赤井家清(あかい いえきよ、1525年 - 1557年)は、日本の戦国時代に丹波国(現在の兵庫県丹波市及び京都府の一部)を拠点とした国人領主である。若くして戦功を重ね、赤井氏の勢力拡大に貢献したが、香良合戦での戦傷がもとで33歳という若さでこの世を去った 1 。その生涯は、弟であり「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井(荻野)直正の華々しい活躍の陰に隠れがちであり、家清自身の詳細な実像は十分に解明されているとは言い難い。
本報告は、現存する史料及び研究資料に基づき、赤井家清の出自、生涯、彼を取り巻く一族や丹波の情勢、さらには家紋や菩提寺といった文化的側面までを多角的に調査し、その歴史的実像を可能な限り明らかにすることを目的とする。特に、家清個人に関する一次史料は限られている可能性を念頭に置きつつ、弟・直正に関する記述や関連史料を丹念に読み解き、家清自身の事績と、赤井氏の発展における彼の位置づけを考察する。
丹波赤井氏は、河内源氏の名門、源頼季(みなもとの よりすえ)の後裔を称する一族である。伝承によれば、頼季の嫡男である井上満実(いのうえ みつざね、信濃源氏井上氏)の三男・家光(いえみつ、または家満)が、故あって丹波国に配流され、現地の地名にちなんで葦田氏(あしだし)を名乗ったことが、その始まりとされる 2 。この葦田氏は、丹波半国の押領使(おうりょうし)を代々務めたとも伝えられている 3 。
戦国時代の武家にとって、自らの出自を清和源氏のような名門に求めることは、領国支配の正統性を補強し、他の国人領主に対する優位性を示す上で重要な意味を持った。しかしながら、『姓氏家系大辞典』などの研究では、室町時代から戦国時代にかけて、武家が自らの家系を権威づけるために系図を仮冒(かぼう)する例が少なくなかったことも指摘されている 4 。したがって、赤井氏が称する清和源氏という系譜も、その信憑性については慎重な検討を要する。ただし、そのような系譜を「持つ」こと自体が、当時の社会における赤井氏の立場や戦略を示すものとして理解することも重要である。赤井氏が具体的に井上氏、そして葦田氏という系譜を主張している点は、単なる自称に留まらず、何らかの伝承や根拠に基づいていた可能性も示唆される。
葦田家光の子孫である為家(ためいえ)が、父・朝家(ともいえ)から丹波国の氷上郡(ひかみぐん)・天田郡(あまだぐん)・何鹿郡(いかるがぐん)の三郡を譲り受け、初めて「赤井」の姓を名乗ったとされている 2 。この「赤井」という名字は、氷上郡新郷の赤井野(現在の兵庫県丹波市氷上町赤井周辺)という地名に由来すると考えられ 5 、在地領主としてのアイデンティティを明確にする意図があったと推測される。
しかし、赤井氏の丹波における勢力確立は平坦な道ではなかった。承久3年(1221年)の承久の乱において、為家の父・朝家は所領を没収されたという記録があり 3 、その後の赤井氏がどのようにして丹波で再興し、戦国期に有力国人として台頭するに至ったのか、その過程は詳細には不明な点が多い。
赤井氏が歴史の表舞台に具体的にその名を現すのは、16世紀に入ってからである。永正十七年(1520年)三月十二日の条として、『守光公記』(もりみつこうき)には「赤井兵衛大夫(あかい ひょうえのだいふ)」が禁裏御料(皇室領)であった栗作郷(くりつくりごう、現在の丹波市山南町小川地区)を違乱し、押領したという記述が見られる 6 。これが、赤井氏に関する史料上の初見とされている。この赤井兵衛大夫は、後の系図から赤井伊賀守五郎忠家(あかい いがのかみ ごろう ただいえ)と比定されており、彼は赤井家清の祖父にあたる人物である 6 。この記録は、当時の赤井氏がすでに中央の権益にも影響を及ぼしうる在地勢力として活動していたことを示している。
さらに、大永六年(1526年)には、細川高国と波多野元清が争った神尾山城(かみおやまじょう)の戦いにおいて、「赤井五郎」(赤井忠家または赤井時家とされる)が波多野元清に加勢して細川尹賢(ほそかわ ただかた)軍を破ったことが、『言継卿記』(ときつぐきょうき)に記されている 3 。これらの記録は、赤井氏が16世紀前半には丹波国において一定の軍事力を有し、地域の政争に関与する有力な国人領主として存在していたことを示している。
江戸時代中期に幕府によって編纂された『寛政重修諸家譜』は、諸大名および旗本の系譜を集成した基本史料であり、その巻二百四十四「清和源氏頼季流 赤井」の項に赤井氏の系図が収録されている 8 。
同書によれば、赤井氏は清和源氏頼季流とされ、葦田家満(井上姓も称す)を祖の一人として記載している 8 。この家満から数代を経て、赤井家清の父である赤井時家(あかい ときいえ)、そして家清本人、その子・赤井忠家(あかい ただいえ)、家清の弟である赤井直正(あかい なおまさ、後の荻野直正)へと繋がる系譜が記されている 2 。特に 6 の記述は、『寛政重修諸家譜』を典拠として、家清の子・忠家の生母が波多野晴通の娘(すなわち家清の夫人)であること、そして家清の死後に直正が幼い忠家の後見人となったことを明確に示している。
一方で、赤井直正の位置づけについては、家繁(為家の孫、家茂の子とされる)の嫡男・基家(清茂の兄)の系統、すなわち赤井氏の嫡流とは異なる傍流の系統に属するとされている点も注目される 8 。
『寛政重修諸家譜』は、江戸幕府の公式記録として一定の信頼性が置かれるものの、その編纂は各家から提出された先祖書などの資料に大きく依存している 12 。そのため、特に戦国期以前の古い時代に関する記述については、各家の由緒を飾るための潤色や、伝承に基づく部分が含まれる可能性を考慮する必要がある。 4 が指摘するように、戦国期以降の武家系図には仮冒も少なくないため、『寛政重修諸家譜』の赤井氏に関する記述も、戦国期の赤井氏の実像をそのまま反映しているとは限らない。むしろ、江戸時代に赤井氏の子孫(旗本などとして存続した家系)が、自らの家系をどのように認識し、主張していたかを示す史料としての価値が大きいと言える。戦国期の赤井氏の動向をより正確に把握するためには、同時代の他の史料との比較検討が不可欠である。
年代(西暦/和暦) |
赤井家清の動向 |
関連事項(赤井氏・丹波情勢など) |
主要史料典拠 |
1525年(大永5年) |
丹波氷上郡後屋城主・赤井時家の嫡子として誕生 |
当時の丹波は守護細川氏の権威が揺らぎ、国人領主が割拠。中央では細川高国と晴元の対立が継続。 |
1 |
1533年(天文2年) |
細川晴国方についた波多野秀忠に攻められ、父・時家と共に播磨三木城の別所就治を頼り一時退避 |
細川晴元・三好元長と細川晴国の抗争が丹波にも波及。赤井氏は晴元方であったが、波多野秀忠の転身により攻撃を受ける。 |
2 |
1536年(天文5年)頃 |
細川晴国の自害後、丹波に帰還し、旧領の回復に着手 |
赤井氏、丹波での勢力再建を開始。 |
2 |
時期不詳 |
波多野元秀(または晴通)の娘と婚姻 |
赤井氏と波多野氏の間に同盟関係が成立。丹波国内での赤井氏の立場が強化される。 |
2 |
1555年(弘治元年) |
香良合戦で芦田氏・足立氏(細川氏綱・三好長慶方)と戦い負傷 |
赤井氏(細川晴元方)が勝利し、氷上郡における支配権をほぼ確立。弟・直正もこの合戦で負傷。この戦いは丹波の覇権を巡る重要な戦いであった。 |
1 |
1557年(弘治3年) |
2月6日、香良合戦で負った傷がもとで死去(享年33歳)。通称は右兵衛(または五郎)。官名は兵衛大夫。 |
幼少の子・忠家が家督を相続。弟の赤井(荻野)直正が後見人となり、赤井一族の実権を掌握。家清の早逝は、直正の本格的な台頭を促す契機となる。 |
1 |
赤井家清は、大永五年(1525年)、丹波国氷上郡後屋城(ごやじょう、現在の兵庫県丹波市氷上町新郷)の城主であった赤井時家の嫡男として生を受けた 1 。家清が生まれたこの時代、丹波国は室町幕府の管領家の一つである細川氏が守護として統治していたが、その支配力には陰りが見え始めていた。細川京兆家内部では、細川高国と細川晴元の間で激しい権力闘争(両細川の乱)が繰り広げられ、その影響は丹波国にも及び、守護代であった内藤氏や、有力国人である波多野氏、そして赤井氏といった諸勢力が、それぞれ独自の勢力拡大を目指して離合集散を繰り返す、まさに戦国乱世の様相を呈していた 3 。このような中央政権の流動期は、地方の国人領主にとっては自立性を高め、勢力を拡大する好機ともなり得た。家清の幼少期は、こうした下剋上の風潮の中で、武将としての資質を磨く環境にあったと推測される。
史料には、赤井家清が「若くして数々の戦功を挙げた」との記述が見られる 2 。具体的な戦功に関する詳細な記録は乏しいものの、後述する香良合戦以前にも、彼が実戦経験を豊富に積んでいたことが示唆される。
天文二年(1533年)、畿内における細川氏の内紛は新たな局面を迎える。細川晴元およびその重臣であった三好元長らに対し、細川高国の弟である細川晴国が反旗を翻した。この時、丹波国多紀郡(たきぐん)の有力国人であった波多野秀忠は、当初属していた晴元方から晴国方に寝返り、同じく晴元方であった赤井氏を攻撃した。この攻撃により、赤井家清は父・時家と共に本拠地である後屋城を追われ、播磨国三木城(現在の兵庫県三木市)の城主・別所就治(べっしょ なりはる)を頼って一時的に亡命したと伝えられている 2 。
この一時的な亡命は、赤井氏にとって大きな試練であったが、同時に外部勢力との連携の重要性を認識する機会ともなったであろう。別所氏を頼ったという事実は、赤井氏が丹波国内だけでなく、隣国の播磨にも一定の人的繋がりを有していたことを示している。
その後、天文五年(1536年)に細川晴国が摂津国天王寺(現在の大阪市)で自害し、晴国方の勢力が瓦解すると、赤井氏は丹波への帰還を果たし、徐々に旧領を回復していった 2 。この旧領回復の過程は、単に軍事力によるものだけでなく、細川氏内部の力関係の変化や、他の国人領主との外交交渉などを巧みに利用した結果であったと考えられる。
丹波国に帰還し、勢力の再建を進める中で、赤井家清はかつて敵対関係にあった波多野氏との関係改善を図る。波多野秀忠の子である波多野元秀(はたの もとひで、史料によっては波多野晴通(はたの はるみち)とも記される 6 )の娘を正室として迎え入れ、これにより赤井氏と波多野氏の間に同盟関係が成立した 2 。
戦国時代において、有力な武家間の婚姻は、単なる家と家の結びつきに留まらず、軍事的・政治的な同盟を強固にするための重要な手段であった。赤井氏にとって、丹波国内で大きな勢力を持つ波多野氏との同盟は、他の競合勢力に対抗し、自らの立場を安定させる上で極めて大きな意味を持った。この婚姻同盟は、家清自身がその成立に深く関与したと考えられ、彼の外交的手腕の一端を示すものと言えるかもしれない。この同盟は、後の香良合戦や、内藤氏・三好氏といった他の勢力との抗争において、赤井氏が有利に事を進めるための重要な布石となった。
弘治元年(1555年)、赤井家清の生涯において、そして赤井氏の歴史において、一つの大きな転換点となる戦いが起こる。丹波国氷上郡香良村(現在の兵庫県丹波市氷上町香良)において、赤井氏とその同族である荻野氏は、同じく丹波の国人である芦田氏・足立氏の連合軍と激突した。これが香良合戦(こうらがっせん)である 1 。
この合戦の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。まず、畿内における細川京兆家の内紛が丹波国にも波及し、赤井氏は細川晴元方に、対する芦田氏・足立氏は細川氏綱(うじつな)を奉じる三好長慶(みよし ながよし)方にそれぞれ属していたため、この戦いは両派の代理戦争という側面も有していた 13 。さらに、赤井氏と芦田氏の間には、古くからの所領を巡る対立や、一族内の嫡庶(ちゃくしょ)関係を巡る争いがあったとも言われている。加えて、赤井氏の同族である荻野一族の内部対立も、この合戦の要因の一つとして挙げられる 14 。
香良合戦は激戦となり、戦闘は丸一日に及んだと伝えられる 13 。この戦いにおいて、赤井家清は奮戦したが、深手を負った 1 。弟である赤井(荻野)直正もまた、この合戦で重傷を負ったと記録されている 14 。家清がこの重要な戦いで負傷したという事実は、彼が単に後方で指揮を執るだけでなく、自ら前線に立って戦う勇猛な武将であったことを示唆している。
赤井家清の具体的な武勇伝については、香良合戦以外では「若くして数々の戦功を挙げた」という概括的な記述 2 に留まり、詳細な事例は現在のところ確認されていない 13 。
激戦の末、香良合戦は赤井・荻野連合軍の勝利に終わり、赤井氏はこの勝利によって氷上郡における支配権をほぼ完全に掌握するに至った 13 。
香良合戦の勝利は、赤井氏にとって丹波国内における勢力を飛躍的に拡大させる大きな契機となった。氷上郡を手中に収めたことで、赤井氏の経済的・軍事的基盤は著しく強化され、丹波における最有力国人の一つとしての地位を確固たるものにした。この勝利が、後に弟の直正が「丹波の赤鬼」として活躍するための重要な土台となったことは間違いない。
しかしながら、この栄光の戦いは、赤井家清個人にとっては悲劇的な結末をもたらすことになる。この合戦で負った傷が、彼の命を蝕んでいくのであった 1 。
弘治元年(1555年)の香良合戦で負った戦傷は、赤井家清の身体を徐々に蝕んでいった。そして、合戦から2年後の弘治三年(1557年)二月六日、家清はその傷がもとで、33歳という若さでこの世を去った 1 。武将として、まさにこれからさらなる活躍が期待される中での早すぎる死であった。彼の通称は右兵衛(うひょうえ) 1 、または五郎(ごろう) 2 とも伝えられ、官名は兵衛大夫(ひょうえのだいふ)であったとされる 2 。
赤井家清の死後、赤井氏の家督は、正室であった波多野元秀の娘との間に生まれた嫡男・忠家が継承した。しかし、忠家はこの時わずか9歳という幼少であったため 10 、政務や軍事を統率することは困難であった。そこで、家清の弟であり、既に荻野氏を継いで黒井城主となっていた赤井(荻野)直正が後見人として忠家を補佐し、赤井一族の家政と軍事を実質的に主導することになった 2 。
家清の早逝は、赤井氏にとって大きな損失であったことは間違いない。しかし、この出来事は同時に、類稀な武勇と指導力を持つ直正が赤井氏の表舞台に本格的に登場する直接的な契機となった。忠家への家督相続が比較的スムーズに行われた背景には、父・時家がまだ健在であり、惣領としての彼の存在が一族の結束を維持する上で大きな役割を果たしたこと 14 、そして何よりも直正という有能な後見人が存在したことが大きかったと考えられる。直正は、家清の未亡人(波多野氏出身)を自らの妻に迎えることで、波多野氏との同盟関係を継続させ、赤井氏の外交的立場を安定させたとも伝えられている 6 。
家清の死は、赤井氏内部の権力バランスを変化させ、その後の赤井氏の歴史を大きく左右する一つの転換点であったと言える。彼が築き上げた勢力基盤と外交関係は、弟・直正によって引き継がれ、さらに大きな飛躍へと繋がっていくことになる。
赤井時家は、家清およびその弟である直正、幸家らの父であり、戦国初期から中期にかけての赤井氏を率いた当主である 2 。本拠地は後屋城であった 2 。天文年間には、細川氏の内紛に巻き込まれ、波多野秀忠の攻撃を受けて一時的に丹波を追われ、嫡男の家清と共に播磨の別所氏を頼った経験を持つ 2 。
家清が若くして亡くなった後も、時家は惣領として健在であった。 14 の記述によれば、「惣領時家が健在であったため一族の結束に動揺はなかった」とされており、これは家清の死という危機的状況において、時家の存在が赤井氏内部の安定と結束を保つ上で非常に重要な役割を果たしたことを示唆している。特に、実力者である次男の直正が幼い忠家の後見人として実権を掌握していく過程で、父・時家の権威や承認が、一族内の混乱や分裂を防ぐ上で不可欠であった可能性が高い。時家の存在が、直正による家督簒奪といった事態を未然に防ぎ、赤井氏が一致団結して内外の困難に対処していくための基盤となったと考えられる。
赤井直正(一般には荻野直正として知られる)は、家清の弟であり、戦国時代の丹波国を代表する武将の一人である 2 。赤井時家の次男として生まれたが、若くして同族である丹波国氷上郡の黒井城主・荻野秋清(おぎの あききよ)の養子となり、荻野姓を名乗った 11 。
天文二十三年(1554年)、直正は養父(または叔父)である荻野秋清を宴席で刺殺し、黒井城を乗っ取ったとされる 21 。この事件が、彼の異名である「悪右衛門(あくえもん)」の由来の一つとも言われているが、当時の「悪」という言葉は、必ずしも道徳的な悪を示すのではなく、「強い」「勇猛な」といった意味合いで用いられることもあった 21 。
兄・家清が弘治三年(1557年)に亡くなると、直正は甥である赤井忠家(家清の子)の後見人として、赤井宗家をも実質的に統率する立場となった 2 。以後、彼は赤井氏と荻野氏の両勢力を背景に、丹波国内で急速にその影響力を拡大していく。武勇に極めて優れ、丹波国で随一の実力者であった内藤宗勝(ないとう そ しょう、松永久秀の弟)を討ち取るなど、数々の戦功を挙げ、その名は近隣諸国にも轟いた 21 。その勇猛さから「丹波の赤鬼」と恐れられた 21 。
後に織田信長の勢力が丹波に及ぶと、直正はこれに激しく抵抗し、明智光秀が率いる織田軍を一度は撃退する(第一次黒井城の戦い)など、その武名は一層高まった 21 。
家清と直正の関係については、香良合戦で共に戦い負傷していることからも 14 、兄弟として協力関係にあった時期があったことは確かである。しかし、直正の黒井城乗っ取りや、家清の死後の急速な台頭は、彼が単に忠実な弟であっただけでなく、強い野心と卓越した実力を兼ね備えた人物であったことを示している。家清の事績が、弟・直正の華々しい活躍の影に隠れてしまう傾向があるのは否めないが、家清の時代に築かれた赤井氏の基盤が、直正の後の飛躍を可能にしたという側面も考慮する必要があるだろう。
赤井忠家は、家清の嫡男として天文十八年(1549年)に生まれた 10 。母は、赤井氏と婚姻同盟を結んでいた波多野元秀(または晴通)の娘である 2 。
弘治三年(1557年)、父・家清が香良合戦の戦傷により33歳で死去したため、忠家はわずか9歳で赤井氏の家督を相続することになった 2 。幼少の当主であったため、叔父にあたる荻野直正が後見人として忠家を補佐し、赤井一族の実際の指導権を握った 2 。
成長した忠家は、叔父・直正と共に赤井氏を率い、戦国時代の激動の中に身を置くことになる。永禄十三年(1570年)には、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の仲介により織田信長に服属し、丹波奥三郡(氷上郡・天田郡・何鹿郡)の所領を安堵された 10 。しかし、元亀四年(1573年)に信長と将軍・足利義昭の対立が表面化すると、赤井氏・荻野氏は義昭方に与し、信長と敵対する立場を取った 10 。
天正三年(1575年)から始まる明智光秀による丹波攻略(黒井城の戦い)では、叔父・直正と共に籠城し、一度は光秀軍を退けるも(第一次黒井城の戦い) 10 、直正の病死後、天正七年(1579年)に黒井城は落城した 10 。敗れた忠家は丹波を離れ、遠江国二俣(現在の静岡県浜松市)へと逃れたとされている 10 。
その後、忠家は文禄元年(1592年)の朝鮮出兵の際に豊臣秀吉に仕え、播磨国美嚢郡(みのうぐん)に1,000石を与えられた 10 。しかし、豊臣秀長と不和になり、徳川家康への仕官を試みるなど、その境遇は必ずしも安定していなかったようである 10 。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、石田三成方の密書を家康に献上した功により、大和国十市郡(といちぐん)内に1,000石を与えられ、東軍として参戦した。戦後、さらに1,000石を加増され、合わせて2,000石を知行する旗本となった 10 。
慶長十年(1605年)四月二十九日、伏見において死去。享年57歳であった 10 。忠家は、父の早逝、叔父・直正の強大な影響力、そして織田信長による丹波平定という激動の時代の中で、赤井氏の家名を江戸時代へと繋いだ重要な人物であったと言える。彼の子孫は江戸幕府の旗本として存続した 10 。
赤井家清が生きた時代の丹波国は、複数の国人領主が覇を競い、また畿内中央の政情とも密接に連動していた。家清および赤井氏の動向を理解する上で、主要な関連氏族との関係性は不可欠な要素である。
これらの氏族との関係は、敵対と同盟が複雑に絡み合い、常に流動的であった。赤井家清(および父・時家)は、このような厳しい状況の中で、婚姻政策や軍事行動を通じて、赤井氏の存続と勢力拡大を図っていったのである。
赤井家清は、丹波国氷上郡後屋城主・赤井時家の嫡子として、この後屋城で生を受けたとされる 2 。後屋城(現在の兵庫県丹波市氷上町新郷に所在したと比定される)は、赤井氏の丹波における初期の、そして家清の時代における主要な本拠地であったと考えられる 5 。
後屋城の具体的な規模や構造、縄張りに関する詳細な史料は限定的である 13 。丹波市教育委員会などによる後屋城跡の発掘調査報告書が存在すれば、その内容から往時の姿を窺い知ることができるが、提供された資料の中には、後屋城跡の戦国時代に関する詳細な調査結果を示すものは確認できなかった( 95 は弥生時代など、より古い時代の遺跡調査に関するものが主であり、 7 は城郭の概略や他の城との比較に触れる程度である)。
一方、黒井城(現在の兵庫県丹波市春日町黒井)は、主に家清の弟である赤井(荻野)直正の居城として、また明智光秀との激戦の舞台として名高い 21 。直正は天文二十三年(1554年)に当時の城主・荻野秋清を討って黒井城を奪取し、その後、城の大規模な改修を行い、赤井氏の勢力拡大に伴う中心拠点へと発展させた 21 。
赤井家清が亡くなったのは弘治三年(1557年)であるため、彼の晩年には黒井城も赤井氏の重要な拠点の一つとなっていた可能性は否定できない。しかし、家清の生涯を通じての中心的な活動拠点は、やはり後屋城であったと考えるのが自然であろう。後屋城から黒井城への本拠地の実質的な移行は、家清の死後、直正が赤井氏と荻野氏の両勢力を完全に掌握し、その勢威を丹波一円に拡大していく過程で進行したと考えられる。この本拠地の変遷は、赤井氏の権力構造の変化(時家・家清から直正へ)や、対外戦略の転換(より広域支配を目指すための拠点整備)を象徴する出来事であったと言えるかもしれない。
家紋は、武家社会において自らの家系や出自、あるいは特定の集団への帰属を示す重要な標識であった。赤井氏においても、複数の家紋が使用されていたことが史料から確認できる。
赤井氏の家紋として最もよく知られているのは、「丸に結び雁金(まるにむすびかりがね)」 3 や、単に「雁金(かりがね)」 3 と呼ばれる紋である。雁金は渡り鳥であり、その群れて飛ぶ姿の美しさや、中国の古事に雁にまつわる忠誠の話があることなどから、武家に好まれた紋の一つである 53 。
また、「撫子(なでしこ)」の紋も赤井氏の重要な家紋として挙げられる 5 。 50 では、信濃源氏の井上実光が丹波に流されて芦田氏を称し、その分家が赤井氏となった際に、信濃源氏の雁金紋「丸に結び雁」と「撫子」を使用したと解説されている。
江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』の「赤井系図」には、赤井氏の家紋についてさらに詳細な記述があり、嫡流(本家)と庶流(分家)で用いられる紋に違いがあったことが示されている。同譜によれば、嫡流は「雁金・黒餅に撫子・劔雁金(けんかりがね)・蔦(つた)・十六葉菊(じゅうろくようぎく)・五七桐(ごしちのきり)」といった多様な紋を使用し、一方、庶流は「撫子・雁金」の二つを用いたとされている 14 。
家清の弟である荻野直正自身の家紋については、『赤井伝記』や『黒井城山軍書』などの記録に「御紋三つ巴(みつどもえ)・幕の紋は藤丸(ふじまる)」とある 14 。しかし、興味深いことに、後に津藩藤堂家に仕えた直正の子孫は赤井姓を名乗り、「撫子」の紋を用いたと伝えられている 14 。
さらに、赤井氏の家伝として、祖先が足利尊氏に従って軍功を挙げた際に、尊氏から「二つ引両(ふたつひきりょう)」の旗を与えられ、それ以来、「雁金」紋の上に「二つ引両」を描いた旗を用いるようになったという伝承も存在する 5 。これは、赤井氏が足利将軍家との繋がりを意識し、その権威を借りようとしたことの現れかもしれない。
『寛政重修諸家譜』の記述に見られる嫡流と庶流の家紋の使い分けは、当時の武家社会における家格や本末関係を視覚的に示すための慣習であったと考えられる。嫡流が「十六葉菊」や「五七桐」といった、より格式の高いとされる紋(通常は皇室や幕府から下賜されることが多い)をも使用していたとされる点は、赤井氏嫡流が自らの家格を高く認識していたことの現れかもしれない。
一方で、「雁金」と「撫子」の紋が嫡流・庶流双方に共通して用いられていることは、これらが赤井氏全体にとって最も基本的かつ重要な家紋であったことを示唆している。特に「撫子紋」については、赤井氏の出自と深く関わる可能性が指摘されている。室町時代の武家故実書である『見聞諸家紋』(けんもんしょかもん)には、赤井氏と同族とされる葦田氏(芦田氏)の幕紋として「撫子」紋が収録されている 14 。この事実は、赤井氏が「撫子紋」を用いることが、自らの祖先である葦田氏との繋がり、ひいては信濃源氏井上氏へと遡る系譜を意識していたことの証左となり得る。
赤井家清は赤井氏の嫡流であり、その当主であったことから、『寛政重修諸家譜』に記載された嫡流の紋、すなわち「雁金」、「黒餅に撫子」、「劔雁金」、「蔦」、「十六葉菊」、「五七桐」のいずれか、あるいは複数を状況に応じて使用していた可能性が高い。
特に、「雁金紋」は赤井家清の家紋として複数の資料で直接的に言及されており 6 、これが彼の主たる家紋であった可能性は高い。また、信濃源氏井上氏の「丸に結び雁金」紋との関連も強く示唆されている 50 。
「撫子紋」についても、赤井氏全体の重要な紋であり、かつ葦田氏との同族関係を示す紋であることから、家清がこれを使用していた可能性も十分に考えられる。 50 では、赤井氏が「丸に結び雁」と「撫子」の両方を使用したとあり、家清もこれらを併用、あるいは状況に応じて使い分けていたのかもしれない。
複数の家紋を持つことや、その使い分けは、家の歴史、格式、婚姻による他家との関係などを複合的に反映するものであった。赤井氏の場合、清和源氏井上氏の系統を示す「雁金紋」と、葦田氏との繋がりを示す「撫子紋」は、彼らの二重の出自意識や、丹波における在地領主としての歴史的背景を象徴していた可能性がある。荻野直正の子孫が、直正自身が用いた「三つ巴」や「藤丸」ではなく、「撫子」紋を用いたという事実は、直正の系統が赤井氏本宗としてのアイデンティティを「撫子紋」に求めたことを示唆しており、家紋が単なる標識ではなく、氏族の歴史認識や帰属意識と深く結びついていたことを物語っている。
家紋名称 |
図案(説明) |
主な使用者(伝承含む) |
典拠史料 |
備考(由来・意義など) |
雁金紋 |
雁を図案化したもの |
赤井家清、赤井氏嫡流・庶流 |
3 |
信濃源氏井上氏由来とされる。武家の間で好まれた紋。 |
丸に結び雁金紋 |
円の中に結び雁を図案化したもの |
赤井氏 |
3 |
雁金紋の一種。 |
撫子紋 |
撫子の花を図案化したもの |
赤井氏嫡流・庶流、荻野直正の子孫(津藩藤堂家臣) |
5 |
葦田氏の幕紋でもあり、赤井氏と葦田氏の同族関係を示唆。 |
黒餅に撫子紋 |
黒餅の中に撫子を配した紋か(詳細は不明) |
赤井氏嫡流 |
14 |
『寛政重修諸家譜』に記載。 |
劔雁金紋 |
雁金紋に剣の要素を加えたものか(詳細は不明) |
赤井氏嫡流 |
14 |
『寛政重修諸家譜』に記載。武威を示す意図か。 |
蔦紋 |
蔦の葉を図案化したもの |
赤井氏嫡流 |
14 |
『寛政重修諸家譜』に記載。 |
十六葉菊紋 |
十六枚の花弁を持つ菊を図案化したもの |
赤井氏嫡流 |
14 |
『寛政重修諸家譜』に記載。皇室の紋であり、使用には許可が必要であったとされる。赤井氏の家格意識を示すか。 |
五七桐紋 |
桐の花と葉を図案化したもの(中央の花が七つ) |
赤井氏嫡流 |
14 |
『寛政重修諸家譜』に記載。元は皇室の紋だが、後に武家にも下賜された。豊臣秀吉が用いたことでも知られる。 |
三つ巴紋 |
巴を三つ組み合わせた紋 |
荻野直正 |
14 |
『赤井伝記』『黒井城山軍書』に記載。武神である八幡神の神紋としても知られ、武家に広く用いられた。 |
藤丸紋 |
藤の花を円形に図案化したものか(詳細は不明) |
荻野直正(幕の紋) |
14 |
『赤井伝記』『黒井城山軍書』に記載。藤紋は藤原氏の代表紋だが、様々な家で使用された。 |
二つ引両紋 |
二本の平行な太い横線を図案化したもの |
赤井氏(足利尊氏より拝領の旗の紋との伝承) |
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足利氏の代表紋。赤井氏が足利将軍家との繋がりを意識していたことを示す伝承。 |
丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市春日町国領)に所在する曹洞宗寺院、長谷山千丈寺(ちょうこくさん せんじょうじ)が、赤井氏の菩提寺であったと伝えられている 51 。千丈寺は、黒井城の支城の一つである千丈寺山砦の西南麓に位置し 56 、境内には室町時代のものとされる「伝赤井一族の宝篋印塔(ほうきょういんとう)」や一石五輪塔、石仏などが残されているという 56 。
これらの石造物群の中に、赤井家清の墓とされるものも存在すると言われている 51 。しかし、この「赤井家清の墓」とされるものの信憑性については、いくつかの疑問点が指摘されている。例えば、その建立時期が家清の死後かなり下った江戸時代ではないかという説や 56 、墓石に明確な碑文が欠けているため、被葬者を特定することが困難であるという指摘である 56 。実際、 56 の記述によれば、かつて千丈寺の墓所にあり、赤井直正夫妻のものと伝えられていた二基の宝篋印塔が、黒井城の麓にある興禅寺(黒井城の下館跡とされる)に移設されたものの、後の調査によって時代が合わないことが判明したという事例も報告されており、古墓の伝承や比定の難しさを物語っている。
千丈寺の創建や、赤井氏との具体的な関わりを示す由緒、あるいはこれらの伝承に対する学術的な研究や見解については、提供された資料からは詳細な情報を得ることはできなかった 58 。 51 には、江戸時代に旗本赤井家の子孫が建立したとされる赤井伊賀守忠家(赤井直正の祖父、家清の曾祖父にあたる人物か)の墓が別の場所に存在し、その墓石には「結び雁金」紋が刻まれていることが記されている。これは千丈寺の事例とは直接関係ないものの、赤井氏一族の墓制や家紋の使用に関する一つの手がかりとなる。
赤井家清の墓所の特定や、千丈寺と赤井氏の関係性の詳細については、今後のさらなる史料の発見や、考古学的調査、美術史的検討などが待たれるところである。
赤井家清は、戦国時代の丹波国において、赤井氏の嫡流として生まれ、その短い生涯の中で、一族の勢力拡大に確かな足跡を残した武将であった。彼の父・時家から受け継いだ赤井氏の基盤を、波多野氏との婚姻同盟や、宿敵であった芦田・足立氏に対する香良合戦での勝利を通じて強化し、丹波における赤井氏の地位を大きく向上させた。特に香良合戦での勝利は、氷上郡における赤井氏の支配権を確立する上で決定的な意味を持ち、その後の赤井氏の飛躍の礎となったと言える。
しかし、その香良合戦で負った戦傷がもとで、家清は33歳という若さでこの世を去る。彼の早逝は、赤井氏の権力構造に大きな変化をもたらした。嫡男・忠家がまだ9歳という幼少であったため、家清の弟であり、既に荻野氏を継いで黒井城主となっていた赤井(荻野)直正が後見人として実権を掌握し、その類稀な武勇と指導力によって赤井氏をさらなる高みへと導いた。もし家清が長命であったならば、赤井氏の歴史、そして丹波の戦国史は、また異なる様相を呈していたかもしれない。家清の死は、直正という「丹波の赤鬼」が歴史の表舞台に躍り出る直接的な契機となったのである。
赤井氏の家紋に見られる「雁金紋」や「撫子紋」の使用は、彼らが自らの出自(清和源氏井上氏流、葦田氏との同族関係)をどのように認識し、それを周囲に示そうとしていたかを物語っている。『寛政重修諸家譜』に見られる嫡流と庶流での家紋の使い分けや、荻野直正の子孫が赤井姓を名乗り「撫子紋」を用いたという事実は、家紋が単なる識別標識ではなく、氏族のアイデンティティ、正統性、そして他家との関係性を示すための戦略的なツールとして機能していたことを示唆している。
菩提寺とされる千丈寺に残る伝承や墓所は、後世の人々が赤井氏とその一族をどのように記憶し、顕彰しようとしたかの現れである。家清の墓とされるものの信憑性については議論の余地があるものの、そうした伝承が生まれる背景には、赤井氏が丹波の地で確固たる足跡を残したことの証左があると言えよう。
赤井家清に関する史料は、弟・直正に比べて限定的であり、その実像の全てを明らかにすることは容易ではない。しかし、断片的な記録を繋ぎ合わせ、彼が生きた時代の丹波の情勢や、彼を取り巻く人々の動向を丹念に追うことで、その短いながらも意義深い生涯の一端を垣間見ることができる。家清は、戦国乱世の丹波において、赤井氏の発展に貢献し、次代への橋渡し役を担った重要な武将として、再評価されるべき存在である。今後のさらなる史料の発見と研究の進展により、赤井家清とその時代の丹波の歴史がより深く解明されることが期待される。