日本の戦国時代は、戦闘様相の劇的な変化と共に、甲冑のあり方にも大きな変革をもたらした時期であった。平安時代から鎌倉時代にかけて主流であった重厚な大鎧は、騎射戦を主眼としたものであったが、室町時代後期から戦国時代にかけて戦闘の主役が徒歩による集団戦へと移行するにつれて、その重装備は機動性の観点から不利となった 1 。この変化は、より軽量で動きやすく、かつ防御力の高い新たな甲冑形式の出現を促した。特に16世紀半ばの鉄砲伝来は、甲冑の素材や構造に決定的な影響を与え、従来の革や小札(こざね)を中心とした構成から、鉄板を多用する堅牢な構造への移行を加速させた 3 。
このような背景のもとで登場したのが「当世具足(とうせいぐそく)」である。「当世」とは「現代の」を意味し、文字通り当時の最新様式の甲冑を指す 2 。当世具足は、兜、胴、袖、籠手、佩楯、臑当など、全身を隙間なく覆うことを目指した総合的な防具であり、その構造は多様性に富んでいた 2 。鉄や革の板札(いたざね)を主要素材とし、生産性の向上も図られた一方で、武将の個性や思想を反映した奇抜なデザイン、いわゆる「変わり兜」なども流行し、甲冑が単なる防具としての機能を超え、自己表現の手段としての側面も強めた時代であった 3 。
当世具足の登場と発展は、単に武具の技術的進歩に留まらず、より広範な文化的・社会的変容を映し出している。戦闘様式の変化が甲冑に求める機能を変え、鉄砲という新たな技術が防御の概念を刷新した。そして、下克上が頻繁に起こり実力が重視される戦国の世にあっては、武将たちが戦場での視覚的な自己アピールを通じて名声や認知を得ようとする動機も作用し、甲冑の多様なデザイン展開を後押ししたと考えられる。鉄砲の普及と当世具足の発展は、互いに影響を与え合いながら進化する、いわば「共進化」の関係にあったと見ることができよう。鉄砲の威力に対抗するために堅牢な甲冑が求められる一方、鉄砲を効果的に運用するためには射手の機動性を損なわない軽量な甲冑も必要とされ、この二律背反する要求が当世具足の多様な形態を生み出したのである 3 。
本報告は、この当世具足の中でも特に異彩を放つ「片肌脱二枚胴(かたはだぬぎにまいどう)」に焦点を当て、その構造、意匠、歴史的背景、そしてそれが持つ意味について、現存する資料や作例を基に詳細かつ徹底的に分析・考察することを目的とする。
「片肌脱二枚胴」を理解する前提として、まずその基本的な胴形式である「二枚胴」について解説する。
二枚胴とは、甲冑の胴部分が、前胴と後胴の二つの主要な鉄板(あるいは革や練革で補強された板)から構成され、これらを身体の脇で蝶番(ちょうつがい)や紐などを用いて連結し着用する形式の胴を指す 11 。この構造により、従来の胴丸や腹巻と比較して、より身体に密着させることが可能となり、着脱も比較的容易であったとされる。
二枚胴の主要な材質は鉄板であり、これを打ち出しや鍛造といった技法によって成形した 11 。鉄板を主要素材とすることは、従来の小札を綴り合わせた形式に比べて格段に堅牢性が高く、特に戦国時代に急速に普及した鉄砲の弾丸に対する防御力を高めることを意識したものであった 11 。
二枚胴の形式は、戦国時代に南蛮貿易を通じて日本にもたらされた西洋の甲冑、いわゆる「南蛮胴」と深い関連性を持つ 10。南蛮胴は、多くの場合、前胴と後胴から成る二枚構成のプレートアーマーであり、その堅牢性は日本の武将たちに大きな影響を与えた。これを受けて、日本国内でも南蛮胴を模倣した、あるいはその影響を受けた「和製南蛮胴」が製作されるようになった 11。舶来の南蛮胴は、前胴中央に鎬(しのぎ)と呼ばれる稜線が通り、胴の下端がV字型に尖るなどの特徴を持つものが典型的であるが、和製南蛮胴においては、日本の体型や戦闘様式に合わせて、例えば胴の下端が水平になるなど、形状が調整された例も見られる 10。
二枚胴の普及は、こうした南蛮胴からもたらされた新しい甲冑製作技術や構造概念を、日本の甲冑師たちが積極的に取り入れ、自国の状況に合わせて取捨選択し、発展させた結果と理解できる。
日本の伝統的な甲冑形式と比較すると、二枚胴の特徴はより明確になる。
二枚胴の普及は、戦国時代における「合理性」と「生産性」の追求を象徴している側面がある。従来の小札を一枚一枚綴り合わせる煩雑な工程に比べ、比較的大きな鉄板を用いる二枚胴は、製作工程の簡略化と防御力向上を両立し得た可能性がある 4 。これは、大規模な軍勢を迅速に武装させる必要があった戦国大名のニーズに応えるものであり、また、南蛮胴という「外来技術」を積極的に取り入れ、自国の状況に合わせて改良する柔軟性も示している。鉄砲という新たな脅威に対し、南蛮胴が示した高い防御力は、日本の甲冑観に影響を与え、鉄板を主要素材とする二枚胴形式の受容を促進したと考えられる。
「片肌脱二枚胴」は、前述の二枚胴を基本的な構造としながら、その表面に極めて特異な意匠を施した甲冑である。
まず、「片肌を脱ぐ」という言葉自体は、衣服の片袖を脱いで肩肌をあらわにすることを指し、転じて「一肌脱ぐ」のように他人のために力を貸す、あるいは覚悟を示すといった慣用句的な意味合いも持つ 13。
甲冑における「片肌脱ぎ」とは、実際に着用者が片肌を露出するのではなく、あたかも鎧の片側(主に右肩から胸にかけて)を脱いで素肌や下着、あるいは別の種類の鎧(例えば胴丸)を重ね着しているかのように見せる「デザイン上の表現」を指す 15。これにより、視覚的な錯覚や奇抜な印象を生み出すことを意図している。
「片肌脱二枚胴」の具体的な構造と材質は、現存する作例によっていくつかのバリエーションが見られるが、共通する要素と特筆すべき点を以下に挙げる。
現存する代表的な「片肌脱二枚胴」の製作年代は、主に安土桃山時代から江戸時代初期(16世紀末~17世紀初頭)と考えられている 16。この時代は、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業が進み、桃山文化として知られる豪壮かつ華麗な文化が花開いた時期であり、当世具足のデザインもまた、その多様性と奇抜さにおいて頂点を迎えた。
最も有名な作例は東京国立博物館に所蔵される「肩脱二枚胴具足」(管理番号 F-19869)である 15。また、サントリー美術館にも江戸時代初期製作とされる「色々糸威片肌脱二枚胴具足」が所蔵されている記録がある 21。
「片肌脱二枚胴」の理解を深めるため、特に著名な二つの作例、すなわち東京国立博物館所蔵の「肩脱二枚胴具足」と、伝加藤清正所用とされる「金小札色々威片肌脱胴具足」を比較検討する。
比較項目 |
東京国立博物館所蔵「肩脱二枚胴具足」 |
伝加藤清正所用「金小札色々威片肌脱胴具足」 |
所蔵 |
東京国立博物館 |
東京国立博物館(伝来品) |
名称 |
肩脱二枚胴具足 18 |
金小札色々威片肌脱胴具足 15 |
製作年代(推定) |
安土桃山~江戸時代・16~17世紀 16 |
桃山時代~江戸時代前期 20 |
胴の構造 |
二枚胴 |
二枚胴(当世具足) |
「片肌脱ぎ」の表現方法 |
鉄板を打ち出して片肌を脱いだ肉体(乳房、肋骨、背骨など)をリアルに表現 16 |
肌色に塗った当世具足の上に、胴丸を模して色糸を貼り付け、あたかも胴丸を半脱ぎにしたような意匠 15 |
甲冑部分の材質・装飾 |
金箔押の切付札、紫・紅・萌黄・紺・白の組紐による色々糸威 16 |
金小札、色々威 17 |
付属の兜の特徴 |
獣毛で毛髪を模した変わり兜 16 |
長烏帽子形兜、または毛がびっしりと貼り付けられた強面の兜 3 |
全体の印象・解釈 |
裸で戦う荒武者を思わせる奇抜な造形と華やかな色彩。写実性とグロテスクさ、力強さを強調。 |
伝統的な胴丸への意識と、それを奇抜な形で表現する遊戯性。威圧感と個性の主張。 |
表2:伝加藤清正所用「金小札色々威片肌脱胴具足」と東京国立博物館所蔵「肩脱二枚胴具足」の比較
この表から明らかなように、「片肌脱二枚胴」と総称される甲冑にも、その具体的な表現方法においては顕著な差異が存在する。東京国立博物館の作例が、鉄板の打ち出しという彫塑的な技法によって直接的に裸体を表現し、ある種のグロテスクさや生々しい力強さを追求しているのに対し、伝加藤清正所用の作例は、既存の甲冑形式(胴丸)を「半脱ぎ」に見せるという、よりメタファーに富んだ、あるいは遊戯的なアプローチを採っている。
このような表現方法の違いは、注文主である武将の個人的な好みや美意識、あるいは製作を請け負った甲冑師の技術的特性や創意工夫を反映している可能性が高い。いずれの作例も、単なる実用性を超えた強い自己表現の意志と、観る者を圧倒しようとする意図が込められている点で共通している。
「片肌脱ぎ」の意匠は、伝統的な甲冑(胴丸)の要素と革新的な当世具足の構造、写実的な肉体表現と装飾的な金箔や色糸といった、複数の対立し得る要素を一つの甲冑の中に内包し、それらを大胆に融合させることで、他に類を見ない独自の美意識と存在感を構築している。この背景には、甲冑製作技術の高度化、特に鉄板の自在な加工技術の発展が不可欠であった。
「片肌脱二枚胴」の奇抜な意匠は、単なる装飾に留まらず、多層的な意味と機能を担っていたと考えられる。
二枚胴という構造自体は、鉄板を用いることで当時の主要な武器、特に鉄砲の弾丸に対して一定の防御力を有していたと考えられる 11。しかし、「片肌脱ぎ」の装飾部分、すなわち肉体表現や胴丸を模した部分が、直接的な防御力向上に寄与したとは考えにくい。むしろ、鉄板の追加的な加工や装飾物の付加は、重量増につながる可能性すらある。実際に、この種の意匠に関して「実戦上の実用面を求める必要性はなかった」との指摘もある 24。
したがって、その機能性は物理的な防御力よりも、むしろ視覚的・心理的な効果、すなわち間接的な機能に求められるべきであろう。
「片肌脱ぎ」の意匠は、戦国時代末期の武士たちが抱える「死」への意識と、それに対するある種の「超越」や「遊戯性」の表れであった可能性も考えられる。死と隣り合わせの戦場において、あえて「裸」を思わせる姿をまとうことは、死を恐れない勇猛さの誇示であると同時に、死を相対化し、運命に抗う人間の強い意志を示そうとしたのかもしれない。「狂気をひそめた遊び」24 という言葉は、極限状態における人間の複雑な心理と、それを表現する文化のあり方を示唆している。
実用性を度外視したかのような奇抜なデザインが、実利が重視される戦国時代に存在したという事実は、一見矛盾しているように見える。しかしこれは、当時の武士が物理的な防御力だけでなく、敵を心理的に圧倒すること、自らの存在を際立たせること、さらには自らの死生観や美意識を表現することにも大きな価値を置いていたことを示している。合理性と非合理性、実用性と象徴性が、戦国武将の精神世界の中で複雑に絡み合い、甲冑という具体的な形となって表出していたのである。
「片肌脱二枚胴」は、戦国時代から安土桃山時代にかけての甲冑の多様化と個性化という大きな流れの中で理解されるべきである。
当世具足の時代には、画一的な形式ではなく、武将の好みや思想、所属する勢力などによって、実に多種多様な甲冑が生み出された 1 。兜の前立や胴の塗色、威毛の色などで所属や個性を表し、戦場での識別や士気高揚にも繋がった 1 。甲冑の流行は畿内から地方へと伝播したが、その採用は地域によって異なり、戦国末期にあっても古い様式の甲冑を好む武将も存在した 3 。このような状況下で、「片肌脱二枚胴」は、個性を極限まで追求する流れの中で生まれた、特異な作例の一つとして位置づけられる。
織田信長・豊臣秀吉の時代、いわゆる織豊期は、甲冑製作技術が飛躍的に発展し、当世具足がその完成の域に達したとされる画期であった 3 。この時代には、佐渡金山や生野銀山などの開発も進み、金箔や銀箔をふんだんに使用した豪華絢爛な甲冑が多く作られた 1 。これらは単なる防具ではなく、着用者の権力と富を誇示する象徴でもあった。豊臣秀吉所用の「金小札色々威二枚胴具足」 3 や前田利家所用の金箔押の甲冑 3 はその代表例であり、「片肌脱二枚胴」に見られる金箔の使用もまた、この時代の豪壮な文化と経済力を背景とした流行を反映している。
「片肌脱二枚胴」の独自性をより明確にするため、同時代に用いられた他の主要な当世具足の胴形式と比較する。
胴の形式(名称) |
構造的特徴 |
主要材質 |
流行・製作年代 |
防御力・機動性の傾向 |
主な用途・目的 |
代表的な使用者・作例(伝承含む) |
片肌脱二枚胴 |
前後二枚の鉄板。片肌を脱いだような肉体表現や胴丸模倣の装飾。 |
鉄、金箔、漆 |
安土桃山~江戸初期 |
防御:〇 機動:△ |
威嚇、自己顕示、個性の主張 |
伝加藤清正、東京国立博物館所蔵品 |
桶側胴 (横剥ぎ/縦剥ぎ) |
短冊状の鉄板を鋲で横または縦に接合。比較的製作容易。 |
鉄 |
戦国時代~江戸初期 |
防御:〇 機動:〇 |
実戦用、量産性 |
井伊直政(赤備え) 25 など多数 |
仏胴 (一枚張/塗上/包) |
継ぎ目のない滑らかな表面。一枚板打出、または桶側胴表面を漆等で加工。 |
鉄、漆、革 |
戦国時代~江戸初期 |
防御:◎ 機動:〇 |
実戦用、美観 |
徳川家康(金陀美具足) 15 、伊達政宗(黒漆五枚胴) 26 (広義の仏胴に含める場合) |
南蛮胴 (舶来/和製) |
西洋甲冑の影響。前胴中央に鎬、堅牢。多くは一枚板。 |
鉄 |
安土桃山~江戸初期 |
防御:◎ 機動:△ |
対鉄砲用、実戦用、異国趣味 |
徳川家康 10 、黒田長政 |
雪ノ下胴 (仙台胴) |
5枚の鉄板を蝶番で連結。伊達政宗が用いたことで知られる。 |
鉄 |
安土桃山~江戸初期 |
防御:◎ 機動:〇 |
実戦用、地域的特色 |
伊達政宗 9 |
表1:主要な当世具足の比較表
上記の表からも明らかなように、「片肌脱二枚胴」は、桶側胴のような量産性や実用性を最優先した形式や、南蛮胴のような純粋な防御力強化を追求した形式とは一線を画す。むしろ、仏胴の中でも特に仁王胴のような肉体表現を発展させ、そこに「片肌を脱ぐ」という演劇的な要素を加えることで、視覚的・心理的効果を最大限に高めようとした、極めて特殊な存在であったと言える。
戦国末期から江戸初期にかけての甲冑デザインは、実用一辺倒からの脱却と、武士の「個」の表現への強い志向を示している。桶側胴や初期の仏胴などは、鉄砲戦への対応と量産性という実用的な要求から生まれたが、南蛮胴の異国趣味、雪ノ下胴の洗練された造形、そして「片肌脱二枚胴」の極端な奇抜さは、単なる実用性を超えた美意識や自己主張の現れである。特に「片肌脱二枚胴」は、既存の甲冑の枠組みを大胆に逸脱しており、マニエリスム的とも言える装飾過剰や奇想への傾倒が見られる。これは、戦乱が終息に向かい、武士の役割が戦闘員から統治者へと変化していく過渡期において、自らの存在意義を改めて問い直し、他者との差別化を図ろうとした武士たちのアイデンティティの模索の表れであったのかもしれない。
また、織豊期における金銀の使用は、単なる豪華さの追求だけでなく、新たな権力構造(秀吉による天下統一)と経済力(金銀山の開発)を背景とした、視覚的な権威の演出という側面が強い 1。この時代の甲冑に見られる金箔の使用は、中世的な「武勇」中心の価値観から、近世的な「富と権力」による支配へと移行する時代の空気感を反映している。
本報告では、戦国時代から安土桃山時代にかけて製作された特異な甲冑「片肌脱二枚胴」について、その構造、意匠、歴史的背景、そしてそれが持つ意味について多角的に考察してきた。
「片肌脱二枚胴」は、技術的には、鉄砲戦に対応すべく発展した当世具足の一形式である二枚胴をベースとし、鉄板の高度な打ち出し技術や金箔加工、色彩豊かな威毛といった、当時の甲冑製作技術の粋を集めて作られている。意匠的には、実際に肌を露出するのではなく、鉄板や塗装、あるいは別種の鎧の模倣によって「片肌を脱いだ」かのような視覚的効果を狙ったものであり、写実的な肉体表現や奇抜な兜との組み合わせによって、他に類を見ない強烈な個性を放っている。
その背景にある思想としては、第一に敵を威圧し戦場で自己の存在を際立たせるという直接的な戦術的意図が挙げられる。しかしそれ以上に、当時の武士の「心意気」や「遊戯性」、あるいは常識にとらわれない「かぶき者」の精神といった、時代の美意識や価値観が色濃く反映されている。さらに踏み込めば、仁王像のような力強い姿を模すことによる信仰的な意味合いや、死と隣り合わせの状況下における特殊な死生観の表明といった、より深層的な心理が込められていた可能性も否定できない。
「片肌脱二枚胴」の出現は、戦闘様式の変化と鉄砲の普及、甲冑製作技術の向上、南蛮文化の影響、武将の個性化と自己顕示欲の高まり、そして織豊期の華美な文化といった、この時代特有の複数の要因が複合的に絡み合った結果であると言える。それは、戦国という実力主義の時代が頂点を迎え、近世へと移行する過渡期に咲いた、ある種の「徒花」のような存在であったかもしれない。戦乱が終息し、武士の役割が戦闘員から統治機構の一員へと変化していく中で、このような過剰なまでの自己主張を込めた甲冑は次第にそのアクチュアリティを失い、より儀礼的、あるいは画一的な様式へと収斂していったと考えられる。
「片肌脱二枚胴」が直接的に後世の甲冑デザインの主流となることはなかった。しかし、その大胆な発想や特異な表現は、戦国時代末期の武将たちが持っていた強烈な個性と、既成の枠にとらわれない自由な精神性を現代に伝える貴重な文化遺産である。現存する作例は、単に過去の武具としてだけでなく、当時の人々の美意識、技術力、そして複雑な精神世界を解き明かすための重要な手がかりを提供してくれる。この甲冑の研究は、歴史的遺物を通じて、時代を超えた人間の自己表現の欲求や、権力と装いの関係、異文化接触がもたらす創造性の発露といった、より普遍的なテーマについて考察する機会を与えてくれると言えよう。