赤井輝子(あかい てるこ)、法号を妙印尼(みょういんに)と称する女性は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、その名を歴史に刻んだ人物である。特に夫の死後、老齢に達してから武功を立て、主家である由良家の存続に多大な貢献を果たしたことで知られている 1 。彼女の生涯は、動乱の時代における女性の生き様、そして地方豪族の興亡を映し出す鏡と言えよう。
本報告書は、赤井輝子の生涯を、その出自、婚姻、戦場での類稀なる活躍、そして由良家への貢献という観点から多角的に検証し、彼女の実像に迫ることを目的とする。輝子の生涯を時系列に沿って概観し、各時期における彼女の役割と下した決断の歴史的意義を明らかにしたい。
特に、彼女の姓である「赤井」の由来については、しばしば混同される丹波国の赤井氏との関係性を明確に区別し、輝子が上野国の赤井氏の出身であることを論証する。さらに、彼女の果敢な行動が、戦国時代における女性の地位や役割に対して、どのような新たな光を投げるのかについても考察を加える。
赤井輝子は、永正11年(1514年)に生を受け、文禄3年(1594年)に81歳でその波乱に満ちた生涯を閉じたと伝えられている 1 。夫である由良成繁が天正6年(1578年)に没した後、輝子は出家し、「妙印尼」と号した 3 。この出家は、彼女の人生における一つの大きな転換点であり、その後の目覚ましい活躍の序章となる出来事であった。
輝子の出自、特にその父に関しては複数の説が存在する。上野国(現在の群馬県)を本拠とした赤井氏の出身であることは共通しているが、父の名については、赤井重秀(あかい しげひで)の娘とする説 4、あるいは赤井家堅(あかい いえかた)の娘とする説 4 が有力である。『上野赤井氏 - Wikipedia』には「大永8年にみえる重秀の娘は妙印尼といい、由良成繁に嫁いで国繁を生んでいる」との記述があり 6、また『9人目 由良国繁(安土桃山) - 日本史人物考察』においても由良国繁の母を「赤井重秀娘・輝子」と明記している 7。これらの記述は、重秀説を強く支持するものである。
一方で、妙印尼輝子の公式サイトや関連資料では、輝子の父を館林城主・赤井照光(あかい てるみつ)とする記述も見受けられる 8。上野赤井氏の系譜は複雑であり 10、これらの名が同一人物の別名である可能性、あるいは異なる系譜上の人物を指している可能性も否定できない。しかしながら、輝子が上野国館林(現在の群馬県館林市)に深いゆかりを持つ赤井一族の出身であったことは、ほぼ確実視されている 1。輝子の父の名が複数伝えられている背景には、上野赤井氏自体の系譜の複雑さに加え、史料ごとの記録の差異が影響していると考えられる。輝子の出自を正確に把握することは、彼女の行動原理や当時の関東地方における豪族間の力関係を理解する上で、極めて重要な基礎となる。
「赤井」姓を持つ武家としては、丹波国(現在の兵庫県東部)を拠点とし、「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正(荻野直正とも)が著名である 11。しかし、この丹波赤井氏は、妙印尼輝子の出身である上野赤井氏とは系統を異にする。
この点に関して、『佐貫の庄の歴史 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2』の分析(10で言及)は、丹波赤井氏の系図、特に赤井幸家(直正の弟)の娘が由良成繁に嫁いだとする説について、年代的な矛盾点を具体的に指摘し、これを明確に否定している。赤井幸家の娘の推定生年と、由良成繁の嫡男・国繁の生年(天文19年、1550年)との間には時間的な整合性がなく、婚姻が成立し得ないと論じているのである 10。
したがって、本報告書においては、赤井輝子を上野国の赤井氏出身として扱い、丹波赤井氏に関する記述は、両者を混同することを避けるための比較対象として限定的に言及するに留める。この区別は、輝子の出自、婚姻関係、そして彼女が活躍した地理的・政治的文脈を正しく理解するための大前提であり、輝子自身の功績が丹波赤井氏の名声に埋もれることなく、正当に評価されるために不可欠である。
赤井輝子は、上野国金山城(別名:太田金山城、新田金山城)の城主であった由良成繁(ゆら なりしげ)に嫁いだ 1。金山城は、文明元年(1469年)に岩松家純によって築城され、その後、岩松氏の重臣であった由良氏(元は横瀬氏)が下克上によって城主となり、その勢力を拡大した。この城は、関東平野を一望できる戦略的要衝に位置し、十数回もの攻撃を受けながらも一度も中枢まで攻め込まれなかったと伝えられる難攻不落の堅城であった 1。
夫である由良成繁は、元々主家であった岩松氏から実権を奪い、新田氏ゆかりの由良の郷名を姓として名乗り、戦国大名としての地位を確立しようとした野心的な人物であった 13。彼の時代、由良氏は北の上杉氏、南の北条氏という二大勢力に挟まれながら、巧みな外交戦略を展開し、家の存続と勢力維持を図った 2。
輝子は成繁との間に、嫡男である由良国繁(ゆら くにしげ)と、その弟で後に長尾氏の名跡を継いだ長尾顕長(ながお あきなが)らを儲けた 2 。これらの息子たちの動向、特に彼らが直面する危機が、後の輝子の目覚ましい活躍の直接的な引き金となる。
夫・成繁の存命中における輝子の具体的な政治的役割について、直接的に詳述する史料は乏しい。しかし、戦国時代の武家の妻として、家政の管理、一族内の結束の維持、さらには情報収集や外交交渉の裏方としての役割を担っていたことは十分に推察される。
『歴史 - 妙印尼輝子』には、輝子が由良氏に嫁いだ頃の関東地方の複雑な政治情勢が記されている 8。当時、関東は古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立に加え、相模の北条氏が急速に勢力を拡大し、混沌とした状況にあった。横瀬家(後の由良家)も、当初は上杉方に属していたが、後に古河公方足利方に転じるなど、目まぐるしく変わる情勢に対応していた。輝子の実家である上野赤井氏は、古河公方陣営に与していたとされ 8、この婚姻は、同じ政治的立場にあった両家の結びつきを強化し、同盟関係の安定化を図るという政治的な意味合いも帯びていた可能性が高い。輝子は、若い頃からこのような厳しい政治環境に身を置き、武家の女主人として、家中の意思統一や外交の機微に触れる経験を積んでいたと考えられる。これが、後の彼女の大胆かつ的確な判断力の素地となったのかもしれない。
天正6年(1578年)、輝子の夫である由良成繁が病によりこの世を去った 2。これにより、輝子は出家し、妙印尼と名乗ることになる。家督を継いだのは嫡男の由良国繁であった。由良氏は、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、関東の統治を任された織田信長の家臣・滝川一益に一時仕えたが、同年の本能寺の変で信長が斃れると、一益は関東から撤退。その後、国繁は強大な北条氏に服属した 2。
しかし、天正12年(1584年)、由良国繁とその弟の長尾顕長は、北条氏直の計略にかかり、小田原城に呼び出された上、そのまま幽閉されてしまうという事態に見舞われた 2。これは、由良氏が過去に上杉氏や武田氏、そして織田氏と、状況に応じて所属勢力を変えてきた経緯から、北条氏がその忠誠を疑い、再度裏切るのではないかと警戒したためと考えられている 2。当主とその弟が同時に敵の手中に落ちるという、由良家にとってまさに絶体絶命の危機であった。
当主不在となった金山城に対し、北条氏は大軍を差し向け、降伏を迫った 1。この未曾有の国難に際し、立ち上がったのが、当時71歳という高齢の妙印尼輝子であった。彼女は、残された三千(一説にはより少数)とも言われる家臣たちを鼓舞し、自ら甲冑を身に纏い、金山城に籠城して徹底抗戦の指揮を執ったのである 1。
数ヶ月に及んだとされるこの籠城戦において、輝子は老齢を感じさせない卓越した統率力と戦術眼を発揮し、北条軍の度重なる攻撃を巧みに防ぎきった。最終的には、息子たちの解放を条件とする和睦に持ち込むことに成功する。結果として、金山城という重要な拠点を明け渡すことにはなったものの、家臣領民の安全を確保し、由良家の完全な滅亡という最悪の事態は回避された 4。この籠城戦は、輝子の武勇と知略を象徴する出来事であり、「戦国最強の女武将」という後年の評価 2 を決定づける重要な戦いであった。それは単なる武勇伝に留まらず、絶望的な状況下でも冷静に最善の策を講じ、家を守り抜こうとした彼女の強い意志と指導力を物語っている。
金山城を失った後、輝子と由良一族は桐生城などに移り、雌伏の時を過ごした 4。そして天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が、関東の雄・北条氏を討伐するため、世に言う「小田原征伐」を開始した。この時、由良国繁は北条方として小田原城に籠城するという苦しい立場に置かれていた 1。
この国家存亡の岐路において、妙印尼輝子は再び歴史の表舞台に躍り出る。当時77歳という、戦場に立つにはあまりにも高齢であったにもかかわらず、彼女は嫡孫である由良貞繁(国繁の子)を擁し、三百余騎(4では300の家臣)とも伝えられる手勢を率いて、北条氏と敵対する豊臣方の陣営、具体的には前田利家や上杉景勝が率いる北国勢の軍に馳せ参じたのである 1。
この輝子の驚くべき行動の背景には、由良家の存続を賭けた深謀遠慮があった。息子が敵方にいるにもかかわらず、自らは天下の趨勢を見極め、豊臣方に与することで家名の存続を図ろうとしたのである。その証左として、前田利家が輝子(史料中では「新田御老母」と記されている)に対し、豊臣秀吉へ由良家の安堵を強く働きかける旨を約束した書状(天正18年6月7日付)が現存している 14。この書状は、輝子の参陣が豊臣方に好意的に受け止められ、由良家存続の交渉に道を開いたことを如実に示している。
輝子と貞繁の一隊は、豊臣軍による松井田城(現在の群馬県安中市)攻略などに従軍し、その功績が認められた。結果、小田原征伐後、北条氏に与した多くの関東の武家が改易や減封の憂き目に遭う中で、由良家は豊臣秀吉から常陸国牛久(現在の茨城県牛久市)に五千四百石の所領を与えられ、近世大名として家名を保つことに成功したのである 1。これは、輝子の類稀なる戦略的判断と、老齢をものともせぬ行動力がもたらした、まさに起死回生の成果であった。
小田原征伐における妙印尼輝子の功績は絶大であり、北条方に与した当主・由良国繁に代わって、由良家の運命を切り開いたと言っても過言ではない。その結果、由良氏は常陸国牛久に五千四百石の所領を与えられ、近世大名としての地位を確立し、家名を後世に伝えることができた 1 。これは、小田原征伐後に多くの関東武士が没落した中で、特筆すべき成果である。輝子の決断と行動がなければ、由良家の名は歴史の彼方に消えていた可能性も否定できない。
由良家の新たな本拠地となった牛久の地で、輝子は晩年を過ごした。そして文禄3年(1594年)11月6日、81歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。その墓所は、茨城県牛久市にある得月院に現存し、法名は「得月院殿月海妙印大姉(とくげついんでん げっかいみょういんだいし)」と伝えられている 1 。
妙印尼輝子の、特に70歳を超えてからの目覚ましい活躍は、後世の人々に強い印象を与え、「戦国最強の女武将」 2 、「戦国最強の女丈夫」 4 などと称される所以となっている。その人物像は、単に武勇に優れるだけでなく、家と家臣、そして領民を守るための強い責任感、冷静沈着な状況判断能力、そしていかなる困難にも屈しない不撓不屈の精神を兼ね備えた、卓越した指導者として描かれることが多い 1 。『妙印尼輝子』のウェブサイトでは、「東国武者としての熱い思いを、子々孫々にまで伝え残そうとした、誇り高き戦いであった」と、その精神性を高く評価している 1 。
輝子の劇的な生涯と特異な活躍は、後世の人々の創作意欲を刺激し、様々な形で語り継がれてきた。井田ヒロト氏作画による妙印尼(赤井)輝子のイラストでは、陣羽織や幟旗に由良家の家紋である大中黒があしらわれ、衣装には金山の松や生まれ故郷である館林のツツジが描かれるなど、力強さの中にも女性らしい美しさが表現されており、後年の活躍を彷彿とさせる作品となっている 1。
また、群馬県館林市で毎年開催される「お雛さままつり」では、明治時代に制作されたと推定される妙印尼輝子(赤井輝子)の人形が展示されることがあるという 14。さらに、現代においても、オンラインマーケットプレイスの検索結果には「女神像ネックレス 妙印尼 赤井輝子 戦国時代 最強女武将」といった商品名が見受けられ 15、彼女の勇ましいイメージがキャラクターとして消費され、広く受容されていることが窺える。これらの事象は、輝子の物語が持つ普遍的な魅力と、時代を超えて人々の記憶に残りやすい特質を示している。歴史上の人物がどのように記憶され、各時代の価値観の中でどのように再解釈されていくか、そして地域における歴史的英雄としてどのように顕彰されていくかの一つの興味深い事例と言えるだろう。
表1:赤井輝子 略年譜
和暦(西暦) |
年齢(数え年) |
主な出来事 |
典拠資料例 |
永正11年(1514) |
1歳 |
生誕(推定) |
4 |
天文19年(1550年) |
37歳 |
嫡男・由良国繁 誕生(推定) |
7 |
天正6年(1578年) |
65歳 |
夫・由良成繁死去。出家し妙印尼と名乗る |
2 |
天正12年(1584年) |
71歳 |
金山城籠城戦を指揮し、北条氏と和睦 |
1 |
天正18年(1590年) |
77歳 |
小田原征伐に際し、孫・貞繁を擁して豊臣方に参陣 |
1 |
同年8月 |
77歳 |
由良氏、常陸国牛久に五千四百石を与えられる |
1 |
文禄3年(1594年) |
81歳 |
11月6日、死去 |
1 |
表2:赤井輝子 関係主要人物一覧
人物名 |
輝子との関係 |
概要 |
典拠資料例 |
赤井重秀 (または家堅/照光) |
父(諸説あり) |
上野国の赤井氏。館林城主とも。 |
4 |
由良成繁 |
夫 |
上野国金山城主。横瀬氏から由良氏へ改姓。 |
2 |
由良国繁 |
嫡男 |
由良氏当主。北条氏に幽閉され、後に小田原城に籠城。 |
1 |
長尾顕長 |
子(国繁の弟) |
兄と共に北条氏に幽閉される。 |
2 |
由良貞繁 |
嫡孫(国繁の子) |
小田原征伐時、輝子と共に豊臣方に参陣。 |
1 |
北条氏直 |
敵対勢力(一時) |
関東の雄。由良国繁らを幽閉し、金山城を攻める。 |
2 |
豊臣秀吉 |
主君(間接的) |
小田原征伐を指揮。輝子の功により由良家を安堵。 |
1 |
前田利家 |
仲介者 |
小田原征伐時、豊臣方武将。輝子からの降伏を受け入れ、秀吉への取り成しを約す。 |
14 |
赤井輝子、すなわち妙印尼は、上野国の赤井氏にその生を受け、同国の有力武将である由良成繁に嫁いだ。彼女の生涯で特筆すべきは、夫の死後、そして息子たちが北条氏によって囚われるという由良家最大の危機に際して、70歳を超える老齢にもかかわらず、類稀なる指導力と不屈の行動力を発揮した点にある。天正12年(1584年)の金山城籠城戦では、自ら甲冑を纏い家臣を率いて北条氏の大軍と対峙し、和睦に持ち込むことで家中の安全を確保した。さらに天正18年(1590年)の小田原征伐においては、当主である息子が北条方として小田原城に籠る中、77歳にして孫を擁し豊臣方に馳せ参じるという大胆な決断を下し、軍功を立てた。
これらの輝子の目覚ましい活躍は、滅亡の淵にあった由良家の家名存続に決定的な役割を果たした。彼女の冷静な状況判断、戦略的な思考、そして何よりも家を守り抜こうとする強い意志と行動力は、高く評価されるべきである。
戦国時代の女性は、その多くが婚姻を通じて家と家を結ぶ同盟の道具として、あるいは家督を継ぐべき男子を産む母胎としての役割に限定されがちであった。しかし、赤井輝子の生涯は、そうした当時の社会における女性の役割の固定観念を大きく打ち破るものであった。彼女は、単に受動的な存在ではなく、主体的に家の運命を左右し、時には男性指導者をも凌駕するリーダーシップを発揮し得ることを、その行動をもって示した稀有な例である。
特に、70代という高齢で自ら戦陣に立ち、一軍を指揮したという事実は、日本の戦国史においても他に類例を見ない、際立った特異性を持つと言えよう。これは、単なる武勇伝としてではなく、極限状況下における人間の底力と、性別や年齢を超えた指導者の資質を示すものとして捉えるべきである。
赤井輝子が下した一連の決断、とりわけ小田原征伐における豊臣方への参陣は、客観的に見ても滅亡の可能性が極めて高かった由良家を救い、近世大名としての存続の道を開いた。これは、彼女の卓越した先見性と、時代の大きな流れを的確に読み解く政治的洞察力の賜物であったと言える。彼女の生涯は、戦国乱世の終焉期という激動の時代において、地方の小規模な武家勢力が、いかにして生き残りを図ったか、そしてその過程において、一個人の強い意志と果敢な行動がいかに重要な意味を持ち得たかを示す、歴史の好例として記憶されるべきである。赤井輝子の物語は、単に一人の「女丈夫」の武勇伝に留まらず、戦国という時代を生き抜いた人々の知恵と力強さを我々に伝えている。