最終更新日 2025-09-01

山口城の戦い(1557)

厳島の戦い後、毛利元就は防長経略を開始。大内氏の内訌に乗じ山口を陥落させ、且山城で大内義長と内藤隆世が悲劇的な最期を遂げ、名門大内氏は滅亡した。

『防長経略の終焉:山口陥落と名門大内氏の滅亡(1557年)』

序章:山口城の戦いという問い

日本の戦国史において、「山口城の戦い(1557年)」という呼称は、特定の城を巡る単一の攻防戦を指すものではない。それは、弘治元年(1555年)10月1日の「厳島の戦い」に始まり、弘治3年(1557年)4月3日の大内義長の自害をもって終結する、約一年半に及ぶ壮大な軍事作戦、すなわち毛利元就による周防・長門二国侵攻、通称「防長経略」の最終局面を象徴する出来事である 1

利用者が認識する「毛利元就が大内方残党を掃討」という一行の記述の背後には、西国に二百年の栄華を誇った名門守護大名・大内氏が、内訌と外圧の狭間で崩壊していく激動のドラマが存在する。本報告書は、この防長経略の全貌を、可能な限り日付を追いながら時系列に沿って詳述する。物語の起点となる厳島での陶晴賢の敗死から、毛利軍の段階的な侵攻、大内家中の内部崩壊、そして本拠地山口の放棄を経て、終焉の地・且山城での悲劇に至るまでを克明に描き出すことで、「山口城の戦い」の真実に迫るものである。

この歴史的転換点の中心には、三人の主要な人物が存在する。一人は、安芸の一国人に過ぎなかった身から、知謀の限りを尽くして中国地方の覇者へと駆け上がらんとする稀代の謀将・毛利元就。一人は、豊後の大友家から迎えられ、自らの意志とは裏腹に滅びゆく大国の傀儡当主という悲運を背負わされた大内義長 3 。そしてもう一人は、傾きかけた主家を最後まで支え、忠義に殉じた若き家老・内藤隆世である 5 。彼らの選択と運命が交錯する様を追うことで、防長経略という事象を、単なる勢力争いではなく、人間ドラマとして深く理解することが可能となる。


表1:防長経略 主要時系列表

年月日 (西暦)

主要な出来事

関連人物

場所

弘治元年 (1555) 10月1日

厳島の戦い 。毛利軍が陶軍を奇襲し壊滅させる。

毛利元就、陶晴賢

安芸国 厳島

弘治元年 (1555) 10月12日

毛利元就、安芸・周防国境の小方へ進駐。 防長経略を開始

毛利元就

安芸国 小方

弘治元年 (1555) 10月

鞍掛山城の戦い。毛利軍が杉親子を討ち取り、城を陥落させる。

毛利元就、杉宗珊・隆泰

周防国 鞍掛山城

弘治2年 (1556) 4月~

須々万沼城の攻防戦が始まる。毛利軍の攻撃は難航。

小早川隆景、山崎興盛

周防国 須々万沼城

弘治3年 (1557) 2月

元就自らが出陣し、須々万沼城への総攻撃を再開。

毛利元就

周防国 須々万沼城

弘治3年 (1557) 3月2日

杉重輔が富田若山城を襲撃、陶長房が自害。

杉重輔、陶長房

周防国 富田若山城

弘治3年 (1557) 3月2日

内藤隆世が杉重輔を討伐するため山口で挙兵。市街地が炎上。

内藤隆世、杉重輔

周防国 山口

弘治3年 (1557) 3月2日

毛利軍、総攻撃により 須々万沼城を陥落 させる。

毛利元就、山崎興盛

周防国 須々万沼城

弘治3年 (1557) 3月12日

毛利元就、本隊を率いて防府に進駐。天満宮に本陣を置く。

毛利元就

周防国 防府

弘治3年 (1557) 3月15日頃

大内義長、 山口(高嶺城)を放棄 し、長門国・且山城へ逃亡。

大内義長、内藤隆世

周防国 山口

弘治3年 (1557) 3月下旬

毛利軍、且山城を包囲。海上も封鎖される。

福原貞俊、乃美宗勝

長門国 且山城

弘治3年 (1557) 4月2日

毛利方の謀略を受け、 内藤隆世が自刃 。且山城は開城。

内藤隆世

長門国 且山城

弘治3年 (1557) 4月3日

大内義長、長福院にて自害 。名門大内氏が滅亡。

大内義長

長門国 長福院


表2:主要登場人物とその役割

人物名

立場・役職

本報告書における役割

毛利元就

安芸国人領主 → 戦国大名

防長経略の主導者。知謀と冷徹な現実主義で旧秩序を破壊し、新たな覇者となる。

大内義長

大内氏第32代当主

悲劇の主人公。大友家から迎えられた傀儡であり、滅びゆく名門の運命を一身に背負う。

内藤隆世

大内氏家老、長門守護代

忠義の臣。最後まで主君・義長に仕え、旧来の武士の「義」に殉じる。

陶晴賢

大内氏重臣、周防守護代

全ての元凶。主君・大内義隆を討ち、大内氏の実権を握るが、厳島で敗死し崩壊の引き金を引く。

杉重輔

大内氏家臣

内乱の火種。父の仇である陶氏への復讐心から挙兵し、大内家中の内訌を決定的にする。

吉川元春

毛利元就の次男、吉川家当主

「毛利両川」の一翼。主に軍事を担当し、山陰方面の尼子氏を牽制する役割を担う 6

小早川隆景

毛利元就の三男、小早川家当主

「毛利両川」の一翼。水軍を率い、政務・外交面で元就を補佐。防長経略でも重要な役割を果たす 8


第一部:崩壊の序曲 ― 厳島の戦いと防長経略の開幕(1555年10月~1556年)

厳島の衝撃と元就の神速

弘治元年(1555年)10月1日、安芸国厳島。この日、戦国史に名高い日本三大奇襲の一つが敢行された 10 。毛利元就は、わずか4,000の兵で、陶晴賢率いる2万の大軍が布陣する厳島に夜陰と暴風雨に乗じて上陸。夜明けと共に奇襲を仕掛け、大混乱に陥った陶軍を壊滅させた 11 。大将の陶晴賢は島からの脱出もままならず自刃 13 。この一戦は、単なる戦術的勝利に留まらなかった。大寧寺の変(1551年)以降、大内氏の実権を掌握していた最高実力者・陶晴賢と、その軍事的中核であった主力が同時に消滅したのである。これは、大内氏という国家から、頭脳と心臓が同時に失われたに等しい、致命的な一撃であった 14

この千載一遇の好機を、元就は見逃さなかった。厳島での首実検を終えると、勝利の余韻に浸る間もなく、10月12日には安芸・周防国境の小方(現在の広島県大竹市)に本陣を移す 2 。勝利からわずか十日余りというこの神速の軍事行動こそ、防長経略の成否を決定づけた初手であった。陶晴賢の死によって生じた大内氏中枢の権力的真空に対し、再編のいとまを一切与えぬという、元就の周到かつ冷徹な戦略眼の現れであった。

東部戦線の攻略:調略と力攻め

元就の周防侵攻は、武力と謀略を巧みに組み合わせたものであった。まず、大内方の防衛網に揺さぶりをかけるべく調略を用いる。10月18日、蓮華山城主の椙杜隆康に使僧を送り、降伏を勧告。椙杜父子はこれを受け入れ、人質を送って毛利氏に服属した 15 。これにより、大内方の防衛線には早々に亀裂が入った。

しかし、全ての国人が靡いたわけではない。蓮華山城に隣接する鞍掛山城では、城主の杉宗珊・隆泰親子が徹底抗戦の構えを見せた。元就は7,000(一説に2万)ともされる大軍を差し向け、城を包囲。杉軍は2,600の兵で善戦したが、10月27日未明、毛利軍は城の搦手(裏手)から奇襲を敢行。激戦の末、杉親子をはじめ城兵1,300人余りが討ち取られ、鞍掛山城は陥落した 2 。この戦いの激しさは、現在でも城跡から当時の焼けた米が出土するという伝承に偲ばれる。

東部国境地帯の平定は続き、同年11月には毛利方の村上水軍が周防大島の宇賀島を攻撃し、大内方の水軍を掃討。島が一時的に無人島になったと伝えられるほどの徹底ぶりであった 2 。弘治2年(1556年)に入る頃には、玖珂郡の地侍の多くが毛利氏に服属したが、山代地方では一揆が蜂起し、成君寺城に籠もって抵抗を続けるなど、平定は一筋縄ではいかなかった。

長期化する戦線:須々万沼城の攻防

周防東部を制圧した毛利軍であったが、西部の要衝・須々万沼城(現在の山口県周南市)で、大内方の頑強な抵抗に直面する。城主・山崎興盛と援軍の将・江良賢宣は、三方を沼沢に囲まれた天然の要害をさらに強化。近くを流れる川を堰き止め、城の周囲を水で満たして毛利軍を寄せ付けなかった 2

弘治2年(1556年)4月、小早川隆景率いる5,000の軍勢が攻撃を仕掛けるが、撃退される。同年9月には毛利隆元が再度攻撃するも、これも失敗に終わった。籠城兵は3,000とも、敗残兵を加えて1万に達したとも言われ、その士気は高かった。

戦線が膠着する中、弘治3年(1557年)2月、ついに元就自らが1万余の大軍を率いて攻略に乗り出す。元就は城の背後にある道徳山に本陣を構え、隆元、隆景の軍勢で城を完全に包囲した。元就が用いたのは、従来の戦術に捉われない新たな発想であった。2月19日からの攻撃で、兵士たちに編竹と筵(むしろ)を投げ込ませて沼地を埋め立てさせ、足場を確保。さらに、この戦いで毛利軍は初めて火縄銃を実戦投入したと記録されている 15 。新兵器の威嚇射撃のもと、埋め立てられた沼沢から毛利軍が城に殺到。3月2日早朝の総攻撃により、須々万沼城はついに陥落。籠城していた男女1,500人余りが惨殺されたという 2 。城主・山崎興盛は降伏を潔しとせず、自害して果てた。

約一年にも及んだこの攻防戦は、大内方の抵抗が決して微弱ではなかったことを示すと同時に、元就が旧来の戦法に固執せず、工兵的発想や新兵器の導入といった合理的かつ多角的な戦術を駆使する、近代的な指揮官であったことを物語っている。

第二部:内部からの崩壊 ― 大内家の内訌と山口の混乱(1556年~1557年3月)

毛利軍の侵攻という外部からの圧力が強まる中、大内氏の屋台骨は内部から崩壊を始めていた。その根源は、天文20年(1551年)の大寧寺の変にまで遡る。主君・大内義隆を討った陶晴賢の下剋上は、大内家における正統な権威を破壊し、家臣団の間に修復不可能な亀裂を生んでいた。傀儡として擁立された大内義長には、この亀裂を埋め、国難に際して家臣団を結束させるだけの権威も実力もなかった 5

復讐の連鎖と忠義の暴発

須々万沼城がまさに陥落せんとしていた弘治3年(1557年)3月2日、大内氏の内部崩壊を象徴する事件が、陶氏の本拠・富田若山城で発生した。かつて陶晴賢によって父・杉重矩を誅殺された杉重輔が、積年の恨みを晴らすべく挙兵。若山城を襲撃し、晴賢の嫡男・陶長房らを自害に追い込んだのである 2 。この挙兵は毛利と通じていたとも言われ、大内家にとどめを刺す絶好の機会を狙ったものであった可能性が高い。

この報は、直ちに山口の内藤隆世のもとへ届いた。隆世の姉は陶晴賢の妻であり、彼は晴賢の義弟にあたる 5 。陶一族への義理と、家中の秩序を乱す者への怒りに駆られた隆世は、主君・大内義長の制止を振り切り、杉重輔討伐を決行する。義長は両者の仲裁を試みたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者はいなかった 2

焦土と化す西の京・山口

3月2日、内藤隆世の軍勢は山口市街の後河原にあった杉重輔の屋敷を襲撃。この戦闘が引き金となり、市街地で大規模な火災が発生した。折からの強風に煽られた炎は瞬く間に燃え広がり、西の京と謳われた華麗な街並みは、わずか数日のうちに灰燼に帰した 16 。大内義長は燃え盛る館を逃れ、今八幡宮に避難する有様であった。

この内乱は、3月4日に内藤軍が杉重輔を防府で討ち取ることで終結する。しかし、その代償はあまりにも大きかった。毛利という共通の外敵を目前にしながら、大内家臣団は私怨と派閥の論理を優先し、互いに刃を向けたのである。結果として、自らの本拠地を焼き払い、防衛体制を自ら破壊してしまった。これは、求心力を失った巨大組織が、外部の脅威にではなく、内部の矛盾によって自壊していく典型的な崩壊の力学であった。

この大内家の惨状は、三本の矢の教えに象徴されるように、一族の団結を何よりも重視した毛利元就の統治戦略と、あまりにも鮮やかな対比をなしている 8 。元就が息子たちを他家の養子に送り込んでまで勢力圏を固め、家中を強力に統制したのに対し、大内氏は内部の亀裂を制御できずに自滅の道を辿った。この組織統治能力の差こそが、両家の明暗を分けた根本的な要因であったと言えよう。

第三部:山口陥落 ― 最後の本拠地の放棄(1557年3月)

須々万沼城を攻略し、大内家の内訌という好機を得た毛利元就は、満を持して大内氏の本拠地・山口へと駒を進めた。

毛利本隊、防府に進駐

弘治3年(1557年)3月8日、毛利軍は陶氏の残党が籠る富田若山城を攻略。12日には同地を出発し、山陽道を通って防府へと進軍した 2 。防府の天神山(現在の防府天満宮)には、鷲頭隆政と朝倉弘房が率いる大内軍2,000が布陣していたが、2万にまで膨れ上がった毛利の大軍の前に抵抗する術もなく壊滅。元就は防府を完全に制圧し、松崎天満宮(防府天満宮)の大専坊に本陣を構え、山口への最終攻撃の指揮を執ることとした 2 。一方、右田ヶ岳城の右田隆量らは戦わずして元就に降伏し、大内方の防衛網は急速に瓦解していった。

未完成の城、高嶺城の悲劇

この時、大内義長と内藤隆世が最後の拠点として頼みにしていたのが、山口市街の背後にそびえる高嶺山に築かれた高嶺城であった。しかし、この城には致命的な欠陥があった。高嶺城は、厳島の戦いでの敗戦後、毛利の侵攻に備えて急遽築城が開始されたものであり、この時点では全くの未完成だったのである 19 。石垣も不十分で、兵糧の備蓄もなく、本格的な籠城戦に耐えうる状態ではなかった 23

この事実は、大内氏の戦略的後手と危機管理能力の欠如を象徴している。本来、本拠地の最終防衛拠点は平時から周到に準備されるべきものである。しかし彼らは、最大の軍事的支柱であった陶晴賢を失った後になって、慌てて新たな盾を作り始めた。これは、来たるべき脅威の性質と速度を完全に見誤っていた証左に他ならない。リスクが顕在化してから対策を講じるという、致命的な判断の遅れが招いた悲劇であった。

戦わずしての都落ち

状況は絶望的であった。南からは元就率いる毛利本隊が、北からは毛利に与した石見の吉見正頼の軍勢が、山口の宮野口へと迫っていた 2 。市街地は先の内乱で焦土と化し、防衛拠点となるべき城は未完成。まさに八方塞がりであった。

弘治3年3月15日頃、大内義長と内藤隆世は、防衛不能と判断した山口を放棄するという苦渋の決断を下す。西国の都として栄華を誇った地を戦わずして捨て、最後の抵抗を試みるべく、内藤氏の旧来の拠点である長門国・且山城(勝山城)へと落ち延びていった 2 。この情報は、直ちに防府の毛利本陣に伝えられた。

主を失った山口には、毛利軍が無抵抗で進駐した。支城の姫山城に籠っていた宍道隆慶も降伏 25 。こうして、大内弘世以来、二百年にわたり西国の中心として繁栄した都・山口は、ついにその歴史に幕を下ろした。その栄華を支えた京都盆地を模した地形は、文化的・経済的には繁栄をもたらしたが、四方から攻められやすいという軍事的な脆弱性を抱えていた。高嶺城という山城でその弱点を補おうとした試みも、時すでに遅く、大内氏の栄光を象徴した都市構造そのものが、最期には彼らの足枷となったのである。

第四部:終焉の地、且山城 ― 謀略と悲劇の幕切れ(1557年3月下旬~4月3日)

山口を追われた大内義長と内藤隆世主従が最後の望みを託した長門国・且山城は、内藤氏代々の居城であり、四方を山に囲まれた天然の要害であった 5 。しかし、彼らの行く手には、毛利元就が張り巡らせた冷徹な包囲網が待ち受けていた。

最後の籠城と完全なる包囲

元就は、山口占領を麾下の将に任せると、大内義長追討の総仕上げに取り掛かった。追討軍の主将として福原貞俊に5,000の兵を与え、且山城を完全に包囲させる 23 。同時に、義長の実家である豊後の大友宗麟からの援軍を断つため、万全の策を講じた。陸路では1,000余騎を下関方面へ派遣し、海路では乃美宗勝を主力とする毛利水軍・村上水軍を動員して、周防灘から関門海峡に至る海上を封鎖。義長らの退路と大友氏からの補給路を、陸海双方から完全に遮断したのである 23 。もはや、且山城は外界から隔絶された孤島であった。

元就の謀略:忠義を逆手に取る非情の策

堅城である且山城を力攻めにすれば、毛利方にも少なくない損害が出ることは必至であった。ここで元就は、彼の真骨頂とも言うべき謀略を用いる。福原貞俊を通じ、城内へ一本の矢文を射ち込ませた。その内容は、敵の内部構造の弱点を突く、巧みかつ非情なものであった。

「大寧寺の変に荷担した謀反人である内藤隆世を許すわけにはいかない。しかし、その傀儡であった大内義長殿に遺恨はない。隆世が自刃し、城を開け渡すのであれば、義長殿の命は助け、実家である大友家へ丁重にお送りしよう」 5

この勧告は、軍事力と心理戦を融合させた、元就ならではの策であった。隆世を「主犯」、義長を「傀儡」と明確に位置づけることで、降伏勧告に「大義名分」と「説得力」を持たせたのである。これは、忠臣であればあるほど、自らの命と主君の命を天秤にかけさせられた時、後者を選ぶであろうという人間心理を深く見抜いた上での、冷徹な計算に基づいていた。

忠臣の決断と裏切りの48時間

城内では激しい議論が交わされた。義長は謀略を疑い、最後まで抵抗することを主張したが、隆世は主君の助命という一縷の望みに賭けることを決断する 5

弘治3年(1557年)4月2日。 毛利方からの検使として兼重元宣が城内に入る。その見守る中、内藤隆世は義長の将来を頼むと言い残し、見事に腹を切り、自刃して果てた。享年、わずか22であった 5 。彼の死は、主君のために命を捧げるという、旧来の武士が持つ「義」の姿を体現するものであった。

隆世の死を受け、且山城は開城された。大内義長は城を出て、長府にある長福院(現在の功山寺)へと移る 27

しかし、約束は反故にされた。

翌4月3日。 福原貞俊率いる毛利軍は、義長が身を寄せる長福院を完全に包囲。有無を言わさず、自害を迫った 23 。謀られたことを悟った義長は、もはやこれまでと静かに覚悟を決めた。そして、自らの運命を詠んだ辞世の句を残す。

誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ

(人に誘われるようにして死ぬことになったが、何を恨むことがあろうか。時が来れば、花というものは嵐が吹かずとも自ずと散るものなのだから) 2

この句には、個人の意志や忠義では抗うことのできない、時代の大きな「嵐」に翻弄された者の深い諦観が込められている。陶晴賢の末子とされる鶴寿丸らと共に、大内義長は自害。享年26 28

ここに、鎌倉時代より続いた西国の名門・大内氏は、完全に滅亡した 25 。内藤隆世が信じた「義」は、元就の冷徹な実利と謀略の前に利用され、踏みにじられた。この悲劇は、戦国乱世がもはや単なる忠義や名誉だけでは生き残れない、より非情な時代へと完全に移行したことを象徴する出来事であった。

結章:戦後の新秩序と中国地方の覇者

大内義長の自害をもって、約一年半に及んだ防長経略は完了した。弘治3年(1557年)4月23日、毛利元就は吉田郡山城へと凱旋し、周防・長門二国を完全に自らの領国とした 2 。しかし、それは毛利氏にとっての終着点ではなく、中国地方の覇権を巡る、より大きな戦いの序章に過ぎなかった。

防長二国の平定と支配体制の構築

元就の戦後統治は、武力による鎮圧という「ハードパワー」と、旧来の支配層を取り込む「ソフトパワー」の巧みな組み合わせであった。まず、山口の守備には信頼の置ける家臣・市川経好らを配置し、軍事的な支配を固めた 30 。その一方で、大内氏の旧臣を巧みに懐柔し、新たな統治機構に組み込んでいった。その象徴的な例が、内藤氏の処遇である。元就は、最後まで敵対した内藤隆世の嫡流は滅ぼしたが、毛利に通じていた隆世の叔父・内藤隆春に家督を継がせ、引き続き長門守護代の地位を認めた 5 。これにより、在地勢力の不満を和らげ、長門統治の円滑化を図ったのである。

しかし、支配は順風満帆ではなかった。同年6月以降、陶氏や杉氏といった大内旧臣の残党が、防長各地で散発的な反乱を起こす 2 。特に11月には、大内義隆の遺児とされる問田亀鶴丸を擁立した旧臣らが山口に乱入し、障子ヶ岳城に籠城するという大規模な蜂起が発生した。毛利方はこれを迅速に鎮圧し(妙見崎の戦い)、反乱の芽を徹底的に摘み取っていく 2 。元就が三人の息子たちに団結の重要性を説いた有名な「三子教訓状」が記されたのは、この反乱鎮圧のために再び出陣していた最中、富田の勝栄寺に在陣していた11月25日のことであった 2 。この一連の反乱鎮圧を経て、毛利氏の防長二国における支配は盤石なものとなった。

中国地方の新たな勢力図と歴史的意義

大内氏という巨大勢力の消滅は、中国地方のパワーバランスを一変させた。これまで大内氏という緩衝材を介して対峙していた毛利氏は、北の尼子氏、そして九州の大友氏という二大勢力と、国境を直接接することになったのである 31 。石見銀山の権益を巡る尼子氏との争いは激化し、また、弟・義長を見殺しにした形となった大友宗麟との間には、旧大内領の博多や北九州の権益を巡る長期的な対立の火種が生まれた 2 。防長経略の成功は、毛利氏を中国地方という舞台から、西日本全体を巻き込む、より大きなスケールの地政学的ゲームの主要プレイヤーへと押し上げたのだ。

結論として、「山口城の戦い」を含む一連の防長経略は、毛利元就が安芸の一国人から中国地方の覇者へと飛躍を遂げた、決定的な転換点であった。それはまた、旧来の権威を象徴する名門守護大名・大内氏が滅亡し、実力のみがものをいう戦国乱世の様相を一層色濃くする画期的な出来事でもあった。山口の陥落と大内氏の滅亡は、一つの時代の終わりと、毛利氏による新たな時代の幕開けを告げる鐘の音だったのである。

引用文献

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  7. 「吉川元春」初陣はなんと10歳!戦上手な毛利両川の片翼 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/584
  8. 【特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち https://www.mihara-kankou.com/fp-sp-sengoku
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