小田城の戦い(1564~67)
永禄年間、常陸国小田城を巡り上杉・佐竹連合軍と小田氏治が激突。氏治は北条氏に寝返り佐竹氏と対立。永禄七年、謙信の進軍で小田城は陥落するも、氏治は佐竹義昭の死に乗じ城を奪還。
小田城の戦い(1564~67年):常陸国における覇権の転換点
序章:常陸の風雲―小田城をめぐる序曲
戦国時代の永禄年間(1558~1570年)、関東地方は越後の「軍神」上杉謙信と相模の「獅子」北条氏康という二大勢力による覇権争いの渦中にありました。この巨大な権力闘争の波は、関東に割拠する数多の国人衆を否応なく巻き込み、彼らは自家の存亡を賭けて上杉方か北条方かの選択を迫られていました 1 。常陸国(現在の茨城県)もその例外ではなく、むしろこの大国間の角逐が最も先鋭的に現れる地政学的要衝と化していました。本報告書で詳述する「小田城の戦い」は、単なる常陸国内の地域紛争ではなく、実質的には上杉・北条両陣営の代理戦争としての性格を色濃く帯びていたのです。
関東の二大巨頭と地政学リスク
上杉謙信は関東管領として関東の秩序維持を大義名分に掲げ、北条氏の勢力拡大を阻止すべく、繰り返し関東への出兵を行っていました。これに対し北条氏康は、巧みな外交と軍事力をもって着実に関東での支配領域を広げ、謙信と激しく対峙します。この結果、常陸国は、北進する北条勢力と、これを迎え撃つ上杉・佐竹連合勢力が直接衝突する最前線となりました。常陸の諸大名にとって、どちらの陣営に与するかは常に難しい判断を要する問題であり、その選択一つが家の命運を左右する極めて不安定な情勢下に置かれていたのです。
この文脈において、小田城をめぐる一連の攻防戦は、小田氏と佐竹氏という二つの地域勢力の争いという側面を持ちながらも、その背後には常に上杉と北条の巨大な影が差していました。佐竹氏による小田氏攻撃は、上杉謙信の関東戦略、すなわち反北条連合の維持という大局的な目標と完全に一致していました。謙信は佐竹氏を支援することで関東における影響力を確保し、一方の佐竹氏は謙信の大義名分を利用して長年の目標であった常陸統一と勢力拡大を図るという、相互利益の関係が成立していたのです。したがって、この戦いは二大勢力の思惑が交差する代理戦争の舞台であったと評価できます 1 。
常陸の名門・小田氏と当主・氏治
この争乱の中心に立つ一方の雄が、常陸国南部に本拠を構える小田氏です。小田氏は鎌倉幕府の有力御家人・八田知家を祖とし、代々常陸守護職を世襲した名門でした 4 。室町時代には関東の有力大名家である「関東八屋形」の一つに数えられるなど、その家格は佐竹氏を凌ぐほどでした 5 。
しかし、この戦いの当事者である第15代当主・小田氏治は、「戦国最弱」としばしば揶揄される特異な武将です 6 。その生涯は敗戦の連続でありながら、本拠である小田城を幾度となく奪われては奪い返すという驚異的な粘り強さを見せたことから、「常陸の不死鳥」の異名も持ち合わせています 7 。軍事的には決して優れていたとは言えない氏治ですが、その一方で、敵将である佐竹義昭でさえ「普通に優れた才覚があり、譜代の家人も覚えの者が多く、とにかく家名を保っている」と評価するほどの人物でした 7 。敗戦を重ねてもなお家臣団の結束は固く、領民からの人望も篤かったと伝えられており、その人物像は単なる「弱い武将」という一言では片付けられない多面性を持っています 8 。
北方の雄・佐竹氏と当主・義重
氏治の宿敵となるのが、常陸北部の太田城を拠点とする佐竹氏です 10 。佐竹氏もまた清和源氏の名門であり、鎌倉時代以来、常陸国に深く根を張る一族でした 12 。戦国期に入ると、常陸統一の野望を掲げ、着実にその勢力を南方へと拡大していました。
永禄5年(1562年)、父・義昭の隠居に伴い家督を相続したのが、第18代当主・佐竹義重です 14 。後に「鬼義重」「坂東太郎」と畏怖されるこの若き当主は、父の代から続く上杉謙信との同盟関係をさらに強化し、これを背景に積極的な領土拡大政策を推し進めます 14 。義重にとって、常陸南部に勢力を持ち、かつ北条氏に通じる可能性のある小田氏の存在は、常陸統一の最大の障害でした。
対立の火種―氏治、北条へ
両者の対立が決定的となったのは、永禄4年(1561年)の上杉謙信による小田原城攻めが膠着し、謙信が越後へ撤退した後のことでした。これまで上杉方に与していた氏治は、この機に北条氏康へと接近し、同盟関係を結びます 2 。この「鞍替え」は、上杉方の最前線を担う佐竹氏にとって、背後から脅かされるに等しい重大な脅威でした。ここに、佐竹氏と小田氏の対立は避けられないものとなり、佐竹義昭(当時はまだ実権を掌握)は宇都宮広綱、真壁氏幹らと連署の上、謙信に氏治討伐のための出兵を正式に要請しました。これが、永禄7年(1564年)に始まる一連の「小田城の戦い」の直接的な引き金となったのです 1 。
【表1】小田城の戦い(1564~67年)主要関連年表
年月 |
主な出来事 |
勢力図の変化・備考 |
永禄6年(1563年)末 |
小田氏治、上杉方から離反し北条氏に接近。 |
佐竹氏との対立が決定的に。 |
永禄7年(1564年)4月 |
上杉謙信、佐竹氏の要請に応じ常陸へ出兵。 |
謙信の「神速」と称される電撃的な進軍。 |
|
山王堂の戦い 。上杉・佐竹連合軍が小田軍に圧勝。 |
小田軍は壊滅的打撃を受ける。 |
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上杉・佐竹軍、小田城を包囲し、 第一次落城 。 |
氏治は藤沢城へ敗走。小田城は佐竹方の管理下に。 |
永禄8年(1565年)12月 |
佐竹義昭が死去。佐竹家中に混乱が生じる。 |
氏治にとって絶好の機会が到来。 |
|
氏治、佐竹家中の混乱を突き 小田城を奪還 。 |
「不死鳥」の異名通りの復活を遂げる。 |
永禄9年(1566年)2月 |
謙信が再び関東へ出兵。氏治は降伏。 |
小田城の防御施設破却 を条件に帰還を許される。 |
|
佐竹義重、小田領への本格的な侵攻を開始。 |
小田領の大半が佐竹氏に奪われる。 |
|
義重、太田資正を片野城に入れ、対小田氏の拠点とする。 |
小田城への包囲網が狭まる。 |
永禄10年(1567年) |
佐竹義重、白河義親を攻めるなど勢力をさらに拡大。 |
小田氏は外交的にも軍事的にも孤立を深める。 |
永禄12年(1569年) |
手這坂の戦い 。佐竹軍が小田軍に大勝し、小田城を再び占領。 |
これ以降、氏治は小田城を奪還できず、事実上没落。 |
第一章:永禄七年(1564)―軍神の神速、小田城陥落
永禄7年(1564年)、常陸国の勢力図を塗り替える戦いの火蓋が切られました。この年の戦いは、越後の龍・上杉謙信の圧倒的な軍事力と、その神懸かり的な用兵術によって、わずかな期間で決着がつくことになります。
【開戦前夜】佐竹の要請と謙信の決断
小田氏治の北条方への寝返りは、佐竹義昭や真壁氏幹といった常陸の国衆にとって看過できない裏切りでした。彼らは連署して謙信に使者を送り、氏治の非を訴え、その討伐のための出馬を強く要請します 1 。当時、関東管領として関東の秩序維持を自らの責務と任じていた謙信にとって、反北条連合の結束を乱す氏治の行動は許しがたいものでした。謙信は佐竹氏の要請を容れ、北条氏の勢力圏へと変貌しつつあった常陸への電撃的な軍事介入を決断します 2 。
【神速の進軍】越後から常陸へ
謙信の決断は、直ちに行動へと移されました。その行軍速度は、当時の常識を遥かに超えるものでした。「神速」と評されるその進軍は、戦略的に決定的な意味を持ちます 1 。援軍要請に連署した真壁氏幹の記録によれば、彼らが越後へ派遣した使者が常陸へ戻ってきた時には、謙信率いる本隊はすでに関東平野の只中、下野国宇都宮にまで達していたといいます 2 。これは、使者の旅程とほぼ同じ速度で大軍が移動したことを意味し、当時の情報伝達と軍隊の移動速度を考えれば驚異的としか言いようがありません。
この神速の進軍は、迎え撃つ小田氏治の対応を完全に後手に回らせました。氏治は十分な兵力を領内から動員する時間的猶予を失い、かき集められた兵力はわずか3,000人程度に留まりました 2 。さらに、同盟者である北条氏康も、このあまりに早い展開に対応できず、援軍を差し向けることができませんでした。謙信は、戦う前からすでに戦略的な優位を確立していたのです 1 。
【決戦:山王堂】背水の小田軍、蹂躙さる
永禄7年4月28日(西暦1564年6月7日)、両軍は常陸国真壁郡山王堂(現在の茨城県筑西市)で対峙しました 1 。
兵力において、上杉軍約8,000に対し、小田軍は約3,000と、倍以上の差がありました 2 。多勢に無勢を覚悟した氏治は、筑輪川を背にして陣を敷く「背水の陣」で決戦に臨みます。兵士たちに退路はないと覚悟させ、決死の抵抗を試みたのです 2 。一方、上杉謙信は戦場を見下ろす小高い丘に本陣を構え、地の利を完全に掌握していました。地元民から小田方の勇将として菅谷氏や飯塚氏らの名を聞いても、夜襲の可能性を警告されても、謙信は意に介さなかったと伝えられています 1 。
戦闘が開始されると、戦況は一方的なものとなりました。丘の上から地の利を活かした上杉軍が、鬨の声を上げて小田軍に突撃を敢行します 2 。兵力、士気、そして指揮官の力量、その全てにおいて勝る上杉軍は、決死の覚悟で抵抗する小田軍を難なく蹂躙し、壊滅状態へと追い込みました。
氏治自身も奮戦しましたが、大勢を覆すには至りませんでした。彼は辛うじて戦場を離脱し、疲労困憊の愛馬に筑輪川の水を飲ませているところを、上杉勢の追撃部隊6、7騎に発見されます。放たれた矢が鎧に突き刺さるも、幸いにして貫通には至らず、氏治は川岸を駆け上がると、敗残兵を必死にまとめ上げ、本拠・小田城へと逃げ帰っていきました 1 。
【落城】第一次小田城攻城戦
山王堂での野戦に勝利した上杉軍は、休む間もなく小田城へと進軍します。この頃、ようやく戦場に到着した佐竹義昭や真壁氏幹らの軍勢もこれに合流し、敗走する小田勢を追撃して城下に殺到しました 1 。
氏治は籠城して抵抗を試みますが、小田城は元々が鎌倉時代の館を拡張した平城であり、防御施設は決して強固ではありませんでした 1 。大軍に完全に包囲され、四方から攻め立てられては、持ちこたえる術はありません。頼みの綱であった北条からの後詰(援軍)も、ついに現れることはありませんでした 1 。
万策尽きた氏治は、夜陰に紛れて数十騎の手勢とともに城を脱出、支城である藤沢城へと落ち延びます 1 。氏治に代わって城の指揮を執っていた老臣・信太治房は、最後まで城内で奮戦したものの、力尽きて自害しました。こうして、名門小田氏の本拠・小田城は、あっけなく陥落したのです。戦後処理を終えた謙信は、小田城を佐竹氏らの管理下に置かせると、悠々と越後へと帰還していきました 2 。
第二章:永禄八年(1565)―不死鳥の逆襲
永禄7年の大敗により、小田氏治は本拠を失い、その勢力は風前の灯火となりました。しかし、戦国乱世の常として、一つの勢力の後退は、別の勢力にとっての好機となり得ます。そして、氏治はこの絶望的な状況から、わずか1年余りで奇跡的な復活を遂げることになります。
【権力の空白】佐竹義昭の死
氏治にとっての転機は、敵方である佐竹氏の内部からもたらされました。永禄8年(1565年)、長年にわたり佐竹氏を率い、勢力拡大を主導してきた佐竹義昭が病没します 7 。家督はすでに息子の義重が継いでいましたが、当時義重はまだ19歳と若く、父の死によって家中には動揺が走りました 14 。これまで義昭の強力な指導力によって抑えられていた反佐竹勢力が各地で反攻を開始するなど、佐竹領国は一時的な権力の空白と混乱に見舞われたのです 17 。
【好機到来】氏治、動く
藤沢城に逼塞していた氏治は、この千載一遇の好機を見逃しませんでした。佐竹家中の混乱という情報を得るや、電光石火の勢いで小田城奪還に向けた軍事行動を開始します 7 。
ここで特筆すべきは、本拠を失い、多くの将兵を討ち死にさせたにもかかわらず、氏治が短期間で再び城を攻めるだけの兵力を動員できたという事実です。これは、氏治の武将としての真の強みが、軍事的な才覚ではなく、むしろ彼が持つ特異な「人望」と、彼を支え続けた譜代家臣団の強固な結束力にあったことを物語っています。通常、戦に敗れ本拠を失った大名の家臣団は離散し、再起は極めて困難です。しかし、小田氏の家臣団は主君を見捨てませんでした。土浦城主の菅谷政貞をはじめとする重臣たちは、氏治が敗走するたびに自らの居城を提供し、再起のための拠点として支え続けました 19 。また、領民たちも氏治を深く慕っており、佐竹氏が領主となると年貢を納めずに隠れ、氏治が城を奪還すると喜んで戻ってきて年貢を納めた、という逸話も残されています 8 。こうした家臣や領民との強固な信頼関係こそが、物理的な戦力差を覆し、何度でも立ち上がることを可能にした「不死鳥」の力の源泉だったのです 1 。
【奪還成功】小田城への帰還
永禄8年(1565年)12月、氏治率いる小田軍は、佐竹家中の混乱に乗じて小田城へ進撃します。城を守っていたのは佐竹一門の佐竹義廉でしたが、不意を突かれた佐竹方は有効な抵抗ができず、氏治はついに本拠・小田城の奪還に成功しました 7 。
父祖伝来の城への帰還を果たした氏治は、ただ喜びに浸るだけではありませんでした。彼は直ちに領国支配の再建に着手します。その一環として、重臣であった信太伊勢守から人質を取るなど、家臣団の統制を強化し、再び離反者が出ないよう内部の引き締めを図りました 7 。この迅速かつ現実的な対応は、氏治が決して単なる夢想家ではなく、戦国大名としての統治能力も備えていたことを示しています。こうして、小田氏は一時的にではありますが、常陸南部の雄として再びその姿を現したのです。
第三章:永禄九年~十年(1566~67)―「鬼義重」の執念と小田領の蚕食
小田氏治による劇的な本拠奪還は、しかし、長い戦いの序章に過ぎませんでした。一度は後退を余儀なくされた佐竹氏でしたが、若き当主・佐竹義重の下で体制を立て直すと、より執拗かつ戦略的な方法で小田氏を追い詰めていきます。この時期の戦いは、短期決戦から、小田氏の力をじわじわと削いでいく消耗戦へとその様相を大きく変えていきました。
【再びの介入】謙信の関東出兵と小田城の破却
永禄9年(1566年)2月、上杉謙信が再び関東へ出兵します。これに呼応した佐竹義重は、小田氏への攻勢を再開しました 14 。前年の奪還劇で自信を深めていた氏治でしたが、謙信と佐竹という二正面からの圧力には抗しきれず、再び敗北を喫します。
この時、氏治は謙信に降伏し、その軍門に下りました。謙信は氏治の帰還を許しましたが、その代償は大きなものでした。降伏の条件として、小田城の堀を埋め、土塁を崩すなど、城の防御施設を破却(破壊)することを命じられたのです 18 。これは、小田氏が再び佐竹氏に反抗する能力を根本から削ぐための、極めて厳しい処置でした。小田城は城としての機能を大きく損なわれ、氏治は屈辱を味わうことになります。
この一連の出来事は、佐竹義重が前年の失敗から学び、新たな戦略を採用したことを示唆しています。1564年の戦いでは、野戦での勝利から一気に本城を落とすという典型的な戦法が採られましたが、結果として氏治に城を奪い返されました。この経験から義重は、単に小田城を落とすだけでは小田氏を屈服させることはできないと悟ったのです。以降の戦いは、小田氏の経済基盤と兵力供給源を断ち、物理的に「干上がらせる」ことを目的とした、より高度な消耗戦へと移行していきます。
【鬼義重の侵攻】狭まる包囲網
小田城の無力化に成功した佐竹義重は、ここから本格的な小田領の蚕食(さんしょく)作戦を開始します。「鬼義重」の異名を持つ彼の執念深い攻勢が始まったのです 15 。
まず義重は、上杉謙信との連携を背景に、小田領の大半を軍事的に制圧します 14 。これにより、小田氏の支配領域は小田城周辺のわずかな土地に限定され、経済的にも軍事的にも大きな打撃を受けました。
さらに義重は、巧みな外交戦略で小田氏を追い詰めます。永禄9年(1566年)6月、北条氏との争いで居城の武蔵岩付城を追われ、佐竹氏に身を寄せていた名将・太田資正とその子・梶原政景に、小田領の目と鼻の先にある片野城を与えました 18 。これは、小田氏に対する最前線の監視拠点と攻撃拠点を築くという、極めて効果的な一手でした 22 。
加えて、永禄10年(1567年)には陸奥国の白河義親を攻めて勝利を収めるなど、周辺地域への影響力も着実に拡大 14 。これにより、小田氏は外交的にも完全に孤立し、佐竹氏による包囲網の中で身動きが取れない状況に陥っていきました。この2年間で、小田氏治は名目上は小田城主であり続けながらも、その実態は領地の大部分を失った「裸の王様」へと転落していったのです。
第四章:総合的考察―なぜ小田氏は敗れ、佐竹氏は台頭したのか
永禄7年(1564年)から永禄10年(1567年)にかけての4年間にわたる攻防は、単なる一連の合戦ではなく、常陸国における二つの名家の運命を分けた決定的な転換期でした。なぜ「不死鳥」とまで呼ばれた小田氏が最終的に敗れ、若き佐竹義重が覇権を確立できたのか。その要因を、将の器量、城郭の構造、そして経済基盤という三つの側面から多角的に分析します。
将の器量―人望の氏治と戦略の義重
勝敗を分けた最大の要因は、両軍を率いた当主の資質の違いにありました。
小田氏治は、その戦歴とは裏腹に、類稀なる「人望」の持ち主でした。度重なる敗戦にもかかわらず、譜代の家臣団は彼を見捨てず、領民は彼を慕い続けました 7 。この無形の力が、彼の驚異的な回復力、すなわち「不死鳥」たる所以でした 8 。しかしその一方で、永禄4年(1561年)の上杉謙信からの離反に見られるように、大局的な戦略眼に欠け、目先の利害や情勢の変化によって安易に同盟相手を変えるという戦略上の一貫性のなさが、結果的に大国の介入を招き、自らを窮地に追い込む原因となりました 2 。
対照的に、佐竹義重は「鬼義重」と恐れられた武勇に加え、極めて冷静な戦略家でした 15 。彼は、上杉謙信という大国の力を巧みに利用して自家の勢力拡大を図るという優れた外交感覚を持っていました 14 。また、永禄8年(1565年)に一度は奪還された経験から、力攻め一辺倒ではなく、敵の防御施設を破却させ、周辺領域から切り崩していくという消耗戦に戦術を切り替えるなど、冷徹な現実主義者でもありました。若年にして、勝利のために最適な手段を選択できる戦略眼を備えていたのです。
【表2】主要人物比較:小田氏治と佐竹義重
項目 |
小田氏治 |
佐竹義重 |
家格 |
関東八屋形。鎌倉以来の常陸守護の名門 5 。 |
清和源氏の名門。常陸北部の有力国人 13 。 |
リーダーシップ |
カリスマ型・人望型。家臣・領民に深く慕われる 9 。 |
剛腕型・戦略型。「鬼義重」と畏怖される猛将 17 。 |
戦略眼 |
短期的・戦術的。大局的な一貫性に欠け、情勢に流されやすい 2 。 |
長期的・戦略的。外交と同調させ、敵を根本から弱体化させる 14 。 |
強み |
譜代家臣団の強固な結束力と回復力(不死鳥) 1 。 |
卓越した武勇と、上杉氏を巧みに利用する外交・戦略能力 14 。 |
弱み |
軍事的才覚の欠如と、戦略的判断の甘さ 6 。 |
若さ故の経験不足(当初)。父・義昭の死による一時的な混乱 14 。 |
主要家臣 |
菅谷政貞、信太治房、平塚長信など(小田四天王) 1 。 |
太田資正、真壁氏幹など、外部からの有能な人材も登用 18 。 |
城郭の限界―平城・小田城の脆弱性
度重なる落城の一因は、小田城そのものが持つ構造的な脆弱性にありました。小田城は宝篋山の麓に位置する平城(または平山城)であり、その起源は鎌倉時代の居館に遡ります 27 。周囲を湿地帯や河川に囲まれているとはいえ、天然の要害である山城に比べ、防御力で劣ることは否めませんでした 20 。特に、上杉・佐竹連合軍のような大軍に包囲された場合、その弱点は致命的でした 1 。
発掘調査によれば、小田城は戦のたびに堀や土塁、馬出などが強化され、館から城郭へと変貌していったことがわかっています 20 。しかし、永禄9年(1566年)に上杉謙信の命令で防御施設が破却されたことは、その防御力を決定的に低下させました 18 。防御の要を失った城は、もはや佐竹氏の組織的な攻撃を防ぎきることは困難だったのです。
経済基盤の格差―佐竹氏の富と力
戦国時代が中期から後期へと移行するにつれ、戦争の勝敗を左右する要因として経済力の重要性が増大しました。この点において、佐竹氏と小田氏の間には決定的な差があったと考えられます。
佐竹氏はその領内に、当時日本有数の産金量を誇った八溝金山をはじめとする複数の金山を擁していました 30 。また、太平洋に面した湊を支配下に置き、製塩業や海上交易からも大きな利益を上げていたと推測されます 31 。この豊かな経済基盤が、長期にわたる軍事行動を可能にし、高価な鉄砲の大量配備や、外交工作のための資金を潤沢に供給しました。事実、豊臣政権下における金の運上額は、上杉氏、伊達氏に次ぐ全国第3位を誇っています 30 。
一方で、小田氏の経済基盤に関する記録は乏しく、度重なる戦乱で領内が荒廃し、疲弊していたことは想像に難くありません。佐竹氏が時間をかけて小田領を削り取る消耗戦を仕掛けることができたのは、それを支える強固な経済力があったからです。対照的に、小田氏が局地的な戦闘で勝利し、一時的に城を奪還することはできても、長期的な領土の維持ができなかった背景には、この国力、すなわち経済力の圧倒的な格差が存在したのです。
結論:常陸の覇権交代とその後
永禄7年(1564年)から永禄10年(1567年)に至る4年間の「小田城の戦い」は、常陸国の歴史における一大転換点でした。この一連の攻防を通じて、鎌倉時代以来、常陸南部に君臨してきた名門・小田氏の権威は失墜し、北方の雄・佐竹氏が常陸の新たな覇者として台頭する道が決定づけられました。
転換点としての4年間
この4年間は、単に一つの城の争奪戦に留まらず、常陸国の勢力構造そのものを根本から覆す過程でした。戦いの序盤、永禄7年(1564年)の上杉謙信の介入による小田城の陥落は、小田氏の軍事的な脆弱性を露呈させました。続く永禄8年(1565年)の氏治による奇跡的な城の奪還は、彼の類稀なる人望と家臣団の結束力を証明しましたが、それは同時に、佐竹義重に小田氏打倒の決意をより一層固めさせる結果となりました。そして、永禄9年(1566年)以降の佐竹氏による執拗な領土蚕食と小田城の無力化は、小田氏の力を根底から削ぎ落とし、その後の運命を決定づけたのです。
最終的結末への道
この4年間の戦いで領土の大部分と軍事拠点の機能を失った小田氏は、もはや佐竹氏に単独で対抗する力を失っていました。この勢力衰退が、永禄12年(1569年)に起こる「手這坂の戦い」での決定的敗北に直結します 18 。この戦いで再び大敗を喫した氏治は小田城を完全に失い、これ以降、ついに父祖伝来の地を取り戻すことはできませんでした 3 。
歴史的意義
「小田城の戦い」は、佐竹義重が常陸統一を成し遂げ、やがては北関東から南奥州にまで影響を及ぼす一大戦国大名へと飛躍する上で、極めて重要な一里塚となりました 32 。この勝利によって常陸南部の最大勢力を屈服させた義重は、その後の勢力拡大に弾みをつけ、佐竹氏の最盛期を築き上げることになります。
一方で、敗者となった小田氏治の物語は、戦国乱世の非情さと、その中で最後まで抗い続けた一人の武将の姿を現代に伝えています。彼は多くの戦に敗れ、最終的に大名としての地位を失いましたが 28 、その不屈の闘志と、家臣や領民に慕われたという人間的魅力は、「常陸の不死鳥」として後世に語り継がれることになりました 5 。この戦いは、常陸国における一つの時代の終わりと、新たな時代の幕開けを告げる象徴的な出来事であったと言えるでしょう。
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- 【手這坂の戦い】1569年12月24日|Mitsuo Yoshida - note https://note.com/yellow1/n/n2ae0c0fb7669
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- 歴史館だより - 茨城県立歴史館 https://rekishikan-ibk.jp/cms/wp-content/uploads/2022/03/notice118.pdf
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