最終更新日 2025-05-31

酒井忠次

酒井忠次

酒井忠次:徳川家康を支えた徳川四天王筆頭

1. はじめに

酒井忠次(さかいただつぐ、1527年~1596年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、徳川家康の天下取りを草創期から支えた最重要家臣の一人である 1 。家康よりも15歳年長であり、家康の父・松平広忠の代から松平家に仕え、家康が幼少期に今川家の人質として駿府へ赴いた際にも同行するなど、その生涯を通じて家康と深い関わりを持ち続けた 2 。この年齢差と、主君の苦難の時代を共に過ごした経験は、家康が忠次に寄せた深い信頼の基盤となったと考えられる。

忠次は、「徳川四天王」の筆頭としてその武勇を知られるが、その役割は単なる武将に留まらなかった。重要な合戦における指揮官としての卓越した能力はもとより、外交交渉や家臣団のまとめ役としても非凡な才能を発揮した 5 。さらに、宴席では「海老すくい」なる芸を披露して場を和ませるなど、多岐にわたる側面を持っていたことも記録されている 7 。戦場での勇猛さと、政治・外交における冷静沈着さ、そして家臣団の融和を促す人間力を兼ね備えていたことは、戦国乱世を生き抜き、主君を支える上で極めて重要な資質であったと言えよう。

また、忠次が家康の叔母にあたる碓井姫を正室に迎えたことは 1 、単なる主従関係を超えた、血縁による強固な結びつきを徳川家との間にもたらした。これは、家康が譜代の家臣を重視する中でも、忠次を特別な存在として扱った一因と考えられる。この姻戚関係は、他の家臣に対する忠次の優位性や発言力を補強し、家康の家臣団統制にも寄与した可能性がある。

本報告書は、酒井忠次の生涯、功績、人物像、そして歴史的評価を、現存する資料に基づいて多角的に明らかにすることを目的とする。特に、主要な合戦における具体的な役割、家康との主従関係を超えた絆、松平信康事件への関与とその影響、晩年の動向、そして彼の子孫が築いた家の繁栄について詳細に検討する。報告の構成は、忠次の出自から晩年、そして後世における評価へと、時系列とテーマを組み合わせて展開していく。

2. 酒井忠次の出自と初期の経歴

酒井忠次は、1527年(大永7年)、三河国額田郡井田城(現在の愛知県岡崎市)において、松平氏譜代の家臣であった酒井忠親(さかいただちか)の次男として生を受けた 1 。酒井氏は、松平氏(徳川氏)の祖とされる松平親氏の子である酒井広親を始祖とすると伝えられ、徳川家とは血縁関係にあったともされる 1 。酒井氏には雅楽頭家(うたのかみけ)と左衛門尉家(さえもんのじょうけ)の二つの主要な系統があり、忠次はこの左衛門尉家の出身であった 11 。その生誕地である井田城は、岡崎城の北方約2キロメートルに位置し、岡崎城の防衛拠点の一つとしての役割を担っていた 9 。現在、城跡は城山公園として整備されている 13

忠次は、父・忠親の死後、わずか10歳で家督を継承したとされ 1 、幼少の頃より松平広忠(徳川家康の父)に仕えた 1 。1549年(天文18年)に広忠が亡くなり、その子である竹千代(後の徳川家康)が幼くして松平家の当主となると、忠次は岡崎城にあって、幼い竹千代に代わって松平領の統治を行う重臣の一人として名を連ねた 1 。その後、竹千代が今川義元の人質として駿府へ赴く際には、忠次もこれに同行し、同行した家臣の中では最年長(23歳)であったという 3 。この経験は、若き日の家康にとって、忠次が単なる家臣ではなく、頼れる兄のような存在となる素地を形成した可能性が考えられる。その器量は早くから認められており、今川義元からも「岡崎のことは酒井忠次に相談するように」と高く評価されていたと伝えられている 1

酒井氏が松平氏(徳川氏)の最古参の譜代であり、かつ血縁関係も有していたという事実は、忠次に寄せられる期待の大きさと、彼が負うべき責任の重さを示唆している 1 。家康の人質時代に最年長として同行したことは、その象徴的な出来事と言える。譜代筆頭としての立場は、他の家臣に対する模範となり、家臣団を牽引する役割を期待されることを意味し、この初期の経験と評価が、後の徳川四天王筆頭という地位に繋がる基盤となった。

忠次の武将としての初期の功績として特筆されるのが、福谷城(うきがいじょう、現在の愛知県みよし市)の戦いである。弘治2年(1556年)、織田信長の重臣である柴田勝家が2000騎とも言われる軍勢を率いて福谷城を攻撃した際、城主であった忠次は城から打って出て応戦し、激戦の末にこれを撃退したと記録されている 1 。これが忠次の初陣であったとも言われ、この戦いでの積極果敢な姿勢は、彼の武将としての勇猛さを示すものと言える。福谷城は三河と尾張の国境に位置し、当時勢力を拡大しつつあった織田家の攻撃を防ぐための重要な拠点であった 1 。この勝利は、単なる一武将の武功に留まらず、織田家屈指の猛将・柴田勝家を退けたという点で、松平(徳川)家の武威を示し、今川家内での家康の立場を間接的に強化する効果もあった可能性がある。

表1:酒井忠次 略年表

年代(西暦)

元号

年齢

主な出来事

出典

1527年

大永7年

1歳

三河国井田城にて酒井忠親の次男として誕生

1

1537年頃

天文6年頃

10歳

父・忠親死去に伴い家督を継承

1

1549年

天文18年

23歳

松平広忠死去。竹千代(家康)が今川の人質として駿府へ赴く際に同行

1

1556年

弘治2年

30歳

福谷城の戦いで柴田勝家軍を破る

6

1560年

永禄3年

34歳

桶狭間の戦い後、松平元康(家康)に従い岡崎城へ帰還

1

1561年

永禄4年

35歳

松平元康の叔母・碓井姫と結婚

1

1563年

永禄6年

37歳

三河一向一揆で元康に忠節を尽くす

1

1564年

永禄7年

38歳

吉田城を攻略し城主となる。東三河の旗頭となる

1

1570年

元亀元年

44歳

姉川の戦いに従軍し戦功をあげる

1

1572年

元亀3年

46歳

三方ヶ原の戦いで敗走後、「酒井の太鼓」(空城計)で武田軍の追撃を断念させる

1

1575年

天正3年

49歳

長篠の戦いで鳶ヶ巣山砦奇襲作戦を成功させる

1

1584年

天正12年

58歳

小牧・長久手の戦いにおける羽黒の戦いで森長可軍を破る

5

1586年

天正14年

60歳

家康に従い上洛。豊臣秀吉より近江に1,000石を与えられる。従四位下左衛門督に叙任

14

1588年

天正16年

62歳

眼病のため隠居。家督を家次に譲り、京都桜井屋敷に隠棲

2

1596年

慶長元年

70歳

10月28日、京都桜井屋敷にて死去

6

3. 徳川家康の重臣としての台頭

1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件は、松平元康(後の徳川家康)の運命を大きく変える転機となった。元康は今川氏の束縛から離れ、岡崎城へ帰還を果たし 1 、忠次もこれに従った。この時期から、忠次は徳川家の家老としての地位を確固たるものとし、主君の新たな船出を支える中心人物の一人となっていく 6 。元康が今川氏からの完全な独立を模索し、将来の進路を定める上で重要な局面において、忠次は尾張の織田信長との同盟締結を強く進言したと伝えられている 16 。これは、急速に衰退しつつあった今川氏と、飛躍的な勢力拡大を見せていた織田氏の将来性を見極めた、忠次の優れた戦略的判断を示すものと言えよう。

しかし、独立への道は平坦ではなかった。1563年(永禄6年)には、三河国において一向宗門徒による大規模な一揆(三河一向一揆)が勃発する。この一揆は、松平家の家臣団をも二分する深刻な内乱であり、家康の支配基盤を揺るがす最大の危機の一つであった。松平家の重臣の中にも一向宗側に与する者が現れ、忠実であるべき酒井家からも松平家に敵対する者が出るという厳しい状況であった 1 。このような混乱の中にあって、忠次は一貫して家康への忠義を貫き、3ヶ月余りにわたって続いた50回以上にも及ぶとされる合戦において、常に先駆けとなって奮戦した 1 。この危機的状況における忠次の揺るぎない忠誠心は、家康の彼に対する信頼を一層強固なものにしたに違いない。この「裏切らない」という実績は、猜疑心が渦巻く戦国時代において、主君からの絶対的な信頼を得るための最大の要素であり、忠次が家康の片腕として重用され続ける直接的な原因となった。

一向一揆鎮圧後、1564年(永禄7年)、忠次は三河国吉田城(現在の愛知県豊橋市)を戦闘を行わずに開城させるという功績を挙げ、その功により吉田城主に任命された 1 。吉田城は東三河地域における戦略的要衝であり 19 、忠次がこの地の統治を任されたことは、家康の彼に対する絶大な信頼を示すものであった。忠次はこの吉田城の改築を行い、城域を拡大したとされている 18 。さらに、忠次は東三河の旗頭(はたがしら)、すなわちこの地域の国人衆や松平一族を束ねるリーダーとしての役割を担うことになった 1 。一方で、西三河(岡崎を中心とする地域)は石川数正がそのまとめ役を担っており、東西三河における一種の分担統治体制が敷かれたことがうかがえる 11 。今川氏の影響力が依然として残る東三河を確実に掌握し、徳川家の支配基盤を固めるためのこの戦略的人事は、忠次の武略と統率力への家康の大きな期待が込められていたと言えよう。この東三河の安定が、後の遠江侵攻や武田氏との長期にわたる戦いにおいて、徳川家の背後を固める上で重要な役割を果たしたことは想像に難くない。

家康との個人的な絆をさらに深める出来事として、1561年(永禄4年)に、忠次が家康の叔母にあたる碓井姫(うすいひめ)を正室に迎えたことが挙げられる 1 。碓井姫は、家康の祖父である松平清康の娘であり、家康の父・広忠の妹、あるいは家康の母・於大の方の異父妹であったとも伝えられている 3 。いずれにせよ、この婚姻により、忠次は家康と血縁関係で結ばれることとなり、単なる主従関係を超えた強固な絆が形成された。これは、家康が譜代の家臣を重視する中でも、忠次を特別な存在として扱ったことの証左であり、この姻戚関係は、他の家臣に対する忠次の優位性や発言力を補強し、家康の家臣団統制にも寄与した可能性がある。

図1:酒井忠次 関係略系図

Mermaidによる家系図

graph TD A[松平清康] --> B(松平広忠); A --> C(碓井姫); B --> D[徳川家康]; E[酒井忠親] --> F(酒井忠次); F -- 妻 --> C; F --> G[酒井家次]; D -. 主君.- F; F -. 義理の叔父.- D; subgraph 酒井家 E F G end subgraph 徳川家/松平家 A B C D end
  • 注:碓井姫は松平広忠の妹、または松平清康の娘で於大の方の異父妹など諸説あり、ここでは代表的な関係性を示した。

4. 主要な合戦における活躍

酒井忠次は、徳川家康の主要な合戦のほとんどに参加し、その武勇と知略をもって数々の武功を挙げた。

姉川の戦い(1570年)

元亀元年(1570年)、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突した姉川の戦いにおいて、忠次は徳川軍の先鋒の一翼を担い、奮戦して戦功を立てたと記録されている 1。この戦いは、徳川家康にとって、織田信長との同盟関係の重要性を再認識するとともに、その武威を近江の地に示した重要な戦いであった。忠次の活躍は、徳川軍の勝利に貢献し、家康の信頼をさらに厚くした。

三方ヶ原の戦い(1572年)と「酒井の太鼓」(空城計)の逸話

元亀3年(1572年)、甲斐の武田信玄率いる大軍と徳川家康軍が遠江国三方ヶ原で衝突した。この戦いで徳川軍は壊滅的な大敗を喫し、家康自身も命からがら浜松城へと逃げ帰るという最大の危機に陥った。武田軍の追撃が迫る中、浜松城内は混乱と絶望に包まれていた。この絶体絶命の状況において、酒井忠次は驚くべき策を講じた。城の大手門を開け放ち、多数のかがり火を焚かせ、そして自ら城の櫓に登り、太鼓を打ち鳴らし続けたのである 1。これは、中国の兵法にも見られる「空城の計」であり、あえて無防備を装うことで敵に伏兵の存在を疑わせ、警戒させる高等な心理戦術であった。

果たして、追撃してきた武田信玄は、浜松城のこの異様な様子を見て罠ではないかと疑い、追撃を断念して兵を引き返したと伝えられている 1 。この忠次の機転と大胆不敵な行動が、家康の九死に一生を得る結果に繋がったというこの逸話は、「酒井の太鼓」として後世に語り継がれ、歌舞伎の演目になるほど有名になった 1 。この出来事は、忠次の冷静な判断力、大胆な決断力、そして何よりも主君を救うための献身的な姿勢を象徴するものとして高く評価されている。

長篠の戦い(1575年)と鳶ヶ巣山砦奇襲作戦

天正3年(1575年)、武田信玄亡き後、その後を継いだ武田勝頼が率いる大軍が三河長篠城を包囲した。織田信長は家康の救援要請に応じ、大軍を率いて設楽原に着陣、ここに織田・徳川連合軍と武田軍との一大決戦の舞台が整った。この長篠の戦いにおいて、酒井忠次は戦局を大きく左右する重要な役割を果たすことになる。

軍議の席上、忠次は武田軍本隊の後方に位置し、長篠城への補給路を抑えている鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)への奇襲攻撃を進言した 1 。この作戦は、成功すれば武田軍の背後を脅かし、長篠城を解放できる可能性を秘めていたが、同時に危険も伴うものであった。興味深いことに、この提案に対し、織田信長は当初「田舎侍の考えそうな作戦だ」と一笑に付し、一度は却下したと伝えられている 1 。しかし、軍議の後、信長は密かに忠次を呼び出し、先の言動は作戦の情報漏洩を防ぐための芝居であったことを明かし、奇襲部隊の指揮を忠次に任せたという 1 。この逸話は、信長が同盟者である家康の家臣の能力を試す、あるいは情報漏洩を極度に警戒する信長特有の性格と、それに対応する忠次の冷静さを示している。

忠次は金森長近、佐藤方政ら織田勢の援軍を含む約4000の兵(資料により兵数に差異あり)を率い、夜陰に紛れて密かに出陣。険しい山道を踏破し、翌早朝、鳶ヶ巣山砦をはじめとする武田方の複数の砦を奇襲した 1 。不意を突かれた武田軍は混乱し、砦は次々と陥落。この奇襲により長篠城は解放され、さらに武田軍の退路を脅かすことに成功した。この鳶ヶ巣山砦の陥落は、設楽原の本戦における武田軍の動揺を誘い、織田・徳川連合軍の歴史的な大勝利に大きく貢献した。戦後、織田信長は忠次のこの功績を「背に目を持つごとし」(まるで背中に目が付いているかのように状況を見通している)と絶賛したと伝えられている 1 。この長篠の戦いにおける鳶ヶ巣山奇襲作戦は、忠次の卓越した戦術眼と大胆な実行力を示す代表的な事例として、彼の武名を不動のものとした。

小牧・長久手の戦い(1584年)(羽黒の戦いなど)

天正12年(1584年)、織田信長亡き後の覇権を巡り、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と徳川家康・織田信雄連合軍が衝突した小牧・長久手の戦いが勃発した。この戦役においても、酒井忠次は重要な局面で活躍を見せる。緒戦の一つである羽黒の戦いでは、秀吉方についた勇将・森長可の軍勢に対し、忠次は早朝に奇襲を敢行し、これを打ち破って勝利を収めた 5。この戦いでは、夜明けとともに森軍本陣を急襲し、さらに榊原康政らの別動隊を編成して湿地帯を巧みに迂回させ、森軍の後方に回り込ませて挟撃するという、周到かつ大胆な戦術を用いたと記録されている 26。

この羽黒の戦いでの勝利は、徳川軍の士気を大いに高め、戦線全体の優位性を印象づける上で重要な意味を持った。家康はこの戦いにおける忠次の功績を称え、太刀を拝領したと伝えられている 2 。三方ヶ原の戦いにおける空城計、長篠の戦いにおける鳶ヶ巣山奇襲、そしてこの小牧・長久手の戦いにおける羽黒の戦いでの早朝奇襲など、忠次はしばしば敵の意表を突く戦術で戦局を有利に導いている。これは、彼が定石に囚われない柔軟な発想と、リスクを恐れない大胆な決断力を持ち合わせていたことを示している 5 。これらの戦術は、しばしば兵力で劣る徳川軍が強大な敵と渡り合う上で不可欠な要素であったと言えるだろう。

5. 徳川家臣団における役割と人物像

酒井忠次は、徳川家臣団の中で抜きん出た存在であり、その役割は多岐にわたった。

徳川四天王筆頭としての立場と家康の信頼

酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の四人は、後世「徳川四天王」と称され、家康の天下取りを支えた功臣としてその名を残している 1。忠次は、この四天王の中でも最年長であり、家康がまだ松平元康と名乗っていた若い頃から、あるいはそれ以前の幼少期から最も早く仕えていたことから、その筆頭格と見なされている 1。

家康からの信頼は絶大であった。まだ家康が今川家の人質であった頃、今川義元が「岡崎のことは酒井忠次に相談するように」と述べたとされる逸話は 1 、若き忠次の器量が既に周囲に認められていたことを示している。家康自身も、忠次を最も頼りにした家臣の一人としており 3 、その関係は単なる主従を超えたものであった。家康にとって忠次は、戦場経験豊かな年長の家臣であると同時に、正室・碓井姫を通じて義理の叔父にもあたり、公私にわたって頼りになる存在であった 3

忠次は、対外的には人当たりの良さを発揮し、外交交渉においてもその手腕を発揮したとされ 5 、家臣団の最年長者として、若手の指導や育成にもあたった 31 。例えば、気性の激しいことで知られた井伊直政と、同じく若手の実力者であった榊原康政との間に生じた軋轢を取り持ち、両者を和解させ、後には親友と言えるほどの関係に修復させたというエピソードは 6 、忠次の人間関係調整能力の高さを示している。

石川数正との関係と役割分担

石川数正もまた、酒井忠次と並んで「徳川二之重臣」と称され、家康を支える屋台骨のような存在であった 11。しかし、序列としては忠次が筆頭であり、数正はそれに次ぐ立場であったと認識されている 20。三河国統一後の領国経営においては、忠次が東三河の旗頭として新しく支配下に入った地域のまとめ役を担ったのに対し、数正は岡崎を中心とする旧来の支配地域である西三河のまとめ役を担うという役割分担がなされていた 11。新領地の統治は旧領地のそれよりも困難が伴うことが多く、この人事は忠次の能力への高い評価を物語っている。石川数正は家康の幼い頃からの親しい友人でもあったが、天正13年(1585年)に突如として豊臣秀吉のもとへ出奔するという事件を起こす 32。この重臣の離反は徳川家中に大きな衝撃を与えたが、結果として、残った忠次の存在は家康にとってますます重要になったと考えられる 30。

忠次は、単に軍事・政治の最高幹部であるだけでなく、家臣団内部の人間関係を調整し、組織全体の結束力を高める「要石」のような役割を担っていた。特に、石川数正の出奔という家臣団の動揺を招く事件の後、彼の存在意義はさらに増したと言えるだろう。徳川家臣団は「三河武士」としてその勇猛さで知られるが、その中には気性の荒い者や功名心に逸る若手も多かったと想像される。忠次のような年長で経験豊富な重臣が、彼らを宥め、指導し、時には対立を仲裁する役割は、組織の安定と発展に不可欠であった。

外交交渉における手腕

忠次は武勇だけでなく、外交交渉においても優れた能力を発揮した。永禄12年(1569年)、武田信玄が今川氏真の領国である駿河国へ侵攻を開始した際、徳川氏と武田氏は今川領を分割する密約を結んだが、この重要な交渉において忠次は徳川方の代表として武田方との折衝を担当した 11。また、長篠の戦いの後には、家康と織田信長との間の交渉を一手に任されるようになったとも伝えられている 33。これらの事実は、忠次が単に戦場での指揮に長けているだけでなく、複雑な政治状況を読み解き、国益をかけた交渉をまとめ上げる高度な外交能力と政治的判断力を備えていたことを示している。

「海老すくい」の逸話とその背景

酒井忠次の人物像を語る上で欠かせないのが、「海老すくい」という宴会芸の逸話である 7。忠次はこの踊りを得意としていたとされ、様々な場面で披露されている。例えば、三方ヶ原の戦いで大敗し意気消沈する将兵たちを励ますため、家康の命令でこの踊りを披露した際には、その滑稽な様に一座は笑いに包まれ、武田軍への恐怖もいつの間にか消え去ったという 7。また、長篠の戦いの前夜、鳶ヶ巣山奇襲作戦の成功を確信した織田信長が、その報告に喜んで酒宴を開き、忠次に「海老すくい」を所望したという記録もある 7。さらに、家康が小田原の北条氏政・氏直親子と会見した際にも、もてなしの一環として忠次がこの踊りを披露したとされる 7。

この「海老すくい」が具体的にどのような踊りであったかは正確には伝わっていないが、現代でいう「どじょうすくい踊り」のような、ユーモラスで珍妙な所作を含むものであったと推測されている 7 。この逸話は、酒井忠次が戦場では厳格で勇猛な武将であった一方で、平時や宴席では場を和ませるユーモアや人間的な魅力も持ち合わせていたことを示しており、彼の多面的な人物像を今に伝えている 6

「海老すくい」の逸話は、単なる余興として片付けられるものではなく、より深い意味合いを持っていた可能性がある。敗戦後や決戦前という極度の緊張状態において、笑いは兵士たちのストレスを軽減し、精神的な安定をもたらす。これは現代の心理学においても認められる効果である。また、信長や北条氏政といった他の有力大名の前で披露された際には、徳川家の家臣団の結束の固さや、主君を楽しませる余裕のある文化的な側面をアピールする効果もあったかもしれない。忠次がこの芸を「得意」としていたことは、彼が自身の役割を自覚し、状況に応じてこうしたパフォーマンスを効果的に用いていた可能性を示唆する。これは、彼の状況判断能力と人間関係構築能力の高さを示すものと言えるだろう。

6. 松平信康事件との関わり

天正7年(1579年)、徳川家康の嫡男である松平信康とその母(家康の正室)である築山殿が、武田氏への内通を疑われ、織田信長の強い要求により、築山殿は殺害され、信康は二俣城で自刃に追い込まれるという悲劇的な事件(松平信康事件、または信康切腹事件)が発生した。この事件は、徳川家の将来を揺るがしかねない重大事であり、酒井忠次も深く関わることとなった。

事件の発端は、信康の正室であり織田信長の娘である徳姫が、信康の素行の悪さや築山殿の武田氏内通疑惑などを12ヶ条にわたって書き連ねた訴状を父・信長に送ったことによるとされる 37 。この訴状を受け取った信長は、同盟者である家康に対し真相の究明と厳しい対応を求めた。この重大な局面において、家康の使者として信長のもとに派遣され、弁明にあたったのが酒井忠次であった 37

しかし、通説によれば、信長から徳姫の訴状の内容について真偽を問われた忠次は、信康を擁護するどころか、その内容を大筋で事実と認めるような態度をとったとされている 37 。結果として、信長は家康に対し、信康の処断(切腹)を厳命することになった。

なぜ忠次が信康を積極的に弁護しなかったのか、あるいはできなかったのかについては、古来より様々な議論があり、明確な理由は不明な点が多い。主な説としては、以下のようなものが挙げられる。

  1. 織田信長の威光への恐れ: 当時の信長は天下統一を目前にする絶対的な権力者であり、その意向に逆らうことは徳川家の存亡に関わる危険性をはらんでいたため、忠実は信長の意向を忖度せざるを得なかったとする説 40
  2. 信康自身の問題行動: 近年の研究では、信康に粗暴な振る舞いや奇行があったこと、また家康との間に対立があったことを示唆する同時代の史料も指摘されており 41 、徳姫の訴えが全くの濡れ衣ではなく、忠次としても弁護のしようがなかったとする説。
  3. 徳川家の将来を慮っての判断: 忠次が、仮に信康に問題があった場合、その存在が将来の徳川家にとって禍根となると判断し、非情ながらも信康排除が最善であると考えたとする深読み。ただし、これは史料から直接的に裏付けられるものではない。
  4. 家中の派閥対立: 岡崎城を拠点とする信康周辺の勢力と、浜松城を拠点とする家康周辺の勢力との間に対立があり、忠次は家康派の重鎮として、信康排除に与したとする説。これも明確な証拠に乏しい推測の域を出ない。

江戸時代初期に成立したとされる『三河物語』には、忠次が信康のために十分な弁明をしなかったことで、徳川家中の多くの者が忠次を憎んだと記されている 40 。そして、この事件における忠次の対応が、後の酒井家に対する家康の評価に影響し、いわゆる「冷遇説」に繋がったのではないかという見方も存在する 39

信康事件における忠次の行動は、単純な「弁護しなかった」という事実だけでなく、当時の織田・徳川間の複雑な力関係、徳川家内部の潜在的な問題、そして信康自身の資質など、複数の要因が絡み合った結果と捉える必要がある。忠次個人の感情や判断だけでなく、徳川家全体の存続という大局的な視点からの行動であった可能性も否定できない。彼が置かれた状況の困難さと、その決断が徳川家にとって極めて重大な結果をもたらしたことは確かである。この事件は、忠次の輝かしい功績に影を落とす側面として、後世の評価にも影響を与え続けることになった。

7. 晩年と死

数々の戦功を挙げ、徳川家康の天下取りを支え続けた酒井忠次も、やがて老境を迎え、歴史の表舞台から退く時が来た。

隠居と京都での生活

天正14年(1586年)、忠次は主君・家康に従って上洛した際、当時の天下人である豊臣秀吉から近江国に1,000石の知行地を与えられた 14。同年には従四位下左衛門督(さえもんのかみ)に叙任されるという栄誉も受けている 11。

しかし、その2年後の天正16年(1588年)、忠次は眼病(白内障あるいは緑内障であったと推測されている 39 )を理由に、62歳で隠居を決意。家督と長年城主を務めた三河国吉田城を嫡男の酒井家次に譲った 2 。隠居後は京都の桜井(または吉田とも)に屋敷を構えて隠棲し、秀吉からも引き続き優遇されたと伝えられている 2 。秀吉が家康の筆頭家老であった忠次を優遇した背景には、忠次のこれまでの実績と人物への純粋な評価に加え、強大な勢力を持つ家康への牽制や、忠次を通じて家康の動向を探るといった政治的な意図も含まれていた可能性が考えられる。忠次の京都での生活は、単なる静かな余生ではなく、依然として中央の政治的な空気を帯びたものであったと推察される。

家康からの冷遇説とその真偽

忠次の晩年を語る上でしばしば取り沙汰されるのが、主君・徳川家康からの「冷遇説」である。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐後、家康が関東へ移封された際、徳川四天王と称された本多忠勝、榊原康政、井伊直政にはそれぞれ10万石以上の広大な所領が与えられたのに対し、酒井家の当主となっていた忠次の嫡男・家次には、下総国臼井(または碓井)において3万石(資料によっては3万7千石とも 41)しか与えられなかった 39。この処遇の差をもって、忠次(あるいは酒井家)が家康に冷遇されたのではないかという説が生じた。

一説には、忠次はこの処遇に不満を抱き、家康に直接訴え出たものの、聞き入れられなかったとも言われている 43 。この冷遇の理由として、前述の松平信康事件における忠次の対応が家康の不興を買ったためではないかと推測されることがある 39

しかし、この冷遇説には反論も存在する。まず、関東移封時、忠次自身は既に隠居の身であり、家督を継いだ家次はまだ若輩で、他の四天王ほどの顕著な武功を立てていなかったという点が指摘される 41 。また、その後の酒井家の処遇を見ると、家次の子である酒井忠勝(忠次の孫)の代には越後国高田藩10万石、さらにその後の転封を経て出羽国庄内藩13万8千石(最終的には17万石余)の大名へと発展しており 3 、酒井家全体として見れば、決して冷遇されていたとは言えないとする意見も有力である。家康の人事評価は、功績だけでなく、将来性、家臣団全体のバランス、さらには政治的状況など、多角的な視点から行われたと考えられる。家次への初期の所領は、当時の彼のキャリアステージに応じたものだったのかもしれない。信康事件が家康の心に何らかのしこりを残し、それが忠次個人への感情に影響した可能性は否定できないが、酒井家全体を罰する意図があったとまでは言えないのではないか。むしろ、家康は忠次の功績を認めつつも、世代交代と家臣団の再編を進める中で、一時的に酒井家の石高を抑えたが、その後の能力と忠誠に応じて再び取り立てたと解釈することも可能である。

逝去と墓所

慶長元年(1596年)10月28日、酒井忠次は京都の桜井屋敷において、波乱に満ちた70年の生涯を閉じた 6。その亡骸は、京都市東山区にある浄土宗総本山知恩院の塔頭(たっちゅう)の一つである先求院(せんきゅういん)に葬られたとされ、同寺が忠次の墓所として知られている 11。忠次の戒名は「先求院殿天誉高月円心大居士(せんきゅういんでんてんよこうげつえんしんだいこじ)」と伝えられている 11。提供された資料からは、これ以外の墓所に関する明確な情報は確認できなかった 45。

8. 子孫と酒井家(左衛門尉系)のその後

酒井忠次が築き上げた功績と徳川家への忠誠は、彼一代に留まらず、その子孫たちにも大きな影響を与え、酒井家(左衛門尉系)は江戸時代を通じて譜代大名としての地位を確立し、繁栄を続けた。

嫡男・酒井家次と家系の継承

忠次の隠居に伴い、家督は嫡男である酒井家次(さかいいえつぐ)が継承した 11。家康の関東移封に際しては、家次は下総国臼井(碓井)城主として3万石(一説には上野国高崎藩5万石とも 42)を与えられた 3。その後、家次は慶長9年(1604年)に上野国高崎藩5万石へ、さらに元和2年(1616年)には越後国高田藩10万石へと加増転封を重ね、着実にその石高を増やしていった 3。

忠次には家次の他にも男子がおり、次男の本多康俊は徳川家臣団の重鎮である本多忠次の養子となり、三男の小笠原信之は武田家の旧臣から徳川家に仕えた小笠原信嶺の養子に、四男の松平久恒は徳川家康のルーツである松平一門の松平親俊の養子となるなど、それぞれ名門武家に迎えられている 3 。これは、酒井忠次の功績と酒井家の家格の高さが、他家からも認められていたことを示すものと言えるだろう。

出羽庄内藩酒井家の成立と歴史概略

酒井家(左衛門尉系)のさらなる飛躍は、忠次の孫にあたる酒井忠勝(さかいただかつ、家次の子)の代に訪れる。忠勝は、元和8年(1622年)、それまでの信濃国松代藩10万石から、出羽国庄内藩13万8千石(後に14万石となり、一時的な加増を経て最終的には17万石余)へと移封された 11。これ以降、酒井家は幕末に至るまで約250年間にわたり庄内藩主としてこの地を治め、譜代大名として徳川幕府を支える重要な役割を担い続けた 2。

酒井家は元々三河国の発祥であり、初代忠次の活躍に始まり、2代家次、そして3代忠勝へと家系は続き、その間に下総臼井、上野高崎、越後高田、信濃松代と居城を移しながら、最終的に出羽庄内に入部するという経緯を辿った 44 。庄内藩政においては、9代藩主酒井忠徳(ただのり)が藩校致道館を設立するなど、文教政策にも力を入れ、人材育成に努めた記録が残っている 44

幕末の動乱期には、庄内藩酒井家は戊辰戦争において奥羽越列藩同盟の中心的な藩の一つとして新政府軍と戦ったが、最終的には降伏した。明治維新後は、酒井家は華族に列せられ、宗家は伯爵家、分家は子爵家などとなった 12

酒井家(左衛門尉系)は、徳川四天王筆頭と称された酒井忠次の家系として、江戸時代を通じて高い家格と譜代大名としての重責を担い続け、その名を歴史に刻んだ。忠次の子孫が庄内藩主として東北の要地を治め、譜代大名として幕政に関与し続けたことは、酒井家が徳川家にとって単なる功臣の家系ではなく、安定した幕藩体制を支える上で信頼できる重要な柱と見なされていたことを示している。庄内藩は日本海側の要衝であり、また米どころでもあったため、この地を譜代の酒井家に任せたことは、幕府の地方支配戦略の一環と考えられる。

忠次が一代で築き上げた功績と徳川家への忠誠が、後世の子孫たちにまで恩恵をもたらしたことは明らかである。いわゆる「親の七光り」という側面も否定できないが、それ以上に、忠次が遺した「家格」や徳川家からの「信頼」といった無形の財産が、酒井家の長期的な繁栄を支える上で大きな役割を果たしたと言えるだろう。戦国時代の武将の評価は、本人の一代の活躍だけでなく、その家が後世にどれだけ続いたか、どのような地位を保ったかという点も考慮されることが多い。その意味で、酒井家(左衛門尉系)の繁栄は、酒井忠次の功績の大きさを間接的に証明していると言える。

9. 酒井忠次の歴史的評価

酒井忠次は、その生涯を通じて徳川家康を支え、数々の功績を残したことから、同時代および後世において高い評価を受けている。

同時代(徳川家康、織田信長など)からの評価

主君である徳川家康からの信頼は絶大であった。家康にとって忠次は、最も頼りにした家臣であり、徳川四天王の筆頭格として重んじられた 3。幼少期からの苦難を共にした忠誠心、数々の合戦における戦功、そして家臣団をまとめ上げる統率力など、家康は忠次の多岐にわたる能力を高く評価していた 1。一説には、家康は忠次に戦の采配などを教わったとも言われている 6。ただし、松平信康事件を巡っては、後に家康から忠次に対して嫌味とも取れる言葉がかけられたという逸話も残っており 6、この一件が両者の関係に微妙な影を落とした可能性も否定できない。

同盟者であった 織田信長 も、忠次の能力を認めていた。特に長篠の戦いにおける鳶ヶ巣山奇襲作戦の成功は、信長をして「背に目を持つごとし」と称賛せしめたほどであり 1 、その卓越した戦術眼と大胆な実行力を高く評価したことがうかがえる。信長も認めるほどの戦の才能と強さを兼ね備えた名将であったと評されている 6

さらに、家康がまだ今川氏の配下にあった若い頃でさえ、 今川義元 が「岡崎のことは酒井忠次に相談するように」と述べていたとされ 1 、その器量は早くから周囲に認められていたことがわかる。

後世における評価と人物像の変遷

後世においても、酒井忠次は徳川家康の天下取りに貢献した第一の功臣、徳川家最古参の重臣として称えられている 6。その評価は、単なる武勇に優れた武将というだけでなく、知略、外交交渉能力、家臣団統率力、さらには宴席での「海老すくい」に見られるような人間的魅力も併せ持つ、多才な人物として確立されている 5。

三方ヶ原の戦いでの「酒井の太鼓」や長篠の戦いでの鳶ヶ巣山奇襲といった劇的な逸話は、忠次の機転や戦術眼を象徴するものとして語り継がれ、その名を高めている 1 。一方で、松平信康事件における対応については、その真意を巡って様々な解釈や批判も存在し 40 、忠次の評価に複雑な陰影を与えている。

酒井忠次は、NHK大河ドラマをはじめとする歴史関連の映像作品や小説などでも度々取り上げられ、その人物像は時代や作品によって多様に描かれている 19 。例えば、2023年の大河ドラマ『どうする家康』では俳優の大森南朋が忠次役を演じ、家臣団のまとめ役としての重厚さと、時に宴会芸で場を和ませる人間味あふれる姿が視聴者に強い印象を与えた 50 。また、歴史小説などにおいても、徳川四天王の一人としてその勇猛果敢な活躍が描かれることが多い 48

忠次の評価が一貫して高いのは、戦国武将に求められる「武勇」や「知略」といった能力に加え、主君への揺るぎない「忠義」、そして組織運営に必要な「調整能力」や「人間的魅力」といった、より普遍的な資質を兼ね備えていたからだと考えられる。これらは、時代や価値観が変化しても変わらず評価されやすい要素である。特に、「一度も徳川家康を裏切ることなく忠義をまっとうした」 6 という点は、裏切りが常であった戦国時代において際立っており、彼の評価を不動のものとしている。

全体として高い評価を得ている忠次であるが、松平信康事件における対応は、彼の評価に複雑な側面を加えている。この一点において、手放しで称賛されるのではなく、議論の余地や批判的な見方が残ることで、彼の人物像はより立体的で人間的なものとして捉えられる。この事件がなければ、忠次はより完璧な名臣として語り継がれたかもしれないが、逆にこの事件があることで、彼の人間的な弱さや、当時の困難な政治状況下での苦悩といった側面が浮かび上がり、歴史上の人物としての深みが増しているとも言えるだろう。

10. おわりに

酒井忠次は、徳川家康が三河の一地方領主から身を起こし、天下統一を成し遂げるまでの激動の時代において、一貫してその傍らにあって忠誠を尽くし、軍事、政治、外交の各方面で多大な貢献を成し遂げた稀有な武将であった。彼の生涯は、戦国乱世における主従関係の理想的な姿の一つを示していると言えよう。

徳川四天王の筆頭として家臣団を統率したリーダーシップ、姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手といった主要な合戦で見せた卓越した戦術眼と勇猛果敢な戦いぶり、そして時には「海老すくい」のような人間味あふれる一面も見せることで家臣団をまとめ上げた人間力は、揺籃期の徳川家が幾多の困難を乗り越え、強大な勢力へと発展していく上で不可欠な要素であった。

酒井忠次の存在と活躍なくして、徳川家康の天下取りはより困難な道のりとなった可能性が高い。彼の功績は、単に一個人の武功に留まらず、二百数十年に及ぶ長期安定政権である徳川幕府の礎を築いた重要な一因として、日本の歴史において大きな意義を持つ。

忠次の生涯は、戦国乱世という極限状況における主従関係のあり方、武将に求められる資質の多様性(武勇、知略、政治力、人間力)、そして歴史的事件の渦中における個人の決断が持つ重さとその影響など、現代に生きる我々にも多くの示唆を与えてくれる。

酒井忠次は、家康が理想としたであろう、忠実で有能、かつ多才な家臣像を具現化した存在と言える。彼の生き様は、後の徳川家臣団における規範意識の形成にも少なからず影響を与えた可能性がある。家康は譜代の家臣を重用し、彼らの忠誠心と能力を基盤として勢力を拡大したが、忠次はその中でも筆頭であり、家康の期待に応え続けた。彼の成功物語(最終的に子孫が大名として栄えたこと)は、徳川家に忠勤を尽くせば報われるという実例として、他の家臣たちへの教訓となったかもしれない。

また、「酒井の太鼓」や「海老すくい」といった印象的な逸話は、酒井忠次という人物を単なる歴史上の名前ではなく、生き生きとした個性を持つ存在として後世に伝え、人々の記憶に残りやすくする上で大きな役割を果たしている。これらの逸話がなければ、彼の評価や知名度は現在とは異なるものになっていたかもしれない。歴史上の人物の評価は、客観的な功績だけでなく、その人物を特徴づける印象的なエピソードによっても大きく左右される。これらの逸話は、講談や歌舞伎、近年のドラマなどを通じて繰り返し語られることで、酒井忠次のパブリックイメージを形成し、その歴史的評価を補強・拡散する効果を持っていると言えよう。酒井忠次は、まさに徳川家勃興の象徴的な功臣の一人として、今後も語り継がれていくに違いない。

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