最終更新日 2025-06-05

足立重信

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伊予松山藩成立の陰の立役者、足立重信の生涯と事績

序論:伊予松山の礎を築いた知られざる功労者、足立重信

足立重信は、戦国時代の末期から江戸時代初期にかけて、伊予松山藩初代藩主である加藤嘉明の重臣として、その草創期における藩政の確立に極めて大きな貢献を果たした人物である。彼の名は、戦場での武勇伝よりも、むしろ卓越した土木技術者、そして有能な行政官として、伊予の地に深く刻まれている。特に、大規模な河川改修事業や松山城の築城は、その代表的な功績として今日に伝えられており、松山平野の発展に不可欠な基盤を築いた 1 。本報告書は、現存する資料に基づき、足立重信の生涯、具体的な業績、その人物像、そして後世に与えた影響を詳細かつ徹底的に調査し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

重信の事績を詳細に追うことは、単に一個人の功績を顕彰するに留まらない。彼の生涯は、戦国乱世から泰平の江戸時代へと移行する社会の大きな転換期において、武士という身分に求められる資質や役割が、従来の軍事的な能力一辺倒から、領国経営や民政といった内政手腕へと大きく拡大し、多様化していった歴史的過程を象徴的に示している。重信は、高度な専門技術をもって藩政という実務を支えた、いわば近世初期における「テクノクラート侍」とも呼ぶべき存在であり、その活動は当時の武士階級の新たな可能性を示すものであったと言えよう。彼の働きは、主君である加藤嘉明の軍事的な成功を内政面から支え、藩の安定と発展に不可欠な役割を果たした。提供された資料群を検証すると、重信の軍事的な活動、例えば朝鮮出兵への従軍や関ヶ原の戦いにおける三津浜夜襲での活躍にも触れられてはいるものの 3 、その記述の比重は明らかに治水事業や築城といった内政面、特に土木技術に関する功績に置かれていることがわかる 1 。この事実は、重信の歴史的評価が、戦闘における武勇よりも、むしろ領民の生活向上や藩の経済的基盤整備に直結する実務能力に依拠していることを示唆している。

第一部:足立重信の生涯

第一章:出自と加藤嘉明への仕官

足立重信の生年は不詳とされることが多いが、永禄6年(1563年)頃、あるいは永禄年間(1558年~1569年)初年に美濃国(現在の岐阜県)に生まれたと伝えられている 6 。残念ながら、その正確な生年月日や幼少期の詳細、一族に関する具体的な記録は乏しい。足立氏という姓は各地に見られるものの、重信の直接的な家系や、他の著名な足立氏(例えば鎌倉時代の足立遠元 9 や戦国期の足立六兵衛 10 )との関連性は、現時点では明確ではない。

重信が歴史の表舞台に登場するのは、加藤嘉明に仕えてからである。彼は年少の頃より嘉明に仕え、小姓として近侍したとも言われている 4 。仕官の正確な時期は天正年間(1573年~1592年)とされており 7 、若くして嘉明の側近となったことが窺える。主君である加藤嘉明は、豊臣秀吉の家臣として賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられるなど、武勇に優れた武将であった 12 。そのような主君のもとで、重信もまた武士としての経験を積んでいったと考えられる。

第二章:戦場での働き

足立重信は、内政手腕でその名を残すことになるが、若い頃には武将としても活動し、主君加藤嘉明に従って戦場にも赴いている。

文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)にかけて行われた文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、嘉明に従軍し、戦功を立てたと記録されている 4 。この朝鮮での戦功により、嘉明は10万石に加増されていることから 6 、重信もその中で一定の役割を果たしたことが推察されるが、具体的な戦功に関する詳細な記述は乏しい。

重信の武功としてより明確に記録されているのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに関連して発生した伊予国での出来事である。この戦いで加藤嘉明は徳川家康率いる東軍に与し、自身は関ヶ原本戦に出陣した。その間、伊予国の居城であった正木城(後の松前城)の守備は、足立重信と佃十成らに委ねられた 1 。この嘉明不在の機を捉え、毛利氏の支援を受けた河野氏の旧臣や村上元吉(村上武吉の嫡男)らが蜂起し、正木城に攻め寄せた。これに対し、重信らは「三津浜夜襲」と呼ばれる夜襲を敢行し、数に勝る敵勢を見事に撃退したのである 1 。この勝利は、嘉明の伊予における支配を確固たるものにする上で重要な意味を持ち、重信の忠誠心と軍事的能力を示すものとして、嘉明からの信頼を一層厚くした。この戦功により、重信は家老に任ぜられ、5000石の所領を与えられたとされている 5

第二部:伊予における足立重信の功績

関ヶ原の戦いを経て、加藤嘉明の伊予における支配体制が確立されると、足立重信の活動の主軸は、軍事から領内開発へと移っていく。彼の真価は、むしろこの内政面、とりわけ大規模な土木事業において遺憾なく発揮されることになる。

第一章:伊予入国と初期の活動

足立重信が伊予の地を踏んだのは、文禄4年(1595年)、主君加藤嘉明が淡路国志智城から伊予国正木(後の松前町)6万石(朝鮮出兵での功により後に10万石に加増)へ転封となった際に随行したことによる 4 。伊予に入った当初から、嘉明は重信の行政手腕を高く評価していたと見え、早速領内の開発に着手させている 3 。これは、重信が単なる武辺者ではなく、内政にも通じた多才な人物であったことを示している。

第二章:大事業への挑戦:河川改修と新田開発

伊予における足立重信の功績として、まず特筆すべきは、伊予川(現在の重信川)と石手川(当時の湯山川)という二つの重要な河川の改修事業である。これらの事業は、洪水被害の軽減、灌漑用水の確保、そして新田開発を目的としたものであり、松山平野の農業生産力を飛躍的に向上させ、後の松山藩の経済的基盤を築く上で決定的な役割を果たした。

  • 伊予川(重信川)の改修
    当時の伊予川は、道後平野を蛇行しながら流れ、しばしば氾濫を繰り返す「暴れ川」であった 1。その流路は定まらず、ひとたび洪水が起これば流域の田畑は壊滅的な被害を受け、民衆の生活を脅かしていた。また、嘉明の居城であった正木城も、その南を流れる伊予川の洪水に度々悩まされていた 3。
    このような状況を打開すべく、嘉明の命を受けた重信は、慶長年間初頭(資料によっては1595年~1598年 2)に伊予川の大規模な改修工事に着手した。綿密な現地調査と設計に基づき、川の流路を固定し、川幅を広げ、堅固な堤防を築くという難事業であった 2。この改修の結果、従来荒廃地であった約50ヘクタールの土地が新たに水田として開かれ、さらに周囲の約5000ヘクタールもの既存の水田が安定した水利の恩恵を受けることになったと伝えられている 2。産米は20万石を超えたともいう 3。この偉業を称え、領民はその徳を慕い、伊予川を「重信川」と呼ぶようになった 1。個人の名が河川の正式名称として残る例は全国的にも稀であり、いかにその功績が大きかったかを物語っている 1。この治水事業は、流域住民の生活を安定させただけでなく、正木城を洪水から守り、その後の城の拡張工事を円滑に進める上でも大きな効果をもたらした 3。
  • 石手川の改修
    伊予川の改修に続き、重信が取り組んだのが石手川(当時は湯山川と呼ばれていた部分もある)の改修である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦功により20万石の大名となった嘉明は、より大規模な城郭と城下町を建設するため、道後平野の中心部に位置する勝山を新たな拠点として選定した 3。しかし、この勝山の南麓を流れる石手川もまた、頻繁に洪水を起こす暴れ川であり、新城建設と城下町経営の大きな障害となっていた 1。
    重信は、伊予川改修の経験を活かし、石手川の流路を南寄りに大きく付け替えるという壮大な計画を立て、慶長5年(1600年)頃に工事に着手した 1。特に難工事であったのは、石手村(現在の松山市石手)付近の岩盤を開削する作業であった。重信は工事の陣頭指揮を執り、寝食を忘れてこれにあたったと伝えられる。「岩一升に米一升」という言葉は、この時の難工事と、人夫たちの労苦に報いるために出来高払いの報奨を与えた重信の苦心から生まれた逸話である 3。また、急流の勢いを弱めるために考案された「鎌投げ」と呼ばれる小さな堰堤を多数設ける工法は、彼の土木技術者としての非凡な才能を示すものと言えよう 3。この石手川の流路変更と堤防築造により、洪水は鎮まり、旧河道跡地などを利用して約300ヘクタールの新田が開かれたとされている 2。この改修により、石手川は伊予川(重信川)に合流する現在の流路となり、松山城とその城下町の安全が確保されたのである。

第三章:松山城築城と城下町建設

河川改修によって足元の安全を確保した後、いよいよ加藤嘉明年来の念願であった新城建設が本格化する。足立重信は、この松山城築城とそれに伴う城下町建設においても、普請奉行としてその手腕を存分に発揮した。

慶長7年(1602年)、加藤嘉明は幕府の許可を得て勝山に築城を開始し、足立重信を普請奉行に任命した 1。重信は、築城に関する一切を取り仕切り、縄張りから実際の工事に至るまで、その全工程を指揮した。築城工事は、慶長8年(1603年)に嘉明が正木城から勝山の新城へ居を移した後も続けられ、嘉明が寛永4年(1627年)に会津へ転封となるまで、実に20数年に及ぶ長期間の事業となった(主要な部分は嘉明の会津転封前の1608年頃までに完成したとも 3)。

重信の指揮のもと、勝山には壮大な連立式平山城である松山城が築かれた。五層の天守閣(後に三層に改築)をはじめ、櫓、門、石垣、堀などが整備され、その威容は天下の名城と称されるにふさわしいものであった 3。また、当時の勝山は樹木が少ない赤土の山であったため、重信は山に餌を撒いて小鳥を呼び寄せ、その糞に含まれる種子によって自然に木々が育つように図ったという逸話も残っており、彼の先見性と自然を利用する知恵が窺える 3。

松山城の築城と並行して、重信は城下町の建設も計画的に進めた。武家屋敷、町人町、寺社地などを整然と区画割りし、道後平野における新たな中心都市としての松山の基礎を築いた 3 。特に、城の防衛ラインの一部としても機能するよう、城北に寺院を集めて寺町を形成するなど、都市計画家としての側面も持ち合わせていた 3

第三部:足立重信の人物像と後世への影響

足立重信は、その卓越した業績だけでなく、彼の人柄や後世に与えた影響においても特筆すべき点が多い。

第一章:人物評と逸話

足立重信の人柄について、当時の記録は「謹厚剛毅にして智略あり、恪勤励精倫に絶し、すこぶる政務に長じ、ことに土木治水に精通す」と評している 3 。これは、彼が慎み深く誠実でありながら意志が強く、知略に富み、群を抜いて勤勉で仕事に励み、非常に行政能力が高く、特に土木や治水の技術に精通していたことを示している。武将として、政治家として、そして技術者としても優れた能力を持ち、かつ人格的にも立派であったことが窺える。

彼の土木技術者としての卓越した能力は、その出自である美濃国が木曽川の氾濫に長年悩まされてきた地域であり、幼少期から治水に関心を持ち、研究に努めた結果ではないかとも推測されている 3。石手川改修における「岩一升に米一升」の逸話は、困難な事業を成し遂げようとする彼の不屈の精神と、人夫たちの労苦を思いやる人間味、そして目標達成のための柔軟な発想力を示している 3。

また、重信は後に兼清(かねきよ)あるいは元清(もときよ)と改名したとされるが、領民からは依然として「重信」の名で親しまれ、その遺徳が偲ばれている 3。通称としては半助(はんすけ)や半右衛門(はんえもん)も伝わっている 5。

第二章:晩年と死、そして墓所

足立重信は、松山城の築城と城下町の建設に心血を注いだが、その全ての完成を見届けることなく、寛永2年(1625年)11月17日に病没した 1 。その死は、長年にわたる普請奉行としての激務による過労が原因であったと伝えられている 2

生前、重信は「自らの墓は、生涯を捧げた松山城が見える場所に」と遺言していたという 1 。その遺言に従い、彼の亡骸は松山城を望む城北の来迎寺(松山市御幸)の丘に葬られた 1 。墓は花崗岩で作られた高さ約224cmの五輪塔である 7 。現在もその墓は大切に守られており、彼が築いた松山城と城下町を見守り続けているかのようである。墓所には、彼が武将であったことにちなみ、祈願成就の際に木刀を奉納する習慣があったという伝承も残っている 19 。また、彼の300年忌にあたる大正14年(1925年)には、その功績を讃える俳人たちの句が刻まれた石灯籠が建立されている 19

第三章:後世への影響と顕彰

足立重信の功績は、彼の死後も永く記憶され、様々な形で顕彰されている。

最も顕著なものは、彼が改修した伊予川が「重信川」と改称されたことであろう 1 。河川に個人の名が冠されるのは極めて稀なことであり、いかに彼の大事業が地域に貢献し、人々に感謝されたかの証左と言える。また、かつて存在した重信町(現在は東温市の一部)も彼の名に由来するものであり、その名は地域に深く根付いている 2

大正8年(1919年)には、その功績を称えられ、正五位が追贈された 5。墓所のある来迎寺境内には、彼の功績を記した頌功碑も建立されており 16、訪れる人々にその偉業を伝えている。

近年では、足立重信に関する学術的な関心も高まっており、「足立重信文書と加藤嘉明の時代」といったテーマでの研究発表やシンポジウムも行われている 20。これは、単に忠実な家臣としてだけでなく、近世初期の地域開発において専門的技術をもって貢献したテクノクラートとしての重信の役割が再評価されていることを示している。戦国時代から江戸時代へと移行する中で、大名が領国を安定的に統治し発展させるためには、軍事力だけでなく、このような高度な土木技術や行政能力を持つ家臣の存在が不可欠であった。足立重信の生涯は、まさにそのような時代的要請に応えた武士の姿を体現していると言えよう。

結論:足立重信の歴史的意義

足立重信の生涯と事績を概観すると、彼が伊予松山藩の草創期において果たした役割の大きさが改めて認識される。彼の功績は、単に河川を改修し、城を築いたという物理的な成果に留まらない。それらの事業を通じて、彼は洪水という自然の脅威から人々を守り、耕地を拡大して農業生産力を高め、堅固な城郭と整然とした城下町を建設することで、地域の安全と経済的発展の礎を築いたのである。まさに、伊予松山の繁栄の基礎を一代で築き上げた偉人と言っても過言ではない 3

特に注目すべきは、彼が武士でありながら、極めて高度な土木技術と行政手腕を併せ持っていた点である。戦国乱世が終焉を迎え、新たな社会秩序が形成される江戸時代初期においては、武士に求められる能力も変化した。単なる武勇や忠誠心だけでなく、領国経営のための実務能力、特に経済基盤を強化するための開発技術や民政の才が重要視されるようになった。足立重信は、まさにこの新しい時代の要請に応えることのできる「テクノクラート」としての武士の先駆的な存在であった。彼の活動は、武士階級が軍事エリートであると同時に、高度な専門知識を持つ技術者・行政官僚としても機能し得ることを示した点で、歴史的に大きな意義を持つ。

足立重信の生涯は、現代に生きる我々に対しても多くの示唆を与えてくれる。その揺るぎない献身性、困難に立ち向かう不屈の精神、そして将来を見据えた計画性とそれを実現する高度な専門技術は、時代を超えて尊ばれるべき資質である。彼が伊予の地に残した数々の遺産は、単なる歴史的建造物や地名としてだけでなく、地域社会の発展に尽力した先人の知恵と努力の結晶として、今後も永く語り継がれていくことであろう。

引用文献

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