慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。天下分け目の戦いにおいて西軍に属し、壮絶な死を遂げた一人の武将がいた。その名は戸田勝成(とだ かつしげ)。彼の死は、敵方である東軍の諸将までもが涙したと、江戸時代の軍記物『武功雑記』は伝えている 1 。一敗将の死が、なぜ敵味方の垣根を越えて惜しまれたのか。この特異な逸話は、彼が単なる戦の駒ではなく、その人柄と生き様をもって広く敬愛されていた人物であったことを強く示唆している。本報告書は、この「惜しまれた死」を解き明かす鍵として、戸田勝成という武将の生涯、その出自の謎、武功、そして彼を巡る人間関係を徹底的に調査・分析し、その実像に迫ることを目的とする。
調査を進めるにあたり、まず明確にすべき点がある。一部の資料には、徳川家康に仕え、三河国に生まれ、大坂の陣を経て江戸時代初期まで存命した同姓同名の「戸田勝成」なる人物の記録が存在する 2 。しかし、これは本報告書の主題である、関ヶ原で戦死した豊臣家臣・戸田勝成とは全くの別人である。両者の生没年、出自、仕えた主君、そして生涯の軌跡は完全に異なる。本報告書では、これらの混同されがちな情報を明確に峻別し、豊臣政権下で義に生き、関ヶ原に散った戸田勝成の正しい姿を浮き彫りにしていく。
戸田勝成のキャリアは、織田家の重臣・丹羽長秀の配下として始まった。しかし、その出自は謎に包まれており、彼の後の人生を決定づける重要な背景となっている。本章では、勝成の若き日の姿を、その出自の謎と共に追う。
戸田勝成は、諱(いみな、実名)として「重政(しげまさ)」あるいは「勝重(かつしげ)」とも記される 1 。通称は半右衛門、官途名は武蔵守であり、同時代の人々からは「戸田武蔵守」の名で広く知られていた 1 。豊臣政権下では、主君から姓を賜り「羽柴武蔵守」を称した時期もあったとされる 1 。生年は不詳であるが、一説には永禄元年(1557年)の生まれとされている 5 。
勝成の出自は、多くの史料において「不明」とされている 1 。丹羽家の家臣団の記録である『丹羽歴代年譜附録』においても、「生国未考」としながら「戸田武蔵守藤原勝成」と記し、彼が藤原姓を称していたことを伝えるのみである 1 。これは、徳川譜代大名として著名な三河国以来の戸田氏一族とは系統を異にする、「非三河系」の戸田氏であったことを意味する 1 。
彼の兄である戸田勝隆も同様に「出自不明」とされ、羽柴秀吉の馬廻衆の中でも精鋭である黄母衣衆の筆頭に選ばれるなど、兄弟揃って家柄に頼らず、純粋な実力でのし上がった叩き上げの武将であった 1 。この事実は、彼らの生涯の選択を理解する上で極めて重要な意味を持つ。三河以来の戸田氏のような、徳川家と深い主従関係や地縁を持つ家系の出身ではない「アウトサイダー」であったからこそ、彼らは旧来の勢力図に縛られることなく、実力主義で新興の大名を積極的に登用した豊臣政権に対して、より強い忠誠心や恩義を感じる素地が形成されたと考えられる。特に勝成が最終的に西軍へ与し、豊臣家のために命を捧げた決断は、単なる政治的判断に留まらず、自らを大名にまで引き立ててくれた豊臣秀吉への個人的な忠義という、彼のアイデンティティに深く根差した行動であったと推察できる。
勝成の確かな経歴は、織田信長の重臣であった丹羽長秀の家臣として始まる 1 。天正10年(1582年)の本能寺の変後、羽柴秀吉が明智光秀を討伐した山崎の戦いでは、長秀の配下として参陣している 1 。
翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいては、秀吉方として長秀に従い、柴田勝家方の越前国へ侵攻した。同年4月21日には、長束正家や村上義明らと共に勝家勢を撃破し、その本拠である北ノ庄城へと追い込む戦功を挙げた 1 。
これらの戦功が評価され、戦後、長秀が越前・若狭両国および加賀二郡を領する123万石の大大名となると、勝成はその重臣として越前国吉田郡に松岡城2万5,000石を与えられた 1 。これにより、彼は丹羽家中で確固たる地位を築き、一国人領主から大名の家臣団の中核を担う武将へと成長を遂げたのである。
表1:戸田勝成 略年譜
年代 (西暦) |
主な出来事 |
仕官先 |
居城 |
知行高 (推定) |
典拠 |
永禄元年 (1557) |
生誕(一説) |
- |
- |
- |
5 |
天正10年 (1582) |
山崎の戦いに参加 |
丹羽長秀 |
- |
- |
1 |
天正11年 (1583) |
賤ヶ岳の戦いに参加、北ノ庄城攻略に貢献 |
丹羽長秀 |
越前・松岡城 |
2万5,000石 |
1 |
天正13年 (1585) |
丹羽長秀死後、豊臣秀吉の直臣となる |
豊臣秀吉 |
越前・安居城 |
1万石 |
1 |
天正15年 (1587) |
九州征伐に従軍 |
豊臣秀吉 |
越前・安居城 |
1万石 |
1 |
天正18年 (1590) |
小田原征伐に従軍(秀吉本陣脇備え) |
豊臣秀吉 |
越前・安居城 |
1万石 |
1 |
文禄元年 (1592) |
文禄の役(肥前名護屋城に駐屯) |
豊臣秀吉 |
越前・安居城 |
1万石 |
1 |
慶長4年 (1599) |
1万石を加増される |
豊臣秀吉 |
越前・安居城 |
2万石 |
1 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦死 |
豊臣秀頼 |
- |
- |
1 |
主君・丹羽長秀の死は、勝成にとって大きな転機となった。彼は歴史の大きな潮流の中で豊臣秀吉の直臣となり、独立した大名としての道を歩み始める。本章では、豊臣政権下における彼の活動と、そこで果たした役割を詳述する。
天正13年(1585年)、丹羽長秀が43歳の若さで病死すると、家督は子の長重が継いだ。しかし、長秀死後の丹羽家は内紛や秀吉による減封などに見舞われ、その勢力は大きく削がれた。こうした状況の中、勝成は長重のもとを離れ、豊臣秀吉の直臣となった 3 。これは、丹羽家の混乱を避けると共に、自らの武将としての将来を、天下人となりつつあった秀吉に託すという現実的な判断であったと考えられる。
秀吉は勝成を独立した大名として認め、越前国足羽郡に安居(あご)城と1万石の知行を与えた 1 。これにより、勝成は丹羽家の家臣という立場から、豊臣政権を直接支える大名の一員へとその地位を変えたのである。
豊臣大名となった勝成は、秀吉が進める天下統一事業において、着実にその軍役を果たしていく。
天正15年(1587年)の九州征伐では、豊臣軍の一員として従軍した 1 。天正18年(1590年)の小田原征伐では、300騎の兵を率いて秀吉本陣の脇備えという重要な役割を担った 1 。さらに文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)においては、実際に朝鮮半島へ渡海することはなかったものの、九州の肥前名護屋城に駐屯し、ここでも300名の兵を率いて秀吉本陣の前備衆を務めている 1 。
また、軍事行動だけでなく、文禄3年(1594年)には、秀吉の新たな居城である伏見城の建設工事を分担するなど、大名としての役目を忠実に果たした 1 。
勝成の豊臣政権下での活動を俯瞰すると、一番槍や城攻めの主将といった華々しい武功の記録は少ない。彼の役割は「本陣の脇備え」や「前備衆」など、総大将である秀吉の周辺を固める、極めて高い信頼性と堅実な働きが求められる役目に集中している。これは、彼が派手な功名手柄を立てるタイプの武将というよりも、忠実で信頼に足る、いわば「縁の下の力持ち」的な存在として秀吉に評価されていたことを示唆している。彼の生涯は、最後の関ヶ原での壮絶な死によって一気に輝きを放つが、そこに至るまでのキャリアは、このような地道な忠勤の積み重ねによって築かれたものであった。この静かなる忠勤と劇的なる最期の対比こそが、彼の人物像を深く理解する鍵となる。
こうした地道な働きが評価され、慶長4年(1599年)には1万石を加増され、合計2万石の大名となった 1 。ただし、江戸幕府が作成した『廃絶録』では1万石のままであると記されており、加増の時期や実態については諸説残る 1 。また、慶長3年(1598年)に秀吉が死去した際には、その遺産として金子5枚を賜っており、秀吉から一定の評価と信頼を得ていた大名の一人であったことは間違いない 1 。
慶長5年(1600年)、太閤秀吉の死によって豊臣家の天下は大きく揺らぎ、徳川家康が台頭する。この国家的な動乱の中、戸田勝成は己が信じる義に従い、石田三成方の西軍に参加する。本章では、彼の関ヶ原での足跡と、その壮絶な最期を克明に描く。
勝成は、徳川家康の専横を許さじと挙兵した石田三成に共鳴し、西軍に与した 1 。その決断の根底には、出自不明の自分を大名にまで取り立ててくれた豊臣家への深い恩義と忠誠心があったことは想像に難くない。特に、彼が深く信頼し、友誼を結んでいたとされる大谷吉継の存在が、その決断に大きな影響を与えたと考えられる。義理人情に厚い武将であった吉継と行動を共にすることは、勝成にとって自然な選択であったのだろう。
開戦当初、勝成は北陸方面の防備を担当していたが、家康率いる東軍の主力が中山道を進軍してくると、大谷吉継の指揮下に入り、決戦の地となる美濃国関ヶ原へと軍を進めた 1 。
この時、西軍首脳部が最も警戒していたのが、松尾山に布陣する小早川秀秋の動向であった。『関原始末記』によれば、秀秋の態度を不審に思った大谷吉継は、勝成と平塚為広を秀秋の陣へ使者として派遣したという。しかし、秀秋は病を理由に面会を拒否した 7 。この逸話は、西軍が早くから秀秋の裏切りを警戒しており、その内情を探るという機微に触れる重要な役割を、吉継が勝成に託していたことを示している。
慶長5年9月15日、関ヶ原の本戦が始まった。戦況は一進一退を続けたが、正午過ぎ、ついに松尾山の小早川秀秋隊1万5,000が動いた。彼らは西軍を裏切り、山麓に布陣する大谷吉継の部隊に襲いかかったのである 9 。
しかし、稀代の智将・大谷吉継はこの裏切りを予期していた。勝成は、同じく大谷隊に属していた平塚為広と共にその最前線に立ち、裏切り者の大軍を迎え撃った。彼らの部隊の奮戦は凄まじく、数に劣りながらも一時は小早川隊を押し返すほどの猛攻を見せた 9 。
だが、秀秋の裏切りに呼応し、それまで西軍として戦っていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの部隊も次々と東軍に寝返った。これにより、大谷隊は三方から集中攻撃を浴びる形となり、戦況は絶望的となった 10 。
衆寡敵せず、奮戦空しく大谷隊は壊滅状態に陥った。その乱戦の中、勝成は織田有楽斎(長益)の子である織田長孝の部隊と激しく渡り合い、死力を尽くして戦った末、ついに討ち取られた 1 。享年44(一説)。
この時、嫡男の戸田内記(諱は重典とも伝わる)もまた、父と共に同じ戦場で奮戦し、討死を遂げている 1 。これにより、豊臣大名としての戸田家は、父子の壮絶な死と共に断絶した。
勝成の生涯は、前述の通り地道な忠勤の積み重ねであった。しかし、彼の最期は戦国武将として最も劇的で名誉あるものの一つと言える。彼は、圧倒的に不利な状況下で、主君(大谷吉継)と大義(豊臣家への忠誠)のために、裏切りという武士として最も不名誉な行為に正面から立ち向かい、最後まで戦い抜いて死んだ。これは、彼が自身の生涯の価値と武士としての矜持を、その「死に様」をもって証明しようとした行為と解釈できる。彼の死が敵方にまで惜しまれたのは、その壮絶な戦いぶりが、敵味方の政治的立場を超越し、当時の武士が誰もが理想とする「義」の体現そのものと映ったからに他ならない。
戦場での武功だけでなく、戸田勝成の人物像は、彼にまつわる逸話や人間関係からも鮮やかに浮かび上がってくる。本章では、彼の人間的魅力と、後世に語り継がれる伝説を分析する。
戸田勝成の人物像を語る上で最も象徴的なのが、『武功雑記』に記された「勝成は東軍の諸大名にも親交のある者が多く、その死を聞いて皆涙した」という一節である 1 。戦国乱世において、敵将の死を悼んで涙を流すというのは極めて異例のことであり、彼の誠実で義理堅い人柄が、政治的な対立を超えていかに広く尊敬を集めていたかを物語っている。この人徳こそが、彼の名を後世に留める最大の要因となった。後年の創作物であるゲーム『戦国大戦』においても「人柄の優れた将として知られ」と紹介されるなど、このイメージは現代に至るまで彼の人物像を決定づけている 12 。
関ヶ原の悲劇性を一層深めるのが、勝成と織田有楽斎(長益)との関係である。勝成を討ち取った織田長孝は、有楽斎の息子であった。そして、その父である有楽斎は、あろうことか勝成の友人であったと伝えられている 1 。
史料によれば、関ヶ原の戦いが起こる3年前の慶長2年(1597年)4月22日、勝成、有楽斎、そして有楽斎の別の子である信成は、徳川家康の邸宅で茶会に同席している記録が残っている 1 。かつて同じ席で茶を酌み交わした友人の息子によって命を奪われるという運命の皮肉は、天下分け目の戦いがもたらした人間関係の断絶と悲劇を象徴する逸話として、深く心に刻まれる。
勝成の劇的な死は、後世に様々な巷談や伝説を生み出すことになった。
その一つが「妖刀村正伝説」である。勝成を討ち取った織田長孝の槍が、実は徳川家に仇なす刀工として知られる「村正」の作であった、という有名な逸話がある 1 。戦後の論功行賞の場で、家康がその槍を手に取った際に誤って指を負傷し、村正の作と知った有楽斎が、徳川への配慮から退出後に槍を微塵に砕いたというこの物語は、「妖刀村正」伝説の中でも特に有名なエピソードとして広く知られている。これは、西軍の義将であった勝成の死が、徳川の天下に影を落とす象徴的な出来事として、後世の人々によって脚色され、物語として昇華された結果と言えよう。
また、昭和10年(1935年)に書かれた『大武鑑』という書物では、戸田武蔵守(勝成)が織田信長から特別な軍旗である「白キ天ツキ赤吹ヌキ」の朱旄を許された「卅六飛将」の一人に数えられている 1 。しかし、これは江戸時代の『総見公武鑑』などを基にした後世の創作であり、勝成が信長の直臣であった事実はないため、史実ではない。これらの伝説は、彼の死がいかに人々の想像力を掻き立てたかの証左と言える。
関ヶ原での父子の戦死により、豊臣大名としての戸田家は廃絶した。しかし、その血脈は歴史の表舞台から完全に消え去ったわけではなく、意外な形で後世に受け継がれていたことが記録から判明している。本章では、彼の死後の家系の行方と、歴史の中に残る遺産を追う。
関ヶ原の戦いにおける戸田勝成と嫡男・内記重典の戦死は、豊臣大名としての戸田家の終焉を意味した 1 。西軍に参加し、敗北した多くの大名が改易や減封の処分を受ける中、当主と後継者が共に戦死した戸田家は、その歴史に幕を閉じることとなった。これが一般的な認識である。
「家は断絶した」という一般的な認識は、父系の家督相続を重視する武家社会の観点から見れば正しい。しかし、江戸時代に編纂された大名の系譜集である『断家譜』には、この認識を覆す驚くべき記述が残されている。
それによれば、江戸時代に越後村上藩の初代藩主となった村上頼勝は、戸田武蔵守(勝成)と信濃の戦国大名・村上義清の娘との間に生まれた子であり、母方の祖父である義清の養子になったとされている 1 。さらに、頼勝の跡を継いだ2代藩主・村上忠勝は、勝成の息子で共に戦死した戸田内記と、頼勝の娘との間に生まれた子であるとも記されている 1 。
この記述の信憑性については更なる検証が必要であるが、もし事実であれば、勝成の物語は大きくその様相を変える。彼の家は父系としては断絶したが、その血脈は女系を通じて存続し、しかもそれが別の大名家の中核を成して江戸時代を生き抜いたことになる。これは、戦国から江戸初期にかけての武家社会における、養子縁組や婚姻政策を駆使した多様な「家」の存続戦略を示す好例である。勝成の物語は、単に「義に殉じた悲劇の武将」で終わるのではなく、「その血は、形を変えて大名家として生き続けた」という、より奥行きのあるものとして再評価されるべきであろう。
戸田勝成が後世に残したものは血脈だけではない。岐阜県関ケ原町歴史民俗資料館が所蔵する「関ヶ原合戦図屏風」には、大谷隊の一員として奮戦する「戸田重政(勝成)」の姿が勇ましく描かれており、その最期の雄姿を今日に伝えている 13 。
最後に、本報告書の冒頭で触れた人物誤認について改めて結論づける。本報告書で詳述してきた、丹羽家臣から豊臣大名となり、関ヶ原で戦死した戸田勝成は、一部資料に見られる「天文8年(1539年)三河生まれ、徳川家康に仕え、大坂の陣後も存命し天寿を全うした戸田勝成」 2 とは、全くの別人である。この長年の混同を解き、両者を明確に区別することこそ、関ヶ原に散った義将・戸田勝成の真の姿を歴史の中に正しく位置づける上で不可欠な作業である。
戸田勝成の生涯は、出自不明という逆境を乗り越え、自らの実力で大名の地位にまで上り詰め、最後は自らが信じる義のために命を捧げた、戦国武将の一つの理想像を体現している。彼のキャリアは、他の著名な武将たちのように、華々しい武功譚に彩られているわけではない。しかし、その地道な忠勤と、敵味方を問わず敬われた誠実な人柄、そして裏切りが渦巻く戦場で示した揺るぎない忠義の姿は、多くの人々の心を打ち、その死は敵方にさえ惜しまれ、後世まで語り継がれることとなった。
大名としての家は一代で断絶したが、その血脈は形を変えて生き続けた可能性が示唆されている。戸田勝成の物語は、単なる敗者の悲劇ではない。それは、戦乱の世にあって「武士の義」とは何かを、自らの生き様、そして壮絶な死に様をもって問い続けた、一人の誠実な武人の記録なのである。彼の存在は、歴史の勝者だけでなく、敗者の中にもまた、後世が範とすべき高潔な精神があったことを我々に教えてくれる。