本報告は、戦国時代から江戸時代前期にかけて、真田昌幸の長女として激動の時代を駆け抜けた女性、村松殿(むらまつどの)に関する包括的かつ詳細な調査結果を提示するものである。彼女の出自、結婚、家族、そして彼女が生きた時代背景を、現存する史料に基づいて可能な限り明らかにし、その実像に迫ることを目的とする。特に、父・昌幸、弟である真田信之(信幸)・信繁(幸村)との関係、夫・小山田茂誠との関わり、さらには後世に伝えられる逸話の信憑性についても深く掘り下げて考察する。
村松殿は、真田家という戦国時代を代表する武家の一員として、歴史の表舞台で活躍した男性たちの陰にありながら、しかし確かに重要な役割を担った女性であった。彼女の生涯を丹念に追うことは、戦国時代における女性の生き様や、武家の家族が織りなす複雑な人間関係を理解する上で、貴重な視座を提供するものと考える。
村松殿は、永禄8年(1565年)、真田昌幸の長女として誕生した 1 。一部の記録には、甲斐国・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた、現在の山梨県甲府市)で生まれたとの記述も見られる 4 。幼名は「於国(おくに)」と伝えられている 1 。
父は、戦国時代屈指の知将・謀将としてその名を馳せた真田昌幸である 1 。母は昌幸の正室である山手殿(やまてどの)で、その出自については遠山氏など諸説がある 1 。昌幸が7歳で武田氏への人質となり、武田信玄の奥近習衆(小姓)として甲府で過ごした時期がある 6 。村松殿が1565年に甲斐で生まれたとされることは、昌幸が依然として武田家中で重要な位置を占めていた時期と符合し、その子女が武田氏の本拠地で誕生したとしても不自然ではない。これは、真田氏と武田氏の初期からの密接な関係を物語る一つの状況証拠と言えよう。
村松殿には、後に信濃松代藩の初代藩主となる真田信幸(のぶゆき、後の信之) 1 、そして大坂の陣での勇猛果敢な戦いぶりで「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛された真田信繁(のぶしげ、一般には幸村の名で知られる) 1 という二人の著名な弟がいた。信幸は永禄9年(1566年)、信繁は永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)の生まれであり、村松殿は彼らの姉にあたる 4 。
この他にも、清陽院(保科正直室、後に正光室)、清寿院(真田幸政室)といった姉妹がいたことが記録されている 11 。真田昌幸には四男七女がいたとされ、村松殿はその長女であった 7 。彼女は長姉として、弟たちから深く敬愛されていたと伝えられている 1 。この兄弟姉妹間の絆、特に村松殿と信幸・信繁との情愛は、後年交わされた書簡などからも鮮明に窺い知ることができ、戦国の世における家族の温かい繋がりを示す貴重な事例として注目される。
村松殿の基本的な情報を以下に略歴表として示す。これは彼女の生涯を理解する上での参照点となる。
項目 |
詳細 |
主要史料 |
本名 |
於国 (おくに) |
1 |
呼称 |
村松殿 (むらまつどの) |
1 |
生誕 |
永禄8年(1565年) |
1 |
死没 |
寛永7年6月20日(1630年7月29日) |
1 |
享年 |
66歳(数え) |
5 |
戒名 |
宝寿院殿残窓庭夢大姉 (ほうじゅいんでんざんそうていむだいし) |
1 |
父 |
真田昌幸 (さなだ まさゆき) |
1 |
母 |
山手殿 (やまてどの) (遠山氏とも) |
1 |
主な兄弟 |
真田信之 (のぶゆき)、真田信繁 (のぶしげ) |
1 |
配偶者 |
小山田茂誠 (おやまだ しげまさ) |
1 |
主な子女 |
小山田之知 (おやまだ ゆきとも)、市橋長政室、根津信秀室 |
1 |
村松殿の夫となったのは、小山田茂誠(おやまだ しげまさ)である 1 。茂誠は甲斐国都留郡(現在の山梨県東部)を本拠とした国衆・小山田氏の一門で、小山田有誠(ありまさ)の子として、永禄4年(1561年)または永禄5年(1562年)に生まれたとされる 14 。小山田氏は武田信玄配下の有力武将・小山田信茂などが知られるが、茂誠はその一族、小山田弾正家の出自とされている 14 。彼は後に真田昌幸、そして信之に仕え、最終的には真田松代藩の次席家老という重職に就いた人物である 1 。武田氏滅亡後は、父・有誠と共に一時後北条氏に仕えたが、天正18年(1590年)の小田原合戦後に真田昌幸の家臣となった 14 。
村松殿と小山田茂誠の結婚は、天正10年(1582年)以前とされている 1 。具体的な経緯は史料からは明らかではないものの、この婚姻が、茂誠が真田家中で重臣としての地位を築いていく上で重要な契機となったことは想像に難くない 1 。
真田昌幸が娘の村松殿を、武田旧臣である小山田氏の一門・茂誠に嫁がせた背景には、戦略的な意図があったと考えられる。武田家滅亡という未曽有の混乱期において、昌幸は旧武田家臣団との連携を維持・強化し、自家の勢力基盤を固めることを目指していた。小山田氏は甲斐の有力な国衆であり、その血を引く茂誠を婿として取り込むことは、昌幸にとって旧武田勢力内での影響力を保持し、かつ有能な武将を自らの陣営に加えるという二重の利点があったと言えるだろう。
また、母である山手殿が昌幸に嫁いだのが永禄7年(1564年)頃と推定される根拠の一つとして、長男・信之(永禄9年生まれ)よりも前に長女である村松殿が生まれていることが挙げられる 10 。
村松殿という呼称は、彼女自身の名ではなく、居住した土地に由来するものである。夫の茂誠は、天正18年(1590年)に真田昌幸から信濃国小県郡村松(現在の長野県青木村)の地を領地として与えられた 1 。夫妻がこの地に居住したことから、彼女は「村松殿」と呼ばれるようになった。これは、当時の武家社会における高貴な女性の呼称慣習に沿ったものであり、実名で呼ばれることが少なかった女性たちが、居住する屋敷の地名や夫の官職名などを冠して呼ばれた一例である。
村松殿と茂誠の間には、複数の子女がいたことが確認されている。嫡男として小山田之知(おやまだ ゆきとも)がおり、彼は後に一時小野氏を名乗った時期もある 1 。また、娘が二人おり、一人は近江仁正寺藩主・市橋長政(いちはし ながまさ)に、もう一人は根津信秀(ねづ のぶひで)にそれぞれ嫁いだ 14 。
天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐によって武田氏が滅亡した際、村松殿の子である之知はまだ乳児であったと伝えられている 1 。この戦国史における一大転換期において、村松殿自身が具体的にどのような行動をとったのかを直接的に示す史料は乏しい。
しかし、江戸時代初期に成立したとされる沼田藩の覚書『加沢記(かざわき)』には、この時期の村松殿に関する興味深い記述が見られる。それによると、父・昌幸が織田信長に臣従した際、村松殿は人質として安土城へ送られたという。そして、本能寺の変が勃発すると行方不明になるが、2年後に伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で保護された、というものである 1 。
この『加沢記』の記述は、村松殿の数奇な運命を物語る劇的な内容であるが、その史料的価値については慎重な検討が必要である。歴史家の丸島和洋氏をはじめとする研究者からは、当時の国衆(国人領主)の人質の扱いは、遠隔地へ送るよりも、近隣の有力大名や現地で預かるのが一般的であったという慣習から、この伝承の信憑性には疑問が呈されている 1 。『加沢記』自体が軍記物としての性格を持ち、史実誤認や後世の脚色が含まれている可能性が指摘されているため 12 、この人質伝承も、真田家の苦難や村松殿の波乱に満ちた生涯を強調するために形成された物語である可能性を否定できない。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、真田家にとってまさに存亡を賭けた試練であった。父・昌幸と次男・信繁は西軍に、長男・信幸は東軍に与するという、一族が二つに分かれる苦渋の決断を下した(いわゆる「犬伏の別れ」) 24 。この時、村松殿の夫である小山田茂誠は、舅である昌幸に従い、東軍徳川秀忠の大軍を迎え撃った上田城での籠城戦(第二次上田合戦)に参加している 14 。
関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、西軍に与した昌幸と信繁は、信幸の必死の嘆願によって死罪こそ免れたものの、高野山への配流という厳しい処分を受けた 25 。この間、村松殿は、東軍方となった兄・信之の家中に身を置く夫と共にありながらも、遠く離れた父と弟の身の上を案じ、心を痛めていたことは想像に難くない 25 。実際に、九度山での配流生活を送る信繁や昌幸と、村松殿・茂誠夫妻との間で、書状や金品、食料などのやり取りがあったことが史料から確認されており、経済的・精神的な支援を続けていたことが窺える 25 。
その後、慶長19年(1614年)から翌年にかけて起こった大坂の陣では、弟・信繁は豊臣方の中核として参戦し、その武勇を天下に轟かせた。一方、夫の茂誠は、病床にあった兄・信之の名代として出陣した信之の子・信吉、信政兄弟の補佐役として、徳川方として従軍した 12 。これにより、村松殿は、弟と夫が敵味方に分かれて戦うという、極めて過酷な状況に置かれることとなった。
この一連の出来事を通して、村松殿は複雑な立場にありながらも、家族間の絆を繋ぎ止めるという重要な役割を担っていたと言える。政治的に敵対する状況下にあっても、父や弟への情愛を絶やさず支援を続けたことは、戦国の世における家族のあり方の一端を示している。
村松殿と弟・真田信繁(幸村)との深い絆を物語るものとして、信繁が姉夫婦に宛てた複数の書状が現存している 1 。これらの手紙は、英雄としての側面が強調されがちな信繁の、より人間的な一面や家族への情愛を伝える貴重な一次史料である。
特に、父・昌幸と共に九度山へ配流されていた時期の書状には、生活の困窮や自身の老い、病について率直に綴り、姉夫婦からの支援に対する感謝の念が記されている 27 。「兎にも角にも歳を取るというのは口惜しいことです。私なんぞは去年から急に老け込んで、ことのほか病気がちになりました。歯もぬけてしまい、髭も黒いところはあまりありません」といった記述 27 は、厳しい状況下での信繁の偽らざる心境を伝えており、姉である村松殿への深い信頼がなければ書けない内容と言えよう。
また、大坂冬の陣が終結した後の慶長20年(1615年)1月24日付で、戦いが一旦終わり自身が無事であることを村松殿に伝える手紙も残されている 1 。これらの書状は、信繁が姉夫婦を深く信頼し、精神的な拠り所としていたことを如実に示している。
村松殿は、寛永7年(1630年)6月20日に、数え年で66年の生涯を閉じた 1 。その法名は「宝寿院殿残窓庭夢大姉(ほうじゅいんでんざんそうていむだいし)」と伝えられている 1 。
彼女の墓所は、夫・小山田茂誠やその子孫、そして真田家代々の菩提寺である長野市松代の真田山長国寺にある 1 。長国寺の真田家墓所は、国の史跡にも指定されている広大なものであり 34 、村松殿が夫や実家である真田家と共にこの地に眠ることは、彼女が両家にとって重要な存在であったことを示している。
村松殿が亡くなった2年後の寛永9年(1632年)には、高野山真田坊(蓮華定院)において、兄である真田信之(当時は伊豆守)と夫の小山田茂誠(当時は壱岐守)が施主となり、彼女の法要が営まれた記録が残っている 25 。死後も兄と夫によって手厚く供養されている事実は、生前の彼女の人柄や、家族から寄せられた敬愛の深さを物語っている。
村松殿の生涯を語る上で欠かせないのが、夫である小山田茂誠の存在である。彼の経歴は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士の典型的な生き様を示すと同時に、村松殿との婚姻がその人生に大きな影響を与えたことを示唆している。
茂誠は、永禄4年(1561年)または永禄5年(1562年)に、甲斐の国衆小山田有誠の子として生まれた 14 。小山田弾正家の出自とされ 14 、当初は武田信玄・勝頼親子、そして同族の小山田信茂に仕えた。武田氏滅亡後は、父と共に後北条氏に仕官するが、天正18年(1590年)の小田原合戦を経て、真田昌幸の麾下に入った 14 。同年12月には、昌幸より信濃国小県郡村松郷(現在の長野県青木村)を与えられ、これが後に妻・村松殿の呼称の由来となる 14 。
慶長3年(1598年)3月には、昌幸から「壱岐守」の受領名を与えられ、さらに真田の姓を名乗ることも許されるなど 14 、真田一門としての厚遇を受けた。これは、昌幸の長女である村松殿を妻としていたことが大きく影響していると考えられる。
関ヶ原の戦いでは舅・昌幸に従って西軍に属し、上田城に籠城して徳川秀忠軍を翻弄した 14 。西軍敗北後は、義兄にあたる真田信之の家臣となり、その家名を保った。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、病床にあった信之の名代として出陣した信之の子・信吉、信政兄弟に従い、自身の子である之知と共に従軍した 12 。
元和8年(1622年)、信之が上田藩から松代藩へ移封されると、茂誠もこれに従って松代へ移り住み、以後、小山田家は松代藩の次席家老を代々務める家柄となった 1 。寛永14年(1637年)8月3日、76歳または77歳でその生涯を閉じた 14 。
項目 |
詳細 |
主要史料 |
生誕 |
永禄4年(1561年)または永禄5年(1562年) |
14 |
死没 |
寛永14年8月3日(1637年9月21日) |
14 |
父 |
小山田有誠 (おやまだ ありさだ) |
14 |
出自 |
甲斐国小山田氏一門(小山田弾正家) |
14 |
主君 |
武田信玄→武田勝頼・小山田信茂→北条氏政→真田昌幸→真田信之 |
14 |
正室 |
村松殿 (むらまつどの) |
1 |
役職 |
松代藩次席家老 |
1 |
別名・受領名 |
重誠、六左衛門、壱岐守、真田姓を許される |
5 |
村松殿と小山田茂誠の間には、嫡男として小山田之知が生まれた 1 。彼の生年は不詳であるが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡時には乳児であったと伝えられていることから、その頃の生まれと推測される 1 。
之知は、初め真田姓を称して真田主膳正(さなだ しゅぜんのしょう)と名乗った時期があった 15 。その後、真田姓を返上したが、小山田姓ではなく小野姓に改めた。しかし、彼の子の代には再び小山田姓に復している 15 。このような改姓は、戦国末期から江戸初期にかけての武家社会における複雑な主従関係や、家の存続を図るための戦略を反映している可能性がある。主君から姓を賜ることは名誉である一方、状況の変化に応じて元の姓に戻したり、あるいは全く新しい姓を名乗ることで家の立場を調整したりすることは珍しくなかった。之知が一時的に「小野」を名乗った具体的な理由は史料からは明らかではないが、真田本家との関係性や幕府への配慮などが背景にあった可能性も考えられる。
妻は、幕府の旗本であった滝川一積(たきがわ かずあつ)の養女を迎えている。この養女は、宇多頼次(うだ よりつぐ、尾藤知宣の長男)の娘であった 15 。
父・茂誠と共に、大坂の陣では真田信之の名代である信吉・信政兄弟に従い従軍した 14 。元和8年(1622年)に主君・信之が松代へ移封されるとこれに従い、寛永5年(1628年)10月3日には知行969石を与えられた 15 。この頃までには家督を相続していたものと見られる 15 。
寛永13年(1636年)9月6日に死去 15 。法名は「落葉一歩(らくよういっぽ)」といい、墓所は父祖と同じく長野市の長国寺にある 15 。子には小山田之成(ゆきなり)がおり 15 、その子孫は松代藩の次席家老として江戸時代を通じて真田家に仕え続けた 15 。
村松殿と小山田茂誠の間には、之知の他に少なくとも二人の娘がいたことが確認されており、彼女たちはそれぞれ有力な武家に嫁いでいる。
娘の一人は、近江仁正寺藩(にしょうじはん、現在の滋賀県蒲生郡日野町周辺)の初代藩主である市橋長政(いちはし ながまさ)の正室となった 14 。彼女の名前は史料からは明らかではない。
この娘は、仁正寺藩の第2代藩主となる市橋政信(まさのぶ、元和9年(1623年)生まれ、元禄17年(1704年)没)と、その弟である政直の母である 18 。夫である市橋長政は、林右衛門左衛門の子で、母は市橋長利の娘。織田信長に仕えた武将・市橋長勝の甥で養嗣子となり 20 、大坂の陣で武功を挙げた後、2万石の所領を与えられて仁正寺藩主となった人物である 20 。
真田家の外孫が他藩の藩主家と縁組していることは、真田松代藩の藩政初期における他家との関係構築の一端を示している。大名家間の婚姻は、同盟関係の強化や家格の維持・向上を目的として行われることが多く、村松殿の娘が市橋家に嫁いだことも、そうした政略的な側面があったと考えられる。
もう一人の娘は、根津氏の根津信秀(ねづ のぶひで、長右衛門とも)の室となった 14 。彼女の名前もまた、史料には具体的に記されていない。
根津氏は、信濃の名族滋野氏(しげのし)の流れを汲む旧家であり、戦国時代には武田氏にも仕えた。根津昌綱(まさつな)の子息(長右衛門、後の信秀か)が小山田茂誠の娘を娶り、家督を継いだとされる 21 。信秀の子孫は松代藩の家老や目付といった要職を務め、『松代藩史』には「家中で腕にもっとも覚えあり」とその武勇が記されている 21 。また、松代藩の支藩であった沼田藩においても1500石の家老を務めた子孫がいたという 21 。
村松殿の娘が信濃の旧族である根津氏に嫁いだことは、松代藩内における真田氏の支配体制を強化する上で、在地勢力との連携を深めるという重要な意味合いを持っていたと考えられる。根津氏は信濃に古くから根を張る有力な一族であり、真田氏にとっては婚姻を通じて彼らを取り込むことで、領内支配の安定化を図ることができたのである。
長野県小県郡青木村村松には、村松殿の居館跡と伝えられる場所が存在する 12 。この地は、夫である小山田茂誠が天正18年(1590年)に真田昌幸から与えられた村松郷にあたり、彼女の呼称「村松殿」の由来となった場所である 12 。
現地には、近年設置されたとみられる案内板や、「真田幸村公義兄小山田壱岐守茂誠公館跡」と記された古い標柱が立っている 12 。しかしながら、館跡とされる場所は現在私有地となっており、往時を偲ばせる明確な城郭遺構や建物の痕跡は残っていないと報告されている 12 。2016年の大河ドラマ『真田丸』の放映を契機として、地域振興の一環として案内設備が整備された可能性も指摘されており 12 、史跡としての学術的な調査や整備状況については、さらなる確認が必要であろう。
村松殿館跡の伝承地の近くには、「村松の宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれる石塔群があり、これは長野県の県宝に指定されている 12 。
これらの宝篋印塔は、現存する東塔の銘文から貞治4年(1365年、南北朝時代)の造立であることが判明しており、村松滕次郎という人物が善福寺(現在は廃寺)に土地を寄進した際の供養塔などと考えられている 16 。これは、村松殿が生きた時代(1565年~1630年)よりも約250年も古いものであり、村松殿や夫の小山田茂誠とは直接的な関係はない 16 。
歴史的建造物や史跡が地理的に近接している場合、時代や背景が異なるものであっても混同されて語られることがある。青木村の「村松殿館跡」の伝承と、それよりも古い時代の「村松の宝篋印塔」は、地名こそ同じ「村松」であるが、その歴史的背景は明確に区別して理解する必要がある。
長国寺(ちょうこくじ)は、長野県長野市松代町松代にある曹洞宗の寺院である。山号を真田山と称し、信濃松代藩真田家の菩提寺として知られている 11 。
この寺は、元和8年(1622年)に真田信之が上田藩から松代藩へ移封された際、上田にあった真田氏の菩提寺であった長国寺(元は長谷寺と称した)も共に移されたものである 34 。
村松殿の墓は、この長国寺の広大な真田家墓所内にあるとされている 1 。真田家墓所には、初代松代藩主・真田信之の霊屋(おたまや、国の重要文化財)や歴代藩主の墓碑が整然と並んでいる。加えて、真田家初代の真田幸隆(幸綱)、その子・信綱、村松殿の父・昌幸、そして弟・信繁(幸村)とその子・大助(幸昌)らの供養塔も建てられており、真田一門の歴史を今に伝えている 11 。
村松殿個人の具体的な墓碑の形状、そこに刻まれた文字、建立年代などの詳細な情報については、提示された資料からは限定的である。複数の資料で長国寺の真田家墓所に彼女の墓があると触れられてはいるものの 1 、個別の墓碑に関する詳細な記述は見当たらない。
長国寺に村松殿の墓が存在することは、彼女が真田一門の重要な一員として、また松代藩主家の縁者として正式に弔われたことを示している。夫である小山田茂誠も同寺に葬られている可能性が高く(史料に明記はないが、通常、正室と同じ寺に葬られることが多い)、小山田家も真田家の重臣として長国寺と深い関わりを持ったと考えられる。
村松殿は、真田昌幸の長女として生まれ、弟である信之・信繁兄弟から深く敬愛される存在であったことが、残された書簡などから窺える 1 。彼女の小山田茂誠との結婚は、真田家にとって武田旧臣団との繋がりを強化し、有力な武将を味方に引き入れるという戦略的な意味合いを持っていた可能性が高い。
特に、関ヶ原の戦い以降、父・昌幸と弟・信繁が九度山へ配流されるという苦境に立たされた際には、夫・茂誠と共に物質的・精神的な支援を続け、困難な状況にある家族の絆を繋ぎ止めるという極めて重要な役割を果たした 25 。信繁から送られた数々の手紙は、村松殿が弟にとって単なる姉ではなく、信頼できる相談相手であり、心の支えであったことを雄弁に物語っている 27 。
村松殿の生涯は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代において、武家の女性が果たした多様な役割を体現していると言える。彼女は、婚姻による家と家の結びつきの強化、家族内の調和の維持、そして困難な状況にある近親者への具体的な援助といった形で、歴史の表舞台にその名が大きく刻まれることはなくとも、真田家の存続と繁栄に少なからず貢献したのである。戦国時代の女性は、しばしば政略結婚の駒として扱われる側面があった一方で、家庭内では重要な意思決定に関与したり、家臣団との潤滑油となったり、さらには当主不在時には領地経営に関わることもあった。村松殿の場合、特に家族間の連絡や支援という形で、その存在の大きさが窺える。弟・信繁という著名な武将との深い絆を示す書簡が残されている点は、彼女の人物像や歴史的役割を具体的に考察する上で非常に価値が高い。
村松殿に関する直接的な一次史料は、弟・信繁からの書簡などを除けば、残念ながら限定的である。そのため、彼女の生涯の多くは、夫や父、弟たちといった周囲の男性たちの記録を通して、間接的に知られる部分が多いのが現状である。
『加沢記』などの近世軍記物に記された逸話については、その史料的性格を十分に理解し、史料批判的な検討を慎重に行う必要がある。これらの記述が全て史実を反映しているわけではないことを念頭に置かなければならない。
今後の研究においては、松代藩の藩政史料や、小山田家、市橋家、根津家といった関連諸家の家譜や古文書類をさらに詳細に調査・分析することで、村松殿自身やその子女に関する新たな情報が発見される可能性も残されている。そうした地道な研究の積み重ねによって、村松殿という一人の戦国女性の実像が、より鮮明に浮かび上がってくることが期待される。