留守顕宗
留守顕宗は伊達氏の血を引く陸奥の名門・留守氏17代当主。伊達氏の介入で家中の独立性を失い、伊達政景を養子に迎えて隠居。家名存続のため苦渋の決断をした。

名門の落日―留守顕宗、伊達の奔流に揺れた生涯
序章:奥州の動乱と留守氏の立ち位置
戦国時代の陸奥国は、旧来の秩序が崩壊し、新たな権力が台頭する激動の時代であった。この時期、南奥州において圧倒的な勢力を築きつつあったのが伊達氏である。特に、天文11年(1542年)から足掛け7年にわたって続いた伊達稙宗・晴宗父子の内訌「天文の乱」は、奥州の勢力図を大きく塗り替える分水嶺となった 1 。この乱に勝利した伊達晴宗は、本拠地を米沢城へと移し、周辺の国人領主たちを次々とその支配下に組み込んでいった 2 。
このような巨大な権力の渦の中心に位置し、その奔流に翻弄されたのが、陸奥国の名門・留守氏であった。留守氏は鎌倉幕府の成立と共に陸奥国留守職という要職に任じられたことにその起源を持つ、由緒正しい一族である 3 。しかし、戦国時代に至る頃にはその勢力は往時の面影を失い、隣接する伊達氏の強い影響下に置かれるようになっていた。
本報告書が主題とする留守顕宗(るす あきむね)は、まさしくこの時代に留守氏第17代当主として生きた人物である。彼の生涯は、伊達氏の膨張政策の前に、一個の国人領主がいかにしてその独立性を失い、巨大な戦国大名の一部へと変質していくかの過程を克明に物語っている。利用者様が提示された「伊達晴宗の三男・政景を娘婿として迎え、嫡男・宗綱を高城家の養子に出して隠居した」という概要は、彼の生涯のクライマックスを的確に捉えているが、その背景には複雑な血縁関係、度重なる内紛、そして伊達氏による周到な政治工作が存在した。
本報告書は、留守顕宗の生涯を徹底的に掘り下げることで、彼が単なる「弱き当主」であったのか、それとも激動の時代を生き抜き、家名を未来に繋ぐための苦渋の決断を下した「現実的な生存者」であったのかを多角的に検証する。彼の人生は、戦国期における名門国人領主の悲哀と宿命の縮図そのものである。
表1:留守顕宗 関連略年表
西暦(和暦) |
留守氏・留守顕宗の動向 |
伊達氏・周辺の動向 |
1519年(永正16年) |
留守顕宗、誕生(推定)。 |
伊達晴宗、誕生 5 。 |
1542年(天文11年) |
- |
伊達氏、天文の乱が勃発(~1548年) 6 。父・景宗は晴宗方に属し、稙宗方の国分氏を攻撃 7 。 |
1549年(天文18年) |
- |
留守政景(後の顕宗の養子)、伊達晴宗の三男として誕生 8 。 |
1554年(天文23年) |
父・景宗の死去に伴い、顕宗が家督を相続 10 。 |
- |
1556年(弘治2年) |
弟・孫五郎を擁立しようとする村岡氏らとの間で内紛が発生 10 。 |
- |
1567年(永禄10年) |
伊達晴宗の三男・政景を養子に迎える。顕宗は隠居し、南宮館へ移る 8 。 |
伊達輝宗、家督を相続(1564年頃)。 |
1569年(永禄12年) |
政景の入嗣に反対する村岡氏らが挙兵 12 。 |
- |
1570年(元亀元年) |
養子・政景が村岡氏を滅ぼし、利府城を本拠とする 12 。 |
- |
1586年(天正14年) |
7月17日、死去。享年68 8 。 |
- |
1590年(天正18年) |
- |
豊臣秀吉による小田原征伐・奥州仕置。留守政景は参陣せず、所領を没収される 4 。 |
第一部:伊達家との宿縁 ― 顕宗の出自と家督相続
留守顕宗の生涯を理解するためには、まず彼が背負っていた留守氏の歴史と、伊達氏との抜き差しならない関係性を把握する必要がある。彼が家督を継いだ時点で、留守氏の独立性はすでに名目上のものとなりつつあった。
第一章:留守氏の系譜と伊達氏の介入
留守氏は、その祖である伊沢家景が建久元年(1190年)、源頼朝による奥州合戦の功により陸奥国留守職に任じられ、国府多賀城に入ったことに始まる 3 。以来、子孫はこの職を世襲し、やがて「留守」を姓とするようになった。鎌倉・南北朝時代を通じて、留守氏は国府周辺の有力な領主として勢力を保ったが、室町時代に入るとその立場は徐々に変化する 3 。
決定的な転機は15世紀に訪れる。伊達氏11代当主・伊達持宗の五男である郡宗が留守氏の家督を継いで以降、伊達家から養子を迎えることが繰り返された 4 。これは、留守氏が事実上、伊達氏の衛星勢力と化したことを意味する。その証左に、留守氏が代々用いてきた通字(諱の一字)である「家」が、郡宗の代から伊達氏の通字である「宗」に取って代わられている 17 。これは、単なる養子縁組を超えた、伊達氏による実質的な支配の象徴であった。
顕宗の父である第16代当主・留守景宗もまた、伊達氏13代当主・伊達尚宗の次男であり、先代・郡宗の婿養子として留守家に入った人物である 4 。これにより、景宗の子である顕宗は、伊達氏の血を色濃く引く存在として生を受けることになった。留守氏の当主でありながら、その血筋は伊達氏に連なるという、複雑な宿命を背負っていたのである。
第二章:顕宗の誕生と家督相続
留守顕宗の生年は明確な記録がないものの、天正14年(1586年)に68歳で死去したという記録から逆算すると、1519年(永正16年)頃の生まれと推定される 8 。これは、後に留守氏の運命を大きく左右することになる伊達晴宗(1519年生)と全くの同世代であり、興味深い符合である 5 。
彼の血統は、当時の留守氏の立場を如実に示している。父は前述の通り伊達家出身の留守景宗、母は伊達家から養子に入った留守郡宗の娘であった 18 。つまり、父方からも母方からも伊達氏の血が流れており、彼は留守氏の当主でありながら、伊達一門の一員という側面も併せ持っていた。この二重性は、彼の治世における苦悩の根源となる。
表2:留守氏・伊達氏 関連略系図
Mermaidによる関係図
注:本系図は主要な関係性を分かりやすく示すために簡略化している。
顕宗は、正室に黒川治部大輔の娘を、側室に村岡常春の娘を迎えている 18 。実子として、後に高城氏の養子となる宗綱(孫五郎)と、伊達政景の妻となる娘がいた 11 。
天文23年(1554年)、父・景宗が死去し、顕宗は家督を相続する 10 。しかし、彼の当主としての評価は芳しくない。史料には「病弱の顕宗は父景宗が戦国武将として活躍をしたことに比べ、父の陰にかくれて目立たない存在であった」と記されている 10 。この「病弱」という評価が、単に身体的な虚弱さを指すのか、あるいは政治的な指導力の発揮における困難さを比喩的に表現したものかは定かではない。だが、彼の出自が持つ矛盾が、強力なリーダーシップを発揮することを妨げた可能性は高い。留守氏の伝統を守るべき当主でありながら、伊達の血を引く彼は、家中の反伊達勢力から全幅の信頼を得ることは難しく、一方で親伊達勢力からは伊達本家の意向に従うことを期待される。この板挟みの状況が、彼の政治的無力感、すなわち「病弱」という評価に繋がったのではないかと推察される。
第二部:苦悩の治世 ― 相次ぐ内乱と外交
家督を継いだ顕宗を待ち受けていたのは、平穏な治世ではなかった。彼の権力基盤は脆弱であり、家中の不満分子や周辺勢力との角逐に絶えず悩まされることになる。
第三章:第一次家督相続問題 ― 弘治二年の内紛
顕宗が家督を継いでわずか2年後の弘治二年(1556年)、留守家中に内紛が勃発する。これは、留守氏一族の村岡兵衛・左衛門兄弟が、顕宗の弟である孫五郎を当主に擁立しようと兵を挙げた事件であった 10 。
この内紛は、単なる兄弟間の家督争いと見るべきではない。むしろ、伊達氏の影響下で弱体化する留守氏の現状や、顕宗の指導力に不満を抱く伝統的な勢力(村岡氏)と、顕宗を支持する勢力との間の主導権争いであったと解釈できる。この争いの具体的な経過や結末を記した詳細な史料は乏しいが、最終的に顕宗がその地位を保ったことから、反乱は鎮圧されたものと考えられる。
しかし、この事件が留守家中に残した爪痕は深かった。家中の有力一族である村岡氏との間に深刻な亀裂を生み、顕宗の権威が盤石ではないことを内外に露呈してしまった。この内紛は、後に伊達政景の養子入りを巡って家中が分裂する伏線となる。一度は顕宗に反旗を翻した村岡氏が、伊達氏による留守家乗っ取りの最大の抵抗勢力となるのは、歴史の皮肉である。この最初の内紛が留守氏の内部結束を決定的に破壊し、顕宗を親伊達派の家臣に依存せざるを得ない状況に追い込んだ。これが、10年後の伊達氏による介入を容易にする土壌を整えたのである。
第四章:周辺勢力との角逐
留守氏の領地は、同じく伊達氏の強い影響下にあった国分氏の所領と隣接していた 19 。両氏は、伊達氏という上位権力の下で同盟関係にある一方で、在地領主として国境を巡る小競り合いを繰り返す、複雑な関係にあった。
特に天文の乱においては、顕宗の父・景宗が伊達晴宗方についたのに対し、国分氏は伊達稙宗方についたため、両者は敵味方に分かれて戦っている。景宗は国分氏の拠点である松森城を攻撃しており、この対立の記憶は顕宗の代にも遺恨として残っていた可能性がある 7 。永正3年(1506年)には、留守氏が小鶴で国分氏と戦い勝利した記録もあり、両者の間には長年にわたる緊張関係が存在した 8 。顕宗の治世は、こうした周辺勢力との絶え間ない緊張の中で、伊達氏の顔色を窺いながら舵取りをしなければならない、極めて困難なものであった。
第三部:決断の刻 ― 伊達政景の入嗣と留守家の変質
顕宗の治世における最大の転換点、それは伊達晴宗の三男・政景の養子入りである。これは留守氏の歴史における決定的な瞬間であり、伊達氏による周到な政治工作の帰結であった。
第五章:伊達政景の養子入り
永禄10年(1567年)、伊達晴宗は三男の政景(当時19歳)を顕宗の養子として送り込むことを決定した 9 。表向きの理由は「顕宗とその実子・孫五郎(宗綱)が病弱であるため」とされたが、その真の狙いが留守氏の完全な掌握にあったことは疑いようがない 11 。政景はさらに顕宗の娘を娶ることで、婿という立場も確保し、血縁的な正統性を補強した 11 。
この伊達氏からの露骨な介入に対し、留守家中は真っ二つに割れた 17 。
一方には、花淵伊勢や吉田右近といった、伊達本家の力を背景に家の安泰を図るべきだと考える「親伊達・政景派」 10。彼らは、弘治二年の内紛を経験し、もはや留守氏単独での存続は不可能であると判断した現実主義者たちであった。
もう一方には、留守氏の伝統と独立を重んじる余目伊勢や村岡左衛門といった「反伊達・宗綱派」 17。彼らは、顕宗の嫡男である宗綱こそが正統な後継者であると主張し、伊達氏による乗っ取りに強く反発した。
顕宗自身は、この状況で極めて難しい立場に立たされた。反伊達派の中心である村岡氏は、かつて自分に反旗を翻した一族である。彼らを支持することは、自らの地位を再び危うくしかねない。一方で、親伊達派の主張を受け入れることは、先祖代々の家を伊達氏に売り渡すに等しい行為であった。最終的に彼が政景の受け入れを決断したのは、もはや伊達氏の要求を拒絶する力が留守氏には残されていなかったこと、そして家中の分裂を収拾するためには、伊達という強大な後ろ盾を持つ政景を立てる以外に選択肢がなかったからであろう。
第六章:第二次内紛 ― 反政景派の掃討
政景の入嗣は、留守家中の対立を終息させるどころか、むしろ火に油を注ぐ結果となった。永禄12年(1569年)、政景の家督継承に最後まで反対していた村岡左衛門・兵衛兄弟は、ついに居城である村岡城(後の利府城)で挙兵した 12 。余目氏らもこれに同調し、留守氏は再び内戦状態に陥った 8 。
しかし、この戦いの結末は初めから見えていた。政景は単なる留守氏の養子ではなく、伊達本家が全面的に支援する存在であった。彼は伊達家の圧倒的な軍事力を動員し、村岡城に猛攻をかけた。抵抗も空しく、翌元亀元年(1570年)、村岡城は陥落し、反乱を主導した村岡氏は滅亡に追い込まれた 13 。
この勝利によって、政景は名実ともに留守氏の支配者となった。彼は戦後、留守氏代々の本拠地であった岩切城を離れ、自らが力で制圧した村岡城を「利府城」と改名して新たな本拠地とした 12 。これは極めて象徴的な行動である。旧来の留守氏の権威が宿る岩切城を捨て、自らの武威によって手に入れた利府城に拠点を移すことで、留守氏の歴史に一つの区切りをつけ、自らが新たな時代の支配者であることを宣言したのである。
第七章:実子・宗綱の行方
留守氏の正統な後継者であったはずの顕宗の嫡男・宗綱(孫五郎)の処遇は、この一連の乗っ取り劇の冷徹さを物語っている。彼は留守家の家督から完全に排除され、神楯城主であった高城周防守の養子として家を出されることになった 8 。
この過程は、伊達氏がいかに巧妙かつ段階的に計画を進めていたかを示している。近年の研究で注目される史料によれば、留守政景の養子入りと、高城宗綱の養子入りは、同時に行われたわけではなかったことが示唆されている 23 。さらに、宗綱の高城氏への養子縁組には、伊達晴宗の後を継いだ伊達輝宗が強く関与していたという。
これは、伊達氏による二段階の乗っ取り計画であったと解釈できる。
第一段階(永禄10年、晴宗主導): まず政景を養子かつ婿として留守家に入れる。この時点では顕宗は当主として留まり、その血筋も娘を通じて続くため、反発を最小限に抑えることができる。正嫡である宗綱もまだ家中に留まっており、伝統を重んじる勢力への配慮も示されている。
第二段階(元亀元年以降、輝宗主導): 反対勢力(村岡氏)を武力で完全に排除し、政景の支配体制が確立したのを見計らって、最後の仕上げを行う。将来の紛争の火種となりかねない正嫡・宗綱を、高城氏への養子入りという形で完全に継承権から排除する。
晴宗から輝宗へと、二代にわたる伊達当主が関与したこの長期的な政治工作は、留守氏のような国人領主が到底太刀打ちできるものではなかった。顕宗は、伊達氏の周到な戦略の前になすすべもなく、実の子が家督から追われるのを見届けるしかなかったのである。
第四部:斜陽の当主 ― 隠居後の顕宗
家督を養子・政景に譲り、実権を失った顕宗は、歴史の表舞台から静かに姿を消していく。彼の晩年は、かつての名門の栄光を偲びながら、斜陽の時を過ごす日々であった。
八章:南宮館での晩年
永禄10年(1567年)、政景に家督と居城の岩切城を譲った顕宗は、隠居の身となった 8 。彼の隠居後の居館は「南宮館」あるいは「南宮中館」と呼ばれている 8 。
この南宮館の所在地は、現在の宮城県多賀城市南宮周辺にあった「内館館跡」に比定するのが有力な説である 24 。興味深いことに、この館跡は長らくその存在が知られていなかったが、水田の稲の生育の差によって遺構の輪郭が浮かび上がる「クロップマーク」という現象を手がかりに発見された 25 。その後の発掘調査により、堀や土塁の跡、そして16世紀頃のかわらけや中国製磁器などが出土し、まさしく顕宗の時代の館跡であることが確認された 25 。
「御中館之御分帳」という、顕宗の隠居後の所領や経済状況を記したとされる文書の存在も指摘されており 27 、彼は完全に無一文で放逐されたわけではなく、隠居の身分に応じた一定の敬意と所領は与えられていたようである。
しかし、この隠居地の選択には、深い意味が込められているように思われる。多賀城は、かつて陸奥国の国府が置かれ、留守氏の祖先が「留守職」としてその権威を預かった、一族の発祥の地ともいえる場所である 3 。政治的・軍事的な中心が岩切城や利府城に移った後も、多賀城は留守氏にとって象徴的な故郷であり続けた。その地に小さな館を構えて余生を送るという顕宗の選択は、権力闘争に敗れた彼が、自らの原点へと回帰する行為であったと解釈できる。政治的な実権を失った今、彼にできることは、一族が最も輝いていた時代の記憶を守る「留守番(るすばん)」として、静かにその生涯を終えることであったのかもしれない。
九章:終焉
天正14年(1586年)7月17日、留守顕宗は、伊達政宗が奥州の覇者としてその名を轟かせ始める直前に、68年の生涯を閉じた 8 。
彼の墓所の所在を明確に伝える史料は、現在のところ見つかっていない。留守家の家督は完全に伊達政景の系統(後の水沢伊達家)に移っており、その菩提寺である水沢の 大安寺に顕宗が葬られた可能性は低い 8 。また、伊達本家の墓所である瑞鳳殿に祀られることも考えにくい 29 。おそらく彼の墓は、隠居地であった多賀城近辺の寺院にひっそりと建てられたか、あるいは長い年月の間に失われてしまったものと推測される。その不明確さこそが、歴史の奔流の中で旧来の家を譲り、静かに消えていった彼の生涯を象徴しているかのようである。
終章:留守顕宗の歴史的評価
留守顕宗の生涯を振り返るとき、我々は彼を単に「伊達氏に家を乗っ取られた弱き当主」と断じるべきではない。彼の置かれた状況は、一個人の力量で覆せるものではなかった。彼の治世は、伊達氏という巨大な戦国大名がその勢力を確立していく、まさにその過程と重なっている。彼の「弱さ」とは、個人的な資質の欠如というよりも、時代の大きな流れに抗する術を持たなかった国人領主という立場の限界そのものであった。
彼は、伊達氏の圧力に対し、徹底抗戦して一族もろとも滅亡する道を選ばなかった。代わりに、屈辱的ともいえる条件を飲み込み、養子・政景に家を譲ることで、留守氏という「家名」そのものを存続させる道を選んだ。事実、政景の系統は後に伊達姓を名乗り、仙台藩一門筆頭の家格である「水沢伊達家」として、江戸時代を通じてその血脈と家名を現代に伝えている 4 。もし顕宗が徹底抗戦の道を選んでいれば、村岡氏のように一族は歴史の舞台から完全に姿を消していた可能性が高い。
この観点に立てば、留守顕宗は「独立を失った当主」であると同時に、「家名存続の功労者」という、二つの相反する評価を与えられるべき人物である。彼の決断は、戦国乱世という非情な現実の中で、旧来の名門国人領主が取り得た、最も現実的で、そして最も苦渋に満ちた選択だったのである。彼の生涯は、華々しい英雄譚の陰で、静かに、しかし確かに歴史を繋いだ人々の存在を我々に教えてくれる。
引用文献
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- 仙台藩家老家の墓所 | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/%E3%80%90%E8%97%A9%E4%B8%BB%E5%AE%B6%E5%A2%93%E6%89%80%E3%80%91/%E3%80%90%E8%97%A9%E4%B8%BB%E5%AE%B6%E5%A2%93%E6%89%80%E3%80%91%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93-%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%9C%B0%E6%96%B9/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9%E4%B8%80%E9%96%80%E5%AE%B6%E8%80%81%E5%AE%B6%E5%A2%93%E6%89%80
- 17 経ケ峯伊達家墓所 瑞鳳殿 http://datebunka.jp/cp/17/