかなる結果を招くか、そして武士としての矜持を貫くことの意義とは何かを、彼の人生は我々に問いかけてくる。
厳格なる教育者としての一面、剛直なる家臣としての一面、そして不遇の晩年を余儀なくされた悲劇的な側面は、近世初期における武士道や主従関係のあり方を考察する上で、多大な示唆を与えてくれる。彼の評価は、単に「家光に疎まれた家臣」という一面的なものではなく、その揺るぎない忠誠心、教育者としての熱意、そして武士としての気骨を総合的に評価する必要があるだろう。
青山忠俊に関する史料としては、『青山文書』 35 、『青山家過去帳』 6 、そして忠俊自身が筆を執ったとされる家譜 3 などが挙げられる。これらの史料のさらなる分析を通じて、より詳細かつ多角的な忠俊像の解明が期待される。彼の生き様は、現代社会におけるリーダーシップのあり方や、組織内における諫言の重要性といった、時代を超えた普遍的なテーマにも通じるものがあると言えるかもしれない。
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
出来事 |
典拠 |
1578年 |
天正6年 |
1歳 |
遠江国浜松にて青山忠成の次男として誕生。幼名、伊勢千代。 |
1 |
1585年~1586年頃 |
天正13~14年 |
7~8歳 |
徳川秀忠に仕え始める。 |
3 |
1590年 |
天正18年 |
13歳 |
小田原征伐に秀忠に従い初陣。 |
1 |
1595年以前 |
文禄年間 |
- |
兄・忠次早世により嫡子となる。 |
1 |
1600年 |
慶長5年 |
23歳 |
伯耆守を称す。 |
1 |
1603年 |
慶長8年 |
26歳 |
5,000石を与えられる。 |
1 |
1607年 |
慶長12年 |
30歳 |
土井利勝、酒井忠世と共に徳川家光(竹千代)の傅役となる。 |
1 |
1610年 |
慶長15年 |
33歳 |
5,000石を加増され1万石を領する独立大名となる。 |
1 |
1613年 |
慶長18年 |
36歳 |
父・忠成死去。家督を相続し、常陸江戸崎藩主となる(2万5千石または3万5千石)。 |
1 |
1615年 |
元和元年 |
38歳 |
本丸老職となる。大坂の陣に参戦。 |
1 |
1616年 |
元和2年 |
39歳 |
老中(老職)に就任。 |
12 |
1620年 |
元和6年 |
43歳 |
武蔵岩槻藩主となる(5万5千石または4万5千石)。 |
1 |
1623年 |
元和9年 |
46歳 |
10月19日、家光への諫言により老中罷免。上総大多喜藩2万石へ減転封。 |
1 |
1625年 |
寛永2年 |
48歳 |
大多喜藩も除封(改易)され、蟄居の身となる。 |
1 |
1632年以降 |
寛永9年以降 |
55歳~ |
秀忠死後、再出仕の要請があるも固辞。 |
1 |
1634年以降 |
寛永11年以降 |
57歳~ |
息子・宗俊、宗祐に手紙を送る。 |
10 |
1643年 |
寛永20年 |
66歳 |
6月1日(旧暦4月15日)、相模にて死去。 |
1 |
時期 |
藩・領地 |
石高 |
事由 |
典拠 |
慶長8年(1603年) |
(不明、おそらく父の所領内か) |
5,000石 |
拝領 |
1 |
慶長15年(1610年) |
(不明、独立大名となる) |
1万石(5,000石加増) |
加増 |
1 |
慶長18年(1613年) |
常陸国 江戸崎藩 |
2万5千石(または3万5千石) |
家督相続・加増 |
1 |
元和6年(1620年) |
武蔵国 岩槻藩 |
5万5千石(または4万5千石) |
転封・加増 |
1 |
元和9年(1623年) |
上総国 大多喜藩 |
2万石 |
減転封 |
1 |
寛永2年(1625年) |
(なし) |
0石 |
除封(改易) |
1 |
寛永年間 |
下野国 都賀郡鹿沼(家督相続以前の可能性) |
5千石(『御拝領地譯書』による) |
拝領(時期詳細不明) |
35 |
寛永年間 |
常陸国 江戸崎領(一部、同上) |
5千石(同上、初拝領分として) |
拝領(時期詳細不明) |
35 |