最終更新日 2025-06-03

青木一矩

青木一矩

日本の戦国時代の武将「青木一矩」に関する調査報告

序章:青木一矩とは

青木一矩(あおき かずのり)は、安土桃山時代に活動した武将であり、豊臣秀吉の縁戚としてその政権下で重用された人物である。越前国に広大な所領を有し、最終的には北ノ庄(きたのしょう)城主として二十万石を領する大名へと昇り詰めた。しかしながら、その生涯、特に諱(いみな)や関ヶ原の戦いにおける動向については諸説が存在し、多くの謎に包まれた武将としても知られている。

本報告は、現存する史料に基づき、青木一矩の出自、豊臣政権下での事績、関ヶ原の戦いにおける立場、そして人物像や文化的側面を多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。特に、史料間の矛盾点や諸説ある点については、それぞれの根拠を提示しつつ、歴史学的考察を加えることとしたい。報告は、第一章で出自と家系、第二章で豊臣政権下での武将としての活動、第三章で関ヶ原の戦いと最期、第四章で人物像と文化的側面を扱い、最後に終章として青木一矩の歴史的評価と今後の研究課題について述べる構成とする。

第一章:出自と家系

青木一矩の出自や家系には、その名称を含め、複雑な情報と複数の説が存在する。

1.1 生誕と名称の錯綜:諱(一矩、重治、秀以、重吉)に関する諸説と検討

青木一矩の生年については、天文10年(1541年)とする説 1 がある一方で、生年不詳とする記録も見られる 2 。出身地に関しても、尾張国犬山 2 や美濃国 3 など、複数の説が提示されている。

さらに複雑なのは、彼の諱である。「一矩(かずのり)」という名が一般的に知られているが、史料によっては「重治(しげはる)」 5 、「秀以(ひでもち)」 3 、「秀政(ひでまさ)」 5 など、複数の名が伝えられている。『宮城家系図』には「青木紀伊守(越前北ノ庄城主)重治(一矩トモ)」とあり、また「秀政とも名をかえ」たと記されている 5 。通説では、初名を勘兵衛一矩とし、後に重治、豊臣秀吉から偏諱(へんき)を受けて秀以と改めたとする説や、「一矩→秀以→重吉→秀政」の順で改名したとする説が存在する 3

近年の研究において重要な指摘をしているのが、歴史学者の黒田基樹氏である。黒田氏は、青木一矩本人の発給文書や、慶長2年(1597年)に侍従に任じられた際の口宣案(くぜんあん、朝廷の正式な辞令書)といった一次史料において確認できる実名は「重吉(しげよし)」のみであるとし、今後は「青木重吉」と表記すべきであると主張している 3 。これに対し、高柳光寿氏は、一次史料に見られる自署の花押(かおう)が難解で諱が判読不明であるとして、「青木紀伊守」という通称を用いるべきとした 3 。この諱の同定問題は、一矩の人物像を正確に捉え、史料の信頼性を評価する上で極めて重要な論点となる。

このような名称の錯綜は、青木一矩という人物に関する基礎的な情報すら確定が難しい状況を示唆している。豊臣秀吉との個人的な繋がりによって急速に台頭した武将であったため、代々続く伝統的な武家のように家系や記録が十分に整備されていなかった可能性が考えられる。また、関ヶ原の戦い前後の混乱期における記録の散逸や不確実性、さらには後世の編纂物における誤伝や、子孫による何らかの意図的な情報操作(例えば徳川政権下での配慮など)が影響している可能性も否定できない。

1.2 血縁:父母(豊臣秀吉の叔母とされる母・大恩院)、兄弟、豊臣家との関係

青木一矩の血縁関係、特に豊臣家との繋がりは、彼の生涯を理解する上で不可欠な要素である。

通説によれば、父は青木重矩(しげのり)、通称は勘兵衛、別名を一董(いっとう)といった 3 。父・重矩と青木重直(しげなお、刑部卿法印浄憲)との関係については諸説あり、重矩の甥 6 や従兄弟 6 とされる場合や、史料によっては同一人物の可能性も示唆されるが、明確な結論は出ていない。青木重直は美濃の出身で、土岐氏、斎藤道三、丹羽長秀、そして豊臣秀吉に仕えたと記録されている 10

母は、大恩院(だいおんいん)と称される女性である。彼女は豊臣秀吉の生母である大政所(おおまんどころ、天瑞院)の妹(一説には姉)とされ、したがって青木一矩は秀吉の叔母(または伯母)の子、すなわち従兄弟にあたるとされる 3 。この説の有力な根拠となっているのが、秀吉自身が大政所の侍女に宛てたとされる書状の中に「われらおばのきのかみはゝ(紀伊守の母)」という一節が見られることである 3 。母方の祖父は美濃の刀工であった関兼定(せきかねさだ)、あるいは兼員(かねかず)、兼貞(かねさだ)とも伝えられている 3 。この関氏との繋がりから、加藤清正とも遠縁にあたる可能性が指摘されている 8

一方で、前述の黒田基樹氏は、一矩の母が秀吉の「おば」であることは書状から認めつつも、異なる視点を提示している。黒田氏は、福島正則と青木一矩(重吉)の二人のみが豊臣政権下で「公家成(くげなり)・羽柴名字」という破格の厚遇を受けたことに着目し、彼らは秀吉の「父方の従兄弟」であった可能性を主張している 3 。しかし、秀吉の父方の系譜には不明な点が多く、この説は現時点では仮説の域を出ないとされる 3

兄弟としては、矩貞(のりさだ)、通称半右衛門がいたとされ、女子の存在も伝えられている 3

一矩が秀吉の従兄弟(母方か父方かは議論があるものの)であったという事実は、彼の豊臣政権内での急速な昇進を理解する上で最も重要な鍵である。秀吉は縁故者を積極的に登用する傾向があり、一矩もその恩恵を最大限に受けたと考えられる。黒田氏の「父方の従兄弟」説がもし正しければ、母方だけでなく父方からも秀吉との強い繋がりがあったことになり、その寵愛ぶりをより強く裏付けることになるが、現時点では母方の縁戚としての側面がより確実性が高いと言えよう。

1.3 一族:美濃青木氏の系譜と土岐氏との関わり

青木氏は、美濃国(現在の岐阜県南部)にルーツを持つとされる武家である 3 。現存する『青木系図』によれば、藤原氏魚名(うおな)流を称し、元弘年間(1331年~1334年)に恒良親王を奉じて千種忠顕らと共に挙兵した青木以季(もちすえ)・義季(よしすえ)親子の8代目の子孫が一矩であるとされている 3

美濃における青木氏は、古くは土岐氏に仕え、その後、斎藤氏、織田氏、豊臣氏へと主君を変えていった系統が存在する 11 。例えば、前述の青木重直(刑部卿法印浄憲)の父とされる青木重藤(しげふじ)も土岐氏に仕えたと伝えられている 10

同じく美濃出身の青木氏で著名な人物に、青木一重(かずしげ)がいる。一重の系統は丹治氏(たんじし)を称し、土岐氏、斎藤氏、今川氏、徳川氏、丹羽氏、そして豊臣氏に仕え、最終的には摂津国麻田藩(あさだはん)の藩主となった 3 。一矩の家系と一重の家系との関係については、『青木系図』では曽祖父を同じくする、すなわち同族であるとされている 3 。しかし、この記述は『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』といった江戸幕府編纂の公式系図集との整合性が取れない点があり、一矩側あるいは一重側による仮冒(かぼう、系図を偽ること)や偽称(ぎしょう)の可能性も研究者によって指摘されている 3

「青木氏」と一口に言っても、美濃国内には複数の系統が存在し、それぞれが異なる主君に仕え、独自の歴史を歩んでいたことがわかる。一矩の系統と、麻田藩主となった一重の系統との関係が系図上では近いとされながらも、称する氏(藤原姓対丹治姓)の違いや史料間の矛盾から、その繋がりには不確実性が伴う。これは、戦国時代の武家が自家の権威付けのために系図を編纂・改変することが一般的であったこと、また、秀吉による抜擢で大名へと成り上がった一矩が、自身の家系の箔付けを図った可能性を示唆しているのかもしれない。

1.4 家族:妻、子(徳川家康側室となった娘・お梅の方/蓮華院、嫡男・俊矩)、子孫(青木庄左衛門家)

青木一矩の家族構成についても、断片的ながら記録が残されている。

妻としては、高樹院殿榮岳松縏大禅尼(こうじゅいんでんえいがくしょうばんたいぜんに)、西陽院殿榮誉安長大禅尼(せいよういんでんえいよあんちょうたいぜんに)という二人の法号が伝えられているが、その詳細は不明である 3

子については、以下の人物が知られている。

  • 青木俊矩(あおき としのり) : 嫡男とされ、通称は善右衛門。父同様、豊臣秀吉・秀頼に仕えたが、関ヶ原の戦いの結果、青木家が改易されると、加賀の前田利長に預けられ、後に金沢で死去したと伝えられる 3 。一説には、一矩の実子ではなく、弟である矩貞の子で、一矩の猶子(ゆうし、養子の一種)であったともされる 3
  • 蓮華院(れんげいん) : 通称はお梅の方(おうめのかた)。天正14年(1586年)に生まれ、正保4年(1647年)に没した 3 。彼女の生涯は、青木家と徳川家との関わりを示す上で注目される。慶長5年(1600年)、15歳の若さで徳川家康の側室となった 3 。その後、家康の腹心であった本多正信(ほんだ まさのぶ)の子で、下野国小山藩主であった本多正純(ほんだ まさずみ)の継室(けいしつ、後妻)として嫁いだ 3 。しかし、夫である正純が元和8年(1622年)に改易されると、蓮華院も出家し、伊勢の梅香寺(ばいこうじ)などで晩年を過ごしたと記録されている 3 。『幕府祚胤伝(ばくふそいんでん)』などの記録によれば、彼女が家康の側室となった背景には、家康の外祖母にあたる華陽院(けよういん、青木氏出身とされる)との縁戚関係が挙げられている。しかし、一矩の系統が丹治青木氏ではないことから、この説には疑問が呈されており、豊臣家との繋がりを憚って(はばかって)徳川家側が何らかの由緒を求めた結果の仮冒であった可能性も指摘されている 3
  • 光岩院(こうがんいん) : 娘。法号は光岩院殿華清法春大姉(こうがんいんでんかせいほっしゅんだいし)。青木紀伊守の娘と記録されているが、詳細は不明である 3

子孫については、越前府中(現在の福井県越前市武生地区)において、青木庄左衛門家が青木一矩の末裔を称し、江戸時代を通じて酒造業を営む豪商「平吹屋(ひらぶきや)」として知られていた 17 。家伝によれば、一矩の嫡子・俊矩の四男にあたる昌矩(まさのり、通称は庄左衛門)がその始祖とされ、関ヶ原の戦い後に南条郡平吹村に蟄居(ちっきょ)していたところ、越前に入封した結城秀康(ゆうき ひでやす、徳川家康の次男)から府中に屋敷を与えられ、代々続いたという 17 。同家には「青木庄左衛門家文書」として、青木一矩と豊臣家・徳川家との関係を示す可能性のある記録や系図、酒造関係の古文書などが伝えられている 17

娘・蓮華院(お梅の方)が徳川家康の側室となり、後に本多正純の継室となった事実は、青木家と徳川家との間に浅からぬ繋がりが生じたことを意味する。これは、関ヶ原の戦いにおける一矩の立場(後述するように諸説ある)や、その後の青木家の処遇(嫡男・俊矩は改易されたものの、子孫の庄左衛門家は越前で存続を許された)に何らかの影響を与えた可能性が考えられる。特に、関ヶ原の戦いで西軍に与したとされる大名の娘が、敵対勢力の総帥であった家康の側室となるのは異例であり、その背景には高度な政治的配慮や、蓮華院自身の資質、あるいは前述の華陽院との縁戚関係(その真偽はともかくとして、そのような名目が利用された可能性)などが複雑に絡み合っていたと推測される。

表1:青木一矩 呼称・官位一覧

呼称(諱、通称)

官位

典拠史料 (Snippet ID)

備考

一矩(かずのり)

1

通説

重治(しげはる)

3

『宮城家系図』など。一矩の別名とされる

秀以(ひでもち)

3

秀吉からの偏諱説あり

重吉(しげよし)

3

黒田基樹氏による一次史料(口宣案など)に基づく説

秀政(ひでまさ)

3

『宮城家系図』など。一矩の別名とされる

勘兵衛(かんべえ)

2

通称、初名説あり

紀伊守(きいのかみ)

紀伊守

1

最も一般的に用いられる官名・通称

(羽柴)侍従

従五位下侍従

3

慶長2年(1597年)叙任。豊臣姓を賜る

(羽柴)侍従

従五位上侍従

1

一部史料に見られる記述。従五位下からの昇進か誤記か検討が必要

羽柴越府侍従、羽柴府中侍従、羽柴北庄侍従

3

侍従任官後の称。越府は越前府中の意味か。北庄は北ノ庄城主としての称。

第二章:豊臣政権下での武将として

青木一矩は、豊臣秀吉との血縁を背景に、豊臣政権下で武将として着実にその地位を向上させていった。

2.1 仕官と主君:豊臣秀長、秀吉、秀頼への臣従

豊臣秀吉の従兄弟 3 という出自は、一矩のキャリア形成において決定的な意味を持った。彼は豊臣家の一門衆として特別な待遇を受けたとされる 3 。その具体的な仕官の経緯については、最初は秀吉の弟である羽柴秀長(豊臣秀長)に仕え、その後、天正15年(1587年)頃に秀吉本人に直仕するようになったと推測されている 3 。秀吉の死後は、その後継者である豊臣秀頼に仕えた 3

2.2 城主歴と知行:播磨立石城から越前大野城、府中城、そして北ノ庄城二十万石に至る変遷

青木一矩の城主としての経歴と知行高の増加は、豊臣政権内での彼の地位向上を明確に示している。

天正11年(1583年)、羽柴秀長が播磨国姫路城主となった際、但馬国有子山(ありこやま)城の城代を青木一矩が務めたとする記録がある 26 。その後、天正15年(1587年)頃には、九州征伐における軍功により、播磨国立石(たていし)城主となったとされる 1 。ただし、立石城の所在地については、摂津国とする史料も存在し、明石城との誤記や歴代城主との混同の可能性も指摘されている点に留意が必要である 3

程なくして、一矩は越前国に戻され、大野城主として八万石を領するに至った 1 。大野城への入城年は不明確であるが、金森長近(かなもり ながちか)の飛騨転封後と考えられている 1

文禄元年(1592年)または文禄3年(1594年)頃には、木村重茲(きむら しげこれ)の旧領であった越前府中城(現在の福井県越前市武生)に移り、十万石(一部史料では八万石)を領有した 1

そして慶長4年(1599年)2月5日、豊臣政権の重鎮であった小早川秀秋(こばやかわ ひであき)が越前北ノ庄から筑前・筑後(現在の福岡県)へ転封となったことに伴い、一矩は秀吉の遺命により越前北ノ庄城(現在の福井県福井市)へ移り、二十万石(一説には二十一万石)という広大な所領を与えられた 1 。この北ノ庄への転封は、実際には同年1月半ばには既に決定していたことが、浅野長政(あさの ながまさ)・石田三成(いしだ みつなり)の連署状から確認できる 22

一矩の城主歴とそれに伴う知行高の着実な増加は、豊臣政権、特に秀吉からの彼に対する信頼と期待の高さを示す明確な指標と言える。有子山城代という立場から始まり、播磨、越前大野、府中、そして最終的に豊臣家にとって重要な拠点の一つである北ノ庄二十万石の大名へと昇進した過程は、彼が単なる縁者としてだけでなく、実務能力もある程度評価されていた可能性を示唆する。ただし、その評価が純粋な能力によるものであったのか、あるいは血縁による引き立てが主たる要因であったのかについては、慎重な検討を要する。

2.3 官位と通称:「紀伊守」「従五位下侍従」などの官位と「羽柴府中侍従」といった称について

青木一矩は、その生涯を通じていくつかの官名や通称で呼ばれている。最も一般的に知られているのは「紀伊守(きいのかみ)」という官名(受領名)である 1

慶長2年(1597年)7月21日には、従五位下侍従(じゅごいのげ じじゅう)に叙任され、同時に豊臣姓を賜った 3 。これにより、彼は「羽柴越府侍従(はしばえっぷじじゅう)」や「羽柴府中侍従(はしばふちゅうじじゅう)」、「羽柴北庄侍従(はしばきたのしょうじじゅう)」などと称されるようになった 3 。これらの呼称は、彼が越前府中や北ノ庄の領主であったこと、そして羽柴(豊臣)一門であることを示している。

一部の史料、例えば大野市のウェブサイトに掲載されている歴代大野城主の記述では、一矩の官位を「従五位上(じゅごいのじょう)侍従」としているものもある 1 。この点については、従五位下から従五位上への昇進が実際にあったのか、あるいは史料の誤記や後世の混同によるものなのか、さらなる検討が必要である。

従五位下侍従への叙任と豊臣姓の下賜は、一矩が豊臣政権において正式に大名としての地位を認められ、一門衆としての格付けを受けたことを意味する。特に「羽柴」の名字を称することは、豊臣家との一体性を示すものであり、これは秀吉からの信頼の証左と言えるだろう。従五位下という官位は、当時の有力大名に与えられる標準的なものであり、彼が政権内で一定の序列に位置づけられたことを示している。「従五位上」説が事実であれば、さらに高い評価を受けていたことになるが、その典拠の確実性を慎重に検証する必要がある。

2.4 主要な軍役:小田原征伐、文禄の役への従軍と役割

豊臣政権下の大名として、青木一矩も主要な軍事行動に参加している。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げとも言える小田原征伐に従軍した。『小田原陣陣立(おだわらじんじんたて)』によれば、この時、一矩は1,000名の兵を率いていたとされる 3

文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)にも従軍している。記録によれば、1,000人(あるいは1,400人)の兵を率いて、朝鮮への渡海拠点であった肥前国名護屋城(現在の佐賀県唐津市)に在陣していた 3 。実際に朝鮮半島へ渡海して戦闘に参加したかどうかの具体的な記録は、現存する資料からは明確ではない。しかし、名護屋城に在陣中、家臣である八木村与四郎が無断で国に帰ったとして処罰し、追放したという記録が残っており 3 、陣中での統率権を行使していたことがわかる。また、文禄3年(1594年)には、秀吉が島津義久(しまづ よしひさ)に命じて建造させていた船舶10隻の受領を、寺沢広高(てらざわ ひろたか)と共に務めている 3 。この任務は、兵站や輸送に関わる後方支援的な役割を担っていた可能性を示唆している。

2.5 慶長の役への関与:史料に基づく考察

慶長2年(1597年)から始まった慶長の役(再度の朝鮮出兵)における青木一矩の具体的な従軍記録や陣立、軍功に関する明確な情報は、提供された資料からは乏しいのが現状である 3

一部の資料では、関ヶ原の戦い時の状況として「当時病気が重くなっており、実際の軍事行動には参加できなかった」と言及されているものがあるが 24 、これは慶長の役ではなく、その後の関ヶ原の戦いに関する記述である。また、秀吉死後の政治状況や大名の配置について触れている資料 29 も存在するが、一矩の慶長の役における具体的な活動については不明である。

文禄の役においては名護屋城に在陣し、船舶受領といった後方支援的な役割を担った可能性が示唆されるものの、慶長の役における一矩の具体的な活動は史料上判然としない。これは、彼が最前線での戦闘よりも兵站維持や国内統治といった役割を期待されていた可能性、あるいは単に史料が欠落していることによるものか、さらなる調査が必要な点である。彼が従五位下侍従に叙任されたのが慶長2年(1597年)であり、これは慶長の役が開始された時期と重なるため、何らかの形で関与していた可能性は高いと考えられるが、その詳細は依然として不明である。

2.6 秀吉薨去:遺物拝領と葬儀での役割

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉がその波乱に満ちた生涯を終えた。秀吉の死は、豊臣政権の行く末に大きな影響を与える出来事であった。

青木一矩は、秀吉の遺物として刀「太郎坊兼光(たろうぼうかねみつ)」を賜ったと記録されている 3 。これは、秀吉との個人的な繋がりの深さを示すものと言えよう。

さらに重要なのは、秀吉の葬儀における一矩の役割である。彼は、同じく秀吉の従兄弟である福島正則(ふくしま まさのり)と共に、幼い豊臣秀頼の名代(みょうだい、代理人)を務めたと伝えられている 3

秀吉の遺物を拝領し、葬儀で秀頼の名代という重責を担ったことは、一矩が秀吉の死後も豊臣家、特に幼主秀頼を支える重要な一門衆として位置づけられていたことを明確に示している。特に葬儀での名代は、秀頼に代わってその権威を代表する立場であり、一門の中でも特に信頼された人物に任される役割である。これは、彼が単に血縁者であるだけでなく、豊臣政権の儀礼的な側面においても一定の役割を期待されていたことをうかがわせる。

第三章:関ヶ原の戦いと最期

豊臣秀吉の死後、豊臣政権内では徐々に権力闘争が顕在化し、やがて関ヶ原の戦いという形で天下分け目の決戦へと至る。青木一矩もまた、この激動の時代に翻弄されることとなる。

3.1 北ノ庄入封の経緯:五大老連署の領地宛行状と背景

前章でも触れた通り、青木一矩は慶長4年(1599年)2月5日、越前北ノ庄二十万石への転封を命じられた。この大規模な領地替えは、豊臣秀吉の遺命に基づき、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家ら、当時の豊臣政権を支える五大老の連署による領地宛行状(あてがいじょう)によって正式に行われた 22 。これは、小早川秀秋が越前北ノ庄から筑前・筑後へ移封されたことに伴うものであった 22

この転封は、実際には同年1月14日付の浅野長政・石田三成の連署状にもその名が見えることから、1月の半ばには既に内定していたと考えられる 22 。そして、この決定と同時に、一矩の旧領であった府中と、彼が代官として預かっていた豊臣氏の蔵入地(直轄領)は、浅野長政と石田三成の二人が代官として支配することになったと記録されている 22

一矩の北ノ庄二十万石への入封は、秀吉死後の豊臣政権における大名再配置の一環であり、五大老体制下での重要な決定事項であった。五大老連署の宛行状が存在することは、この時点ではまだ五大老による集団指導体制が形式上は機能していたことを示している。しかし、その後の歴史的展開、特に徳川家康の急速な台頭を考えると、この一連の大名配置換えが、後の関ヶ原の戦いに向けての各勢力による布石の一つであった可能性も否定できない。一矩自身がこの配置換えにどのような政治的意図を持っていたのか、あるいは単に政権の決定に受動的に従っただけであったのかは、現存する史料からは判然としない。

3.2 関ヶ原前夜の動静:大谷吉継への情報伝達など

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが目前に迫る中、越前北ノ庄城主であった青木一矩は、北陸地方の緊迫した情勢の中にあった。この時期、東軍方についた加賀の前田利長・利政軍が南下し、西軍方の大聖寺城を攻撃、城主の山口宗永(やまぐち むねなが)らが自刃するという事件が起きる。この危機的状況を、一矩は盟友であり西軍の主要武将であった大谷吉継(おおたに よしつぐ)に急報したと伝えられている 35

史料によっては、この時の青木一矩を「臆病」と評するものも存在する 35 。また、戦国時代を題材とした創作物の中には、大谷吉継(作中では吉隆の名で登場)が北ノ庄城を訪れた際、一矩が強大な前田軍の勢いを恐れ、大坂からの援軍をひたすら期待する弱気な態度を示し、結果として吉継に城の指揮権を半ば奪われるかのような描写も見られる 36 。ただし、このような記述は小説的な脚色を多く含む可能性が高く、史実としてそのまま受け取ることはできない。

大谷吉継への情報伝達という行動は、当時の北陸における軍事的情勢の緊迫度と、一矩と吉継との間に一定の連携関係があったことを示している。しかし、「臆病」という評価や、小説に見られるような描写が、彼の実際の性格や軍事指揮官としての能力を正確に反映しているとは限らない。危機的状況における慎重な判断が、結果として消極的あるいは臆病と見なされた可能性や、敵対勢力による意図的な悪評であった可能性も考慮すべきである。あるいは、実際に軍事指揮官としての力量に限界があったのかもしれないが、断定は難しい。

3.3 関ヶ原の戦いにおける立場:西軍加担説、東軍内通説、病気不参加説の比較検討

関ヶ原の戦いという天下分け目の決戦において、青木一矩がどのような立場を取ったのかについては、史料によって記述が異なり、未だ確定していない。主な説としては以下の三つが挙げられる。

  • 西軍加担説 : 多くの史料や研究では、青木一矩は石田三成や大谷吉継らが率いる西軍に属したとされている 1 。例えば、ある資料では、西軍に加担したものの、当時病気が重く、実際の軍事行動には参加できなかったと記されている 24 。また、大野市のウェブサイトに掲載されている歴代城主の解説でも、西軍に与したと明記されている 1
  • 東軍内通説(または東軍方説) : 一方で、徳川家康率いる東軍に味方した、あるいは内通していたとする説も存在する 3 。特に注目されるのは、一矩の末裔とされる青木庄左衛門家の家伝において、「関ヶ原の戦いでは最終的に徳川方についた」と伝えられている点である 17
  • 不参加・病死説 : 関ヶ原の戦いには直接参戦せず、合戦直後の慶長5年(1600年)10月10日 37 、あるいは10月6日 1 に病死したとする説。これが事実であれば、彼は直接的な戦闘行為には関与できなかったことになる。

一矩の関ヶ原における立場がこれほどまでに錯綜しているのは、彼が実際に病気などの理由で明確な行動を取れなかったこと、あるいは当時の情報が錯乱した結果である可能性が高い。また、子孫である青木庄左衛門家が徳川政権下で家名を保つために、先祖の立場を「最終的に徳川方についた」と記録し、伝えた可能性も十分に考えられる。さらに、第一章で述べたように、娘・蓮華院(お梅の方)が徳川家康の側室となっていたという事実も、この立場の曖昧さを助長し、あるいは徳川方への何らかの配慮を生んだ一因となったのかもしれない。いずれにせよ、この関ヶ原における動向の不明確さが、青木一矩の歴史的評価を一層難しくしている要因の一つであることは間違いない。

3.4 最期:慶長五年(1600年)の病没とその後の青木家

関ヶ原の戦いにおける立場がどうであれ、多くの史料が一致して伝えるのは、青木一矩がその直後である慶長5年(1600年)10月に病死したという事実である 1 。没日については、10月6日とする説 1 と、10月10日とする説 5 がある。『宮城家系図』にも「慶長五年に没している」との記述が見られる 5

死因は病死とされており、具体的な病名や亡くなった場所、その時の詳しい状況についての詳細な記述は、現存する資料からは乏しい 38

青木一矩の死後、青木家は改易され、越前北ノ庄二十万石の所領は没収された 1 。嫡男とされた俊矩は、前田利長に預けられることとなり、後に金沢でその生涯を終えたと伝えられる 3 。しかし、その俊矩の子孫とされる青木庄左衛門家は、後に越前に入封した結城秀康の庇護を受け、越前府中で酒造業を営む豪商として家名を存続させることとなった 17 。この事実は、徳川家との間に何らかの繋がりや配慮があったことを示唆している。

表2:青木一矩 関ヶ原の戦いにおける立場と最期に関する諸説

主な内容

典拠史料 (Snippet ID)

提唱者・関連人物

備考

西軍加担説

石田三成方の西軍に属した。病気のため積極的な軍事行動は取れなかった可能性あり。

1

笠谷和比古氏など

多くの研究で支持されている。

東軍内通説/東軍方説

徳川家康方の東軍に味方した、あるいは内通していた。

3

黒田基樹氏(「重吉」として)、青木庄左衛門家伝

子孫の家伝に見られる。娘・蓮華院の徳川家康側室入りとの関連も考えられる。

不参加・病死説

関ヶ原の戦いには直接参加せず、合戦直後に病死した。

1

没日は慶長5年10月6日説と10月10日説がある。これが事実であれば、戦いにおける直接的な役割はなかったことになる。

最期(共通認識)

慶長5年(1600年)10月に病死。

上記各説の典拠史料の多く

死因は病死。死後、青木家は改易され所領没収。嫡男・俊矩は前田家預かりとなり、子孫の一部(青木庄左衛門家)は越前府中で存続。

第四章:人物像と文化的側面

青木一矩は、武将としての側面だけでなく、当時の文化人としての素養も持ち合わせていたようである。また、断片的な記録からは、その人物像の一端をうかがい知ることができる。

4.1 茶人としての一面:千利休門下としての活動

青木一矩は、戦国時代から安土桃山時代にかけて茶の湯文化を大成させた千利休(せんのりきゅう)に師事した茶人としても知られている 3 。また、名物と称される高価な茶器を所持していたとも伝えられている 3

残念ながら、具体的な茶会への参加記録や、彼が所持していた名物茶器の種類や詳細に関する情報は、提供された資料からは多くを見出すことができない。しかし、一矩が千利休門下の茶人であったという事実は、彼が単なる武辺一辺倒の武将ではなく、当時の支配階級にとって重要な教養の一つであった茶の湯文化にも通じていたことを示している。これは、豊臣政権下で高い地位にあった武将としては自然なことであり、彼の文化的素養や、茶の湯を通じた人脈形成の一端をうかがわせる。千利休との関わりは、彼自身の美意識や精神性にも少なからぬ影響を与えた可能性があるが、具体的な逸話が乏しいため、その詳細は不明である。

4.2 史料に見る人物評:書状や記録からうかがえる性格や能力

青木一矩の人物像や能力については、史料に残る記述は断片的であり、多角的な評価が必要となる。

前述の通り、大谷吉継への急報の際に「臆病な青木一矩を北ノ庄に置いたせいで苦労した」と記された史料が存在する 35 。これは、彼の軍事指揮官としての評価や性格の一端を示す可能性があるが、特定の状況下における一方的な評価である可能性も考慮しなければならない。

一方で、文禄2年(1593年)、肥前名護屋城に在陣中、家臣が無断で国元へ帰ったことに対し、厳しく処罰し追放したという記録も残っている 3 。これは、主君としての厳格な一面、あるいは規律を重視する姿勢を示していると言えよう。

また、越前府中に在城していた文禄4年(1595年)頃には、領内である大滝村(現在の福井県越前市)の紙匠(ししょう、和紙職人)であった三田村掃部(みたむら かもん)らに宛てた書状が残されている。この書状の中で一矩は、領内の山(へこ四村之内)で金(かね)が見つかる見込みがあるとの情報を得て、油断なく念入りに調査し、状況を逐一報告するよう命じている 41 。これは、領国経営、特に財源確保に対する積極的な姿勢を示すものと考えられ、大名としての資質の一端をうかがわせる。

しかしながら、具体的な内政手腕や、特筆すべき武功に関する詳細な評価や逸話は、提供された資料からは限定的である 18

一矩に関する人物評は断片的であり、時には矛盾しているように見えるかもしれない。「臆病」という評価がある一方で、家臣への厳格な対応や領国経営への関心も示している。これらは、彼の多面性を示しているのか、あるいは評価する立場や置かれた状況によって、異なる側面が強調された結果である可能性も考えられる。特に金山開発への関心を示す書状は、彼が単に秀吉の縁者というだけでなく、領主として自領の経済基盤強化を意識していたことを示す具体的な史料として重要である。全体として、一面的ではない、複雑な人物像を念頭に置く必要がある。

4.3 近江石部・真明寺との伝承

青木一矩の一族に関する伝承は、越前だけでなく、近江国(現在の滋賀県)にも残されている。

近江国甲賀郡石部(いしべ、現在の滋賀県湖南市石部地区)に所在する真明寺(しんみょうじ)の寺地が、古くは青木右衛門佐(あおき うえもんのすけ)という人物の屋敷跡であったという伝承がある 5 。この右衛門佐は、青木一矩の子であるとされている。江戸時代に編纂された地誌『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』には、この右衛門佐について、織田信長の被官であった紀伊守一矩の子どもであると記されているものの、その真偽については不明であると付記されている 49

また、第一章でも触れた『宮城家系図』には、「青木紀伊守(越前北ノ庄城主)重治(一矩トモ)――青木右衛門(江州石部居住)太夫」という記述が見られ 5 、一矩の子が江州(ごうしゅう、近江国)石部に居住していた可能性を示唆している。

湖南市の歴史をまとめた『新修石部町史』には、「真明寺と青木氏」という項目が存在するが 50 、その具体的な内容の詳細については、湖南市デジタルアーカイブ(ADEAC)などで本文を直接閲覧する必要がある 5 。『近江輿地志略』を引用する形で、真明寺の寺地が青木右衛門佐の屋敷跡とされること、また、正福寺の青木氏も佐々木氏の幕下であったことなどが記されている 5

近江国石部における青木氏の伝承、特に一矩の子とされる右衛門佐と真明寺との関連は、中央での活動が主であったと考えられる一矩の家系が、地方にも分流あるいは縁故者を残していた可能性を示唆する。これが事実であれば、青木家のネットワークや影響力が、本拠地であった越前だけでなく、近江にも及んでいたことになる。ただし、これらの伝承の信憑性については慎重な検証が必要であり、『近江輿地志略』の記述や『宮城家系図』の内容を、他の信頼性の高い史料と照らし合わせる作業が求められる。

終章:青木一矩の歴史的評価と課題

青木一矩は、豊臣秀吉の縁戚という出自を最大限に活かし、豊臣政権下で大名にまで昇り詰めた武将である。その功績は、北ノ庄二十万石という知行高にも表れている。しかし、その地位は秀吉個人の恩恵に大きく依存していた側面が強く、彼自身の独自の軍事的才能や卓越した政治的手腕によって歴史に名を刻んだというよりは、豊臣政権の一翼を担う存在としての役割が大きかったと推察される。特に、豊臣政権の存亡がかかった関ヶ原の戦いという危機的状況において、彼が明確な指導力を発揮できたかについては、史料の錯綜もあり疑問が残る。

青木一矩の研究における最大の課題は、史料の制約である。諱の特定、正確な生没年の確定、そして関ヶ原の戦いにおける具体的な動向など、人物を理解する上での基礎的な情報においてさえ不明瞭な点が多い。このため、今後の研究においては、一次史料のさらなる発掘と精密な分析が不可欠である。特に、黒田基樹氏が提起した「重吉」という実名に関する問題は、引き続き重要な検討課題となるだろう。

また、福井県文書館に所蔵される「青木庄左衛門家文書」 17 や、三田村家に伝わる一矩の書状を含む「三田村家文書」 41 など、地方に残る関連史料のより詳細な分析も期待される。これらの史料は、一矩の領国経営や人物像について新たな光を当てる可能性がある。

さらに、娘・蓮華院(お梅の方)を通じた徳川家との関係が、青木家の後世の歴史や一矩自身の評価にどのような影響を与えたのかという点についても、さらに掘り下げる余地がある。

青木一矩は、豊臣秀吉という稀代の英雄の縁者として歴史の表舞台に登場し、一定の地位を築いたものの、その生涯は多くの謎と矛盾に満ちている。彼を正確に評価するためには、まず基礎的な史実の確定が不可欠であり、そのためには現存史料の丹念な再検討と、未発見史料の探索が求められる。特に、彼の諱を「重吉」とする黒田説の妥当性や、関ヶ原での動向の真相解明は、今後の研究における重要な課題である。また、彼個人の資質や能力だけでなく、豊臣政権という枠組みの中で彼が果たした役割、そして徳川の世へと移行する中で彼の一族がどのように生き残りを図ったのかという、より広い視点からの考察も重要となるだろう。

参考文献

本報告書作成にあたり参照した主要な史料、研究には以下のようなものが含まれる。

  • 『宮城家系図』 5
  • 『青木系図』 3
  • 『福井県史』 22
  • 『大野市史』 37
  • 『近江輿地志略』 5
  • 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年 3
  • 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典』コンパクト版、新人物往来社、1990年 3
  • 高柳光寿・松平年一『戦国人名辞典』増訂版、吉川弘文館、1981年 3
  • その他、各スニペットに記載のある個別の史料名、論文、書籍。

引用文献

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  5. 【真明寺と青木氏】 - ADEAC https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht030660
  6. 2 青木紀伊守一矩と秀吉の母方一族 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/aoki/aokiitizoku2.htm
  7. 青木一矩とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E4%B8%80%E7%9F%A9
  8. 秀吉の出自(大政所の血族) - 戦国徒然(麒麟屋絢丸) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/1177354054892328522
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