本報告は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、徳川家康による天下統一事業を支え、江戸幕府の草創期における安定に多大な貢献を果たした武将、青山忠成(あおやま ただなり)公の生涯と事績、そしてその人物像を、現存する史料に基づき詳細に検証するものである。青山忠成公は、歴史の表舞台で華々しい武功を誇るタイプの武将というよりは、徳川家康の側近として、また江戸幕府の有能な行政官僚として、揺籃期の徳川政権の基盤を地道かつ着実に固めることに心血を注いだ人物であったと見受けられる。本報告では、公の出自から晩年に至るまでの軌跡を辿り、江戸町奉行、関東総奉行、そして老中といった要職を歴任する中で果たした役割を明らかにするとともに、その人物としての深奥に迫ることを試みる。
青山忠成公は、天文20年8月6日(西暦1551年9月6日)に生を受けた 1 。青山氏は、その出自を辿れば藤原北家花山院流を称し、上野国吾妻郡青山郷(現在の群馬県吾妻郡中之条町青山)を発祥の地とする。その後、三河国額田郡百々(どうど)村(現在の愛知県岡崎市百々町)に土着し、百々城を拠点として松平氏に仕えたと伝えられている 3 。特筆すべきは、青山氏が徳川家(安祥松平家)における最古参の譜代家臣七家、いわゆる「安祥譜代七家」の一つに数えられる名門であったという事実である 3 。この出自は、忠成公が主君・徳川家康から寄せられた格別の信頼の源泉であり、その後の幕政における公の発言力や影響力の基盤となった重要な要素であったと考えられる。
青山家の家紋としては、「無字銭(むじせん)」、「葉菊(はぎく)」、そして「丸に葉菊草の花(まるにはぎくそうのはな)」の三つが伝えられている 3 。無字銭は青山銭とも呼ばれ、祖先の師賢が後醍醐天皇から銀銭を賜ったことに由来し、孫の師資が家紋にしたとされる。葉菊は青山菊とも称され、師賢が日月菊花紋の錦の御旗を賜ったことから旗紋とし、二枚の葉を加えて代々の家紋とした。江戸時代には、宗家が菊の花弁を十六枚、分家は十二枚を用いたという。そして「丸に葉菊草の花」は、幼少時の徳川家康(竹千代君)が、供をしていた忠成公の父・忠門に岡崎の法蔵寺裏山で見つけた花の名を尋ね、「葉菊草」との答えを得た後、その花を摘んで忠門に渡し「汝が家紋なり」と述べたという逸話に由来し、青山家と徳川家の古くからの深い絆を象徴するものと言えよう 3 。
忠成公の父、青山忠門(ただかど)は、青山忠世(ただよ)の子であり、松平広忠(家康の父)及び徳川家康の二代にわたり仕えた武将であった 1 。しかし、元亀2年(1572年)、忠門は武田信玄との合戦において討死を遂げる。これにより、忠成公は家督を相続することとなった 1 。父の戦死という悲運に見舞われ、若くして家督を継いだことは、忠成公にとって大きな試練であったに違いないが、同時に主君家康への忠誠心を一層強固なものとする契機となった可能性も否定できない。
忠成公の幼名については、一部史料 5 に「藤蔵(とうぞう)」との記述が見られるが、これは忠成公の四男である青山幸成(よしなり)の幼名である可能性が高いと考察される 3 。忠成公自身の幼名に関する明確な記録は、現在のところ確認されていない。この点については、今後の史料研究の進展が待たれるところである。
通称は「藤右衛門(とうえもん)」と称した 4 。官位については、従五位下に叙せられ、常陸介(ひたちのすけ)、後には播磨守(はりまのかみ)を名乗っている 1 。
青山忠成公の生涯における主要な出来事を以下に略年表として示す。
和暦 |
西暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
備考 |
天文20年8月6日 |
1551年9月6日 |
1歳 |
三河国にて誕生 |
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元亀2年 |
1572年 |
22歳 |
父・忠門戦死、家督相続 |
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天正8年 |
1580年 |
30歳 |
徳川秀忠の傅役(もりやく)に命じられる 4 |
天正13年(1585年)説もあり 4 |
天正12年 |
1584年 |
34歳 |
小牧・長久手の戦いに従軍 10 |
伝令役などを務めたとされる 10 |
天正16年 |
1588年 |
38歳 |
秀忠に従い上洛、従五位下・常陸介に叙任 4 |
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天正18年 |
1590年 |
40歳 |
小田原征伐に従軍 10 。家康の関東移封に伴い江戸町奉行に任じられる 4 |
武蔵国内に5千石を拝領 4 。現在の東京都港区青山に屋敷地を賜る 3 。 |
文禄元年 |
1592年 |
42歳 |
関東総奉行に任じられる(本多正信、内藤清成と共に) 4 。慶長6年(1601年)説もあり 13 。 |
2千石を加増され、計7千石となる 4 。 |
慶長5年 |
1600年 |
50歳 |
関ヶ原の戦いに秀忠軍として従軍、上田城攻めに参加 4 |
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慶長6年 |
1601年 |
51歳 |
常陸国江戸崎1万5千石の大名となる(江戸崎藩初代藩主) 1 。老中に就任 1 。関東総奉行として「郷村掟」発布に関与 13 。 |
8千石を加増される 4 。 |
慶長11年 |
1606年 |
56歳 |
一時蟄居を命じられるが、程なく赦免 1 。播磨守に遷任 1 。1万石を加増され、所領は計2万5千石となる 1 。 |
家康の鷹狩りの際の不手際が原因とされる 8 。 |
慶長18年2月20日 |
1613年4月10日 |
63歳 |
死去 1 |
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青山忠成公は、幼少の頃より徳川家康の近侍として仕え、その忠勤に励んだ 1 。天正8年(1580年) 4 、あるいは天正13年(1585年) 4 には、家康の嫡子である秀忠(後の二代将軍)の傅役(補導役)に任じられている。この傅役という重責は、単に武芸や学問を教授するに留まらず、将来の将軍たるべき人物の人格形成や統治者としての資質の涵養に深く関わるものであり、忠成公が家康から寄せられた信頼の厚さを物語るものである。秀忠公との間に築かれた強固な信頼関係は、後の秀忠政権下における忠成公の立場をより確固たるものにし、幕政運営における円滑な連携に繋がったものと推察される。
天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いにおいては、忠成公は小姓衆の一員として従軍し、主に伝令役などの後方支援任務に従事したと記録されている 10 。また、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐にも家康に従い出陣し、小田原城包囲戦においては見廻組として城の周囲を警固する任にあたった 10 。これらの戦役への参加は、忠成公にとって実戦経験を積む貴重な機会であったと同時に、主君家康の卓越した戦術や戦略を間近で学ぶ研鑽の場でもあったと言えよう。特に伝令や警固といった役目は、戦況全体を的確に把握する能力、細やかな注意力、そして忠実な任務遂行が求められるものであり、これらを通じて培われた資質は、後の行政官としての忠成公の活動に大いに活かされたものと考えられる。
慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いと称される関ヶ原の戦いが勃発すると、忠成公は徳川秀忠が率いる軍勢に従い、中山道を進軍した 4 。その途上、信濃国上田城において真田昌幸・信繁(幸村)親子が籠城するのを攻めたが、真田勢の巧みな戦術により攻略に手間取り、結果として秀忠軍は関ヶ原の本戦に遅参するという失態を演じた 17 。この上田城攻めと遅参に関して、傅役であった忠成公が具体的にどのような行動を取り、いかなる責任を負ったのかについては、現存する史料からは詳らかではない。一部史料 12 には、上田城攻めの際に本陣の制止を振り切って家臣が先駆けしたため、本多正信らにその処罰を求められ、忠成の子(忠俊か)がそれに抗弁したとの記述が見られるが、これが忠成公自身の行動を指すものか、あるいはその子である忠俊の行動に関するものかは慎重な検討を要する。記述内容から判断すれば、これは忠俊の逸話である可能性が高い。
この秀忠軍の遅参は、秀忠にとって将としての評価を大きく損ないかねない重大事であった。傅役であった忠成公も、何らかの形でその責任を問われた可能性は否定できない。しかしながら、その後の忠成公の処遇を見ると、加増を受け老中に就任するなど、家康が忠成公個人の責任を重く見ていなかったか、あるいは忠成公が事態の収拾に何らかの貢献をした可能性が考えられる。この一件は、秀忠の将軍としての成長過程における試練であり、それを側近として支えた忠成公の役割の重要性を示唆している。この苦い経験が、後の秀忠政権下における忠成公の立場を、かえって強固なものにしたという見方もできるかもしれない。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東へ移封されると、忠成公は江戸町奉行という重職に任命された 4 。これは、新たに行政の中心地となる江戸の町の行政・司法を統括する長官であり、草創期の江戸の都市計画や基盤整備に深く関与したことを意味する 11 。
この江戸町奉行就任にあたり、家康は忠成公に対し、現在の東京都港区赤坂から渋谷区の一部にまで及ぶ広大な土地を与えたと伝えられている。当時、その地はまだ雑木林が広がる未開の地であったが、忠成公がそこに屋敷を構えたことから、一帯は「青山」と呼ばれるようになり、その地名は今日まで受け継がれている 3 。この屋敷拝領に関しては興味深い伝説が残されている。ある時、家康が鷹狩りの際に赤坂の高台から西の方を指さし、「馬で一回りしてきた範囲の土地を汝に与えよう」と忠成公に告げた。忠成公はこれを真に受け、馬が力尽きて倒れるまで駆け回り、広大な土地を手に入れたというものである 11 。この逸話は、家康の忠成公に対する信頼の厚さと、当時の土地配分の豪放磊落な一面を物語っている。
江戸町奉行としての忠成公が具体的にどのような都市整備政策を推進したかを示す詳細な史料は現在のところ限定的である 20 。しかし、江戸の枢要な地域に広大な屋敷地を拝領し、その名が地名として残るほどの存在であったことは、忠成公が単なる一奉行以上の影響力を持ち、江戸の初期開発に重要な役割を果たしたことの証左と言えよう。徳川政権の新たな拠点都市建設という壮大な事業において、忠成公が果たした役割の大きさが窺える。
慶長6年(1601年)(一部史料では文禄元年(1592年)ともされる 4 )、忠成公は本多正信、内藤清成と共に初代の関東総奉行に任命された 4 。関東総奉行の職務は、関東八ヶ国(武蔵、相模、上野、下野、常陸、下総、上総、安房)の農村から江戸市中に至る広範な領域の統治を管掌し、旗本や代官の監督にもその権限が及んだ 13 。まさに、江戸幕府成立期における関東地方の統治機構の中核をなすものであった。
その職責において特筆すべきは、慶長8年(1603年)3月27日、内藤清成との連署によって発布された「郷村掟」である 15 。この法令は、関東における御料所(幕府直轄領)と私領(大名・旗本領)の区別を明確にし、領主による不法な行為から百姓を保護する内容を含むものであった。これは、徳川政権が新たな領国経営において、法に基づく秩序の形成と民政の安定を重視していたことを示す重要な法令であり、忠成公がこの重要な法令に連署している事実は、彼が法制の整備にも深く関与していたことを物語っている。
関東総奉行としての忠成公の活動は、広大な関東地方の安定化と、そこに幕府の支配を浸透させる上で不可欠なものであった。本多正信、内藤清成との間には何らかの職務分担があった可能性も考えられるが、現存する史料からはその具体的な内容は明らかではない。ただし、一部史料 13 によれば、青山・内藤の両名には与力や同心が付属していたと記されており、実務面において中心的な役割を担っていた可能性が示唆される。
慶長6年(1601年)頃から、忠成公は本多正信、内藤清成と共に老中として江戸幕府の幕政の中枢を担った 1 。老中は、将軍を補佐し、国政全般を統括する最高職の一つであり、その任に就いたことは、忠成公が家康から絶大な信頼を得ていたことの証左である。
老中としての忠成公が具体的にどのような政策の立案や実行に関与したかについては、残念ながら現存する史料からは詳細を明らかにすることは難しい 22 。しかし、江戸町奉行や関東総奉行といった要職を歴任し、江戸の都市行政や関東地方の広域統治に関する豊富な実務経験を有していた忠成公が、その経験と知見を活かして幕政全般に深く関わったことは想像に難くない。一部史料 23 には、「創設の際、青山忠成が頭となったための称」との記述が見られるが、これが具体的に何を指すのかは不明であり、今後の研究が待たれる。
忠成公が老中として活動した時期は、徳川家康から秀忠へと政権が移行する重要な時期と重なる。両将軍から厚い信頼を寄せられていた忠成公が、この政権移行を円滑に進める上で果たした調整役としての役割は、決して小さくなかったであろう。彼の存在は、江戸幕府初期の制度疲弊を防ぎ、安定した統治体制を確立する上で、極めて重要な意味を持っていたと考えられる。忠成公のキャリアは、戦国時代の武功派の武将から、泰平の世を治める行政官僚へと役割を変化させていった譜代家臣の一つの典型であり、江戸幕府の官僚機構が形成されていく過程において、彼がその一翼を担った人物として評価することができよう。
順風満帆に見えた忠成公の経歴にも、一つの転機が訪れる。慶長11年(1606年)、徳川家康の鷹狩りの際、獲物を捕らえるために用いられる縄が不適切に打ち捨てられていたことが家康の目に留まり、その管理責任を問われる形で、同僚の内藤清成と共に一時蟄居を命じられたのである 1 。この件は秀忠の耳にも達し、詮議の結果、忠成公と清成の責任とされたと伝えられている 8 。
この蟄居事件は、些細な不手際が家康の逆鱗に触れたという表面的な理由だけでなく、当時の幕府内部における権力バランスや、家康の家臣団に対する厳格な統制の一端を示すものとして解釈することも可能であろう。あるいは、老中間の勢力争いや、家康の側近たちの力学が複雑に絡み合っていた可能性も否定できない。本来であれば重罪に処せられるべきところを、本多正信の取りなしによって蟄居という比較的軽い処分で済んだとされている事実は 8 、そうした背景を窺わせる。
なお、史料によっては忠成公の子である青山忠俊が三代将軍家光の勘気を被り蟄居した際の記述 24 と混同されやすいが、慶長11年の忠成公の蟄居とは明確に区別する必要がある。
幸いにも、忠成公の蟄居は一時的なものであり、程なくして赦免された 1 。そればかりか、同年(慶長11年)には、家康の十男である長福丸(後の紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣)が常陸介に叙任されたことに伴い、それまで常陸介を名乗っていた忠成公は播磨守に遷任した 1 。さらに同年、1万石を加増され、所領は合計2万5千石となった 1 。
蟄居後すぐに赦免され、さらに加増まで受けている点は、家康の忠成公に対する評価が根本的に揺らいではいなかったこと、あるいはこの蟄居が一時的な懲戒としての意味合いが強かったことを示唆している。播磨守への遷任も、官位の上では大きな変動ではなく、実質的な影響は限定的であったと考えられる。
その後も幕政に重きをなした忠成公であったが、慶長18年2月20日(西暦1613年4月10日)、63歳(数え年)でその生涯を閉じた 1 。
忠成公の墓所については、いくつかの説が伝えられている。一部史料 5 によれば、東京都港区青山にある梅窓院(長青山宝樹寺)と高野山金剛峯寺奥之院が挙げられている。しかし、梅窓院は忠成公の四男である青山幸成が寛永20年(1643年)に建立した寺院であり 6 、忠成公自身の直接の墓所であるかについては慎重な検討が必要である。青山家の菩提寺として、後に分骨されたり、一族の墓として合祀されたりした可能性は考えられる。また、別の史料 10 には、「江戸の菩提寺、あるいは三河国岡崎の大樹寺周辺に拙者の墓所が残るとされる」との記述も見られる。大樹寺は松平氏・徳川氏の菩提寺であり 30 、譜代の重臣である忠成公の墓所が存在する可能性も否定できないが、これを裏付ける確定的な史料は現在のところ確認されていない 31 。墓所に関する情報が複数存在し、確定的なものが少ないのは、後世の記録や伝承が混在しているためと考えられる。
なお、忠成公は慶長18年(1613年)に死去しているため、その翌年から始まる大坂の陣(冬の陣・夏の陣)には参加していない 33 。一部史料で青山氏の大坂の陣における戦功に言及があるのは 14 、忠成公の子である忠俊らの活躍を指すものと解釈されるべきである。
青山忠成公の具体的な性格や人となりを直接的に示す一次史料は、残念ながら多くは残されていない。しかし、その生涯の軌跡や、徳川家康・秀忠父子から寄せられた厚い信頼は、公の人となりを推し量る上で重要な手がかりとなる。幼少期から家康の近侍として仕え、その信頼が揺るがなかった事実は 4 、忠成公が篤実な忠誠心と高い実務能力を兼ね備えた人物であったことを示唆している。
一部の記述 10 (創作の可能性も否定できないが、人物像の一つの解釈として参考になる)によれば、忠成公は主君への忠誠を第一とし、民を慈しみ、公正な政を行うことを常に心掛けていた人物として描かれている。「城を守るは、民を守るなり」という信条や、「我が生涯、悔いなし。ただ主君家康公の御恩に報いきれなかったことが心残り」といった言葉は、まさに忠臣としての鑑のような姿を彷彿とさせる。また、三河譜代の家臣として、華々しい個人的な栄達を求めるよりも、家と主君への忠誠を重んじた人物であったとの評価も見られる 10 。
家康・秀忠の二代にわたり傅役を任され、江戸幕府初期の重要政策の決定と実行に深く関与した事実は、忠成公が単なる忠義者であるだけでなく、高い見識と実務能力、そして複雑な人間関係を調整するバランス感覚をも持ち合わせていたことを物語っている。
忠成公と徳川家康・秀忠父子との間の深い信頼関係を物語る逸話はいくつか残されている。
前述した、現在の東京都港区「青山」の地名を賜った際の、家康との鷹狩りの逸話 11 は、家康の気前の良さを示すと同時に、忠成公への並々ならぬ信頼と期待の大きさを感じさせる。
また、青山家の家紋の一つである「丸に葉菊草の花」が、幼少の家康(竹千代君)から忠成公の父・忠門に与えられたという逸話 3 も、青山家と徳川家の古くからの深い繋がりと、代々にわたる忠誠を象徴するエピソードとして興味深い。
さらに、秀忠の傅役として、秀忠が上洛した際に随行した記録も残されている 4 。当時の公家である山科言経の日記『言経卿記』には、秀忠に挨拶した言経が、傅役である忠成公にも扇子を贈ったとの記述があり 36 、これは当時の忠成公が秀忠の側近として重要な立場にあったことを示している。
これらの逸話は、単なる主従関係という言葉だけでは言い表せない、家康や秀忠と青山家(忠成公を含む)との間の個人的な信頼関係や親密さを示唆している。特に傅役としての深い関わりは、後の幕政運営における円滑な連携と、徳川政権の安定に大きく寄与したと考えられる。
青山忠成公は、江戸町奉行、関東総奉行、そして老中という、江戸幕府初期における極めて重要な役職を歴任し、江戸の都市整備、関東地方の広域統治、そして幕府初期の法制度や行政機構の確立に多大な貢献を果たした 4 。
特に、関東総奉行として内藤清成と共に発布した「郷村掟」 15 は、幕府直轄領と私領の区別を明確にし、農民保護の観点も盛り込むなど、江戸幕府初期の地方支配の基本方針を示す画期的な法令であった。これは、徳川政権が武力による支配だけでなく、法に基づく秩序形成と民政の安定を重視していたことを示すものであり、忠成公がそうした幕府の基本政策の形成と実行に深く関与していたことを物語っている。
忠成公の活動は、戦国時代の武断政治から、江戸時代の文治政治へと移行する歴史の大きな転換点において、その移行を円滑に進める上で不可欠なものであったと言える。彼のような譜代家臣が、軍事面だけでなく、行政官僚としても優れた能力を発揮したことが、江戸幕府の長期安定の礎を築く上で大きな力となったのである。近年の研究においては、忠成公個人に焦点を当てた詳細な分析は必ずしも多くないものの 16 、彼が関与した政策や制度は、江戸幕府の統治システムの原型を形作る上で重要な意味を持っていたと評価できる。
青山忠成公の死後、家督は次男の忠俊(ただとし)が継いだ 1 。忠俊もまた父同様に徳川家に仕え、老中にまで昇進したが、三代将軍家光の勘気を被り一時蟄居させられるなど、波乱に満ちた生涯を送った 9 。この忠俊の蟄居は、父・忠成が慶長11年に経験した蟄居と混同されやすいため、注意が必要である。
青山家はその後も譜代大名として存続し、忠成公の宗家は丹波国篠山藩主として、また忠成公の四男・幸成の系統である分家は美濃国郡上藩主として、それぞれ明治維新を迎えた 3 。明治維新後には、篠山藩青山家と郡上藩青山家はそれぞれ子爵に列せられ、華族の一員となった 3 。
そして何よりも、東京都港区の「青山」という地名は、忠成公が徳川家康から広大な屋敷地を拝領したことに由来し、今日までその名を留めている 3 。これは、歴史上の人物が後世に与える影響の大きさを具体的に示す顕著な事例と言えよう。青山家が譜代大名として幕末まで存続し、華族にも列せられたことは、初代である忠成公が築き上げた徳川家への貢献と、それに対する主君からの信頼がいかに大きなものであったかを如実に物語っている。
青山忠成公は、徳川家康による天下統一事業を間近で支え、江戸幕府の草創期における政治的・社会的安定に大きく貢献した傑出した武将であり、同時に優れた行政官僚であった。その生涯と業績は、戦国乱世から泰平の世へと移行する激動の時代において、譜代家臣がいかにして新たな統治体制の中で自らの役割を見出し、主家と国家に貢献していったかを理解する上で、極めて貴重な事例と言える。
公は、江戸町奉行として首都江戸の初期整備に尽力し、関東総奉行として広大な関東地方の民政安定と支配体制の確立に努め、さらに老中として幕政の中枢に参画し、揺籃期の江戸幕府の基盤を固める上で不可欠な役割を果たした。特に「郷村掟」の発布などに見られる法制整備への関与は、武力のみに頼らない、法と秩序に基づく新たな時代の統治様式への移行を象徴するものであった。
しかしながら、現存する史料には限りがあり、老中としての具体的な政策立案への詳細な関与や、同時代の人々からの具体的な人物評など、未だ明らかにされていない点も多く残されている。これらの点については、今後の新たな史料の発見と、より詳細な研究の進展が待たれるところである。特に、青山忠成公個人の書状や日記といった一次史料が発見されれば、その思想や具体的な行動、そして人間としての深奥について、より一層の理解が得られるであろう。丹波篠山藩青山家や美濃郡上藩青山家に関連する資料を所蔵する青山歴史村 9 や郡上市歴史資料館 40 などに、未だ光の当てられていない忠成公に関する情報が含まれている可能性も否定できない。
青山忠成公が歴史に残した足跡は、単に一武将、一官僚の功績に留まらない。それは、新たな時代を築き上げるために不可欠であった、忠誠心、実務能力、そして先見性を備えた人物の生き様そのものであり、現代に生きる我々にとっても多くの示唆を与えてくれるものである。