本報告書は、戦国時代から桃山時代にかけて製作・使用された特異な形状の兜、「燕尾形兜(えんびなりかぶと)」に焦点を当て、その歴史的背景、形状的特徴、製作技法、関連する武将、そして文化的意義について詳細かつ徹底的に調査し、報告するものである。特に、蒲生氏郷所用と伝わる現存作例を中心に考察を深める。
燕尾形兜は、その名の通り燕の尾を模したとされるV字型の大きな立物(たてもの)を兜の後部、あるいは頭頂部から後方にかけて備えることを最大の特徴とする「変わり兜」の一種である 1 。これらの兜は、単に頭部を防護するという実用的な機能に加え、戦場において武将の個性や武威を際立たせ、さらには敵味方の識別を容易にするための重要な役割を担っていたと考えられる。
「燕尾形(えんびなり)」という名称は、兜本体、特に後部から大きく張り出したV字型の造形が、空を舞う燕(ツバメ)の尾羽の形状に酷似している点に由来する 1 。この特徴的なシルエットは、視覚的に極めて強い印象を与え、一度見たら忘れがたいものがある。
燕は、古来より農作物を荒らす害虫を捕食してくれる益鳥として、人々の生活に身近な存在であり、大切にされてきた 1 。また、「燕が巣を作った家は繁栄する」といった吉兆の言い伝えも広く知られており、こうした燕に対する好ましいイメージや縁起の良さが、武具のモチーフとして採用される背景にあった可能性が指摘される 1 。武運長久や家の繁栄を願う武将にとって、燕は格好の題材であったと言えよう。
燕尾形兜は、戦国時代後期から桃山時代にかけて、武将たちの間で大いに流行した「変わり兜(かわりかぶと)」の代表的な作例の一つとして数えられる 1 。変わり兜とは、従来の画一的な兜の形式から脱却し、動植物、器物、文字、さらには抽象的な形状に至るまで、多種多様なモチーフを大胆に取り入れて製作された兜の総称である。これらの兜は、戦場という極限状況において、単なる防具としての役割を超え、着用する武将の個性、武勇、さらには美的感覚を表現するための重要な手段であった 5 。また、個人の信仰心や信条、所属する軍団の象徴などを視覚的に示す媒体としても機能したことがうかがえる 10 。
この変わり兜の流行の背景には、戦国時代特有の社会状況が深く関わっている。下剋上が常態化し、個人の実力や戦場での際立った働きが重視されるようになると、武将たちは自らの存在を強くアピールする必要に迫られた。また、戦闘が集団戦へと移行し大規模化する中で、戦場における個体の識別や部隊統率の重要性が増したことも、兜の意匠の多様化を促した一因と考えられる。さらに、大名間の勢力争いが激化するにつれ、外交儀礼や公式の場における権威の誇示といった側面も、武具の装飾性を高める方向に作用したであろう。燕尾形兜の奇抜とも言えるデザインは、こうした時代の要請に応える形で生まれ、個人の武勇やアイデンティティを主張する手段であると同時に、戦場での視認性を高め、敵を威嚇し味方を鼓舞する心理的効果をも狙ったものと解釈できる。平和な時代への移行期にあっては、武具が実用性一辺倒ではなく、権威や富を象徴する美術工芸品としての性格を強めていった過渡期の現象としても捉えることができよう。
燕をモチーフとした点についても、単に形状の類似性だけではなく、より多義的な意味合いが込められていた可能性が考えられる。前述の益鳥としての側面や吉兆の象徴としての意味合いに加え 1 、燕が俊敏に空を飛翔する姿は、武士に求められる機敏さや戦場での迅速な行動を想起させる。また、旗指物などの軍装品にも「燕尾形」と呼ばれるV字型に切り込みを入れた旗の形状が見られることから 11 、燕の尾の形が軍事的な意匠としてある程度認知されていたことも推測される。これらの点を総合的に勘案すると、燕尾形兜のモチーフには、豊穣や繁栄への願い、武運長久といった一般的な吉祥の意味合いに加え、武士としての機敏さや戦場での武功への強い願いといった、複数の意味が重層的に込められていたのではないだろうか。
燕尾形兜と聞いて、多くの歴史愛好家が想起する武将が蒲生氏郷(がもう うじさと、1556年 - 1595年)であろう。氏郷は近江国日野城主であった蒲生賢秀の三男として生まれ、幼少期に人質として織田信長に預けられたが、その才能を信長に見出され、信長の娘である冬姫を娶り婿となった 12 。信長は氏郷の非凡な才気を見抜き、元服の際には烏帽子親を務めたと伝えられる。
信長没後は豊臣秀吉に仕え、伊勢松坂12万石の領主を経て、小田原征伐や奥州仕置での功により会津黒川城主となり、最終的には92万石という破格の大領を与えられるに至った 12 。氏郷は勇猛果敢な武将として数々の戦功を挙げただけでなく、領国経営においても優れた手腕を発揮し、殖産興業や城下町の整備に努めた。また、和歌や茶の湯にも造詣が深く、千利休の高弟七人を指す「利休七哲」の一人に数えられるほどの教養人でもあった 12 。さらに、キリスト教の洗礼を受け、「レオン」という洗礼名を持つキリシタン大名であったことも、氏郷の多面的な人物像を物語っている 12 。
その卓越した能力ゆえに、豊臣秀吉からは高く評価される一方で、その存在を警戒されていたとも言われる。「松島侍従(氏郷のこと)を上方に置いておくわけにはいかぬ」と秀吉が側近に漏らしたという逸話は、氏郷の器量の大きさを物語るものとして有名である 12 。しかし、その才能を十分に開花させる間もなく、文禄4年(1595年)に40歳という若さで病没した。
現在、蒲生氏郷が所用していたものとして最もよく知られている燕尾形兜は、総黒漆塗の作例である 2 。この兜の伝来については、非常に興味深い経緯が伝えられている。
それは、氏郷の養女(一説には実の娘ともされる)である於武の方(おたけのかた、後の源秀院)が、後の盛岡藩初代藩主となる南部大膳大夫利直(なんぶ だいぜんのたいふ としなお、1576年 - 1632年)に嫁ぐ際に、父である氏郷が着用していたこの兜を引出物の一つとして持参したというものである 2 。この婚姻により、氏郷所縁の兜は南部家へと渡り、同家に代々受け継がれることとなった。
戦国時代から安土桃山時代にかけての武家社会において、有力武将が日常的に身に付けた武具、とりわけ兜のような象徴性の高い品は、単なる実用品以上の価値を有していた。当時、豊臣政権下で屈指の大名であった蒲生氏郷自身の兜を、娘の嫁入りに際して引出物とする行為は、南部家に対する非常に高い敬意と、両家の間に結ばれる縁組の重要性を物語るものであったと考えられる。南部利直は、関ヶ原の戦いなどで徳川方に与し、盛岡藩20万石の基礎を築いた人物である。氏郷という当代きっての名将の兜を拝領したことは、利直自身の武威を高め、ひいては南部家の権威付けにも少なからず寄与したであろう。このように、燕尾形兜の南部家への伝来は、単なる家財の移動という側面だけでなく、当時の武家社会における婚姻を通じた政治的同盟の強化、および武将間の威信や武勇の象徴的な継承といった、多層的な意味合いを含んでいたと解釈することができる。
特筆すべきは、この蒲生氏郷所用と伝わる黒漆塗燕尾形兜が、伝来先である南部家においては代々「鯰尾兜(なまずおかぶと)」という名称で呼ばれ、伝えられてきたという点である 2 。現在一般的に用いられる「燕尾形」という呼称は、その特徴的な形状に基づいて後世の研究者や愛好家によって名付けられた、いわば学術的な分類名である可能性が高い。南部家における本来の呼称が「鯰尾兜」であったという事実は、この兜の来歴や氏郷との関連性を考察する上で非常に重要な手がかりとなる。
鯰の尾もまた、燕の尾と同様にV字型あるいはそれに近い形状をしており、形態的な類似性が見られる。このため、呼称の混同が生じたか、あるいは何らかの意図をもって「鯰尾」という名称が用いられた可能性も考えられる。この点については、後述する蒲生氏郷の「銀鯰尾兜」の逸話との関連も視野に入れて考察する必要があるだろう。
蒲生氏郷が、キリスト教の洗礼を受けるなど、当時の武将としては先進的な文化や思想に触れていたことはよく知られている 12 。燕尾形兜のデザインは、従来の兜の形式から大きく逸脱した、極めて大胆かつ斬新なものであり 1 、氏郷が家臣団の編成において門閥や旧習にとらわれなかったとされる革新的な側面とも通底する部分があるように思われる 12 。氏郷がこのような奇抜なデザインの兜を好んで用いた背景には、彼の先進的な気質や旧来の慣習に縛られない自由な美意識、そして何よりも自らの存在を戦場内外で強く印象づけようとする強い自己表現への欲求があったのではないだろうか。兜のデザインそのものが、氏郷という人物の非凡さを雄弁に物語っていると言えるかもしれない。
蒲生氏郷所用と伝えられ、南部家には「鯰尾兜」として伝来した黒漆塗燕尾形兜は、現在、岩手県盛岡市に所在する岩手県立博物館に収蔵されている 3 。同館を代表する重要な収蔵品の一つとして、常設展示や企画展示を通じて一般に公開される機会もあり、多くの人々の目に触れている 17 。
この黒漆塗燕尾形兜は、その高い歴史的価値と優れた工芸技術が評価され、岩手県の有形文化財に指定されている 4 。桃山時代における「変わり兜」の代表的な作例であると同時に、蒲生氏郷および南部家という、日本の歴史において著名な武家に関連する貴重な遺品として、学術的にも極めて重要な資料と位置づけられている。
項目 |
詳細 |
出典 |
正式名称(学術的名称) |
黒漆塗燕尾形兜(くろうるしぬりえんびなりかぶと) |
1 |
南部家伝来名称 |
鯰尾兜(なまずおかぶと) |
2 |
所蔵機関 |
岩手県立博物館 |
27 |
文化財指定 |
岩手県指定有形文化財 |
4 |
材質 |
立物(尾の部分):牛革製 |
4 |
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兜鉢:鉄板製 |
4 |
技法 |
総黒漆塗 |
4 |
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張懸(はりかけ) |
2 |
寸法 |
総高 65.6cm |
4 |
製作年代 |
桃山時代 |
4 |
伝来 |
蒲生氏郷 → (於武の方) → 南部利直 → 南部家伝来 |
4 |
この表は、黒漆塗燕尾形兜に関する基本的な情報を集約し、一目でその概要を把握できるようにしたものである。詳細かつ徹底的な調査という本報告書の目的に鑑み、中核となるこの兜の属性を明確に提示することは、読者の理解を助け、後の考察の参照点としても有益である。
この兜の材質と構造を見ると、立物であるV字型の尾の部分は革(牛革との記述あり 4 )で作られ、頭部を直接防護する兜鉢は鉄板で堅牢に構成されている 4 。そして、兜全体は深みのある黒漆で丁寧に塗り固められており、これにより統一感のある引き締まった精悍な外観を呈している。
この兜の最も印象的な部分である大きなV字型の立物は、「張懸(はりかけ)」と呼ばれる高度な技法を用いて製作されたと考えられている 2 。張懸とは、木や粘土などで成形した原型の上に、和紙やなめした革などを幾重にも貼り重ね、膠(にかわ)や漆で塗り固めて任意の形状を作り出す技法である。この技法を用いることで、金属を叩き出して作るよりも比較的軽量でありながらも十分な強度を保ち、かつ複雑で自由な三次元的造形を可能にする。ある資料には、この兜の立物について「紙素材を中心に作られ、その上から漆が塗られています」との記述があり 2 、軽量化への意識的な工夫が施されていたことがうかがえる。
このような奇抜な形状を有しながらも、全体のバランスは巧みに計算されており、均整の取れた造形美は、数ある戦国時代の変わり兜の中でも特に秀逸であると高く評価されている 4 。
張懸のような製作技術の発展と応用は、戦国武将たちの間で高まっていた自己表現への欲求と結びつき、結果として変わり兜に見られる爆発的なデザインの多様性を生み出すための重要な技術的基盤となったと言えるだろう。燕尾形兜の強烈な印象を与える立物も、この張懸という技法なしにはその実現が困難であったことは想像に難くない。
また、材質の選択においても、実用性と審美性の両立への配慮が見られる。兜の基本的な防御機能は、兜鉢に堅牢な鉄板を用いることで確保されている 4 。一方で、戦場での視認性や威容を誇示するための立物には、革や紙を漆で固めた軽量な張懸技法を採用することで、着用時の頭部への負担を軽減し、なおかつ大胆で個性的なデザインを実現している 2 。総黒漆塗という仕上げは、全体を引き締めるとともに、武具としての威厳と精悍さを演出し、着用者の存在感を一層際立たせる効果があったと考えられる。このように燕尾形兜は、実用性と審美性、そして軽量化という複数の要求を高度な技術で融合させた、桃山時代の武具製作の一つの到達点を示す作例と言えよう。
燕尾形兜の最大の特徴である、大きく天に向かって突き出したV字型の立物は、戦場の喧騒の中にあっても遠方から容易に識別できるという、極めて高い視認性をもたらしたと考えられる 1 。これは、大将や有力武将の所在を味方に明確に示し、部隊の士気を鼓舞するとともに、敵に対しては強い威圧感を与え、心理的な揺さぶりをかける効果を意図したものであったろう。
戦国時代、特に合戦の規模が拡大し、鉄砲の導入などにより集団戦術が主流となると、個々の武将が自身の戦功を効果的にアピールし、あるいは敵味方を瞬時に識別する必要性が増大した 5 。このような状況下において、兜の意匠、特に立物の形状や色彩は、戦場におけるコミュニケーションツールとしても重要な役割を果たすようになったのである。
変わり兜の奇抜とも思える意匠には、しばしば着用する武将個人の信仰する神仏や、縁起が良いとされる動植物、あるいは独自の美意識や世界観が色濃く反映されていた 5 。兜は単なる防具ではなく、武将の精神性を象徴するアイテムでもあったのだ。
燕尾形兜の場合、前述の通り、モチーフである燕が古来より吉兆をもたらす鳥とされていたことから、戦勝祈願や一族の繁栄といった切実な願いが込められていた可能性が高い 1 。また、蒲生氏郷のような高い教養と先進的な感覚を併せ持った武将にとっては、この兜は単なる実用的な武具としてだけでなく、自らの美的センスや際立った個性を表現するための芸術作品としての側面も有していたのかもしれない。その大胆な造形は、旧来の価値観にとらわれない氏郷の気風を象徴しているようにも見える。
燕というモチーフ自体にも、様々な願いが託されていたと考えられる。燕は農作物に害をなす虫を捕食することから、豊穣をもたらす益鳥とされ、領民の生活の安定を願う領主にとって好ましい象徴であった 1 。
また、「燕が巣をかける家は栄える」という広く知られた言い伝えは、子孫繁栄や家運の隆盛といった、武家にとって極めて重要な願いと直接的に結びつく 1 。さらに、春になると遠方より渡来し、俊敏に空を駆け巡る燕の姿は、生命力の横溢や躍動感、そして戦場における機敏な動きや勇猛さを連想させ、武士が理想とする姿と重ね合わされた可能性も否定できない。
燕尾形兜を含む変わり兜は、単に「変わった形の兜」という表面的な理解に留まるものではない。それは、戦国という激動の時代背景が生み出した、実用的な要求と武将の精神性や社会的欲求が高度に融合した、複合的な機能を持つ武具であったと言える。そのデザインは、戦場での生存と勝利、そして自己のアイデンティティの確立という、武将たちの根源的な願いを色濃く反映しているのである。
蒲生氏郷は織田信長や豊臣秀吉に重用され、若くして大領を治めた有力大名であった 12 。燕尾形兜のような極めて奇抜で目立つ兜は、戦場において敵からの格好の攻撃目標ともなり得る。そのような兜をあえて着用するには、自らの武勇や統率力、そしてその地位に対する強い自信と覚悟が必要であったと考えられる。したがって、燕尾形兜のような目立つ兜を着用すること自体が、蒲生氏郷のような実力と高い地位を持つ武将だからこそ可能な自己顕示の方法であり、その兜そのものが着用者の揺るぎない自信と権威を周囲に強く印象づける装置として機能していたと言えるだろう。
蒲生氏郷にまつわる武具の逸話として特に有名なのが、「銀鯰尾兜(ぎんなまずおかぶと)」あるいは「銀の鯰尾の兜」に関するものである。氏郷は戦場において、銀色に輝く鯰の尾をかたどった兜を着用し、常に自ら先陣を切って勇猛果敢に戦ったと、複数の史料や伝承において語り継がれている 12 。
特に有名なのは、氏郷が新たに召し抱えた家臣に対し、「我が軍には、銀の鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って戦う者がいる。その者に決して後れを取ることなく励むように」と鼓舞し、その銀鯰尾兜の武者こそ氏郷自身であった、という逸話である 12 。この話は、氏郷の類まれな勇猛さと卓越したリーダーシップを象徴するエピソードとして、江戸時代の武辺咄集などにも採録され、広く知られることとなった。『名将言行録』といった書物にも、この種の逸話が記されている 16 。
一方で、岩手県立博物館に現存する黒漆塗燕尾形兜は、南部家では「鯰尾兜」と呼ばれて伝来したことは既に述べた通りである 2 。しかし、逸話に登場する「銀鯰尾兜」は、その名称が示す通り銀色であったと推測され、現存する黒漆塗の兜とは色彩において明確な相違が見られる。
この点について、ある資料では「鯰尾形の兜は現代には伝わっておらず、氏郷が常用していたのは燕尾兜の方かもしれない」と指摘しており 19 、「銀鯰尾兜」と現存の「黒漆塗燕尾形兜(南部家呼称「鯰尾兜」)」は、そもそも別の兜である可能性を示唆している。また別の資料では、氏郷所用とされる銀の鯰尾の兜は現存していないとしつつも、当時の武士たちの間での認識として「蒲生氏郷といえば銀の鯰尾の兜」という強いイメージが定着していたため、南部家ではその勇猛なイメージの流れを汲んで、形状が類似する燕尾形兜をあえて「鯰尾兜」と呼んだのではないか、と推測している 25 。
これらの情報を総合的に考えると、蒲生氏郷が複数の兜を所有し、戦況や儀礼などの状況に応じて使い分けていた可能性も十分に考えられる 16 。例えば、戦場での象徴的な意味合いが強く、家臣たちの士気高揚や敵への威嚇を意図した「銀鯰尾兜」と、より実用的、あるいは公式な場での儀礼的な意味合いを持つ「黒漆塗燕尾形兜」などが存在したのかもしれない。
南部家が伝来した黒漆塗の燕尾形兜を、あえて「鯰尾兜」と呼んだ背景には、氏郷の最も有名なアイコンであり、その武勇を象徴する「鯰尾」の名をその兜に冠することで、兜そのものの価値を高め、蒲生氏郷との直接的な繋がりをより強く示そうとする意図があった可能性が考えられる。あるいは、氏郷の武勇を象徴する「鯰尾」というモチーフがあまりにも強烈なイメージとして一人歩きし、形状が類似している燕尾形兜も広義の「鯰尾形」として認識されたか、または氏郷の死後に伝説が付与されていったのかもしれない。この名称と実物との間のずれ、あるいは伝説の形成過程は、武具とその所有者にまつわる記憶や象徴性が、時代を経てどのように形成され、伝播していくかを示す非常に興味深い事例と言えるだろう。
「銀鯰尾兜」の逸話は、蒲生氏郷という武将の勇猛果敢なパブリックイメージを形成し、強化するための重要な装置として機能したと考えられる。たとえその実物が現存していなくても、その伝説は氏郷の武将としての評価に大きく貢献したことは間違いない。そして、現存する黒漆塗燕尾形兜(南部家呼称「鯰尾兜」)もまた、その伝説のオーラを一部纏い、氏郷の威光を後世に伝える役割を担ってきたと言えるのかもしれない。
燕尾形兜と同様に、魚類の尾の形状をモチーフとした変わり兜として、「鯖尾形兜(さばおなりかぶと)」の存在が知られている 2 。鯖の尾もまた、燕の尾と同様にV字型、あるいはそれに近い二股に分かれた形状をしており、形態的な類似性を持つ。実際に、兜の用語として、中央がくぼんだ形状が魚の尾鰭に似ていることから「鯖の尾(さばのお)」とも呼ばれる「入八双(いりはっそう)」という名称が存在する 43 。
鯖尾形兜の具体的な作例としては、備前岡山藩初代藩主である池田光政が所用したと伝えられる「黒漆塗鯖尾形兜」 5 や、詳細な所伝は不明ながら「銀白檀塗鯖尾形張懸兜」 2 といった名称の兜が記録に見られる。これらの魚尾形兜の多くも、燕尾形兜と同様に、立物部分の製作に張懸の技法が用いられていたと考えられている 44 。
燕尾形兜と鯖尾形兜は、共に兜の後方、あるいは頭頂部から後方にかけてV字型に大きく広がる立物を特徴とする点で共通している。この独特の形状は、着用者の後姿を際立って印象的に飾り、歩行や騎乗といった動きに伴って立物が揺れることで、視覚的な効果を一層高めたと考えられる。
モチーフの選択において、燕は空を飛翔する鳥類であり、鯰や鯖は水中に棲息する魚類であるため、それぞれ生態や活動領域は全く異なる。しかしながら、その尾の形状という一点において共通性が見出され、結果として同様の造形表現へと至った可能性が考えられる。
これらの兜の製作意図としては、やはり戦場における自己の顕示や、モチーフとなった生物に込められた何らかの縁起担ぎなどが推測される。例えば、鯰は古来より地震を引き起こす霊的な力を持つ存在と考えられていた伝承があり 45 、その力を武運に結びつけようとしたのかもしれない。また、鯖は「生き腐れ」と形容されるほど鮮度が落ちやすい魚として知られる反面、その旺盛な生命力や群れをなして回遊する様を、武士団の勢いや武運の持続といったイメージに重ね合わせた解釈も可能であろう。
燕尾形、鯰尾形、鯖尾形など、動物の尾の形状を模倣した変わり兜が複数存在するという事実は、戦国武将たちが自然界のダイナミックなフォルムや、そこに潜む機能的な美しさといった要素を、自らの武具のデザインに積極的に取り入れようとしていた試みの現れと見ることができる。これは、当時の武士の美意識が、単に華美で豪奢なものを好むだけでなく、自然物に対する畏敬の念や、そこに観察される力強さ、合理性への共感に基づいていた可能性を示唆している。魚尾形や鳥類の尾を模した兜の存在は、戦国武将たちが自然界の様々な形態からインスピレーションを得て、それを自らの武威や個性の象徴として昇華させていたことを物語っており、当時の武士の自然観や美意識の一端を反映していると言える。
さらに、「尾」というモチーフ自体が持つ普遍性と多様性も興味深い。動物の尾は、体のバランスを取る、推進力を得る、威嚇する、求愛のディスプレイに用いるなど、極めて多様な機能を有している。兜の立物として「尾」の形状を採用することは、これらの機能や、そこから連想される象徴性(例えば、力強さ、敏捷性、統率力など)を借用し、自らの武威を高めようとする意図があったのかもしれない。そして、燕、鯰、鯖といった異なる生物種が具体的なモチーフとして選択されている点は、それぞれの生物が持つ固有のイメージ(例えば、燕の飛翔力と吉兆、鯰の神秘的な力、鯖の生命力など)を、着用する兜に付与しようとした結果であると考えられる。これは、変わり兜という表現形式におけるデザインの個別性と、その背景にある武将たちの思想や願いの多様性を示していると言えよう。
燕尾形兜は、戦国時代から桃山時代という、日本の歴史上類を見ない激動の時代を生きた武将たちの、強烈な自己表現の欲求、戦場における実用的な機能性の追求、そして当時の美意識や信仰心を色濃く反映した「変わり兜」の傑出した作例である。その独特の形状は、単なる奇抜さを超えて、着用者の個性と威厳を効果的に演出し、戦場での視認性を高めるという合理的な目的にも適っていた。
特に、蒲生氏郷所用と伝えられ、南部家には「鯰尾兜」として伝来した黒漆塗燕尾形兜は、その数奇な伝来経緯、良好な保存状態、そして美術工芸品としての極めて高い完成度から、日本の甲冑史、ひいては武家文化史において重要な位置を占める遺品と言える。兜の製作に見られる張懸技法の巧みな使用は、当時の武具製作技術の水準の高さを如実に物語っている。
また、蒲生氏郷の武勇伝として語り継がれる「銀鯰尾兜」の伝説と、現存する黒漆塗燕尾形兜(南部家呼称「鯰尾兜」)との関係性については、未だ解明されていない部分も多く残されている。しかし、この名称の異同や伝説の形成過程は、武具にまつわる記憶や象徴性が時代や社会の中でどのように受容され、変容していくかという、歴史研究における興味深いテーマを提起している。
燕尾形兜、および蒲生氏郷に関連する武具の研究については、いくつかの今後の展望が考えられる。
第一に、燕尾形兜やその他の変わり兜が、合戦図屏風や武者絵といった同時代の図像史料の中にどのように描かれているか、あるいは描かれていないのかを詳細に比較検討することで、これらの兜の実際の着用状況や戦場での視覚的効果について、より具体的な考察を深める余地がある。現時点では、提供された資料からは、合戦図屏風や武者絵における燕尾形兜の明確な描画例を特定することは困難であったが 2 、今後の広範な史料調査によって新たな発見がもたらされる可能性は否定できない。特に、蒲生氏郷が主要な役割を果たしたとされる小田原征伐や九戸政実の乱などを描いた合戦図屏風の中に、氏郷の兜と思われる特徴的な意匠が描かれていないか、より綿密な調査が期待される 49 。
第二に、大河ドラマや歴史を題材としたゲーム、漫画といった現代の創作物において、蒲生氏郷やその兜がどのように表象されているかを分析し、史実の兜の姿や関連する伝承と比較検討することも、大衆文化における歴史認識やイメージ形成の研究として興味深いテーマとなりうる 1 。
第三に、岩手県立博物館以外にも、蒲生氏郷の旧領であった近江国日野(現・滋賀県日野町)の町立蒲生氏郷公資料館や、会津若松市内の博物館・資料館などに、氏郷に関連する甲冑や、燕尾形兜に関する補足的な資料、あるいは「銀鯰尾兜」の伝承を裏付けるような史料が所蔵されていないか、さらなる調査が望まれる 14 。
これらの研究を通じて、燕尾形兜という特異な武具が持つ多層的な意味や価値が、より深く明らかにされることが期待される。