坂戸城の戦い(1578~79)
天正六年、御館の乱にて上杉景勝の本拠坂戸城は北条の大軍に攻められた。堅固な城と上田衆の奮戦、そして豪雪により北条軍を退ける。この防衛成功が甲越同盟締結を促し、御館の乱の趨勢を決定づけ、直江兼続の台頭を促しし一戦なり。
不落の城塞 ― 天正六・七年 坂戸城攻防戦の時系列的再構築と戦略的考察
第一部:龍の死、そして越後に走る亀裂 ― 御館の乱の勃発
1-1. 謙信の急逝と権力の空白
天正6年(1578年)3月13日、「軍神」と謳われた越後の領主、上杉謙信が春日山城内の厠で倒れ、意識が戻らぬまま急逝した 1 。享年49。この突然の死は、一大勢力を築き上げた上杉家に未曾有の危機をもたらした。謙信が生涯不犯を貫き、実子を持たなかったことに加え、後継者を明確に指名した遺言が存在しなかったためである 3 。戦国時代において、確たる後継者の不在は、家中の分裂を招き、ひいては周辺勢力からの侵攻を誘発する最大の脆弱性であった 4 。謙信という絶対的な求心力を失った上杉家臣団は、二人の養子のいずれを新たな主君として奉じるか、それぞれの出自や利害に基づき、大きく二分されることとなる。越後国内に走った亀裂は、やがて血で血を洗う内乱へと発展していく。
1-2. 二人の養子 ― 景勝と景虎
上杉家の家督を継ぐ資格を持つと目されたのは、二人の養子であった。
一人は、 上杉景勝 。謙信の実姉である仙桃院を母に持ち、坂戸城主・長尾政景を父に持つ、謙信の正統な甥である 4 。坂戸城を本拠とする上田長尾氏の出身であり、謙信存命中は「御中城様」と呼ばれ、上杉一門衆の筆頭格と見なされていた 7 。彼の支持基盤は、自身の出身母体である魚沼郡の国人衆「上田衆」が中核を成していた 2 。
もう一人は、 上杉景虎 。関東に覇を唱える相模の雄、北条氏康の実子(七男)であり、かつて上杉家と北条家が結んだ越相同盟の証として、人質として越後へ送られ、謙信の養子となった人物である 4 。その出自から、実家である後北条家の強力な軍事的支援が期待できた。実際に北条家の記録では、景虎が後継者であったと示唆する記述も存在する 4 。景虎の周囲には、上田長尾氏と歴史的に対立関係にあった古志長尾氏などが馳せ参じた 9 。
この対立構造は、単なる個人の家督争いという側面だけでは説明できない。その根底には、謙信の父・長尾為景の時代から続く、越後国内の根深い地域的・政治的対立が存在した。特に、景勝を支える上田長尾氏と、景虎を支持した古志長尾氏は、長年にわたり勢力を争ってきた宿敵同士であった 9 。謙信という絶対的な権威によって抑えられていた国人領主間の構造的な対立が、彼の死をきっかけとして一気に噴出したのである。家臣たちがどちらの養子を支持したかは、個人の資質や関係性以上に、自身が属する勢力の歴史的利害関係に大きく左右された。御館の乱は、謙信亡き後の越後における、新たな覇権を巡る代理戦争の様相を呈していた。
1-3. 先手必勝、景勝の春日山城掌握
この混乱の中、いち早く行動を起こしたのは景勝であった。謙信の死からわずか2日後の3月15日、景勝は「謙信公の遺言である」と称し、電光石火の速さで春日山城の本丸(実城)、そしてそこに蓄えられていた莫大な軍資金が眠る金蔵と兵器蔵を完全に掌握した 1 。これは、自身こそが正統な後継者であることを家中に宣言する、クーデター的行動であった 3 。
この初動の持つ戦略的意味は計り知れない。春日山城の実城を抑えることは、越後国主の地位を事実上宣言するに等しい行為であった 3 。さらに重要なのは、謙信が長年の遠征で蓄えた軍資金(一説には一万両とも言われる)を独占したことである 4 。これにより、景勝は長期にわたる内乱を戦い抜くための絶対的な経済的優位性を確保した。戦が金で動くことを熟知していたからこその戦略的行動であり、この時まだ19歳であった側近の樋口与六(後の直江兼続)のような、兵站の重要性を理解する人物の進言があった可能性も否定できない。実家である北条家の支援を当てにする景虎陣営とは対照的に、自らの手で戦争遂行能力を確保したこの行動の差が、後の戦局を大きく左右することになる。
1-4. 景虎、御館へ ― 対立構造の確定
春日山城の中枢を景勝に押さえられ、身の危険を感じた景虎は、同年5月、城内の二の丸から退去。前関東管領であった上杉憲政の居館として築かれた「御館(おたて)」へと移り、そこを拠点として景勝に対抗する姿勢を明確にした 4 。ここに、春日山城に拠る景勝と、御館に立て籠もる景虎という、越後を二分する内乱の構図が完全に成立したのである 14 。
【表1】御館の乱 主要人物と勢力分布図
勢力 |
主要人物 |
主な支持勢力・出身 |
本拠地・拠点 |
景勝方 |
上杉景勝 |
上田衆(栗林政頼、深沢利重など)、斎藤朝信、新発田長敦 |
春日山城、坂戸城 |
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直江兼続(樋口与六) |
上田衆、景勝側近 |
(坂戸城下出身) |
景虎方 |
上杉景虎 |
古志長尾氏(上杉景信)、北条景広、本庄秀綱 |
御館、鮫ヶ尾城 |
|
上杉憲政 |
前関東管領 |
御館 |
外部勢力 |
北条氏政・氏照 |
景虎の実家、関東の覇者 |
小田原城 |
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武田勝頼 |
甲斐・信濃の領主、当初は景虎支援 |
躑躅ヶ崎館 |
その他 |
揚北衆(下郡国衆) |
北越後の独立性の高い国人衆 |
(当初は日和見多し) |
第二部:坂戸城攻防戦 ― 北条の大軍、三国峠を越ゆ
景勝と景虎の対立が鮮明になる中、戦局を大きく左右する外部からの介入が始まった。景虎の実家である後北条家が、大軍を越後へ向けて進発させたのである。その進路上に立ち塞がったのが、景勝の揺るぎない本拠地、坂戸城であった。
【表2】坂戸城攻防戦 詳細年表(天正6年夏~7年春)
年月 |
坂戸城周辺の動向(北条軍・上田衆) |
春日山・御館周辺の動向(景勝・景虎) |
外部要因(武田・織田の動き) |
天正6年 (1578) |
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5月 |
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景虎が御館へ移る。両軍の小競り合いが激化 13 。 |
武田勝頼、北条からの要請を受け越後へ出兵準備 15 。 |
6月 |
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景勝方が交通の要所を奪取。御館への補給路を脅かす 13 。 |
景勝、勝頼に和睦の使者を派遣。甲越同盟の交渉が始まる 4 。 |
8月 |
北条氏照・氏邦率いる数万の軍勢が三国峠を越え、越後へ侵攻。 |
景勝と景虎の間で一時的な和睦が成立するも、すぐに破綻 13 。 |
北条軍、常陸の佐竹氏との戦線を抱えつつ、越後へ派兵 16 。 |
9月 |
北条軍、荒戸城・樺沢城を攻略後、坂戸城を包囲 17 。城代・深沢利重、栗林政頼らが籠城戦を開始。 |
御館の景虎方、北条軍の到着に士気を上げる。 |
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10月 |
北条軍、坂戸城の堅固な守りを前に攻めあぐね、戦況は膠着。 |
御館で兵糧の窮乏が深刻化し始める 14 。 |
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12月 |
魚沼地方に豪雪。北条軍主力はこれ以上の作戦継続を断念し、関東へ撤退 17 。 |
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天正7年 (1579) |
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2月 |
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雪解けを待たず、景勝方が御館への総攻撃を開始 14 。 |
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3月 |
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御館が落城。景虎は脱出し、鮫ヶ尾城へ逃れるも自害 12 。 |
甲相同盟が事実上崩壊。武田と北条の関係が悪化 18 。 |
2-1. 景虎の救援要請と北条の決断
御館に籠もった景虎は、戦況を打開すべく、実家である小田原の北条氏政に急使を送り、大々的な援軍を要請した 8 。氏政にとって、弟の景虎が越後国主の座に就くことは、長年の宿敵であった上杉家を事実上、支配下に置くことを意味した。これは関東における北条家の覇権を盤石にする、またとない好機であった。氏政は弟の北条氏照、あるいは氏邦を総大将とする大軍の派遣を決定する 16 。しかし、この時北条家は常陸の佐竹氏とも交戦中であり、即座に全力を投入できる状況ではなかったことが、後の作戦に微妙な影を落とす 16 。
2-2. 侵攻軍の編成と進路
天正6年夏、北条の侵攻軍は数万の規模で上野国(現在の群馬県)に集結したと推定される 21 。彼らが選択した進路は、関東と越後を最短で結ぶ三国峠越えのルートであった 14 。険しい山道を踏み越えた先に、彼らの最初の、そして最大の障害として待ち構えていたのが、景勝の本拠地・坂戸城である。
2-3. 迎え撃つ坂戸城 ― 不落の山城
坂戸城は、現在の南魚沼市六日町市街地を見下ろす標高634mの坂戸山全体を要塞化した、越後でも屈指の堅固さを誇る山城であった 23 。山頂に築かれた本丸と、山麓の城主居館との標高差は実に470mにも達し、急峻な地形そのものが天然の防御施設として機能していた 24 。まさに関東からの侵攻に対する、越後の玄関口を守る最大の砦であった 24 。
この難攻不落の城を守るのは、景勝の譜代の家臣団であり、精鋭として知られる「上田衆」である。城の指揮を執るのは、上田長尾家の家老である深沢利重や、同じく重臣の栗林政頼といった歴戦の勇将たちであった 17 。彼らにとってこの戦いは、単なる主君のための戦いではない。自らの故郷であり、生活の基盤である上田庄を守るための戦いであった。その士気は極めて高く、郷土防衛に燃える兵たちの結束力は強固であった。
2-4. 【時系列詳説】天正6年(1578年)夏の攻防
同年8月から9月にかけて、三国峠を越えた北条軍の先鋒が坂戸城下に到達し、城の包囲を開始した。緒戦において、北条軍は三国峠のルート上に位置する荒戸城や、坂戸城攻略の橋頭堡となりうる樺沢城などを次々と攻略し、坂戸城を孤立させることに成功する 14 。
包囲網を完成させた北条軍は、いよいよ坂戸城本体への攻撃を開始する。しかし、彼らの前には想像を絶する困難が待ち受けていた。城の堅固な構造と、上田衆の決死の抵抗により、攻略は遅々として進まなかった 21 。特に、薬師尾根や大手道といった主要な登城路は、大軍が一度に展開するにはあまりに急峻であり、少数で守る守備側に圧倒的に有利に働いたのである 20 。
2-5. 【時系列詳説】天正6年(1578年)秋冬 ― 越後の壁
10月に入ると、戦況は完全に膠着状態に陥った。短期決戦で城を落とすという北条軍の当初の目論見は完全に崩れ、長期戦を強いられることになった。関東からの長い兵站線の維持は、日を追うごとに困難になっていった。
そして12月、北条軍にとって最大の敵が到来する。越後の冬である。世界有数の豪雪地帯として知られる魚沼地方は、瞬く間に数メートルの雪に覆われ、大規模な軍事行動は物理的に不可能となった。これ以上の包囲継続は無意味であると判断した北条軍主力は、一部の部隊を監視として残置したものの、やむなく関東への撤退を開始した 17 。
この一連の攻防戦において、当時19歳の樋口与六(直江兼続)は、景勝の側近として春日山城に詰めていたと考えられる 27 。彼の具体的な役割は史料に明記されていないものの、坂戸城との連絡を維持し、戦況を分析し、そして後述する武田家との外交交渉に必要な情報を収集するなど、景勝の参謀として多岐にわたる活動を行っていたと推察される 4 。
この坂戸城の防衛成功は、単に城が物理的に堅固であったという理由だけでは説明できない。それは、 「地の利」 (急峻な山城という地形的優位性)、 「人の和」 (郷土防衛に燃える上田衆の強固な結束力)、そして**「天の時」**(豪雪という気候要因)という三つの要素が完璧に噛み合った結果であった。もしこの三要素の一つでも欠けていれば、坂戸城が陥落し、歴史は大きく変わっていた可能性が高い。
一方で、北条軍の失敗は、ある種の「気候インテリジェンス」の欠如に起因すると分析できる。関東平野での合戦経験が豊富な彼らは、越後の山岳地帯における冬季戦の過酷さを根本的に見誤っていた。彼らの作戦計画は、雪が降る前に短期決戦で城を落とすことを大前提としていたが、坂戸城の予想以上の抵抗がその計画を破綻させた。結果として、越後の厳しい自然そのものが、景勝方にとって最大の援軍となったのである。
第三部:戦局の転換 ― 甲越同盟と景虎方の瓦解
坂戸城が北条の大軍をその足元に釘付けにしている間、春日山城の景勝は、戦局を根底から覆すための外交工作を着々と進めていた。この動きこそが、御館の乱の勝敗を決定づけることになる。
3-1. 景勝の外交戦略 ― 武田勝頼の懐柔
坂戸城が時間を稼いでいる間に、景勝は起死回生の一手を打った。甲斐の武田勝頼に使者を送り、同盟を申し入れたのである 4 。当初、勝頼は同盟関係にある北条家の要請を受け、景虎を支援するために越後へ出兵していた 15 。しかし景勝は、春日山城の金蔵から算出した莫大な黄金と、上野国の一部割譲という破格の条件を提示した 4 。
この提案は、勝頼にとって極めて魅力的であった。3年前の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に壊滅的な敗北を喫して以来、武田家は常に西からの脅威に晒されており、国力は疲弊していた 4 。勝頼は、目先の利益と戦略的実利を天秤にかけ、長年の同盟相手であった北条家を裏切り、景勝と和睦することを決断する。この外交的転換が、御館の乱における最大のターニングポイントとなった。
この外交戦略の成功は、坂戸城の防衛と密接に連関している。もし坂戸城が早期に陥落し、北条軍が春日山城に迫るような事態になっていれば、景勝は軍事的に窮地に陥り、勝頼が景勝に味方する理由はなかったであろう。坂戸城が冬まで持ちこたえ、北条軍の侵攻を頓挫させたことで戦況が膠着したからこそ、景勝には交渉の「時間」が生まれ、勝頼には景勝と組むという選択肢が生まれたのである。坂戸城の籠城戦は、景勝の外交戦略を成功させるための時間を稼ぐという、極めて重要な戦略的役割を果たしたと言える。
3-2. 孤立する景虎
武田勝頼の離反は、御館の景虎方にとって致命的な打撃となった。頼みの綱であった北条軍は雪に阻まれて越後から撤退し、もう一つの頼みであった武田軍は敵である景勝と手を結んでしまった。これにより、御館の景虎方は完全に孤立無援の状態に陥った 4 。兵糧は尽き、兵の士気は地に落ち、味方の離反が相次いだ 14 。
3-3. 【時系列詳説】天正7年(1579年)早春 ― 最後の攻勢
外部からの脅威を完全に排除した景勝は、勝機を逃さなかった。天正7年(1579年)2月1日、三国峠の雪がまだ解けやらぬうちに、配下の諸将に御館への総攻撃を命じた 14 。景虎方の有力武将であった北条景広が府中八幡宮付近で討ち取られ、御館の周囲には次々と火が放たれた 13 。2月中には、北条勢が越後における橋頭堡としていた樺沢城も景勝方によって奪回され、景虎方はなすすべもなく追い詰められていった 14 。
3月に入ると、景勝方の猛攻によって御館は炎上、ついに落城する 12 。この時、景虎の正室であった清円院(景勝の実の姉)は、弟からの降伏勧告を毅然として拒絶し、自害を遂げた 5 。さらに、和議の仲介を試みた前関東管領・上杉憲政と、景虎の嫡男・道満丸が、景勝方の兵によって殺害されるという悲劇も起こった 4 。
3-4. 景虎の最期と乱の終結
炎上する御館を辛くも脱出した景虎は、実家の小田原を目指し、関東への脱出を図った。その途上、味方であるはずの鮫ヶ尾城主・堀江宗親を頼ったが、宗親は既に景勝方に寝返っていた。裏切りを悟った景虎は、城内で妻子と共に自害して果てた 12 。享年26。
謙信の死から約1年にわたって越後全土を巻き込んだ御館の乱は、景勝の完全勝利によって幕を閉じた。
第四部:総括 ― 坂戸城の不落が決定づけた上杉家の未来
坂戸城を巡る攻防戦と、それに続く御館の乱の終結は、単に上杉家の家督が景勝に定まったというだけには留まらない。それは上杉家の未来、そして東国全体の勢力図にまで、計り知れない影響を及ぼした。
4-1. 坂戸城の戦略的価値の再評価
坂戸城の防衛成功が持つ歴史的意義は極めて大きい。もしこの城が天正6年の夏から秋にかけて早期に落城していた場合、北条の大軍は春日山城にまで迫り、景勝は南北から挟撃され、敗北はほぼ確実であっただろう 20 。そうなれば、越後は北条家の強い影響下にある傀儡政権が誕生し、独立した戦国大名としての上杉家はその歴史を終えていた可能性が高い。その後の豊臣政権下で五大老の一角を占めることも、関ヶ原の戦いを経て米沢藩として幕末まで存続することもなかったであろう。坂戸城の防衛は、文字通り上杉家の運命を繋いだ生命線であった。
4-2. 上杉家臣団の再編と直江兼続の台頭
景勝の勝利は、彼を最後まで支え続けた上田衆の地位を、上杉家臣団の中で絶対的なものにした 30 。そして、この内乱を通じて景勝の側近として類稀なる知略を発揮した樋口与六は、その功績を高く評価され、乱の終結後に家中の名門・直江家の名跡を継ぐことを命じられる。「直江兼続」の誕生である 27 。彼はやがて上杉家の執政として、景勝を終生支え続けることになる。御館の乱は、近世大名としての上杉家を支える、上田衆を中核とした新しい家臣団構造を生み出す大きな契機となったのである。
4-3. 乱が残した広範囲への影響
景勝は勝利を手にしたものの、その代償は大きかった。一年以上にわたる内乱は越後の国力を著しく疲弊させ、領内には依然として景虎方の残党が抵抗を続けていた。この混乱に乗じる形で、西の織田信長が北陸地方への侵攻を本格化させ、上杉家は息つく間もなく新たな脅威に直面することになる 4 。
しかし、この乱がもたらした最も重要な地政学的影響は、関東・甲信地方で発生した。景勝と結ぶために、武田勝頼は北条家との同盟を破棄した。これにより、20年以上にわたって東国の安定の基盤となってきた 甲相同盟(武田・北条同盟)は完全に崩壊した のである 18 。両家は敵対関係に入り、関東から甲信、駿河に至る広大な地域は、新たな動乱の時代を迎える。この同盟破綻が武田家の孤立を決定的に深め、天正10年(1582年)の織田軍による甲州征伐を容易にした遠因となったことは間違いない。
結論として、坂戸城という一つの山城における籠城戦の成功は、ドミノ倒しのように連鎖的な影響を及ぼした。それは、(1)上杉家の存続を確定させ、(2)直江兼続という稀代の宰相を歴史の表舞台に押し上げ、(3)甲相同盟を崩壊させることで東国全体のパワーバランスを激変させ、(4)間接的に織田信長による武田家滅亡の布石を打つことになった。越後の一地方における城を巡る攻防が、日本の戦国史の大きな潮流を変える一因となったのである。この「坂戸城の戦い」は、戦国時代の出来事が如何に相互に深く関連し合っているかを示す、絶好の事例と言えるだろう。
引用文献
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- 御館の乱 /謙信亡き後、上杉家は内乱へ… - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nt4qziUJyHM
- しかし、諸氏に共通して云えることは、不思議なまでに乱の勃発原因につ - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=705
- file-16 直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/16/
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- 荒戸城 埋もれた古城【umoretakojo.jp】 http://umoretakojo.jp/Shiro/Hokuriku/Niigata/Arato/index.htm
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