『六韜』の総合的研究:その成立から日本の戦国時代への影響まで
はじめに
本報告書は、中国古代の著名な兵法書である『六韜』について、その成立背景、構成と各巻の内容を詳細に解説するとともに、特に日本、とりわけ戦国時代の武将や兵法思想に対していかなる影響を及ぼしたのかを、多角的な視点から徹底的に調査し、論じることを目的とする。
『六韜』は、単なる戦術書としてのみならず、国家統治や組織運営、リーダーシップ論といった広範なテーマを内包しており、東アジアの歴史において長きにわたり影響を与え続けてきた古典である。その研究は、兵法思想史のみならず、政治思想史、文化交流史においても重要な意義を持つ。本報告書では、伝統的な文献史料の分析に加え、20世紀後半における銀雀山漢簡のような考古学的発見がもたらした新たな知見も踏まえ、学際的なアプローチを試みる。これにより、『六韜』の多面的な価値と、日本における受容の特質を明らかにすることを目指す。
第一部:『六韜』の成立と概要
1.1. 成立背景と著者:太公望呂尚伝説と戦国時代の成立説
『六韜』は、伝統的に周王朝初期の賢臣であり、卓越した軍師であった姜尚、すなわち太公望呂尚の著作であるとされてきた 1 。この太公望伝説は、『六韜』に権威と神秘性を付与し、後世の武将や為政者たちがこの書を重視する一因となった。例えば、司馬遷の『史記』「斉太公世家」では「後世の兵を言ひ及び周の陰権を言ふ者は、皆太公を本謀と宗とす」と記され、太公望が兵法と謀略の祖として尊崇されていたことがわかる 1 。また、「留侯世家」には、張良が黄石公から『太公兵法』を授けられたという有名な逸話も残されている 1 。
しかしながら、近現代の学術的研究においては、文献学的分析や思想内容の検討から、『六韜』の成立は太公望の時代よりもはるかに下り、中国の戦国時代(紀元前5世紀~紀元前3世紀)に複数の著者によって編纂された後、漢代にかけて現在の形にまとめられたとする説が有力である 1 。記述されている戦術や兵器、官職名などが戦国時代以降の特徴を示すこと、また、その思想内容が諸子百家の影響を受けていることなどが、その論拠として挙げられる。
『六韜』全編が、周の文王あるいは武王が問いを発し、太公望がそれに答えるという問答形式で構成されている点は特徴的である 1 。この形式は、単に兵法知識を羅列するのではなく、理想的な君主と賢臣との対話を通じて、為政者や将軍が学ぶべき統治と軍事の要諦を具体的に示すという教育的効果を狙ったものと考えられる。太公望という伝説的な賢人に仮託することで、書物の権威を高めると同時に、問答形式を採用することで、読者にとってより実践的で理解しやすい内容となるよう工夫されたのであろう。これは、戦乱の時代に生きる諸侯や将軍たちにとって、『六韜』が単なる理論書ではなく、現実の政治や軍事に直結する実践的な指南書としての魅力を高める要因となったと言える。
1.2. 偽書説と銀雀山漢簡の発見:学術的評価の変遷
『六韜』は、その成立や著者について長らく議論があり、特に清代においては偽書であるとの見方が強かった 1 。太公望の著作とするには時代が合わない記述や思想が含まれることなどが、その主な理由であった。
しかし、この偽書説に大きな転機をもたらしたのが、1972年4月に中国山東省臨沂県の銀雀山一号漢墓および二号漢墓から発見された大量の竹簡群である。これらの竹簡の中には、『孫子兵法』や『孫臏兵法』といった著名な兵法書と共に、『六韜』の断簡も五十数枚含まれていた 1 。これらの竹簡は、紀元前2世紀前半の前漢初期の墓に副葬されていたものであり、この発見によって、『六韜』が少なくとも前漢時代には既に書物として存在し、広く流布していたことが考古学的に証明されたのである。
銀雀山漢簡の発見は、『六韜』研究にパラダイムシフトをもたらしたと言える。それまでは「偽書」か「真書」かという二元論的な議論が中心であったが、漢代初期の形態が確認されたことで、単に太公望の作ではないという議論に留まらず、戦国末期から前漢初期にかけての軍事思想や社会状況を反映した貴重な史料としての価値が再認識されることとなった 5 。これにより、いつ、どのような背景で編纂され、後世にどのような影響を与えたのかという、より建設的で具体的な研究へと進展する道が開かれた。成立年代については、戦国時代とする説が依然として有力であるが、その具体的な時期や編纂過程については、更なる研究が続けられている 6 。
1.3. 『武経七書』における位置づけ
『六韜』は、中国の兵法史上において重要な位置を占める兵法書群である『武経七書』の一つとして数えられている。『武経七書』とは、宋の神宗皇帝の元豊年間(1078年~1085年)に、武官の養成と教育のために公式に選定され、頒布された七つの代表的な兵法書の総称である 1 。これにより、『六韜』は武官にとって必読の経典としての地位を確立し、後世の兵法思想に大きな影響を与えることとなった。
『武経七書』には、『六韜』の他に、『孫子』、『呉子』、『司馬法』、『尉繚子』、『三略』、そして唐の李靖と太宗皇帝の問答を記録した『唐太宗李衛公問対』が含まれる 12 。これらの兵法書は、それぞれ異なる時代背景や思想的特徴を持っているが、『六韜』はその中でも特に内容が豊富で、戦略論から具体的な戦術、軍事組織論、さらには政治論に至るまで、広範なテーマを扱っている点が特徴とされる 11 。他の兵法書と比較して、より実践的で具体的な記述が多いことも、『六韜』が武官の教科書として重視された理由の一つであろう。
1.4. 構成:六巻(文韜・武韜・龍韜・虎韜・豹韜・犬韜)の概観
『六韜』という書名は、その構成が六つの「韜(とう)」と題された巻から成ることに由来する。「韜」とは、本来、弓や剣などを入れる袋を意味するが、転じて秘訣や奥義といった意味でも用いられるようになった 3 。すなわち、『六韜』は六つの奥義書・秘伝書を集めたもの、という意味合いを持つ。
具体的には、以下の六巻で構成されている 1 。
これらのうち、龍、虎、豹、犬といった動物の名を冠した巻名は、それぞれの動物が持つ特性やイメージと、各巻で説かれる内容とが関連付けられていると考えられる。例えば、「虎」はその勇猛さや威厳から、戦術や戦闘指揮といった直接的な戦闘能力に関わる「虎韜」に結びつけられたのであろう 19 。
以下に、各巻の主題と主要な内容をまとめた表を示す。
表1:『六韜』各巻の主題と主要内容一覧
巻名 |
主な内容 |
キーワード |
文韜 |
戦争を行うための国家統治、政治のあり方、人材登用、民生の安定、賞罰の公正 |
治国、仁政、徳治、富国強兵、人材登用、賞罰 |
武韜 |
戦争前の国家戦略、外交、情報収集、謀略(文伐)、不戦屈敵 |
国家戦略、外交、謀略、情報戦、心理戦、不戦而勝 |
龍韜 |
軍隊組織の構築、指揮系統、将軍・将校の選任基準と心得、将への全権委任 |
軍事組織、リーダーシップ、人材評価、指揮権、軍律 |
虎韜 |
平野部における戦術、陣形、兵器運用、寡戦の法、「虎の巻」の語源 |
基本戦術、陣形、兵器、寡戦、奇襲、実戦指揮 |
豹韜 |
森林・山岳・谷間・湖水など特殊な地形における応用戦術、地形の活用、奇襲 |
特殊地形戦術、環境適応、伏兵、ゲリラ戦 |
犬韜 |
歩兵・騎兵・弓兵・戦車など各兵科の編成法、訓練作法、兵科連携、兵士の士気向上 |
部隊編成、兵科別訓練、兵站、規律、士気、歩騎連携、兵力換算 |
この表からもわかるように、『六韜』は単なる戦術論に留まらず、国家経営の根幹に関わる政治・戦略論から、軍隊の組織運営、人材育成、そして具体的な戦闘指揮に至るまで、極めて広範な領域をカバーする総合的な兵法体系を提示している。
第二部:『六韜』各巻の内容詳解
2.1. 文韜:治国安民の道と人材登用
『六韜』の第一巻「文韜」は、戦争を遂行するための前提として、いかにして国家を安定させ、民衆の支持を得て国力を充実させるかという、治国安民の道と人材登用について論じている 15 。その根底には、民衆の生活安定こそが国家の基盤であるという思想があり、「国を治める要務は父母が子供を愛するように人民を愛すること」 20 といった言葉に象徴されるように、仁政の重要性が強調される。具体的には、「租税を軽くし、清廉潔白な官吏を使うこと」 20 、民の生業を安定させることなどが説かれている 22 。
また、国家運営における人材の重要性も繰り返し説かれ、有能な人材を見出し、適材適所に登用するための基準が示される。その代表的なものが「六守」であり、仁(思いやり)、義(正義感)、忠(忠誠心・責任感)、信(信頼性・正直さ)、勇(勇気・チャレンジ精神)、謀(知謀・戦略思考)の六つの徳目を備えた人物を登用すべきであるとしている 20 。さらに、賞罰の公正さも国家統治の要諦とされ、「賞を用うるには信を貴び、罰を用うるには必を貴ぶ」 25 という言葉は、約束に基づいた恩賞と、例外なき懲罰の厳正な運用が、臣下の忠誠心を引き出し、組織の規律を維持するために不可欠であることを示している。
「文韜」で説かれるこれらの治国論は、一見すると儒家的な徳治思想と共通する部分が多い。しかし、その最終的な目的が「戦争をするための国の治め方」 15 であることを考慮すると、単なる理想論としての徳治ではなく、国家の安定と軍事力の基盤強化、すなわち「富国強兵」という現実的な目標達成のための手段としての徳治という側面が強い。戦乱の時代において、民衆の支持を得て国内を安定させ、経済力を高めることが、対外的な軍事的成功の不可欠な前提であるという、極めてプラグマティックな統治論が展開されていると言える。これは、倫理規範と実利追求のバランスを重視する『六韜』の思想的特徴をよく表している。
2.2. 武韜:国家戦略と謀略、不戦屈敵の思想
『六韜』の第二巻「武韜」は、実際の戦争が開始される以前の段階における国家戦略、すなわち外交、情報収集、そして敵国を弱体化させるための謀略(「文伐」とも称される)の重要性を説いている 4 。武力による直接的な戦闘を極力避け、智謀を駆使して勝利を得ることを理想とする。
「武韜」では、敵国を内部から攪乱し、戦わずして屈服させるための具体的な謀略が数多く提示されている。例えば、敵の君主に対して美女や財宝を送り、奢侈や遊興に耽らせて政治を疎かにさせる 20 。あるいは、敵国の忠実な臣下と君主との間に不和を生じさせ、君臣間の信頼関係を破壊する 20 。さらには、敵国内に間諜を潜入させ、情報を収集したり、流言飛語を流して人心を惑わせたりすることも奨励される。これらの謀略は、敵の戦闘能力そのものではなく、敵の意思決定や組織の結束力を標的とするものであり、現代でいうところの心理戦や情報戦に通じる側面を持つ。
このような謀略を重視する思想は、『孫子』にも見られる「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」 28 という不戦屈敵の理念と軌を一にするものである。「武韜」の中には、「善く敵に勝つ者は、形なきに勝つ。上戦は与(とも)に戦うなし」 25 という名言があり、これは物理的な戦闘を交える前に、戦略や謀略によって勝利を確定させることが最上の勝ち方であるという思想を示している。
「武韜」で説かれる謀略は、一見すると非倫理的で権謀術数的な側面が強いように見えるかもしれない。しかし、これらの謀略は、可能な限り武力衝突を避け、自国及び敵国の人的・物的損害を最小限に抑えて国家の目的を達成するための、高度な国家戦略の一環として位置づけられていると解釈できる。戦乱の世において、国家の存亡を賭けた非情な選択肢として提示されているのであり、理想(仁政)と現実(戦争の非情さ)の狭間で為政者が直面する困難な課題に対する一つの回答を示唆しているとも言えるだろう。
2.3. 龍韜:軍事組織論と将帥の選任・心得
『六韜』の第三巻「龍韜」は、軍隊という組織をいかに構築し、効果的に運営していくかという軍事組織論と、その組織を率いる将軍や将校の選任基準、そして彼らが持つべき器量や心得について詳述している 15 。
軍隊組織に関しては、指揮系統の明確化、各部隊の役割分担、兵員の配置などが論じられる。効率的で規律ある軍隊を維持するためには、組織構造そのものが合理的でなければならないという認識が示されている。
将帥の選任においては、その人物の能力や資質を厳格に見極めることの重要性が強調される。例えば、「五材十過」という基準が示され、将軍が備えるべき五つの才能(勇・智・仁・信・忠)と、避けるべき十の欠点が具体的に挙げられている 23 。また、人の本心や真の能力を見抜くための「八つの徴候(八徴)」といった観察方法も提示されており 30 、これは表面的な言動に惑わされず、多角的に人物を評価しようとする試みと言える。特に、「五材」である勇(勇敢さ)、智(知恵や洞察力)、仁(思いやり)、信(嘘をつかない誠実さ)、忠(君主や国家への忠誠心)は、単なる軍事指揮能力だけでなく、人間性や倫理観を含む総合的なリーダーシップの要素として重視されている 23 。興味深いのは、「五材」も過剰に出過ぎると欠点になりうるという指摘であり 23 、何事もバランスが重要であるという、現代のリーダーシップ論にも通じる洞察が示されている。
さらに「龍韜」の「立将篇」では、君主が戦争の全権を将軍に移譲する儀礼を行い、戦場における指揮に関して君主は口出しをしないという誓いを立てる「将軍への全権委任」の思想が明確に述べられている 15 。これは、軍事の専門性を尊重し、現場の指揮官に大幅な裁量権を与えることで、迅速かつ適切な意思決定を可能にしようとするものであり、君主と将軍の適切な役割分担の重要性を示している。この思想は、専門家への信頼と責任の明確化という点で、現代の組織運営における権限委譲の考え方にも通じる先駆的なものと言えるだろう。
2.4. 虎韜:平野部における戦術、陣形、兵器、そして「虎の巻」の語源
『六韜』の第四巻「虎韜」は、最も基本的な戦場環境である平野部を想定し、そこでの具体的な戦術、軍隊の指揮法、部隊の陣形、さらには兵士が使用する武器や防具について詳細に論じている 15 。その実践的な内容から、『六韜』の中でも特に実用的な巻とされ、後世に大きな影響を与えた。
「虎韜」では、戦況や地形、敵の配置に応じて用いるべき多様な戦術が解説される。例えば、天体の運行や気象を読む「天陣」、地形の利を活かす「地陣」、兵士の士気や能力を考慮する「人陣」といった「三陣」の考え方 35 や、迅速な攻撃を重視する「疾戦」、包囲からの脱出と反撃を説く「必出」、国境付近での膠着状態を打開する「臨境」、音や偽装を駆使して敵を混乱させる「動静」といった具体的な戦術が、太公望と武王の問答形式で語られる 35 。
また、兵力的に劣勢な状況でいかに戦うかという「寡戦」の戦術も「虎韜」の重要なテーマの一つである。「少なきを以て衆(おお)きを撃つは、必ず日の暮れを以て、深草(しんそう)に伏(ふく)し、これを隘路(あいろ)に要(むか)えよ」 18 という有名な一節は、時間(日暮れ)、地形(深い草むら、狭い道)を最大限に利用し、伏兵によって大軍を打ち破るという具体的な寡戦の戦術を示している。
この「虎韜」が、今日我々が用いる「虎の巻」という言葉の語源であることは広く知られている 1 。「虎」という動物が持つ勇猛果敢で、何ものをも恐れない力強いイメージ 19 が、戦いに勝利するための奥義や秘伝といった意味合いと結びつき、「虎韜の巻」が省略されて「虎の巻」として定着したと考えられる。この言葉の普及は、『六韜』の中でも特に実践的な戦術を説く「虎韜」が、勝利を渇望する武人たちにとって強烈な魅力と価値を持っていたことを物語っている。しかしながら、「虎の巻」という言葉の持つ戦術マニュアル的なイメージは、『六韜』が内包する治国論や国家戦略論といった、より広範で深遠な思想的射程を覆い隠し、その多面的な価値を矮小化して捉えさせる危険性も指摘できるだろう。
2.5. 豹韜:特殊地形(森林・山岳・水沢など)における戦術
『六韜』の第五巻「豹韜」は、平野部とは異なる特殊な戦場環境、すなわち森林、山岳、谷間、湖水といった複雑な地形における応用的な戦術、指揮、部隊陣形、そしてそれに応じた武器や防具の運用について解説している 15 。これは、定型的な戦闘だけでなく、より変化に富み、予測不可能な状況への対応能力を養うことを目的としている。
「豹韜」では、それぞれの地形の特性を深く理解し、それを最大限に活用する戦術が説かれる。例えば、森林では視界が悪く、部隊の展開が困難であるため、伏兵や奇襲に適している。山岳地帯では高所を占拠することの有利性や、隘路での待ち伏せ攻撃が有効となる。湖水地帯では水上戦の特殊性や、渡河作戦の困難さが考慮される。このように、地形の利を活かした伏兵戦術や奇襲戦術が具体的に示される。例えば、「少なきをもって衆を撃つは、必ず日の暮をもって深草に伏し、これを隘路に要せよ」 18 という教えは、地形(深草、隘路)と時間(日暮れ)を巧みに利用した寡兵による奇襲戦術の典型である。
また、攻城戦についても言及があり、城の構造や防御設備に応じた攻略法、あるいは兵糧攻めのような長期戦術についても触れられている 39 。『六韜』全体を通して、地形に関する記述は散見されるが、「豹韜」では特にこれらの特殊地形が戦闘に与える影響と、それに対応するための具体的な方策が集中的に論じられている。
「豹韜」で説かれる特殊地形における戦術は、単にその場限りの対応策を提示するものではなく、環境要因を深く分析し、それに適応することで有利な状況を能動的に創り出すという、高度な戦略的思考を要求する。この「環境適応能力」の重視は、軍事の領域に留まらず、変化の激しい現代社会においても、あらゆる組織や個人が目標を達成し、成功を持続するために不可欠な普遍的原則と言えるだろう。「地を知りて天を知れば、勝乃ち全うすべし」 38 という言葉は、戦場環境の徹底的な分析と理解が勝利の前提であることを端的に示している。
2.6. 犬韜:部隊編成法と各兵科の訓練
『六韜』の最終巻である第六巻「犬韜」は、軍隊の基本的な構成単位である歩兵、騎兵、弓兵、そして戦車といった各兵科の具体的な部隊編成方法、それぞれの兵科の特性に応じた訓練作法、さらにはこれらの兵科を効果的に連携させる戦術について詳述している 4 。
「犬韜」では、各兵科が持つべき技能や、それを習得させるための具体的な訓練内容が示される。例えば、歩兵には密集隊形での戦闘訓練や白兵戦技術、騎兵には乗馬術や馬上での武器操作、弓兵には正確な射撃技術などが求められる。また、単に個々の兵士の技量を高めるだけでなく、部隊としての規律を維持し、兵士の士気を高め、強固な団結心と忠誠心を育成するための精神教育の重要性にも言及している。
特筆すべきは、異なる兵科をいかに効果的に組み合わせ、連携させて戦うかという思想である。例えば、「歩騎兵力の換算」に関する記述があり、平坦な土地においては騎兵1騎に対して歩兵8人で対抗でき、山間などの険しい土地では騎兵1騎に対して歩兵4人で戦えると具体的に示している 15 。これは、兵科の特性と戦場の地形を考慮した上で、合理的に戦力を評価し、運用しようとする試みであり、当時の兵種運用思想の一端を窺い知ることができる。
「犬韜」で説かれる部隊編成と訓練法は、単に個々の兵士を戦闘の道具として鍛え上げることを目的とするのではなく、多様な専門技能を持つ集団を一つの有機的な戦闘組織として機能させるための、組織論的な側面を強く持っている。各兵科の長所と短所を理解し、それらを戦況や地形に応じて最適に組み合わせるという思想は、現代のチームビルディングやタスクフォースの編成、あるいはスポーツにおけるフォーメーション戦略などにも通じる、普遍的な組織運営の知恵と言えるだろう。
第三部:『六韜』の日本への伝来と受容
3.1. 初期伝来の諸説:奈良時代・平安時代を中心に
『六韜』がいつ、どのようにして日本へ伝わったのかについては、いくつかの説が存在し、その正確な時期を特定することは容易ではない。伝来が一度きりではなく、異なる時代に複数回、あるいは異なる経路を通じて断続的にもたらされた可能性も考慮する必要がある。主な説としては、7世紀頃に伝来したとするもの 2 、10世紀初頭に大江維時によってもたらされたとするもの 15 、そして16世紀に伝来したとするもの 1 などが挙げられるが、それぞれに根拠と課題がある。
奈良時代の遣唐使であった吉備真備(きびのまきび、695年~775年)が『六韜』を含む多くの漢籍を日本に持ち帰ったとする説があるが 46 、これを直接的に裏付ける同時代の確実な史料は乏しく、後世の付会の可能性も否定できない。吉備真備が『後漢書』や『礼記』などをもたらしたことは記録されているが、『六韜』については明確ではない。
より具体的な伝承として、平安時代中期の学者であり、朝廷の書物を管理する立場にあった大江維時(おおえのこれとき、888年~963年)が、10世紀初頭(延喜年間から延長年間頃)に唐から帰国する際に『六韜』や『三略』、そして諸葛亮の八陣図とされる『軍勝図』などを日本に持ち帰ったという説がある 15 。この説によれば、維時はこれらの兵書を「人の耳目を惑わすもの」として、みだりに広まることを警戒し、自らの家(大江家)にのみ秘して伝え、他家には容易に見せなかったとされる 15 。この「秘匿」の措置が、その後の日本における『六韜』の限定的な流布や、神秘的なイメージ形成に影響を与えた可能性が考えられる。兵法、特に謀略を詳細に説く『六韜』のような書物は、為政者にとっては国家統治や軍事行動における強力な武器となり得る一方で、使い方を誤れば社会秩序を乱し、反乱を助長する危険な知識とも見なされ得る。奈良・平安時代の律令国家体制下においては、こうした高度な軍事知識の管理と制限は、国家の安定維持にとって重要な課題であったのかもしれない。
平安時代初期における『六韜』の存在を示す可能性のある史料として、藤原佐世(ふじわらのすけよ)が宇多天皇の勅命により寛平三年(891年)頃に編纂した、日本現存最古の漢籍目録である『日本国見在書目録(にほんこくげんざいしょもくろく)』が挙げられる 11 。この目録の兵書(兵家)の部門には、『太公六韜 六巻 呂望撰』という記載が確認できるとする研究があり [ 13 (立教大学論文参照)]、これが事実であれば、9世紀末には既に『六韜』が日本に存在し、朝廷によってその存在が認識されていたことの有力な証左となる。ただし、現存する『日本国見在書目録』は後世の抄本であり 49 、その記載内容の完全性や正確性については慎重な検討が必要である。しかし、この目録に記載があったとしても、それが当時の貴族社会や武士層に広く読まれていたことを直ちに意味するものではない点にも留意が必要である。大江維時の秘匿伝説が示唆するように、特定の家系や知識層の間でのみ伝承されていた可能性も考えられる。
これらの初期伝来に関する諸説や史料を総合的に勘案すると、『六韜』の日本への伝来は、単一の明確な出来事として捉えるよりも、異なる時代や経路を通じて、徐々に、そして多層的に日本社会に浸透していったプロセスとして理解するのが妥当であろう。そして、その過程において、「秘匿されるべき深遠な知識」というイメージが付与されていったことが、後の時代における『六韜』受容のあり方にも影響を与えたと考えられる。
3.2. 中世における受容と伝説:
平安時代後期から鎌倉時代、そして室町時代へと続く中世の日本では、武士階級の台頭と戦乱の頻発に伴い、兵法への関心が高まっていった。このような時代背景の中で、『六韜』は単なる外国の古典籍としてではなく、日本の武士たちの価値観や英雄譚と結びつき、独自の受容のされ方を見せるようになる。
その最も象徴的な例が、室町時代中期頃に成立したとされる軍記物語『義経記』に見られる、源義経と鬼一法眼(きいちほうげん)にまつわる伝説である 11 。この物語の中で、若き日の源義経(牛若丸)は、京の一条堀川に住むとされる陰陽師であり兵法の大家でもある鬼一法眼が秘蔵する『六韜』の兵法書(特にその中の「虎韜」、すなわち「虎の巻」)を、法眼の娘と通じることで盗み見て兵法を修得し、後の平家打倒の戦いでその知識を駆使して数々の奇跡的な勝利を収めたと描かれている 1 。この義経伝説は、中世以降の日本社会において、『六韜』、とりわけ「虎の巻」を、困難を乗り越え成功を掴むための究極の秘訣・奥義書として強く印象づける役割を果たした 1 。『義経記』自体は文学作品であり、その記述の史実性については疑問符が付くものの 51 、この伝説が広く流布したことは、中世の人々が『六韜』に対して抱いていたイメージや期待を反映していると言える。
興味深いことに、『義経記』の中では、この『六韜』が源義経以前には平将門(たいらのまさかど)によって伝えられた兵法書であるとも語られている 11 。平将門は、平安時代中期に関東で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物であり、朝廷に対する反逆者であると同時に、武士の時代の到来を告げる英雄的な側面も持つ。そのような将門と『六韜』が結びつけられた背景には、既存の権威に挑戦し、新たな秩序を打ち立てようとする者にとって、『六韜』のような高度な兵法知識が不可欠であるという認識があったのかもしれない。
さらに、時代を遡って、大化の改新(645年)の立役者の一人である中臣鎌足(なかとみのかまたり、後の藤原鎌足)が、『六韜』を暗唱するほど熱心に読み込んでいたという伝承も存在する 15 。この伝承の史実性は低いと考えられるが、国家の礎を築いたとされる古代の偉大な政治家・謀略家と『六韜』を結びつけることで、この兵法書が単なる戦術書ではなく、国家経営の要諦を含む深遠な知恵の書として権威付けられたことを示唆している。
これらの伝説は、史実とは異なるとしても、『六韜』という中国伝来の兵法書が、日本の歴史や英雄譚の文脈の中で意味づけられ、受容されていった過程を示す貴重な手がかりとなる。特に武士階級にとっては、義経のような理想的な武将像や、将門のような武勇の象徴と結びつけられることで、『六韜』は自らの武勇や知略の源泉となるべき特別な知識体系として、より魅力的に映ったのであろう。これは、中世の武士たちが大陸の先進文化に対する憧憬を抱きつつ、それを自らのアイデンティティ形成に取り込んでいった文化的な動態の一端を示すものと言える。
第四部:戦国時代における『六韜』
4.1. 戦国武将と『六韜』:受容の実態と影響
群雄が割拠し、実力主義が支配した日本の戦国時代(15世紀後半~16世紀末)において、兵法書は武将たちにとって、自らの勢力を維持・拡大し、熾烈な生存競争を勝ち抜くための死活的に重要な知識源であった。中国伝来の兵法書、特に『武経七書』に数えられる古典は、多くの武将たちによって研究され、その戦略・戦術思想は、合戦の指揮や領国経営に影響を与えたと考えられる。『六韜』もまた、この時代に注目された兵法書の一つである。
武田信玄の兵法思想と『六韜』
甲斐の武田信玄(1521年~1573年)は、戦国時代を代表する名将の一人であり、その軍事的能力は高く評価されている。信玄は高い教養を備え、中国の兵法書や史書を熱心に研究していたことが知られている 13 。特に『孫子』や『六韜三略』(『六韜』と『三略』を併称したもの)を重視していた可能性が指摘されている。信玄の軍旗に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という有名な句は、『孫子』軍争篇からの引用である。
信玄の具体的な戦略・戦術、例えば遠方の勢力と結び近隣の敵を攻める「遠交近攻策」 60 や、領国経営における富国強兵策において、『六韜』の思想が影響した可能性が考えられる。「文韜」で説かれる国家統治論や人材登用論、「武韜」で説かれる外交・謀略論などは、信玄のような領国経営と軍事を一体として捉える必要があった戦国大名にとって、実践的な指針となり得たであろう 13 。武田信玄の弟である武田信繁が著したとされる家訓『武田信繁家訓』には、『六韜』を含む「武経七書」からの引用や影響が見られるという研究もあり 13 、武田家において中国兵法が学ばれていたことを示唆している。ただし、信玄自身が『六韜』を具体的にどのように活用したかを直接的に示す一次史料は限られており、その影響関係の特定には慎重な分析が求められる。
上杉謙信の軍学と『六韜』
越後の上杉謙信(1530年~1578年)もまた、武田信玄の好敵手として知られる戦国屈指の武将である。謙信は「軍神」と称されるほどの戦上手であり、その軍事指揮能力は卓越していた。彼もまた幼少期に林泉寺で禅だけでなく兵学を含む学問を学んだとされ 61 、兵法に通じていたと考えられる。しかし、『六韜』と謙信の直接的な関係を示す史料は、信玄の場合以上に限定的である。
謙信の戦術思想や、「義」を重んじ、不正を討つという彼の行動原理と、『六韜』の教えとの間に関連性を見出すことは可能かもしれない。例えば、「文韜」で説かれる仁政の理念や、「龍韜」で語られる将帥の心得(特に「仁」や「信」といった徳目)は、謙信の掲げた「義戦」の思想と響き合う部分があるかもしれない 61 。しかし、これらはあくまで思想的な共通性の指摘に留まり、謙信が『六韜』を直接参照したという確証を得ることは難しい。
徳川家康と『六韜』:伏見版『六韜』刊行の意義と治世への影響
戦国時代の終焉と江戸幕府の開府をもたらした徳川家康(1543年~1616年)は、『六韜』を特に重視し、積極的に活用した武将として知られている。家康は学問を好み、多くの古典籍を読んだが、中でも『六韜』は愛読書の一つであったとされる 64 。その証左として最も重要なのが、家康が自ら命じて『六韜』を木活字で印刷・刊行させた事実である。これは「伏見版」または「慶長勅版」と呼ばれる印刷事業の一環であり、関ヶ原の戦い(1600年)の直前を含む慶長4年(1599年)、慶長5年(1600年)、そして慶長9年(1604年)と、複数回にわたって『六韜』が重版された 21 。
家康が緊迫した情勢下で兵法書である『六韜』を刊行させた目的は、単に合戦に勝利するための軍事知識の普及に留まらなかったと考えられる。むしろ、戦乱の終結と新たな時代の統治体制構築を見据え、『六韜』に含まれる国家経営や組織運営、人材登用といった広範な知識を、自ら学ぶと共に、家臣団にも学ばせようという政治的意図があったと推測される 37 。『六韜』の「文韜」で説かれる統治論や、「武韜」で語られる国家戦略は、まさに天下統一後の平和な世を治めるための指針となり得るものであった。家康の有名な言葉「天下は一人の天下に非ず。天下は天下の天下なり」は、『六韜』の一節「天下の利を同じくする者は、すなわち天下を得、天下の利を欲しいままにする者は、すなわち天下を失う」という教えと深く関連していると指摘されている 64 。これは、家康の治世や江戸幕府の体制づくりにおいて、『六韜』の思想が具体的な影響を与えた一例と言えるだろう。
戦国武将たちが『六韜』に関心を示したのは、それが単なる古典籍であったからではなく、戦乱の世を生き抜き、自らの領国を治め、さらには天下を統一するための実践的な知恵と方策をそこに見出したからである。特に、『孫子』のような抽象的な原理原則を説く兵法書と比較して、『六韜』が具体的な状況設定に基づいて詳細な戦術や軍政、国家運営について論じている点は、即応性が求められる戦国武将にとって大きな魅力であったと考えられる 21 。徳川家康による伏見版『六韜』の刊行は、そのような戦国時代における『六韜』受容の一つの頂点を示すものと言えるだろう。
4.2. 戦国時代の兵法思想における『六韜』の特質
戦国時代において、武将たちが参照した兵法書は『六韜』だけではなかった。『孫子』をはじめとする他の中国兵法書もまた、彼らの戦略・戦術思想に影響を与えていた。その中で、『六韜』が持つ独自の思想や戦術論は、当時の日本の戦闘様式や武将の思考に特有の影響を与えた可能性がある。
例えば、『孫子』が兵力的に劣勢な状況での戦い(寡戦)を極力避けるべきであると説くのに対し、『六韜』では寡戦を積極的に論じ、具体的な戦術(伏兵、奇襲、地形や天候の利用など)を提示している点は大きな特徴である 15 。日本の戦国時代は、必ずしも大軍を擁する勢力ばかりではなく、限られた兵力でいかに強大な敵に対抗するかが常に課題であった。そのような状況において、『六韜』の寡戦思想は、実践的な指針として武将たちに受け入れられた可能性がある。
また、『六韜』の「立将篇」に見られる、君主が戦争の全権を将軍に移譲し、戦場での指揮に口出しをしないという「将軍への全権委任」の思想も注目される 15 。戦国時代においては、大名(君主)自らが陣頭指揮を執ることもあれば、有能な家臣(将軍)に軍権を委ねることもあった。君主と将軍の適切な役割分担と信頼関係は、軍事作戦の成否を左右する重要な要素であり、『六韜』のこの思想は、戦国武将たちにとって示唆に富むものであったろう。
そして何よりも、「虎の巻」という言葉が日本社会に深く定着した事実は、『六韜』の中でも特に「虎韜」で説かれる実践的な戦術や奥義が、戦国武将たちの強い関心を集め、彼らの勝利への渇望に応えるものとして受容されたことを象徴している。一方で、この「虎の巻」のイメージが強すぎたために、『六韜』が持つ治国論や国家戦略論といったより広範な射程が見過ごされがちであった可能性も考慮する必要があるだろう。
第五部:『六韜』の兵法思想史における意義
5.1. 『孫子』『呉子』など他の兵法書との比較分析
『六韜』は、『武経七書』に代表される中国の古典兵法群の中で、独自の思想的特徴と歴史的意義を有している。特に、『孫子』や『呉子』といった他の主要な兵法書と比較することで、その特質はより明確になる。
戦略思想:
『孫子』は、「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」と述べ、戦前の周到な計略(廟算)と情報収集を重視し、可能な限り戦闘を避け、「戦わずして人の兵を屈する」ことを最上の勝利とする 28。これに対し、『六韜』も不戦屈敵の思想を共有しつつ(武韜)、より積極的に国力を充実させ(文韜)、外交や謀略を駆使して敵を弱体化させ、有利な状況を作り出して勝利を目指すという、能動的な国家戦略を強調する側面がある。
戦術論:
『孫子』が兵法の原理原則や戦闘の普遍的な法則性の提示に重点を置くのに対し、『六韜』はより具体的かつ多様な戦術、陣形、兵器の運用方法について詳細に記述している点が際立っている 21。平野部での基本戦術(虎韜)から、山岳・森林・水沢といった特殊地形での応用戦術(豹韜)まで、具体的な状況設定に基づいた戦術論が展開される。
統治論:
『孫子』や『呉子』も為政者の心得や民衆との関係について言及しているが、『六韜』の「文韜」に見られる治国安民の思想は、より体系的かつ具体的である。仁政の実施、人材登用、賞罰の公正、民生の安定といった統治の要諦が詳細に論じられており、兵法の前提としての国家経営の重要性が強く意識されている。
寡戦(少数兵力での戦闘)の思想:
『孫子』は基本的に兵力差を重視し、寡兵で大軍に挑むことを戒める傾向がある。これに対し、『六韜』では寡戦を重要なテーマとして取り上げ、地形や天候の利用、奇襲、伏兵といった具体的な戦術を提示し、小勢が大勢を破る可能性を積極的に追求している 15。この点は、資源や兵力が限られた状況下での戦いを強いられることが多かった日本の戦国武将たちにとって、特に実践的な価値を持った可能性がある。
将軍への全権委任の思想:
『六韜』の「龍韜」立将篇では、君主が戦争の全権を将軍に移譲し、戦場での指揮に介入しないことを誓う儀礼が記述されている 15。これは、軍事の専門性を尊重し、現場の指揮官に大幅な裁量権を与えることの重要性を示す思想である。一方、『孫子』も君命有所不受(君主の命令でも、状況によっては従わないことがある)の概念を示唆するが、『六韜』ほど明確に将軍への全権委任を制度として描いてはいない。この思想は、君主と将軍の役割分担がしばしば問題となった戦国時代において、示唆に富むものであったと言える。
以下に、『六韜』と主要な兵法書である『孫子』『呉子』の思想的特徴を比較した表を示す。
表2:『六韜』と主要兵法書(『孫子』『呉子』)の思想的特徴比較
特徴項目 |
『六韜』 |
『孫子』 |
『呉子』 |
戦略思想の主眼 |
富国強兵、積極的な国家戦略、謀略(文伐)の重視、不戦屈敵 |
廟算(戦前の計略)、情報重視、兵勢(勢い)、奇正の運用、不戦屈敵 |
兵は不祥の器、やむを得ずしてこれを用う、道・天・地・将・法、兵士との一体感 |
戦術論の特徴 |
具体的・多様な戦術、陣形、兵器運用、寡戦戦術の詳述、特殊地形戦術 |
戦争の原理原則、虚実・奇正の運用、地形・九地篇など状況に応じた戦術の原則提示 |
兵士の訓練と士気、軍の規律、戦陣の運用、実戦的な戦術の断片的記述 |
統治論の比重 |
「文韜」で詳細かつ体系的に論じられ、兵法の前提として極めて重視される(仁政、人材登用、賞罰公正など) |
限定的だが、君主の徳や民衆との和合の重要性に言及 |
将軍と兵士の関係、賞罰の厳正、民衆への配慮など、統率と民政に関連する記述が見られる |
寡戦への言及 |
積極的に論じ、具体的な戦術を多数提示 |
基本的に避けるべきとし、具体的な戦術提示は少ない |
限定的 |
将軍への権限委譲 |
「龍韜」立将篇で明確に全権委任の儀礼と思想を記述 |
「君命有所不受」を示唆するが、制度としての明確な記述は少ない |
将軍の権威と責任を重視するが、全権委任の明確な記述は少ない |
日本での受容 |
伝説と結びつき「虎の巻」として浸透。徳川家康による刊行など、実践的知識として重視。寡戦思想も注目された可能性。 |
武田信玄など多くの武将に愛読され、戦略思想の基本として受容。 |
上杉謙信や毛利元就が参考にしたとされ、実戦的な統率論として受容された可能性。 |
この比較からも明らかなように、『六韜』は他の兵法書とは異なる独自の射程と重点を持ち、特にその具体性、包括性、そして寡戦への積極的な言及において際立っている。これらの特徴が、時代や地域を超えて『六韜』が読まれ、研究され続ける理由の一つであろう。
5.2. 後世への影響と史料的価値
『六韜』は、その成立以来、中国国内はもとより、日本や朝鮮半島を含む東アジアの広範な地域において、兵法思想のみならず、政治思想や文化にも大きな影響を与え続けてきた 1 。
日本においては、古代の伝承に始まり、中世の軍記物語における英雄譚との結びつきを経て、戦国時代には実践的な兵法知識として武将たちに受容された。江戸時代に入ると、幕府の文教政策とも相まって、山鹿素行、荻生徂徠、吉田松陰といった著名な儒学者や兵学者たちによって『六韜』は注釈され、研究された 20 。彼らの解釈は、それぞれの時代の思想的背景や社会状況を反映しつつ、『六韜』の持つ多面的な価値を浮き彫りにした。近代以降もその影響は続き、例えば、昭和期の軍人であり研究者でもあった高木惣吉は、『六韜』を現代的に再解釈した『六韜新論』を著し、太平洋戦争の教訓と結びつけて論じている 17 。
『六韜』がこれほど長きにわたり、多様な形で影響を与え続けた根源は、その思想的射程の広さと、時代や状況の変化に対応しうる普遍的な原則を内包している点にあると言える。単なる戦闘技術の指南書に留まらず、国家経営の要諦、組織運営の原理、リーダーシップのあり方、さらには人間洞察に至るまで、多岐にわたる深い知恵を提供している。文韜における民本主義的な思想や人材登用論、龍韜におけるリーダーシップ論や人材評価論、武韜における危機管理や情報戦略論などは、現代の政治学、経営学、組織論といった分野においても示唆に富む内容を含んでいる。
史料的価値という観点からも、『六韜』は極めて重要である。銀雀山漢簡の発見により、その成立年代が戦国時代から前漢初期に遡ることが確実視されるようになったことで、当時の軍事思想や社会状況を具体的に伝える貴重な史料としての価値が再認識された 21 。また、日本をはじめとする東アジア諸国への伝播と受容の歴史は、文化交流史研究における重要な事例を提供する。特に、日本における『六韜』の受容は、伝説との融合、戦国武将による実践的解釈、江戸時代の儒学的・兵学的研究といった多様な様相を示しており、日本独自の文化形成過程を理解する上で興味深い素材となっている。
「虎の巻」という言葉に象徴されるような、一部のキャッチーな側面だけでなく、その根底に流れる深遠な思想体系こそが、『六韜』が時代を超えて読み継がれ、再解釈され、新たな価値を見出され続ける理由なのである。
第六部:結論
6.1. 『六韜』研究の総括と日本史における意義
本報告書では、中国古代の兵法書『六韜』について、その成立背景、編纂過程、各巻(文韜・武韜・龍韜・虎韜・豹韜・犬韜)の具体的な内容と思想的特徴を詳細に検討した。また、日本への伝来と受容の過程を、古代の伝承から中世の軍記物語、そして戦国武将による実践的な活用に至るまで追跡し、特に徳川家康による伏見版『六韜』刊行の意義を考察した。さらに、兵法思想史における『六韜』の位置づけを、『孫子』などの他の主要兵法書との比較を通じて明らかにし、後世への影響と史料的価値を論じた。
『六韜』は、伝統的に太公望呂尚の作とされてきたが、実際には戦国時代に編纂が始まり、前漢時代にはその原型が成立していたと考えられる。銀雀山漢簡の発見は、この説を考古学的に裏付け、偽書説に大きな影響を与えた。六巻から成るその内容は、単なる戦術論に留まらず、国家統治、戦略、組織論、人材論、外交、謀略など、極めて広範なテーマを網羅する総合的な知の体系である。
日本への伝来は古く、平安時代の『日本国見在書目録』にもその名が見える。中世には源義経の「虎の巻」伝説などを通じて神秘的なイメージが付与され、武士社会に浸透した。戦国時代には、武田信玄、上杉謙信、そして特に徳川家康といった武将たちが、その実践的な価値を認め、戦略・戦術や領国経営の参考に供した。家康による伏見版の刊行は、その集大成と言える。
日本史における『六韜』の意義は、単に外国の兵法書が受容されたという事実に留まらない。それは、日本の武士文化、英雄観、さらには政治思想の形成過程において、伝説と史実が複雑に絡み合いながら、独自の形で影響を与え続けた点にこそある。寡戦の重視や将軍への全権委任といった『六韜』特有の思想は、日本の戦国時代の状況と共鳴し、武将たちの思考に影響を与えた可能性がある。
現代においても、『六韜』の教えは、リーダーシップ論、組織論、危機管理論といった分野で新たな解釈が試みられ、古典から学ぶべき現代的価値が見出されている 23 。
6.2. 今後の研究課題と展望
『六韜』研究は、銀雀山漢簡の発見以降、新たな段階に入ったが、未だ解明されていない課題も多く残されている。今後の研究課題と展望として、以下の点が挙げられる。
第一に、戦国武将による『六韜』の具体的な活用事例に関する実証的研究の深化である。武田信玄や上杉謙信といった個々の武将が、『六韜』のどの部分をどのように解釈し、実際の戦略・戦術や領国経営に反映させたのか、あるいはさせなかったのかを、より具体的な史料に基づいて検証していく必要がある。また、中央だけでなく、地方の武士層における『六韜』の受容の様相についても、さらなる調査が期待される。
第二に、東アジアというより広い文脈での『六韜』受容史研究の推進である。日本だけでなく、朝鮮半島やベトナムなど、他の漢字文化圏における『六韜』の伝播と受容、そして各国独自の兵法思想との相互影響関係を比較研究することは、東アジア兵法思想史の全体像を理解する上で不可欠である。
第三に、学際的なアプローチのさらなる展開である。兵法思想史や文献学だけでなく、考古学、歴史学、政治学、経営学、社会学といった多様な分野の知見を融合させることで、『六韜』の持つ多面的な価値をより深く掘り下げることができるだろう。特に、現代の組織運営やリーダーシップ論、国家戦略論といった観点からの再解釈は、古典の現代的意義を明らかにする上で重要である。
第四に、一般読者への普及と教育の観点から、質の高い現代語訳や解説書のさらなる充実が求められる 4 。原文の持つニュアンスを正確に伝えつつ、現代の読者にも理解しやすい言葉で解説された著作が増えることは、『六韜』の知恵をより多くの人々が共有し、活用するための基盤となる。
『六韜』は、二千年以上の時を超えて読み継がれてきた人類の貴重な知的遺産である。その研究は、過去を理解するだけでなく、現代そして未来を生きる我々にとっても、多くの示唆を与えてくれるに違いない。
参考文献
本報告書の作成にあたり、以下の研究資料を参照した。