最終更新日 2025-08-21

伏見城

伏見城は、豊臣秀吉が築きし夢の都にして、徳川家康が天下取りの礎とした城。関ヶ原の戦いの舞台となり、その栄光と悲劇は「血天井」に刻まれし。

天下人の城 伏見城 ― 豊臣・徳川政権の枢軸、その栄光と悲劇の全貌

序章:伏見城とは何か ― 単一ならざる「幻の城」

日本の城郭史上、伏見城ほど複雑な経緯を辿り、歴史の転換点において重要な役割を果たした城は稀である。一般に「伏見城」として語られる存在は、単一の建造物ではない。それは、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、豊臣秀吉と徳川家康という二人の天下人によって、異なる時期、異なる場所に築かれた複数の城郭の総称である 1 。具体的には、文禄元年(1592年)に秀吉が築いた最初の城「指月伏見城」、慶長元年(1596年)の大地震後に場所を移して再建された「木幡山伏見城(豊臣期)」、そして関ヶ原の戦いで焼失した後、慶長7年(1602年)に家康が再建した「木幡山伏見城(徳川期)」という、少なくとも三つの段階を経てその姿を変えている 2

この城が位置する歴史的座標は、日本の運命を決定づけた激動期のまさに中心であった。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉がその晩年を過ごし、壮麗な桃山文化を爛熟させ、そしてその生涯を閉じた終焉の地である 1 。秀吉の死後、その遺産を巡る対立が激化する中、伏見城は徳川家康が天下取りの布石を打つための最重要拠点となった。関ヶ原の戦いの序曲となった「伏見城の戦い」では、家康の忠臣・鳥居元忠が壮絶な討死を遂げ、その悲劇は徳川の世の礎の一つとなった。さらに徳川政権下では、家康、秀忠、家光の初代から三代にわたる将軍が、この城で征夷大将軍の宣下を受けるという、幕府の権威を天下に示すための荘厳な儀式の舞台ともなったのである 5

しかし、その栄光とは裏腹に、伏見城は元和9年(1623年)に廃城となり、その壮麗な建造物は解体され、全国各地へ移築された。城跡は桃林となり、「桃山」の地名の由来となるなど、その物理的存在は歴史の表舞台から姿を消した。ゆえに伏見城は、しばしば「幻の城」とも称される。本報告書は、この単一ならざる「幻の城」の実像に迫るものである。築城から廃城に至るまでの変遷、考古学的知見に基づく構造、そして豊臣政権の終焉と徳川幕府の黎明期における政治、軍事、文化、都市計画の各側面から、伏見城が日本史に刻んだ栄光と悲劇の全貌を徹底的に解明することを目的とする。

第一章:伏見城の誕生 ― 豊臣秀吉の夢の都

豊臣秀吉がその権力の絶頂期に築いた伏見城は、単なる居城や軍事拠点に留まらない。それは、秀吉個人の夢と、豊臣政権の永続化という国家的野望が融合した、新時代の首都を創造する壮大なプロジェクトであった。当初の隠居屋敷という構想から、天下の政庁へと変貌を遂げ、壮麗な桃山文化を開花させた伏見城の誕生の過程は、秀吉の統治思想の集大成を物語っている。

第一節:指月伏見城の建設 ― 隠居城から政庁へ

伏見城の歴史は、文禄元年(1592年)、秀吉が宇治川に臨む風光明媚な「指月の岡」に、自らの隠居屋敷の建設を計画したことに始まる 1 。この時期、秀吉は関白職を甥の秀次に譲り「太閤」と称していた。彼が前田玄以に宛てた手紙の中で「屋敷を利休好みに造ってほしい」と述べている点からは、かつて自らが死に追いやった茶聖・千利休の美意識を求め、茶会や宴を楽しむ私的な慰安の空間を構想していたことが窺える 8

しかし、この個人的な計画は、翌文禄2年(1593年)の嫡子・秀頼の誕生によって根底から覆される 1 。後継者の誕生という望外の喜びに、秀吉は隠居屋敷の建設を中止し、豊臣政権の未来を託す壮麗な本格的城郭へと計画を大転換させた。これは、秀吉の個人的な願望が、秀頼を頂点とする新時代の幕開けを天下に示すという、極めて政治的な国家的プロジェクトへと昇華した瞬間であった。

建設は急ピッチで進められ、淀城から天守や櫓が移築されるなど、城郭としての機能が急速に整えられていった 8 。文禄3年(1594年)には秀吉が入城し、朝鮮からの使節を迎える迎賓館としての役割も担うなど、名実ともに豊臣政権の新たな中枢となった 8 。近年の発掘調査では、この「幻の城」とされてきた指月伏見城の石垣基礎や階段が実際に確認されており、その実在が考古学的にも裏付けられている 5

第二節:慶長伏見地震と木幡山への移転 ― 天災という触媒

指月伏見城が完成に近づいていた慶長元年(1596年)7月、畿内一帯を未曾有の大地震が襲った。世に言う「慶長伏見地震」である。かつて秀吉が普請の際に「なまづ(地震)に注意せよ」と手紙に記していたことが、不幸にも現実のものとなった 8 。この天災により、壮麗を誇った指月伏見城は天守閣を含む大部分が倒壊し、城内だけでも600人近い犠牲者を出すという壊滅的な被害を受けた 4

しかし、秀吉の対応は驚異的な速さであった。被災からわずか10日後、彼は指月の岡の北東に位置する木幡山(こはたやま、現在の伏見桃山陵)での新城建設を即座に開始したのである 4 。『義演准后日記』には、「夜を日に継ぎ、松明を灯し」ての突貫工事であったと記されており、その年の10月には本丸が、翌慶長2年(1597年)5月には天守や殿舎が完成し、秀吉・秀頼父子が入城するという、驚くべき速度で再建は成し遂げられた 8

この迅速な再建を可能にした要因は二つある。一つは、倒壊した指月城の建材を再利用したこと。そしてもう一つが、前年の文禄4年(1595年)に謀反の嫌疑で切腹させられた豊臣秀次の居城・聚楽第の存在であった。秀吉は聚楽第を徹底的に破却し、その膨大な部材の多くを新・伏見城の建設に転用したのである 6 。これは単なる資材の有効活用に留まらない。聚楽第が象徴した秀次政権の記憶を物理的に消し去り、秀頼を唯一の後継者とする新たな権力構造を、この木幡山伏見城に集約させるという、秀吉の強い政治的意志が込められた行為であった。

第三節:城郭の構造と桃山文化の粋

こうして誕生した木幡山伏見城は、指月城の数倍の規模を誇り、山全体を要塞化した壮大な城郭であった 8 。城の中心である本丸は現在の明治天皇陵の場所に置かれ、その周囲に松の丸、名護屋丸といった中枢部が形成された。さらに、増田長盛の屋敷があったとされる増田丸、石田三成の治部少丸など、重臣の名を冠した曲輪が戦略的に配置されていた 8 。近年の発掘調査では、高さ3メートルから4メートルに及ぶ石垣や、最大幅が100メートルを超える巨大な空堀の跡が確認されており、文献資料が伝える城の規模の大きさを裏付けている 10

城内は、秀吉の権勢を象徴するかのように豪華絢爛を極め、まさに桃山文化の殿堂であった。屋根には金箔瓦が惜しげもなく使用され 10 、御殿を飾る障壁画は、長谷川等伯、狩野光信、狩野山楽といった当代一流の絵師たちが腕を競った 12 。彼らは制作のため、長期間にわたり伏見城下に滞在したと考えられている 12 。また、城内の山里丸には学問所や茶亭が設けられ、自然の景観を生かした風雅な空間が築かれるなど、秀吉が愛した能や茶の湯が盛んに行われた 1

この城の機能をつぶさに見ていくと、それが単なる軍事要塞ではなく、文化や経済の力、すなわち「ソフトパワー」によって天下を治め、後継者・秀頼の権威を盤石にするという、秀吉晩年の統治思想の物理的な現れであったことがわかる。伏見城は、武力で統一した天下を、文化と経済の力でまとめ上げるための、壮大な装置だったのである。

第四節:城下町の形成と政治経済の中心地へ

伏見城の築城は、城単体の建設に終わらなかった。それは、新たな首都を創造する大規模な都市開発と一体であった。秀吉は、前田利家に命じて宇治川の流路を付け替える大工事を行い、城下へと水運を引き込んだ 6 。太閤堤と呼ばれる堤防を築き、伏見港を開港することで、伏見は京都・大坂・奈良・近江を結ぶ水陸交通の要衝へと変貌を遂げた 4

これらの巨大な土木事業は、単に資材運搬や治水を目的としたものではない。川の流れを変え、港を新設する行為は、古来からの京都―大坂間の物流ルートを強制的に伏見経由に変更させることを意味した。これは、経済の動脈を自らの足元に引き寄せることで、既存の経済中心地(堺や京都)の力を相対的に弱め、伏見を新たなハブとして確立する狙いがあった。秀吉は物理的に土地を改変することで、日本の経済地理、ひいては権力構造そのものを自らに都合の良い形に再構築しようとしたのである。

さらに秀吉は、全国の有力大名に対し、伏見に屋敷を構えることを義務付けた 4 。これにより、伏見には大名とその家臣、さらに彼らを相手にする商工業者が集住し、一大政治都市が形成された。現在も伏見に残る「伊達」「筑前」「金森出雲」といった町名は、伊達政宗、小早川秀秋、金森長近といった大名たちの屋敷があった名残である 10 。この経済的活況に着目した徳川家康は、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に日本で最初の貨幣鋳造所である「銀座」をこの地に設置している 6 。伏見城の建設は、まさに政治・経済・交通のすべてを掌握する、新時代の首都を創造する壮大な国家プロジェクトであった。慶長3年(1598年)8月18日、秀吉はこの自らが築いた夢の都で、その波乱の生涯を終えた 1

第二章:関ヶ原への序曲 ― 伏見城の戦い

豊臣秀吉の死後、その巨大な権力の空白を巡り、徳川家康と石田三成の対立は決定的となる。そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いへと至る過程で、その序曲として伏見城は凄惨な戦いの舞台となった。この「伏見城の戦い」は、単なる前哨戦ではなく、家康の周到な天下取り戦略において極めて重要な意味を持つ「計算された犠牲」であった。老将・鳥居元忠の絶対的な忠義と、家康の冷徹な戦略が交錯したこの戦いは、徳川の世の到来を血で染め上げた悲劇であった。

第一節:徳川家康と鳥居元忠 ― 決死の覚悟

慶長5年(1600年)6月、家康は会津の上杉景勝討伐のため、大軍を率いて大坂を発った。彼は、自らが東国へ向かえば、石田三成ら反徳川勢力が必ずや西国で挙兵することを確信していた 18 。そして、西軍が真っ先に攻撃目標とするであろう、京都の喉元に位置する戦略拠点・伏見城の守将として、幼少期からの腹心であり、最も信頼する老臣・鳥居元忠を指名した。

家康が会津へ発つ前夜、伏見城で元忠と最後の酒宴を催した際の逸話は、二人の覚悟を雄弁に物語っている。家康が「わしは手勢不足のため、伏見に残す兵はわずか1800。そなたには苦労をかける」と詫びると、元忠は静かにこう答えたと伝えられる。「そうは思いませぬ。将来殿が天下をお取りになるには、一人でも多くの家臣が必要です。もし変事があって大軍に包囲されれば、我らは城に火をかけ討死するほかございません。兵を多くこの城に残すことは無益ゆえ、一人でも多くの兵をお連れくだされ」 18 。この言葉は、両者が伏見城に課せられた役割、すなわち「玉砕による時間稼ぎ」という過酷な運命を完全に理解し、共有していたことを示している。元忠の忠義は、主君の天下取りという大目的を成就させるための、自覚的な自己犠牲であった。家康は涙を流し、元忠の後ろ姿を見送ったという 19

第二節:攻防の十三日間

家康が出立して約1ヶ月後の7月19日、元忠の予見通り、石田三成、宇喜多秀家を総大将とし、小早川秀秋、島津義弘、毛利秀元ら西国大名を中心とする4万の大軍が伏見城に殺到した 22 。対する元忠率いる城兵は、わずか1800名 22 。その兵力差は20倍以上という、絶望的な状況であった。

西軍は降伏を勧告する使者を送るが、元忠はこれを一蹴。使者を斬り殺して遺体を送り返し、徹底抗戦の意思を明確に示した 21 。こうして、壮絶な籠城戦の火蓋が切られた。元忠の部隊は、圧倒的な兵力差にもかかわらず、13日間にわたって驚異的な粘りを見せ、西軍の猛攻を幾度となく撃退した 21 。この必死の遅滞戦こそが、家康が元忠に託した最大の任務であり、家康が江戸から引き返し、諸大名を味方に引き入れるための貴重な時間を稼ぎ出すことに繋がった。

しかし、戦いの趨勢を決定づけたのは、城の内部からの裏切りであった。城兵に加わっていた甲賀衆の一部が、かねてより縁のあった石田三成の調略に応じ、内応したのである 18 。8月1日未明、彼らは城内の一角に火を放ち、混乱に乗じて城門を開放。そこから西軍の兵が雪崩れ込み、戦況は一気に決した。

第三節:落城と「血天井」の伝説

城内に敵兵が乱入すると、凄惨な白兵戦が繰り広げられた。松平家忠、内藤家長といった将士が次々と討死していく中、元忠は本丸で最後まで奮戦を続けた。しかし、手勢がわずか十数名となったところで、もはやこれまでと覚悟を決める。そして、雑賀衆の頭領・鈴木重朝との一騎討ちの末、ついに討ち取られた 18 。享年62歳。元忠をはじめ、約800名の将兵が城と運命を共にした 23

この壮絶な戦いは、家康の天下取り戦略において、軍事的な敗北以上の価値をもたらした。西軍が伏見城を攻撃したことで、彼らは「豊臣家を守る」という大義名分を失い、家康の家臣を攻撃する「戦乱の元凶」という立場に自らを追い込んだ。元忠が稼いだ時間によって、家康は軍勢を西へ引き返す余裕を得るとともに、日和見していた諸大名に対し「三成こそが私戦を仕掛けた反逆者である」と説得する材料を手に入れた。伏見城の落城は、家康にとって関ヶ原での勝利に不可欠な「大義名分」と「時間」を確保するための、計算され尽くした政治的・戦略的勝利であった。

この戦いの凄惨さを今に伝えるのが、京都各地の寺院に残る「血天井」である。元忠らが自刃・討死した際の血で染まった伏見城の廊下の床板を、家康が彼らの忠義を後世に伝え、その霊を弔うために寺院に寄進したと伝えられている 9 。東山区の養源院、大原の宝泉院、鷹峯の源光庵などに現存する血天井には、今なお生々しい人型や足跡が残り、当時の激戦を物語っている 18

特に養源院の血天井には象徴的な逸話が残る。この寺は元々、秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政を弔うために建立したが、火災で焼失していた。淀殿の妹であり、二代将軍・徳川秀忠の正室であったお江(崇源院)が再建を願った際、幕府内には豊臣ゆかりの寺を再建することへの反対があった。そこで彼女は、反対派を説得するための切り札として、「伏見城で散った徳川の忠臣たちを弔うため、血天井を祀る」ことを条件に再建の許可を取り付けたという 31 。これは、元忠らの死が、後年においても徳川家の忠義の象徴として、極めて高い政治的価値を持ち続けたことを示している。血天井は単なる慰霊の場ではなく、徳川支配の正当性と、それに殉じた家臣の美談を後世に語り継がせるための、巧妙な記憶の装置として機能したのである。

第三章:徳川の世の伏見城 ― 再建から廃城へ

関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握した徳川家康にとって、伏見城は豊臣政権から徳川政権への円滑な権力移行を演出し、新たな時代の幕開けを告げるための重要な舞台装置であった。再建された城は、徳川幕府初期の西国支配の拠点として、また将軍の権威を象徴する場所として栄華を極めた。しかし、徳川の支配体制が盤石になるにつれてその役割を終え、意図的に歴史から消去されていく運命を辿ることになる。

第一節:徳川家康による再建と将軍宣下の舞台

関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、家康は直ちに焼失した伏見城の再建に着手した 5 。これは、秀吉が築いた政治の中心地を自らの手で復活させることで、豊臣の権威と遺産を円滑に引き継ぐという明確な政治的意図の表れであった。普請は毛利輝元や吉川広家など、西軍に与した外様大名に命じられ、彼らの忠誠心を試す意味合いも含まれていた 8 。この再建において、天守は本丸の隅から中央へと位置が変更されるなど、城は徳川仕様へと生まれ変わった 8

江戸時代が始まっても、政治の中心がすぐに江戸へ移ったわけではなかった。初期においては、家康自身が江戸よりも伏見に滞在することが多く、伏見城は依然として日本の首都機能の一部を維持していた 32 。この城は、江戸の幕府にとって西国大名を監視し、統治するための最重要拠点であった。

伏見城がその政治的頂点を迎えたのは、将軍宣下の儀式の舞台となったことである。慶長8年(1603年)、家康は伏見城において朝廷から征夷大将軍に任命された 1 。秀吉が天下人として君臨し、その生涯を閉じた豊臣政権の象徴的な場所で、徳川が正式に天下の支配者となる儀式を執り行う。これは、「豊臣の世」が終わり、「徳川の世」が始まったことを、最も劇的な形で全国の大名に示すための周到な政治的演出であった。この儀式は権力移行の正当性を可視化するための最高の舞台装置として利用され、慶長10年(1605年)の二代将軍・秀忠、そして元和9年(1623年)の三代将軍・家光も、この伏見城で将軍宣下を受けた 5 。徳川家の将軍職世襲が正統なものであることを、繰り返し天下に宣言したのである。

第二節:政治的役割の変遷と廃城の決定

しかし、徳川の支配体制が安定期に入るにつれて、伏見城の役割にも変化が生じ始める。家康が駿府城に隠居し、政治の重心が徐々に東国へ移ると、伏見城の相対的な重要性は低下していった 33 。さらに、京都における新たな幕府の拠点として二条城の整備が進み、朝廷との交渉や儀礼の場としての機能が移管されていく 6 。そして決定打となったのが、大坂の陣(1615年)後の大坂城の再建であった。豊臣家を滅ぼした後、大坂を幕府の直轄地とし、西国支配の拠点として大坂城を再建する中で、伏見城の軍事的・政治的価値は著しく低下した 34

二条城(対朝廷)と大坂城(対西国)という新たな拠点が確立した段階で、旧時代の中心地であった伏見城は、もはや「不要」であるだけでなく、豊臣の世を想起させる「過去の遺物」となった。そして元和9年(1623年)、家光が最後の将軍宣下を受けたのを区切りとして、伏見城はその歴史的役割を終えたと判断され、ついに廃城が決定された 1 。これは単なるコスト削減や機能移転ではない。日本の政治地理の中心を、秀吉が作り上げた「京・伏見」から、徳川が作り上げた「江戸」へと完全に移行させることを内外に宣言する、極めて政治的な決断であった。

第三節:廃城後の城と城下町の変容

廃城の決定後、伏見城の壮麗な建造物は徹底的に解体された。天守は淀城へ、その他の櫓や門、御殿は二条城、福山城をはじめ、全国各地の城郭や寺社へ移築、あるいは部材として下賜された 2 。これは、伏見城の物理的な解体であると同時に、豊臣時代の記憶そのものを解体し、分散させる行為でもあった。

広大であった城の跡地には、やがて桃の木が植えられ、江戸時代中期には花見の名所として庶民に親しまれるようになった 8 。このことから、この一帯は「桃山」と呼ばれるようになり、皮肉にも、城が失われた後の風景が、秀吉の時代を象徴する「桃山文化」の「桃山」の語源となったのである 2

一方、城下町もその性格を大きく変えた。政治都市としての機能を失った伏見は、かつての賑わいを失うかに見えたが、その地理的優位性を生かし、京都と大坂を結ぶ中継商業都市、そして淀川水運の拠点となる港町へと姿を変えていった 12 。慶長18年(1613年)には、豪商・角倉了以が高瀬川を開削し、京都の中心部と伏見が水路で直結されると、三十石船が行き交う物流の拠点として、新たな繁栄を築いていくことになった 12

第四章:幻の城の遺産 ― 全国に散りばる遺構と記憶

元和9年(1623年)の廃城によって物理的に消滅した伏見城は、しかし、その記憶までが完全に失われたわけではない。解体された壮麗な建造物は全国各地へ移築され、今なお桃山建築の粋を伝えている。一方、城跡そのものは時代の変遷の中で大きく姿を変え、現在は歴史的建造物ではない模擬天守がそのシンボルとなっている。伏見城は、その存在そのものよりも、失われた後の「遺産」と「記憶」によって、今なお語り継がれる「幻の城」なのである。

第一節:移築された建造物 ― 確かな伝承と伝説

伏見城の廃城に伴い、その部材は徳川幕府から諸大名や有力寺社への下賜という形で全国に散らばった 12 。これは単なる建材の再利用ではない。受領者にとって、伏見城の遺構は旧政権の中枢から下賜された「権威の象徴」であり、幕府との特別な繋がりを示す名誉の証であった。幕府側から見れば、この「権威の象徴」を自らの手で分配することで、受領者との主従関係を強化し、新たな支配体制の中に組み込むことができる。同時に、伏見城という一つの場所に集中していた豊臣の記憶を物理的に解体し、全国に分散させることで、その中心性を無化・希薄化させる効果もあった。移築は、「与える」という行為を通じて忠誠心を醸成すると同時に、「解体する」という行為を通じて前時代の記憶を統制する、高度な政治的戦略であった。

多くの移築伝承の中でも、広島県福山市の福山城に現存する伏見櫓(国指定重要文化-財)は、その信憑性が学術的に証明されている希有な例である 12 。昭和28年(1953年)に行われた解体修理の際、2階の梁から「松ノ丸ノ東やく(ぐ)ら」という墨書が発見された。これにより、この櫓が伏見城の「松の丸」にあった東櫓を移築したものであることが確定したのである 12

その他にも、確度は様々ながら、全国に数多くの遺構が伝わっている。その代表的なものを以下の表にまとめる。


表1:伝・伏見城 移築遺構一覧

分類

建造物名

所在地

文化財指定

信憑性評価

根拠・備考

福山城 伏見櫓

広島県福山市

国指定重要文化財

A(確実)

解体修理時に「松ノ丸ノ東やく(ぐ)ら」の墨書を発見 12

江戸城 伏見櫓

東京都千代田区

-

C(伝承)

三代将軍家光が伏見城の櫓を移築したとの伝承。関東大震災で倒壊後、再建 35

御香宮神社 表門

京都府京都市伏見区

国指定重要文化財

B(有力)

伏見城の大手門を移築したとの有力な伝承。豪壮な薬医門の様式が時代と合致 11

豊国神社 唐門

京都府京都市東山区

国宝

B(有力)

伏見城の遺構と伝わる。二条城、南禅寺金地院を経て移築されたとされる 12

西本願寺 唐門

京都府京都市下京区

国宝

B(有力)

豪華絢爛な彫刻が施され、「日暮門」と称される。伏見城の遺構との伝承が有力 12

園城寺(三井寺) 大門

滋賀県大津市

国指定重要文化財

B(有力)

秀吉が伏見城内に移したものを、家康が再び園城寺へ移築したと伝わる 9

福山城 筋鉄御門

広島県福山市

国指定重要文化財

B(有力)

伏見城から移築された本丸正門と伝わる。様式的に桃山時代の特徴を持つ 36

御殿・書院

南禅寺 金地院方丈

京都府京都市左京区

国宝

B(有力)

伏見城の旧殿を移築したと伝わる。狩野派の障壁画で知られる 1

醍醐寺 三宝院表書院

京都府京都市伏見区

国宝

B(有力)

伏見城の遺構との伝承があり、桃山時代の書院造りの代表例とされる。

西教寺 客殿

滋賀県大津市

国指定重要文化財

A(確実)

棟札から慶長3年(1598年)の建立と判明。部材の不自然な亀裂等から、地震で倒壊した指月伏見城の客殿を再利用したと考えられている 1

茶室

高台寺 傘亭・時雨亭

京都府京都市東山区

国指定重要文化財

B(有力)

伏見城から移築されたと伝わる千利休好みの茶室 1

松島 観瀾亭

宮城県松島町

国指定重要文化財

C(伝承)

伊達政宗が秀吉から拝領し、江戸藩邸を経て松島に移したと伝わる 35

信憑性評価:A(確実)…一次資料により証明。B(有力)…様式や信頼性の高い伝承から可能性が極めて高い。C(伝承)…伝承はあるが客観的証拠に乏しい。


第二節:伏見城跡の現在 ― 歴史の重層

一方、城そのものがあった場所は、時代の変遷と共に大きくその姿を変えた。豊臣期・徳川期の伏見城本丸があった木幡山の中心部は、明治時代に明治天皇の陵墓「伏見桃山陵」となり、宮内庁が管理する聖域となった 1 。これにより、城の中枢部の詳細な考古学的調査は困難となっている。

そして昭和39年(1964年)、城跡の一部であった花畑曲輪跡に、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が開園する 1 。その最大のシンボルとして、大天守と小天守を連結した壮麗な模擬天守が鉄筋コンクリートで建設された 2 。この天守は、洛中洛外図屏風などを参考に設計されたものの、史実の伏見城とは直接関係のない建造物であり、本来の天守台とは異なる場所に建てられている 1

遊園地は平成15年(2003年)に惜しまれつつ閉園し、模擬天守も当初は解体される予定であった。しかし、「伏見のシンボル」として親しんできた地元住民から保存を望む声が強く上がり、京都市に寄贈される形で残されることになった 2 。現在、跡地は「伏見桃山城運動公園」として市民の憩いの場となっているが、模擬天守は耐震性の問題から内部への立ち入りは禁止されている 14

この現象は、人々が求めているものが、必ずしも厳密な学術的・歴史的な「本物」ではなく、失われた壮麗な過去を想起させ、地域のアイデンティティを託すことができる「視覚的な象徴」であることを示している。この模擬天守は、本物の城郭が失われた土地において、歴史的記憶がどのように再構築され、消費されるかを示す格好の事例である。それは史実の城ではなく、「人々が思い描く伏見城」の姿なのである。

それでもなお、公園内には徳前丸や大蔵丸といった曲輪の跡や、往時の規模を物語る巨大な空堀の地形が今も残り、歴史の痕跡を体感することができる 11 。また、近年の都市開発に伴う発掘調査では、これまで幻とされてきた指月伏見城の石垣の一部が発見され、マンションの敷地内に保存公開されるなど、断片的にではあるが、歴史の真実が姿を現し続けている 11

結論:伏見城が日本史に刻んだもの

伏見城は、その築城から廃城、そして現代に至るまで、日本の歴史に深く、そして多岐にわたる影響を刻み込んできた。その歴史的意義は、以下の四つの側面に集約することができる。

第一に、 権力移行の舞台 としての役割である。伏見城は、豊臣秀吉が築いた栄華の頂点であり、桃山文化が最も華やかに開花した場所であった。しかし同時に、秀吉の死によって豊臣政権がその求心力を失い、終焉へと向かう起点ともなった。そして、その遺産を徳川家康が巧みに利用し、関ヶ原の戦いへの布石を打ち、将軍宣下によって自らの権威を確立し、新たな時代を告げた場所でもあった。伏見城は、まさに豊臣から徳川への権力移行を象徴する、歴史の転換点そのものであった。

第二に、 都市と文化の創造 という側面である。伏見城の築城は、単なる城造りに留まらなかった。それは、宇治川の流路を変え、新たな港を築き、全国の大名を集住させることで、政治・経済・交通の新たな中心地を創造する壮大な都市計画であった。そして、当代一流の芸術家たちが集った城内では、建築、障壁画、茶の湯、能楽といった桃山文化が爛熟期を迎え、その後の日本文化に大きな影響を与えた。

第三に、 忠義と戦略の交差点 としての人間ドラマの舞台であったことである。関ヶ原の前哨戦における鳥居元忠の壮絶な死は、「三河武士の鑑」と後世まで称えられる、主君への絶対的な忠義の極致であった。しかしそれは同時に、家康の冷徹な天下取り戦略の重要な一翼を担う、計算された犠牲でもあった。伏見城は、個人の情と国家の非情が交錯する、戦国乱世の人間ドラマを凝縮した場所であった。

最後に、 失われた中心の記憶 としての遺産である。廃城によって物理的には消滅しながらも、その遺構は全国に散らばり、権威の象徴として各地の歴史に新たな一頁を加えた。その記憶は、「血天井」の伝説として凄惨な戦いを語り継ぎ、「桃山」という言葉の中に華やかな文化の時代を留めている。そして現代においては、史実とは異なる模擬天守が地域のシンボルとして愛されている。伏見城は、その存在そのものよりも、失われた後の「記憶」と「伝説」によって、今なお日本史に大きな影響を与え続ける、稀有な「幻の城」なのである。

引用文献

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