毛利元就を支えた賢妻 妙玖 ―その生涯と毛利家への貢献―
1. 序章:戦国時代に生きた妙玖
本報告書は、戦国時代の武将、毛利元就の正室である妙玖(みょうきゅう)という人物に焦点を当て、その出自、毛利元就との結婚、毛利家における役割、子供たちとの関係、そして彼女の死とそれに続く元就の追憶、さらには歴史的評価について、現存する史料に基づいて包括的に調査し、論じることを目的とする。
妙玖が生きた戦国時代は、社会全体が大きく揺れ動き、旧来の権威が失墜して新たな秩序が模索される激動の時代であった。このような時代にあって、武家の女性たちは、家の存続と発展のために極めて重要な役割を担った。彼女たちは政略結婚の駒として扱われることが多く、嫁ぎ先では家政を切り盛りし、何よりも家を継ぐ男子を産むことが期待された 1 。夫が戦で不在がちな中、城の守りや領国経営の一部を任されることもあり、単に家庭内の存在に留まらない多面的な活動が求められた。しかしながら、その功績や苦悩が歴史の表舞台で語られることは少なく、多くの場合、男性中心の記録の中に断片的にその姿を留めるのみである。
近年、歴史における女性の役割に対する関心が高まる中で、妙玖もまた注目されるべき人物の一人と言える。彼女に関する直接的な史料は決して多くはないものの 3 、夫である毛利元就が残した書状などを通じて、その人となりや夫婦関係、そして毛利家における影響力を垣間見ることができる。本報告書は、これらの限られた情報をつなぎ合わせ、戦国という困難な時代を生き抜いた一人の女性の実像に迫ろうとする試みである。当時の女性が置かれた一般的な状況を踏まえつつ、妙玖個人の特質や、彼女が毛利家の歴史に与えた影響を明らかにすることで、戦国時代の女性史に新たな光を当てることを目指す。
2. 妙玖の出自と吉川家
妙玖は、明応8年(1499年)に生を受けた 4 。彼女の本名は伝わっておらず、「妙玖」とは後年になって呼ばれるようになった法名である。その法名から、実名は「玉(たま)」あるいは「久(きゅう)」といった名前であった可能性が推測されている 6 。正式な法名は「妙玖寺殿成室玖公大姉(みょうきゅうじでんじょうしつきゅうこうだいし)」という 8 。実名が伝わらないことは、当時の女性の記録が男性に比して圧倒的に少なかったという歴史的背景を象徴している。
表1:妙玖の略歴と家族構成
項目 |
内容 |
出典 |
生誕年 |
明応8年(1499年) |
4 |
没年 |
天文14年11月30日(1546年1月2日) |
4 |
享年 |
47歳 |
5 |
実名 |
不詳 |
4 |
法名 |
妙玖(妙玖寺殿成室玖公大姉) |
4 |
父 |
吉川国経(きっかわ くにつね) |
4 |
母 |
高橋直信の娘 |
4 |
主な兄弟 |
吉川元経(きっかわ もとつね)、吉川経世(きっかわ つねよ) |
4 |
夫 |
毛利元就(もうり もとなり) |
4 |
主な子供 |
毛利隆元、五龍局、吉川元春、小早川隆景 |
4 |
妙玖の父は、安芸国(現在の広島県西部)の有力な国人領主であった吉川国経である 4 。母は同じく安芸の国人、高橋直信の娘であった 4 。吉川氏は、藤原南家を祖とするとされる名門であり、当時の中国地方において大内氏や尼子氏といった大大名の狭間で、巧みな外交戦略を展開しながら勢力を維持していた。
父・吉川国経は、室町幕府12代将軍・足利義稙を擁して上洛した周防国の大内義興に従い、永正8年(1511年)の船岡山合戦にも参加した武将であった 10 。当初は大内氏に属していた国経であったが、後に山陰地方で勢力を拡大する出雲国の尼子経久に味方するようになる。そして、尼子氏の勢力拡大戦略の一環として、毛利氏を取り込むため、娘である妙玖を毛利元就に嫁がせることになった 3 。これは、妙玖の結婚が、吉川家の存続と発展をかけた外交戦略の中で極めて重要な意味を持っていたことを示している。国経は、長男である吉川元経が早世した後、その嫡孫である吉川興経の後見人も務めている 10 。
妙玖の兄である吉川元経もまた、毛利家と深い関わりを持っていた。元経は毛利元就の父・毛利弘元の娘である松姫を正室に迎えており、吉川家と毛利家は妙玖の結婚以前から姻戚関係にあった 12 。永正14年(1517年)の有田中井手の戦いでは、元経は毛利元就と共同で安芸武田氏当主の武田元繁を破るなど、軍事的な協力関係も見られた 13 。しかし、元経は後に尼子氏に従属し、妹・妙玖が元就の妻であったことから、毛利氏に対しても尼子氏への従属を勧めたとされている 13 。これらの事実は、妙玖の結婚が、既に存在した吉川・毛利両家の複雑な関係性を、尼子氏という第三の勢力との関係の中で、さらに強化し、方向付けるものであったことを示唆している。吉川家にとって、妙玖の婚姻は、大内・尼子という二大勢力の間で自家の立場を有利にするための、多角的な外交戦略の一環であったと理解できる。
3. 毛利元就との結婚
妙玖が毛利元就と結婚したのは、大永3年(1523年)のことである 5 。この時、妙玖は数え年で25歳であった。前述の通り、この結婚は父・吉川国経が、当時中国地方で勢力を伸長しつつあった尼子氏の当主・尼子経久の命を受け、毛利氏を尼子方の勢力に取り込むために進めた政略結婚であった 3 。当時の中国地方は、出雲の尼子氏、周防の大内氏という二大勢力が覇権を争い、その間に安芸の毛利氏のような国人領主たちが割拠していた。このような状況下において、有力な国人領主間の婚姻は、単なる家と家の結びつきを超え、地域全体の勢力図を左右し得る重要な政治的意味を持っていた 3 。
妙玖と元就の結婚は、毛利氏と吉川氏という安芸国の二大国人領主の間に、より強固な連携をもたらす契機となった。この縁組は、後に毛利元就が推進する「毛利両川体制」――次男・元春を吉川氏へ、三男・隆景を小早川氏へ養子に出し、毛利宗家を支える体制――の遠因となり、毛利氏の中国地方制覇へと繋がる歴史的な関係の出発点となったのである 12 。
政略結婚という形で結ばれた二人であったが、その夫婦仲は非常に良好であったと伝えられている 3 。特筆すべきは、毛利元就が妙玖の存命中、一人も側室を迎えなかったことである 1 。跡継ぎを確実に儲けるため、また有力な家臣団との結びつきを深めるためなど、様々な理由から複数の側室を持つことが一般的であった戦国時代の有力武将としては、これは極めて異例のことであった。この事実をもって、元就は「戦国時代の愛妻家」と称されることもある 1 。
元就が妙玖に寄せた信頼と愛情は、彼が残した書状からも窺い知ることができる。長男・毛利隆元に宛てた手紙の中で、元就は「内をば母親をもって治め、外をば父親をもって治め候と申す金言、少しも違わず」(家庭内のことは母親がしっかりと治め、家の外のことは父親が治めるという古今の言葉は、全くその通りである)と記し、妙玖が家庭を堅実に運営し、元就が外政に専念できる環境を整えていたことへの感謝と信頼を示している 14 。
妙玖が天文14年(1545年)に亡くなった後も、元就の彼女への思慕の念は絶えることがなかった。息子たちに宛てた手紙の中で、元就はしばしば亡き妻を追憶し、その死を悼む言葉を残している。「この頃は、なぜか妙玖のことばかりがしきりに思い出されてならぬ」「妙玖がこの世にいてくれたらと、いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことばかりを思うのだ」といった記述は、元就の深い愛情と、妙玖を失ったことによる孤独感を生々しく伝えている 3 。これらの言葉は、単なる儀礼的な追悼を超え、深い情愛に満ちたものであり、政略結婚という始まりであったとしても、二人の間には真の伴侶としての絆が育まれていたことを強く示唆している。妙玖の存在は、元就の政治的安定だけでなく、精神的な安定にも寄与していた可能性が高い。元就が側室を持たなかった背景には、妙玖個人の人間的魅力に加え、彼女の実家である吉川家との関係を重視した戦略的判断もあったかもしれないが、残された言葉からは、それを超えた深い愛情があったと考えるのが自然であろう。
4. 毛利家の正室としての妙玖
戦国時代の武家の妻、特に正室は、家と家との同盟の証として嫁ぎ、夫を支え、家を維持・発展させるという重責を担った。当時の武家社会は一夫多妻制が一般的であり、正室は側室や妾よりも高い身分とされ、夫と並ぶ存在として一門の中で重用された 1 。その役割は多岐にわたり、一門の女性たちを取りまとめ、夫が領地を不在にする際には、夫の代理として政務の一部を担うこともあったとされる 1 。多くの場合、彼女たちの結婚は政略的なものであり、夫の寵愛が他の女性に移ったとしても、嫉妬心をあらわにすることは品位に欠ける行為と見なされ、耐え忍ぶことが美徳とされた風潮もあった 1 。そして、夫に先立たれた後は、剃髪して出家し、亡き夫の菩提を弔うことが、正室の最後の務めと考えられていた 1 。
このような時代背景の中で、妙玖は毛利元就の唯一の正室として、その役割を十二分に果たしたと言える。彼女は「良妻賢母」として、夫・元就を内助の功で支えたと評価されている 3 。元就自身が「内をば母親をもって治め、外をば父親をもって治め候」と述べているように 14 、妙玖は家庭の運営において全幅の信頼を置かれ、元就が領国経営や合戦に専念できる盤石な家庭環境を築き上げた。
妙玖の最大の功績の一つは、毛利家の将来を担う優秀な子供たちを産み育てたことであろう。彼女は元就との間に、長男・毛利隆元、次男・吉川元春(吉川家へ養子)、三男・小早川隆景(小早川家へ養子)という、後に「毛利三本の矢」として毛利家の最盛期を現出させる三人の息子たち、そして娘の五龍局(宍戸隆家室)らをもうけた 4 。史料によれば、元就と妙玖は夫婦でこの三人の息子の養育に心血を注いだとされており 1 、これは戦国時代の武家において、母親が子供の教育に積極的に関与した事例として注目される。元就が後年、息子たちに送った「三子教訓状」に見られる兄弟間の結束を重んじる教えは、幼少期からの妙玖による薫陶がその基礎を形作った可能性も考えられる。
妙玖が毛利家の家政を安定させ、次代を担う後継者たちを育成したことは、毛利氏のその後の飛躍的な発展にとって不可欠な要素であった。元就が妙玖の死後も彼女を追慕し、息子たちへの手紙の中で「妙玖のことのみしのび候」 4 と繰り返し語ったことは、彼女が単に子供たちの母親であっただけでなく、元就自身の精神的な支えであり、毛利家全体の精神的な結束の象徴でもあったことを示している。特に「三子教訓状」の中で、亡き母(妙玖)の供養を怠らないよう息子たちに命じている点は 3 、妙玖の存在が子供たちの心の中に深く刻まれ、彼らの行動規範にも影響を与えていたことを示唆している。妙玖の「内助の功」とは、単に家事をこなすこと以上に、家庭内を安定させ、夫を精神的に支え、そして何よりも次世代を育成するという、毛利家の存続と発展に直結する戦略的とも言える重要な役割であった。
5. 子供たちと毛利家の隆盛
妙玖が生み育てた子供たちは、それぞれが毛利家の発展と中国地方における覇権確立に不可欠な役割を果たした。彼女の息子たち、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景は、その結束と能力の高さから「毛利三本の矢」と称され、父・元就の戦略を支え、その死後も毛利家を盤石なものとした。
長男の毛利隆元は、毛利宗家の家督を継承し、父・元就の補佐役として、また後継者として優れた内政手腕を発揮した 14 。温厚篤実な性格であったとされ、父や弟たちとの間で調整役を担うこともあったと考えられる。彼の早逝は毛利家にとって大きな痛手であったが、その短い治世においても、毛利家の基盤固めに貢献した。
次男の吉川元春は、母・妙玖の実家である吉川氏の家督を継承した 11 。勇猛果敢な武将として知られ、特に山陰地方の攻略や防衛において数々の武功を挙げ、毛利家の軍事力を支える重要な柱となった 16 。彼の武勇は、毛利氏の勢力拡大に大きく貢献した。
三男の小早川隆景は、安芸の有力国人であった小早川氏の家督を継いだ 11 。知略に長け、冷静沈着な判断力を持つ武将として、水軍の統率や外交交渉において卓越した手腕を発揮した 16 。特に瀬戸内海の制海権を掌握し、毛利氏の経済的・軍事的活動を有利に進めた功績は大きい。
この隆元、元春、隆景の三兄弟がそれぞれの役割を分担し、協力し合う体制、いわゆる「毛利両川体制」は、毛利氏が中国地方の覇者となるための原動力であった 16 。元就が晩年に息子たちに与えたとされる「三本の矢の教え」の逸話は、この兄弟間の結束の重要性を象徴的に物語っている 20 。妙玖の死後も、元就が「三子教訓状」などの書状でしばしば亡き妙玖に言及し、母への追慕の念を通じて兄弟の団結を促した可能性は十分に考えられる 9 。妙玖という共通の敬愛の対象の記憶は、息子たちの精神的な絆を強め、毛利家の基本戦略である「三子一体」の精神を育む上で、間接的ながらも重要な役割を果たしたと言えるだろう。
妙玖の功績は息子たちだけに留まらない。娘の五龍局は、安芸の有力国人である宍戸隆家に嫁いだ 4 。この婚姻は、毛利氏と宍戸氏との間の同盟関係を強固なものとし、毛利家の勢力基盤の安定に寄与した 3 。さらに、五龍局が生んだ子供たちは、長女が伊予の河野通宣に、次女が吉川元春の嫡男・元長に、三女が毛利隆元の嫡男・毛利輝元にそれぞれ嫁いでおり、毛利一門の結束を幾重にも固める役割を果たした 22 。元就が息子たちに対して、「妹の五もじ(五龍局のこと)をふびんと思い、婿の宍戸隆家ともども、兄弟として大切にして欲しい」と書き送っていることからも 22 、娘とその嫁ぎ先への配慮を通じて、一族全体の結束を維持しようとする元就の意図が読み取れる。
このように、妙玖が生み育てた子供たちは、それぞれの立場から毛利家の隆盛に大きく貢献した。彼女の子育ての成功は、単に家庭内の出来事に留まらず、毛利家という戦国大名の将来を左右するほどの戦略的価値を持っていたと言っても過言ではない。妙玖の「賢母」としての役割は、毛利家最大の無形資産とも言える人材を生み出したのである。
6. 妙玖の死と元就の追憶
妙玖は、天文14年11月30日(西暦1546年1月2日)、毛利氏の居城であった安芸国の吉田郡山城内において、47歳でその生涯を閉じた 4 。戦国の世にあって、夫・元就と共に毛利家の礎を築き、多くの子女に恵まれた彼女の死は、元就にとって計り知れない打撃であった。
妙玖の法名は、一般的には「妙玖」として知られているが、より正式には「妙玖寺殿成室玖公大姉(みょうきゅうじでんじょうしつきゅうこうだいし)」と伝えられている 8 。法名に「寺殿」号が付されていることは、彼女が毛利家の中で高い敬意を払われていたことを示唆している。
妙玖の墓所については、いくつかの伝承地が存在する。まず、元就は郡山城の麓、毛利氏の館があった吉田の地に妙玖を祀るための庵を建立し、「妙玖庵」と名付けてその菩提を弔ったとされる 3 。妙玖庵の跡地は現在も安芸高田市吉田町に残されているが、明確な墓碑の所在は確認されていない 8 。
また、広島県北広島町にある日山城(吉川元春の居城)の中腹には浄必寺という寺院の跡があり、ここは元春の母、すなわち妙玖の菩提寺であったと伝えられている 24 。ここには石垣などが現存しており、妙玖が吉川氏出身であることとの関連も考えられる。
さらに、山口県山口市の洞春寺が所蔵する「芸州吉田郡山城絵図」には、「元就室菩提寺妙玖寺」という記載が見られる 26 。この妙玖寺は、毛利氏のその後の本拠地の移動に伴い、萩(山口県萩市)、そして最終的には山口市に移転したとされている 27 。これらの複数の伝承地は、妙玖が毛利家及び分家の吉川家双方から手厚く弔われたこと、そして毛利氏の勢力拡大や本拠地の変遷に伴い、彼女の記憶が各地で継承されていったことを物語っている。
妙玖の死が元就に与えた衝撃は甚大であった。伝承によれば、元就は妙玖の死後3日間も部屋に引きこもり、嘆き悲しんだという 3 。また、妙玖が亡くなった翌年の天文15年(1546年)に元就が突如隠居を表明したことについても、最愛の妻を失ったことがその一因ではないかとする見方もある 14 。
元就の悲嘆と妙玖への深い愛情は、彼が息子たちに宛てた数多くの書状の中に繰り返し記されている。「この頃は、なぜか妙玖のことばかりがしきりに思い出されてならぬ」「妙玖がこの世にいてくれたらと、いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことばかりを思うのだ」といった言葉は、時を経ても薄れることのない元就の妻への思慕の情を痛切に伝えている 3 。
さらに元就は、単に亡き妻を個人的に偲ぶだけでなく、妙玖の記憶を巧みに用いて一族の結束を促そうとした形跡も見られる。息子たちへの教訓状の中で、亡き母への孝養を説き、兄弟の融和を訴える際に、妙玖の思い出を引き合いに出すことで、息子たちの情に訴えかけ、毛利家の団結をより強固なものにしようとしたのである 9 。妙玖の名前は、元就の言葉を通じて、毛利家にとって「心の結び目」となり、一族の精神的な支柱として機能したと言えるだろう 4 。最愛の妻の死という個人的な悲劇が、元就の晩年の精神世界に大きな影響を与え、それが結果として毛利家の統治スタイルや家族観にも反映されたことは、注目に値する。
7. 妙玖の歴史的評価
妙玖の歴史的評価は、主に毛利氏の発展への貢献と、戦国時代の女性としての意義という二つの側面から考えることができる。
まず、毛利氏の発展における妙玖の貢献は計り知れない。第一に、彼女は夫である毛利元就を内助の功で支え、家庭内を安定させることにより、元就が領国経営や数々の合戦といった対外的な活動に専念できる環境を整えた 1 。元就自身が「内をば母親をもって治め」と述べているように、妙玖の家庭運営能力は元就から高く評価されていた。
第二に、そしてこれが最大の貢献と言えるかもしれないが、妙玖は毛利隆元、吉川元春、小早川隆景という、毛利氏の勢力拡大と安定に不可欠な三人の傑出した息子たちを産み育てた 4 。彼ら「毛利三本の矢」と称される息子たちの能力と協力体制が、毛利氏を中国地方の覇者へと押し上げた原動力であったことは論を俟たない。妙玖の賢母としての資質が、彼らの成長に大きな影響を与えたと考えられる。
第三に、妙玖が安芸国の有力国人である吉川氏の出身であったことは、毛利氏と吉川氏との間に強固な同盟関係を築く上で極めて重要な意味を持った 12 。この同盟は、元就の次男・元春が吉川氏を継承する「毛利両川体制」の成立へと繋がり、毛利氏の軍事的・政治的基盤を大きく強化した。妙玖の存在そのものが、両家の絆の象徴であったと言える。
第四に、妙玖はその死後も、元就によって一族結束の象徴として語り継がれた 9 。元就は息子たちへの書状の中で繰り返し妙玖を追慕し、その思い出を通じて兄弟間の融和と団結を訴えた。これにより、妙玖は毛利家の精神的な支柱として、その死後も影響力を持ち続けた。
戦国時代の女性としての妙玖の意義については、まず、彼女に関する直接的な史料が少ないという制約があるにもかかわらず、夫に深く愛され、家庭内外で重要な役割を果たした女性として、戦国時代の女性像に多角的な視点を提供している点が挙げられる 1 。政略結婚が主流であった時代において、元就との間に深い愛情と信頼関係を築いた妙玖の姿は、当時の夫婦関係の多様性を示唆している。
「良妻賢母」としての妙玖の評価は、後世の理想的な女性観にも一定の影響を与えた可能性がある 3 。また、五條小枝子氏の著作『戦国大名毛利家の英才教育 元就・隆元・輝元と妻たち』に見られるように 30 、妙玖は現代においても歴史研究の対象となっており、毛利氏研究や戦国女性史研究の分野でその役割や影響について再評価が進んでいる。
しかしながら、妙玖の歴史的評価を考える上で留意すべき点もある。彼女に関する肯定的な評価の多くは、夫である元就の書状や言動に由来するものであり、元就が妙玖の記憶を息子たちの教育や一族の統制に利用した側面も否定できない 9 。したがって、現代に伝わる妙玖の「理想的な妻・母」というイメージは、元就によってある程度意図的に形成・強調された可能性も考慮に入れる必要がある。これは、元就の巧みな統治術の一環として、家庭内の秩序や妻の役割を理想化し、それを家臣や後世に示すことで、毛利家の規範意識を高めようとした戦略とも解釈できる。
また、妙玖自身の具体的な行動や言葉を伝える直接的な史料が極めて少ない一方で、彼女が高く評価されているという事実は、彼女が産んだ息子たちの歴史的重要性や、夫・元就からの格別の愛情と追慕の言葉が記録として残っていることに大きく起因する。これは、歴史記述におけるジェンダーバイアスの一例とも言え、戦国時代の女性の評価がいかに男性中心の記録に依存しているかを示している。妙玖の研究は、こうした史料的制約の中で、いかに女性の歴史的役割を明らかにしていくかという課題を提示している。
8. 結論:妙玖という人物像の総括
本報告書では、戦国時代の武将・毛利元就の正室であった妙玖について、その出自から結婚、毛利家における役割、子供たちへの影響、そして彼女の死と元就による追憶、さらには歴史的評価に至るまでを、現存する史料に基づいて詳細に検討してきた。
明らかになった妙玖の人物像は、まず安芸国の有力国人・吉川国経の娘として生まれ、政略結婚によって毛利元就に嫁いだ一人の女性である。しかし、単に政略の道具として生涯を終えるのではなく、夫・元就から深い愛情と信頼を寄せられ、その内助の功は元就自身も高く評価するところであった。彼女は毛利家の家庭を堅実に運営し、何よりも毛利隆元、吉川元春、小早川隆景という、後に毛利家の屋台骨を支える三人の傑出した息子たちを産み育てた。これは彼女の最大の功績と言えよう。また、彼女の存在は毛利・吉川両家の強固な同盟関係の礎となり、その死後も元就によって一族結束の象徴として語り継がれ、毛利家の精神的な支柱であり続けた。
妙玖の生涯は、戦国時代における武家の女性の生き方の一つの典型を示していると言える。政略によって嫁ぎ、家の存続と繁栄のために尽くすという宿命を負いながらも、その中で夫との間に人間的な絆を育み、家庭を守り、次代を担う子供たちを育成するという重要な役割を果たした。彼女が自ら歴史の表舞台で采配を振るうことはなかったかもしれないが、彼女の存在、結婚、出産、そして死後の記憶は、毛利家の戦略、元就の精神状態、息子たちの結束に計り知れない影響を与えた。これは、直接的・能動的な行動だけでなく、人間関係や家族内での役割、さらには他者からの思慕や記憶といった要素が、歴史を動かす上で無視できない力を持つことを示している。
しかしながら、妙玖に関する研究は、史料的な制約という大きな課題を抱えている。彼女自身の言葉や主体的な行動を伝える記録は極めて乏しく、その人物像の多くは夫・元就の書状などを通じた間接的な情報に基づいて再構成されざるを得ない。これは、戦国時代の女性史研究全般に共通する困難さであり、男性中心の史料の中でいかに女性の姿を浮かび上がらせるかという方法論的な模索が今後も求められる。
妙玖の研究は、単に過去の一女性の生涯を明らかにするに留まらない。それは、戦国という激動の時代における家族のあり方、夫婦の絆、そして女性が果たした多様な役割について、私たちに深く考察する機会を与える。そして、歴史の中で声を持たなかった人々の存在に光を当てることの重要性を再認識させるとともに、史料の解釈や歴史記述におけるジェンダーバランスのあり方についても問いを投げかける。今後の新たな史料の発見や、より多角的な研究視点の導入によって、妙玖という人物、そして彼女が生きた時代への理解が一層深まることを期待したい。