最終更新日 2025-05-28

陽泰院

陽泰院

戦国を生きた賢女、陽泰院 ―鍋島直茂を支え、佐賀藩の礎を築いた「国母」の詳細調査報告―

序章:陽泰院という人物

陽泰院(ようたいいん、天文10年(1541年) – 寛永6年1月8日(1629年2月1日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、激動の時代を生き抜いた女性である。肥前佐賀藩の藩祖鍋島直茂の正室であり、初代藩主鍋島勝茂の生母として、佐賀藩の成立と発展に大きな影響を与えた 1 。その名は彦鶴(ひこつる)姫、後に藤(ふじ)と称し、家中では御簾中(ごれんちゅう)、藤の方、北の方などと呼ばれた。領民からは「国母様(こくもさま)」と慕われ、夫の直茂とともに佐賀県民に人気が高い人物の一人として、今日まで語り継がれている 1

本報告書は、現存する史料に基づき、陽泰院の出自、鍋島直茂との結婚、賢妻としての逸話、歴史的動乱の中での役割、そして晩年から死後、後世への影響に至るまでを多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。陽泰院は、単に「武家の妻」という受動的な立場に留まらず、その聡明さ、機転、そして慈愛に満ちた行動力によって、夫を支え、家と領民を守り、さらには鍋島家の将来を切り拓く上で重要な役割を果たした能動的な女性であった。彼女の生涯を丹念に追うことは、戦国から江戸初期という転換期における女性の生き様、そして地方大名の権力形成過程における内助の功の重要性を明らかにする上で、大きな意義を持つと考えられる。

第一章:出自と前半生

1. 生誕と石井氏の家系

陽泰院は天文10年(1541年)、肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村(現在の佐賀県佐賀市本庄町鹿子)の領主であった石井常延(いしいつねのぶ)の次女として、石井家の居城である飯盛城で誕生した 1 。幼名を彦鶴姫(ひこつるひめ)、後に藤(ふじ)と名乗ったことは、複数の史料で確認できる 1

父である石井常延は、肥前国の戦国大名龍造寺隆信の家老職を務めた有力な武将であった 1 。石井氏は、鎌倉時代に発祥し、室町時代から肥前国を根拠とした藤原姓の武家であり、第57代陽成天皇の曾孫である左大臣藤原顕光の子孫を自称している 3 。本貫は下総国で、本姓は藤原氏(北家九条流)を称し、女系の血統から下総国出身の千葉氏の後裔とも称した 3 。室町時代中期に、親族関係にあった宗胤流千葉氏(小城千葉氏)が下総国内の権益を喪失したことにより、下総国を退去し、その本拠地である肥前国小城郡に移ったとされる 3 。戦国時代には、鍋島氏とともに龍造寺家兼・隆信の最古参の譜代重臣、功臣(水ヶ江譜代)として勢力を拡大し、後に佐賀藩主となった鍋島氏の外戚・重臣として続いた 3 。石井氏は「石井党」「石井一門」「石井寄合衆」と呼ばれる精強な武士団を率い、戦国時代から江戸時代初期にかけて隆盛を極め、佐賀藩に伝わる武士道論書『葉隠』にもしばしば登場する一族である 3

陽泰院の出自である石井氏が、単なる地方の土豪ではなく、龍造寺家中で鍋島氏と並び称されるほどの重要な地位を占めていた名門であったことは、特筆すべき点である。この家柄の高さが、後の鍋島直茂との結婚の背景にも少なからず影響を与えたと考えられる。実際に、陽泰院と直茂の結婚は「譜代家臣団の名門鍋島家と石井家の縁組」と評され、主君である龍造寺隆信も大いに喜んだと記録されている 1 。これは、石井家が鍋島家と遜色ない家格を有していたことを示唆しており、陽泰院個人の資質のみならず、その出自もまた、この重要な縁組を成立させる上で不可欠な要素であったことを物語っている。

2. 母・蓮華院日長尼と黒尾氏

陽泰院の生母は、蓮華院日長尼(れんげいんにっちょうに)といい、九州千葉家の連枝である黒尾氏の娘であったと伝えられている 1

しかしながら、この母方の黒尾氏に関する詳細な系譜、肥前国における具体的な立場、あるいは石井氏や千葉氏との詳細な関係性を示す史料は、現時点での調査では極めて限定的である。当時の記録が父系中心に残される傾向が強い歴史的背景を考慮すると、女性の家系に関する情報が乏しいのは致し方ない面もある。陽泰院自身の事績が比較的多く後世に伝えられているのは、彼女が佐賀藩の「国母」という特別な立場にあったこと、そして鍋島藩による記録編纂の姿勢が影響している可能性が考えられる。黒尾氏については、今後の更なる史料の発見と研究が待たれるところである。

3. 最初の結婚と鍋島直茂との再婚に至る経緯

彦鶴姫は、成人すると、父・常延と同じく龍造寺家の家老職を務めていた納富信澄(のとみのぶずみ)に嫁いだ 1 。信澄との間には一女、後の慈光院(じこういん、佐賀藩家老太田茂連(おおたしげつら)室)をもうけている 1

しかし、この最初の結婚生活は長くは続かなかった。永禄9年(1566年)、夫の信澄が戦死したため、彦鶴姫は幼い娘を連れて実家である飯盛城に戻ることとなった 1

一方、後の夫となる鍋島直茂もまた、最初の妻とは離縁していた。前妻の父が敵方に内応したことが原因であったとされている 2 。このように、彦鶴姫と鍋島直茂は、共に配偶者との別離を経験した後の再婚であった。二人がどのように出会い、結婚に至ったのかについては、次章で詳述する。

第二章:鍋島直茂の正室として

1. 鍋島直茂との結婚 – 「鰯の逸話」と恋愛結婚の側面

彦鶴姫と鍋島直茂が結婚したのは、永禄12年(1569年)のことである。この時、直茂は32歳、彦鶴姫は29歳であった 1 。当時の結婚年齢を考えると、二人とも決して若くはなく、特に女性の29歳での初婚(再婚ではあるが)は晩婚と言えるだろう 2

二人の出会いのきっかけとして、あまりにも有名なのが「鰯の逸話」である。『葉隠』をはじめとする複数の史料がこの逸話を伝えている 1 。ある時、主君の龍造寺隆信が有馬晴純との合戦に勝利し、その帰途に飯盛城に立ち寄った。城主である石井常延は、隆信一行に昼食を振る舞うことになったが、供の人数が非常に多かったため、鰯を焼く準備に侍女たちが手間取っていた。その様子を見た彦鶴姫は、自ら釜戸から燃える薪を庭にかき出し、その上に鰯を並べて次々と手際よく焼き上げてみせた。この機転の利き方と働きぶりに深く感銘を受けた直茂は、「あのように機転の利く妻を持ちたいものだ」と強く思い、彦鶴姫に求婚したとされている。

この結婚は、譜代家臣団の中でも名門である鍋島家と石井家の縁組であり、主君の龍造寺隆信も大変喜んだと記録されている 1 。しかし、単なる家同士の結びつき以上に、直茂個人の彦鶴姫に対する強い想いがあったことを示唆する逸話も残されている。直茂が彦鶴姫に夢中になり、人目を忍んで彼女のもとに通っていた際、夜陰に紛れて塀を乗り越えようとしたところを盗人と間違えられ、家来に斬りつけられそうになり、足の裏に怪我をしたという話である 2 。真偽のほどは定かではないが、こうした逸話が生まれるほど、直茂の熱意は並々ならぬものであったのだろう。これらのことから、二人の結婚は、戦国時代に主流であった政略結婚とは異なり、個人の魅力や感情が大きく作用した、当時としては珍しい「恋愛結婚」の側面が強かったと考えられている 1 。この情熱的な始まりが、後の長く幸福な夫婦生活の礎となったのかもしれない。

2. 夫婦関係と子供たち

陽泰院と鍋島直茂の夫婦仲は、終生にわたり極めて良好であったと伝えられている。直茂は隠居した後も、重要な事柄については「かか」(妻を指す当時の言葉)と陽泰院に呼びかけ、相談したと言われるほど、深く信頼し合っていた 1 。その仲睦まじい様子は、安土桃山時代を代表する「おしどり夫婦」として、後世に語り継がれるほどであった。二人の夫婦生活は、実に49年という長きに及んだ 2

直茂との間には、二男二女、合わせて四人の子供たちが生まれた 1 。長男の鍋島勝茂は、後に佐賀藩の初代藩主となり、次男の鍋島忠茂は鹿島藩主となった。女子については、次女の千鶴姫が佐賀藩家老の多久安順(たくやすとし)に嫁ぎ、三女の彦菊姫は同じく家老の諫早直孝(いさはやなおたか)に継室として嫁いだ。これらの子供たちの婚姻関係は、鍋島家と藩内の有力家臣団との結びつきを強化し、佐賀藩の安定に寄与したと考えられる。

表1:陽泰院の子供たち一覧

氏名

生年・没年(判明分)

配偶者

主な事績・役割

出典例

納富信澄との子

慈光院(長女)

不明

太田茂連(佐賀藩家老)

1

鍋島直茂との子

千鶴姫(次女)

不明

多久安順(佐賀藩家老)

1

彦菊姫(三女)

不明

諫早直孝(佐賀藩家老、継室)

1

鍋島勝茂(長男)

天正8年(1580年) - 万治2年(1659年)

徳川家康養女・高源院(岡部長盛娘)

佐賀藩初代藩主

1

鍋島忠茂(次男)

天正10年(1582年) - 寛永11年(1634年)

春日局の姪

肥前鹿島藩初代藩主

1

(伊勢龍姫)

(義理の娘)

(鍋島茂里室)

(※母は高木胤秀女慶円。陽泰院の実子ではないが、家族の一員として記載されることあり)

1

この表により、陽泰院の家族構成と、子供たちが鍋島藩内でどのような位置を占めていたかが明確になる。特に、長男の勝茂が初代藩主となったことは、陽泰院が「国母」と称される直接的な理由であり、彼女の存在が藩の黎明期においていかに重要であったかを物語っている。

3. 鍋島茂里の養母として

陽泰院は、夫である直茂が養子として迎えた鍋島茂里(なべしましげさと)の養母ともなった 3 。茂里は、陽泰院の実家である石井家の石井信忠の子であり、陽泰院から見れば大甥(姉の子の長男)にあたる人物である。茂里は直茂の娘である月窓院(げっそういん、伊勢龍姫とも)と結婚し、後に佐賀藩の家老職を世襲する鍋島主水家(なべしまもんどけ)の祖となった 12

陽泰院が茂里の養母となったことは、単に家族関係を築いただけではなく、石井家と鍋島家の結びつきをより一層強固なものにするという政治的な意味合いも含まれていたと考えられる。陽泰院自身が石井氏の出身であることに加え、彼女の大甥が直茂の婿養子となり、さらに陽泰院がその養母となることで、石井一門の鍋島家への取り込みはより円滑に進み、直茂の藩内における権力基盤の強化に繋がったと推測される。これは、鍋島体制の安定と発展に少なからず寄与したと言えるだろう。

第三章:陽泰院の人物像と賢妻としての役割

1. 『葉隠』等に見る性格、知性、機転

陽泰院の人となりを伝える史料は、彼女が「気丈夫で聡明、かつ慈悲深い性格」の持ち主であったことを示唆している 1 。その知性と機転を示す代表的なエピソードが、前述した「鰯の逸話」である 1 。この逸話は、単に手際が良いというだけでなく、予期せぬ事態にも臨機応変に対応できる判断力と実行力を兼ね備えていたことを物語っている。

また、当時の武家の習俗であった「後妻打ち(うわなりうち)」への対応にも、陽泰院の非凡さが表れている。「後妻打ち」とは、離縁された先妻が後妻を妬み、親族などを引き連れて後妻の家に押しかけ、すりこぎや鍋蓋といった日用品を武器に打ち据えるというものであった 2 。直茂の前妻も、陽泰院に対してこの「後妻打ち」を幾度か仕掛けたとされるが、陽泰院は力で応戦するのではなく、その「応対ぶり」が実に見事であったと伝えられている 2 。頭に血を上らせて押しかけてくる相手に対し、陽泰院は丁寧に接し、巧みに宥め、穏便に帰らせたというのである。これは、単なる口先だけの対応ではなく、相手の感情を理解し、その心をつかむ術を心得ていたこと、そして何よりも冷静沈着な判断力と度量の大きさを持ち合わせていたことを示している。戦国時代の女性が直面したであろう複雑な人間関係や困難な状況を、力ではなく知恵と交渉力で乗り越える陽泰院の姿は、彼女が単に受動的な存在ではなく、主体的に事態を収拾する能力を持っていたことを強く印象付ける。

2. 内助の功 – 夫への支援と「国母様」としての評価

鍋島直茂は、主君である龍造寺隆信の重臣として、その覇業に多大な貢献をし、生涯の多くを戦場で過ごした 1 。陽泰院は、そうした夫を陰で支え続け、家庭を守り、夫が安心して戦いに専念できる環境を整えた。まさに「内助の功」を体現した女性であったと言える。

『葉隠』には、陽泰院が夫・直茂と共に家臣や領民を深く思いやっていたことを示す記述が見られる 1 。その慈悲深い人柄は広く知られ、領民からは「国母様」と尊称され、敬愛された 1 。この呼称は、単なる藩主の妻に対する敬称を超え、領民からの実質的な敬愛の念の表れであったと考えられる。その人気は現代にまで及び、夫の直茂と共に佐賀県民に親しまれる歴史上の人物の一人となっている。

陽泰院の慈悲深さと、それに対する家臣の深い恩義を示す逸話として、田尻善右衛門の話が伝えられている。龍造寺隆信が、敵対した筑後国の国人領主・田尻鑑種の人質として預かっていた幼い善右衛門を処刑しようとした際、刑場で死を待つ幼子の姿を見た陽泰院は深く憐れみ、隆信に善右衛門の助命を強く嘆願した。陽泰院の強い願いを聞き入れた隆信は、善右衛門を助命し、陽泰院に預けることにした。その後、善右衛門は成長して佐賀藩士となり、陽泰院が亡くなった際には、「この命はそもそも奥方様に助けられた命である」と言い残し、殉死を遂げたとされる 1 。この逸話は、陽泰院の人間的な温かさと、身分を超えた深い絆の存在を物語っている。

また、陽泰院は単に情け深いだけでなく、危機的状況においては卓越したリーダーシップと判断力を発揮した。天正12年(1584年)3月24日、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に敗れて戦死し、鍋島家や陽泰院の実家である石井家からも多数の戦死者を出すという壊滅的な敗北を喫した。この敗報に接し、留守を守る家臣団が動揺する中、陽泰院は「鍋島直茂の妻」として、実家の石井家や家臣たちに冷静沈着に書状を送り、家臣団の結束を固め、混乱を収拾するよう努めたとされている 1 。これは、彼女が非常時においても冷静さを失わず、的確な指示を下せる指導者としての資質をも備えていたことを示している。

さらに、陽泰院の存在が、鍋島氏の台頭に間接的な影響を与えた可能性を示唆する説もある。主君・龍造寺隆信の母であり、直茂の父の後妻でもあった慶誾尼(けいぎんに)は、隆信の死後、その子・政家の子である高房がまだ幼少であったため、龍造寺家の家督を直茂に譲るよう提言したとされる 2 。この時、女傑として知られた慶誾尼が、豊臣秀吉からの評価も高かった直茂に龍造寺家の将来を託す決断を下した背景には、直茂の妻である陽泰院の優れた人物を見抜き、「このような賢妻を迎えている男であれば、家を任せても大丈夫だろう」と判断したからではないか、というのである 2 。この説が事実であれば、陽泰院の人格そのものが、夫・直茂の評価を高め、結果として鍋島氏が龍造寺氏に代わって肥前国の支配権を掌握する上で、重要な役割を果たしたことになる。

陽泰院が「国母様」と慕われた背景には、彼女の慈悲深さや家臣・領民への細やかな配慮のみならず、危機的状況における的確な判断力と行動力、そして夫・直茂の政治的成功を陰に陽に支えた「賢夫人」としての卓越した資質があったと考えられる。彼女の個人的な魅力と能力が、鍋島家の家格向上、ひいては佐賀藩の成立と発展に大きく貢献したと言っても過言ではないだろう。

第四章:歴史的動乱の中の陽泰院

1. 文禄・慶長の役と陽泰院

豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役(1592年~1598年)は、日本の多くの大名家を巻き込んだ大規模な対外戦争であった。陽泰院の夫である鍋島直茂も、龍造寺軍の主力として朝鮮半島へ出陣している 3

この戦役の最中、豊臣秀吉が名護屋城(佐賀県唐津市)に滞在し、出陣中の大名の妻子を招いて慰労の宴を催したことがあった。しかし、秀吉の好色ぶりは当時から広く知られており、諸大名の妻たちにとっては、この招きに応じることは少なからぬ不安を伴うものであった。陽泰院もこの招きを受けたが、彼女はそのような状況を冷静に判断し、丁重に辞退したと伝えられている 1

ところが、豊臣家側から「前例となると他の大名家に示しがつかない」という強い意向が伝えられると、陽泰院は単に拒絶し続けることの政治的リスクを考慮し、一転して出席の意向を示した。しかし、その際、彼女はわざとみすぼらしい、あるいは奇抜で魅力に欠ける髪型と化粧を施し、秀吉に拝謁したという逸話が残っている 1 。この行動は、陽泰院が貞淑な妻としての規範を守りつつも、最高権力者である秀吉の意向を無下にはできないという政治的な判断、そして何よりも自身の身と鍋島家を守るための知恵と勇気を示すものであったと言える。単に頑なな態度を取るのではなく、相手の面子を立てつつも、巧みに危険を回避しようとする高度な判断力と処世術がうかがえる。これは、当時の女性が置かれた厳しい状況の中で、いかにして自己と家門の尊厳を保ちながら生き抜いたかを示す好例と言えよう。

2. 関ヶ原の戦いと陽泰院 – 大坂での状況と書状

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、豊臣政権の終焉と徳川幕府の成立を決定づけた、日本の歴史における一大転換点であった。この天下分け目の戦いの頃、陽泰院は大坂に滞在しており、実質的には人質に近い状況にあったと考えられている 7

この時期の陽泰院の動向を伝える貴重な史料として、慶長5年8月23日付で、彼女が龍造寺清兵衛(馬場茂員)に宛てたとされる書状(消息)が現存している 7 。この書状の内容から、当時大坂にいた陽泰院が、龍造寺高房(藤八郎君)と鍋島勝茂(信濃守、陽泰院の実子)の軍勢が、西軍方として伏見城攻めに参加した後、近江国草津まで陣替え(移動)したという情報を正確に把握していたことがわかる。この情報は、『直茂公譜』や『勝茂公譜』といった鍋島家の公式な記録には見られないものであり、当時の鍋島軍の具体的な動向を知る上で重要な手がかりとなる。

書状の中で陽泰院は、特に龍造寺高房の身を案じている。高房はこの時まだ15歳で初陣であり、陽泰院は彼の側近たちに対して万事抜かりなく世話をするよう懇願している。また、実子である鍋島勝茂(当時21歳)に対しても、若輩であるため、万事を見合わせて(慎重に判断して)父・直茂や他の重臣たちに意見具申するようにと、細やかな指示を与えている。注目すべきは、龍造寺高房を「とう八さま」と敬称をつけて記しているのに対し、実子である勝茂を「しなの」(官途名の信濃守)と呼び捨てに近い形で記している点である。これは、この時点において陽泰院が、龍造寺家を依然として主筋の家柄として認識し、全軍を「龍造寺」の軍であると公式には位置づけていたことを示唆している 7

関ヶ原の戦いという国家的な動乱期にあって、陽泰院が大坂で人質同然の不自由な立場にありながらも、情報収集に努め、遠く離れた戦地にいる息子や主家の後継者の身を案じ、具体的な指示や配慮を伝えていた事実は、彼女が単なる受動的な存在ではなく、困難な状況下にあっても家のために能動的に関与しようとしていた強い意志の表れである。また、書状に見られる龍造寺家への配慮は、鍋島家がまだ龍造寺家の家臣という立場を完全に脱しきっておらず、徳川方への帰順も未確定であった当時の複雑で微妙な政治的状況を反映しているとも解釈でき、歴史的にも興味深い。

第五章:晩年と死後

1. 隠居後の生活、長寿と死去、殉死者

慶長12年(1607年)、夫である鍋島直茂が70歳で隠居し、家督を嫡男の勝茂に譲った後も、陽泰院は直茂と共に佐賀で穏やかな老後の生活を送ったと伝えられている 1 。『葉隠』には、隠居した直茂が陽泰院と仲睦まじく暮らす様子や、何事も「かか」と呼んで相談したという記述があり、二人の絆の深さがうかがえる。

陽泰院は、鍋島氏が名実ともに佐賀藩の藩主となり、その体制が磐石なものとなったことを見届けた後、寛永6年1月8日(1629年2月1日)、89歳という当時としては驚異的な長寿を全うしてこの世を去った 1 。これは、夫・直茂が元和4年(1618年)に81歳で死去し、陽泰院が落飾(出家して尼となること)してから10年後のことであった 1 。戦国時代から江戸時代初期にかけての平均寿命を考えると、この長寿は特筆すべきであり、彼女が比較的安定した、満ち足りた晩年を送ることができたことを示唆している。

陽泰院の死に際しては、かつて彼女によって命を救われた田尻善右衛門をはじめ、数名の側近の武士が殉死したと伝えられている 1 。殉死は、当時の主従関係における忠誠心の表れとされるが、特に田尻善右衛門の殉死は、陽泰院個人の慈悲深さに対する深い恩義と敬愛の念に基づくものであり、彼女の人徳がいかに高かったかを雄弁に物語っている。

2. 墓所と菩提寺 – 高伝寺

陽泰院の墓所は、佐賀藩鍋島家の菩提寺である高伝寺(こうでんじ、佐賀県佐賀市本庄町)に営まれている 1 。高伝寺は、1552年(天文21年)に鍋島直茂の祖父である鍋島清房によって創建された曹洞宗の寺院で、以後、佐賀藩鍋島家の菩提寺として篤い信仰を集めた 23

陽泰院の墓石に関しては、興味深い逸話が伝えられている。それは、夫である鍋島直茂が文禄・慶長の役で朝鮮に出陣した際、陣中で一夜の枕として用いた石を持ち帰り、その石が後に陽泰院の墓石として用いられたというものである 1 。そして、その墓石は、直茂自身の墓石に寄り添うように建てられているという。この逸話は、二人の夫婦仲の深さと、死後も共にありたいという願いを象徴するものとして、人々の心に深く刻まれている。

さらに、高伝寺の釈迦堂には、承応4年(1655年)、初代藩主である鍋島勝茂が、亡き父・直茂と母・陽泰院の菩提を弔うために奉祀した釈迦三尊像(佐賀県指定重要文化財)が安置されている 11 。この釈迦三尊像は、勝茂が長崎で購入させた赤栴檀(しゃくせんだん)という香木を用い、京の仏師・宗仁に制作させたものであり、禅宗様建築の特色が見られる立派なものである 11 。これらの事実は、陽泰院が息子である勝茂からも深く敬愛され、その冥福が篤く祈られていたことを示している。墓石の由来や、息子による追善供養は、陽泰院が家族から深く愛され、敬われていたことの証左であり、特に夫の遺品ともいえる石を墓石にするという行為には、夫婦の強い絆を後世に伝えようとする意図が感じられる。

3. 西林寺の開基

陽泰院は、その信仰心の篤さから、晩年には寺院の開基も行っている。佐賀県佐賀市嘉瀬町大字十五にある曹洞宗の寺院、西林寺(さいりんじ)がそれである 1

史料によると、西林寺は元和3年(1617年)、陽泰院が大円宗淳(だいえんそうじゅん)和尚を開山として招き、創建されたと記録されている 25 。創建以来、西林寺は代々の佐賀藩主鍋島家から厚い崇敬を受けてきた 25

なお、西林寺の山号については、資料によって「金塔山(きんとうざん)」 25 と「玉塔山(ぎょくとうざん)」 25 の二つの記述が見られ、どちらが正確であるかについては更なる確認が必要である。

陽泰院が西林寺を開基した具体的な意図や目的、あるいは寺に残る陽泰院関連の遺品や記録に関する詳細な情報は、現時点の提供資料からは限定的である。しかし、晩年の寺院開基という行為は、陽泰院の信仰心の深さを示すと同時に、自身の菩提や一族の安寧を願うという、当時の貴人の一般的な行動様式に沿ったものであったと考えられる。そして、この西林寺が鍋島家から篤い崇敬を受けたという事実は、陽泰院の遺志が後継者たちによって尊重され、彼女の宗教的な権威が後世にも影響を与え続けたことを示唆している。

4. 院号「陽泰院」の由来

陽泰院の院号である「陽泰院」の具体的な由来、例えばその仏教的な意味合いや、鍋島家における命名の慣例などについては、残念ながら提供された資料からは明確な情報を見出すことができなかった 2 。院号は、その人物の徳や功績、あるいは信仰に関連する文字が選ばれることが一般的であるが、「陽泰院」という名称に込められた具体的な意味を探ることは、今後の調査における重要な課題の一つと言えるだろう。

第六章:後世への影響と評価

1. 佐賀における陽泰院の記憶と顕彰

陽泰院は、生前から「国母様」として領民に慕われていたが、その人気と影響力は彼女の死後も長く続き、夫である鍋島直茂と共に、佐賀県民にとって最も親しまれる歴史上の人物の一人として、今日まで語り継がれている 1

彼女の墓所がある高伝寺や、自らが開基した西林寺は、陽泰院ゆかりの地として、今もなお佐賀の人々によって大切に守られている 1 。これらの寺社は、陽泰院の信仰心や、鍋島家の歴史を今に伝える貴重な文化遺産となっている。

また、佐賀県立図書館には、陽泰院が記したとされる「陽泰院消息」などの関連史料が所蔵されており、これらは彼女の人物像や当時の状況を研究する上で重要な手がかりとなっている 7 。これらの史料の存在は、陽泰院の記憶を物理的かつ学術的に支える基盤となっている。

陽泰院が没後数百年を経てもなお、佐賀の地でこれほどまでに人気が高いという事実は、彼女の人物像や事績が単なる歴史上の記録として留まるのではなく、地域の人々の心に深く刻まれ、一種の文化的な記憶として大切に継承されてきたことを示している。これは、彼女が佐賀藩の形成期において果たした役割の大きさと、その人間的な魅力が、時代を超えて後世の人々に強く訴えかける力を持っていることの証左と言えるだろう。

2. 歴史的人物としての陽泰院の意義

陽泰院は、戦国時代から江戸時代初期という、日本史における大きな転換期を生きた女性である。彼女は、武家の女性として、妻として、そして母として、さらには時には政治的な判断力をも求められる状況の中で、家と領地の安定、そして発展に大きく貢献した重要な人物であった。

彼女の聡明さ、機転の利き方、慈悲深い心、そして困難な状況における冷静な判断力と勇気ある行動力は、当時の女性としては際立っており、後世の人々にとって一つの模範ともなり得るものであった。特に、夫・直茂を支えた内助の功は、佐賀藩成立の陰の力として高く評価されるべきである。

『葉隠』などを通じて伝えられる彼女の数々の逸話は、武士道の理想像を語るだけでなく、人間的な温かみや生活の知恵をも示しており、陽泰院という人物の多面的な魅力を浮き彫りにしている。彼女の生涯は、激動の時代を生きる一人の女性の強さと優しさ、そして知恵を私たちに教えてくれる。

結論:陽泰院の総合的評価

陽泰院は、戦国時代から江戸時代初期にかけての肥前佐賀において、藩祖鍋島直茂の正室、そして初代藩主鍋島勝茂の生母として、佐賀藩の礎を築く上で計り知れない貢献を果たした女性である。彼女の生涯は、単に「武家の妻」という枠を超え、その聡明さ、機転、慈悲深さ、そして困難な状況における決断力と行動力によって、夫を支え、家臣領民を思いやり、時には政治的な役割さえも担った、まさに「国母」と呼ぶにふさわしいものであった。

「鰯の逸話」に見る機知、「後妻打ち」への巧みな対応、田尻善右衛門を救った慈悲、沖田畷の戦い後の家臣団結束への尽力、豊臣秀吉への毅然とした態度、そして関ヶ原の戦いにおける大坂での情報収集と指示など、彼女の逸話は枚挙にいとまがない。これらは全て、陽泰院が類まれな資質を持った女性であったことを物語っている。夫・直茂との深い愛情と信頼関係は、49年という長い夫婦生活を支え、隠居後も互いに相談し合う仲であったことは、当時の武家社会において特筆すべき点である。

89歳という長寿を全うし、その死に際しては殉死者まで出たことは、彼女がいかに人々から敬愛されていたかを示している。高伝寺の墓所や、自ら開基した西林寺は、今もなお彼女の遺徳を偲ぶ場として大切にされている。

本報告書では、現存する史料に基づき、陽泰院の多岐にわたる側面を明らかにしてきた。しかしながら、彼女の院号「陽泰院」の具体的な由来や、母方の黒尾氏に関する詳細な情報など、未だ解明されていない点も残されている。これらの課題は、今後の更なる史料の発見と研究によって明らかにされることが期待される。

陽泰院の生涯は、激動の時代を生き抜いた一人の女性の力強さと賢明さ、そして人間的な温かさを私たちに示してくれる。彼女の存在は、佐賀藩の歴史においてのみならず、日本の近世初期における女性の役割を考える上で、貴重な示唆を与えてくれると言えるだろう。

補遺:陽泰院 略年譜

表2:陽泰院 略年譜

年代(和暦)

年代(西暦)

年齢(数え)

主な出来事

出典例

天文10年

1541年

1歳

肥前国飯盛城にて石井常延の次女として誕生。幼名、彦鶴。

1

永禄年間初期?

1560年代前半?

20代前半?

納富信澄に嫁ぐ。長女・慈光院を儲ける。

1

永禄9年

1566年

26歳

夫・納富信澄が戦死。実家に戻る。

1

永禄12年

1569年

29歳

鍋島直茂(32歳)と結婚。

1

天正8年

1580年

40歳

長男・鍋島勝茂(後の佐賀藩初代藩主)誕生。

1

天正10年

1582年

42歳

次男・鍋島忠茂(後の鹿島藩主)誕生。

1

天正12年

1584年

44歳

沖田畷の戦い。龍造寺隆信戦死。陽泰院、家臣団に書状を送り結束を促す。

1

文禄・慶長の役

1592年-1598年

52歳-58歳

夫・直茂が出征。豊臣秀吉の招きに対し、機転を利かせた対応をする。

1

慶長5年

1600年

60歳

関ヶ原の戦い。大坂に滞在中、龍造寺高房・鍋島勝茂らに書状を送る。

7

慶長12年

1607年

67歳

夫・直茂が隠居。

2

元和3年

1617年

77歳

佐賀市嘉瀬町に西林寺を開基。

1

元和4年

1618年

78歳

夫・鍋島直茂が死去(享年81)。陽泰院、落飾する。

1

寛永6年1月8日

1629年2月1日

89歳

死去。高伝寺に葬られる。田尻善右衛門らが殉死。

1

承応4年

1655年

-

息子・鍋島勝茂が、父母の菩提を弔うため高伝寺に釈迦三尊像を奉祀。

23

引用文献

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  2. 陽泰院~夫・鍋島直茂を支えた良妻 | WEB歴史街道|人間を知り ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4916
  3. 肥前石井氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E7%9F%B3%E4%BA%95%E6%B0%8F
  4. 陽泰院様物語 - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=721
  5. 肥前 石井氏館-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/ishiishi-yakata/
  6. 石井常延 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%B8%B8%E5%BB%B6
  7. 関ヶ原の戦い関連の鍋島家関係文書についての考察 - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=9490
  8. 常照院 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%85%A7%E9%99%A2
  9. サンマにフグにイワシにブリ、魚と武将のエトセトラ /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18306/
  10. 戦国時代に自由恋愛のバツイチ婚!鍋島直茂夫婦のキューピットはまさかの「鰯」? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/108234/
  11. 佐賀城鯱の門及び続櫓 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads_/26052_20101216035928.pdf
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  13. 嫉妬に駆られた妻同士の戦い「うわなり打」とは?室町・戦国の奇妙な風習や恋愛模様を解説! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/104578/
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  15. 佐賀藩の殉死にみる﹁御側仕え﹂の心性 - 早稲田大学 https://www.waseda.jp/inst/wias/assets/uploads/2018/09/RB007-078-096.pdf
  16. 文禄・慶長の役|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=495
  17. 安土桃山時代 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34608_20121227125631.pdf
  18. 『佐賀県近世史料』 - 佐賀県立図書館 https://www.tosyo-saga.jp/page_id210/page_id466
  19. 図録「鍋島直茂・勝茂の時代」 https://www.nabeshima.or.jp/site_files/file/catalogue53_sample.pdf
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  24. 鍋島玄蕃家 ~佐賀藩千葉家~ https://chibasi.net/kyushu32.htm
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  26. 豊後より攻め来った大友氏、小城の千葉氏、佐嘉城周辺の諸領主達による戦闘の繰返しは - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34621_20121227052537.pdf
  27. 平成11年6月8日第三種郵便物竪可(年4回2・5・8・11月5日発行) そうせい 第113号 平成13年5月5日発行 - 全国曹洞宗青年会 https://sousei.gr.jp/sousei/113.pdf
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  34. 「直茂様御教訓ヶ条覚書」の成立とその意義 : 近世武 家「家訓」の性絡をめぐる一考察 - 九州大学 https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4494708/030_p067.pdf
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  40. 令和4年度 佐賀県立図書館年報 https://www2.tosyo-saga.jp/kentosyo/toshokan/nenpou/!R4.pdf