日本の戦国時代における謎多きキリシタン武将:明石全登の徹底調査
1. 序論:謎多きキリシタン武将、明石全登
明石全登(あかし てるずみ/ぜんとう/たけのり、あるいは掃部(かもん)とも)は、日本の戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活躍した武将である。彼の名は、宇喜多氏の重臣としての事績、関ヶ原の戦いや大坂の陣における勇猛な戦いぶり、そして何よりも熱心なキリシタン(キリスト教徒)であったという点で、日本の歴史において特異な光彩を放っている。しかしながら、その生涯の多くは謎に包まれており、特に大坂の陣以降の消息は諸説紛々として、今日に至るまで歴史家や歴史愛好家の探求心を刺激し続けている
1
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本報告書は、この明石全登という人物に焦点を当て、現時点で入手可能な史料や研究成果に基づき、その出自、宇喜多氏への仕官、関ヶ原の戦いでの役割、キリシタンとしての信仰、大坂の陣での活躍、そして謎に満ちた最期と後世の伝承に至るまで、詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。
明石全登に関する情報は断片的であるものの、関ヶ原の戦いや大坂の陣といった日本の歴史を揺るがした重要な出来事において、彼が無視できないほどの活躍を見せたことは複数の史料から確認できる
1
。特に、大坂の陣で豊臣方が敗北した後の彼の消息不明という事実は、徳川幕府にとって彼の存在がいかに厄介なものであったか、そして民衆にとって彼の存在がどれほど英雄視される素地を持っていたかを物語っている。徳川家康が「明石通緝(あかしおきてがき、明石手配の意)」と呼ばれるほど執拗にその行方を追ったという逸話
1
は、全登が単なる敗軍の将ではなく、幕府にとって潜在的な脅威と認識されていたことを強く示唆している。これは、彼のキリシタンとしての影響力や、大坂の陣での際立った奮戦ぶりから来るものであったと考えられる。
本報告書を通じて、明石全登が戦国末期から江戸初期という激動の時代にどのような役割を果たし、なぜ後世にまで多様な伝承を残すことになったのか、その理由を探求する。
2. 出自と家系
明石全登の生涯を理解する上で、まず彼の出自と家系、そして多様な呼称について整理しておく必要がある。
生誕と死没:
明石全登の生年は不詳である 1。歴史研究者の小川博毅氏は、永禄12年(1569年)前後に備前国保木城(現在の岡山市)で生まれた可能性が高いと指摘している 11。没年については、元和4年(1618年)に病死したとする説 1 や、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦死したとする説 4 など諸説あるが、確定していない。
氏族と家系:
全登は備前明石氏の出身である 1。父は明石景親(かげちか)とされ、史料によっては行雄(ゆきお)、守行(もりゆき)とも記される 1。母はモニカといい、宇喜多直家の異母妹であったと伝えられている 1。
妻子:
全登の妻は宇喜多直家の娘であった 1。このため、全登は宇喜多秀家(直家の子)とは義兄弟の関係にあたった 3。子としては、景行(かげゆき)、内記(ないき)、小三郎(こさぶろう)といった男子、そしてカタリナ、レジイナという娘の名が伝わっている 1。
別名・呼称の多様性:
明石全登は、生涯を通じて様々な名前で呼ばれていた。
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諱(いみな、実名):
守重(もりしげ)が有力とされるが、景盛(かげもり)、守之(もりゆき)、全職(ぜんしょく、まさもと)など複数の名が伝えられており、正確なところは不明である
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通称:
掃部助(かもんのすけ)、掃部頭(かもんのかみ)、あるいは単に掃部(かもん)として知られる
1
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号:
全登(ぜんとう、てるずみ、たけのり、じゅすと)、全薑(ぜんきょう、読み方不詳)、道斎(どうさい)などがある
1
。特に「全登」の読み方については諸説あり、音読みで「ぜんとう」と読むのは法号(仏門に入った後の名)と解釈する場合であり、洗礼名に由来する当て字として「じゅすと」と読む説もある
11
。訓読みでは『翁草』が「たけのり」と傍訓を施しており、「てるずみ」は『日本人名大辞典』などに従ったものである
11
。歴史研究者の大西泰正氏は、「全登」という呼称が同時代の史料には見当たらず、全登自身も周囲の人間もそのように呼んでいなかった可能性を指摘している。この名は、大坂の陣後に編纂された史料で初めて確認されるものであり、真田信繁を「幸村」と呼ぶのと同様の問題を内包していると論じている
11
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キリシタン名(洗礼名):
ジョアンニ・ジスト(Giovanni Giusto)が有力であるが、ジョアン(João)、ジョパンニ・ジュストなどとも記録されている
1
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官位:
従五位下・左近将監(さこんのしょうげん)に叙せられたとされる 1。
これらの情報をまとめたものが以下の表である。
表1:明石全登の基本情報
項目
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詳細
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本名(諱)
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守重(景盛、守之、全職などの説あり)
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通称
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掃部助、掃部頭、掃部
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号
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全登、全薑、道斎
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読み方(全登)
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てるずみ、ぜんとう、たけのり、じゅすと(諸説)
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生年
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不詳(永禄12年(1569年)頃説あり)
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没年
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不詳(元和4年(1618年)説、慶長20年(1615年)説など)
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キリシタン名
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ジョアンニ・ジスト(ジョアン、ジョパンニ・ジュスト)
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父
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明石景親(行雄)
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母
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モニカ(宇喜多直家の異母妹)
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妻
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宇喜多直家の娘
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主な子
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明石景行、明石内記、小三郎、カタリナ、レジイナ
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官位
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従五位下・左近将監
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このように、明石全登に関する基本的な情報、特に呼称については多様な説が存在する。この事実は、彼の生涯に関する記録が断片的であることや、後世の評価によって人物像が形成されていった可能性を示唆しており、歴史上の人物を研究する上での史料批判の重要性を物語っている。また、母が宇喜多直家の異母妹であり、妻も直家の娘であるという二重の血縁関係は、宇喜多家中における全登の立場を強固なものにし、後の宇喜多騒動や関ヶ原の戦いでの彼の行動に少なからぬ影響を与えたと考えられる
1
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3. 宇喜多氏の重臣として
明石全登は、その武将としてのキャリアの大部分を宇喜多氏の家臣として過ごした。彼の宇喜多家中での地位と役割は、その後の彼の運命を大きく左右することになる。
仕官の経緯:
全登の父である明石景親(行雄)は、当初、備前国で勢力を持っていた浦上宗景に仕えていた。しかし、天正3年(1575年)頃、浦上氏が宇喜多直家によって滅ぼされる際に、景親は直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多氏の家臣となった 11。全登も父の跡を継ぎ、宇喜多直家、そしてその子である宇喜多秀家に仕えることとなった 1。
宇喜多家中での地位:
全登は、備前国保木山城(現在の岡山市内にあったとされる)の城主であり、3万3千石の知行を有していた 3。これは宇喜多家臣団の中でも最大の領地の一つであった 4。さらに、豊臣秀吉の直臣としても知行を得ており、宇喜多家からの知行と合わせて10万石取りの大名格であったともいわれる 10。この石高は、彼が宇喜多家において単なる一武将ではなく、極めて重要な地位にあったことを示している。
宇喜多騒動と家宰就任:
慶長4年(1599年)、宇喜多家において「宇喜多騒動」と呼ばれる深刻な御家騒動が勃発する 11。この騒動は、宇喜多秀家が新参の家臣を重用したことに対し、古くからの家臣たちが反発したことなどが原因とされている 24。結果として、戸川達安、岡越前守、そして秀家の従兄弟にあたる坂崎直盛(宇喜多忠家の子)、花房正成といった有力な重臣たちが宇喜多家を出奔し、家宰であった長船綱直が殺害されるなど、家中は大きな混乱に見舞われた 11。この危機的状況の中、明石全登が新たな家宰(筆頭家老)として起用され、混乱した宇喜多家中の取りまとめにあたることになった 3。多くの重臣が去った中で全登がこの重責を担った背景には、彼のキリシタンとしての立場、宇喜多秀家との強固な姻戚関係、そして彼自身の能力に対する秀家の信頼があったと考えられる。
キリシタン信仰の影響:
宇喜多秀家自身もキリシタンに改宗し、家臣にも改宗を勧めたと伝えられている 3。この時期、宇喜多家中の吏僚派の家臣たちは皆キリシタンに改宗していたという記録もあり 3、全登の家宰就任には、彼の熱心なキリシタンとしての立場も影響した可能性が考えられる。宇喜多家におけるキリスト教の受容が進んでいた状況は、当時のキリスト教の広まりと、それが大名家の内部統治に与えた影響の一端を示している。全登がこの中で、単に信仰を共有するだけでなく、秀家の宗教政策を支える重要な役割を果たしたことは想像に難くない。この家宰としての経験は、彼の政治的手腕を磨くとともに、宇喜多家、ひいては豊臣家への忠誠心を一層強固なものにした可能性がある。
4. 関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、明石全登の武将としての能力と忠誠心を天下に示す場となった。
西軍への参加:
豊臣秀吉の死後、徳川家康が急速に台頭し、天下の実権を握ろうとする動きを見せると、これに反発する石田三成らを中心に西軍が結成された。宇喜多秀家は、豊臣家から受けた多大な恩顧に報いるため、西軍の主要メンバーとして参戦を決意する 3。明石全登も主君・秀家に従い、宇喜多軍の中核としてこの歴史的な戦いに身を投じた。
宇喜多軍における役割:
宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いにおいて西軍最大の兵力である1万7千を率いた 3。明石全登は、この大軍の中で副将格 5、あるいは先鋒として8,000の兵を指揮したと伝えられている 1。
前哨戦での活躍:
本戦に先立つ前哨戦においても、全登は目覚ましい活躍を見せた。
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伏見城攻略:
関ヶ原の戦いの序盤、西軍による伏見城の攻略戦(慶長5年7月~8月)に参加し、戦功を挙げた
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杭瀬川の戦い:
慶長5年(1600年)9月14日、美濃国杭瀬川(現在の岐阜県大垣市)付近で行われた杭瀬川の戦いでは、石田三成の家老である島左近と共に東軍の中村一栄隊に奇襲をかけ、これを打ち破り勝利を収めた
1
。この戦いで宇喜多勢は中村一栄の家老・野一色助義らを討ち取るなど、東軍に打撃を与え、西軍の士気を高めた
14
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関ヶ原合戦本戦(慶長5年9月15日):
関ヶ原の本戦において、宇喜多勢は西軍の中央最前線に布陣し、東軍の福島正則隊と激しく衝突した 1。この戦闘は関ヶ原合戦の中でも最も激しいものの一つとされ、明石全登の指揮のもと、宇喜多勢は鉄砲隊を巧みに運用し、一時は福島勢を後退させるなど勇猛果敢に戦った 10。しかし、戦いの最中、西軍に属していた小早川秀秋の大軍が突如として東軍に寝返り、西軍は総崩れとなった 1。
敗走と秀家への進言:
小早川秀秋の裏切りを知った宇喜多秀家は激怒し、単騎で小早川の陣へ討ち入ろうとした。この時、明石全登が秀家を諫め、「再度の決戦に備えて命を惜しみ、戦場離脱を謀るべし」と説得し、大坂城への撤退を進言したと伝えられている 1。この進言は、単なる忠誠心からだけでなく、状況を冷静に分析し、将来の再起を見据えた戦略的判断であったと言える。全登自身は殿軍(しんがり)を務め、主君である秀家の安全な離脱を助けるという危険な役割を引き受けた 1。
戦後の潜伏:
関ヶ原の戦いで西軍が敗北した後、宇喜多家は改易され、明石全登は浪人の身となった 1。彼は岡山城へ退いたものの、既に城は荒らされており、主君・秀家とも連絡が取れず、そのまま出奔したとされる 1。
その後の消息については諸説あるが、母モニカや明石一族がキリシタン大名であった黒田如水(孝高)の庇護を受けたことから、全登自身も如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之に匿われたという説が有力である 1。黒田如水の母は明石氏の出身であり 8、血縁関係があったこと、そしてキリシタンという共通の信仰が、この庇護を可能にしたと考えられる。如水の死後、その子である黒田長政がキリスト教を禁止したため、全登は柳川藩主であった田中忠政を頼ったとも、あるいは長崎に移ったとも伝えられている 1。また、降伏後に許されて出家し、「道斎」と号したという説もある 3。
この潜伏期間は、彼にとって雌伏の時であり、後の大坂の陣への参加に向けた準備期間であったと解釈することもできる。
5. 大坂の陣:キリシタン武将としての再起
関ヶ原の戦いから十数年の潜伏期間を経て、明石全登は再び歴史の表舞台に登場する。慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣は、彼にとってキリシタン武将としての信念を貫き、旧主への忠義を示す最後の戦いの場となった。
豊臣方への参加経緯と理由:
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発する直前、豊臣秀頼からの招きに応じ、明石全登は大坂城に入城した 3。その参加理由については、いくつかの説が伝えられている。最も有力なのは、徳川幕府によるキリスト教禁教政策への反発、すなわち「信仰上の問題」であったというものである 1。また、関ヶ原の戦い後に八丈島へ流罪となっていた旧主・宇喜多秀家の赦免と帰還、そしてキリシタンの保護を豊臣方に約束させ、それを条件に参加したという説もある 1。全登は十字架を先頭に掲げた部隊を率いて大坂城に堂々と入城し、彼の参加を知った多くのキリシタン浪人が、全登を頼って豊臣方に馳せ参じたと伝えられている 5。この事実は、当時のキリシタンコミュニティにおける全登の求心力の高さを示している。
大坂牢人五人衆:
大坂城に入った全登は、真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親、後藤又兵衛といった名だたる武将たちと共に「大坂牢人五人衆」の一人に数えられ、豊臣方の中心的な戦力として期待された 3。かつて10万石取りの大名格であった彼の武勇と指揮能力は、浪人衆の中でも際立っていたと考えられる 7。
大坂冬の陣(慶長19年、1614年):
冬の陣において、全登は三ノ丸の守衛を担当したとされる 12。また、同じく豊臣方の中心人物であった後藤又兵衛と真田信繁の間で戦術を巡る諍いが起きた際に、全登が仲裁に入ったという逸話も残っている 10。一方で、戦闘中に砦を留守にしてしまい、その隙に蜂須賀至鎮の軍勢に砦を陥落させられるという失態を演じたとする記述もある 10。これが事実であれば、鴫野・今福の戦いに関連する砦であった可能性が考えられるが、この戦いに関する史料 31 には全登の名が直接的には見られず、詳細な検証が待たれる。
大坂夏の陣(慶長20年、1615年):
冬の陣が和議によって一旦終結した後、慶長20年(1615年)に再び戦端が開かれ、大坂夏の陣が始まった。全登はこの最後の決戦においても、豊臣方として獅子奮迅の働きを見せる。
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道明寺の戦い(5月6日):
夏の陣緒戦である道明寺の戦いにおいて、豊臣方の先鋒・後藤基次が突出して奮戦するも戦死し、豊臣軍は苦戦を強いられた。その中で、明石全登の部隊は徳川方の水野勝成、神保相茂、伊達政宗の軍勢と激しく交戦した 1。全登隊は敵軍を混乱に陥れ、伊達政宗の軍勢と神保相茂の軍勢が同士討ちを始める事態を引き起こしたと伝えられている 8。ただし、この同士討ちの具体的な状況や規模については史料によって詳細が異なり、慎重な検討が必要である 23。この激戦の中で、全登自身も負傷した 1。
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天王寺・岡山の戦い(5月7日):
大坂夏の陣の雌雄を決する天王寺・岡山の戦いにおいて、明石全登は最後の望みを賭けた作戦に参加する。真田信繁、毛利勝永らと連携し、徳川家康本陣への決死の突撃を計画した 9。全登は、かつて蒲生氏郷に仕えた小倉行春と共に300余名の決死隊を率い 1、茶臼山(天王寺口)の北西、木津川の堤防沿いに別働隊として布陣した 9。作戦では、徳川軍の陣形が伸びきって家康本陣が手薄になったところを迂回して突入し、家康の首を獲るというものであった 9。
しかし、戦況は豊臣方にとって絶望的であった。天王寺口で奮戦していた真田信繁隊や毛利勝永隊が相次いで壊滅したことを知ると 1、全登は計画されていた家康本陣への直接攻撃を断念せざるを得なかった。それでも彼は諦めず、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎といった徳川方の諸将が形成する厳重な包囲網の一角に突撃を敢行し、これを突破して戦場から離脱、その後の消息を絶った 1。
この時の全登の奮戦ぶりは敵方にも強い印象を与え、細川忠興は国許への書状の中で、真田信繁や後藤基次と並べて「明石掃部手柄にて」とその武功を称えている 3。
明石全登の大坂の陣への参加は、単なる浪人の再起というだけでなく、キリシタン信仰の自由獲得と旧主・宇喜多秀家の赦免という明確な政治的・宗教的目的を持ったものであった。この強い信念が、彼を大坂方の精神的支柱の一人たらしめ、絶望的な戦況の中でも最後まで戦い抜く原動力となったと考えられる。
6. 消息不明とその後の諸説
大坂夏の陣、天王寺・岡山の戦いで徳川方の重囲を突破し戦場を離脱した後、明石全登の消息はプツリと途絶え、その後の行方については様々な説が語り継がれている
3
。この謎に満ちた結末こそが、明石全登という武将を一層魅力的な存在にしている要因の一つと言えるだろう。
戦死説:
最も有力視される説の一つが、大坂夏の陣で戦死したというものである。
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徳川方の複数の史料、例えば『徳川実紀』や『大坂記』などには、全登が水野勝成の軍勢との戦闘中に、水野の家臣である汀三右衛門(みぎわ さんえもん)によって討ち取られたと記されている
9
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また、『石川家中留書』では、徳川方の武将・石川忠総が全登を討ち取ったとされている
11
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さらに、鈴木平兵衛という人物が鳳来寺に宛てた慶長20年(1615年)5月14日付の書状には、井伊直孝が全登の首を獲り、それが佐和山城に送られたという記述もある
11
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あるアンケート調査では、「大坂城落城の混乱の中で戦死したが、家臣によってその遺体が隠された」という説が35%で最も多くの支持を集めたという記録もある
33
。 このように、討ち取ったとされる人物や状況が史料によって異なる点は、戦死説の確実性をやや揺るがせるものの、戦場で命を落とした可能性は高いと考えられる。
国内潜伏説:
一方で、戦場を生き延び、日本国内のどこかに潜伏したとする伝承も数多く存在する。
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九州地方へ落ち延びたという説は、『大村家譜』や『山本豊久私記』といった史料に見られ、嫡子である内記と共に逃れたとされている
11
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四国の土佐国庄谷相村上久保(現在の高知県香美市)へ逃れたという伝承もあり、同地には明石全登の墓所とされるものが現存する
1
。これは『土佐国諸氏系図』などに基づいている
11
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東北地方の秋田県(津軽藩領)へ逃れ、津軽信枚の庇護を受けたとされる伝承も根強い。全登の3人の男子が弘前を離れて扇田(現在の秋田県大館市比内町扇田)に定住したとされ、その子孫を名乗る家や、全登から伝えられたとされる仏像が存在するという
11
。元国際連合事務次長を務めた明石康氏も、この地の明石一族の出身であり、全登の子孫であると伝えられている
11
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故郷である備前国(現在の岡山県)に帰って生涯を終えたという伝承もあり
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、備前市吉永町今崎には墓所や宅地跡と伝えられる場所が存在する
1
。また、美作国後山村(現在の岡山県美作市)に土着し農民となったという家伝も「東作誌」に記されている
11
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薩摩藩島津家が全登の子を召し抱えようとしたものの、キリシタンであるとの嫌疑がかかり、その子は処刑されたという記録も『島津家久袖判條書』に残っている
8
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海外逃亡説:
日本国内ではなく、海外へ逃亡したという説も存在する。
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南蛮(当時の東南アジアやヨーロッパ諸国を指す)へ逃亡したという説は、『戸川家譜』や『武家事紀』といった書物に見られる
1
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しかし、もし全登が南蛮へ渡ったとすれば、当時のイエズス会の詳細な報告書などにその記録が残っているはずであるが、そのような記述は見当たらないことから、この説の信憑性は低いと考えられている
11
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また、朝鮮半島において「日本の明石」を名乗る武士が賊を討伐したという逸話も伝えられているが、これも伝説の域を出ない
5
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徳川幕府による捜索:
徳川家康および三代将軍家光は、明石全登の行方を執拗に捜索したとされ、これは「明石通緝(あかしおきてがき)」あるいは「明石狩り」と呼ばれた 1。幕府がこれほどまでに全登の捜索に力を入れたのは、彼の卓越した武勇と、キリシタンたちへの強い影響力を恐れたためであると考えられている 10。
これらの諸説をまとめたものが以下の表である。
表2:明石全登の最期に関する諸説と根拠
説
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内容・根拠
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関連史料・伝承地
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戦死説
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大坂夏の陣で討死。水野勝成家臣、石川忠総、井伊直孝などが討ち取ったとする記録あり。
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『徳川実紀』、『大坂記』、鈴木平兵衛書状、石川家中留書
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国内潜伏説
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九州、土佐、秋田、備前、美作など各地に潜伏・土着したという伝承。子孫を名乗る家も存在。
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各地伝承、明石氏系図、家伝
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海外逃亡説
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南蛮(東南アジア)、朝鮮半島などへ逃亡したという説。
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『戸川家譜』、『武家事紀』、朝鮮半島での逸話
1
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多数の戦死説が存在するにもかかわらず、潜伏説や逃亡説がこれほどまでに根強く残っている背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、彼の熱心なキリシタンとしての信仰(カトリックでは自害を禁じている)が、戦場での安易な死を選ばなかったであろうという推測を生んだこと 5。第二に、大坂夏の陣での鮮やかな包囲網突破という離脱劇が、彼の生存への期待感を高めたこと。そして第三に、徳川幕府による執拗な捜索が、かえって彼の生存を人々に意識させ、英雄視する風潮を助長したことである。
各地に残る潜伏伝承や子孫を名乗る家々の存在は、史実としての正確性は慎重に検討する必要があるものの、明石全登という人物が人々の記憶に深く残り、語り継がれるだけの魅力と影響力を持っていたことの証左と言えるだろう。
7. 人物像の考察
明石全登の生涯を追うとき、その人物像は武将としての卓越した能力、キリシタンとしての篤い信仰、そして主君や仲間に対する忠誠心と義侠心といった要素が複雑に絡み合って形成されていることが見えてくる。
武将としての能力:
全登は、戦術眼と指揮能力に優れた武将であった。
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戦術眼・指揮能力:
関ヶ原の戦いにおいては、前哨戦である杭瀬川の戦いで島左近と共に奇襲を成功させ勝利に貢献し
1
、本戦では宇喜多軍の先鋒として福島正則隊と互角以上に渡り合った
1
。大坂の陣では、道明寺の戦いで後藤基次隊壊滅後も奮戦し、伊達・神保勢の同士討ちを誘発したとされ
8
、天王寺・岡山の戦いでは徳川家康本陣への決死の突撃を計画し、敗色濃厚な中で包囲網を突破して離脱するなど
1
、数々の戦いで高い指揮能力と戦術眼を示した。特に、不利な状況下でも冷静に戦況を判断し、大胆な作戦を敢行する点が彼の将器を物語っている
3
。
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統率力:
宇喜多騒動後の混乱した家中を家宰としてまとめ上げ
3
、大坂の陣では多くのキリシタン浪人を率いて豊臣方の中核を担ったことからも
5
、その統率力は高く評価される。
キリシタンとしての信仰の篤さ:
全登の生涯において、キリスト教信仰は極めて重要な位置を占める。
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彼は宣教師を自らの屋敷に住まわせて保護するほど熱心な信者であり
11
、その洗礼名はジョアンニ・ジスト(またはジョアン、ジョパンニ・ジュスト)であった
1
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大坂の陣への参加理由の一つが、徳川幕府の禁教政策に対する「信仰上の問題」であったとされ
1
、入城の際には十字架を先頭に掲げた部隊を率いたと伝えられる
5
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この篤い信仰は、彼の行動原理や生死観に大きな影響を与えたと考えられ、例えばカトリックの教義では自害が禁じられていることから、大坂の陣で敗れても自刃を選ばず、最後まで生き抜こうとした可能性が指摘されている
5
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彼の信仰は、単に個人的な内面の問題に留まらず、宇喜多家や大坂の陣における彼の政治的・軍事的行動と深く結びついていた
3
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性格(忠誠心、義侠心など):
史料や逸話から垣間見える全登の性格は、多面的である。
-
忠誠心:
主君・宇喜多秀家に対する忠誠心は非常に篤かった。関ヶ原の戦いで敗色濃厚となる中、激情に駆られて討ち死にしようとする秀家を冷静に説得して戦場から離脱させ、自らは危険な殿軍を務めた逸話は、その象徴である
1
。大坂の陣においても、八丈島に流された秀家の赦免を参加条件の一つとしたとされることからも
1
、旧主への想いの強さがうかがえる。
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冷静沈着かつ大胆:
関ヶ原での秀家への進言や、大坂夏の陣での家康本陣突撃計画などに見られるように、冷静な状況判断力と、一度決断すれば大胆に行動する勇猛さを併せ持っていた
3
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義侠心・影響力:
困窮するキリシタンの保護に努め、大坂の陣では多くのキリシタンが彼を頼って馳せ参じたとされることから、その義侠心と人々を引き付ける影響力を持っていた人物であったと考えられる
5
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一方で、『浦上宇喜多両家記』には「武気強精にして、常に荒くして家人など手討ちにすること数知れず、武道ももっとも強し。されどもさして勝れたる働きなき故にここには記さず」という評価も残されている
39
。これは、全登が気性の荒い一面を持っていた可能性を示唆するが、他の多くの史料や逸話が彼の優れた武将ぶりや忠誠心を示していることから、この評価は一面的なものか、あるいは特定の状況下での行動が誇張された可能性も考慮すべきである。
同時代および後世の評価:
明石全登の評価は、その活躍ぶりと謎に満ちた生涯から、同時代および後世において様々な形でなされている。
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大坂の陣での活躍は、敵方であった細川忠興からも「明石掃部手柄にて」と、真田信繁や後藤基次と並び称されるほど高く評価された
3
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徳川幕府からは、その武勇とキリシタンへの影響力を強く警戒され、大坂の陣後には「明石通緝」と呼ばれるほど執拗な捜索の対象となった
1
。
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後世においては、その消息不明という劇的な結末や、キリシタンとしての悲劇的な側面から、伝説化・英雄視される傾向が見られる
5
。彼の「行方不明」という結末が、後世の評価をより神秘的で英雄的なものにした側面は否定できない。実態が不明であるからこそ、理想化された武将像が投影されやすかったのであろう。
明石全登の人物像は、忠義、信仰、武勇という要素が複雑に絡み合って形成されている。キリシタン信仰が彼の倫理観や行動規範に与えた影響は計り知れず、これが彼の「義」や「忠」のあり方を、他の戦国武将とは異なる形で特徴づけたと考えられる。主君への忠誠が絶対視される武士社会において、信仰に基づく「神への忠誠」がどのように作用したのかは、彼の人物像を理解する上で重要な視点となる。
8. 史跡と伝承
明石全登の生涯は、日本各地にその痕跡や記憶を残しており、城跡、戦場跡、墓所とされる場所、そして潜伏したと伝えられる地が点在している。これらの史跡や伝承は、彼の波乱に満ちた人生と、後世の人々がいかに彼を記憶し語り継いできたかを物語っている。
ゆかりの地:
-
備前国保木山城(ほうきやまじょう):
現在の岡山市内にあったとされ、父・明石景親の居城であり、全登の生誕地とする説もある
3
。現在は土塁、曲輪、堀切、礎石、井戸などの遺構が残存しており、岡山市教育委員会による発掘調査も行われている
41
。
-
和気郡大俣城(おおまたじょう):
現在の岡山県備前市吉永町にあったとされ、全登が城主または家老を務めたと伝えられる
11
。
-
その他、宇喜多氏の本拠地であった
岡山城
、関ヶ原の戦いの前哨戦の舞台となった
伏見城
、そして最後の戦いの場となった
大坂城
も、全登の生涯と深く関わる城である
11
。また、潜伏説に関連して、津軽藩の
弘前城
も挙げられる
11
。
-
関ヶ原
(岐阜県不破郡関ケ原町)およびその前哨戦である
杭瀬川
(岐阜県大垣市)
15
。
-
大坂の陣における
道明寺
(大阪府藤井寺市)
18
、
天王寺・岡山
(大阪市天王寺区・阿倍野区付近)。
-
墓所・供養塔:
全登の墓所とされる場所は全国に複数存在するが、いずれも伝承の域を出ないものが多い。
-
岡山県備前市吉永町今崎:
宅地跡と共に墓所も伝えられている
1
。
-
岡山県瀬戸内市邑久町虫明:
墓所の伝承がある
1
。
-
高知県香美市香北町白石:
全登の墓と伝えられる石塔が存在する
1
。
-
潜伏伝承地:
大坂の陣以降、全登が潜伏したとされる場所も各地に存在する。
-
九州各地
11
。
-
土佐国上久保(現在の高知県香美市)
11
。
-
秋田県大館市比内町扇田(旧津軽藩領)
11
。
-
岡山県美作市後山村
11
。
-
備前国(現在の岡山県東部)には、キリシタンに関連する遺跡が点在しており、全登の活動と関連付けられるものもある
38
。
-
徳島県美郷村別枝山には、明石掃部(全登)が築いたとされる別枝塁の伝承が残る
4
。
-
堺や大坂にあった全登の屋敷には、フランシスコ会の宣教師などが滞在していた記録があり、彼の信仰生活の一端をうかがわせる
4
。
子孫に関する伝承と研究:
明石全登の子孫を称する家系は日本各地に存在するが、歴史学的な確証を得られているものは少ないとされる(小川博毅氏の研究による) 11。しかし、いくつかの家系については興味深い伝承や記録が残っている。
-
秋田県比内町の明石氏:
全登の子孫であると伝えられており、元国際連合事務次長を務めた明石康氏もこの一族の出身である
11
。家伝によれば、全登の三人の男子が津軽藩の庇護を受け、後に扇田に定住したとされ、全登ゆかりとされる仏像も伝わっているという
11
。
-
娘レジイナの子孫:
全登の娘であるレジイナは三好直政に嫁ぎ、その子である三好政盛は江戸幕府3代将軍徳川家光に仕えて出世を遂げている
11
。
-
岡山県備前市吉永町の武元氏:
農民学者として知られる武元君立(たけもと くんりゅう)やその兄・登々庵(ととあん)は、全登の子である景行の婿養子・武元正高の後裔であるとされている
11
。
-
薩摩藩での記録:
薩摩藩島津家が全登の子である小三郎を召し抱えようとしたが、キリシタンであるとの嫌疑がかかり、最終的に処刑されたという記録が『島津家久袖判條書』に残されている
8
。
全国各地に墓所や潜伏伝承地、子孫を名乗る人々が存在することは、明石全登という人物がいかに広範囲に影響を与え、人々の記憶に深く刻まれたかを示している。これらの伝承は、史実とは異なる部分を含む可能性が高いものの、彼がどのように受容され、語り継がれてきたかを知る上で貴重な民俗史的資料となる。特にキリシタン信仰と関連付けられた史跡や伝承が多いことは、彼が単なる武将としてではなく、殉教者的な、あるいは信仰の英雄としてのイメージを伴って記憶されたことを示唆している。また、子孫とされる人々の中に、近代以降も社会的に活躍する人物がいることは、血縁の真偽は別として、「明石全登」という名が持つ歴史的ブランド力のようなものが、ある種のアイデンティティとして機能してきた可能性を示している。
9. 研究史と史料
明石全登に関する歴史研究は、その謎多き生涯と断片的な史料という制約の中で、多くの研究者によって続けられてきた。ここでは主要な研究者とその業績、一次史料の分析と課題、そして創作物における全登像について概観する。
主要研究者とその業績:
-
大西泰正氏:
『宇喜多秀家と明石掃部』などの著作や論文を通じて、史料に基づいた実証的な研究を展開している
8
。特に、「全登」という呼称が同時代の史料に見られない点を指摘し、その使用については慎重であるべきとするなど、史料批判に基づいた鋭い分析を行っている
11
。
-
小川博毅氏:
『史伝 明石掃部―最後のキリシタン武将―』を著し、全登の生年の推定や、大坂の陣後の南蛮逃亡説の否定、各地に残る子孫伝承の分析など、多岐にわたる考察を行っている
8
。
-
松田毅一氏:
日本キリシタン史研究の大家であり、「一条兼定・明石掃部について」といった論文で、初期のキリシタン関連史料に基づいた全登研究の基礎を築いた一人である
4
。
-
フーベルト・チースリク氏:
イエズス会士としての視点から、「キリシタン武将―明石掃部―」や「明石掃部とその一族」といった論文を発表し、全登の信仰面からのアプローチを試みている
8
。
これらの研究者たちは、明石全登の生涯、特にその名前の読み方や呼称の問題、宇喜多家中での役割、関ヶ原の戦いや大坂の陣での具体的な行動、そして最も謎に包まれたその後の消息について、様々な史料を駆使し、多角的な分析を行っている。近年の研究では、従来の通説に再検討を加え、より実証的なアプローチによって人物像に迫ろうとする動きが見られる。
一次史料の分析と課題:
明石全登に関する一次史料は、残念ながら断片的であり、特に彼の内面や思想を直接示すものは乏しい。
-
同時代の記録としては、合戦に関する軍記物、武将の日記や書状、大名家の家譜などが存在するが、全登に関する記述は限られている。特に大坂の陣以降の消息については、徳川方の記録と、豊臣方の残党やキリシタン側の伝承とが錯綜しており、情報の取捨選択と批判的な検討が不可欠である
11
。
-
イエズス会やフランシスコ会といった宣教師たちの報告書や書簡などのキリシタン関連史料は、全登の信仰の篤さや当時のキリシタンの置かれた状況を知る上で非常に重要である。しかし、これらの史料も、彼の個人的な動向の全てを網羅しているわけではない
11
。
-
古文書、書簡、家伝、軍記物など、多様な種類の史料が存在するが、それぞれの史料が持つ性格(例えば、軍記物には脚色が含まれやすいなど)や成立した背景を十分に考慮した史料批判が、全登研究においては特に重要となる
48
。 この史料の制約と偏りが、研究者によって全登像の解釈が分かれる大きな要因となっており、「謎多き武将」としての彼のイメージを一層際立たせている。
創作物における明石全登像と史実との比較:
明石全登は、その劇的な生涯と謎に満ちた最期から、多くの歴史小説、漫画、ドラマ、ゲームなどの創作物の題材として取り上げられてきた 6。
-
創作物においては、悲劇のキリシタン武将、主君に忠義を尽くす勇将、あるいはクールでミステリアスな策士といったイメージで描かれることが多い傾向にある。
-
史実として不明な部分が多いため、作者の自由な解釈や創作が加えられる余地が大きく、作品によってその人物像にはかなりの差異が見られる
58
。
-
これらの創作物は、一般社会における明石全登のイメージ形成に大きな影響を与えている。史実の全登と創作上の全登像を比較検討することは、歴史上の人物がいかにして大衆文化の中で受容され、新たなイメージを付与されていくかという興味深いプロセスを明らかにする。
明石全登研究は、限られた史料の中から真実を追求し、人物像を再構築しようとする歴史学の営みそのものである。そして、彼を題材とした創作物は、その人物が持つ多面的な魅力を映し出し、歴史への関心を喚起する役割も担っていると言えるだろう。
10. 結論:明石全登が歴史に遺したもの
明石全登の生涯を概観すると、彼は戦国乱世の終焉から江戸幕府による新たな秩序形成へと向かう激動の時代を生きた、稀有な武将であったと言える。キリシタンとしての篤い信仰、主君・宇喜多秀家への揺るぎない忠誠、そして関ヶ原の戦いや大坂の陣で見せた卓越した武勇、これらが渾然一体となり、彼の特異な人物像を形成している。そして何よりも、大坂の陣以降の消息不明という謎に満ちた結末が、彼を歴史上忘れ難い存在として後世に記憶させることになった。
明石全登の生き様は、現代の我々に対しても、信仰と武士道、個人と組織、時代の大きな潮流と個人の選択といった、普遍的なテーマを問いかけてくる。彼は、自らの信念に従い、困難な状況下でも最後まで戦い抜こうとした。その姿は、敗者でありながらも、あるいは主流から外れた存在でありながらも、強い印象を残す。徳川幕府によって「明石通緝」として追われた事実は、彼の影響力と、幕府にとっての脅威の大きさを物語っている。
史料の制約から、彼の生涯の多くは依然として謎に包まれている。しかし、だからこそ明石全登は、後世の人々の想像力をかき立て、研究の対象となり、数多くの創作物の題材として取り上げられ続けてきた。彼の物語は、歴史の「もしも」を想起させ、未解明な部分が多いからこそ探求心を刺激し続ける。
明石全登が歴史に遺したものは、単なる戦国武将としての事績だけではない。それは、時代の転換期に翻弄されながらも、自らの信じる道を貫こうとした一人の人間の生き様そのものである。彼の存在は、徳川史観という勝者の視点だけでは捉えきれない、多様な価値観が交錯した戦国末期から江戸初期という時代の複雑さを象徴していると言えよう。そして、その謎に満ちた生涯は、歴史の奥深さと、一人の人間の生き様が持つ普遍的な力を、我々に示し続けているのである。
参考文献リスト(本報告書作成にあたり参照した主要な情報源に対応するものです。各史料の詳細は本文中の引用箇所をご参照ください。)
引用文献
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第12話 明石全登 - 豊臣秀頼と七人の武将ー大坂城をめぐる戦いー(木村長門) - カクヨム
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