聚楽第行幸(1588)
天正十六年、豊臣秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎え、天下統一の祝祭を催す。大名統制を強化し豊臣政権の正当性を確立したが、秀次事件で聚楽第は破却され、栄華は短命に終わった。
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天正十六年聚楽第行幸:豊臣政権の確立と天下統一の祝祭
序章:天正十六年、春の京都
天正16年(1588年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。前年の天正15年(1587年)に九州征伐を完了させた豊臣秀吉は、東国に残る北条氏や伊達氏らを除き、日本の大部分をその軍事力の下に平定していた。長きにわたる戦乱の時代は終わりを告げ、新たな統一権力による治世が始まろうとしていた。この時期の秀吉は、天正13年(1585年)に関白、翌年には太政大臣に任ぜられ、天皇から豊臣の姓を賜るなど、武家の棟梁としてだけでなく、公家社会の頂点にも立つ存在となっていた。
しかし、秀吉の天下統一事業は、単なる武力による制圧のみで完遂されるものではなかった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康との軍事的な膠着状態を経験した秀吉は、武力一辺倒の戦略の限界を認識し、日本の伝統的な権威である天皇と朝廷を積極的に利用する統治戦略へと舵を切っていた。彼の政策は、武力と権威を巧みに融合させ、新たな時代の統治体制を構築することに向けられていた。その戦略の集大成として、そして新たな時代の幕開けを天下に宣布する壮大な政治的儀式として計画されたのが、後陽成天皇を京都に新築した自らの政庁兼邸宅「聚楽第」に迎えるという、前代未聞の行幸であった。
この行幸の舞台となる京都は、秀吉の手によって大きくその姿を変えつつあった。応仁の乱以来、荒廃していた都の復興は秀吉の重要政策の一つであり、聚楽第の建設と並行して、洛中を囲む壮大な土塁「御土居」の築造、街路を再整備する「天正の地割」、そして市中に点在していた寺院を寺町に集約するなど、大規模な都市改造が進められていた。これらは単なるインフラ整備に留まらず、京都を新たな政治の中心地として再定義し、秀吉の政治思想を具現化する壮大な都市計画であった。
このように、聚楽第行幸は、軍事的な平定がほぼ完了し、新たな統治秩序を構築する段階へと移行した豊臣政権が、その権力の正当性と絶対性を内外に示すために周到に準備した一大国家イベントであった。それは、戦乱の時代の終焉を告げ、豊臣の治世による平和の到来を祝う祝祭であると同時に、天皇という最高の権威を自らの本拠地に招き入れることで、豊臣政権こそが日本の恒久的な「公儀」であることを宣言する、極めて高度な政治的パフォーマンスだったのである。
第一部:権力の舞台 ― 聚楽第の創出
天正16年の行幸は、その舞台となった聚楽第そのものが、計算され尽くした政治的・文化的装置であった。豪華絢爛な建築物としてだけでなく、その立地、構造、そして周囲に形成された都市空間の全てが、豊臣秀吉の権力と政治思想を雄弁に物語っていた。
第1章:内野への造営 ― 場所が語る政治的野心
聚楽第が建設された場所は、平安京の大内裏跡地、すなわち「内野」と呼ばれる、かつての日本の政治の中心地であった。この土地は、天皇が律令国家の頂点として君臨した時代の象徴であり、その神聖な場所に秀吉が自らの政庁を構えたという事実そのものが、強烈な政治的メッセージを発していた。それは、自身が日本の伝統的権威の正統な継承者であると同時に、戦乱の時代を経てその権威を再興し、さらにはそれを凌駕する存在であることを天下に示す行為であった。
さらに、聚楽第は天皇の住まいである御所の西、わずか1キロメートル余りという近接した場所に位置していた。この物理的な距離の近さは、秀吉が朝廷を政治的に掌握し、その庇護下に置いているという現実を誰の目にも明らかにするものであった。
この聚楽第のあり方は、室町幕府三代将軍・足利義満が造営した北山第(後の鹿苑寺金閣)を彷彿とさせる。義満は北山第に後小松天皇を行幸させ、明の使節を謁見し、「日本国王」として国際的にも認知されることで、武家でありながら公家社会や国際秩序の頂点に立とうと試みた。秀吉もまた、聚楽第で天皇を饗応し、後には朝鮮通信使と会見している。この機能的な類似性は、秀吉が単に関白として朝廷に仕える臣下という立場に留まらず、義満のように、あるいはそれ以上に、国家の主権者として君臨することを目指していた野心を示唆している。聚楽第の建設は、その野心を正当化するための、歴史的先例に倣った壮大な演出であったと言えるだろう。
第2章:天守と金箔瓦 ― 桃山文化と権勢の象徴
聚楽第は、単なる邸宅ではなく、堀と石垣、隅櫓を備えた城郭様式の壮麗な建造物であった。発掘調査によって大量に出土した金箔瓦は、その豪壮さを物語る何よりの証拠である。屋根を埋め尽くす金箔瓦は陽光を浴びて黄金に輝き、見る者を圧倒したであろう。これは豊臣政権の比類なき富と権力を最も直接的に示す視覚的シンボルであった。
現存する『聚楽第図屏風』などの絵画史料からは、白漆喰で塗り固められた壁を持つ天守や、檜皮葺きの優雅な御殿群の姿をうかがうことができる。武家の威厳を象徴する「城」としての側面と、天皇を迎えるための「第(屋敷)」としての雅な側面を併せ持つこの建築様式は、まさに豪華絢爛かつ雄大な桃山文化の精華であった。それは、武家と公家という二元的な権力構造を、秀吉という一個人の下に統合・集約させるという、彼の政治構想そのものを建築的に表現したものであった。聚楽第の建物自体が、秀吉が創出しようとした新しい権力構造の物理的な現れであり、行幸はその権力構造を天下にお披露目するための最高の舞台装置だったのである。
「聚楽」という名称は、「長生不老の楽しみを聚(あつ)める」という一節に由来するとされる。行幸の記録を著した大村由己は、天皇が心から楽しむ様子を見て「誠に長生不老の楽しびを聚むるものか」と記しており、これが聚楽第の名の由来になったとも言われている。この名は、この場所が単なる威圧的な政庁ではなく、秀吉がもたらした平和と繁栄を享受する理想郷としての意味合いも込められていたことを示している。
第3章:新たな首都 ― 聚楽第城下に集う大名たち
聚楽第の建設は、建物単体で完結するものではなかった。秀吉は全国の主要な大名に対し、聚楽第の周囲に屋敷を構え、妻子と共に移り住むことを命じた。徳川家康や前田利家といった大大名をはじめ、全国の大名屋敷が聚楽第を取り囲むように立ち並び、この一帯は事実上、豊臣政権の首都として機能したのである。
この政策は、極めて巧みな大名統制策であった。妻子を京都に住まわせることは、大名にとって事実上の人質を差し出すことであり、謀反を企てることを物理的・心理的に困難にした。同時に、大名を彼らの権力基盤である領国から引き離し、聚楽第(中央政庁)に出仕させ、秀吉の命令を直接仰ぐ生活を強いることで、彼らを独立した「領主」から、豊臣政権に仕える「官僚」へと変質させる効果を持っていた。
特に注目すべきは、九州平定後、新たに従属した伊達氏や佐竹氏といった東北・関東の大名の屋敷を、御所と聚楽第を結ぶ最も人通りの多い目抜き通りに配置したことである。これは、かつて秀吉に敵対し、あるいはその動向をうかがっていた遠国の大名までもが、今や完全にその支配下に組み込まれたことを可視化し、天下統一事業の完成を誇示する見事な都市計画であった。この大名の集住政策は、後の江戸幕府による参勤交代制度の原型とも言え、聚楽第城下町は、日本の武士のあり方を根本的に変え、近世的な中央集権体制を構築するための壮大な社会実験の場であったと評価できる。
第二部:歴史が動いた五日間 ― 行幸の時系列詳解
天正16年4月14日から18日にかけての5日間、京都は歴史的な祝祭の舞台となった。この記録は、秀吉の御伽衆であった大村由己が著した『聚楽行幸記』によって、今日に詳細に伝えられている。以下では、この第一級の史料に基づき、歴史が動いた5日間の出来事を時系列に沿って再現する。
第1章:【初日:天正十六年四月十四日】鳳輦、内裏を出でて ― 天下を揺るがす行列
行幸初日の早朝、関白豊臣秀吉は自ら牛車に乗り、後陽成天皇を迎えに内裏へと参内した。これは、過去の将軍たちが自邸の門前で天皇を迎えた古例を破る、前例のない丁重な出迎えであった。内裏に到着した秀吉は、17歳の若き天皇に対し、臣下として最上級の敬意を示し、天皇が鳳輦(ほうれん)と呼ばれる輿に乗る際には、自らその御裾を取って手伝ったと伝えられる。この謙虚な振る舞いは、秀吉が伝統的権威の忠実な守護者であることをアピールするものであった。
しかし、その一方で、秀吉は天皇の行列の後に自身の行列を編成するという、これまた前例のない形式を取った。これは、天皇とは別格の、新たな時代の支配者としての自身の存在を暗に示す、計算された演出であった。忠実な臣下と新たな支配者という二つの役割を巧みに演じ分けることで、秀吉は自身の支配の正当性と絶対性を同時に印象付けようとしたのである。
内裏を出発した行幸の行列は、壮大を極めた。その長さは「先頭が聚楽第に到着した時に、最後尾はまだ御所を出発していなかった」と形容されるほどであった。公家衆の行列、そして徳川家康を筆頭とする諸大名が綺羅星のごとく連なる武家の行列が続き、沿道には6,000人もの見物人が集まったという。
やがて鳳輦が聚楽第に到着すると、盛大な「御対面」の儀式が執り行われた。天皇は「わが宿の桜は今ぞ盛りなる見ぬ人誘へ来て見せばや」と歌を詠み、秀吉を喜ばせた。夜には能、狂言、舞、猿楽といった当代一流の芸能が次々と披露され、深夜まで饗宴が続いた。秀吉はこの日の感激を「これほどの目出度きことは、後にも先にもあるまい」と語ったと記録されている。初日は、聚楽第という秀吉が創造した空間に、日本の最高権威である天皇を迎えることで、伝統的権威を自らの権力基盤に完全に取り込んだことを天下に示す、壮麗な一日となった。
第2章:【二日目:四月十五日】天皇の御前での誓い ― 新たな公儀の誕生
行幸二日目は、この五日間の催しの中で最も重要な政治的儀式が執り行われた日であった。後陽成天皇の御前において、行幸に供奉した諸大名が、秀吉への忠誠を誓う起請文(誓紙)を提出したのである。
この儀式は、豊臣政権の性格を決定づける画期的なものであった。起請文には、秀吉の命令に背かないこと、大名間の私的な争い(私闘)を禁じ、紛争は秀吉の裁定に従うことなどが盛り込まれていた。これは、戦国時代以来の「自らの紛争は自らの武力で解決する」という自力救済の原則を完全に否定し、豊臣政権を日本における唯一の紛争解決機関、すなわち「公儀」として確立することを意味した。
起請文の提出形式もまた、新たな秩序を象徴していた。徳川家康、織田信雄、前田利家といった武家の公卿6名はそれぞれ単独で署名し、その他の大名は連名で提出した。この形式の違いは、豊臣政権内における厳格な序列を明確に示すものであった。興味深いことに、起請文の宛先は秀吉本人ではなく、彼の養子の一人である豊臣秀俊とされていた。これは、この誓いが秀吉個人に対するものではなく、豊臣家、ひいては豊臣政権という公的な存在に対して未来永劫続くべきものであることを示す意図があったのかもしれない。
この儀式は、天皇の神聖な権威を触媒として利用する、秀吉の巧みな戦略の真骨頂であった。戦国時代、大名同士は互いに独立し、同盟や敵対といった水平的な関係で結ばれていた。しかし、天皇の御前という絶対的な空間においては、いかなる大名も臣下として振る舞わねばならない。その場で秀吉への忠誠を誓わせることにより、大名間の横の繋がりは断ち切られ、全員が秀吉という頂点を介して繋がる、垂直的なピラミッド型の主従関係が強制的に構築されたのである。
さらにこの日、秀吉は天皇に対し、一度日本全国の田地を全て献上し、その上で改めて禁裏御料(皇室の領地)として5,530石などを寄進するという儀式も行っている。これは、日本の全ての土地の所有権は名目上は天皇にあり、その支配を委任されているのが関白秀吉である、という新たな統治構造を形式的に示すための重要なパフォーマンスであった。この日、聚楽第において、戦国の世は名実ともに終わりを告げ、豊臣政権という新たな公儀が誕生したのである。
第3章:【三日目:四月十六日】天下人の饗応 ― 能楽と祝宴
行幸三日目は、前日に確立された新たな秩序を祝うかのように、華やかな饗応と芸能が中心となった。この日も能が催され、天皇や公家衆、諸大名をもてなした。
饗応は、単なる食事会ではなかった。当時の記録には、カラスミ(ボラの卵巣)で鯛を和えるといった、贅を尽くした料理が並んだことが記されている。これらの料理は、豊臣家の圧倒的な財力と、洗練された文化レベルを列席者に見せつけるための重要な要素であった。
能楽や和歌といった伝統芸能の披露は、秀吉が単なる武辺者ではなく、王朝文化の正統な継承者であり、後援者でもあることを示すための、巧みな文化政策の一環であった。低い身分からの成り上がりであるという出自のコンプレックスを抱えていたとされる秀吉にとって、自らがその文化の担い手であることを示すことは、伝統的な支配階級である公家衆や有力大名から、文化的な側面からもその支配の正当性を認めさせる上で不可欠であった。
この日の終わりには、別れを惜しむ和歌が詠み交わされた。秀吉は「今日ばかり帰るも惜しき春の日の花の都を立ちぞわかれん」と詠み、この栄華の瞬間が過ぎ去るのを惜しむ心情を表した。それに対し、天皇は「かざしける花の下露けふのみか千年をこめて匂ひをぞとどむ」と返し、この日の栄光が千年先まで残るであろうと祝意を示した。これらの歌のやり取りは、秀吉と天皇の親密な関係を演出し、行幸が軍事力・経済力だけでなく、文化的な主導権をも秀吉が掌握したことを天下に示す場であったことを物語っている。
第4章:【四日目:四月十七日】王朝文化の復興 ― 和歌と舞楽の宴
四日目もまた、文化的な催しが続いた。この日は歌会と舞楽の上覧が行われ、聚楽第はさながら王朝文化が花開いた平安の宮廷のような雰囲気に包まれた。
歌会では、『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』といった日本の古典文学を題材とした和歌が詠まれた。これは、戦乱の時代に停滞しがちであった学問や文学を、秀吉の治世の下で復興させるという強い意志の表れであった。
続いて、宮廷の伝統的な舞踊である舞楽が披露された。演目は「万歳楽」「延喜楽」「陵王」「還城楽」など、めでたい演目が選ばれ、優雅な舞と音楽が場を彩った。応仁の乱以降、朝廷や公家衆は経済的に困窮し、こうした伝統的な儀式や文化活動は衰退の一途をたどっていた。秀吉は、自らがパトロンとなって大規模な文化イベントを主催することで、自身が平和と文化をもたらした偉大な統治者であることを強く印象付けたのである。
この日の催しには、秀吉の正室である北政所や側室の淀殿も参加し、それぞれが趣向を凝らした品々を献上したと記録されている。これは、豊臣家が一族を挙げてこの国家的事業を支え、新たな時代の王家として振る舞っていることを示すものであった。天皇も自ら琴を弾き、漢詩を朗詠するなど、終始大変機嫌が良かったと伝えられており、秀吉は「これほど面白いことはない」と満足の意を示したという。この日の宴は、秀吉が天皇の権威を利用するだけでなく、積極的に文化を保護・復興することで朝廷との間に共存関係を築き上げ、自らの支配をより盤石なものにしたことを象徴する一日であった。
第5章:【五日目:四月十八日】還幸 ― 贈られた栄華と約束
5日間にわたる壮麗な祝祭は、ついに最終日を迎えた。この日は、天皇が内裏へお帰りになる「還幸の儀式」が執り行われた。秀吉は天皇に対し、丁重に感謝の意を述べ、いずれ再び聚楽第への行幸を賜りたいと約束した。
正午頃、天皇は再び鳳輦に乗り、聚楽第を後にした。還幸の行列には、行きの際にはなかった、秀吉から天皇への膨大な献上の品々が加わっていた。黒漆に菊の紋が蒔絵で施された長櫃30棹、唐櫃20棹が延々と連なる光景は、豊臣家の計り知れない富と、天皇への揺るぎない忠誠を改めて天下に示すものであった。
楽人が「還城楽」を演奏する中、行列は内裏に到着した。天皇は終始大変機嫌が良く、行幸の大成功は誰の目にも明らかであった。秀吉自身もその喜びを隠さず、記録には「踏舞に堪へ給わず(喜びのあまり飛び上がらんばかりであった)」と記されている。
後日談として、この行幸の成功を祝して公家衆から秀吉へ贈られたお礼の品々を、秀吉は一切受け取らず、一人ひとりと対面した上で丁重に返却したという逸話が残っている。これは、極めて重要な政治的行動であった。従来の武家と公家の関係は、ある種の相互依存関係にあった。しかし、秀吉は公家からの返礼を固辞することで、その相互性を断ち切り、自らが一方的に恩恵を与える「庇護者」であり、朝廷・公家衆はそれを受ける「被庇護者」であるという、非対称な関係を決定づけたのである。この一連の行為を通じて、秀吉は朝廷を経済的にも完全にその影響下に置き、豊臣政権の絶対的優位性を確立した。
第三部:秩序の可視化と歴史的意義
聚楽第行幸は、単なる5日間の華やかなイベントに終わらなかった。それは、豊臣政権という新たな国家体制の構造を可視化し、その後の日本の政治と文化に決定的な影響を与えた、歴史的な画期であった。
第1章:行列の序列 ― 図解される豊臣政権の構造
行幸の壮大な行列は、それ自体が豊臣政権の構造を示す「生きた図解」であった。誰が、どの位置で、どのような役割を担ったのか。その序列は、当時の政権内における各大名の地位や、秀吉との親疎の度合いを克明に反映していた。
この行幸には、秀吉に従う日本の大名のほとんどが供奉したが、関東の北条氏や東北の伊達氏といった、いまだ完全には服属していない勢力は参加していない。また、北陸の大大名である上杉景勝は、秀吉の命令で東北への備えとして国許にいたため、参加できなかった。この事実は、行幸が当時の豊臣政権の勢力範囲を明確に示すものであったことを物語っている。
行列の編成、特に武家衆の序列は、極めて重要な意味を持っていた。以下に、『聚楽行幸記』などの史料を基に、関白秀吉の行列に供奉した主要な武家の編成を再構成した表を示す。この表は、当時の権力構造を理解する上での貴重な資料となる。
天正十六年聚楽第行幸 供奉武家行列編成表
区分 |
役割 |
供奉者 |
当時の主な官位 |
備考(秀吉との関係性) |
天皇の行列 |
武家の公卿 |
徳川家康 |
従三位 権中納言 |
元同盟者・最大のライバル |
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織田信雄 |
従三位 権中納言 |
織田信長の次男・元敵対者 |
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豊臣秀次 |
従三位 権中納言 |
秀吉の甥・後継者候補 |
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宇喜多秀家 |
従三位 参議 |
秀吉の養子 |
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豊臣秀勝 |
従三位 参議 |
秀吉の甥 |
関白の行列 |
後駆 先頭 |
前田利家 |
従三位 権中納言 |
秀吉の旧友・重臣 |
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後駆 |
毛利輝元 |
従三位 参議 |
西国の大大名・元敵対者 |
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後駆 |
織田信包 |
従三位 参議 |
織田信長の弟 |
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後駆 |
豊臣秀長 |
従二位 権大納言 |
秀吉の弟・政権の重鎮 |
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後駆 |
(その他多数) |
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関白の行列 |
前駆 右列 |
増田長盛 |
従五位下 侍従 |
秀吉子飼いの奉行衆 |
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石田三成 |
従五位下 治部少輔 |
秀吉子飼いの奉行衆 |
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大谷吉継 |
従五位下 刑部少輔 |
秀吉子飼いの奉行衆 |
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|
(その他多数) |
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秀吉直属の家臣団中心 |
関白の行列 |
前駆 左列 |
福原長堯 |
従五位下 |
秀吉直属の家臣 |
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長谷川守知 |
従五位下 |
秀吉直属の家臣 |
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加藤嘉明 |
従五位下 |
賤ヶ岳の七本槍 |
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|
(その他多数) |
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秀吉直属の家臣団中心 |
(注:上記は『聚楽行幸記』などの記録に基づき主要人物を抜粋したものであり、全ての供奉者を網羅したものではない。官位は行幸当時のもの。)
この表から読み取れるように、天皇の行列に供奉できたのは、徳川家康や織田信雄、そして豊臣一門といった、別格の大名に限られていた。秀吉自身の行列では、弟の秀長や旧友の利家といった最も信頼する人物が後駆の重職を占め、前駆は石田三成ら子飼いの奉行衆や家臣団で固められている。この厳格な序列は、豊臣政権が血縁、旧来の友人関係、そして実務能力に基づく奉行衆という、複数の階層から成る複雑な権力構造を持っていたことを視覚的に示している。
第2章:起請文の衝撃 ― 武家社会の新たな盟約
行幸二日目に行われた起請文の提出は、日本の武家社会のあり方を根底から変える、法制史上・政治史上の画期的な出来事であった。
戦国時代、武士社会を律する普遍的な法は存在せず、大名たちは自らの武力によって領地と名誉を守る「自力救済」を原則としていた。しかし、聚楽第で提出された起請文は、秀吉への絶対的な服従と私闘の禁止を全国の大名に誓約させるものであった。これは、武士階級全体を律する新たな最高規範の誕生を意味し、後の江戸幕府が制定する「武家諸法度」の源流とも言えるものであった。
この誓約が、単なる秀吉個人への忠誠の表明に終わらなかったのは、それが天皇の御前という、この上なく神聖な空間で執り行われたからである。天皇の権威を背景にすることで、この誓約は個人間の私的な約束ではなく、破ることが神仏に対しても許されない「公的な契約」としての重みを持つことになった。
この儀式を通じて、豊臣政権は、諸大名の領国支配を公的に認めて安堵する(保証する)代わりに、その上位に立つ中央政権として、日本全国の軍事・警察権、そして紛争の最終的な裁定権を独占する存在となった。ここに、秀吉を頂点とする「公儀-大名」体制、すなわち近世的な日本の国家体制が、その姿を現したのである。
第3章:文化と政治の融合 ― 桃山文化の頂点としての行幸
聚楽第行幸は、政治的・軍事的なデモンストレーションであると同時に、安土桃山時代の文化の集大成でもあった。
聚楽第という壮麗な 建築 、内部を飾ったであろう狩野派の絵師たちによる豪華な障壁画などの 絵画 、連日催された 能楽 や 舞楽 といった芸能、そして天皇や公家衆、諸大名が参加した 和歌会 という文学活動。当代一流の文化の粋が、この5日間のために京都に集められた。
しかし、これらは単なる余興ではなかった。秀吉にとって、文化は政治と不可分であり、自らの権威を高めるための極めて有効なツールであった。豪華絢爛でダイナミックな桃山文化の美意識は、豊臣政権の富と力を象徴するものであり、それを享受し、主導する存在として自らを示すことで、秀吉は文化的にも日本の中心に君臨しようとしたのである。この行幸を通じて確立された、力強く、開放的で、黄金を多用するきらびやかな「桃山文化」のイメージは、後世の日本文化に大きな影響を与え続けることとなった。
終章:夢の跡 ― 聚楽第の終焉と豊臣家の翳り
栄華を極めた聚楽第であったが、その輝きは長くは続かなかった。行幸からわずか3年後の天正19年(1591年)、秀吉は後継者と定めた甥の秀次に関白職と聚楽第を譲り渡した。この時点では、豊臣政権は秀吉を「太閤」として、秀次を「関白」とする二元的な統治体制へと移行し、政権の安定的な継承が図られたかに見えた。
しかし、文禄2年(1593年)に側室の淀殿が秀頼を産んだことで、運命の歯車は狂い始める。実子・秀頼の誕生は、秀吉の愛情を一身に集め、次第に後継者であるはずの秀次の存在は、秀吉にとって疎ましいものへと変わっていった。
そして文禄4年(1595年)7月、秀次に突如として謀反の嫌疑がかけられる。弁明の機会もほとんど与えられぬまま、秀次は高野山へ追放され、切腹を命じられた。悲劇はそれに留まらなかった。秀吉は、秀次の妻子や侍女ら30数名を三条河原で処刑し、その存在の痕跡を抹消しようとしたのである。
この粛清の総仕上げとして、秀吉は秀次を「謀反人」として徹底的に印象付けるため、彼が主として政務を執った聚楽第を、跡形もなく破壊するよう命じた。竣工からわずか8年、天下統一の祝祭の舞台となった栄光の殿堂は、意図的に歴史から消し去られることとなった。建物は解体されて伏見城などに移築されたと伝わり、堅固な石垣は引き抜かれ、深い堀は埋め立てられた。
聚楽第の徹底的な破却は、豊臣政権が抱える構造的な脆弱性を象徴する出来事であった。聚楽第行幸を通じて秀吉が構築しようとした、法と秩序に基づく「公儀」は、結局のところ、法や制度といった客観的なものではなく、秀吉個人の感情や意思に直結した、極めて私的なものでしかなかった。自身の意思に反する者、特に我が子・秀頼の将来の障害となりうる者は、たとえ公式の後継者であっても、その存在の痕跡ごと抹消されなければならなかった。
この権力の私物化と後継者問題の混乱こそが、秀吉の死後、豊臣政権が急速に瓦解していく最大の要因となる。聚楽第の破壊は、豊臣家の栄華の頂点と、その内に潜む悲劇的な末路を同時に映し出す、まさに「夢の跡」であった。