本報告書は、日本の戦国時代に製作され、武将たちに用いられた「鯰尾形兜(なまずおなりかぶと)」について、その定義、特徴、著名な作例、構造と製作技法、多様性、現存状況、そして武具としての実用性と美術的価値を詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とする。
戦国時代は、下剋上に象徴されるように旧来の権威が揺らぎ、個人の武勇や才覚が戦場の趨勢を左右する時代であった。このような時代背景のもと、武将たちは戦場において自らの存在を誇示し、敵を威嚇し、味方を鼓舞する必要に迫られた。兜は、単に頭部を保護する防具としての機能を超え、着用者の個性、思想、さらには武威を象徴するメディアとしての役割を担うようになったのである 1 。その結果、動物や器物、自然現象など、森羅万象をモチーフとした奇抜な意匠の「変わり兜」が数多く製作され、流行した 3 。鯰尾形兜は、このような変わり兜の一形式として、その特異な形状と象徴性から、武具史・文化史的に極めて興味深い存在と言える。本報告書では、現存する作例や関連資料に基づき、鯰尾形兜の多角的な側面に光を当てる。
鯰尾形兜とは、その名の通り、淡水魚である鯰(なまず)の尾の形状を模して作られた兜の一種である。後方に長く伸びる、あるいは跳ね上がるといった特徴的なシルエットを持つ。この兜が戦国武将に好まれた背景には、鯰という生物が持つ独特の象徴性が深く関わっていると考えられる。
当時、鯰は地震を引き起こす巨大な力を持つ存在として、人々に畏怖されていた 4 。この強大な自然の力を自らの武威に取り込み、戦場で敵を圧倒しようとする意図が、鯰を兜のモチーフとして選択させた一因であろう。蒲生氏郷の逸話に見られるように、鯰尾形兜を着用することは、敵に対して恐怖心を与え、自らを恐るべき存在として印象づける効果を期待したものであったと推察される 4 。
しかし、鯰の象徴性は地震に留まらない。古来より、鯰は水神の使いや豊穣のシンボル、さらには皮膚病の治癒や安産祈願といった民間信仰の対象ともなってきた 7 。これらの多様な側面が、武将たちの個人的な信仰や祈願と結びつき、鯰尾形兜の製作を促した可能性も否定できない。例えば、領地の安寧や水利の安定を願う武将が水神としての鯰の加護を求めたり、子孫繁栄を願ってその多産性にあやかろうとしたりすることも考えられる。
鯰尾形兜の出現は、戦国時代における「変わり兜」の流行という大きな文脈の中に位置づけられる。この時代、武将たちは戦場での自己の識別性を高め、武勇や個性を際立たせるため、従来の兜の形式にとらわれない、斬新で奇抜なデザインの兜を競って求めた 1 。鯰尾形兜の特異な形状は、まさにこのような時代の気風を反映したものであり、武将の自己顕示欲と、戦場における視覚的なインパクトへの希求が生み出した造形と言えよう。その選択には、単なる奇抜さへの嗜好だけでなく、鯰の持つ畏怖すべき力や神秘性に対する当時の人々の自然観やアニミズム的思考、さらには敵兵に与える心理的影響まで計算された、戦略的な意味合いが含まれていた可能性が高い。
鯰尾形兜を愛用したとされる武将は複数存在するが、中でも蒲生氏郷、前田利家・利長親子、堀直寄らは特に有名である。彼らにまつわる逸話や現存する兜は、鯰尾形兜の多様性と、それが武将たちにいかに受容されたかを示している。
蒲生氏郷(がもううじさと)
蒲生氏郷は、銀色の鯰尾形兜を着用して常に先陣を切ったという逸話で知られる智勇兼備の武将である 4。氏郷は新たに召し抱えた武士に対し、「我が軍には常に銀の鯰尾の兜を被り、先陣に立つ者がいる。そなたもその者に劣らぬよう励め」と語ったとされ、その「鯰尾兜の男」こそ氏郷自身であったという 4。氏郷が常用したとされる銀の鯰尾兜そのものは現存していないが 4、その武勇と共に鯰尾兜の名は広く知れ渡っていた。
氏郷の娘(一説には養妹)である於武(おたけ)の方が南部利直(なんぶとしなお)に嫁いだ際、引出物として氏郷所用の兜が贈られたと伝えられている 9。この兜は現在、岩手県立博物館に所蔵されており(岩手県指定有形文化財) 10、桃山時代の作とされる 9。総黒漆塗で、尾の部分は革製、鉢(頭部を覆う部分)は鉄板で構成されている 10。興味深いことに、この兜の形状は一般に「燕尾形(えんびなり)」と呼ばれるツバメの尾のようにV字型に開いたものであるが、南部家では代々「鯰尾兜」として伝えられてきた 9。これは、氏郷の「鯰尾兜」の勇名があまりにも高かったため、実際の形状よりもその名が優先されたか、あるいは形状の類似性からそのように認識された結果である可能性が考えられる。武将のカリスマ性や武具の象徴性が、客観的な形態記述よりも重視される場合があることを示唆する好例と言えよう。
前田利家(まえだとしいいえ)・利長(まえだとしなが)親子
加賀百万石の祖である前田利家もまた、鯰尾形兜を愛用した武将の一人として知られる 3。特に金色の鯰尾兜が有名で、石川県金沢市の尾山神社には、利家が末森城の戦いで着用したとされる「金小札白糸素懸威胴丸具足(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)」の兜部分を模した金色の鯰尾兜の複製像が設置されている 3。この実物の甲冑は前田育徳会が所蔵していると伝えられる 3。
利家の子である二代藩主・前田利長も鯰尾形兜を所用しており、こちらは銀色の作例が富山市郷土博物館に現存する 3。この銀鯰尾形兜は、兜制作者として名高い春田勝光(はるたかつみつ)の作とされ、兜の内側には「春田勝光」の銘が刻まれている 14。全長(または外鉢高)が127cmにも及ぶ非常に長大なもので 6、鉢は鉄板六枚を矧ぎ合わせ、尾の部分は張懸(はりかけ)という技法で成形され、銀箔が押されている 15。この長大な兜を着用した利長は、戦場で際立った存在感を示したことであろう。石川県立美術館においても、前田利長所用の鯰尾兜が特別展などで展示されることがある 16。
前田利家と蒲生氏郷は、かつて織田信長の家臣として、また柴田勝家の与力として共に戦った経験があり 4、利長と氏郷は茶の湯を通じて親交があったとも言われる 6。このような武将間の個人的な関係性や共通の経験が、鯰尾形兜という共通の兜の様式を選択する上で、相互に影響を与え合った可能性も考えられる。
堀直寄(ほりなおより)
堀直寄も鯰尾形兜を好んで用いた武将として記録されている 3。東京都中野区の宝仙寺には、堀直寄所用と伝えられる銀箔押鯰尾形兜が現存しており、これについては甲冑研究者の笠原采女氏による詳細な研究論文も発表されている 17。また、甲冑修復工房である西岡甲房が手掛けた修理品の中にも、伝堀直寄所用の銀箔押鯰尾形兜(黒皺革包仏三枚胴具足に付属)が記録されている 19。
その他の武将
上記以外にも、前田利家の五男である前田利孝(まえだとしたか)が、大坂の陣で鯰尾形の兜を着用したと伝えられている。この兜は群馬県富岡市の蛇宮神社に所蔵され、富岡市の重要文化財に指定されており、西岡甲房によって修理が施されている 19。
これらの事例は、鯰尾形兜が特定の有力武将たちの間でステータスシンボルとして、あるいは自らの武威を示すための特別な装備として受容されていたことを示している。
鯰尾形兜の特異な形状は、当時の甲冑師たちの高度な技術と創意工夫によって実現された。その構造と製作技法には、いくつかの共通する特徴が見られる。
材質
鯰尾形兜の主要部分は、兜鉢(頭部を直接覆う部分)と、後方に伸びる尾状の装飾部分(立物)から構成される。
兜鉢は、防御性能を確保するため、主に鉄製であった 9。多くの場合、複数の鉄板を鍛接または鋲留めによって繋ぎ合わせる「矧合せ鉢(はぎあわせばち)」の技法が用いられた。前田利長所用の銀鯰尾形兜の鉢は、鉄板六枚を繋ぎ合わせて作られている 15。
一方、特徴的な尾状の部分は、その長大さや複雑な形状から、鉄のみで作ると著しく重くなり実用性を損なうため、軽量化が図られた。岩手県立博物館所蔵の伝蒲生氏郷所用兜では、尾の部分が革で製作されている 10。他の作例では、和紙や革を幾重にも貼り重ねて漆で塗り固める「張懸(はりかけ)」の技法が用いられることもあった 5。これにより、見た目の迫力を損なうことなく、着用者の負担を軽減する工夫がなされていたのである。
表面の仕上げには、漆塗りが基本であり、黒漆が多く用いられたが 9、前田利家所用と伝わる金鯰尾兜のように金箔を押したもの 13や、前田利長所用や堀直寄所用と伝わる銀鯰尾兜のように銀箔を押したものも存在する 14。
頸部を保護する錣(しころ)は、数段の鉄板を威糸(おどしいと)で連結して作られた 9。
製作技法
鯰尾形兜の製作には、当時の甲冑製作技術の粋が集められていた。
特に、尾状の装飾部分のような複雑な立体形状を作り出すために、「張懸」の技法が重要な役割を果たしたと考えられる。これは、木型などの原型に和紙や麻布、革などを膠(にかわ)や漆で幾重にも貼り重ねて乾燥させ、型を抜いて成形する技法である 5。張懸によって、鉄の鍛造だけでは困難な自由な造形が可能となり、かつ軽量化も実現できた。前田利長所用の銀鯰尾形兜の尾の部分も、この張懸技法で作られたとされている 15。
兜鉢の製作には、鉄板を叩いて立体的に成形する「打出し(うちだし)」の技術が用いられた。
漆芸もまた、鯰尾形兜の製作に不可欠な要素であった。下地から中塗り、上塗りと何層にも漆を塗り重ねることで、兜の耐久性を高めるとともに、深みのある光沢や色彩を与え、美的価値を高めた。
さらに、金箔や銀箔を貼り付けて豪華絢爛な外観を作り出す金銀箔加工の技術も用いられた。前田利家ゆかりの金沢は金箔の産地としても知られ、その技術が兜の製作にも活かされたと考えられる 24。
製作者
現存する鯰尾形兜の中で製作者が判明している例は少ないが、前田利長所用の銀鯰尾形兜には、兜の内側に「春田勝光」という兜師の名が刻まれている 3。春田派は戦国時代から江戸時代にかけて活躍した代表的な甲冑師の流派の一つであり、その技術力の高さが窺える。
軽量化や強度確保の工夫
実戦での使用を考慮し、鯰尾形兜には軽量化と強度確保のための様々な工夫が凝らされていた。前述の通り、尾状の装飾部分に革や和紙といった軽量素材を用いることはその代表例である 10。また、兜鉢の裏側には、麻布などを重ねて刺し縫いした「浮張(うけばり)」と呼ばれる緩衝材を取り付けることが一般的であった 26。これは、頭部が直接兜鉢に触れるのを防ぎ、衝撃を和らげるとともに、通気性を確保する役割も果たした。
このように、鯰尾形兜の構造と製作技法は、兜鉢本体で堅牢性を確保しつつ、装飾的な部分では軽量素材と高度な成形技術を駆使するという、機能性と審美性を両立させるための合理的な設計思想に基づいていた。これは、武将たちの美的要求の高まりと、それに応えようとした甲冑師たちの技術的挑戦の成果と言えるだろう。
鯰尾形兜は、その基本的な形状である「鯰の尾」を想起させるデザインを核としつつも、細部の形態や呼称において多様性が見られる。これは、製作者の解釈や武将の好み、あるいは伝来の過程での変化などが影響した結果と考えられる。
形態のバリエーションと呼称
これらの呼称は、必ずしも厳密な形態学的分類基準に基づいて使用されているわけではなく、多分に視覚的な印象や伝承、あるいは後世の研究者による解釈に左右されている側面がある。特に「鯰尾」という言葉の持つ力強いイメージと、蒲生氏郷のような著名な武将との結びつきが強かったため、類似した形状の兜を包括する呼称として広まった可能性も考えられる。
色彩のバリエーション
鯰尾形兜は、その仕上げによっても多様な表情を見せる。
これらの形態や色彩の多様性は、鯰尾形兜が単一の様式ではなく、それぞれの武将の個性や美意識、そして甲冑師の創意を反映して製作されたことを物語っている。
戦国時代から桃山時代にかけて製作された鯰尾形兜は、そのすべてが現代まで残されているわけではないが、いくつかの重要な作例が博物館や神社などに所蔵され、大切に伝えられている。これらの現存品は、当時の武具の姿を具体的に知る上で貴重な資料である。
富山市郷土博物館(富山県富山市)
伝前田利長所用の「銀鯰尾形兜」が所蔵されている 3。これは兜師・春田勝光の作とされ、全長127cm(または外鉢高127.5cm)にも及ぶ長大なもので、表面には銀箔が施されている 6。慶長5年(1600年)頃の製作と推定され、兜の内側には「天下一春田光勝」の銘が見られるという 14。
岩手県立博物館(岩手県盛岡市)
伝蒲生氏郷所用、南部家伝来の「鯰尾兜」(形状は燕尾形)が所蔵されている 9。桃山時代の作で、総黒漆塗、尾の部分は革製、鉢は鉄製である 10。総高は約65cm 9。岩手県の有形文化財に指定されている 9。
尾山神社(石川県金沢市)
前田利家を祀るこの神社には、利家所用と伝えられる「金鯰尾兜」の複製像が展示されている 3。これは「金小札白糸素懸威胴丸具足」の兜部分を再現したもので、実物の甲冑は前田家(公益財団法人前田育徳会)が所蔵していると伝えられる 3。
宝仙寺(東京都中野区)
伝堀直寄所用とされる「銀箔押鯰尾形兜」が所蔵されている 17。この兜については、甲冑研究者の笠原采女氏による詳細な研究論文が存在する 17。
公益財団法人前田育徳会(東京都目黒区)
加賀藩主前田家伝来の文化財を保存管理しており、前田利家所用と伝わる「金小札白糸素懸威胴丸具足」(兜を含む)などを所蔵・管理している 3。これらの所蔵品は、石川県立美術館(前田育徳会尊経閣文庫分館)などで折に触れて公開されることがある 16。
蛇宮神社(群馬県富岡市)
前田利家の五男である前田利孝が大阪の陣で着用したと伝えられる鯰尾形の兜が所蔵されている 19。桃山時代の作とされ、富岡市の重要文化財に指定されている。この兜は甲冑修復工房である西岡甲房によって修理が施された記録がある 19。
西岡甲房(甲冑修復工房)
上記の蛇宮神社蔵の兜のほか、伝堀直寄所用の「銀箔押鯰尾形兜」(黒皺革包仏三枚胴具足に付属)の修理も手掛けている 19。これらの修理実績は、歴史的遺物としての鯰尾形兜が現代においてもその価値を認められ、専門的な技術によって保存・伝承されていることを示している。
これらの現存する鯰尾形兜の多くが、前田家や蒲生氏郷といった特定の有力大名家に関連していることは注目に値する。これは、この兜形式が一部のステータスの高い武将の間で特に好まれたことを示唆すると同時に、それらの家が後世まで存続し、伝来の文化財を保存するだけの経済的・社会的な余力を有していたことが、現代にまで作例が残る大きな理由の一つと考えられる。文化財の現存状況は、製作当時の流行のみならず、その後の歴史的経緯や所有者の社会的地位にも大きく左右されるのである。
以下に、主要な現存鯰尾形兜および関連兜の情報をまとめる。
【表1】主要な現存鯰尾形兜および関連兜一覧
伝所用者 |
推定製作年代 |
主な材質・技法 |
寸法(総高/全長) |
主な特徴(色、形状など) |
現在の所蔵場所 |
文化財指定 |
備考 |
前田利長 |
桃山時代 |
鉄、銀箔押、張懸 |
約127cm |
銀色、長大な鯰尾形 |
富山市郷土博物館 |
― |
春田勝光作、「天下一春田光勝」銘 |
蒲生氏郷 |
桃山時代 |
鉄、革、黒漆塗 |
約65cm |
黒色、燕尾形(南部家では鯰尾兜と伝承) |
岩手県立博物館 |
岩手県指定有形文化財 |
南部家伝来、於武の方への引出物 |
前田利家 |
桃山時代 |
(実物)金小札、白糸威(兜は金箔押と推定) |
不明 |
金色、鯰尾形(尾山神社に複製像あり) |
前田育徳会(実物) |
(甲冑として) |
「金小札白糸素懸威胴丸具足」の兜 |
堀直寄 |
桃山時代 |
鉄、銀箔押 |
不明 |
銀色、鯰尾形 |
宝仙寺 |
― |
笠原采女氏による研究あり |
前田利孝 |
桃山時代 |
不明(修理記録あり) |
不明 |
鯰尾形 |
蛇宮神社(群馬県富岡市) |
富岡市指定重要文化財 |
大坂の陣で着用と伝わる、西岡甲房により修理 |
この表は、報告書で言及される主要な鯰尾形兜の情報を一覧化したものであり、それぞれの兜の特徴や来歴を比較しやすく、理解を深める助けとなることを意図している。
鯰尾形兜を含む「変わり兜」は、一見すると奇抜な形状ゆえに実用性に乏しい装飾品のように思われがちである。しかし、戦国時代の戦場における「実用性」を多角的に捉え直すことで、これらの兜が果たした機能と、その背景にある武将たちの意識を理解することができる。同時に、それらは当代随一の工芸技術の結晶であり、高い美術的価値をも有している。
戦場における機能性
変わり兜の機能性は、単なる物理的な防御力に留まらない。
このように、変わり兜の「実用性」は、物理的な防御機能だけでなく、戦場における情報伝達機能(識別、指揮系統の明示)や心理的効果(威嚇、士気高揚)といった側面を含めて総合的に評価されるべきである。これらの機能において、その特異な形状こそが「実用的」であったと言える。
造形美と工芸技術の粋
鯰尾形兜は、戦国時代末期から桃山時代にかけての、大胆かつ華麗な美意識、いわゆる「かぶき」の精神を色濃く反映した造形物である 9。その製作には、漆芸、金銀箔加工、金属の打出し、革や紙を用いた張懸など、当時の最高水準の工芸技術が惜しみなく投入された 5。
流麗かつ力強い鯰の尾の曲線、黒漆の深遠な艶、金銀箔の絢爛な輝きは、単なる武具の域を超えた美術工芸品としての高い価値を現代に伝えている 32。これらの兜は、戦国武将の気概と、それを形にした名もなき職人たちの卓越した技量の結晶なのである。
歴史資料としての意義
鯰尾形兜は、それを所用した武将の死生観、信仰心、美意識、そして権威のありようを読み解くための貴重な歴史資料でもある 1。なぜ鯰をモチーフに選んだのか、どのような色彩や形状を好んだのか、といった点から、武将個人の内面や、彼らが生きた時代の精神性を垣間見ることができる。また、材質や製作技法は、当時の技術水準や資源の利用状況を示す物質文化資料としても重要である。
本報告書では、戦国時代から桃山時代にかけて製作・使用された鯰尾形兜について、その定義、特徴、著名な着用武将と現存作例、構造と製作技法、形態の多様性、そして武具としての実用性と美術的価値を多角的に考察してきた。
鯰尾形兜は、その名の通り鯰の尾を模した特異な形状を持ち、戦国武将たちが自らの個性、武威、そして時には信仰心を戦場で表明するための「変わり兜」の一種として流行した。蒲生氏郷の銀鯰尾兜の伝説、前田利家・利長の金銀の鯰尾兜、堀直寄の作例などは、この兜が特定の有力武将に愛好されたことを示している。その製作には、鉄だけでなく革や和紙といった素材も用いられ、張懸や漆芸、金銀箔加工といった高度な工芸技術が駆使された。これにより、視覚的なインパクトとある程度の軽量化を両立させ、戦場での識別性向上や士気高揚、敵への威嚇といった、物理的な防御を超えた「実用性」も担っていたと考えられる。
同時に、鯰尾形兜は桃山文化の気風を反映した大胆かつ華麗な造形美を有し、当時の美術工芸の水準の高さを示す貴重な文化遺産である。その背景には、地震を起こすとされた鯰への畏怖や、水神信仰といった当時の人々の自然観や信仰が投影されている。
戦国時代という、伝統的な権威が揺らぎ、個人の実力が重視された過渡期において、鯰尾形兜のような奇抜な兜は、武将たちが新たな自己のアイデンティティを模索し、視覚的に自らの力を誇示しようとした試みの象徴であったと言える。伝統的な形式に囚われず、自らの武勇や思想を兜というメディアを通じて表現しようとした武将たちの精神性が、そこには色濃く表れている。
鯰尾形兜の持つデザインの独創性や、そこに込められた武将たちの想いは、後代の武具デザインに影響を与えた可能性は否定できない。さらに、現代の創作物における武将のイメージ形成や、ヒーローキャラクターのデザインなどにも、その大胆な発想の片鱗を見出すことができるかもしれない 34 。
今後の研究課題としては、未発見の作例の調査や、現存品に対するより詳細な科学的分析による製作技法の解明、そして特定の武将が鯰尾形兜を選んだ思想的背景や、鯰というモチーフが持つ多層的な象徴性に関するさらなる深掘りが期待される。鯰尾形兜の研究は、単に武具史の一コマを明らかにするに留まらず、戦国・桃山時代の社会変動、武士の精神史、そして日本の造形文化の豊かさを理解する上で、今後も重要な示唆を与え続けるであろう。