田中吉政筑後入封(1600)
1600年、田中吉政は関ヶ原の功で筑後柳川へ入封。秀次家老から三成捕縛で家康に評価され、筑後で大規模な治水・都市整備を行い「土木の神様」と称された。田中家は2代で改易。
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慶長五年 筑後国柳川入封 ― 田中吉政、徳川覇権の礎を築く
序章:天下分け目への道程
慶長5年(1600年)の田中吉政による筑後国柳川への入封は、一武将の栄達という個人的な事象にとどまらない。それは、豊臣政権の瓦解と徳川による新たな天下統一事業が交差する、巨大な歴史的転換点に位置づけられる。この事象の全貌を理解するためには、まず田中吉政という人物が、いかなる経歴を経てこの激動の時代に臨んだのかを深く掘り下げる必要がある。彼のキャリアは、豊臣政権の内部力学と、来るべき徳川の時代への移行期そのものを象徴している。
豊臣秀吉の死と権力構造の変質
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその生涯を閉じると、彼が築き上げた巨大な権力構造は急速にその均衡を失い始めた。後継者である秀頼はまだ幼く、政務は五大老と五奉行による合議制に委ねられた。しかし、この体制は当初から深刻な脆弱性を内包していた。五大老筆頭として関東に250万石を超える広大な領地を持つ徳川家康の力は突出しており、他の大老や、豊臣家の吏僚として政権の中枢を担う石田三成ら五奉行との間に、権力闘争が生じるのは時間の問題であった 1 。家康が秀吉の遺命を破って諸大名と私的に婚姻関係を結ぶなど、その影響力を公然と拡大し始めると、三成らとの対立は決定的なものとなり、天下は再び動乱の渦に巻き込まれていった 3 。
田中吉政の出自と豊臣政権下でのキャリア
田中吉政は天文17年(1548年)、近江国高島郡田中村に生まれたとされる 4 。彼は当初、浅井家の家臣であった宮部継潤に仕え、その才覚を現し始めた 5 。やがて羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の調略によって宮部家が織田信長方に下ると、吉政もまた秀吉の配下として歴史の表舞台に登場する 6 。
吉政のキャリアにおける最初の大きな転機は、秀吉の甥であり、後に関白となる豊臣秀次の筆頭家老への抜擢であった 4 。この人事は、単なる能力評価以上の深い背景を持っていた。秀次は幼少期、秀吉が宮部継潤の信頼を得るための人質として差し出され、その養子となっていた時期がある 6 。つまり、吉政は秀次の幼い頃から彼を知る人物であり、秀吉と秀次の間を取り持つ橋渡し役、そして秀次の行動を監督・補佐する傅役という、極めて重要かつ複雑な役割を期待されていたのである。
豊臣政権を揺るがした文禄4年(1595年)の「秀次事件」は、吉政の政治的生命にとって最大の試練であった。秀吉に謀反の疑いをかけられた秀次は切腹を命じられ、その妻子や側室、多くの家臣が連座して処刑されるという悲劇に見舞われた 6 。筆頭家老という立場にあった吉政も、当然その渦中にいた。しかし、彼はこの粛清を生き延びただけでなく、秀吉から「秀次によく諌言をした」と評価され、むしろ加増を受けている 8 。この事実は、吉政が単なる秀次の追従者ではなく、秀吉からも一定の信頼を得ていたこと、そして何よりも、政権中枢の危険な力学を乗り切る卓越したバランス感覚と政治的嗅覚を持っていたことを示している。
三河国岡崎城主としての実績
秀次事件の後、吉政は徳川家康の旧領である三河国岡崎城主に任じられ、10万石の大名となった 6 。この配置は、豊臣恩顧の吉政を家康の影響下に置き、同時にその統治能力を試すという、秀吉の深謀遠慮があった可能性が指摘される。そして吉政は、この岡崎でその非凡な行政手腕を遺憾なく発揮する。
彼はまず、岡崎城を近世城郭へと大改修し、城下の防御と都市機能を高めるために「田中堀」と呼ばれる堀を築造した 5 。さらに、たびたび洪水の原因となっていた矢作川の治水工事に大規模に着手し、強固な堤防を築いた 4 。秀吉が周辺の村々に対して、吉政の事業に協力するよう朱印状を発していることからも、この事業の重要性がうかがえる 4 。特筆すべきは、それまで岡崎の郊外を通っていた東海道を城下町の中心に引き込み、「岡崎の二十七曲がり」と呼ばれるクランク状の道を整備したことである 5 。これは、城の防衛力を高めると同時に、城下町に人流と物流を呼び込み、経済的な繁栄の基礎を築くという、高度な都市計画であった。
これらの実績は、吉政が武功だけの武将ではなく、領国経営に長けた稀代の実務家であることを証明した。そして、家康の故地を治める中で、彼が徳川家康という人物の力量と、次代の天下を担うであろうその潜在能力を肌で感じていたことは想像に難くない。豊臣家への恩義と、新たな時代の潮流を見極める現実的な判断。その狭間で、吉政は来るべき天下分け目の戦いを迎えることになるのである。
第一章:慶長五年、関ヶ原前夜の情勢
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、美濃国関ヶ原という一地点で起こった局地的な戦闘ではなかった。それは、北は出羽から南は薩摩まで、日本全土を巻き込んだ全国規模の内乱であった。特に、徳川家康が江戸から遠く、潜在的な敵対勢力が集中する九州の動向をいかに制御するかは、天下統一の帰趨を左右する重要な課題であった。田中吉政の筑後入封という結果は、この九州におけるもう一つの関ヶ原と、筑後の領主であった立花宗茂の運命が複雑に絡み合った末に生まれたものである。
表1:関ヶ原の戦い 前後における主要事象の時系列表
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年月日 (慶長5年) |
中央(関ヶ原周辺)の動向 |
九州の動向 |
田中吉政の動向 |
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7月 |
家康、会津の上杉景勝討伐のため江戸を出発。 |
7月24日:豊後の細川家臣・松井康之が、毛利・奉行衆の家康への謀反を伝達 12 。 |
岡崎城主として東軍に参加を決意。 |
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8月 |
8月1日:西軍、伏見城を攻略。鳥居元忠討死 12 。 |
8月12日:家康、加藤清正に肥後・筑後の占領許可を与える 12 。 |
8月23日:東軍の先鋒として岐阜城攻撃に参加 12 。 |
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9月上旬 |
9月7日:西軍、大津城の攻撃を開始。立花宗茂らが参加 13 。 |
9月9日:黒田如水、中津城で挙兵。豊後へ侵攻開始 12 。 |
家康本隊と共に美濃へ進軍。 |
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9月13日 |
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石垣原の戦い 。黒田如水軍が大友義統軍に勝利 12 。 |
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9月14日 |
東軍・西軍、関ヶ原に着陣。 |
加藤清正、黒田如水と連携し、西軍方の城を次々と攻略。 |
関ヶ原南方の岡山(徳川家康本陣の隣)に布陣 9 。 |
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9月15日 |
関ヶ原の戦い 。東軍勝利。西軍、大津城を攻略するも本戦に間に合わず 13 。 |
柳川の立花宗茂は不在。九州は東軍の制圧下に。 |
本戦で奮戦。石田三成隊の壊滅に貢献 15 。 |
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9月21日 |
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逃亡中の石田三成を伊吹山中で捕縛 16 。 |
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10月 |
家康、大坂城に入り戦後処理を開始。 |
10月中旬:立花宗茂、大坂から柳川へ帰還。城は黒田・加藤軍に包囲される 17 。 |
三成捕縛の功により、家康から高く評価される。 |
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11月 |
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立花宗茂、加藤清正の説得を受け柳川城を開城。改易となる 17 。 |
論功行賞により、筑後一国32万5千石を与えられ、柳川城主となることが決定。 |
もう一つの関ヶ原―九州の動乱
中央で家康と三成の対立が激化する中、九州においても水面下で激しい情報戦と勢力争いが繰り広げられていた。家康は周到であった。彼は会津へ向かう途上の8月12日、肥後熊本城主の加藤清正に対し、「肥後・筑後両国を占領次第、支配してよい」との書状を送り、九州における西軍勢力の掃討を命じている 12 。これは、家康が当初から九州平定を明確な戦略目標としていたことを示している。
この家康の意図を汲み、最も迅速に行動したのが、豊前中津城に隠居していた黒田如水(官兵衛)であった。彼は家康の許可を得ると、城内に蓄えた金銀で浪人たちを雇い入れ、9月9日、約9,000の兵を率いて挙兵。西軍方の大名が領する豊後国へと電撃的に侵攻を開始した 12 。
これに対し、西軍の総大将・毛利輝元の支援を受けた大友義統が、旧領である豊後の回復を目指して九州に上陸する。そして9月13日、両軍は石垣原(現在の大分県別府市)で激突した。兵力では黒田軍が優っていたものの、大友軍も奮戦したが、最終的には如水の巧みな戦術の前に敗れ去った(石垣原の戦い) 12 。この戦いは、九州における関ヶ原の趨勢を決定づける極めて重要な一戦であった。如水の勝利により、九州の東軍方は一気に優位に立ち、加藤清正らもこれに呼応して西軍方の諸城を次々と攻略していったのである。
英雄の不在―立花宗茂の大津城攻め
この九州の動乱の最中、筑後柳川13万2千石の領主であり、当代随一の猛将と謳われた立花宗茂は、自らの領国を留守にしていた。家康は宗茂の武勇を高く評価し、再三にわたって東軍に味方するよう誘いをかけていた。しかし宗茂は、「秀吉公の恩義を忘れることはできない」としてこれを固辞し、西軍への参加を決意する 17 。
西軍の切り札として大きな期待を寄せられた宗茂は、毛利元康らと共に大軍を率いて東上した。しかし、彼らの行く手を阻んだのが、近江大津城に籠る京極高次であった。高次は当初西軍に応じる姿勢を見せながら、土壇場で東軍に寝返り、籠城したのである 13 。東海道の要衝に位置する大津城を放置して関ヶ原へ向かうことはできず、宗茂ら1万5千の西軍部隊は、この城の攻略に足止めされることになった 13 。
戦いは9月7日に始まった。城兵は寡兵ながら、城主・高次は「蛍大名」という不名誉な渾名を返上するかのような奮戦を見せる 13 。宗茂の軍勢は、養父・道雪が考案したとされる鉄砲の「早込」戦術を駆使するなど猛攻を仕掛け、長等山から大砲を打ち込み天守を破壊するに至った 14 。しかし城は容易に落ちず、攻防は一進一退を続けた。
そして、歴史の皮肉というべき事態が起こる。宗茂らがついに大津城を陥落させ、高次を降伏させたのは、慶長5年9月15日。まさにその日、遠く離れた関ヶ原では本戦の火蓋が切られ、西軍は小早川秀秋の裏切りによって総崩れとなり、わずか半日で勝敗が決していたのである 13 。西軍最強の野戦部隊と目された立花宗茂の精鋭は、関ヶ原の戦場に立つことすらできなかった。
この「英雄の不在」が、筑後国に権力の空白を生み出した。宗茂が豊臣家への忠義を貫いた結果、自らの領国はがら空きとなり、九州の東軍勢力にとっては格好の標的となった。そして、関ヶ原で最大の功績を挙げることになる田中吉政にとって、それは千載一遇の好機となるのであった。
第二章:田中吉政の決断と関ヶ原での武功
九州で立花宗茂が前哨戦に釘付けにされている間、田中吉政は天下分け目の主戦場で、自らの運命を切り拓くための大きな賭けに出ていた。彼が関ヶ原で果たした役割、とりわけ西軍の総帥・石田三成を捕縛した功績は、戦後の論功行賞において決定的な意味を持つことになる。それは単なる武功ではなく、新時代を生き抜くための高度な政治的判断の結晶であった。
東軍参加の背景
豊臣秀吉に見出され、その甥・秀次の筆頭家老まで務めた吉政が、なぜ豊臣家を守ろうとする西軍ではなく、家康率いる東軍に参加したのか。その明確な経緯を記した一次史料は乏しく、今日でも議論が分かれている 6 。しかし、彼のこれまでの経歴から、その決断の背景を推察することは可能である。
一つには、秀次事件の経験が挙げられる。豊臣政権の中枢で繰り広げられた権力闘争の非情さと危うさを目の当たりにした吉政が、秀頼を戴く三成らの政権運営能力に見切りをつけ、より強固で安定した統治を期待できる家康に未来を託したという見方である。
もう一つは、彼が岡崎城主であったという地理的・政治的要因である 6 。家康の故地を治める中で、徳川家の家臣団や領民の気風に触れ、家康という人物の器量を深く理解するに至った可能性は高い。「絶対に敵にしてはならない相手」だと悟ったとしても不思議ではない 6 。豊臣家への恩義と、自らの家と領民を守るという領主としての現実的な責任。その両者を天秤にかけた末、吉政は家康と共に立つことを選んだのである。
本戦での奮戦
慶長5年9月15日、関ヶ原。田中吉政隊は、東軍の中でも最も重要な位置の一つである、徳川家康の本陣が置かれた桃配山のすぐ隣、岡山に布陣した 9 。これは、家康が吉政に寄せる信頼の厚さを示すものである。
合戦が始まると、吉政の部隊は東軍の主力として奮戦した。特に戦闘中盤以降、小早川秀秋の裏切りをきっかけに東軍が総攻撃に転じると、吉政隊もまた正面の石田三成隊に猛然と襲いかかった。激戦の末、彼は東軍の諸将と共に三成の本隊を壊滅させ、西軍の敗北を決定づける上で重要な役割を果たした 15 。
石田三成の捕縛―最大の功績
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わったが、家康にとっての真の勝利は、西軍の首謀者である石田三成を捕らえるまで確定しなかった。合戦後、敗走した三成の行方は杳として知れず、家康は諸将に厳命してその探索にあたらせた。この最重要任務を託されたのが、田中吉政であった 15 。
吉政は直ちに近江から美濃にかけての山中に厳しい捜索網を敷いた。そして、「三成を匿った者は、その村ごと罰する」という厳しい触れを出し、徹底した追跡を行った 16 。敗北から6日後の9月21日、ついに三成は伊吹山中の「大蛇の岩窟」と呼ばれる洞窟に潜んでいるところを発見される 15 。観念した三成は、自ら吉政にその居場所を知らせさせ、捕縛に応じたと伝えられている 16 。家康の同朋衆が記した『慶長記』には、夜中に水を汲みに来た男を番兵が捕らえたところ、それが三成であったという異説も残されているが 16 、いずれにせよ、三成を捕らえたのが吉政であったことは衆目の一致するところである。
この捕縛劇において、吉政の真価が発揮されたのはその後の処遇であった。吉政と三成は、共に近江の出身であり、秀吉の下で鎬を削った旧知の間柄であった 6 。吉政は三成を罪人としてではなく、一人の武将として丁重に遇した。彼は「戦の勝敗は天命であり、人の力の及ぶところではない」と声をかけ、粗略な扱いを一切しなかったという 1 。この吉政の態度に、三成も深く感謝し、「自分を捕らえたのが吉政でよかった」と語ったと伝えられている 9 。そして、秀吉から拝領した形見の脇差「切刃貞宗」を、感謝のしるしとして吉政に贈ったのである 1 。
石田三成の捕縛は、田中吉政にとって関ヶ原における最大の軍功であった。しかし、それ以上に重要だったのは、彼が示した「剛」と「仁」の絶妙なバランス感覚であった。家康への忠誠を最高の形で示し、最重要任務を完遂するという「剛」。そして、敗者となった旧友に対して礼を尽くし、武士としての仁義を示すという「仁」。この一連の行動は、吉政が単なる武功だけの男ではなく、物事を適切に収めることのできる器量と政治的センスを兼ね備えた大人物であることを、天下に知らしめた。この功績と器量こそが、彼を筑後三十二万石という破格の恩賞へと導く、最大の要因となったのである。
第三章:筑後三十二万石への入封―戦略的配置とその意味
関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わると、直ちに戦後処理、すなわち大規模な論功行賞と大名の配置転換が始まった。これは、軍事的な勝利を恒久的で安定した政治支配体制へと転換させるための、極めて重要な作業であった。この過程で、田中吉政が筑後一国を与えられたことは、単なる功績への報奨にとどまらず、家康による緻密に計算された九州統治戦略、いわば新たな「天下普請」の一環として、極めて重要な意味を持っていた。
論功行賞と筑後拝領の決定
石田三成捕縛という、関ヶ原の戦いにおける最大の功績は、徳川家康によって最高級の評価を受けた。その結果、田中吉政は、それまでの三河国岡崎10万石から、一挙に筑後一国32万5千石へと、三倍以上の大幅な加増転封を命じられた 5 。これは、東軍に参加した数多の大名の中でも出色の栄典であり、吉政の功績がいかに決定的なものであったかを物語っている。
この時、筑後の本来の領主であった立花宗茂は、西軍の将として敗れた責めを負い、改易されて領国を没収された 17 。大坂から柳川へ戻った彼を待っていたのは、黒田如水と加藤清正の軍勢による包囲網であった。かつての戦友であった清正の説得を受け、宗茂は柳川城を無血で開城し、ここに筑後立花家は一度、その歴史の幕を閉じる。そして、その空白となった地に、新たな国主として田中吉政が入ることになったのである。
なぜ筑後だったのか?―徳川家康の九州統治戦略
家康が吉政に与えたのが、なぜ筑後国だったのか。その答えは、関ヶ原後の九州における大名の配置図を見れば明らかである。家康の狙いは、潜在的な反徳川勢力の牙城となりうる九州を、巧みな大名配置によって完全に制御下に置くことにあった。
表2:関ヶ原の戦い後の九州における主要大名の配置変更
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国名 |
戦前の大名(石高) |
所属 |
戦後の大名(石高) |
配置の戦略的意味 |
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筑前国 |
小早川秀秋(30万石) |
東軍 |
黒田長政(52万石) |
九州の玄関口を押さえ、毛利家を牽制する要。信頼の厚い黒田家を配置。 |
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筑後国 |
立花宗茂(13万石) |
西軍 |
田中吉政(32万石) |
九州中央の要衝。島津・鍋島・加藤・黒田を監視・分断する楔。 |
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肥後国 |
加藤清正(25万石) |
東軍 |
加藤清正(52万石) |
本領安堵と大幅加増。南の島津家に対する最大の抑えとして機能させる。 |
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肥前国 |
鍋島直茂(35万石) |
西軍 |
鍋島勝茂(35万石) |
西軍参加だが、本戦不参加と東軍への内通を考慮し本領安堵。監視対象。 |
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豊前国 |
黒田長政(18万石) |
東軍 |
細川忠興(39万石) |
黒田家を筑前へ移し、信頼できる細川家を配置。九州東部の安定化。 |
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薩摩・大隅・日向 |
島津義弘(77万石) |
西軍 |
島津家久(77万石) |
西軍主力だが、戦後の巧みな交渉により本領安堵。最大の警戒対象。 |
この配置図が示すように、田中吉政が封じられた筑後国は、地政学的に極めて重要な位置にあった。北には同じく東軍の功労者である黒田長政の筑前、東には加藤清正の肥後が隣接する。そして西には、西軍に与しながらも本領を安堵された鍋島家の肥前、南には最大の警戒対象である島津家の薩摩が控えている 22 。
家康は、この九州の中心に、豊臣恩顧でありながら関ヶ原で自身への絶対的な忠誠を証明した田中吉政という、信頼性と実務能力を兼ね備えた人物を配置した。吉政の存在は、これらの強力な外様大名たちを相互に牽制し、分断するための強力な「楔」となることを期待されたのである 22 。特に、西国最強と謳われた島津家に対する抑えとして、北の加藤清正と連携する役割は重大であった。
さらに、この地が当代随一の武将とされた立花宗茂の旧領であったことも、象徴的な意味を持っていた。西軍の武の象徴ともいえる人物の故地を、東軍の功臣に与えること。それは、豊臣方の拠点を完全に徳川の支配下に組み込んだことを天下に示す、強力な政治的メッセージであった。
田中吉政の筑後入封は、単なる一武将への恩賞ではなかった。それは、徳川家康が描いた、九州という潜在的な火薬庫を制御するための緻密な安全保障政策の要であり、新たな支配体制を盤石にするための、戦略的な一手だったのである。
第四章:「土木の神様」筑後を創る―田中吉政の領国経営
田中吉政は、戦国の武将として卓越した武功を挙げただけでなく、それ以上に稀有な行政官、そして土木技術者であった。岡崎城主時代にその片鱗を見せていた彼の統治能力は、筑後一国という広大な領地を得て、まさに開花することになる。彼が筑後で展開した大規模な社会基盤整備事業は、単なるインフラ整備にとどまらず、土地のあり方を根本から作り変え、後世数百年にわたる地域の繁栄の礎を築く「国づくり」であった。その功績から、彼は後世「土木の神様」と称されることになる 5 。
柳川城と城下町の大改修
筑後の国主として柳川城に入った吉政は、直ちに城と城下町の大規模な改修に着手した。彼はまず、柳川城に五層の壮麗な天守を築き上げ、城郭全体を拡張・整備することで、32万石の国主にふさわしい近世城郭へと生まれ変わらせた 21 。
しかし、彼の真骨頂は城下町の整備にあった。柳川を含む筑後平野は、有明海に面した広大な低湿地帯であり、たびたび水害に悩まされていた 26 。吉政はこの土地の特性を逆手に取り、防御と利水、そして排水を兼ねた掘割(クリーク)を城下町に縦横無尽に張り巡らせたのである 25 。この網の目のような水路網は、城の防御力を飛躍的に高めると同時に、舟運による物資輸送路となり、さらには農業用水や生活用水を供給するライフラインともなった。現在の「水郷柳川」として知られる美しい景観の原型は、まさしくこの田中吉政の時代に創り上げられたものである 26 。
筑後川・矢部川の治水と利水網の構築
吉政の国づくりの中核をなしたのは、筑後国を貫流する二大河川、筑後川と矢部川の治水事業であった。
筑後川は、当時大きく蛇行しており、大雨のたびに洪水を起こして沿岸地域に甚大な被害をもたらしていた 28 。吉政はこの問題を根本的に解決するため、蛇行部をショートカットして川の流れを直線化するという、極めて大胆な河川改修工事を行った。現在の久留米市瀬ノ下付近を開削したこの工事は「瀬ノ下開削」と呼ばれ、強固な岩盤を掘り進む難工事であったが、これによって久留米城周辺の洪水リスクは劇的に低下した 28 。
また、柳川城下の水源確保のために、矢部川水系の整備にも取り組んだ。矢部川から沖端川、そして二ツ川へと水を導く新たな水利体系を確立し、城下の掘割に清浄な水を供給することで、良質な生活用水を確保した 29 。
さらに、有明海の高潮から広大な干拓地や農地を守るため、大川から高田に至る沿岸約32kmにわたって長大な潮止め堤防を築いた。これは「慶長本土居」と呼ばれ、地域の安全保障と農業生産の安定に計り知れない貢献をした 5 。
産業振興と交通網の整備
吉政の事業は、治水・利水にとどまらなかった。彼は、物資の流通と灌漑を目的として、八女の福島から有明海に至る約23kmの長大な人工運河「花宗川」を開削した 5 。これにより、内陸部で生産された米や特産品が船で直接港まで運べるようになり、筑後地方の経済は飛躍的に発展した。
交通網の整備にも力を注ぎ、本城である柳川と、久留米、福島など領内に配置した10の支城を結ぶ主要幹線道路を整備した 5 。この道は「久留米柳川往還」と呼ばれ、領民からは彼の名を冠して「田中道」として親しまれた 5 。これは軍事的な連絡路であると同時に、領内の一体化を促進する経済の大動脈でもあった。
加えて、新田開発を積極的に奨励し、隣国の鍋島直茂に依頼して陶工を招き、柳川焼を興すなど、地場産業の育成にも努めた 8 。
田中吉政の筑後統治は、軍事的な支配の確立という次元をはるかに超えていた。それは、自然の猛威を制御し、国土を再設計することで、土地の生産性を根本から向上させ、領民の生活を安定させるという、極めて近代的で高度な統治哲学に基づいていた。彼がわずか9年の治世で築き上げた社会基盤は、その後の柳川藩、ひいては筑後地方全体の発展の揺るぎない土台となったのである。
終章:田中家の終焉と立花家の帰還
田中吉政が築いた筑後国の盤石な統治基盤は、永続的な繁栄を約束するかに見えた。しかし、歴史の展開は皮肉に満ちている。吉政の死後、田中家による統治はわずか二代で終焉を迎え、その跡を継いだのは、かつてこの地を追われた立花宗茂であった。筑後国の支配権の変転は、個人の実力が全てを決した戦国の世から、幕藩体制という新たな秩序が支配する江戸の世への完全な移行を象徴する出来事であった。
吉政の死と二代・忠政の治世
慶長14年(1609年)2月、田中吉政は筑後国の未来を案じつつも、京都伏見の屋敷でその62年の生涯を閉じた 8 。彼の後を継いだのは、嫡男の田中忠政であった。忠政は父・吉政の路線を継承し、領国経営に努めた。
嗣子なくしての改易:田中家統治の終焉
しかし、田中家の治世は長くは続かなかった。元和6年(1620年)8月、忠政は36歳の若さで病没する 8 。彼には跡を継ぐべき男子がおらず、田中家は「無嗣断絶」を理由に、徳川幕府から改易を命じられた 21 。吉政が一代で築き上げた32万5千石の大名は、わずか20年でその歴史に幕を下ろしたのである。
公式な改易理由は無嗣断絶であるが、その背景には、確立しつつあった幕府の支配体制との軋轢があった可能性も指摘されている。忠政は、幕府が厳格な禁教令を発する中で、領内のキリスト教徒に対して比較的寛容な政策をとり続けていた。このことが幕府の不興を買い、改易の一因となったのではないか、とする見方もある 8 。いずれにせよ、家の存続が当主個人の能力だけでなく、血統の継続と幕府への恭順という新たな時代のルールによって左右されることを、この出来事は明確に示していた。
奇跡の復活:立花宗茂の柳川再封
田中家が改易となり、再び主を失った筑後柳川。この地に、誰もが予想しなかった人物が帰還することになる。かつての領主、立花宗茂である。
関ヶ原で敗れ、領国を失った宗茂は、浪々の身となっていた。しかし、その比類なき武勇と誠実な人柄は、敵であった徳川家からも高く評価されていた。特に二代将軍・徳川秀忠は宗茂を深く信頼し、慶長11年(1606年)には奥州棚倉に1万石を与えて大名として復帰させた 34 。家康は宗茂の器量を警戒していたとされるが、秀忠は彼を側近として重用し、大坂の陣では軍事顧問としてその的確な助言に耳を傾けたという 36 。
そして元和6年(1620年)、田中家の改易に伴い、秀忠は宗茂を旧領である筑後柳川10万9千石の藩主として再封することを決定する 34 。関ヶ原の戦いで西軍につき改易された大名が、旧領に復帰を果たすというのは、前代未聞のことであった。これは、宗茂個人の器量もさることながら、彼が秀忠という新たな権力者との間に築いた強い信頼関係の賜物であった。
田中吉政は、関ヶ原での武功と卓越した統治能力という「実力」によって筑後国を手に入れた。しかし、その家は世嗣という幕藩体制の要件を満たせなかったために断絶した。一方、立花宗茂は一度は実力の戦いで敗れたが、新たな体制の中で将軍個人の信頼という要素によって奇跡の復活を遂げた。
筑後柳川の地は、戦国から江戸へと時代が大きく転換する、その象徴的な舞台となった。吉政が遺した盤石な社会基盤の上に、宗茂が再びその統治を始める。この地に根付いた二人の偉大な領主の功績は、複雑に絡み合いながら、その後の柳川の歴史を形作っていくのである。
引用文献
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- 立花宗茂・誾千代 ―戦乱の世に生まれたヒーロー&ヒロイン― | 旅の特集 | 【公式】福岡県の観光/旅行情報サイト「クロスロードふくおか」 https://www.crossroadfukuoka.jp/feature/tachibanake
- 無双と呼ばれた男~立花宗茂 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/musou-muneshigetachibana/