上杉家軍役帳整備(1570頃)
上杉謙信は1570年頃、領国統治と対外戦略改革のため軍役帳を整備。近代的動員体制構築と家臣団統制を目的とし、謙信の軍事思想を反映した実践的なもの。
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『上杉家軍役帳』の深層分析:元亀・天正年間における越後の軍事革命と統治構造
序論:なぜ軍役帳は整備されたのか ― 時代の要請と謙信の戦略
戦国時代の越後国を統べ、「軍神」と謳われた上杉謙信。その治世における画期的な制度改革として、「上杉家軍役帳」の整備が挙げられる。一般にこの事象は、元亀元年(1570年)頃に軍役基準を明文化し、動員体制を整備した出来事として知られている。しかし、この理解は事象の一側面に過ぎない。本報告書は、この「軍役帳整備」を単なる制度改革として捉えるのではなく、元亀・天正年間(1570-1578)の激動する政治・軍事環境の中で、上杉謙信が領国統治と対外戦略を一体的に改革しようとした「軍事・経営革命」の核心的要素として位置づけ、その全貌を解明するものである。
ユーザーが認識する「1570年頃」という時期は、謙信のキャリアにおいて極めて重要な転換点であった。長年の宿敵であった相模の北条氏政と和睦(越相同盟)し、関東方面の戦線が安定したこの時期、謙信は戦略の焦点を西、すなわち織田信長が台頭する畿内や、北陸方面へと移し始めた 1 。この新たな、より大規模な遠征計画には、従来の国人衆の自発的な協力に依存する動員体制では不十分であった。したがって、1570年頃から、より近代的で確実な動員体制の構築、すなわち軍役の数値化と義務化が構想されたと考えられる。
そして、その構想が具体的に結実した到達点が、現存する最も重要な史料である『天正三年上杉家軍役帳』である 2 。この天正3年(1575年)に作成された帳面は、謙信の死のわずか3年前に、その軍事力の到達点と家臣団の序列を克明に記録した一級史料と言える。1570年頃の構想開始から1575年の完成に至るこの時間的差異は、軍役帳の整備が数年を要する国家的な大事業であったことを示唆している。本報告書では、この「整備」を1570年から1575年にかけての連続的なプロセスとして描き、その時々の情勢変化がどのように制度改革を後押ししたのかを時系列で追跡することで、軍役帳が持つ真の歴史的意義に迫る。
第一章:緊迫の情勢 ― 軍役帳整備を不可避とした内外の圧力
上杉家における軍役帳の整備は、平穏な状況下で行われた内政改革ではない。それは、四方を強敵に囲まれ、内部には常に分裂の火種を抱えるという、極度の緊張状態から生まれた必然的な帰結であった。謙信の戦略的目標の拡大と、それを支えるべき領国統治の脆弱性という二つの圧力が、彼をしてこの軍事・経営革命へと駆り立てたのである。
第一節:絶え間なき戦線 ― 「義戦」の拡大と戦略的転換
謙信の生涯は戦いの連続であったが、特に元亀年間以降、その戦いは新たな局面を迎える。それは、越後という一国の枠を超え、天下の秩序そのものに影響を及ぼす、より大規模で複雑なものへと変貌していった。
永禄12年(1569年)、謙信は長年の宿敵であった北条氏康・氏政との間に「越相同盟」を締結する 1 。これにより関東方面の脅威が大幅に軽減され、謙信は背後を気にすることなく、他の戦線へ兵力を集中させることが可能になった。これは、来るべき大規模遠征の前提条件となる戦略的安定期の到来を意味した。
翌元亀元年(1570年)、謙信は出家し、法号を「不識庵謙信」と称するようになる 4 。これは単なる改名ではなく、世俗の権力闘争から一歩引いた「天下の秩序回復者」としての立場を内外に表明する、高度な政治的パフォーマンスであった。室町将軍や関東管領の権威を守るという大義名分は、彼の軍事行動を正当化し、大規模な動員を可能にするための精神的支柱となった 6 。
この時期、中央では織田信長が急速に台頭し、日本の勢力図は一変しつつあった。信長は、将軍足利義昭を奉じてその権威を利用し、上杉・武田間の和睦を斡旋するなど、外交的影響力を強めていた 8 。謙信は、この新たな巨大勢力を強く警戒しつつも、共通の敵である武田信玄を牽制するため、信長との間に「濃越同盟」を結ぶなど、協調と緊張が入り混じった複雑な外交関係を構築した 8 。このような多角的で流動的な外交は、敵と味方の状況に応じて迅速かつ的確に軍事力を展開させる必要性を生じさせ、より精緻な動員計画を不可欠のものとした。
天正元年(1573年)の武田信玄の死は、戦国全体のパワーバランスを大きく揺るがした。この好機を捉え、謙信は攻勢に転じる。越中を平定し、さらに能登、加賀へと進出 10 。その矛先は、必然的に信長の勢力圏へと向けられた。天正5年(1577年)の手取川の戦いにおける織田軍との直接対決と勝利は、この北陸方面への大規模かつ長期的な遠征の頂点であった 11 。
このような国家規模の軍事行動は、何万もの兵を長期間、本国である越後から遠く離れた地で維持することを要求する。そのためには、どの家臣が、いつ、どれだけの兵力と兵站部隊(軍役帳における「手明」)を供給できるのかを正確に把握した「動員名簿」が不可欠となる 13 。謙信の視線が最終的に上洛、すなわち畿内の制圧による天下静謐にあったことを考えれば、軍役帳の整備は、まさにその壮大な戦略目標を実現するためのマスタープランであったと言える。それは、場当たり的な軍事動員の限界を超え、近代的で予測可能な軍事システムを構築しようとする、謙信の強い意志の表れだったのである。
第二節:一枚岩ではない領国 ― 独立領主連合の限界
謙信の強大な軍事力を支えるべき足元、すなわち越後国の統治基盤は、決して盤石なものではなかった。「越後の龍」という威名は、彼が絶対的な君主として領国を支配していたというイメージを与えるが、その実態は大きく異なる。
当時の越後は、謙信が当主を務める長尾氏が圧倒的な支配者として君臨していたわけではなく、各地に割拠する独立性の高い国人衆の連合体という側面が強かった 14 。特に、阿賀野川以北を支配する揚北衆(あがきたしゅう)などは、謙信の支配下に入った後も高い自立性を維持していた 16 。謙信の統治は、これら国人領主の自治を認めつつ、彼自身の卓越したカリスマ性と軍事力によってかろうじて束ねるという、極めて属人的なものであった 15 。家臣団は必ずしも従順ではなく、常に内乱の危険性を孕んでいたのである 14 。
その統治構造の脆弱性を象徴する事件が、永禄11年(1568年)、すなわち軍役帳整備構想が本格化する直前に発生した、本庄繁長の反乱である 14 。揚北衆の有力国人である繁長が、宿敵・武田信玄と通じて謙信に反旗を翻したこの事件は、上杉家臣団が「忠誠」という観念だけで結ばれているわけではないという厳しい現実を突きつけた。謙信はこの反乱を鎮圧することに成功したが、力による支配だけでは限界があることを痛感したに違いない。
謙信は「依怙によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方へも合力す(私利私欲で戦はしない。ただ道理が正しい者には誰にでも力を貸す)」と公言し、私欲に基づかない「義戦」を理念としていた 7 。この高潔な理念は、多くの武将を惹きつけ、彼のカリスマの源泉となった。しかし、この理念だけでは、度重なる遠征の負担に疲弊する家臣団を永続的に統率し続けることは困難である。国人衆にとって、遠征への参加は自らの領地を空け、経済的にも人的にも大きな犠牲を払うことを意味する。見返りとなる恩賞が乏しければ、その不満は容易に反乱の火種となり得た。
属人的なカリスマや「義」という理念は、謙信個人の存在に依存するため、組織としては極めて不安定である。この体制をより永続的で強固なものにするには、主君と家臣の関係を制度化し、客観的な基準で律する必要があった。ここに、軍役帳整備のもう一つの重要な目的が浮かび上がる。軍役帳は、家臣が領有する土地(知行)を主君である謙信が公式に認可(安堵)する見返りとして、具体的な数値で示された軍役を義務付けるという「契約」を可視化する装置であった。これにより、「謙信公のためならば」という曖昧で情緒的な忠誠心は、「知行高に応じて兵を出す」という明確かつ法的な義務へと転換される。これは、独立性の高い国人領主を、大名の指揮下に組み込まれた家臣団の一員へと変質させる、画期的な一歩だったのである。
第二章:戦国大名の経営術 ― 貫高制と軍役
上杉家軍役帳を理解するためには、その根底にある戦国時代特有の経済・軍事システム、「貫高制」についての知識が不可欠である。この制度は、戦国大名が領国を経営し、強大な軍事力を組織するための根幹をなすものであった。上杉家の試みもまた、この貫高制という大きな枠組みの中で、当時の先進事例であった北条氏や武田氏の制度を意識しつつ、独自の発展を遂げたものであった。
第一節:軍事力の可視化 ― 貫高制のメカニズム
貫高制とは、土地の価値を、後の江戸時代に主流となる米の収穫量(石高)ではなく、当時の基軸通貨であった銭の単位(貫文)で評価する制度である 17 。戦国大名は、検地によって家臣や寺社が領有する土地の価値を調査し、それを「貫高」として台帳に登録した。そして、この登録された貫高を基準として、家臣に軍役、すなわち合戦時に動員すべき兵士の数や武具の種類・数量を課したのである 20 。
この制度の最大の機能は、領国全体の潜在的な軍事力を「可視化」し、一元的に管理することを可能にした点にある。地形や土地の肥沃度、あるいは田畑や屋敷地といった用途の違いによって価値が異なる多様な所領を、「貫高」という統一的な基準で評価することにより、大名は各家臣に対して公平かつ合理的に軍役を賦課することができた 21 。これにより、大名は自らが動員可能な総兵力を数値として正確に把握し、大規模な軍事作戦を計画的に遂行することが可能となったのである。貫高制は、単なる税制ではなく、大名が国人領主層を自身の家臣団として再編成し、その軍事力を中央集権的に掌握するための強力な統治ツールであった 18 。
第二節:先進事例との比較 ― 北条・武田の軍役制度
上杉謙信が軍役帳の整備に着手した際、既に関東や甲信地方では、他の大名による先進的な取り組みが存在した。
その代表例が、後北条氏三代目当主・北条氏康が永禄2年(1559年)に作成させた『小田原衆所領役帳』である 23 。この役帳は、北条氏の家臣団560人余りの知行貫高と、それに応じて課される諸役(軍役や城の普請役など)を詳細に記録したもので、戦国大名の領国経営と家臣団統制を示す画期的な史料として知られている 25 。上杉家が体系的な軍役帳を整備する15年以上も前に、北条氏が極めて高度な官僚的支配システムを構築していたことは注目に値する。
また、謙信の生涯のライバルであった武田信玄も、同様に貫高制に基づいて精強な軍団を組織していた 27 。『甲陽軍鑑』などの記録によれば、信玄は譜代家臣を「寄親(よりおや)」とし、その下に国人衆や地侍を「寄子(よりこ)」として組み込む「寄親寄子制」を巧みに運用し、家臣団を効率的に統制していた 29 。信玄は家臣に与えた所領の貫高に応じて明確な軍役を課しており、その軍事力の基盤が強固な制度に裏打ちされていたことがうかがえる 27 。
これらの事例と比較すると、上杉家の軍役帳整備は、やや「後発」であったと言える。北条氏が役帳を作成した1559年、謙信はまだ越後国内の統制と関東出兵の初期段階にあり、領国全体に一律の制度を課すだけの支配力を確立するには至っていなかった。上杉家が軍役帳を整備するのが遅れたのは、第一章で述べた通り、領内の国人衆の力が強く、中央集権的な制度の導入が本質的に困難であったためである。
しかし、後発であったが故に、その内容は目前に迫った大規模遠征(対織田戦、上洛計画)を強く意識した、極めて実践的なものとなった。北条の『小田原衆所領役帳』が、軍役のみならず普請役なども含む、領国経営全般の基本台帳としての性格が強いのに対し、上杉の『天正三年上杉家軍役帳』は、来るべき決戦に向けた具体的な「動員計画書」としての性格が際立っている。特に、動員すべき兵員を「鑓」「手明」「鉄砲」「馬上」といった兵種ごとに細かく規定している点は、単なる兵力把握に留まらず、実際の部隊編成と戦術運用までを視野に入れた、より軍事的な側面に特化した帳面であったことを示している。それは、先進事例を学びつつも、自らの戦略目標に合わせて制度を最適化した、謙信の現実的な経営感覚の表れであった。
第三章:『天正三年上杉家軍役帳』の徹底解剖
現存する史料の中で、謙信時代の軍役の実態を最も具体的に伝えるのが、『天正三年上杉家軍役帳』である。この帳面は、謙信の晩年における上杉家の軍事力と権力構造を、数字という客観的な形で後世に伝える貴重な記録である。その内容を詳細に分析することで、当時の上杉家が置かれた状況と、謙信の戦略思想を浮き彫りにすることができる。
第一節:天正三年(1575年)という時点 ― 時代の分水嶺
この軍役帳が作成された天正3年(1575年)2月16日という日付は、歴史的に極めて重要な意味を持つ。このわずか3ヶ月後の5月21日、三河国長篠において、織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍勢を壊滅させる「長篠の戦い」が起こる。この戦いは、鉄砲の集団運用が伝統的な騎馬隊を圧倒しうることを天下に示し、戦国の戦術思想を大きく転換させる分水嶺となった。
謙信がこの歴史的合戦の直前に軍役帳を整備させた意図は、疑いようもなく、来るべき大決戦への備えであった。当時、前年に越中を平定した謙信は、その勢いを駆って能登・加賀方面への進出をうかがっており、武田勝頼、そしてその背後にいる織田信長との衝突は避けられない情勢にあった。特に、父・信玄を失った武田家に対して一気に攻勢をかけ、北陸から畿内へ至るルートを確保しようという壮大な構想があった可能性が高い。この大事業を遂行するにあたり、自軍の総力を正確に点検し、指揮系統を再確認し、動員体制を万全に整えておくことは、指導者として当然の責務であった。この軍役帳は、まさに謙信の次なる一手、天下への飛躍に向けた最後の準備作業の記録だったのである。
第二節:軍役帳に刻まれた家臣団の実像 ― 数字から読む上杉軍
『天正三年上杉家軍役帳』には、謙信配下の主要な武将39名の名と、彼らが動員すべき兵種ごとの兵員数が序列順に記載されている。国会図書館が所蔵する『上杉家文書』の記録 3 を基に、主要な武将の軍役を再構成すると、以下のようになる。この表は、1575年2月時点での上杉家の軍事力を示す「スナップショット」であり、その権力構造と軍団編成の特色を視覚的に理解する上で極めて有効である。
なお、史料の解釈によっては、序列や総軍役数に若干の差異が生じる場合がある。例えば、一部のウェブサイトでは、「手明」(荷駄隊などの非戦闘員)を軍役総数に含めて計算しているため、全体の数字が大きくなっている 30 。本報告書では、より基本的な構成要素である戦闘兵科(鑓、鉄砲、馬上)と、それを支える手明を分けて分析するため、『上杉家文書』の原典に近い形を基本データとして採用する。
天正三年上杉家軍役帳(主要武将抜粋・再構成版)
記載順 |
武将名(史料記載名) |
分類 |
総軍役数 (人) |
鑓 (本) |
手明 (人) |
鉄砲 (挺) |
大小旗 (本) |
馬上 (騎) |
1 |
上杉景勝(御中城様) |
一門衆 |
375 |
250 |
40 |
20 |
25 |
40 |
2 |
山浦国清(山浦殿) |
外様(信濃衆) |
250 |
170 |
20 |
25 |
15 |
20 |
3 |
上杉景信(十郎殿) |
一門衆 |
81 |
54 |
10 |
4 |
5 |
8 |
4 |
上条政繁(上条殿) |
一門衆 |
96 |
63 |
15 |
2 |
6 |
10 |
5 |
琵琶島政勝(弥七郎殿) |
一門衆 |
156 |
106 |
15 |
10 |
10 |
15 |
6 |
山本寺定長(山本寺殿) |
一門衆 |
71 |
50 |
10 |
2 |
3 |
6 |
7 |
中条景泰(中条与次) |
揚北衆 |
140 |
80 |
20 |
10 |
15 |
15 |
8 |
黒川清実(黒川四郎次郎) |
揚北衆 |
148 |
98 |
15 |
10 |
10 |
15 |
9 |
色部顕長(色部弥三郎) |
揚北衆 |
227 |
160 |
20 |
12 |
15 |
20 |
12 |
新発田長敦(新発田尾張守) |
揚北衆 |
194 |
135 |
20 |
10 |
12 |
17 |
14 |
加地春綱(加地彦次郎) |
揚北衆 |
158 |
108 |
15 |
10 |
10 |
15 |
21 |
斎藤朝信(斎藤下野守) |
譜代重臣 |
213 |
153 |
20 |
10 |
12 |
18 |
23 |
柿崎晴家(柿崎左衛門大輔) |
国人衆(頸城) |
260 |
180 |
30 |
15 |
15 |
20 |
32 |
山吉豊守(山吉孫二郎) |
譜代重臣 |
377 |
235 |
40 |
20 |
30 |
52 |
33 |
直江景綱(直江大和守) |
譜代重臣 |
305 |
200 |
30 |
20 |
20 |
35 |
出典:国会図書館デジタルコレクション 大日本古文書 家わけ『上杉家文書之二‐639・640』 3 および関連史料 2 を基に作成。総軍役数は各項目の合計。武将の分類は諸説を参考に付記。
第三節:数字が語る権力構造と軍事思想
この軍役帳の数字は、単なる兵力リストではない。それは、謙信政権の権力構造と、上杉軍の戦術思想を雄弁に物語る生きたデータである。
権力構造の分析:
軍役数の序列は、当時の上杉家における武将の政治的影響力を明確に示している。
総軍役数でトップに立つのは、譜代重臣の山吉豊守(377人)であり、次いで謙信の養子である上杉景勝(375人)、そして政務の中心を担った直江景綱(305人)と続く 3。この三者が謙信政権の中枢を形成していたことが、数字の上からも裏付けられる。
一方で、柿崎晴家(260人)や色部顕長(227人)といった各地の有力国人衆も依然として大きな軍事力を保持しており、彼らが上杉軍の重要な構成要素であったこともわかる。謙信の支配が、譜代層による中央集権化と、有力国人との協調という二つの側面のバランスの上に成り立っていたことが見て取れる。
また、信濃から亡命してきた村上義清の子である山浦国清が、250人という譜代重臣に匹敵する軍役を課されている点は特に興味深い 2。これは、謙信が家柄や出自にこだわらず、実力のある者を積極的に重用していたことの証左であり、彼の現実的な人材登用術を物語っている。
軍事思想の分析:
軍役の内訳、特に兵種の構成比率は、上杉軍の戦術思想を解き明かす鍵となる。
注目すべきは、鉄砲の比率である。例えば、譜代の重臣である斎藤朝信の部隊では、総軍役数213人に対して鉄砲は10挺、有力国人の柿崎晴家に至っては260人に対して15挺であり、いずれも総兵力の5%から7%程度に過ぎない 3。これは、長篠の戦いで数千挺の鉄砲を集中運用したとされる同時代の織田信長軍と比較すると、明らかに低い数値である。
この事実は、単に上杉家が新兵器の導入に遅れていたと結論づけるべきではない。むしろ、謙信の戦術思想の反映と見るべきである。謙信は、自らが先頭に立って敵陣に突撃する「懸りかかり」戦法を得意とし、その武威とカリスマで軍を率いたとされる 7。彼の戦術の核は、統率の取れた長槍(鑓)部隊による堅固な陣形と、精鋭の騎馬武者による圧倒的な突破力にあったと考えられる。軍役帳が、動員兵力の大部分を「鑓」とし、「馬上」の比率を重視した構成になっているのは、この謙信独自の戦術思想を組織的に実現するための設計図であった。
つまり、上杉軍は、織田軍のように兵器の技術革新によって勝利を目指すのではなく、既存の戦術を極限まで練磨し、組織の練度と兵士の士気の高さによって敵を圧倒する「伝統的戦術の極致」を目指した軍隊であった。軍役帳は、そのための組織編成と動員計画を明文化した、謙信流軍学の集大成だったのである。
第四章:軍役帳が遺したもの ― 謙信の死から御館の乱へ
軍役帳の整備という一大改革は、上杉家の軍事力を飛躍的に向上させ、謙信晩年の輝かしい戦歴を支えた。しかし、その制度が内包していた矛盾は、絶対的な指導者であった謙信の死と共に噴出し、上杉家を悲劇的な内乱へと導くことになる。軍役帳は、上杉家の栄光と悲劇、その両方の序章を記した文書でもあった。
第一節:制度改革の成果と限界
軍役帳による近代的動員体制の整備は、早速その成果を発揮する。天正5年(1577年)、能登へ侵攻した謙信は、これを救援するために派遣された柴田勝家率いる織田の大軍と手取川で激突した。この戦いで上杉軍は織田軍に圧勝するが 11 、数万の軍勢を迅速に、かつ秩序を保ったまま越後から北陸の最前線まで展開できた背景には、軍役帳によって確立された制度的基盤があったことは間違いない。どの将がどれだけの兵を率いてくるかが事前に確定しているため、計画的で効率的な軍団編成と兵站維持が可能となったのである。
しかし、この制度には限界もあった。軍役の義務化は、これまで半独立的な領主であった国人衆の自立性を削ぎ、彼らを大名の指揮下に完全に組み込むことを意味した。これは、彼らにとって受け入れがたい側面も持っていた。制度は完成したが、家臣団全員の完全な心服までは得られていなかったのである。このシステムは、あくまで謙信という絶対的なカリスマの存在を前提として初めて機能する、脆さを内包したものであった。
第二節:「御館の乱」への序章 ― 軍役帳は勢力図を予見したか
天正6年(1578年)3月、関東出陣を目前にした謙信は、春日山城で急死する 12 。明確な後継者を指名していなかったため、二人の養子、すなわち甥の上杉景勝と、北条家から人質として迎えられた上杉景虎の間で、家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」が勃発した 2 。
この時、軍役帳に名を連ねた武将たちは、それぞれが自らの利害と判断に基づき、景勝方と景虎方に分かれて争った。その分裂の構図は、軍役帳整備という改革に対する各層のスタンスを色濃く反映している。
景勝方 には、直江信綱(景綱の婿)、斎藤朝信、河田長親といった、謙信政権下で行政実務を担い、中央集権化を推進してきた譜代の側近層が中核として集った 2 。彼らにとって、謙信の路線を継承する景勝が家督を継ぐことは、自らの既得権益を守る上で不可欠であった。
一方、 景虎方 には、上杉景信や山本寺定長といった一門衆の一部、そして北条高広をはじめとする多くの国人衆が味方した 2 。彼らの中には、景虎の実家である北条家の強大な支援を期待する者もいただろうが、それ以上に、景勝と彼を支える側近層によるこれ以上の集権化を恐れ、国人領主としての自立性を維持しようと考えた者が多かったと推測される。
この対立構造を鑑みる時、軍役帳の整備が、単なる軍制改革に留まらない意味を持っていたことが明らかになる。それは、謙信への忠誠と、彼が進める中央集権的な体制への服従を家臣に迫る「忠誠の踏み絵」であった。この改革に積極的に協力し、新たな統治システムの中で地位を確立した譜代層は、その体制を守るために景勝を支持した。逆に、この改革によって伝統的な権利や自立性を脅かされたと感じた国人衆は、現状の変更を望んで景虎に与した。
つまり、軍役帳という制度改革そのものが、家臣団の中に潜在的な亀裂を生み出し、それを可視化させたと言える。御館の乱における両陣営の顔ぶれは、いわば軍役帳という「踏み絵」に対する「答え合わせ」であった。謙信が目指した強固な軍事国家の建設は、皮肉にも、彼の死後、その国家を二分する悲劇的な内乱の対立構造を準備する結果となったのである。
結論:上杉家軍役帳の歴史的価値
「上杉家軍役帳整備」という事象は、単に1570年頃に軍役の基準が明文化されたという事実だけでは語り尽くせない、深い歴史的意義を持つ。それは、戦国時代という激動の時代にあって、上杉謙信という稀代の武将が、自らの理想と現実の狭間で、いかにして国家を経営し、軍隊を組織しようとしたかの苦闘の記録である。本報告書での分析を通じて、その歴史的価値は以下の三点に集約される。
第一に、 統治システムとしての価値 である。軍役帳は、謙信が越後という独立領主の連合体を、大名の強力な指揮下に置かれた近代的家臣団へと変革しようとした、統治の高度化を示す一級史料である。属人的なカリスマによる支配から、貫高という客観的な基準に基づく制度的・官僚的な支配へと移行しようとするその試みは、戦国大名が封建領主から中央集権的な支配者へと脱皮していく過程を象徴している。
第二に、 軍事戦略文書としての価値 である。この帳面は単なる家臣の名簿ではない。それは、謙信の最終目標であったであろう上洛と天下静謐の実現に向けた、極めて具体的かつ合理的な軍事動員計画書であった。兵種ごとの詳細な規定は、謙信の卓越した戦術思想を組織的に実現するための設計図であり、彼の理想とした「義の戦」を、現実の組織力として支えるための革新的な試みであった。
第三に、 歴史の転換点を示す記録としての価値 である。軍役帳が目指した中央集権化は、手取川の戦いでの輝かしい勝利をもたらした一方で、家臣団の内部に深刻な亀裂を生じさせた。その矛盾は、絶対的指導者・謙信の死によって一気に露呈し、上杉家を二分する悲劇的な内乱「御館の乱」へと繋がっていく。軍役帳は、上杉家の栄光とその後の悲劇、その両方を内包した、戦国時代のダイナミズムを象徴する歴史的文書として、再評価されるべきである。それは、一人の天才が築き上げようとした理想国家の青写真であり、同時に、その理想が孕んでいた構造的限界を示す、痛切な記録でもあるのだ。
引用文献
- 【これを読めばだいたい分かる】上杉謙信の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nf245ce588cdb
- 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 天正三年 上杉家軍役帳 - 日本史研究のための史料と資料の部屋 https://shiryobeya.com/sengoku/uesugiguneki_t3.html
- 上杉謙信の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33844/
- 上杉謙信(ウエスギケンシン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1-33780
- 武田信玄 https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/jinmei/singen.htm
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