立花誾千代(たちばな ぎんちよ、1569年~1602年)は、日本の戦国時代にその名を刻んだ女性です 1 。豊後の大名・大友宗麟の重臣であった立花道雪(べっき どうせつ)の娘として生まれ、後に同じく戦国武将として名高い立花宗茂(むねしげ)の正室となりました。彼女の生涯で特筆すべきは、わずか7歳にして父・道雪から家督を譲り受け、立花城の城主(城督)となった点です 2 。これは、主君である大友宗麟・義統(よしむね)親子が連署で承認した文書によって裏付けられており、日本史上でも数少ない、そして確実な史料で確認できる女性城主の事例として、歴史学的に極めて重要な意味を持ちます 2 。誾千代の存在は、男性中心と捉えられがちな戦国時代における女性の立場や役割、家督相続の多様性を考察する上で、貴重な光を投げかけるものです。
本報告書は、現存する史料や伝承に基づき、立花誾千代の波乱に満ちた生涯、女城主としての特異な立場、夫・立花宗茂との関係、数々の武勇伝、そして彼女の人物像や、立花家に受け継がれた「立花の義」との関わりについて、多角的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とします。各章では、関連する史実や逸話を紹介しつつ、専門的な分析と考察を加えることで、立花誾千代という人物の歴史的意義を明らかにしていきます。
立花誾千代は、永禄12年(1569年)9月23日、大友氏の重臣であった戸次鑑連(べっき あきつら、後の立花道雪)の娘として、筑後国山本郡の問本(といもと)城で生を受けました 1 。母は仁志姫(にしひめ、西姫、宝樹院とも)とされています 4 。彼女の幼名は「誾千代」ですが、この「誾」という字は「慎んで人の話を聞く」という意味を込めて、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の高僧・増吟(ぞうぎん)が名付けたと伝えられています 4 。この命名の背景には、彼女の将来に対する周囲の期待や、彼女自身の性格形成に影響を与えた可能性が考えられます。
傅役(もりやく、教育係)には、道雪が後妻を迎える際に仲介を務めた縁で城戸知正(きど ともまさ)が命じられたほか 6 、家臣の十時連貞(ととき つれさだ)もその任に当たったとされます 4 。特に城戸知正は誾千代からの信頼も厚かったと記されています 7 。幼い頃から聡明で快活、そして家臣や領民を思いやる優しい心も持ち合わせていたと評されており 3 、その美しさから「筑前の白梅」とも称えられたと伝えられています 4 。
天正3年(1575年)、父・立花道雪は、男子のいない自らの後継者として、娘の誾千代に家督を譲るという重大な決断を下します。時に誾千代は数え年でわずか7歳。彼女はこの若さで立花城の城督(じょうとく)となり、事実上の城主としての地位を継承しました 3 。城督とは、大友氏などの領国で見られた役職で、任地において領主に代わって政務を執り行う者を指し、城の主という点では城主と同様の意味合いを持ちます 3 。
道雪には男子がおらず、当初、主君である大友宗麟は、道雪の一族である戸次鎮連(べっき しげつら)の子を養子に迎えるよう再三勧めていました 3 。しかし、道雪はこの勧告を頑として受け入れず、最終的には宗麟が折れる形で、誾千代への家督相続が認められました。この事実は、道雪の宗麟からの信頼がいかに厚かったか、そして道雪自身の強い意志を物語っています。道雪が男子養子を拒み、実の娘に家督を継がせた背景には、単に後継者がいなかったという理由だけでなく、誾千代自身の資質を見抜いていた可能性や、立花家の血筋を直接継承させたいという強い思いがあったのかもしれません。
この異例の家督相続は、道雪の大友家における長年の功績と、彼が主君に対して持っていた強い影響力なしには実現し得なかったでしょう。そして、この幼少期における城主としての経験は、後の誾千代の「城主は自分である」という強い自負心 9 に繋がり、彼女の気高い生き方を方向づけた重要な要因となったと考えられます。
立花誾千代への家督相続は、大友宗麟とその子・義統が連署した朱印状によって正式に承認されており、これは女性が実質的な城主となったことを示す一級史料として、歴史学的に非常に価値が高いものです 2 。戦国時代において、女性が家督を継ぐ例は皆無ではありませんでしたが、その多くは男子後継者が幼い場合の一時的な代行であったり、記録が曖昧であったりする中で、誾千代の事例は文書によって明確に確認できる点で特異です。この事実は、戦国時代の女性の役割が、単に家を守る後室や男子後継者への中継ぎに留まらない可能性を示唆しており、当時の社会における女性の地位や権能について、より多様な視点からの研究を促すものと言えるでしょう。
表1: 立花誾千代 主要年表
年代 (西暦/和暦) |
出来事 |
関連資料ID |
1569年 (永禄12年) |
誕生 |
1 |
1575年 (天正3年) |
7歳で家督を相続、立花城督となる |
3 |
1581年 (天正9年) |
立花宗茂(当時 高橋統虎)と結婚 |
2 |
1587年 (天正15年) |
夫・宗茂の筑後柳川拝領に伴い、立花山城から柳川城へ移ることを不満に思う (伝承) |
4 |
1600年 (慶長5年) |
関ヶ原の戦い。柳川城防衛戦で活躍 |
2 |
1602年 (慶長7年) |
肥後国腹赤村にて病没 (享年34歳) |
1 |
天正9年(1581年)、立花道雪は、同じく大友氏の重臣であった高橋紹運(たかはし じょううん)の長男・千熊丸(ちくままる)、後の立花宗茂を誾千代の婿養子として迎え、結婚させました 2 。当時、誾千代は13歳、宗茂は15歳であったと伝えられています 2 。この婚姻は、単に立花家の家督相続という個人的な問題に留まらず、当時、島津氏の勢力拡大などにより不安定化していた北部九州の情勢下で、大友家の家臣団の結束を固め、軍事同盟を強化するという重要な政治的・軍事的背景があったと考えられます 10 。特に、道雪と紹運という二人の名将の連携をより強固なものにするという戦略的な意図があったと推察されます。
夫となった宗茂は、後に豊臣秀吉から「九州の一物(いちもつ)」と高く評価されるほどの文武に優れた武将であり 2 、一方の誾千代もまた、父譲りの武勇に優れ、気性の激しい姫であったと伝えられています 2 。
立花誾千代と宗茂の夫婦仲については、必ずしも円満ではなかったという説が根強く残されています 3 。幼くして城主となった誾千代には、「城主は自分である」という強い自負心があり 9 、非常にプライドの高い性格であったとされます 7 。一方、宗茂もまた幼少期から物怖じしない豪胆な性格の持ち主であり、二人はしばしば衝突したと伝えられています 7 。
子供に恵まれなかったこと 3 や、宗茂が側室を迎えたことなどが原因となり、後に二人は別居するに至ったとされています 7 。別居後、誾千代は柳川城下の宮永(みやなが)という地にある屋敷に移り住んだため、「宮永様」とも呼ばれました 3 。
しかし、こうした不仲説が語られる一方で、二人は互いの能力を認め合い、戦友のような強い絆で結ばれていたとも言われています 7 。表向きは冷たい態度を取りながらも、誾千代は心の奥底では夫・宗茂を深く思いやり、献身的な支援を続けていたとされます 7 。特に、関ヶ原の戦いに敗れて浪人となった宗茂の旧領回復を誰よりも信じ、熱心に願っていたというエピソードは、彼女の深い愛情と立花家への忠誠心を示すものとして語り継がれています 3 。
夫婦関係に見られる「衝突」と「戦友のような関係」あるいは「献身的なサポート」といった一見矛盾するような記述は、二人の関係が単純な愛憎だけでは語れない複雑なものであったことを示唆しています。立花家の当主としての立場、武家の存続という重責、そして個々の強い性格といった複数の要因が絡み合い、彼らの関係を形成していたのでしょう。公的には立花家を守る同志として協力しつつも、私的には夫婦としての葛藤を抱えていたのかもしれません。別居という選択も、プライドの高い誾千代が、側室問題などに対して自身の尊厳を保つための一つの手段であった可能性も考えられます。
これらのエピソードは、立花誾千代が単に勇猛果敢な女城主であっただけでなく、一人の女性として苦悩し、それでもなお家や夫に対する責任を果たそうとした、複雑な内面を持つ人物であったことを浮き彫りにします。彼女の行動は、戦国時代の女性が置かれた困難な状況と、その中で見せた主体的な選択の表れと言えるでしょう。宗茂が柳川城を開城し、立花家が改易された際、誾千代は神社に籠り、「私の命に代えて、夫をもう一度武士として世に出してください」と必死に祈願し続けたという逸話は、彼女の深い愛情と自己犠牲の精神を象徴するものとして、今に伝えられています 3 。
表2: 立花誾千代 関係人物一覧
人物名 |
続柄・関係 |
概要・誾千代との関わり |
関連資料ID |
立花道雪 |
父 |
大友氏重臣。誾千代に家督を譲る。名刀「雷切」の使い手。「義」を重んじた武将。 |
3 |
立花宗茂 |
夫(婿養子) |
高橋紹運の長男。文武両道の将。誾千代と共に立花家を支える。関ヶ原の戦い後は浪人するも、後に旧領柳川藩主に奇跡的に復帰。 |
2 |
高橋紹運 |
義父(宗茂の実父) |
大友氏重臣。島津軍との岩屋城の戦いで、圧倒的兵力差の中、玉砕覚悟で戦い抜き壮絶な討死を遂げる。 |
6 |
大友宗麟 |
主君(道雪・紹運の) |
豊後の戦国大名。キリシタン大名としても知られる。誾千代の家督相続を承認。 |
2 |
城戸知正 |
傅役 |
誾千代の養育係。道雪と後妻の仲介も務め、誾千代からの信頼が厚かったとされる。 |
4 |
加藤清正 |
敵将(関ヶ原後)、後に立花家を庇護 |
肥後熊本藩主。関ヶ原の戦い後、柳川に侵攻するも誾千代の軍勢を避けたという逸話がある。後に浪人中の宗茂や誾千代を庇護。 |
2 |
豊臣秀吉 |
天下人 |
宗茂の武勇を高く評価し、大名に取り立てる。誾千代が武装して謁見したという逸話も残る。 |
2 |
立花誾千代は、父・道雪から受け継いだ武勇を誇り、特に薙刀や鉄砲の扱いに長けていたと伝えられています 2 。『大友文書』には、「戸次伯耆守(道雪)の娘は勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述が見られ 12 、これは彼女が侍女たちに武術訓練を施し、鉄砲を用いた集団戦術を構想していた可能性を示唆します。女子用の軽い鉄砲の腕前は、鉄砲組頭もかなわないほどであったと言われるほどです 3 。
これらの記録や伝承から、誾千代が自ら女性だけの鉄砲隊を組織し、指揮していたという話が生まれました 4 。この女鉄砲隊は「立花早撃女(たちばなはやうちめ)」として知られ、その武勇は広く語り継がれたとされます 4 。彼女の武芸の才は、単なる個人的な技量に留まらず、集団を組織し、効果的に運用する指導力をも伴っていたと考えられます。
女鉄砲隊の存在については、史実であるかどうかの確証は得られていないものの 9 、そのような逸話が数多く残されていること自体が、誾千代の勇猛果敢なイメージと、当時の人々が彼女に対して抱いていた畏敬の念を強く反映していると言えるでしょう。もし女鉄砲隊が実在したのであれば、それは戦国時代における女性の戦闘参加の具体的な事例として非常に重要であり、籠城戦などの特定の状況下では、女性もまた防衛力として期待され、実際にその役割を担っていた可能性を示しています。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、立花誾千代の武勇伝が最も色濃く語られる局面の一つです。夫・立花宗茂が、豊臣秀吉から受けた恩義に報いるため西軍に加わることを決意した際、誾千代は冷静に戦況を分析し、東軍の勝利を予測して、宗茂に東軍へ味方するよう説得したと伝えられています 3 。この進言は、彼女の優れた情勢判断能力を示すものとして評価できますが、宗茂は最終的に西軍として出陣しました。
宗茂が大津城攻めなどで畿内に出陣し、本拠地である柳川城(福岡県柳川市)を留守にしている間、誾千代は城の守りを固め、来るべき事態に備えました 3 。そして関ヶ原で西軍が敗北すると、その報は九州にも届き、東軍に与した鍋島直茂、加藤清正、黒田孝高らの連合軍が、西軍に味方した立花家の柳川城へと侵攻を開始します。
この危機に際し、誾千代は自ら甲冑を身にまとい、薙刀を手に取り、200名余りの女鉄砲隊を率いて出陣したと、多くの記録や伝承が伝えています 2 。柳川城の西側を流れる川の渡船場において、迫り来る鍋島水軍に対し鉄砲の一斉射撃を行い、その上陸を阻止したとされます 4 。さらに、南の宮永村(当時誾千代が別居していた場所)方面から進軍してきた加藤清正の軍勢に対しては、その進路を威嚇し、迂回させたと伝えられています 2 。
これらの行動は、誾千代が単に城の留守を預かるだけの存在ではなく、積極的な防衛戦の指揮官として、また一人の武人として戦ったことを強く示しています。鍋島水軍の上陸阻止や加藤軍の進路変更といった戦術的行動は、柳川城の防衛において貴重な時間を稼ぎ、敵戦力の分散に貢献した可能性があり、彼女の戦術眼と実行力をうかがわせます。特に、猛将として知られる加藤清正ですら、彼女の率いる軍勢との衝突を避けたという形で語り継がれていることは 2 、彼女の「女丈夫」としてのイメージを決定づけるものとなっています。
立花誾千代の武勇を示す逸話は、関ヶ原の戦い以外にも残されています。夫・宗茂が文禄・慶長の役で朝鮮半島に出兵していた時期、天下人である豊臣秀吉が、名護屋城(佐賀県唐津市)に滞在中の誾千代を呼び寄せ、手込めにしようと企んだという話があります 3 。しかし、この企てを察知した誾千代は、武装した侍女たちを伴い、自らも武装して秀吉の前に現れたため、さすがの秀吉も手出しできなかったと伝えられています。
この逸話の史実性については議論の余地があるものの、彼女の気丈さ、用心深さ、そして自身の尊厳を守るためには最高権力者である秀吉に対しても臆することなく立ち向かう、断固たる態度を示しており、彼女の人物像を象徴する話として広く知られています。
立花誾千代の生き方を理解する上で欠かせないのが、父・立花道雪の教えと、立花家に受け継がれた「義」の精神です。道雪は、「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度主君を得たならば、死ぬまで節を曲げず、尽くし抜くのが、武士の本懐である」という言葉を残したとされ、この言葉は彼の法号の由来とも言われています 13 。この精神に象徴されるように、道雪は「義」に篤い武人として生涯を貫きました。この「義」とは、単に主君への忠誠だけでなく、武士としての矜持、そして民を慈しむ心をも含む、広範な倫理観であったと考えられます 13 。
道雪の「義」は、主家である大友家への揺るぎない忠誠心として具体的に現れ、時には主君である大友宗麟の過ちを恐れずに諫言することも厭いませんでした 3 。また、彼は家臣や領民に対しても恩恵を行き届かせようと努め、その仁政は細部にまで及んだと評されています 13 。道雪の生き様そのものが、立花家の「義」の精神を形成し、それが娘の誾千代や婿養子の宗茂にも深く影響を与えたと考えられます。彼の厳格さと慈愛に満ちた統治は、家臣団の結束を強固にし、立花家の思想的基盤を築いたと言えるでしょう。立花家の家風としての「義」は、受けた恩には必ず報いること、己の立場をわきまえて私欲を捨て、大義のために行動することなどを重視していたと推察されます 14 。
立花誾千代は、父・道雪から家督を譲られた立花城の城督としての誇りと責任感を強く持ち、生涯を通じて父に認められることを目標としていたとされます 7 。この姿勢こそが、彼女にとっての「立花の義」の具体的な実践であったと言えるでしょう。彼女が大切にし続けた「立花の義」は、夫・宗茂との関係においても大きな影響を与え、宗茂もまた彼女の掲げる「義」を理解し、それを貫こうと努めたと伝えられています 7 。この誾千代の「義」は、父・道雪のそれとも、宗茂の実父である高橋紹運が示した「死をもって忠義を全うする」という義とも異なる、立花家独自の、そして誾千代自身の解釈が加えられたものであり、宗茂の生涯にわたって道しるべのような影響を与え続けたとされています 7 。
関ヶ原の戦いにおいて、誾千代は東軍の勝利を予測しながらも、最終的には夫・宗茂の西軍参加という決断を受け入れ、柳川城の防衛に徹しました 3 。この行動は、個人的な戦況判断よりも、夫の立場と立花家を守るという、彼女なりの「義」を優先した結果と解釈できます。また、立花家改易後、宗茂の旧領回復を誰よりも強く願い、そのために神社へ日参し祈願を続けたという逸話 3 も、立花家と夫に対する揺るぎない「義」を貫いた行動と言えるでしょう。
誾千代の「義」は、立花家の当主としての自覚、父・道雪への深い敬慕、そして夫や家臣、領民を守るという強い意志に根差していたと考えられます。それは時に夫・宗茂との間に衝突を生むこともありましたが、最終的には立花家を守り、支える大きな力となったと言えるでしょう。彼女の生涯における重要な決断や行動の多くは、この「立花の義」という確固たる行動原理によって動機づけられていたと推測されます。
立花誾千代は7歳という若さで立花城の城督となりましたが、彼女の具体的な内政手腕や城主としての政策に関する詳細な記録は、現存する資料からは多くを見出すことができません 3 。城督は軍事・行政の長官としての役割を担うものですが 16 、彼女の年齢や当時の慣習を考慮すると、実際の政務の多くは経験豊富な重臣たちによって補佐されていた可能性が高いと考えられます。
しかしながら、夫である宗茂が文禄・慶長の役で朝鮮に出兵し不在であった間、誾千代は領地である柳川で「女子巡邏隊」を組織し、火災の予防や盗賊の取り締まりのために夜間の巡邏活動を行ったという記録が残っています 4 。これは、彼女が単に象徴的な城主であったわけではなく、領内の治安維持といった具体的な統治行動に主体的に関与していたことを示す貴重な事例です。
戦国時代の女性に関する記録は、男性中心の歴史記述の中で埋もれがちであり、特に内政面での功績は詳細が記録に残りにくい傾向があります。誾千代の場合も、その勇ましい武勇伝が数多く語り継がれる一方で、地道な統治活動については不明な点が多いのが現状です。しかし、この女子巡邏隊の組織という一点だけでも、彼女が領民の安全確保に努め、実質的なリーダーシップを発揮していた可能性を十分に示唆しており、彼女の責任感と行動力を物語るものと言えるでしょう。
立花誾千代は、その武勇だけでなく、優れた人間性と統率力によって、家臣や領民から深い信望を集めていたと伝えられています。旧記によれば、彼女は天賦の美貌に加えて文武両道に秀で、聡明で慈愛の心に富み、人並み外れた見識を持ち合わせていたとされます 4 。また、厳格な一面も持ち合わせ、法をもって多くの家臣を統率したと記されています 4 。
平素から兵士たちをよく労り、手厚く養っていたため、家臣たちは皆、誾千代のために命を懸けて戦うことを厭わなかったと言われています 4 。これは、彼女が家臣団からの絶対的な信頼と揺るぎない忠誠心を勝ち得ていたことを明確に示しています。彼女の信望は、単に立花道雪の娘であるという血筋だけでなく、彼女自身の持つ資質、すなわち聡明さ、慈愛、厳格さ、そして武勇といった要素と、領民や家臣に対する具体的な配慮や行動、例えば兵士を養い、領内の治安維持に努めるといった行為に基づいていたと考えられます。
柳川の郷民からは「筑後国の母」として深く敬愛され、「女傑の魁(さきがけ)」と称えられたとされます 4 。また、別居中に住んでいた山門郡西宮永村では、その地の国人たちから心底より敬服されていたという記述も残っています 4 。
関ヶ原の戦いの後、東軍の将である加藤清正が柳川へ侵攻しようとした際、土地の者が「宮永には誾千代姫がおられ、もし姫の指揮の下で土地の者たちが抵抗すれば、多くの槍働きをする者が出るであろうから、戦は避けられないでしょう」と進言したため、清正は宮永を通るルートを避けて進軍したという逸話があります 9 。この話は、たとえ立花家が改易された後であっても、誾千代が地域社会において依然として無視できない強い影響力とカリスマ的な信望を保っていたことを示しており、彼女のリーダーシップと影響力の根深さを物語っています。
関ヶ原の戦いで西軍に与した立花家は、戦後、徳川家康によって改易され、夫・宗茂は筑後柳川13万石の領地を失いました 3 。これにより、宗茂と誾千代は苦難の日々を送ることになります。
二人は肥後熊本藩主であった加藤清正の庇護を受け、宗茂は玉名郡高瀬(現在の熊本県玉名市)に、そして誾千代は実母である宝樹院と共に、同じく肥後国の玉名郡腹赤村(はらかむら、現在の熊本県玉名郡長洲町)に用意された屋敷に移り住みました 2 。この時期、誾千代は夫・宗茂の旧領回復と立花家の再興を心から願い、日々神社に参詣して祈願を続けたと伝えられています 3 。
慶長7年10月17日(西暦1602年11月30日)、立花誾千代は移り住んでいた肥後国腹赤村にて、病のためその短い生涯を閉じました。享年は34歳(数え年では35歳とも)でした 1 。
彼女の法名は「光照院殿泉誉良清大姉(こうしょういんでんせんよりょうせいだいし)」または「光照院殿泉誉良清大禅定尼(だいぜんじょうに)」と伝えられています 4 。また、神としては「瑞玉霊神(みずたまれいしん)」という神号で祀られています 4 。
誾千代の墓所は、彼女が亡くなった熊本県玉名郡長洲町腹赤にあり、その特徴的な形から「ぼたもちさん」と呼ばれ、長洲町の指定文化財として大切に保存されています 10 。また、夫・宗茂が彼女の菩提を弔うために慶長年間(正しくは元和7年・1621年)に建立した福岡県柳川市の良清寺(りょうせいじ)も、彼女の菩提寺として知られています 3 。寺名は、誾千代の法名「光照院殿泉誉良清大禅定尼」に由来しています 3 。
さらに、父・立花道雪、夫・立花宗茂と共に、福岡県柳川市にある三柱神社(みはしらじんじゃ)の祭神として祀られており 2 、今日に至るまで多くの人々に崇敬されています。福岡県柳川市にある立花家史料館では、立花家伝来の貴重な史料が数多く収蔵・展示されており、その中には誾千代に関するものも含まれている可能性があります 2 。
誾千代は若くしてこの世を去りましたが、その死後も夫・宗茂や後世の人々によって手厚く弔われ、その記憶は大切に受け継がれています。特に、宗茂が誾千代の菩提寺を建立したという事実は、別居や衝突があったとされる夫婦関係の中にあっても、彼が誾千代に対して深い情愛や敬意を抱いていたことを強く示唆しています。墓所や神社の存在は、誾千代が単なる歴史上の人物としてではなく、地域社会において今なお敬愛され、その記憶が生き続けている証と言えるでしょう。
立花誾千代の劇的な生涯、類稀な武勇、そして気高い性格は、後世の多くの創作者たちの心を捉え、小説、ゲーム、漫画など、様々な分野の創作物において魅力的なキャラクターとして描かれ続けています 19 。
特に、コーエーテクモゲームスの人気アクションゲーム「戦国無双」シリーズにおいては、誇り高く、一切の妥協を許さない厳格さを持つ女武将として登場し、その凛とした姿と雷を操るかのような迅敏な剣技で、多くのファンを獲得しています 20 。
また、歴史小説の世界でも、葉室麟氏の『無双の花』などで、夫・宗茂との深い絆や、豪傑な奥方としての魅力が描かれていると評されています 21 。これらの創作物における誾千代像は、史実をベースにしつつも、しばしばその勇ましさや気高さがより一層強調され、理想化されたヒーロー・ヒロイン像として描かれる傾向が見られます。これは、彼女の生涯が持つドラマチックな要素が、物語の題材として非常に魅力的であることを示しています。
近年では、地元柳川市を中心に「立花宗茂と誾千代」を主人公としたNHK大河ドラマの実現に向けた招致活動も精力的に行われており 2 、彼女の人物像は現代においても多くの人々を惹きつけ、その歴史的再評価と地域振興への期待が高まっています。
立花誾千代は、戦国時代という動乱の世において、確かな一次史料によってその存在と地位が確認される数少ない女性城主として、日本の女性史において特筆すべき人物です。父・立花道雪の薫陶を受け、幼くして家督を継承し、類稀な武勇と卓越したリーダーシップを発揮して、数々の困難な局面を気丈に乗り越えました。
夫・立花宗茂との間には、単純な夫婦愛だけでは語れない複雑な関係性がありましたが、その根底には立花家を守り抜こうとする共通の意志と、互いの能力を認め合う戦友のような絆があったと推察されます。そして、生涯を通じて胸に抱き続けた「立花の義」は、彼女の行動原理となり、その生き様を方向づけました。これらの要素は、戦国武家の女性が置かれた立場や、その中での主体的な生き方を多角的に示しています。
立花誾千代の生涯は、現代に生きる私たちに対しても多くの示唆を与えてくれます。逆境に屈することなく立ち向かう強靭な精神力、自身の信念を貫き通す確固たる意志、そして家や人々を守ろうとする深い責任感といった要素は、時代を超えて共感を呼ぶ普遍的な価値観と言えるでしょう。
歴史研究の観点からは、ジェンダーの視点を取り入れ、戦国時代の社会構造や女性が果たした役割について再検討を行う上で、誾千代の事例は極めて重要な示唆を与えます。彼女の存在は、従来の男性中心の歴史観に新たな光を当て、より多角的で豊かな歴史理解へと繋がる可能性を秘めています。
また、小説やゲームといった創作物を通じて彼女の魅力が広く伝えられることは、歴史への関心を喚起するだけでなく、彼女ゆかりの地である柳川をはじめとする地域文化の振興にも貢献し得るでしょう。立花誾千代という一人の女性の生き様は、これからも多くの人々に感銘を与え、語り継がれていくに違いありません。