藤沢宿整備(1601)
徳川家康が1601年に整備した藤沢宿は、東海道の要衝として発展。遊行寺の門前町としての歴史的基盤と、幕府の宿場機能が融合し、交通・信仰・経済の複合拠点として栄えた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
戦国の終焉、天下泰平の礎:藤沢宿整備(1601年)の時系列的徹底解剖
序章:1601年への序曲 ― なぜ藤沢だったのか
本報告書は、慶長6年(1601年)に断行された「藤沢宿整備」という歴史的事象を、単なる交通インフラの設置という一面的な解釈から脱し、徳川家康が構想した新しい国家体制の縮図であり、戦国乱世から江戸泰平の世へと移行する時代の質的転換を象徴する国家的事業であったと位置づける。この視座に立ち、戦国時代後期の社会構造を起点として、宿場成立に至るまでのプロセスを時系列に沿って詳細に分析し、その歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。
藤沢が徳川幕府による新たな交通網の要衝として選定された背景には、中世以来の歴史的蓄積が存在する。鎌倉時代、時宗の宗祖・一遍上人の教えを継いだ第四代呑海上人によって開かれた時宗総本山・遊行寺(正式名称:藤沢山無量光院清浄光寺)は、この地の発展の核であった 1 。遊行寺の門前には茶屋や旅籠が自然発生的に立ち並び、江の島詣や鎌倉への参詣者で賑わう一大拠点として、宗教的・経済的な中心性を確立していた 1 。歌川広重の浮世絵にも描かれたその繁栄は、藤沢が単なる通過点ではなく、人々が目的地として集う求心力を持った場所であったことを物語っている 1 。
徳川家康が1601年に宿駅制度を布くにあたり、藤沢が選ばれたのは決して偶然ではない。この遊行寺門前町としての中世以来の歴史的・地理的重要性こそが、新たな公的交通網の結節点としての役割を担うための、いわば「土台」となったのである。幕府の事業は、全くの更地に新たな町を建設したのではなく、既存の都市基盤とそこに根付く人々の経済活動の上に、国家的な統制システムという新しい機能を「上書き」する形で進められた。本報告書は、この重層的な歴史の構造を解き明かすことから筆を起こす。
第一章:戦国乱世のなかの藤沢 ― 門前町の栄光と受難(~1590年)
徳川家康による宿場整備以前、戦国時代の藤沢は、時宗総本山・遊行寺の門前町としての宗教的権威と、関東の覇者・後北条氏の支配下における軍事・経済的要衝という二つの顔を持っていた。この時代の藤沢を理解することは、1601年の大変革の前提を把握する上で不可欠である。
時宗総本山・遊行寺と門前町の繁栄
中世の藤沢は、まさに遊行寺とともにあった。「藤沢発祥の地」と称されるように、その発展は遊行寺の存在と不可分であった 1 。鎌倉時代末期の正中2年(1325年)に開かれて以来、時宗の総本山として全国から多くの参詣者を集め、その門前には自然と町が形成された 2 。人々は遊行寺に参拝し、その足で江の島や鎌倉へ向かうのが一般的な巡礼ルートであり、藤沢はその中継地として、茶屋や旅籠が軒を連ねる活気ある門前町として栄えたのである 1 。
大鋸引(おおがびき)職人集団の実態と役割
この門前町の繁栄を支えた特異な集団が、遊行寺の門前、境川と滝川の合流地点周辺の「大鋸(だいぎり)」と呼ばれる地区に住んでいた「大鋸引」という職人たちであった 7 。大鋸とは大型の鋸(のこぎり)を意味し、彼らは室町時代から材木を板に加工する高度な技術を持つ専門家集団だった 7 。
しかし、彼らは単なる職人ではなかった。「客寮(きゃくりょう)」と呼ばれ、遊行寺の伽藍の造営や修造を専門に担う、いわば「半僧半俗」の存在だったのである 8 。寺社の権威と強く結びつくことで、その技術と生活の安定を得ていた。戦国時代に入り、後北条氏が関東に勢力を拡大すると、彼らの役割はさらに重要性を増す。棟梁であった森家を中心に、大鋸引集団は後北条氏の直属の職人衆として再編され、関東各地の城郭の普請や修築、さらには軍船の建造にまでその技術を提供した 7 。その影響力は、地域の町政権の一端を担うほどにまで達し、商業や金融にも手を広げるなど、地域の有力者として確固たる地位を築いていた 7 。
戦乱による荒廃と後北条氏の支配
一方で、戦国乱世は藤沢に深い爪痕を残した。永正10年(1513年)、関東に覇を唱えようとしていた伊勢長氏(後の北条早雲)と、相模の旧勢力であった三浦義同との戦乱がこの地を襲う。遊行寺はその戦場と化し、兵火によって全山が焼失するという壊滅的な被害を受けた 7 。この悲劇により、遊行寺はその後約100年もの間、住職も住めない廃墟同然の状態に陥った 2 。この時、寺宝であった梵鐘(延文元年、1356年銘)も後北条氏によって小田原城へと持ち去られ、合戦の合図を告げる陣鐘として使われたという逸話は、宗教的権威が軍事力に屈服させられた戦国時代の現実を象徴している 10 。
この遊行寺の弱体化は、図らずも大鋸引集団の立場を変化させた。それまで庇護者であった遊行寺が力を失ったことで、彼らは新たな権力基盤を求める必要に迫られた。時を同じくして、築城や軍備拡張を急ぐ後北条氏は、高度な技術者集団を強く求めていた。両者の利害が一致した結果、大鋸引集団は後北条氏の支配体制に深く組み込まれていったのである。藤沢は、宗教都市としての性格を一時的に後退させ、軍事技術を支える拠点としての性格を強めていった。
しかし、後北条氏もまた、藤沢の交通上の重要性を認識していた。弘治元年(1555年)、後北条氏は軍事・通信目的で藤沢大鋸町に「伝馬」を設置した 12 。これは、必要な時に人馬を徴発し、情報や物資を迅速に伝達するシステムであり、後の徳川幕府による宿駅制度の原型とも言えるものであった。地域の有力者であった森家がこの伝馬役を担っていたとされ、戦国大名の支配下で、すでに公的な交通機能の一部がこの地で機能し始めていた事実は、1601年の宿場整備が全くのゼロから始まったわけではないことを示唆している。藤沢は、玉縄城を中核とする後北条氏の広域支配ネットワークにおいて、重要な結節点として機能していたのである 13 。
第二章:新時代の胎動 ― 徳川家康の関東入府と布石(1590年~1600年)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が後北条氏を滅亡させ、日本の政治地図は大きく塗り替えられた。勝者である秀吉の命により、徳川家康は長年治めた東海地方の旧領から、北条氏の旧領であった関東八州へと移封される 15 。これは、家康を江戸に封じ込めようとする秀吉の深謀であったとも言われ、徳川家臣団の中には旧領を離れることへの不満や新領地への不安が渦巻いていた 16 。家康にとって、この広大だが未だ人心の定まらない関東をいかに迅速に掌握し、安定した統治基盤を築くかは、喫緊の最重要課題であった。
支配者の交代と家康の関東経営
江戸に入府した家康は、直ちに領国の実態把握に着手する。表向きは趣味である鷹狩りを名目に、関東各地を精力的に巡察し、地理、城郭、そして人々の暮らしぶりをその目で確かめて回った 15 。この巡察は、来るべき全国統治を見据えた、周到な情報収集活動であった。
「藤沢御殿」の設置(慶長元年頃、1596年)
この時期、まだ東海道には幕府による統一的な宿場制度は存在せず、大名や公人の長距離移動には困難が伴った。特に、江戸と上方(京・大坂)を結ぶルートは、家康自身の政治活動にとっても生命線であった。そこで家康は、自身の往来や領内視察の際の拠点として、主要な街道沿いの要所に将軍家専用の宿泊・休憩施設である「御殿」や「御茶屋」を設置していく 17 。
「藤沢御殿」もその一つとして、慶長元年(1596年)頃に築かれた 17 。その場所は、現在の藤沢市民病院の南、元藤沢公民館から妙善寺にかけての一帯と推定されている 17 。元禄11年(1698年)の絵図によれば、その規模は東西86間(約156メートル)、南北39間(約70メートル)にも及ぶ広大なもので、周囲には堀が巡らされていた 22 。これは単なる休憩所ではなく、防衛機能も備えた準城郭的な施設であったことを示唆している。
家康はこの藤沢御殿を頻繁に利用しており、慶長5年(1600年)から寛永11年(1634年)までの間に、実に28回も宿泊したという記録が残っている 4 。特筆すべきは、天下分け目の関ヶ原の戦いへと出陣する途上、慶長5年(1600年)9月にもこの御殿に立ち寄っていることである 22 。この事実は、藤沢が家康の天下取りの戦略上、単なる通過点ではなく、極めて重要な戦略拠点として認識されていたことを雄弁に物語っている。
この藤沢御殿の設置は、後の宿場整備を見据えた、家康の周到な布石であったと考えられる。まず、自身の移動の利便性と安全を確保するために、私的なインフラ(御殿)を先行して整備する。そして、その御殿の利用を通じて、その土地の交通拠点としてのポテンシャルを実地で検証する。藤沢御殿の存在と頻繁な利用は、この地が来るべき全国的な公的交通網において、正式な宿場としての役割を担うにふさわしい場所であることを家康自身が確信していくプロセスであった。御殿は、個人の支配から公的な統治システムへと移行する過渡期を象徴する施設であり、宿場開設のための「地ならし」の役割を果たしたのである。
初代代官・彦坂小刑部元正の着任と役割
家康の関東経営を実務面で支えたのが、「地方巧者(じかたこうしゃ)」と呼ばれた有能な官僚たちであった。慶長元年(1596年)、藤沢を含む一帯の幕府直轄領(天領)を管轄する初代支配代官として、彦坂小刑部元正(ひこさか おさかべ もとまさ)が着任した 23 。
彦坂は、家康の関東入府当初から、総検地の奉行を務め、街道整備や江戸の町づくりなどを担当した、家康の信頼厚い腹心の一人であった 24 。彼は相模国岡津(現在の横浜市泉区)に陣屋を構え、そこを拠点として東海道方面の広大な天領を管轄した 24 。藤沢には代官所は置かれなかったが 23 、彦坂のような実力者がこの地域を担当したこと自体が、家康の東海道筋に対する重視の表れであった。彼の指揮の下、藤沢は新たな時代への準備を着々と進めていくことになる。
第三章:慶長六年の激動 ― 「藤沢宿」誕生のリアルタイム・ドキュメント(1601年)
慶長5年(1600年)秋、関ヶ原の戦いにおける徳川方の圧倒的勝利は、長く続いた戦乱の世に事実上の終止符を打った。天下人としての地位を確立した徳川家康は、武力による支配から、恒久的な平和を維持するための制度による支配へと、国家のあり方を根本から再構築する壮大な事業に着手する 26 。その第一歩であり、新時代の幕開けを告げる象徴的な国家プロジェクトが、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈、東海道の整備であった。
背景:関ヶ原の戦いと国家統一事業の始動
家康にとって、交通網の整備は単なるインフラ事業ではなかった。それは、江戸を中心とする新たな政治秩序を全国に浸透させ、中央集権体制を確立するための神経網を構築する行為そのものであった 28 。迅速な情報伝達は政令の徹底を可能にし、円滑な物資輸送は経済の安定と軍事的な機動力を保証する。宿駅伝馬制度の確立は、徳川による天下泰平の礎を築くための、最優先課題だったのである 30 。
正月(1月):幕府による公式命令「伝馬朱印状」と「伝馬定書」の下付
関ヶ原の戦勝からわずか数ヶ月後の慶長6年(1601年)正月、家康は矢継ぎ早に行動を起こす。東海道の主要な地点を宿場(宿駅)として正式に指定し、各宿場に対して公的な駅伝業務を命じる「伝馬朱印状」と、その運営に関する具体的な規定を記した「伝馬定書」を一斉に下付したのである 27 。
これにより、藤沢を含む各宿場は、幕府公用のために常時36匹の人馬(伝馬)を用意する義務を負うことになった 33 。これは宿場にとって大きな負担であったが、その代償として、屋敷地の地子(固定資産税に相当)が免除される「地子免許」の特権が与えられた 27 。さらに、公用輸送の合間に、一般の旅行者を相手にした宿泊業や運送業を営むことが公認され、宿場町としての経済的発展の道が開かれた 31 。これは、戦国時代に見られた散発的・軍事的な伝馬制度とは一線を画す、全国規模で統一された、義務と権利に基づく公的交通システムの画期的な誕生であった。
春~初夏:現場での整備開始と代官の指揮
幕府からの命令を受け、藤沢の現場では、代官・彦坂元正の指揮の下、本格的な宿場の建設と町の再編が開始された。宿場の範囲は、遊行寺の門前町として栄えた境川東岸の「大鋸町」(旧鎌倉郡)を核とし、これに川の西岸に新たに設定された「大久保町」と「坂戸町」(旧高座郡)を加えた三町で構成されることになった 12 。これは、中世以来の歴史的蓄積を活かしつつ、それを新たな国家構想の下で拡張・再編するという、合理的な都市計画であった。
六月(6月):激震、初代代官・彦坂元正の失脚
国家プロジェクトが緒に就いた矢先の同年6月、藤沢の現場に激震が走る。この一大事業の最高責任者であった代官・彦坂元正が、不正を理由に突如として改易(役職解任および領地没収)されるという衝撃的な事件が発生したのである 24 。
この事件の真相は定かではないが、単なる一官僚の汚職事件として片付けることはできない。これは、徳川政権による高度な政治的パフォーマンスであった可能性が高い。宿駅整備という、徳川の威信をかけた新時代の象徴的事業の責任者を、事業の最中に厳罰に処すこと。それは、「徳川の世では、戦国時代のような私利私欲や不正は決して許さない」という断固たる姿勢を、全家臣、そして全国の民に示すための「見せしめ」であった。武力だけでなく、法と規律による支配を徹底するという、新しい時代の統治理念を内外に宣言する象徴的な出来事であり、綱紀粛正と中央集権化を強力に推進する家康の強い意志の表れであったと考えられる。
この混乱の中、後任として深津八九郎孝勝が二代目代官に着任し、中断しかけた整備事業の引き継ぎにあたった 23 。
通年:町の再編と人々の動向 ― 新体制への移行
支配者の交代劇の裏で、藤沢の社会構造もまた、新たな時代に適応すべく大きく変貌を遂げていた。その象徴が、戦国時代に大鋸引の棟梁として地域社会を率いた森家の処遇であった。徳川政権は、彼らを旧勢力として弾圧・排除する道を選ばなかった。代わりに、彼らが持つ地域社会への影響力と実務能力を高く評価し、宿場の公用人馬の手配や公用荷物の継ぎ送りを統括する最重要役職である「問屋(といや)」に任命したのである 7 。
これは、徳川家康の巧みな人材活用術と現実的な統治戦略を示す好例である。旧支配者の下で力を蓄えた在地有力者を、新しい統治システムの中核に据えることで、体制に巧みに取り込む。これにより、地域社会の反発を最小限に抑えつつ、彼らが持つ知識や経験、人脈を新政権のために最大限に活用し、スムーズな体制移行と効率的な宿場運営を実現した。戦国時代の人材や社会基盤を破壊するのではなく、「転用・再編」して近世社会を構築していくという、徳川政権の基本的な統治スタイルがここにも見て取れる。
こうして藤沢は、遊行寺の門前町という宗教的性格を維持しながら、幕府の公的な交通・通信ネットワークの一翼を担う「宿場町」という新たな機能を付与され、政治的・経済的な重要性をも併せ持つ複合的な都市へと生まれ変わっていったのである 5 。
代官名 |
在任期間 |
主要な出来事・意義 |
典拠 |
彦坂小刑部元正 |
慶長元年(1596)~慶長6年(1601)6月 |
藤沢御殿設置期の代官。宿場整備を開始するも、不正により失脚。新時代の綱紀粛正を象徴。 |
23 |
深津八九郎孝勝 |
慶長6年(1601)~慶長8年(1603) |
彦坂の後任として着任。混乱した現場を引き継ぎ、宿場整備事業を軌道に乗せる。 |
23 |
米倉助右衛門永時 |
慶長8年(1603)~慶長12年(1607) |
江戸幕府開闢後の初代代官。整備された宿場の初期運営を担う。 |
23 |
第四章:礎の確立 ― 新生「藤沢宿」の姿と展望
慶長6年(1601年)の激動を経て、藤沢宿は徳川幕府が主導する新たな国家体制の一部として、その礎を固めていった。門前町としての中世以来の歴史と、宿場町としての近世的な機能が融合し、藤沢宿は東海道の中でも独自の個性を持つ都市へと発展していく。
宿場の構造と機能
藤沢宿は、江戸の日本橋を起点として6番目の宿場として正式に成立した 12 。宿場の運営が軌道に乗るにつれて、その施設も順次整備されていった。参勤交代で往来する大名や公家、幕府役人などが宿泊・休憩するための公的な施設として、最高の格式を持つ「本陣」(蒔田家が世襲)と、それに準ずる「脇本陣」が坂戸町に設けられた 3 。また、伝馬や飛脚の中継業務を司る「問屋場」が宿場の行政・経済の中心として機能し、一般の旅行者のためには数多くの「旅籠」が軒を連ねた 20 。これらの宿場機能が確立されると、慶長年間に先行して設置された将軍家専用の「藤沢御殿」はその歴史的役割を終え、17世紀半ばには廃止された 17 。
交通の要衝としての発展 ― 街道の結節点
藤沢宿の最大の特色であり、その後の繁栄を決定づけた要因は、単に東海道という一本の幹線道路上の一宿場に留まらなかった点にある。それは、多くの街道が交差する「交通の結節点」であった 21 。
東海道を軸として、南へ向かえば江の島弁財天に至る「江の島道」、北西に分かれれば雨乞いの霊山として信仰を集めた大山阿夫利神社への「大山道」が伸びていた 12 。さらに、古都・鎌倉へ向かう鎌倉道、養蚕や織物で栄えた八王子へと続く八王子道(滝山街道)、そして厚木へ向かう厚木道など、四方八方へと道が繋がっていたのである 12 。この地理的条件により、藤沢宿は人、物資、情報、そして信仰が絶えず交差する一大ハブとなり、流通の中心地として発展した 12 。遊行寺の門前町としての集客力と、この街道の結節点としての機能が相乗効果を生み、藤沢宿に他にはない活気と賑わいをもたらしたのである 1 。
他の宿場との比較分析 ― 藤沢宿の個性
江戸時代後期の天保14年(1843年)に幕府が編纂した「東海道宿村大概帳」は、当時の藤沢宿の姿を具体的に伝えている。これによると、宿内人口は4,089人、家数は919軒、旅籠は45軒であった 12 。この規模を神奈川県内の他の宿場と比較すると、藤沢宿のユニークな性格が浮かび上がってくる。
人口において、藤沢宿は城下町である小田原宿(5,404人)と、大きな港を擁する神奈川宿(5,793人)に次ぐ、県内第3位の規模を誇っていた 12 。これは、藤沢宿が非常に多くの人々を惹きつけ、養う力を持った都市であったことを示している。しかしながら、その人口規模に比して、旅籠の数は45軒と比較的少ないのが特徴である。例えば、人口が藤沢宿より少ない戸塚宿には75軒、保土ヶ谷宿には67軒の旅籠が存在した 12 。
この「人口が多く、旅籠が少ない」というデータは、藤沢宿の経済構造と都市機能について重要な示唆を与える。もし藤沢宿が、旅行者の宿泊に経済の大部分を依存する純粋な宿場町であったならば、人口と旅籠の数はある程度比例するはずである。しかし、データはそうなっていない。これは、藤沢宿の人口を構成する要素の中に、宿泊業関係者以外の層、すなわち定住者が厚く存在したことを意味する。その定住者とは、遊行寺に関連する宗教関係者や門前の商人、戦国時代からの大鋸引の末裔である職人たち、そして多くの街道が集まることによる物流・商業関係者などであったと推測される。つまり、藤沢宿の経済は宿泊業への依存度が他の宿場より相対的に低く、より多角的で安定した都市基盤を持っていたと考えられる。これは、門前町としての中世からの歴史的蓄積が、近世の宿場町へと引き継がれ、見事に融合した結果に他ならない。
宿場名 |
人口(人) |
家数(軒) |
旅籠数(軒) |
主要な特徴 |
典拠 |
神奈川宿 |
5,793 |
1,341 |
58 |
港町、神奈川湊を擁する |
12 |
藤沢宿 |
4,089 |
919 |
45 |
時宗総本山門前町、諸街道の結節点 |
12 |
小田原宿 |
5,404 |
1,542 |
95 |
小田原城の城下町、箱根越えの拠点 |
12 |
品川宿 |
約5,800 |
約1,600 |
93 (天保期) |
江戸の玄関口、遊興地としての性格が強い |
44 |
戸塚宿 |
2,906 |
613 |
75 |
純粋な宿場町としての性格が強い |
12 |
宿場の光と影 ― 飯盛女の実態
しかし、宿場の繁栄には影の側面も存在した。旅籠の賑わいを支えたのが、「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれる女性たちであった 45 。表向きは旅人の食事の世話をする給仕とされていたが、実質的には遊女としての役割を担わされることが多かった 46 。
江の島や大山詣の分岐点として多くの旅人が行き交う藤沢宿では、飯盛女の需要も高く、天保6年(1835年)には坂戸町と大久保町を合わせて53人の飯盛女がいたという記録がある 3 。彼女たちの多くは、近隣の農村や伊豆、駿河などから、親の借金の形として人身売買に近い形で連れてこられた若い女性たちであった 3 。過酷な労働環境の中で若くして命を落とす者も少なくなく、その亡骸は無縁仏として葬られるのが常であった 48 。そうした中で、藤沢宿の永勝寺には、旅籠「小松屋」の主人・源蔵が建てたとされる飯盛女の墓が39基も残されている 3 。これは全国的にも極めて稀な例であり、宿場の繁栄の陰で生きた女性たちの過酷な生涯と、それを弔った一人の主人の存在を静かに今に伝えている。
結論:藤沢宿整備が歴史に刻んだもの
慶長6年(1601年)の藤沢宿整備は、日本の歴史における一大転換点を象徴する画期的な出来事であった。それは単に一つの宿場町が誕生したというミクロな事象に留まらず、戦国の混沌から江戸の秩序へと社会が再編されていくマクロな歴史のダイナミズムを凝縮している。
第一に、この事業は、交通ネットワークの質的転換を明確に示した。戦国時代、後北条氏が藤沢に置いた「伝馬」は、あくまで領国支配と軍事行動という地域的・軍事的要請に基づくものであった。それに対し、徳川幕府が構築した宿駅制度は、江戸を政治・経済の中心とする中央集権体制を全国規模で支え、平和な社会の維持を目的とする、公的かつ統一的なシステムであった。藤沢宿の成立は、この根本的なパラダイムシフトを体現するものであった。
第二に、藤沢宿の成立過程は、徳川政権の巧みな統治戦略、すなわち「連続性」と「断絶」の融合を見事に示している。幕府は、遊行寺の門前町としての中世以来の都市基盤や、大鋸引の職能集団といった戦国期以前からの社会構造という「連続性」を破壊しなかった。むしろ、その土台の上に、幕府による統一的で厳格な公的制度という「断絶(革新)」をもたらし、在地有力者を新体制の中核に登用することで、両者を巧みに融合させた。この現実的かつ合理的なアプローチこそが、大きな社会的反発を招くことなく、迅速な新秩序の構築を可能にしたのである。
最後に、藤沢という一つの宿場の歴史を深く掘り下げることは、近世日本の社会がいかにして形成されたかを理解する上で、極めて有効な視座を提供する。戦国乱世の終焉は、単に武力による勝者が決まったことを意味するのではない。それは、社会の隅々にまで張り巡らされた古い秩序が解体され、法と制度に基づく新たな秩序へと再構築されていく、長く複雑なプロセスであった。1601年の藤沢宿整備は、その壮大な歴史的事業の始まりを告げる、天下泰平の礎石の一つとして、日本の歴史に深く刻まれているのである。
引用文献
- 湘南藤沢の時宗総本山 遊行寺墓苑 https://www.yugyoujiboen.jp/fujisawa.html
- 遊行寺(藤沢市西富) - 散歩日記 https://sanpo-nikki.com/etc/yugyouji/
- 東海道藤沢宿を歩く | かまくら・れぽじとり - 鎌倉・湘南 https://www.kama-repo.net/fujisawa/fujisawa-syuku/
- 藤沢が宿場になったのはいつ頃ですか? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0207.htm
- 見どころたくさん藤沢宿 - 旧東海道の旅(14) https://jiriki-tabi.hatenablog.com/entry/Tokaido14
- 遊行寺と藤沢 - 時宗総本山 遊行寺 http://www.jishu.or.jp/yugyouji-engi/fujisawa/
- 戦国時代の大鋸(だいぎり) • えのしま・ふじさわポータルサイト https://enopo.jp/2021/03/13/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%8B%B8%EF%BC%88%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%8E%E3%82%8A%EF%BC%89/
- 藤沢市(神奈川県)の古い町並み http://hurui-matinami.net/hujisawasi.html
- 【番外編】シーボルトの江戸への旅路 No.18 ―シーボルトが見た江戸時代の第一次産業― 横山 実 https://kiramekiplus.com/archives/3446
- 鐘楼 - 時宗総本山 遊行寺 http://www.jishu.or.jp/yugyouji-keidai/syourou/
- 藤沢最古の梵鐘~遊行寺~ https://www.yoritomo-japan.com/yugyoji-kane.html
- 藤沢宿の紹介 | ふじさわ宿交流館 https://fujisawashuku-kouryukan.com/kyutoukaido/fujisawashuku.html
- 歴史探訪45 後北条支配下の横浜の笹下城、蒔田城 - えのぽ https://enopo.jp/2023/12/21/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E8%A8%AA45%E3%80%80%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94%AF%E9%85%8D%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%81%AE%E7%AC%B9%E4%B8%8B%E5%9F%8E%E3%80%81%E8%92%94%E7%94%B0%E5%9F%8E/
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- 1:江戸期までの藤沢 ~ 藤沢・江の島 | このまちアーカイブス - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/fujisawa/index.html
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- 第1章 小田原市の歴史的風致形成の背景 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/60592/1-20190425221210.pdf
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- 藤沢の歴史を感じられる場所のひとつ - 小田急のくらし https://www.odakyu-life.jp/entry/002568.html
- 人間の良心とは何か?~鬼畜と人間を分けるモノ・永勝寺~飯盛女の墓 (藤沢・江ノ島) https://4travel.jp/travelogue/11973354
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- 15-永勝寺 - ふじさわ宿交流館 https://fujisawashuku-kouryukan.com/kyutoukaido/osusume/15-osusume.html