最終更新日 2025-05-28

武田菊

武田菊

日本の戦国時代における菊姫(上杉景勝室・武田信玄息女)に関する調査報告

序論

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて生きた女性、菊姫の生涯と、その歴史的背景における役割を明らかにすることを目的とする。菊姫は、甲斐の虎と称された武田信玄の娘として生まれ、後に越後の龍、上杉謙信の後継者である上杉景勝の正室となった人物である。彼女の人生は、戦国大名家の姫として、家の存続と繁栄のための政略結婚という宿命を背負いながらも、その中で自身の立場を築き、影響力を行使した一例として捉えることができる。

菊姫に関する史料は、他の歴史上の著名な男性武将と比較すれば限定的であり、特にその内面や詳細な日常に関する記録は乏しい。しかし、断片的な記録や関連史料を丹念に検証することで、彼女が生きた時代の政治状況や社会構造の中で果たした役割、そして一人の女性としての生き様の一端を垣間見ることが可能となる。本報告書では、現存する史料に基づき、菊姫の出自、婚姻、上杉家における立場、晩年と最期、そして後世への影響について多角的に考察を進める。

第一章:菊姫の出自と生い立ち

第一節:生誕と家族構成

菊姫の生年については、複数の説が存在する。永禄元年(1558年)とする説 1 と、永禄6年(1563年)とする説 3 が主要なものである。仮に1558年生誕説を取る場合、後述する上杉景勝との婚姻(天正7年/1579年)時には21歳となる。一方、1563年生誕説では婚姻時17歳となり、当時の結婚適齢期としてはより自然であるとする見解もある 4 。この生年の違いは、彼女の人生における重要な出来事の経験年齢に影響を与え、ひいては政略結婚における彼女の役割や当時の慣習に対する理解にも関わってくる。例えば、17歳で嫁いだ場合、より若く柔軟な時期に他家へ適応する必要があったと考えられ、22歳であれば、何らかの理由で婚期が遅れた背景や、より切迫した状況下での政略結婚であった可能性も考慮される。

父親は甲斐国の戦国大名、武田信玄であり、母親は武田一族である油川氏出身の油川夫人である 1 。油川夫人は信玄の側室の中でも特に寵愛されていたと伝えられ 3 、菊姫の同母兄弟姉妹には仁科盛信、葛山信貞、松姫がいた 1 。また、異母弟には後に菊姫を頼って上杉家に仕えることになる武田信清がいる 2 。信玄の娘としては、五女とする説 1 と六女とする説 2 が存在する。

菊姫は「阿菊御料人(おきくごりょうにん)」、「甲斐御前(かいごぜん)」、「甲斐御寮人(かいごりょうにん)」といった別名でも呼ばれた 1 。院号は「大儀院(たいぎいん)」である 1 。特に「甲斐御前」や「甲斐御寮人」という呼称は、彼女の出自が甲斐武田氏であることを明確に示しており、嫁ぎ先の上杉家においてもその出自が強く意識されていたことを物語っている。これは単に出身地を示すだけでなく、当時戦国最強と謳われた武田信玄の娘としての威光を背負う存在として、ある種の特別な敬意と警戒心をもって迎えられた可能性を示唆する。この呼称は、彼女のアイデンティティの一部であり、上杉家における彼女の立場を考える上で重要な要素となる。

表1:菊姫の基本情報と異称一覧

項目

内容

出典例

生年

永禄元年(1558年)説、永禄6年(1563年)説

1

没年

慶長9年2月16日(1604年3月16日)

1

享年

47歳

1

武田信玄

2

油川夫人

2

同母兄弟姉妹

仁科盛信、葛山信貞、松姫

2

上杉景勝

2

主な別称

阿菊御料人、甲斐御前、甲斐御寮人

1

院号

大儀院

2

第二節:武田家における菊姫

武田信玄の娘として生まれた菊姫は、戦国大名の姫の常として、幼い頃から自らの意思とは別に、家のための政略の道具となる運命を背負っていたと考えられる。具体的な幼少期の記録は乏しいものの、武田家の厳格な家風や、武田信玄という稀代の戦略家である父のもとでの教育は、彼女の人格形成に少なからぬ影響を与えたであろうと推察される。

兄・武田勝頼の時代に入ると、武田家は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける織田・徳川連合軍への大敗を喫し、その勢力に陰りが見え始める 1 。この敗戦以降、勝頼は失墜した権威の回復と領国の維持のため、外交関係の再構築を迫られることとなった。この武田家を取り巻く厳しい状況が、後に菊姫が上杉景勝へ嫁ぐという、大きな外交的決断へと繋がる伏線となるのである。

第二章:上杉景勝との婚姻

第一節:政略結婚の背景 – 甲越同盟の成立

菊姫と上杉景勝の婚姻は、当時の複雑な政治情勢、とりわけ上杉家の家督相続問題と武田家の外交戦略が深く絡み合って実現した政略結婚であった。天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、後継者が明確に指名されていなかったため、謙信の養子であった上杉景勝と上杉景虎(北条氏康の実子)の間で熾烈な家督争い、いわゆる「御館の乱」が勃発した 7

当初、武田勝頼は、実家である後北条氏との「甲相同盟」に基づき、景虎を支援する立場をとっていた 7 。しかし、戦局の推移や景勝側からの働きかけを受け、勝頼は両者の調停を試みるも不調に終わり、最終的には外交方針を大きく転換する。すなわち、景勝側に与し、景勝に対して起請文を与え、見返りとして自身の妹である菊姫の景勝への輿入れと、上杉領であった東上野の割譲を条件とする誓詞を交わしたのである 8 。これにより、長年敵対関係にあった武田家と上杉家の間に「甲越同盟」が成立し、従来の武田家と後北条家の同盟関係は解消されるに至った 7 。この甲越同盟は、武田勝頼にとって、長篠の敗戦以降弱体化しつつあった武田家の勢力挽回と、強大な織田・徳川連合に対抗するための背後の安全確保という、極めて重要な戦略的意味合いを持っていた。まさに窮余の一策であった可能性が高い。

この同盟交渉においては、武田方からは一門の武田信豊や重臣の春日虎綱(高坂昌信)・信達親子、譜代家老の小山田信茂、そして勝頼側近である跡部勝資や長坂光堅などが取次として関与した 8 。一方、上杉方の取次としては、斎藤朝信、新発田長敦、竹俣慶綱といった、当時の景勝政権の中枢を担った人物たちが名を連ねている 8

第二節:婚姻の経緯と時代状況

甲越同盟の締結と菊姫の婚姻は、武田勝頼の外交戦略における大きな転換点を示すものであった。天正6年(1578年)12月には菊姫と景勝の婚約が成立し、翌天正7年(1579年)9月、菊姫は上杉景勝のもとへ輿入れした 7 。この時、菊姫の年齢は、1558年生誕説に基づけば21歳 7 、1563年生誕説に基づけば17歳であった 4 。一方、夫となる上杉景勝は弘治元年(1555年)11月27日生まれであり 10 、婚姻時は24歳であった 9

『甲陽軍鑑』によれば、この婚礼に際して、上杉方から武田方へ多額の金品が送られたと伝えられている 8 。これは単なる婚礼の慣習に留まらず、御館の乱を制したばかりで国内の安定が急務であった上杉景勝が、武田家との同盟をいかに重視し、その誠意を示そうとしたかの表れと解釈できる。武田家の軍事力を高く評価し、同盟による利益を確実なものにしたいという景勝の戦略的判断と、菊姫を正室として丁重に迎えるという意思表示がそこにはあったと考えられる。この金品の授受は、当時の両家の力関係や同盟に対する相互の期待値を測る上での一つの指標となり得る。

菊姫の婚姻は、まさしく両家の軍事同盟を強化し、相互の安全保障を図るという明確な政治的意図のもとに行われた政略結婚であった。彼女自身が、武田と上杉という、長年敵対してきた二つの大名家の友好関係を体現する「生きた証」としての役割を期待されたのである。

第三章:上杉家における菊姫

第一節:正室としての役割と評価

上杉景勝の正室として迎えられた菊姫は、寡黙であったと伝わる景勝を陰で支える賢夫人としての評価を確立していく。景勝との間に実子はいなかったものの、夫婦仲は良好であったと伝えられている 3

上杉家中では、その出自から「甲州夫人」や「甲斐御寮人」などと呼ばれ、敬愛された 3 。才色兼備で質素倹約を旨とし、奥向きの諸経費節約を奨励するなど、家政の安定にも貢献したとされ、家中からの信頼も厚かったと記録されている 7 。菊姫のこのような振る舞いは、戦国の世にあって、大名家の正室が単に血筋を繋ぐ存在であるだけでなく、家中の結束を高め、家政を安定させるという重要な役割を担っていたことを示している。

第二節:武田家滅亡という試練とその後の立場

菊姫が上杉家に嫁いでからわずか3年後の天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻により、兄・武田勝頼は天目山で自害し、名門武田家は滅亡するという悲劇に見舞われる 7 。当時、菊姫は1558年生誕説に基づけば25歳であった。実家の滅亡は、政略結婚で嫁いだ女性にとって、その立場を著しく不安定にするのが常であった。同盟の基盤が失われれば、正室としての地位を降ろされたり、離縁されたりすることも珍しくなかった時代である。

しかし、上杉景勝は、武田家が滅亡した後も変わらず菊姫を正室として丁重に扱った 7 。この景勝の対応は、単に夫婦間の情愛によるものだけでなく、より複雑な政治的計算や、菊姫自身の人間性への評価が含まれていた可能性が考えられる。武田家は滅亡したとはいえ、その遺臣や武名は依然として広範な影響力を有していた。信玄の娘である菊姫を尊重し続けることは、旧武田家臣に対して上杉家が武田家を軽んじていないというメッセージとなり、彼らを上杉家に取り込む上で有利に働いた可能性がある。実際に、菊姫の異母弟である武田信清は、武田氏滅亡時に菊姫の縁を頼って上杉家に身を寄せ、後に上杉藩主親族の高家衆筆頭として優遇されている 2 。これは、菊姫が上杉家において旧武田勢力とのパイプ役としての機能も果たし、武田家の血筋を繋ぐ上で一定の影響力を持っていたことを示している。

また、直江兼続の正室であるお船の方は、実家の後ろ盾を失った菊姫に仕え、精神的な支えとなったと伝えられている 12 。このような周囲の支えも、菊姫が困難な状況を乗り越える上で重要であったろう。

第三節:子女の有無と上杉家の後継者問題

菊姫と上杉景勝の間には、実子が生まれなかった 1 。戦国時代の大名家において、正室に嫡男が誕生することは家の安定と将来にとって極めて重要な意味を持っていたため、これは上杉家の後継者問題に少なからぬ影響を与えた。

米沢の郷土史には、後に米沢藩二代藩主となる上杉定勝(玉丸)が実は菊姫の子であり、武田信玄の外孫であるという説も存在するが、定勝が生まれたのは菊姫が逝去した慶長9年(1604年)の5月であり、菊姫の死(同年2月)よりも後であるため、時期的に見てこの説は成り立たない 2 。景勝の側室であった四辻氏が玉丸(定勝)を出産したが、産後の肥立ちが悪く同年のうちに亡くなっている 2

菊姫に実子がいなかったことは、景勝が側室によって後継者を得るという選択を促した。これは、菊姫の政治的立場や晩年の心境にも影響を及ぼした可能性が否定できない。ある記録では、景勝に世継ぎ(玉丸)が生まれたことを聞き、もともと病弱であった菊姫がさらに衰弱したと示唆する記述もあるが 12 、この記述の信憑性については慎重な検討が必要である。しかし、正室でありながら世継ぎを産めなかったという事実は、当時の女性、特に大名の正室が負わされた「世継ぎを産む」という役割の重圧を象徴しており、菊姫が何らかの精神的な苦悩を抱えていた可能性は十分に考えられる。

第四章:京都伏見での日々

第一節:上洛と伏見での生活基盤

豊臣秀吉が天下統一を進める中、天正17年(1589年)、秀吉は有力大名の妻女たちに対し、人質政策の一環として3年間京都で過ごすよう命じた。これを受け、菊姫は夫・上杉景勝と共に上洛し、伏見に設けられた上杉家の屋敷で生活を始めることとなった 7 。この上洛は、諸大名を中央政権の統制下に置こうとする秀吉の政策の現れであった。

上杉家はその後、慶長3年(1598年)に越後から陸奥国会津へ120万石で転封となり、さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの敗北によって出羽国米沢へ30万石に減封されたが、菊姫はその後も伏見の上杉邸に住み続け、米沢へ入ることはなかったとされている 7 。菊姫が伏見に留まり続けた理由としては、上杉家にとって中央政権(豊臣政権、そして後の徳川政権初期)との情報収集や外交チャネルを維持するための戦略的判断であった可能性が高い。彼女の存在は、上杉家が常に中央の政治情勢に接し、重要な情報を得る窓口としての役割を担っていたと考えられる。また、京都の文化的な環境や、あるいは健康上の理由なども影響したかもしれない。

第二節:公家社会との交流と外交的役割

伏見での生活において、菊姫は諸大名の妻女や公家衆と積極的に交流を図った。手紙のやり取りや贈り物を交わし、良好な関係を築いていたと伝えられている 7 。父・武田信玄の正室である三条の方が京都の公家出身であったこともあり、菊姫自身も公家との交流は特に盛んであったとされる 7 。この出自は、彼女に一定の知名度と格式を与え、京都の社交界における交流を円滑に進める上で有利に働いたであろう。

中でも、公家の勧修寺晴豊とは特に深い交流があり、菊姫は晴豊に上杉景勝と朝廷との仲介役を依頼したり、宮中での装束の着付け方について教えを受けたりしていた 7 。天正19年(1591年)には、勧修寺晴豊邸で催された茶会の後、上杉家の一行の中に酔い潰れる者が出るという失態があり、一時は晴豊との関係が悪化しかけた。景勝自身が何度か晴豊を茶会に招こうとしたが、体調不良を理由に断られる状況であった。しかし、その後、菊姫が晴豊の妻へ鮒50匹を贈ったことがきっかけとなり、両家の関係は円満に修復されたという逸話が残っている 7 。この出来事は、菊姫が単に夫に従うだけでなく、状況を的確に判断し、上杉家の体面や外交関係を能動的に修復・維持する役割を担っていたことを示す好例である。男性中心の公式な外交ルートとは別に、女性間のネットワークを通じた非公式な外交が有効に機能した事例として注目される。これは、戦国時代の女性、特に正室が家の外交や評判維持に積極的に貢献し得たことを示唆しており、菊姫の主体的な役割を浮き彫りにする。

また、『妙心寺史』によれば、菊姫は兄・武田勝頼を丁重に弔った京都妙心寺の僧、南化玄興に深く帰依していたとされている 2 。このような信仰心も、彼女の精神的な支えとなっていたのかもしれない。

第五章:晩年と最期

第一節:病と死、その背景

菊姫は慶長8年(1603年)の冬から病の床に就いたと記録されている 2 。病状は重く、弟である武田信清が米沢から伏見まで看病に駆けつけ、夫の上杉景勝も領内の寺社に病気平癒の祈祷を捧げさせ、名医を招いて治療にあたらせた 7 。『歴代古案』や『上杉編年文書』に残る直江兼続の書状にも、菊姫が重病であることが伝えられ、景勝が上洛したとの記述が見られる 2

しかし、これらの手厚い看護や祈願もむなしく、菊姫の病状は回復しなかった。そして慶長9年2月16日(西暦1604年3月16日)、滞在していた伏見の上杉家屋敷において、47年の生涯を閉じた 1

菊姫死去の報に接した上杉景勝や家臣たちの悲しみは深く、『上杉家御年譜』にはその哀惜の様子を「悲歎カキリナシ」と記している 2 。この記述は、政略結婚で結ばれた夫婦や主従関係であっても、長年にわたる共同生活の中で深い情愛や敬意が育まれていたことを示唆している。特に寡黙で感情を表に出さないことで知られる景勝が深い悲しみを示したことは、菊姫との間に築かれた絆の深さを物語っていると言えよう。

菊姫の法名は「大儀院殿梅岩周香大姉(たいぎいんでんばいがんしゅうこうたいし)」とされた 2 。「周」の字には「隅々まで行き渡る」、「香」には「美しい色艶」という意味があり、この法名からも、生前の菊姫が家中の隅々まで気を配る、才色兼備の賢夫人であったことが偲ばれると解説されている 7

第二節:死因に関する諸説の検討

菊姫の死因については、前述の通り慶長8年(1603年)冬からの闘病生活が記録されていることから、病死であったというのが最も有力な説である 2

一方で、一部には自殺説や憤死説も存在する。歴史作家の楠戸義昭氏が、米沢の郷土史家の説に基づいて菊姫の死因を自殺であると自身の著作などで紹介し、一部の歴史小説や解説書などもこの説を採用しているとされる 2 。しかし、この自殺説については、学術的な研究者の間での言及はほとんどなく、その根拠とされる史料についても不明な点が多いと指摘されており、史実として見なすには信憑性に乏しいというのが現状である 2

菊姫の生涯を振り返ると、名門武田家の姫として生まれながら実家の滅亡を経験し、夫との間に子をなさず、夫には側室がいてその子が後継者となるなど、波乱に満ちたものであったことは確かである。このような彼女の境遇が、後世の人々の同情を誘い、悲劇的な最期を想像させ、史料的根拠が薄いにもかかわらず自殺説のような物語性が求められる背景となった可能性も考えられる。歴史上の人物、特に史料の少ない女性の生涯は、空白部分に後世の解釈や創作が入り込む余地が大きいため、学術的な報告においては史料的根拠の有無を明確に区別する必要がある。

また、ある記録には「もともと病弱だった菊姫」という記述も見られるが 12 、これが事実であれば、長年の伏見での生活における心労や気候風土の違いなどが、彼女の健康に影響を与えた可能性も否定できない。

第六章:墓所と後世への影響

第一節:菩提寺と墓所の変遷

慶長9年(1604年)に伏見で亡くなった菊姫は、当初、京都の妙心寺山内にある亀仙庵(きせんあん、現在の隣華院)に葬られた 2 。葬儀の導師は、菊姫が生前深く帰依していた妙心寺の僧・南化玄興の法弟である海山元珠が務めたとされている 2 。これは、菊姫の信仰生活と、彼女の晩年の生活拠点が京都にあったことを反映している。

その後、菊姫の遺骨または遺髪は、上杉家の本拠地である米沢(山形県米沢市)の春日山林泉寺に改葬された、あるいは墓碑が建立されたと伝えられている 15 。記録によっては「改葬された」 15 とするものと、「墓碑が建立された」 16 とするものがあり、分骨であったのか、あるいは供養塔としての墓碑建立であったのか、その詳細は必ずしも明確ではない。しかし、現在も林泉寺には「甲州夫人菊姫の墓」として墓所が現存しており 15 、上杉家にとって重要な人物として祀られていることがわかる。林泉寺は上杉謙信や上杉景勝、直江兼続夫妻など、上杉家にとって重要な人物たちが眠る菩提寺であり、その境内に菊姫の墓があることは、彼女が上杉家の一員として認められ、敬愛されていたことを示している。また、菊姫の弟で上杉家に仕えた武田信清の墓も林泉寺の近くにある 15

菊姫の墓所が京都と米沢の双方に存在すること(あるいはその伝承があること)は、彼女の生涯が中央政界(京都・伏見)と上杉家の本拠地(越後、会津、そして米沢)の双方に深く関わっていたことを象徴していると言えよう。

第二節:歴史的評価と文化的影響

菊姫は、生前から「賢夫人」としての評価が高かった。家中の隅々まで気を配る才色兼備の女性として、夫・上杉景勝を支え、家臣たちからも敬愛されていたと伝えられている 7 。その人柄は、彼女の法名である「大儀院殿梅岩周香大姉」の文字にも偲ばれるとされる 7

歴史的には、長年敵対関係にあった武田家と上杉家の同盟の証として嫁ぎ、武田家滅亡後はその血筋を上杉家中に繋ぐという、重要な外交的役割を果たした。当時の結婚が個人の意思よりも家と家、国と国との交渉を優先するものであり、女性が実家を代表する外交官のような役割を担っていたことを考慮すれば 18 、菊姫もまたその典型的な例であったと言える。

菊姫の存在は後世の文化にも影響を与えている。最も著名な例は、歌舞伎の演目である『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』に登場するヒロイン「八重垣姫(やえがきひめ)」のモデルが菊姫であるとされていることである 2 。八重垣姫は、武田信玄の娘で、上杉謙信の息子(史実とは異なる設定)である武田勝頼(史実では菊姫の兄)と婚約しているという設定で、恋する相手のために狐火の力を使って危機を救おうとする情熱的で健気な姫として描かれている 19 。史実の菊姫が武田家から上杉家へ、同盟の証として嫁いだという事実は、物語における「敵対する家同士の姫」という設定と重なり、彼女の生涯が持つドラマチックな要素(政略結婚、実家の滅亡など)が、創作のインスピレーション源となったと考えられる。八重垣姫のキャラクターは史実の菊姫とは大きく異なる部分もあるが、菊姫の存在がこのような形で大衆芸能の題材として取り上げられたことは、彼女の歴史的影響の一側面と言えるだろう。

また、阿井景子氏の小説『お菊御料人―景勝の正室(つま)』のように、菊姫を主題とした文学作品も存在する 21 。これらの作品では、史料の少ない菊姫の人物像を、作者の解釈を交えながら魅力的に描こうと試みられている。2009年に放送されたNHK大河ドラマ『天地人』では、女優の比嘉愛未が菊姫役を演じ、思ったことをすぐ口に出す直情的な性格の女性として描かれた 23 。これもまた、史実とは異なる創作が含まれる可能性はあるものの、菊姫という人物が現代においても関心を持たれ、多様なイメージで語り継がれていることを示している。

結論

武田信玄の娘として生まれ、上杉景勝の正室として戦国乱世を生きた菊姫の生涯は、当時の大名家の女性が置かれた典型的な姿を示すと同時に、その枠組みの中で主体的に役割を果たそうとした一人の人間の軌跡を物語っている。政略結婚という形で敵対していた上杉家に嫁ぎ、実家である武田家の滅亡という悲運に見舞われながらも、嫁ぎ先の上杉家では「賢夫人」として敬愛され、夫・景勝を支え、時には外交の一翼を担うなど、その存在は決して受動的なものではなかった。

菊姫の人生は、甲越同盟の成立という戦国後期の重要な外交局面に深く関わり、武田家滅亡後の上杉家の対武田遺臣政策や、豊臣政権下における大名妻子のあり方など、戦国末期から江戸時代初期にかけての政治史・社会史を理解する上で貴重な事例を提供する。彼女に実子はいなかったものの、その存在は上杉家の安定に寄与し、また武田家の血筋を上杉家中に繋ぐという役割も果たした。

後世においては、歌舞伎の登場人物のモデルとなるなど、そのドラマチックな生涯は人々の想像力を刺激し、文化的な影響も残している。史料の制約からその全貌を明らかにすることは容易ではないが、断片的な記録を丁寧に繋ぎ合わせ、当時の時代背景や社会構造と照らし合わせることで、菊姫のような歴史の陰に埋もれがちな女性たちの姿をより鮮明に浮かび上がらせる努力は、歴史理解を深める上で今後も重要であると言えよう。

補遺

表2:菊姫関連年表

和暦(西暦)

菊姫の年齢 (1558年生誕説)

出来事

関連人物

出典例

永禄元年(1558年)

0歳

菊姫、誕生(異説あり:永禄6年/1563年)

武田信玄、油川夫人

1

天正3年(1575年)

17歳

長篠の戦い。武田勝頼、織田・徳川連合軍に大敗。

武田勝頼、織田信長、徳川家康

2

天正6年(1578年)

20歳

上杉謙信死去。御館の乱勃発。武田勝頼、当初景虎支援も後に景勝と和睦交渉。菊姫と景勝の婚約成立(12月)。

上杉謙信、上杉景勝、上杉景虎、武田勝頼

7

天正7年(1579年)

21歳

甲越同盟成立。菊姫、上杉景勝に輿入れ(9月)。

上杉景勝、武田勝頼

8

天正10年(1582年)

24歳

武田家滅亡。武田勝頼自害。

武田勝頼、織田信長

7

天正17年(1589年)

31歳

豊臣秀吉の命により、菊姫、景勝と共に上洛。伏見の上杉邸に居住開始。

豊臣秀吉、上杉景勝

7

天正19年(1591年)

33歳

勧修寺晴豊との逸話(鮒を贈る)。

勧修寺晴豊

7

文禄4年(1595年)

37歳

景勝が伏見に屋敷を賜り、菊姫も移る(異説あり)。

上杉景勝

2

慶長3年(1598年)

40歳

上杉家、会津120万石へ転封。

上杉景勝

7

慶長5年(1600年)

42歳

関ヶ原の戦い。上杉家、西軍に与し敗北。米沢30万石へ減封。

上杉景勝、徳川家康

7

慶長8年(1603年)

45歳

菊姫、冬より病床に伏す。

2

慶長9年(1604年)

46歳 (享年47)

2月16日、伏見の上杉邸にて死去。京都妙心寺亀仙庵に埋葬。

上杉景勝、武田信清

1

-

-

後に米沢林泉寺に改葬または墓碑建立。

15

引用文献

  1. 《た》会津の著名人/遇直なまでに至誠な気質 https://aizue.net/siryou/tyomeijin-ta.html
  2. 菊姫 (上杉景勝正室) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E5%A7%AB_(%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D%E6%AD%A3%E5%AE%A4)
  3. 武田家の姫について紹介しています - 戦国時代を巡る旅 http://www.sengoku.jp.net/hime/takeda/takeda-hime/
  4. 淡海乃海 水面が揺れる時 - 後継 https://ncode.syosetu.com/n9975de/109/
  5. 武田家と上杉家の直系子孫が対談「父の代で関係が復活した」 - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20160711_428666.html?DETAIL
  6. 戦国時代の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/princess-femalewarlord/
  7. 菊姫 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/47843/
  8. 甲越同盟 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E8%B6%8A%E5%90%8C%E7%9B%9F
  9. 上杉景勝の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/62397/
  10. 上杉景虎 - Mirage of Blaze + 13 STORIES https://www.aniplex.co.jp/mirage/13stories/enc/4/index.html
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  12. お船の方 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/47835/
  13. 菊姫(きくひめ):戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=148692
  14. 滅亡後の武田家はどうなったのか?江戸時代にも存続していた? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/takedake-extinction/
  15. 【甲州夫人菊姫の墓】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_06202aj2200023275/
  16. 甲州夫人菊姫の墓 クチコミ・アクセス・営業時間|米沢 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11298088
  17. 甲州夫人菊姫の墓|観光スポット(米沢市・置賜地方) - やまがたへの旅 https://yamagatakanko.com/attractions/detail_2025.html
  18. 武田信玄の三女〝真理姫〟と毛利氏 http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=3979
  19. 本朝廿四孝、2022.12。[人物相関図]それは悪おじさんたちの駆け引きだった! https://ameblo.jp/sakiju/entry-12778192798.html
  20. 本朝廿四孝〜十種香・奥庭狐火 | 歌舞伎演目案内 - Kabuki Play Guide - https://enmokudb.kabuki.ne.jp/repertoire/366/
  21. 『お菊御料人―景勝の正室(つま)』|感想・レビュー - 読書メーター https://bookmeter.com/books/477499
  22. 阿井景子の本おすすめランキング一覧|作品別の感想・レビュー - 読書メーター https://bookmeter.com/authors/116236
  23. 天地人 (NHK大河ドラマ) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E4%BA%BA_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)