最終更新日 2025-06-21

小早川秀包

「小早川秀包」の画像

毛利の血、小早川の名、十字架の祈り ― 猛将・小早川秀包の生涯と時代

表1:小早川秀包 略年表

和暦

西暦

年齢

関連事項

永禄10年

1567年

1歳

1月18日、毛利元就の九男として安芸国吉田郡山城で誕生。幼名は才菊丸 1

元亀2年

1571年

5歳

父・元就の意向で備後国の国人・大田英綱の養子となり、大田元綱と名乗る 1

天正7年

1579年

13歳

実子がいなかった異母兄・小早川隆景の養子となり、小早川元総と名乗る 1

天正10年

1582年

16歳

備中高松城の戦いの和睦条件として、羽柴秀吉への人質となることが決まる 2

天正11年

1583年

17歳

10月、人質として大坂へ赴く。秀吉より偏諱を賜り、小早川秀包と改名 1

天正12年

1584年

18歳

小牧・長久手の戦いに秀吉方として従軍 1

天正13年

1585年

19歳

四国征伐での戦功により、伊予国宇和郡大津城3万5千石を与えられる 1

天正14年

1586年

20歳

九州平定に従軍。香春嶽城攻めで一番乗りの功を挙げる 1

天正15年

1587年

21歳

九州平定後、筑後国三郡7万5千石を与えられ、久留米城主となる 3 。大友宗麟の娘・桂姫(マセンシア)と結婚。黒田官兵衛らの勧めでキリスト教の洗礼を受ける 8

天正16年

1588年

22歳

肥後国人一揆の鎮圧で立花宗茂と共に戦功を挙げ、義兄弟の契りを結ぶ。秀吉より「羽柴」姓を許される 1

文禄元年

1592年

26歳

文禄の役に従軍。第六軍として1,500の兵を率いて朝鮮へ渡る 6

文禄3年

1594年

28歳

秀吉の甥・秀秋が隆景の養子となったため、小早川家の後継者から廃嫡され、別家を立てる 1

慶長2年

1597年

31歳

慶長の役に従軍。養父・隆景が死去 1

慶長3年

1598年

32歳

露梁海戦にて、愛用の鉄砲「雨夜手拍子」を手に奮戦し、撤退戦を成功させる 1

慶長5年

1600年

34歳

関ヶ原の戦いで西軍に属す。立花宗茂らと大津城を攻略するも、本戦には参加できず。戦後、改易される 1

慶長6年

1601年

35歳

3月22日、長門国赤間関にて病没。家臣の白井景俊が殉死。嫡男・元鎮が家督を継ぎ、吉敷毛利家の祖となる 1

表2:小早川秀包 名称・官位変遷表

時期(目安)

氏名・通称

官位など

備考

永禄10年(1567年)

才菊丸(さいぎくまる)

幼名 2

元亀2年(1571年)

大田 元綱(おおた もとつな)

備後大田氏の養子となる 1

天正7年(1579年)

小早川 元総(こばやかわ もとふさ)

小早川隆景の養子となる 1

天正11年(1583年)

小早川 秀包(こばやかわ ひでかね)

治部大輔

秀吉より偏諱「秀」と通称「藤四郎」を賜る 1

天正15年(1587年)

(小早川 秀包)

筑後守

九州平定後、久留米城主となる 1

天正16年(1588年)

羽柴 秀包(はしば ひでかね)

秀吉より「羽柴」姓を許される 1

天正17年(1589年)

羽柴 久留米侍従

従四位下 侍従

侍従に任官し、豊臣姓も下賜される 12

慶長4年(1599年)頃

秀直(ひでなお)

改名 1

慶長5年(1600年)

毛利 秀兼(もうり ひでかね)

関ヶ原の戦いの後、毛利姓に復す 1

慶長6年(1601年)

玄済道叱(げんさいどうしつ)

出家後の法名 1

序章:忘れられた猛将、小早川秀包

戦国時代の巨星、毛利元就。その名は「三本の矢」の教えと共に、現代に至るまで広く知られている。彼の息子たちの中でも、毛利家を支えた「両川」、すなわち次男・吉川元春と三男・小早川隆景の功績は特に名高い 3 。しかし、元就には九人の男子がおり、その末子である小早川秀包(もうり ひでかね、後にこばやかわ ひでかね)の存在は、偉大な父兄の影に隠れ、歴史の表舞台で語られる機会は決して多くない 3

だが、その35年の短い生涯は、戦国末期から安土桃山時代という激動の時代を象徴するかのように、武勇、信仰、そして政争に翻弄された悲運に満ちていた。父・元就の武勇を最も色濃く受け継いだ猛将として戦場を駆け、愛用の鉄砲「雨夜手拍子」を手に数々の武功を挙げた 1 。豊臣秀吉にその才能と容姿を愛され、人質から一躍、筑後十三万石の大名へと駆け上がった 6 。その一方で、妻・桂姫(マセンシア)の影響からキリシタンとなり、禁教令下にあっても信仰を守り抜こうと苦悩する領主でもあった 3 。そして、義理の兄・小早川秀秋の裏切りで有名な関ヶ原の戦いでは、西軍の主力として奮戦しながらも本戦に参加できず、改易の憂き目に遭い、若くしてその生涯を閉じた 1

本報告書は、これまで断片的に語られることの多かった小早川秀包という一人の武将の実像に、多角的な視点から迫るものである。『毛利家文書』や『イエズス会日本報告集』といった史料、そして近年の研究成果を基に、彼の出自からその最期、そして後世に遺した血脈に至るまでを徹底的に検証する。毛利の血、小早川の名、そして十字架への祈りという、三つの異なるアイデンティティの間で生きた「忘れられた猛将」の生涯を紐解くことは、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた人間の深遠なるドラマを理解する上で、不可欠な作業となるであろう。

第一章:毛利元就の九男 ― その出自と揺れ動く少年時代

1. 謀神の晩年の子として ― 誕生時の毛利家と政治状況

小早川秀包、幼名・才菊丸は、永禄10年(1567年)1月18日、中国地方の覇者・毛利元就の九男として、安芸国吉田郡山城で生を受けた 1 。父・元就はこの時すでに71歳という高齢であり、母は側室の乃美大方であった 1 。秀包が生まれた時点で、毛利家の状況は大きな転換期にあった。元就の嫡男であり、秀包にとっては異母兄にあたる毛利隆元は4年前に急逝しており、家督は隆元の遺児、すなわち秀包の甥にあたる毛利輝元(当時14歳)が継承していた 1

この時期の毛利家は、元就の後見のもと、輝元の二人の叔父、吉川元春と小早川隆景が「毛利両川」として政務と軍事を支える体制を確立していた 19 。秀包は、この世代交代が進む中で生まれた、いわば元就の「最後の置き土産」とも言うべき存在であり、その出自そのものが、毛利家の将来を見据えた元就の深謀遠慮の中に位置づけられていたのである。

2. 大田家、そして小早川家へ ― 相次ぐ養子縁組の背景と毛利家の戦略

秀包の少年時代は、毛利家の勢力拡大戦略に翻弄される形で始まった。元亀2年(1571年)、わずか5歳の時、父・元就の意向により、まず安芸国戸坂氏の遺領と家臣団を与えられる 1 。しかし、同年5月には備後国の有力国人であった大田英綱が死去。すると、その遺臣たちの懇願を受ける形で大田氏の家督を継承し、「大田元綱」と名乗ることになる 1 。これは、婚姻や養子縁組によって周辺の国人領主を巧みに毛利家の支配体制に組み込んできた、元就以来の基本戦略を色濃く反映した措置であった。

秀包の立場が再び大きく動くのは、天正7年(1579年)のことである。この年、実子に恵まれなかった異母兄、小早川隆景の養子として迎え入れられ、「小早川元総」と改名した 1 。この養子縁組には、秀包の母・乃美大方が小早川氏の庶流である乃美氏の出身であったという血縁的な背景も存在した 1 。秀包は、自らの意思とは関わりなく、毛利一門の有力な駒として、その時々の政治的要請に応じて所属する家を変えられていったのである。

3. 兄・隆景の期待 ― 武勇を見込まれた後継者

知謀の将として名高い小早川隆景が、数いる毛利一門の若者の中から、34歳も年下の末弟である秀包を後継者として選んだ背景には、明確な戦略的意図が存在した。複数の史料が一致して指摘するように、隆景が秀包を選んだ最大の理由は、彼が「父元就の武勇を、兄の吉川元春と並び最も受け継いでいた」ためであった 1

これは単なる血縁の継続を目的とした養子縁組ではなかった。父・元就が長男・隆元(仁)、次男・元春(武)、三男・隆景(智)という三兄弟の異なる個性を結束させることで毛利家を盤石にした「三子教訓状」の精神を、隆景は次世代で実践しようとしたと考えられる。自らの卓越した知略と、秀包の傑出した武勇を組み合わせることによって、小早川家を攻守に隙のない強力な組織へと変貌させ、ひいては毛利宗家をより強固に支える体制を築き上げることこそ、隆景が描いた未来図であった。秀包は、その武才を高く評価され、毛利両川の一翼を担うべき存在として、大きな期待を背負って小早川家の後継者となったのである。

第二章:豊臣秀吉との邂逅 ― 人質から寵臣へ

1. 大坂での人質生活と秀吉の寵愛

秀包の運命を大きく変える転機は、天正10年(1582年)に訪れた。織田信長配下の羽柴秀吉が毛利領に侵攻した備中高松城の戦いにおいて、本能寺の変を契機に和睦が成立。その条件の一つとして、秀包は甥の吉川広家と共に、人質として大坂の秀吉のもとへ送られることとなった 2 。天正11年(1583年)10月、時に17歳であった 1

しかし、彼に待っていたのは屈辱的な虜囚生活ではなかった。秀包は「容儀端正の美少年にして、勇猛壮健」と評されるほどの人物であり、その容姿と才気は秀吉を魅了した 1 。秀吉は秀包をことのほか寵愛し、人質でありながらもその行動を制限せず、むしろ側近のように遇した 1 。この厚遇の証として、秀吉は自らの名から「秀」の一字と、自身の通称であった「藤吉郎」から「藤」の字を与え、秀包は「小早川藤四郎秀包」と改名する 4 。この偏諱の下賜は、秀包が単なる人質ではなく、秀吉の庇護下にある特別な存在、いわば豊臣一門に準ずる者として扱われたことを示している。

2. 戦陣に次ぐ戦陣 ― 九州平定までの武功と「羽柴」姓の下賜

秀吉の寵愛は、秀包を戦場へと駆り立てた。人質の身でありながら、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや竹鼻城水攻めに秀吉軍の一員として従軍する 1 。天正13年(1585年)には、紀州征伐に続いて四国征伐に参加。伊予国での氷見原の戦いでは金子元宅を撃退し、高尾城攻めでは長宗我部方の将・花房親兵衛を自ら討ち取るなど、目覚ましい武功を挙げた。この功績により、秀包は伊予宇和郡大津城(愛媛県大洲市)に3万5千石の所領を与えられ、毛利家の一員でありながら、秀吉直属の大名としての地位を確立した 1

翌天正14年(1586年)から始まった九州平定では、養父・隆景の軍に属して豊前各地を転戦。特に高橋元種が守る香春嶽城攻めでは、鉄砲隊を率いて激戦を繰り広げ、一番乗りの戦功を挙げて敵将三人を討ち取り、城門を破るという大活躍を見せた 1 。これらの戦功は、隆景が彼に寄せた期待が正しかったことを証明するものであり、秀包の武名は天下に轟き始めた。

3. 「羽柴久留米侍従」の誕生 ― 豊臣政権下における秀包の政治的地位

九州平定後、秀包の地位はさらに向上する。戦功により筑後国に三郡、当初7万5千石を与えられ、久留米城を居城とした 3 。そして天正16年(1588年)7月、秀吉は秀包と、後に義兄弟の契りを結ぶことになる立花宗茂に対し、豊臣宗家の姓である「羽柴」を名乗ることを許した 1 。さらに翌天正17年(1589年)には侍従に任官し、豊臣姓も下賜され、これ以降「羽柴久留米侍従」と称されるようになる 12

秀吉による一連の厚遇は、単なる個人的な寵愛に留まるものではない。それは、豊臣政権が確立した高度な大名統制策の一環であった。豊臣政権は、有力大名やその一門に「羽柴」や「豊臣」の姓、そして朝廷の官位を与えることで、伝統的な氏族の枠組みを超えた、秀吉を頂点とする新たな主従関係と序列を構築しようとした 24 。秀包に「羽柴侍従」という地位を与えることは、彼を毛利宗家という枠組みから巧みに引き離し、豊臣政権の直臣として直接支配下に置くことを意味した。これは毛利本家に対する間接的な牽制であると同時に、秀包個人を秀吉への個人的な恩義で縛り付ける効果も持っていた。秀包の生涯を貫くことになる毛利家への忠誠と豊臣家への恩義という二つの忠誠心の間の葛藤は、まさしくこの秀吉の巧みな人事政策によってその根源が植え付けられたのであり、彼の個人的な悲劇は、豊臣政権という巨大な政治構造の産物でもあったのである。

第三章:筑後久留米十三万石の領主として

1. 久留米入城と領国経営の実態

天正15年(1587年)、九州平定後の国分けにより筑後の領主となった秀包は、久留米城を拠点として本格的な領国経営に着手する 6 。入城と同時に城の改修・拡張を行い、城下町の整備を進めたとみられる 27 。彼の統治は、単なる軍事支配に留まらなかった。豊臣政権の基本政策である太閤検地を領内で実施した記録が残っており、これにより土地と人民を直接把握し、近世的な支配体制の基盤を築こうとしたことが窺える 28

しかし、筑後の統治は平穏ではなかった。同年、肥後で国人一揆が勃発すると、秀包は討伐軍の総大将として出陣。和仁氏らが籠城した田中城を攻略するなど、地域の安定化に大きく貢献した 1 。また、領内では中世以来の在地勢力との緊張関係も存在した。特に、筑後国で強大な権勢を誇っていた高良山との対立は深刻であった。

2. キリシタン大名「シマオ」の信仰と葛藤

秀包の治世を語る上で最も重要な特徴は、彼がキリシタン大名であったことである。この信仰は、彼の公私にわたる行動に決定的な影響を与えた。

妻マセンシア(桂姫)の影響と受洗

秀包のキリスト教への道を開いたのは、妻・桂姫(かつらひめ)であった 3 。彼女は豊後のキリシタン大名・大友宗麟の娘であり、自身もマセンシアという洗礼名を持つ熱心な信者であった 13 。天正15年(1587年)、秀吉の媒酌によって二人は結婚 9 。妻の信仰と、同じくキリシタンであった黒田官兵衛の勧めを受け、秀包もまた洗礼を受け、「シマオ・フィンデナオ (Simão)」という洗礼名を授かった 8 。この信仰は一家に及び、長男の元鎮も幼児洗礼を受け、祖父・宗麟と同じ「フランシスコ」の洗礼名を与えられている 3

伴天連追放令下の教会保護と領内布教

秀包が受洗した天正15年(1587年)は、皮肉にも秀吉が伴天連追放令を発布した年でもあった。天下人の意向に反して信仰を持つことは、大名としての地位を危うくしかねない危険な選択であった。しかし秀包は、巧みな方法で信仰を守り続けた。久留米の城下(現在の市役所付近)に教会堂を建設し 7 、宣教師を医師などに変装させて城に招き入れるなど、養父・小早川隆景や秀吉の監視の目を潜り抜けながら、領内での布教活動を保護した 3 。その結果、大友領から迫害を逃れてきた信者も受け入れ、久留米のキリシタン人口は一時期7,000人に達したとも伝えられる 9 。イエズス会の書簡にも、秀包は石田三成派の有力なキリシタン大名としてその名が記録されている 37

高良山座主・麟圭の殺害 ― 権力と信仰の狭間で

秀包の信仰と、戦国大名としての現実主義との間の深刻な葛藤を象徴する事件が、天正19年(1591年)の高良山座主・麟圭(りんけい)の謀殺である 9 。麟圭は、大友氏に敵対して龍造寺氏と結ぶなど、秀包の領国統治にとって障害となる存在であった。秀包は妻の実家である大友氏からの依頼もあり、麟圭を城中に招いて饗応し、その帰路を伏兵に襲わせて殺害するという非情な手段に打って出た 10

この行動は、キリスト教の教え(汝、殺すなかれ)と、戦国大名として領国を安定させ、敵対勢力を排除するという現実的な要請との間で、秀包が後者を選んだことを示している。彼の信仰は個人的な倫理観に留まるものではなく、大友氏との同盟関係を強化し、自らの支配基盤を固めるための政治的ツールとして機能した側面もあった。しかし、この謀殺は神仏を恐れる人々の反感を買い、後に朝鮮出兵中の不祥事が麟圭の祟りだと噂されるなど、秀包の心に暗い影を落とした可能性は否定できない 39 。彼は、キリシタンとしての救済の教えと、武将としての非情な決断との間で、常に引き裂かれるような内面の葛藤を抱えていたのである。

3. 友、立花宗茂との絆 ― 戦場で結ばれた義兄弟

政治と信仰の狭間で苦悩する秀包にとって、大きな心の支えとなったのが、同い年の盟友・立花宗茂との友情であった。二人の出会いは肥後国人一揆の鎮圧であり、共に戦う中で互いの武勇と人柄に惹かれ、義兄弟の契りを結んだ 1 。二人の領地は筑後川を挟んで隣接しており、その関係は非常に親密であった 40

この絆は、政略結婚が常であった戦国時代において、個人の信頼に基づいた極めて稀有なものであった。文禄・慶長の役では常に共に戦い、子のいなかった宗茂に秀包が自らの子を養子に出す話もあったとされ、その友情の深さが窺える 40 。この宗茂との関係は、秀包の生涯における数少ない光であり、後の関ヶ原の戦いにおける悲劇的な決別を、より一層際立たせることになる。

第四章:文禄・慶長の役 ― 朝鮮の戦場にて

1. 碧蹄館の戦いと「雨夜手拍子」の武名

文禄元年(1592年)に始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、秀包の武将としての能力を遺憾なく発揮させる舞台となった 41 。彼は第六軍に属し、養父・小早川隆景の配下として1,500の兵を率いて朝鮮半島へ渡海した 6 。全羅道攻略戦における大鼓城攻めでは、一番乗りの功名を挙げるなど、早くからその勇猛さを示した 6

秀包の名を不動のものとしたのが、文禄2年(1593年)1月の碧蹄館の戦いである 2 。平壌で小西行長軍を破った明の大軍が南下してくる中、日本軍はこれを漢城(現在のソウル)近郊の碧蹄館で迎え撃った。この戦いで秀包は、養父・隆景や義兄弟・立花宗茂らと連携し、明軍の側面を突くなど重要な役割を果たし、日本軍の劇的な勝利に大きく貢献した 2 。この一連の戦いの中で、彼が愛用した鉄砲「雨夜手拍子(あまよのてびょうし)」は、その正確無比な射撃技術と共に、敵味方にその名を知らしめた 1

2. 廃嫡 ― 小早川秀秋の入嗣と秀包の立場

朝鮮での赫々たる武功とは裏腹に、秀包には理不尽な運命が待ち受けていた。文禄3年(1594年)、秀吉に実子・秀頼が誕生したことで、豊臣家内の権力構造が大きく変動する。秀吉は、かつて後継者候補としていた養子たちの処遇に苦慮し、その一人であった自身の甥・木下秀俊(後の小早川秀秋)を、毛利本家ではなく小早川家の養子とすることを画策した。毛利家の血統を守りたい隆景は、この秀吉の意向を断りきれず、苦渋の決断の末に秀秋を自らの養子として迎え入れた 46

この決定により、小早川家の後継者であった秀包は廃嫡され、別家を立てることを余儀なくされた 1 。秀包はこの理不尽な決定に対し、表立って不満を述べることなく、潔く身を引いたと伝えられている 12 。しかし、この出来事は彼のキャリアにおける最大の悲劇であり、その後の人生に大きな影を落とすことになった。

この廃嫡事件は、秀包個人の悲運に留まらず、豊臣政権下における大名の立場の脆弱性を象徴している。秀包は武将として十分な功績を挙げていたにもかかわらず、秀吉の政治的都合という、自身の能力とは全く無関係な要因によって将来を絶たれた。抵抗しても無意味であると悟った上での彼の「潔い」態度は、豊臣政権の絶対的な権力と非情さを痛感した結果であったろう。この一件は、彼の中で豊臣家への恩義よりも、自らが属する毛利一門への帰属意識を強くさせた可能性が高く、関ヶ原における彼の行動原理を理解する上で極めて重要な伏線となる。

3. 露梁海戦 ― 撤退戦で見せた武人の真価

廃嫡という失意の中にあっても、秀包は武人としての務めを果たし続けた。慶長2年(1597年)に再開された慶長の役にも参陣。養父・隆景の死という悲報に接しながらも、竹島城などで防戦に努めた 1

そして慶長3年(1598年)、秀吉の死によって日本軍の全面撤退が決定されると、秀包はその真価を再び発揮する。朝鮮半島南端で行われた露梁海戦において、彼は立花宗茂らと共に殿軍という最も危険な任務に就いた。明・朝鮮連合水軍の猛烈な追撃を受ける中、秀包は自ら愛用の鉄砲「雨夜手拍子」を手に取り、敵船に乗り移らんばかりの勢いで奮戦し、多くの敵兵を射倒したと伝えられる 1 。この絶望的な状況下で見せた彼の武勇は、日本軍の撤退を成功させる上で大きな力となり、武人・小早川秀包の最後の輝きとなった。

第五章:関ヶ原 ― 運命の岐路

1. 西軍への参加と大津城攻め ― なぜ本戦から引き離されたのか

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する 50 。毛利家が西軍の総大将・毛利輝元を擁して挙兵すると、秀包も毛利一門として迷わず西軍に馳せ参じた 2 。当初は大坂城玉造口の守備を担当していたが 1 、やがて彼は兄の末次元康、そして義兄弟の立花宗茂らと共に、新たな戦場へと向かうことを命じられる。その目標は、東軍についた京極高次がわずか3,000の兵で籠城する近江国・大津城であった 1

大津城は琵琶湖の水運を押さえる要衝であり、西軍にとって背後の脅威となるため、これを放置して関ヶ原へ進軍することはできなかった 53 。秀包らの軍勢は1万5千。兵力では圧倒的に優っていたが、城主・京極高次は粘り強く抵抗した 55 。西軍は長等山から大砲を撃ちかけるなど猛攻を加え、秀包の軍も6人の部将を失うなど大きな損害を出しながら奮戦した 1 。そして9月14日、ついに高次を降伏させ、大津城を陥落させることに成功した 1

2. 本戦不参加の悲劇 ― 歴史の「もしも」を考察する

しかし、この局地的な勝利は、西軍全体にとっては致命的な戦略的失敗であった。大津城が開城したのは、関ヶ原で本戦の火蓋が切られた9月15日の当日だったのである 14 。このため、秀包、宗茂、元康らが率いる1万5千の精鋭部隊は、天下の趨勢を決する決戦の場に駆けつけることが物理的に不可能となった 14

この事実は、歴史の「もしも」を想起させる。西軍は、小早川秀秋の裏切りという決定的な打撃によって総崩れとなった 56 。もし、秀包や宗茂といった西軍屈指の猛将たちが率いる部隊が本戦に参加していたならば、戦況は大きく変わっていた可能性がある。彼らが大谷吉継隊の側面支援や、裏切った秀秋隊への牽制に回るだけでも、西軍の崩壊は防げたかもしれない。秀包の運命は、ここでもまた、自らの武勇や忠誠心とは無関係な、より大きな戦略の歯車の中で翻弄された。大津城での奮戦は、結果的に西軍の敗北を決定づける一因となり、彼の武功は空しいものとなったのである。

3. 義兄弟との決別 ― 宗茂との逸話の真相と毛利家への忠誠

関ヶ原での敗報に接した後、大坂城へと帰還した秀包と宗茂は、毛利輝元に徹底抗戦、すなわち大坂城での籠城戦を主張した。しかし、すでに戦意を喪失していた輝元はこれを却下する 40 。この決定により、二人の進む道は分かたれた。

宗茂は、主家である大友家が改易されていたこともあり、自らの判断で国元へ帰り、九州で最後まで徳川に抗う道を選んだ。そして、義兄弟である秀包に対し、「九州へ戻り、共に再起を図り、家康と一戦を交えよう」と熱い手紙を送ったとされる 40 。しかし、秀包の返答は非情なものであった。「私は毛利本家に仕える身。本家の決定に逆らうことはできない」と、友の誘いを断ったのである 40

この決別をより劇的に伝える逸話として、宗茂が秀包の乗る船に鉄砲を撃ちかけたという話が残るが、これは後世の創作である可能性が高い 40 。しかし、この逸話が生まれるほど、二人の友情と、それを引き裂いた「家」への忠誠という武士の倫理観の対立は、人々の心に強く残った。秀包は、友との信義よりも、毛利一門としての立場と、父・元就の「三本の矢」の教えに象徴される一族への忠誠を最終的に選択したのである。

第六章:改易、そして早すぎる死 ― 最後の毛利武士として

1. 小早川姓の放棄 ― 秀秋の裏切りへの矜持

関ヶ原の戦いの後、西軍に与した秀包は、筑後久留米十三万石の所領をすべて没収され、改易の処分を受けた 15 。失意の中、彼は一つの決断を下す。それは、「小早川」の姓を捨てることであった。関ヶ原での義理の兄・小早川秀秋の裏切り行為は、武士としての誇りを重んじる秀包にとって許しがたいものであった。彼は秀秋と同じ姓を名乗ることを恥じ、己の原点である「毛利」姓に復したと伝えられている 1 。この行動は、政治的な実利よりも武士としての名誉と、毛利一門としての矜持を最優先する彼の気高き精神を物語っている。

その後、秀包は京都の大徳寺で剃髪し、「玄済道叱(げんさいどうしつ)」と号した 1 。この行為は、一部でキリスト教の「棄教」と解釈されることもあるが、その真相は異なる可能性が高い。妻マセンシアや子・元鎮はその後も熱心な信仰を続けており 32 、秀包一人が完全に信仰を捨てたとは考えにくい。むしろ、敗軍の将が剃髪して仏門に入るという形式は、勝者への恭順の意を示すと共に、俗世との縁を断つという当時の武士の作法であった 1 。これは信仰の放棄というよりは、武士としての人生に区切りをつけ、毛利家の一員として静かに生きるための政治的な表明であったと解釈するのが妥当であろう。事実、彼の死に際してはキリスト教式の埋葬を望んだとも伝えられており 59 、その内面では信仰の灯を消していなかったことが窺える。

2. 長門赤間関での最期と殉死した家臣・白井景俊

改易後、秀包は毛利輝元から長門国内に新たな所領を与えられた 1 。しかし、彼の命はもはや長くはなかった。大坂から長門へ帰国する船中で病を発し、長門国赤間関(現在の下関市)の館で療養を続けたが、翌慶長6年(1601年)3月22日、喀血し、35歳という若さで波乱の生涯を閉じた 1

その死は、彼の人間性を物語る感動的な逸話を遺している。秀包が息を引き取ると、筆頭家老であった白井景俊がその後を追って殉死したのである 1 。景俊は、秀包がまだ大田氏を継いだ少年時代からの家老であり、彼の生涯のほとんどを支え続けた腹心であった 1 。関ヶ原の折には、わずか500の兵で久留米城に籠もり、主君の家族を無事に脱出させるという大任を果たしている 1 。主君の死に際して自らの命を捧げるという殉死は、主君への絶対的な忠誠と深い敬愛の念がなければありえない。この家臣の行動は、秀包が家臣から深く慕われる、優れた人格の持ち主であったことを何よりも雄弁に物語っている。秀包の墓の傍らには、今も景俊の墓が寄り添うように建てられている 1

3. 吉敷毛利家の祖として ― その血脈と遺産

秀包の死後、その血脈が途絶えることはなかった。毛利輝元は、秀包の嫡男・元鎮を召し出し、長門国内に7,000石の所領を与えて家名の存続を許した 1 。その後、元鎮の子・元包の代に、寛永2年(1625年)、所領が周防国吉敷郡(現在の山口市吉敷)に移され、1万1,000石に加増された 16 。これが、江戸時代を通じて長州藩の「一門家老」第四席として宗家を支えた「吉敷毛利家」の始まりである 16

秀包が遺した血筋は、長州藩の重臣として幕末まで続き、明治維新後にはその功績などから男爵に列せられた 61 。戦国の世に翻弄され、若くして散った悲運の猛将の遺産は、形を変えながらも、彼が最後まで忠誠を誓った毛利家の中で生き続けたのである。

終章:小早川秀包 再評価 ― 勇、信、そして悲運

小早川秀包の生涯は、三つのキーワード、「勇」「信」「悲運」に集約される。

彼は、父・元就から受け継いだ比類なき「武勇」をもって、数多の戦場でその名を馳せた。兄・隆景が認めたその軍才は、四国、九州、そして朝鮮半島で遺憾なく発揮され、義兄弟・立花宗茂と並び称される当代屈指の猛将であった。

彼はまた、キリストへの「信仰」と、主君や友への「信義」に生きた人物でもあった。禁教令という逆風の中で信仰を守り、領民を導こうとしたキリシタン大名としての姿。政略が渦巻く戦国の世にあって、宗茂と育んだ純粋な友情。そして、理不尽な廃嫡や敗戦に直面しても、最後まで毛利一門としての矜持を失わず、主家への忠誠を貫いた生き様は、彼の高潔な精神性を示している。

しかし、彼の生涯は常に「悲運」に彩られていた。その運命は、豊臣秀吉という巨大な権力者の意向に翻弄され、自らの能力や意志とは無関係なところで決定づけられた。廃嫡、そして関ヶ原における本戦不参加という二つの大きな悲劇は、個人の力が及ばぬ、時代の大きな奔流の非情さを物語っている。

歴史の表舞台では、毛利両川の偉業や、小早川秀秋の裏切りといった、より劇的な出来事が注目されがちである。だが、「忘れられた猛将」秀包の生涯を丹念に追うことは、それらの歴史的事件の背景に、一人の人間の葛藤と苦悩、そして誇りに満ちた生き様があったことを我々に教えてくれる。彼の存在は、戦国時代を評価する上で、勝者や敗者という二元論的な視点だけでなく、その狭間で誠実に生きようとした数多の武将たちの視点がいかに重要であるかを浮き彫りにする。小早川秀包の再評価は、戦国という時代をより深く、そして人間的に理解するために不可欠な作業と言えるだろう。

引用文献

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