最終更新日 2025-09-22

方広寺大仏地震被害(1596)

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方広寺大仏地震被害(1596年)の総合的考察:豊臣政権の権威失墜から滅亡への序曲

序章:天威の顕現 ― 豊臣秀吉と京の大仏

文禄5年(1596年)に発生した慶長伏見地震は、畿内一円に甚大な被害をもたらした。しかし、この自然災害が歴史に刻んだ爪痕は、単なる物理的破壊にとどまらない。特に、完成直後であった京都・方広寺の大仏が被った被害は、当代随一の権力者であった豊臣秀吉の権威を根底から揺るがし、ひいては豊臣家の滅亡へと至る長い因果の連鎖の、まさに第一歩となる画期的な出来事であった。本報告書は、この「方広寺大仏地震被害」を戦国時代という政治的・社会的文脈の中に位置づけ、その背景、リアルタイムの惨状、そして後世への深遠な影響を、同時代の一次史料を基軸として徹底的に解明するものである。

1-1. 建立の政治的意図:奈良・東大寺を超える野心

方広寺大仏の建立は、豊臣秀吉の天下統一事業の総仕上げとも言うべき、極めて高度な政治的意図を内包した国家プロジェクトであった。秀吉は、永禄10年(1567年)の松永久秀による兵火で焼損した奈良・東大寺の大仏に代わる、いや、それを凌駕する大仏の造立を天正14年(1586年)に発願した 1 。その目的は、8世紀に聖武天皇が奈良の大仏建立を通じて国家の安寧と統一を具現化した先例に倣い、自らの権威を絶対的なものとして天下に可視化することにあった 3

この事業は、単なる宗教的熱意の発露ではない。軍事力によって日本を統一した秀吉が、次なる段階として文化的・宗教的権威をも掌握し、人心を束ねるための巨大な装置であった。東大寺大仏を超えることは、すなわち天平文化を築いた天皇の権威を超えることを意味し、秀吉こそが日本の新たな統治者であることを視覚的に、そして恒久的に示すための野心的な試みだったのである。来日していたイエズス会宣教師ルイス・フロイスが、秀吉の性格を「自らの名声を誇示し記念するのに役立つような大事業を起す機会を見逃すような性格ではなかった」と的確に評しているように、その動機には個人的な顕示欲も色濃く反映されていた 4

1-2. 刀狩りとの連動:武力から神威への転換

秀吉の統治者としての非凡さは、この大仏建立を天正16年(1588年)に発布した「刀狩令」と巧みに連動させた点に最もよく表れている。刀狩りの真の目的は、農民層から武器を没収することで一揆を防止し、兵農分離を徹底することにあった 5 。しかし秀吉は、その口実として、没収した刀や脇差を「今度大仏御建立の釘、かすかひに仰せ付けられるべし」と定めたのである 4

この布告は、単なる政策的正当化を超えた、巧緻なプロパガンダであった。農民たちは、武器を差し出すことで「今生の儀には申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事」と説かれ、その行為が宗教的な功徳になるとされた 4 。ここに、秀吉の統治術の神髄が見て取れる。反乱や殺生の道具である「武器」が、国家鎮護の象徴である「大仏」を構成する神聖な材料へと転換されるという物語は、物理的な武装解除だけでなく、民衆の精神的な抵抗意志をも昇華・無力化する効果を持っていた。これにより、秀吉は単なる武力による支配者から、民を慈しみ来世の救済まで約束する為政者へと、そのイメージを昇華させることに成功したのである。

1-3. 建立過程と空前の威容

大仏建立プロジェクトは、まさに国家の総力を挙げたものであった。天正14年(1586年)の計画開始から8年の歳月と延べ6万人以上もの人々を動員し、文禄4年(1595年)にようやく完成へとこぎつけた 1 。本尊である毘盧遮那仏は、高さ六丈三尺(約19メートル)に及び、奈良・東大寺の大仏(約14.7メートル)を凌駕する壮大な木造金漆塗りの坐像であった 10

この巨大な本尊を安置する大仏殿もまた、桁行(間口)約90メートル、梁行(奥行)約55メートルという、当時の日本、ひいては世界でも最大級の木造建築物であったと目されている 3 。建築様式には、かつて焼失した東大寺大仏殿を参考にした伝統的な「大仏様(天竺様)」が採用された 5 。しかし、天下に示すべき権威の象徴の完成を急いだためか、大仏本体の制作には、鋳造よりも工期が短い木造乾漆造りという技法が選択された 2 。この判断が、後に未曾有の悲劇へと繋がる構造的な脆弱性を内包することになるのを、当時の誰も知る由もなかった。

第二章:地動の刻 ― 文禄五年閏七月十三日、京の惨状(リアルタイム・シークエンス)

複数の一次史料を横断的に分析することで、地震発生の瞬間から数日間の出来事を時系列に沿って再構築する。これにより、当時の人々が体験した混乱と恐怖を可能な限りリアルに描き出す。

2-1. 発生:子の刻(深夜)、前代未聞の揺れ

文禄5年閏七月十三日(西暦1596年9月5日)、京の人々が深い眠りについていたであろう子の刻(午前0時頃)、突如として大地が裂けるような激しい揺れが襲った 14 。この地震は、後に元号が慶長に改元されたことから「慶長伏見地震」と呼ばれる。

公家の山科言経は、その日の日記『言経卿記』に「去夜子刻大地震、近代是程事無之、古老之仁語之(昨夜子の刻の大地震は、近年これほどのことはなく、古老もそう語っている)」と記し、誰もが経験したことのない異常な揺れの大きさを伝えている 14 。遠く日本に滞在していたルイス・フロイスもまた、その著書『日本史』の中で「かつて人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほど(すさまじいもの)であった」と、その衝撃を記録している 15 。揺れは一度では終わらなかった。フロイスによれば、本震は「ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した」後も、40日間にわたって余震が続いたという 17

現代の地震学では、この地震の規模はマグニチュード7.5前後と推定されている 18 。震源は有馬-高槻断層帯、あるいは中央構造線断層帯が活動した可能性が指摘されており、畿内の広範囲が震度6相当の激しい揺れに見舞われたと考えられている 19

2-2. 震源地・伏見の壊滅(十三日 未明)

地震の被害は、秀吉が隠居後の住まいとして築城し、政庁として機能していた指月伏見城で最も悲劇的な形で現れた。完成して間もない壮麗な城は、一瞬にして瓦礫の山と化したのである。『義演准后日記』や『言経卿記』などの記録によれば、天を突くようにそびえていたはずの天守は倒壊し、御殿や櫓、多聞なども大破、あるいは完全に崩れ落ちた 20

城内の人的被害は甚大を極めた。徳川家康の屋敷では長屋が倒壊し、家臣の加々爪政尚が圧死、雑人(身分の低い使用人)十数名が死亡。徳川秀忠の屋敷でも、武士にこそ死者は出なかったものの、雑人六、七十人が命を落とした 20 。中でも最も悲惨だったのは、城の奥向きに仕える女性たちの運命であった。公家の壬生孝亮が記した『左大史孝亮記』には、「伏見二丸之女房三百人餘、依地震失命云々」とあり、二の丸だけで300人以上の侍女が建物の下敷きとなって亡くなったと伝えられている 20

この時、伏見城に通常より多くの人々が集められていたことが、被害を拡大させた一因であった。当時、秀吉は明からの講和使節を伏見城に迎える準備を進めており、そのための人員が城内に詰めていたのである 22 。日本の威信をかけた華やかな外交儀礼の舞台となるはずだった場所が、一瞬にして数百の命を飲み込む惨劇の場と化した。天下人の権威を世界に示そうとしたその場所で、天災によって無力さを露呈したことは、秀吉にとって最大の屈辱であったに違いない。

2-3. 方広寺の奇妙な被災:大仏のみの損壊

伏見城の壊滅的な被害とは対照的に、京の東山に建立された方広寺では、極めて奇妙な形で被害が現れた。空前の規模を誇った大仏殿の建物自体は、ほとんど無傷だったのである。『言経卿記』は「大仏ハ堂ハ不苦(大仏は、お堂は問題ない)」と簡潔に記し 14 、『義演准后日記』の記述からも、大仏殿が無事であったことがわかる 20 。後年の発掘調査では、直径5メートルにも及ぶ礫を詰め込んだ堅牢な基礎(根固め)が確認されており、この強固な土木技術が巨大な建物を地震から守ったと考えられている 24

しかし、その堅牢な「器」の中に鎮座していたはずの「中身」は、無残な姿を晒していた。大仏本体が、地震の揺れによって大破してしまったのである。『言経卿記』には「御胸ヨリ下少々損了(胸から下の部分が少し損壊した)」とあり 14 、『義演准后日記』はさらに生々しく「御佛ハ御手オチ胸クツレ(大仏は御手が落ち、胸が崩れた)」と記録している 20 。周囲を囲んでいた築地塀もことごとく崩れ落ち、聖なる空間は見る影もなかった 20

この「建物は無事なのに、本尊だけが破壊される」という不可解な現象は、当時の人々の目にどのように映っただろうか。それは、天下人の権威を早期に示すことを優先し、速成可能な木造乾漆造りという工法を選んだ秀吉自身の判断が招いた、ある種の必然的な帰結であった。堅牢な土台と建築技術で造られた大仏殿に対し、大仏本体は工期短縮を優先した結果、構造的な脆弱性を抱えていた。この技術的な選択の差が、地震という外的要因によって「器は無事なのに、魂だけが破壊される」という、極めて象徴的な被害状況を生み出したのである。人々は、この奇妙な壊れ方を、天が秀吉の性急な野心(=大仏)を拒絶し、その器(=大仏殿)だけを残したという、神意の表れとして解釈した可能性は十分に考えられる。

2-4. 権力者の反応と民衆の動揺(十三日 昼~十六日)

大破した大仏の姿を目の当たりにした秀吉の反応は、怒りと恐怖がない交ぜになったものであった。伝承によれば、彼は「これほどの大地震が予知できぬとは、なんと値打ちのない大仏よ。これでもくらえ」と激昂し、大仏に向かって矢を放ったという 10 。この逸話は、自らの権威の根源たるべき存在がその役目を果たせなかったことへの、深い失望と苛立ちを物語っている。それは同時に、天災を仏の責任に転嫁することで、自らが天に見放されたのではないかという最大の恐怖から目を逸らそうとする、必死の自己防衛であったとも解釈できる。その後、秀吉は倒壊した伏見城を放棄し、最も安全な大坂城へと「飛ぶようにして」避難したと、フロイスは記録している 16

一方、京の民衆は未曾有の恐怖と混乱の渦中にあった。市内では寺社や民家が多数倒壊し、死者は1,000人を超えたとされる 18 。特に下京の被害は甚大で、本願寺の寺内町では300人もの死者が出た 27 。人々は絶え間なく続く余震に怯え、倒壊の危険がある家に戻ることもできず、路上で夜を明かすほかなかった 27

こうした極度の社会不安の中で、人々は噂に救いを求めた。巷では、この大地震は前年に秀吉によって無実の罪で切腹させられた甥、豊臣秀次とその一族の祟りであるという噂が、瞬く間に広まった 25 。為政者への不満や不安が、非業の死を遂げた人物の怨霊と結びつくのは、当時の社会心理として自然なことであった。さらに、『言経卿記』には、人々が地震除けの呪いとして、和歌を書いた札を家々の門柱に貼る「和歌を押す」という行動をとっていたことが記録されている 27 。科学的知識が乏しい時代、人々が超自然的な力に頼ってでも不安を鎮めようとした、切実な行動の記録である。

表1:慶長伏見地震における主要拠点の被害状況比較

拠点

建造物・構造

被害状況

死者数(推定)

史料における記述

指月伏見城

天守、御殿、石垣

天守・櫓・多聞が倒壊、石垣も多数崩落。

500人以上(うち侍女300人余)

「テンシユ崩了、大名衆家共事外崩了」(天守が崩壊し、大名たちの屋敷もことごとく崩れた) 20 。城内は「前代未聞」の惨状 20

方広寺大仏殿

木造建築(大仏様)

柱が土中に二寸(約6cm)ほど沈下、楼門が傾くなど軽微な損傷に留まる。建物自体は倒壊せず。

なし

「堂ハ不苦」(お堂は問題ない) 14 。「大仏殿は無事であったようである」 20 。基礎が極めて堅牢であった 24

方広寺大仏

木造乾漆造坐像

左手と胸部が崩落し大破。後光は無事。

なし

「御胸ヨリ下少々損了」(胸から下の部分が少し損壊した) 14 。「御手オチ胸クツレ」(御手が落ち、胸が崩れた) 20

京都市中

寺社、民家

東寺五重塔、天龍寺などが倒壊。下京を中心に民家の倒壊多数。堺でも被害甚大。

1,000人以上

「寺内家悉大略崩了、死人三百人ニ相及了」(寺内の家はことごとく崩れ、死者は300人に及んだ) 27

この表が示す対比構造は、当時の人々がこの災害から受けた衝撃の核心を浮き彫りにする。すなわち、天下人の政庁(伏見城)の完全な崩壊と、神仏を祀る聖域(大仏殿)の健在ぶり。そして、その聖域の中での、堅牢な器(大仏殿)と脆弱な魂(大仏)という二重の対比である。この不可解な現実は、人々に「天命」や「神意」といった超自然的な力の介在を強く意識させ、豊臣秀吉の権威そのものへの疑念を抱かせるに十分なものであった。

第三章:権威の揺らぎ ― 地震が豊臣政権に与えた衝撃

慶長伏見地震は、豊臣政権の物理的な拠点を破壊しただけでなく、その権威の根幹をなす「神聖性」をも揺るがした。秀吉個人の心理から政権の安定性まで、その影響は深刻かつ広範囲に及んだ。

3-1. 権威の象徴の崩壊と心理的打撃

秀吉にとって、京の大仏は単なる建造物ではなかった。それは、自らが天命を受け、神仏の加護のもとで天下を治める正当な支配者であることの、何より雄弁な証明であった。その絶対的な象徴が、完成からわずか1年で、自然の力の前になすすべもなく破壊されたという事実は、秀吉に深刻な心理的打撃を与えた。

大仏が自らを守れなかったという現実は、「天が秀吉を見放した」という不吉なメッセージとして、秀吉自身の自己認識を根底から揺るがした可能性がある。大仏に向かって矢を放ったという彼の激昂は、自身の権威の根拠が崩れ去ったことへの、抑えがたい恐怖の裏返しであったと解釈できる。この衝撃は秀吉の心身を蝕み、彼は毎夜のように奇異な夢にうなされ、ついに病に倒れたと伝えられている 28 。天下統一を成し遂げた不世出の英雄が、一つの地震を境に、目に見えぬ力に怯える一人の人間へと変貌していく様がうかがえる。

3-2. 迷走する災異対策:善光寺如来の遷座

権威の象徴を失った秀吉の行動は、焦りと迷走の色を濃くしていく。彼は、破壊された大仏の代わりとして、古くから霊験あらたかな秘仏として民衆の絶大な信仰を集めていた信濃の善光寺如来を、強引に京都へ遷座させたのである 2 。表向きは、秀吉が7日間続けて如来が枕元に立つ夢を見たという「霊告」によるものとされたが 4 、その真意は明らかであった。自ら造り出した「新しい神」(京の大仏)が機能しなかったため、既存の権威ある「古い神」の力を借りてでも、失われた自らの神聖性を補おうとしたのである。

しかし、この試みは完全に裏目に出た。信濃の人々の信仰を無視した強引な遷座は、新たな「祟り」の噂を生む格好の材料となった。如来が京都に到着した直後から秀吉は病に倒れ、京の巷では「仏像遷座の祟り」という噂が囁かれた 2 。結局、死を目前にした秀吉は自らの過ちを認めるかのように、死の前日に如来を信濃へ返すことを命じている 2 。失われた権威を回復しようとする焦燥が生んだこの一連の行動は、結果として秀吉の神聖性をさらに失墜させ、その権威の揺らぎを天下に露呈することになった。

結論:豊臣家滅亡への遠い序曲 ― 地震から鐘銘事件へ

慶長伏見地震による方広寺大仏の被災は、単発の自然災害として歴史に埋もれることはなかった。それは、約20年の時を経て豊臣家の滅亡へと繋がる、長く、そして逃れようのない因果の連鎖の、まさに始まりを告げる出来事だったのである。

4-1. 再建事業という名の「負の遺産」

慶長3年(1598年)、秀吉は失意のうちにその生涯を閉じる。彼の死後、その遺志を継いだ子・秀頼と母・淀殿にとって、破壊された大仏と大仏殿の再建は、父の威光を継承し、豊臣家の権威を維持するための至上命題となった 24 。しかし、この壮大な再建事業は、豊臣家に莫大な財政的負担を強いる「負の遺産」として重くのしかかることになる。

4-2. 徳川家康の深謀:災後の復興を利用した政略

この状況を静かに、そして冷徹に見つめていたのが、徳川家康であった。関ヶ原の戦いを経て天下の実権を握った家康にとって、豊臣家がなおも大坂城に蓄えている莫大な財力は、将来の潜在的な脅威であった 30 。家康は、この脅威を削ぐための絶好の機会を見逃さなかった。

彼は、豊臣方に対して大仏再建に協力する姿勢を見せ、むしろ積極的にその事業を推奨したのである 10 。その真の狙いは、豊臣家にとって断ることのできない「父の遺言の実現」という大義名分を利用し、合法的かつ平和的にその財力を消耗させることにあったと言われている 10 。1596年の地震がもたらした「再建」という課題は、家康の深謀遠慮によって、豊臣家を内側から弱体化させるための長期的な政略の道具へと転化したのである。

4-3. 鐘銘事件への直結:悲劇の完成

そして、運命の時は慶長19年(1614年)に訪れる。豊臣家の財力を注ぎ込んでようやく完成した方広寺の梵鐘。その銘文に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という二つの句が、徳川方によって問題視された。前者は「家康」の名を分断し、後者は豊臣家の繁栄を祈るもので、家康を呪詛するものであるという、言いがかりに等しい難癖であった(方広寺鐘銘事件) 10

この事件が、大坂冬の陣・夏の陣の直接的な引き金となったことは、周知の事実である。ここに、1596年の地震から始まった悲劇の因果律が、ついに完成する。

  1. 慶長伏見地震がなければ、初代大仏は損壊しなかった。
  2. 大仏が損壊しなければ、秀頼の代での大規模な再建事業は行われなかった。
  3. 再建事業がなければ、豊臣家の財力は温存され、また問題の梵鐘も鋳造されなかった。
  4. 梵鐘がなければ、「国家安康」を口実とした鐘銘事件は起こり得なかった。
  5. 鐘銘事件がなければ、家康が大坂城を攻める大義名分は生まれなかった。

このように、文禄5年(1596年)の「方広寺大仏地震被害」は、決して単なる天災ではなかった。それは、天下人・豊臣秀吉の絶対的権威の象徴を打ち砕き、その死後に豊臣家の財力を削ぐための「再建」という名の罠を仕掛ける余地を生み出し、最終的に豊臣家滅亡の口実となる「鐘」を鋳造させるに至った、壮大な歴史的悲劇の序曲であった。一つの地震が、日本の政治地図を塗り替える遠い、しかし確実な一因となったのである。歴史の必然と偶然が交差したこの画期的な事件こそ、「方広寺大仏地震被害」の真の姿である。

引用文献

  1. 東大寺を超える大仏が京都にあった!? https://kyotolove.kyoto/I0000521/
  2. 京都:方広寺~豊臣秀吉の京の大仏~ https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/hokoji/hokoji.html
  3. 方広寺の概要と歴史 方広寺は日本で建てられた建築物の中でも最も壮観な建物のひとつがあっ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554749.pdf
  4. 奈良より大きかった!幻の「京都大仏」の悲劇。豊臣秀吉の死は「仏像遷座の祟り」なのか? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/102274/
  5. 方広寺大仏殿の復元 - 大林組 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/057_IDEA.pdf
  6. かたながり【刀狩】 | か | 辞典 - 学研キッズネット https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary02100597/
  7. 方広寺鐘銘事件「国家安康」なにが問題?わかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/hoko-ji-jiken
  8. 豊臣秀吉の刀狩り/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/sword-basic/hideyoshi-katanagari/
  9. 天正16年7月8日立花宗茂宛豊臣秀吉朱印状(刀狩令)2/止 https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20221225/1671956626
  10. 方広寺鐘銘事件/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97921/
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