戦国武将 岡部元信の実像:今川・武田両家に仕えた忠勇の生涯
序章:岡部元信研究の意義と本報告の構成
岡部元信は、日本の戦国時代において、駿河の今川義元・氏真父子、そして甲斐の武田信玄・勝頼父子という二つの有力大名家に仕え、その生涯を通じて数々の重要な合戦に参加した武将である。特に、今川義元が織田信長に討たれた桶狭間の戦いにおいて、主君の首級を取り戻した逸話や、武田家臣として高天神城に籠城し、壮絶な最期を遂げたことは、彼の忠勇ぶりを象徴する出来事として知られている。しかしながら、その劇的な生涯にもかかわらず、岡部元信に関する総合的な研究は十分とは言えず、彼の人物像や歴史的役割については、未だ解明されていない点も少なくない。本報告は、現存する史料を丹念に読み解き、岡部元信の生涯を多角的に検証し、その実像に迫ることを試みるものである。
本報告は、岡部元信の出自から最期に至るまでの軌跡を追い、その武功、人間性、そして歴史的評価を明らかにすることを目的とする。具体的には、第一部で今川家臣時代の活躍を、第二部では武田家臣としての動向を詳述する。続く第三部では、これらの事績を踏まえ、岡部元信の武将としての能力や人間性、同時代および後世からの評価、さらには家族や子孫について考察する。第四部では、彼に関連する史跡や文化財、そして現代の創作物における岡部元信像について触れる。最後に、結論として、岡部元信の歴史的意義と再評価の可能性について述べる。
第一部:今川家臣時代
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出自と家系
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岡部氏の起源と駿河国における基盤
岡部氏は、駿河国岡部郷(現在の静岡県藤枝市岡部町周辺)を発祥の地とする武士団である
1
。その出自は藤原氏の系統を汲むとされ、鎌倉時代には既にその名が歴史上に現れている
3
。岡部郷には、岡部氏の居館跡と推定される「お屋敷たんぼ」と呼ばれる場所や、岡部氏の氏寺であった万福寺跡(現在は宝篋印塔と五輪塔が残る)が存在し
2
、この地における岡部氏の長い歴史を物語っている。岡部氏が駿河国に古くから根付いた在地領主であったことは、岡部元信が今川家という有力な戦国大名の家臣団の中で、一定の地位を築く上での素地となったと考えられる。在地領主としての基盤は、単に武勇を示すだけでなく、その地域における影響力も主家にとっては大きな価値を持っていたであろう。
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父・岡部親綱(久綱、玄忠)と花倉の乱における功績
岡部元信の父は、岡部親綱(左京進、久綱、玄忠とも記される)とされる
4
。親綱は、今川義元の家督相続を巡る内紛であった花倉の乱(天文5年、1536年)において、義元方として参陣し、多大な功績を挙げた
6
。今川義元は、親綱のこの忠節に対し、「義元子孫末代に対し、親綱の忠節は比類ないものである」という最大級の賛辞を記した自筆の感状と所領を与えて賞賛している
6
。父・親綱が示した今川義元への絶大な忠誠とその功績は、岡部元信が今川家中でキャリアを築いていく上で、一種の「信用資本」として機能したと考えられる。戦国時代において、親の功績や主君との良好な関係は、子の立身出世に有利に働くのが通例であり、元信が若くして重要な戦いに起用され、義元から特別な評価を得る背景には、この父祖の功があったと推察される。
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元信の生年(諸説あり)と初期の経歴
岡部元信の正確な生年は不詳であり、史料には「?」と記されることが多い
4
。一説には天文16年(1527年)頃の生まれともされるが、確証はない
4
。通称は五郎兵衛、官位としては丹波守を名乗った
1
。岡部氏の系図、特に元信と岡部正綱(同じく今川・武田に仕えた武将)との関係については、史料によって記述が異なり、兄弟説、親子説、あるいは同族ではあるが親子兄弟ではないとする説などが存在し、判然としない
4
。これは、岡部氏が仕えた今川氏、そして武田氏が相次いで滅亡するという激動の時代の中で、一族が離散し、多くの古文書が失われたためと考えられている
8
。このような状況は、元信個人の記録だけでなく、岡部氏全体の歴史研究の難しさを示していると言えよう。なお、岡部氏の発祥にまつわる伝説を描いた『岡部氏家譜絵巻』が宝泰寺に所蔵されている
9
。元信の史料上の初見は、天文11年(1542年)に「岡部小次郎元綱」としてその名が見えるものである
5
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表:岡部元信の呼称・官位一覧
呼称の種類
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呼称
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備考
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主な史料・出典
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通称
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五郎兵衛
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最も一般的に用いられた通称
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官位
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丹波守
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武田家臣時代に称したとされる
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別名
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長教
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元綱
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初見史料での名
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真幸
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今川義元への奉公と戦歴
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小豆坂の戦い(天文17年、1548年)における武功と評価
岡部元信が今川家臣としてその武名を轟かせた初期の戦いの一つが、天文17年(1548年)3月に行われた第二次小豆坂の戦いである。この戦いは、今川義元軍(太原雪斎指揮)と織田信秀軍との間で繰り広げられた激戦であった。当初、今川軍は優勢に戦いを進めたものの、織田軍の反撃に遭い、一時苦境に立たされた。この危機的状況において、岡部元信は退却する友軍の中でただ一人引き返し、馬を駆って織田勢に突入し、その勢いを打ち破って今川軍の勝利に大きく貢献したと伝えられている 5。
この目覚ましい戦功に対し、今川義元は元信を高く評価し、感状を与えた。特筆すべきは、その恩賞の内容である。義元は、元信がこの合戦において軍馬に着せていた「筋馬鎧」および「猪立物」(猪をかたどった兜の立物)の意匠について、今後、今川領国内の他の武士がこれを模倣して身に着けることを禁じたのである 6。これは、単なる物質的な褒美を超え、元信の武勇を他の家臣に対する模範として公認し、彼の名声を不動のものとする効果があった。このような恩賞は、義元による巧みな家臣団統制の一環であり、元信の忠誠心をさらに強固にするとともに、他の家臣に対しても武功を奨励する意図があったと考えられる。
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安祥城の戦い(天文18年、1549年)など、その他の戦功
小豆坂の戦いに続き、岡部元信は天文18年(1549年)の三河安祥城の戦いにおいても戦功を挙げたとされる
5
。この戦いは、今川軍が織田方の安祥城を攻略し、織田信広(信長の庶兄)を捕虜にした重要な戦いであった。元信がこれらの戦いを通じて、今川氏の遠江・三河方面への勢力拡大に貢献したことは疑いない。複数の重要な戦いにおける継続的な戦功は、元信が単発的な活躍に終わるのではなく、安定して高い軍事的能力を発揮できる武将であったことを示している。これが後の桶狭間の戦いにおいて、尾張進出の最前線である鳴海城の城主という重要拠点の防衛を任されるに足る人物であると、今川義元に判断させた大きな要因であったと言えよう。
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桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)における動向
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鳴海城の守備と奮戦
永禄3年(1560年)5月、今川義元は尾張への大攻勢を開始し、岡部元信はこの時、尾張国の鳴海城主として、織田信長との最前線における拠点防衛の重責を担っていた
5
。5月19日、田楽坪において今川義元本隊が織田信長の奇襲を受けて壊滅し、義元自身も討死するという衝撃的な事態が発生する(桶狭間の戦い)。しかし、主君討死の報に今川軍の多くが混乱し敗走する中にあって、岡部元信は鳴海城に籠城し、織田軍の攻撃に対して屈することなく徹底抗戦を続けた
5
。本隊が壊滅し、指揮系統も混乱したであろう絶望的な状況下で鳴海城を死守し続けた元信の行動は、彼の強靭な精神力と卓越した指揮能力、そして何よりも今川家への深い忠誠心を示すものであった。この粘り強い抵抗が、後の織田信長による一定の評価にも繋がった可能性が考えられる。
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今川義元討死後の対応:義元首級返還交渉と開城
鳴海城での籠城を続ける岡部元信であったが、主君・今川義元の討死は覆しようのない事実であった。元信は、義元の首級と引き換えに鳴海城を開城するという条件で、織田信長と交渉を開始した。そして、信長はこの条件を認め、義元の首級は元信に引き渡された
10
。敗軍の将でありながら、敵将から主君の首を取り戻すという行動は、当時の武士の価値観において極めて名誉なことであり、元信の忠義と胆力が高く評価される所以となった。この交渉の成功は、元信の交渉能力の高さを示すと同時に、織田信長が元信の忠義を認め、また鳴海城を無用な犠牲を払うことなく早期に手に入れるという戦略的メリットを考慮した結果とも言える。元信がこの困難な交渉を成功させたことは、彼が状況を冷静に判断し、敵将である信長に対して臆することなく堂々と渡り合える外交的な手腕も持ち合わせていた可能性を示唆している。
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刈谷城攻撃と水野信近討伐
鳴海城を開城し、主君・義元の首級を伴って駿府への帰途についた岡部元信であったが、その道中、三河国の刈谷城を攻撃し、城主であった水野信近(織田信長の叔父・水野忠政の子で、家康の母方の従兄弟にあたる)を討ち取った
10
。この行動は、主君を失った無念を晴らすとともに、手柄のないまま帰国することを潔しとしなかった元信の武士としての意地を示すものであったと解釈される。しかし、単なる意地や復讐心だけでなく、桶狭間の敗戦によって大きく揺らいだ今川家の威信を少しでも回復し、織田方に与した勢力への牽制を行うという戦略的意図も含まれていた可能性が考えられる。また、この戦功は今川義元の跡を継いだ氏真からの評価にも繋がり、元信の今川家中における発言力を維持する効果もあったかもしれない
18
。
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当時の評価:「桶狭間の影のMVP」説など
桶狭間の敗戦という未曾有の危機的状況下で見せた岡部元信の一連の行動、すなわち鳴海城での奮戦、主君・義元の首級奪還、そして刈谷城攻撃は、当時から高く評価されていた。その行動は「勇敢で忠義あるものであり、高く評価されたことがうかがえます」
11
とされ、後世には「桶狭間の影のMVP」
13
と称されることもある。この評価は、単に戦場での武勇だけでなく、主君の首級を取り戻すという「義」を貫いた点、そして敗戦処理における冷静な判断と行動力に対する総合的な賞賛であると言えよう。これは、戦国時代の武将の評価が、必ずしも武勇一辺倒ではなかったことを示す好例である。
第二部:武田家臣時代
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今川家没落と武田家への仕官
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武田信玄の駿河侵攻と今川家の終焉
桶狭間の戦いで今川義元が討死した後、今川家の領国は大きく動揺した。跡を継いだ今川氏真は領国の引き締めに苦慮し、三河では松平元康(後の徳川家康)が独立、遠江でも国人領主の離反が相次いだ。この機を捉え、甲斐の武田信玄は永禄11年(1568年)12月、今川領である駿河への侵攻を開始した(駿河侵攻)。これにより、戦国大名としての今川氏は急速に弱体化し、事実上滅亡へと向かうこととなる
11
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元信の武田家仕官の経緯と初期の待遇
武田信玄の駿河侵攻に対し、岡部元信は兄とされる岡部正綱と共に今川方として応戦したが、衆寡敵せず、やがて武田信玄の軍門に降った
11
。今川家滅亡後、元信は武田家に仕えることとなるが、その当初の待遇は決して良いものではなかったと伝えられている。一説には、わずか10騎の兵しか与えられず、冷遇されたという
18
。しかし、岡部元信の名の「信」の字は、武田晴信(信玄の諱)から偏諱として与えられたものという説もあり
18
、また、それ以前から信玄との間に何らかの個人的な繋がりがあった可能性も指摘されている
18
。例えば、鳴海城主となる以前に一時的に領地を没収された際、武田信玄のもとに身を寄せていたという話も伝わっている
18
。これらの説が事実であれば、武田家仕官当初の冷遇は一時的なものであり、信玄は元々元信の能力を評価していたが、旧敵国の重臣に対する警戒感や、他の家臣への配慮、あるいは元信の忠誠心を見極めるために、段階的に重用していったのかもしれない。
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武田信玄・勝頼からの信頼と昇進
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駿河先方衆としての役割
武田家に仕えた岡部元信は、主に「駿河先方衆」の一員として活動した
18
。駿河先方衆とは、武田氏が新たに支配下に置いた駿河国の国人領主や、元今川家臣で武田氏に降った者たちで構成された軍団であり、地理的に徳川家康の領国と接する最前線に位置していた。そのため、彼らは徳川軍との小競り合いや防衛戦において、常に矢面に立つ重要な役割を担っていた。元信もまた、遠江方面での軍事活動に深く関与していったと考えられる。
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山県昌景との関係
一時期、岡部元信は武田四天王の一人に数えられる猛将・山県昌景の配下として活動したとされる
18
。山県昌景は武田軍団の中でも特に精強で知られた「赤備え」を率いた名将であり、その指揮下で戦った経験は、元信が武田家の戦い方を学び、家中で実績を積んでいく上で重要なステップとなったであろう。昌景からの評価が、後の武田勝頼による元信の抜擢に影響を与えた可能性も否定できない。
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小山城代としての長篠の戦い後の防衛戦
天正3年(1575年)5月、武田勝頼率いる武田軍は長篠の戦いで織田・徳川連合軍に壊滅的な大敗を喫した。この敗戦は武田家の威信を大きく揺るがし、領国経営にも深刻な影響を与えた。このような困難な状況下で、岡部元信は遠江国の小山城(現在の静岡県榛原郡吉田町)の在番(城代)として、徳川家康軍の猛攻に晒された。しかし元信は、数度にわたる徳川軍の攻撃を巧みに撃退し、小山城を最後まで守り抜いたのである
18
。本隊が大敗し、武田方の士気が著しく低下している中でのこの鉄壁の守備は、桶狭間の戦いにおける鳴海城での奮戦と同様に、岡部元信の卓越した指揮能力と不屈の精神力を改めて示すものであった。長篠敗戦後の武田家にとって、小山城の死守は遠江方面における数少ない軍事的成功であり、徳川方の東進を一時的にでも食い止めた点で戦略的価値があった。この功績が、元信に対する武田勝頼の評価を決定的に高め、後の高天神城城主への抜擢に繋がる直接的な理由となったと考えられる。
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高天神城城主への抜擢
小山城での目覚ましい防衛戦などの功績により、岡部元信は武田勝頼から、遠江支配の最重要拠点とされた高天神城(現在の静岡県掛川市)の城主に抜擢された
10
。高天神城は「高天神を制する者は遠州を制す」とまで言われた戦略上の要衝であり、その守将を任されることは、武田家臣団の中でも最高の栄誉の一つであった。特に、元信は今川家からの降将であり、武田家の譜代家臣ではなかった。そのような外様の将が、これほど重要な拠点の指揮権を委ねられるのは異例のことであり、武田勝頼がいかに元信の実力と忠誠心を高く評価していたかを示す証左と言える。一説には、当時の武田家中で譜代家臣以外で独立した軍事指揮権を任されていたのは、信濃の真田氏とこの岡部元信のみであったともいう
18
。この抜擢は、勝頼が家柄や出自よりも実能力を重視する姿勢を持っていたことを示す一方で、譜代家臣団との間に軋轢を生む可能性もはらんでおり、武田家末期の家臣団統制の難しさの一端を垣間見せる出来事であったかもしれない。
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第二次高天神城の戦い(天正7年~9年、1579年~1581年)と最期
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籠城戦の経緯:徳川軍の包囲と兵糧攻め
岡部元信が高天神城主となった後、徳川家康はこの要衝を奪還すべく、天正7年(1579年)頃から本格的な攻撃を開始した。家康は、高天神城が堅城であり力攻めでの攻略が困難であると判断し、城の周囲に横須賀城をはじめとする複数の砦(いわゆる「高天神六砦」)を築いて包囲網を形成し、徹底的な兵糧攻め、いわゆる「干殺し」戦術をとった
23
。これにより、高天神城への兵糧や物資の補給路は完全に遮断され、城内は次第に困窮の度を深めていった。籠城は長期に及び、城内の兵糧は完全に尽き果て、餓死者が続出するほどの極めて過酷な状況に陥ったと記録されている
24
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横田尹松との関係と共同作戦
高天神城には、岡部元信と共に軍監として横田尹松(ただとし)が派遣されていた
22
。軍監は城主の補佐や監察、そして本国との連絡調整などを担う重要な役職であった。籠城戦が長期化し、絶望的な状況となる中で、援軍要請に関する意見の相違があったとも伝えられている。岡部元信ら城兵の多くが武田勝頼に救援を求める連判状を送ったのに対し、横田尹松は密かに「高天神城を見捨てるべきである。援軍を送れば武田家の国力をさらに疲弊させることになる」という内容の書状を勝頼に送ったという逸話が『甲陽軍鑑』などに記されている
22
。この逸話の真偽については議論の余地があるものの、籠城中の城内において、戦略判断を巡る意見の対立や、武田家中枢と最前線との間での認識の齟齬が存在した可能性を示唆している。これが事実であれば、武田家の組織的な弱体化の兆候と解釈することもできるだろう。
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援軍要請と武田勝頼の苦境
岡部元信は、籠城中、再三にわたり主君・武田勝頼に対して救援の使者を送り、援軍の派遣を懇願した
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。しかし、当時の武田勝頼は、天正6年(1578年)の御館の乱への介入失敗による上杉景勝との関係悪化、そしてそれに伴う相模の北条氏政との甲相同盟の破綻など、領国経営において極めて困難な状況に直面していた。北条氏からの圧迫に加え、織田・徳川連合軍の攻勢にも対処しなければならず、高天神城に大規模な援軍を派遣する余力は既になかったのである。結果として、勝頼はついに高天神城へ援軍を送ることができなかった。この事実は、武田家の国力低下と外交的孤立を象徴する出来事であり、高天神城を見捨てたという事実は、勝頼の求心力を著しく低下させ、後の武田家滅亡の大きな要因の一つとなった。「勝頼は高天神城に援軍を送らなかったことで、人々から天下の面目を失ったと言われる」
26
という評価は、当時の武田家の苦境と、それに対する勝頼の苦渋の決断(あるいは決断できなかったこと)の影響の大きさを物語っている。
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降伏交渉と織田・徳川方の判断
援軍の望みが絶たれ、城内の状況が日に日に悪化する中、岡部元信は徳川家康に対して降伏を申し入れた
23
。しかし、家康はこれを拒否した。この背景には、同盟者である織田信長の強い意向があったとされる。信長は、武田勝頼が援軍を出せないことを見越しており、高天神城を見捨てるという事態になれば、勝頼の武将としての評判は地に堕ち、武田領の攻略が一層容易になると読んでいたのである
23
。信長から家康の叔父・水野忠重に宛てた書状には、高天神城からの降伏申し出があったこと、勝頼が援軍を出せないであろうこと、そして降伏の受け入れの可否は「徳川家中」で相談して決めるように、といった内容が記されており
23
、信長の戦略的判断と、家康に一定の裁量権を与えつつも最終的には武田家を追い詰めるという深謀遠慮がうかがえる。
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幸若舞の逸話
高天神城落城の前夜、絶望的な状況にあった城兵たちの最後の慰めとして、徳川軍の中にいた幸若舞の名手・梅若与三太夫(あるいは林阿弥とも)に舞を舞わせたという逸話が残されている
28
。岡部元信ら城兵たちは、堀を隔てて演じられる「高館」などの演目を涙ながらに鑑賞したと伝えられている。この逸話は、戦国時代の武士の死生観や、戦場における文化的な側面を浮き彫りにするものである。敵味方を超えた人間的な配慮が存在した可能性を示唆すると同時に、城兵たちの絶望と、死を目前にした彼らの悲壮な覚悟を象徴的に描いている。
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「生きて帰るつもりはない」発言と軍議
援軍の望みが完全に絶たれ、降伏も許されないという袋小路の中で、岡部元信は最後の軍議を開いた。その席で元信は、「この城に入ったときから、もとより生きて帰るつもりはない」と述べ、城兵全員で討死する覚悟を固めたと伝えられている
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。この発言は、元信の武士としての矜持と、部下に対する責任感の表れであったと言えよう。絶望的な状況下で、指導者として最後まで戦い抜く姿勢を明確にすることで、城兵の士気を最後の瞬間に高め、統率を維持しようとしたものと考えられる。
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最後の突撃と討死(天正9年3月22日)
天正9年(1581年)3月22日の夜、岡部元信は残存する約700名(一説には900名とも)の城兵を率いて、徳川軍の陣地へ最後の突撃を敢行した
1
。最も手薄と見られた石川康通の陣へ突入したとされるが、大久保忠世・忠教兄弟らがこれを迎え撃ち、激しい戦闘が繰り広げられた。この壮絶な戦いの中で、岡部元信は奮戦の末、討死を遂げた。その最期は『三河物語』などにも記されており、武田家への忠誠を貫き、武士としての名誉を重んじる生き様を体現したものであった。高天神城の落城と元信の死は、武田家の威信を決定的に失墜させ、翌年の武田家滅亡への道を早めることとなった。
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敵味方からの追悼
岡部元信のその死は、敵味方の双方から惜しまれたと伝えられている
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。戦国時代において、敵将の死を惜しむという感情が記録されることは、その人物が並々ならぬ武勇や人格の持ち主であったことを示唆する。特に徳川方にとって、高天神城攻略は多大な困難を伴ったものであり、その守将であった元信の奮戦ぶりは強く印象に残ったはずである。その武勇と忠義に対する敬意が、死を惜しむという形で表れたものと考えられる。
第三部:人物像と評価
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武将としての能力
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武勇と戦術眼
岡部元信の武将としてのキャリアは、卓越した武勇と優れた戦術眼によって彩られている。今川家臣時代には、第二次小豆坂の戦いにおいて劣勢を挽回する機転の利いた反撃を見せ
5
、桶狭間の戦いでは主君討死という混乱の中で鳴海城を守り抜き、さらに独自判断で織田軍の一部隊を撃破するなどの活躍を見せた
5
。武田家に仕えてからは、長篠の戦いの敗戦後という困難な状況下で小山城を死守し
18
、そして最期となった高天神城の戦いでは、絶望的な兵糧攻めの中で2年近くも城を持ちこたえ、壮絶な突撃を敢行した
24
。これらの戦歴を鑑みるに、元信は特に困難な状況下での防衛戦においてその真価を発揮するタイプの武将であったと言える。それは、彼の冷静な判断力、不屈の精神力、そして部隊をまとめ上げる高い統率力の賜物であったろう。
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忠誠心と義理堅さ
岡部元信の生涯を貫くもう一つの大きな特徴は、その篤い忠誠心と義理堅さである。今川義元に対する忠義は、桶狭間の戦い後に主君の首級を敵将である織田信長から取り戻し、さらにはその帰途に織田方の刈谷城を攻撃して義元の無念を晴らそうとした行動に顕著に表れている
1
。この行動は、当時の武士の価値観において高く評価されるものであった。その後、今川家が滅亡し武田家に仕えることになった後も、新たな主君である武田勝頼に対して忠節を尽くし、高天神城において最後まで城兵と共に戦い抜いた
19
。主家が滅びてもなお、新たな主君に忠誠を誓い、その期待に応えようとする元信の姿勢は、戦国武将のひとつの理想的な生き方を示すものと言える。彼の忠誠心は、単なる主従関係を超えた、武士としての「義」に基づいていたと考えられ、その姿勢が今川家への忠義が武田信玄や織田信長に評価されたように、彼の武将としてのキャリアを繋ぐ上で重要な要素となった。
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指導力、交渉力、決断力
岡部元信は、単なる勇猛な武将であっただけでなく、優れた指導力、交渉力、そして決断力を兼ね備えていた。桶狭間の戦い後、鳴海城を開城するにあたって織田信長と堂々と交渉し、主君・義元の首級を取り戻した手腕は、冷静な状況判断と高い交渉術がなければ成し得なかったであろう
11
。また、高天神城での長期にわたる籠城戦においては、兵糧が欠乏し援軍の望みも絶たれるという絶望的な状況下で、最後まで部隊の統率を維持し続けた。これは卓越した指導力なくしては不可能であった。そして、最後の突撃を決断し、自ら先頭に立って敵陣に斬り込んだ姿は、彼の類稀なる決断力を示している
29
。高天神城落城前夜の幸若舞の逸話
28
や最後の宴
29
は、元信が部下の士気や心情に細やかに配慮し、極限状態にあっても集団の一体感を保とうとしたことを示唆しており、彼が人心掌握にも長けた指揮官であったことを物語っている。
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同時代及び後世の評価
岡部元信の武勇と忠節は、同時代から既に高く評価されていた。桶狭間の戦いにおける一連の行動は、「勇敢で忠義あるもの」
11
として称賛され、今川義元や氏真からは感状が与えられている
6
。武田家に仕えてからもその能力は高く評価され、今川義元の隠居屋敷を与えられるなど厚遇された記録が残る
6
。そして、高天神城での壮絶な最期は、「敵味方ともに惜しまれた」
19
と伝えられている。敵将からもその死を惜しまれるほどの人物であったことは、元信が当時の武士の理想像に近い存在として認識されていたことを示唆する。彼の生き様は、武士の「義」を重んじる精神を体現するものとして、後世にも語り継がれ、武士道精神の形成にも少なからず影響を与えた可能性がある。
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家族と子孫
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岡部元信の妻子と子孫
岡部元信の妻に関する具体的な記録は乏しいが、子女についてはいくつかの情報が残されている。娘の一人は、同じく武田家に仕えた武将・土屋昌恒(惣蔵)の妻となった 32。土屋昌恒もまた、武田家滅亡の際に最後まで勝頼に付き従い、天目山の戦いで壮絶な最期を遂げた忠臣として知られている。元信の娘がそのような人物に嫁いでいたことは、岡部家と土屋家、あるいは元信と昌恒個人との間に、武勇や忠義といった価値観を共有する何らかの深い繋がりがあった可能性を示唆する。
この娘は昌恒との間に嫡男・土屋忠直らを儲けた。忠直は後に徳川家康に仕え、その子孫は上総国久留里藩主、さらに分家は常陸国土浦藩主として江戸時代を通じて存続した 32。
また、元信の息子としては、岡部真堯、岡部元昌といった名が史料に見えるが、彼らの生没年や具体的な事績については不明な点が多い 7。なお、和泉国岸和田藩主となった岡部家(岡部長盛の系統)とは、元信の系統とは直接的な繋がりは薄いようである 34。
第四部:史跡と文化財、現代における岡部元信
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関連史跡と文化財
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岡部氏居館跡、鳴海城跡、高天神城跡、墓碑
岡部元信ゆかりの地は、彼の生涯を辿るように各地に点在している。まず、岡部氏の発祥地である静岡県藤枝市岡部町周辺には、岡部氏の居館があったと伝わる伝承地や 2、岡部一族の墓と伝えられるものが存在する 36。
桶狭間の戦いで元信が奮戦した尾張国鳴海城の跡地(現在の愛知県名古屋市緑区)は、往時の面影を一部残している 9。
そして、元信が武田家臣として最期を遂げた遠江国高天神城の跡地(現在の静岡県掛川市)は、国の史跡に指定されており、戦国時代の山城の遺構が良好な状態で保存されている 9。高天神城跡の麓には、岡部元信の墓碑が、同じくこの戦いで討死した徳川方の武将・板倉喜八郎定重の墓碑と並んで建てられている 31。敵味方として戦った二人の武将の墓が並んで祀られていることは、戦国時代の武士の死生観や、武勇への敬意が敵味方の立場を超える場合があったことを示す興味深い事例である。これは、大久保彦左衛門が『三河物語』で元信の最期を記し、板倉定重が彦左衛門の配下であったという縁から、後の人々によって顕彰されたものと考えられる 31。
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岡部家古文書、岡部氏家譜絵巻など
岡部元信の研究において不可欠なのが、藤枝市郷土博物館・文学館などが所蔵する岡部家関連の古文書群である。これらの中には、元信が今川義元や氏真から拝領した感状や、武田家から与えられた所領安堵状などが含まれており、彼の具体的な戦功や処遇を知る上での第一級史料と言える
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。これらの古文書や、岡部氏の来歴を伝える『岡部氏家譜絵巻』(宝泰寺蔵)
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が現存することは、岡部氏の子孫や関係者が、家の歴史と名誉を後世に伝えようと努力した結果であり、武家の「家」のアイデンティティを形成する上で極めて重要なものであったことを示している。
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歴史小説・ドラマ・ゲーム等における描写
岡部元信の劇的な生涯は、現代においても多くの創作者の想像力を刺激し、歴史小説、大河ドラマ、ゲームソフトなど、様々な形で描かれている。
小説においては、鈴木英治氏の『血の城』40 や岩井三四二氏の作品 44 などで、その活躍が取り上げられている。
ゲームの世界では、特にコーエーテクモゲームスの『戦国無双』シリーズ 5 や『信長の野望』シリーズ 50 において、忠義に厚く勇猛な武将としてのイメージで登場することが多い。例えば、『戦国無双5』では、今川家臣として登場し、主君に勝利を捧げるためならどんな困難も厭わない歴戦の武者として描かれ、後に武田に仕え、織田・徳川の前に長きにわたり立ちはだかる存在として設定されている 47。『信長の野望 出陣』では、騎馬を得意とし、知略も比較的高く設定されている 50。
NHK大河ドラマでは、近年では『どうする家康』(2023年放送)において、俳優の田中美央氏が岡部元信を演じ、今川家の猛将として、また人質時代の徳川家康(松平元康)とも関わる人物として描かれた 53。
これらの現代の創作物における岡部元信の描写は、主に桶狭間の戦いにおける義元首級奪還の忠勇や、高天神城での玉砕といった、彼の生涯で最もドラマチックで分かりやすいエピソードを強調する傾向が見られる。これは、彼のキャラクターを象徴するものとして一般に広く認識されているためであろう。一方で、武田家臣時代の複雑な立場や、戦略家としての一面などは、必ずしも十分に描かれていない可能性もある。
結論:岡部元信の歴史的意義と再評価
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戦国時代における岡部元信の役割の総括
岡部元信は、今川家の忠臣として、そして武田家の勇将として、戦国乱世という激動の時代を駆け抜けた武将であった。その生涯は、主家に対する揺るぎない忠義、戦場における卓越した武勇、そしていかなる逆境にあっても屈しない不屈の精神を体現するものであったと言える。特に、桶狭間の戦いにおける主君・今川義元の首級奪還という離れ業や、高天神城の戦いにおける壮絶な玉砕は、戦国武将の生き様を象徴する出来事として、後世に語り継がれるべきものである。彼は、二つの有力大名に仕え、それぞれの家で重要な役割を果たし、歴史の転換点に立ち会った。その生涯は、戦国という時代の厳しさと、そこに生きた武士たちの多様な価値観を我々に伝えてくれる。
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現代に語り継がれるべき教訓
岡部元信の生き様は、現代社会に生きる我々に対しても、多くの示唆を与えてくれる。困難な状況に直面した際に発揮される勇気、信義を重んじ、自らの信念を貫き通す姿勢、そして与えられた責務を最後まで全うしようとする責任感は、時代を超えて共感を呼ぶものであろう。史料の制約から、彼の生涯や人物像には未だ不明な点も少なくない。しかし、残された記録や史跡、そして彼を語り継いできた人々の思いを通じてその実像に迫ろうとする努力は、単に過去の出来事を知るということ以上に、歴史から学び、現代そして未来へと繋がる教訓を見出す上で不可欠な作業であると言える。岡部元信という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、戦国時代という時代の多面的な理解を深めることに繋がり、ひいては我々自身の生き方をも問い直すきっかけを与えてくれるかもしれない。
岡部元信 略年表
年代(西暦)
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元号
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出来事
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備考
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不詳(1527年説あり)
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不詳
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岡部元信、駿河国に生まれる(父は岡部親綱とされる)
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4
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天文11年(1542年)
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天文11年
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「岡部小次郎元綱」として史料に初見
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5
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天文17年(1548年)
|
天文17年
|
第二次小豆坂の戦いに参加。今川義元より武功を賞され、「筋馬鎧」「猪立物」の軍装の使用を他の武士に禁じられる。
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5
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天文18年(1549年)
|
天文18年
|
安祥城の戦いに参加。戦功を挙げる。
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5
|
永禄3年(1560年)
|
永禄3年
|
桶狭間の戦い。鳴海城主として奮戦。今川義元討死後、義元の首級と引き換えに鳴海城を開城。帰途、刈谷城を攻撃し水野信近を討つ。
|
5
|
永禄11年(1568年)
|
永禄11年
|
武田信玄の駿河侵攻。今川氏真に従い抵抗するが、後に武田家に降伏し仕官する。
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11
|
天正3年(1575年)
|
天正3年
|
長篠の戦い後、小山城の在番として徳川軍の攻撃を防衛。
|
18
|
天正7年(1579年)頃
|
天正7年頃
|
高天神城城主に任命される。徳川家康による高天神城への攻撃が本格化。
|
18
|
天正9年(1581年)
|
天正9年3月22日
|
第二次高天神城の戦いにおいて、長期の籠城戦の末、城兵を率いて徳川軍に最後の突撃を敢行し、討死。
|
4
|
岡部元信関連 主要合戦一覧
合戦名
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年月日(西暦)
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元信の所属勢力
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元信の役割・行動
|
結果(元信にとって)
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関連史料・備考
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第二次小豆坂の戦い
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天文17年3月(1548年)
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今川氏
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劣勢を挽回し、織田勢を突き崩し勝利に貢献。
|
武功を挙げ、義元より感状と特別な恩賞(軍装の独占使用権)。
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5
|
安祥城の戦い
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天文18年(1549年)
|
今川氏
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参戦し、戦功を挙げる。
|
戦功あり。
|
5
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桶狭間の戦い
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永禄3年5月19日(1560年)
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今川氏
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鳴海城主として籠城し奮戦。義元討死後、首級と引き換えに開城。
|
主君討死。鳴海城を開城。義元の首級を確保。
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5
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刈谷城攻撃
|
永禄3年5月(1560年)
|
今川氏
|
鳴海城開城後、駿府への帰途に刈谷城を攻撃し、城主・水野信近を討伐。
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勝利。水野信近を討ち取る。
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11
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小山城防衛戦
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天正3年(1575年)以降
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武田氏
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長篠の戦い後、小山城の在番として徳川家康軍の攻撃を度々撃退。
|
城を死守。武田勝頼からの評価を高める。
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18
|
第二次高天神城の戦い
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天正7年~9年3月22日(1579年~1581年)
|
武田氏
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高天神城主として徳川軍の長期包囲・兵糧攻めに耐え籠城。援軍なく、最後の突撃を敢行し討死。
|
敗北。討死。
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8
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引用文献
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岡部元信の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 戦国ガイド
https://sengoku-g.net/men/view/234
-
ぶらぶら岡部の郷 - 岸ぶら
https://kishibura.jp/sotokara/2020/04/okabe/
-
岡部氏館
http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kariyado.htm
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岡部元信- 維基百科,自由的百科全書 - 维基百科 - Wikipedia
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岡部元信とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
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[ID:10147] 岡部家古文書 : 資料情報 | 収蔵資料検索 | 藤枝市郷土 ...
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戦国!室町時代・国巡り(19)駿河編|影咲シオリ - note
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岡部元信・孕石主水・孕石正成のお墓(本覚寺) | さのすけの色々日記
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2022年度 私の読書ノート(教職員推薦図書) - 新見公立大学
https://www.niimi-u.ac.jp/index.cfm/9,6796,48,177,html
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血の城 / 鈴木英治【著】 <電子版> - 紀伊國屋書店ウェブストア ...
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福音館 あかちゃんの絵本
https://www.fukuinkan.co.jp/pdf/mokuroku.pdf
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【データ&アプリ】 戦国時代を舞台にした歴史小説:calilリンクつき ...
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日本占領下シンガポールにおける 文化政策 - 機関リポジトリ HERMES-IR
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日本近世文学会大会研究発表一覧
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『戦国無双5』斎藤道三、岡部元信、織田信行など、物語を彩る固有 ...
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『戦国無双5』開発者インタビュー。岡部元信や三淵藤英たちがなぜ選ばれた? 武器種の選抜基準とは? - 電撃オンライン
https://dengekionline.com/articles/80534/
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岡部元信 - 戦国無双5 - コーエーテクモゲームス
https://www.gamecity.ne.jp/sengoku5/character/character28.html
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【信長の野望 出陣】岡部元信の評価と性能 - ゲームウィズ
https://gamewith.jp/nobunaga-shutsujin/article/show/413481
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【信長の野望 覇道】岡部元信(SSR)の戦法と技能 - ゲームウィズ
https://gamewith.jp/nobunaga-hadou/article/show/404500
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【信長の野望 覇道】全武将の能力比較一覧 - ゲームウィズ
https://gamewith.jp/nobunaga-hadou/article/show/379696
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【どうする家康】鵜殿長照はなぜ死に際に天井を見上げたのか ... - note
https://note.com/barusan/n/n66db105f4f38