土田御前は、戦国時代の風雲児であり、天下統一を目前にした織田信長の生母として知られる人物である。しかしながら、その赫々たる息子の名声とは裏腹に、彼女自身の生涯、特にその出自や実名、さらには信長との具体的な関係性については、多くの謎に包まれているのが現状である 1 。彼女の人生を丹念に追うことは、信長という稀代の英雄の人間形成の一端を垣間見ることに繋がるのみならず、戦国という未曾有の激動期を生きた高位の女性が置かれた立場や、その果たした役割について考察する上で、極めて重要な意義を持つ。土田御前の生涯は、織田弾正忠家の興隆から、信長の天下布武、そして本能寺の変という劇的な終焉、さらにはその後の豊臣政権、徳川政権へと移行する時代の大きなうねりと分かち難く結びついているのである。
土田御前の実名は伝わっておらず、その出自に関しても、美濃国土田氏の娘とする説が一般的ではあるものの、尾張土田氏説、さらには小嶋氏や六角氏といった有力氏族の出自を示唆する説も存在し、未だ定説を見ていない 1 。このような情報の錯綜は、当時の女性に関する記録が極めて限定的であったという史料的制約に加え、信長の権勢が確立する過程や、後世の顕彰において、彼女の出自が政治的意図や地域の伝承によって様々に語られた可能性を示唆している。
特に、織田信長の動向を記した最も重要な一次史料の一つである太田牛一著『信長公記』においても、土田御前に関する直接的かつ詳細な記述は驚くほど少ないか、あるいは極めて間接的な言及に留まっているのが実情である 4 。この根本的な史料の制約が、彼女の人物像を多角的かつ実証的に捉えようとする際に、避けては通れない大きな壁となっている。土田御前の実名や出自が詳らかでないという事実は、単に記録が失われたという以上に、戦国時代における女性の社会的地位の限界、あるいは織田家自身が彼女の出自を積極的に公にしなかった、もしくはその必要性を認めなかった可能性をも物語っている。織田信秀の他の婚姻関係を鑑みても、そこには多分に戦略的な側面が窺え 6 、もし土田御前の出自があまり高いものではなかったとすれば 3 、記録が乏しい一因ともなり得るであろう。この史料的課題を認識しつつ、本報告では現存する情報を丁寧に検証し、土田御前の実像に迫ることを試みる。
土田御前の出自は、彼女の生涯を理解する上で最も大きな謎の一つであり、複数の説が提示されている。しかし、いずれの説も決定的な一次史料に欠け、後世の編纂物や系図、地域の伝承に依拠している部分が大きいのが現状である。
最も広く知られているのは、土田御前が土田氏の出身であるとする説である。この「土田」の呼称が地名に由来するのか、氏族名に由来するのか、またその読み方についても議論がある。美濃国可児郡に土田(どた)という地名が存在し、彼女を「どたごぜん」と呼ぶ場合はこちらの出身とする見方が強い 1 。一方、尾張国清洲近郊にも土田(つちだ)という地名があり、「つちだごぜん」と呼ぶ場合はこちらの可能性が考えられる 1 。
岐阜県可児市には、土田御前が美濃国可児郡土田の土田城主・土田政久の娘として生まれたとする伝承が残っており、現地には生誕の地碑や土田御前と信長の像も建立されている 7 。しかしながら、この伝承を直接的に裏付ける同時代の一次史料は発見されていない 1 。信頼性の高い史料とされる『信長公記』には、土田御前の名前そのものが登場しないため、彼女が土田氏の娘であるという点についても、確実とは言い難い状況である 10 。
近年の考察の中には、当時の織田弾正忠家の勢力基盤や婚姻戦略を考慮すると、美濃の土田氏よりも、本拠地に近い尾張清洲の土田氏の出身である可能性の方が高いとする見解も存在する 10 。この説は、地理的関係性や政治的合理性から一定の説得力を持つものの、やはり確たる史料的裏付けを欠いている。
『津島大橋記』や『干城録』といった史料には、織田信長の生母は小嶋信房の娘であるとの記述が見られる 1 。この小嶋信房の娘が、土田御前以前に信秀の継室であった別の人物を指すのか、あるいは土田御前自身が実は小嶋氏の娘であり、何らかの理由で出自が土田氏として伝えられるようになったのかは判然としない。
ある研究 10 では、もし信長の生母が小嶋氏の娘であった場合、信長が織田家の嫡男として扱われている史実との間に矛盾が生じる可能性を指摘している。つまり、小嶋氏の娘が信長を産んだ後に土田御前が継室として迎えられたのであれば、土田御前の子が優先されるはずであるという論理である。このため、この説が成立するとすれば、「土田御前=小嶋氏の娘」という、つまり土田御前自身が小嶋信房の娘であったという場合に限られると考察している。しかしながら、その根拠となる『津島大橋記』の記述内容の信憑性自体にも疑問が呈されており、この説もまた確証を得るには至っていない。
『美濃国諸旧記』には、信長の生母は近江守護大名であった六角高頼の娘であるという記述が存在する 1 。六角氏は当時、畿内においても大きな影響力を持った名門であり、もしこの説が事実であれば、織田信秀の婚姻戦略、ひいては織田家の勢力拡大にとって極めて大きな意味を持つことになる。しかし、この説も他の説と同様に、同時代の確実な史料による裏付けがなく、後世の編纂物における記述に留まっている。
以上のように、土田御前の出自に関する各説は、それぞれ何らかの文献的根拠を持つものの、その多くが後世の編纂物や地域の伝承であり、同時代の一次史料による確証を欠いているという共通の問題点を抱えている 1 。
近年の歴史研究においては、特定の説を断定的に支持するには至っておらず、むしろ各説の根拠とされる史料の成立過程や性格を厳密に批判的に検討し、その信憑性を慎重に見極めようとする傾向が強い。出自に関する諸説がこのように乱立している状況自体が、土田御前本人の出自が当時それほど明確に記録されていなかったことの証左であるとも考えられる。そして、織田信長の権威が確立されるにつれて、あるいは後世の地域史編纂の過程で、より高貴な、あるいはその地域にとって都合の良い出自が、ある種の物語として付与されていった可能性も否定できない。特に六角氏のような名門との結びつきは、信長の血統を権威づけるという意図が働いた可能性も考えられるであろう。
土田御前の実名が今日に伝わっていない点も、彼女の謎を深める一因である。しかしこれは、当時の高位の女性であっても実名が公的な記録に残ることが稀であったという、戦国時代の記録文化の特性を反映していると考えられる。「土田御前」という呼称自体も、彼女の出自とされる土田氏に由来する通称、あるいは居住した地名に由来するものである可能性が高い 1 。
表1:土田御前 出自に関する諸説一覧
説の名称 |
主な根拠史料(出典) |
内容の概要 |
肯定的な点・根拠 |
疑問点・批判 |
土田氏説(美濃土田・土田政久娘説) |
『美濃国諸旧記』 1 、可児市伝承 7 |
美濃国可児郡土田の土田城主・土田政久の娘とする。 |
地名との一致、地域伝承の存在。 |
一次史料による裏付けがない 1 。『信長公記』に名前なし 10 。 |
土田氏説(尾張土田氏説) |
10 (カクヨム記事による推論) |
尾張国清洲近郊の土田氏の娘とする。 |
織田弾正忠家の当時の勢力範囲や婚姻政策との整合性 10 。 |
直接的な史料的根拠に乏しい。 |
小嶋信房娘説 |
『津島大橋記』、『干城録』 1 |
織田信長の生母は小嶋信房の娘とする。これが土田御前本人か、それ以前の継室かは不明。 |
特定の史料に記載がある。 |
『津島大橋記』の信憑性に疑問 10 。信長が嫡男として扱われた事実との矛盾の可能性(土田御前=小嶋氏娘でない場合) 10 。 |
六角高頼娘説 |
『美濃国諸旧記』 1 |
信長の生母は近江守護大名・六角高頼の娘とする。 |
もし事実なら織田家にとって政治的意義が大きい。 |
一次史料による裏付けがない。後世の付会の可能性。 |
この表は、土田御前の出自に関する複雑な議論を整理し、各説の根拠と問題点を比較検討する一助となることを意図している。彼女の出自が「謎」とされ続ける背景には、このような史料状況と、後世の様々な解釈が複雑に絡み合っているのである。
土田御前は、尾張国の戦国大名・織田信秀の継室として、その家庭と織田家の将来に大きな影響を与えた。
土田御前が織田信秀の室となったのは、信秀の最初の正室であった織田達勝(尾張守護代)の娘が離縁された後のことである 1 。継室という立場ではあったが、信秀との間には織田信長、信勝(信行)、秀孝、信包、そして娘の市や犬など、多くの子女をもうけたとされている 1 。この事実は、彼女が信秀の正室としての地位を確立し、織田家の家政において中心的な役割を担っていたことを示唆する。
具体的な夫婦関係を伝える史料は乏しいが、例えば漫画作品『センゴク外伝 桶狭間戦記』においては、病に倒れ衰弱していく信秀を土田御前が傍らで気遣う姿が描かれている 3 。これは創作を含む描写ではあるものの、戦国武将の妻として夫を支える一般的なイメージを反映していると言えよう。信秀が最初の正室と離縁し、土田御前を継室に迎えた背景には、単なる個人的な感情だけでなく、より多くの、特に後継者となりうる男子をもうけることへの期待や、彼女の実家との政治的な結びつきを意図した可能性も考えられる。多くの子、とりわけ信長という傑出した後継者を生んだことは、土田御前の織田家における立場を不動のものとしたであろう。
土田御前が織田信秀との間にもうけたとされる子女は以下の通りである 1 。
一方で、織田信秀の嫡出子は信長と信行の二人だけであったとする史料も存在する 11 。この記述が事実であるとすれば、上記の子女のうち秀孝、信包、市、犬らは側室の子である可能性、あるいは「嫡出」の定義がより厳密で、家督相続の可能性のある男子のみを指している可能性が考えられる。 1 の記述ではこれらの子女全てを土田御前の子としているが、 11 の記述との間には差異があり、当時の「嫡出」の概念や記録の精度、あるいは後世の系図編纂における解釈の違いなどが影響している可能性がある。
いずれにせよ、土田御前が信長や信行をはじめとする複数の子を産んだことは、後継者問題が常に家の存亡に関わる戦国時代において、織田弾正忠家の存続と発展に極めて重要な貢献を果たしたと言える。特に、信長という歴史的な人物の母であったという事実は、彼女の歴史における最大の意義と言っても過言ではないだろう。子女の記録に見られる差異は、織田家内部の複雑な力関係や、誰を「公式な」嫡流と見なすかという後世の視点の反映、あるいは単純な記録の散逸や不正確さを示しているのかもしれない。
土田御前と息子たち、特に織田信長と織田信勝(信行)との関係は、後世の創作物や通説において、しばしば劇的な対立構造をもって語られてきた。しかし、その真相は史料の乏しさも相まって、単純に断定できるものではない。
一般的に広く知られているのは、土田御前が長男である信長を疎んじ、その弟である信勝(信行)を溺愛したという説である 1 。この通説によれば、信長は幼少期から奇矯な言動が多く「うつけ」と評されたのに対し、信勝は品行方正で容姿も優れ、父信秀にも似ていたため、母の寵愛を一身に受けたとされる 7 。
この説を補強する代表的な逸話として、父・織田信秀の葬儀における兄弟の対照的な態度が挙げられる。信長が仏前で抹香を投げつけるという常軌を逸した行動をとったのに対し、信勝は礼儀正しく威儀を正して参列したと伝えられており 11 、これが母の寵愛の差を決定づけた、あるいは象徴する出来事として語られることが多い。
しかしながら、信長の一代記として最も信頼性の高い史料の一つである太田牛一著『信長公記』には、土田御前に関する直接的かつ詳細な記述は極めて少ない 4 。これは、同書が信長の公的な事績、特に軍事・政治活動を中心に記録したものであり、家庭内の私的な事柄、とりわけ女性に関する記述が全体的に抑制されているためと考えられる 16 。太田牛一の執筆意図として、信長の偉業を顕彰することに主眼があり、主君の家庭内の複雑な事情や、必ずしも名誉とは言えない可能性のある母との関係について、詳細な記述を避けた可能性も否定できない 4 。また、当時の記録文化として、政治の表舞台に直接関与しない女性、特に母親の役割は、公的な記録には詳細に記されないのが一般的であったという背景も考慮すべきであろう 22 。
一部の研究 5 では、『信長公記』の断片的な記述を丹念に分析し、信長のいわゆる「うつけ」行動や、父信秀の葬儀での抹香投げつけ事件について、通説とは異なる解釈を試みている。例えば、信長の「うつけ」が始まったのは父の死後であり、それまでは真面目な青年であった可能性や、抹香投げつけ事件が、信勝派による家督相続を既成事実化しようとする動きに対する信長の抗議行動であった可能性などを指摘し、土田御前が一方的に信長を嫌い、信勝を溺愛したという単純な図式に疑問を呈している。
近年の研究や考察においては、土田御前と息子たちの関係について、当時の武家の慣習や社会背景を踏まえた再解釈が試みられている。
例えば、信長が幼少期に乳母によって養育されたことは、土田御前が信長を疎んじた証拠とされることがあるが、これは当時の貴人の子育てにおいてはごく一般的な慣習であり、母親が直接授乳や養育を行うことの方が稀であったと指摘されている 5 。乳母の選定には政治的な配慮も含まれるなど、単なる母子の愛情の問題だけではなかったのである。
また、信長が那古野城に移り、土田御前と信勝が末森城に住むなど、母子が別居していたとされる点も、信長が母に嫌われた結果と解釈されがちである。しかし、これも織田弾正忠家が尾張国内に勢力を拡大し、複数の拠点を維持・経営していく上での戦略的な配置の一環であった可能性が指摘されている 5 。つまり、必ずしも母子の不和を直接示すものではないという見方である。
さらに、土田御前自身の人物像についても、仮に彼女が知的で冷静な判断力を備えた女性であったとすれば、家の分裂や内紛を招きかねないような、特定の息子への極端な「溺愛」という行動を取ったかどうかは疑問である、という考察もなされている 5 。戦国時代の女性は、家の存続と繁栄のために、時には非情とも思える現実的な判断を下すことも求められたのである 23 。
このような通説に対する批判的検討や異説の背景には、土田御前による信長疎遠・信勝溺愛という物語が、徳川家康の息子である徳川家光と忠長の関係(ここでも母による偏愛が語られる)と酷似しているという指摘がある 5 。これは、後世に物語が類型として流用されたり、あるいは人々の記憶の中で混同されたりした可能性を示唆しており、通説の史実性を慎重に吟味する必要性を示している。
織田信秀の死後、家督を巡って信長と信勝の間には対立が生じ、信勝は実際に謀反を起こすに至る。弘治2年(1556年)の稲生の戦いで信勝は信長に敗れるが、この時、土田御前が両者の間に入り、信長に信勝の赦免を懇願し、一度は許されたと伝えられている 1 。これは、母としての情愛から息子を救おうとした行動と解釈できる。
しかし、信勝はその後も再び信長への反逆を企てたため、弘治3年(1557年)あるいは永禄元年(1558年)、信長の謀略によって清洲城に呼び出され、誅殺された 1 。この二度目の信勝の謀反と誅殺の際に、土田御前がどのように関わったのかについては、興味深い説が存在する。
一部の考察 5 によれば、土田御前は信勝が再度謀反を企てた際、今度は信長の側に立ち、信勝を病気と偽って清洲城に誘い出すという信長の謀略に加担したというのである。もしこの説が事実であるとすれば、土田御前は単に情愛に流されるだけの母親ではなく、一度は助命を嘆願した息子であっても、織田家の安泰と秩序を乱す存在と判断した場合には、非情な決断を下すことも厭わない、まさに「強かな戦国の女性」であった可能性が浮かび上がってくる。これは、通説で語られる「信勝溺愛」のイメージとは大きく異なる側面であり、彼女が織田家の存続という大局を見据え、現実的な政治判断を下せる人物であったことを示唆する。ただし、この説もまた、直接的な一次史料による確証があるわけではなく、あくまで状況証拠や後世の記録からの推測を含むものである点には留意が必要である。
このように、土田御前と信長・信勝兄弟との関係は、単純な母性愛や好き嫌いといった感情論だけでは説明できない、当時の政治状況や武家の論理、そして彼女自身の主体的な判断が複雑に絡み合っていたと考えられる。
土田御前の生涯は、織田家の興隆と衰退、そして戦国乱世の終焉という、日本の歴史における大きな転換期と重なっている。彼女自身の記録は断片的ではあるが、その足跡を辿ることで、激動の時代を生きた一人の女性の姿が浮かび上がってくる。
天文20年(1551年)あるいは天文21年(1552年)に夫である織田信秀が死去すると、土田御前は次男(あるいは三男)の織田信勝(信行)と共に末森城(現在の名古屋市千種区城山八幡宮周辺 25 )に移り住んだとされている 1 。末森城は信秀が築城し、晩年の居城とした場所であり、信勝はこの城を拠点として兄・信長と対峙することになる。この時期、土田御前が信勝と行動を共にしていたという事実は、彼女が信勝派の中心人物の一人と見なされていた可能性を示唆している。
弘治3年(1557年)あるいは永禄元年(1558年)に信勝が信長によって誅殺されるという悲劇の後、土田御前の動向については、信長や娘の市と共に暮らしたとする記述が見られる 1 。この時期、彼女は信長の子である信忠、信雄、信孝や、市の娘たちである茶々(後の淀殿)、初(後の常高院)、江(後の崇源院)といった孫たちの養育にもあたったとされている。
この事実は、信勝の死によって信長との間にあったかもしれない確執が解消されたのか、あるいは信長が母や甥姪に対する家族としての責任を果たそうとした結果なのか、解釈は分かれるところである。いずれにせよ、織田家の家政の中心地である清洲城や、後の岐阜城、安土城などで、彼女が一定の役割を担いながら生活していた可能性が考えられる。岐阜県可児市の「土田御前の回想」という創作的な記述 7 では、本能寺の変の直前、土田御前は安土城で森蘭丸の母・妙向尼と共に信長たちの帰りを待っていたとされているが、これは史実としての裏付けに乏しい。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって信長とその嫡男・信忠が横死するという未曾有の事態が発生する。この歴史的大事件の後、土田御前は孫にあたる織田信雄(信長の次男)の庇護下に入ったと記録されている 1 。
この時期、土田御前は「大方殿様」と尊称され、信雄から640貫文という少なくない額の化粧料(生活費や私的な費用に充てるための所領や金銭)を与えられていたことが、史料によって確認されている 1 。この化粧料の具体的な史料根拠としては、『織田信雄分限帳』に「大方殿様 六百四拾貫文 尾州春日井郡如意郷」との記載があることが指摘されている 27 。また、 26 の記述によれば、『織田信雄分限帳』において土田御前は「安土殿」(信長の正室・濃姫の可能性が指摘される人物)に次ぐ厚遇を受けていたとされており、これは信長の母としての彼女の立場が、信長死後の織田家においても一定の敬意をもって遇されていたことを示している。信雄にとって、祖母である土田御前の存在は、自身の織田家における正統性や権威を内外に示す上で、依然として重要な意味を持っていたと考えられる。
しかし、信長の死後の織田家の内紛と豊臣秀吉の台頭という大きな政治的変動の中で、信雄の勢力も安泰ではなかった。天正18年(1590年)、小田原征伐後に信雄は秀吉によって改易され、領地を失う。これにより、土田御前は実子の一人である織田信包(のぶかね)に引き取られることとなった 1 。信包は当時、伊勢国安濃津(現在の三重県津市)の津城主であり、土田御前は彼の許で余生を送ることになる。
そして、文禄3年1月7日(西暦1594年2月26日)、土田御前は伊勢国安濃津の地でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。法名は報春院花屋寿永大禅尼(あるいは花屋寿永大姉とも)と伝えられている 1 。
土田御前の生涯を概観すると、夫の死、息子たちの対立と死、天下人の母としての栄光、そして本能寺の変という激変と、まさに戦国時代の高位の女性が経験しうる栄枯盛衰を体現した人生であったと言える。信雄改易後に信包が母を引き取ったことは、戦国武将の家族間の扶助関係が、厳しい政治状況の中にあっても(あるいはそれ故にこそ)、一定程度機能していたことを示す事例と言えるだろう。彼女の最期が、実子である信包の庇護のもと、比較的穏やかなものであったとすれば、それは激動の時代を生きた彼女にとって、ある種の救いであったのかもしれない。
土田御前の生涯を偲ぶ手がかりとなる場所が、日本の各地に存在する。それらは彼女の墓所、生誕したと伝えられる地、そして生涯の様々な時期に関わった城郭などである。これらの史跡は、彼女自身の歴史的記録の確かさ以上に、息子たちの母への思いや、後世の人々による地域史の再発見と顕彰の動きを色濃く反映している。
土田御前の墓所は、三重県津市栄町に位置する塔世山四天王寺にあることが確実視されている 1 。四天王寺は、聖徳太子によって建立されたとの伝承を持つ由緒ある古刹であるが、戦国時代には兵火などにより荒廃と復興を繰り返した歴史を持つ 31 。
土田御前がこの寺に葬られた経緯は、彼女の晩年を庇護した息子・織田信包と深く関わっている。当時、伊勢国安濃津の城主であった信包は、母である土田御前が亡くなると、この四天王寺に埋葬し、寺の再建に尽力した、あるいは寺領を寄進したと伝えられている 31 。これが、土田御前の墓が遠く伊勢の津にある主要な理由である。四天王寺の公式サイトによれば、境内には土田御前の墓が存在し、また、織田信長自身も同寺の三面大黒天に祈願したという伝承が残されているという 32 。信包が母の終焉の地として手厚く葬ったことにより、その記憶が地域に永く留められ、寺の記録や伝承によって補強されてきたと考えられる。
一方、土田御前の生誕地については諸説あるが、岐阜県可児市土田にある土田城跡がその有力な候補地の一つとして伝えられている 7 。この伝承によれば、彼女は土田城主であった土田政久の娘としてこの地で生を受けたとされる 7 。
しかしながら、この生誕伝承を直接的に裏付ける同時代の一次史料は、現在のところ確認されていない 8 。土田という姓と地名の一致や、天下人・織田信長の母という著名性から、後世、特に地域史を編纂する過程や郷土意識の高まりの中で、「生誕の地」としての物語が形成され、近年では観光資源としても注目されるようになったと考えられる。現在、土田城跡の周辺には土田御前と幼い織田信長をかたどった銅像が建立されるなど 14 、地域ではゆかりの人物として顕彰する動きが見られる。これは、歴史的事実の確定とは別に、地域アイデンティティの形成や文化振興に寄与している事例と言えよう。
土田御前の生涯に関わる史跡としては、上記の墓所や生誕伝承地の他にもいくつか挙げられる。
これらの史跡は、土田御前の人生の各段階における生活の場であり、彼女を取り巻く織田家の人々との関係性を物語る上で重要な意味を持っている。ゆかりの地を訪れることは、断片的な史料からは窺い知ることの難しい、彼女の生きた時代の空気や人間関係に思いを馳せる一助となるであろう。
土田御前の生涯を振り返るとき、我々は常に史料的制約という壁に直面する。しかし、その限られた情報の中からでも、彼女の人物像、戦国時代の女性としての役割、そして織田家の興亡における位置づけについて、一定の輪郭を描き出すことは可能である。
土田御前の人物像は、信頼性の高い一次史料の乏しさから、後世の編纂物や軍記物、さらには様々な説や解釈を通じて、多面的でありながらも、依然として多くの曖昧さを残した形で浮かび上がってくる。特に、織田信長および信勝(信行)の母としての役割、とりわけ息子たちの家督争いや対立における彼女の苦悩や判断については、歴史家や研究者の間でも様々な評価がなされてきた。
「信長を疎んじ、信勝を溺愛した母」という通説的なイメージは、信長の「うつけ」という伝説や、兄弟間の劇的な対立といった物語性を強調する上で効果的であったため、長らく広く受け入れられてきた側面がある。しかし、近年の研究では、当時の武家の慣習や子育ての方法、政治的背景などを踏まえ、このような単純な二元論的評価を見直し、より複雑で多面的な人物像を捉えようとする動きが見られる 5 。例えば、信勝の最初の謀反に際しては助命を嘆願しつつも、再度の謀反においては信長の謀略に加担したという説は、彼女が単なる情愛に流されるだけでなく、織田家の安泰という大局を見据えた現実的な判断を下せる人物であった可能性を示唆している。
土田御前の戦国時代の女性としての役割を考えるとき、まず挙げられるのは、多くの子、特に信長や信勝といった後継者候補を産み、織田家の血筋を未来へと繋いだという、母としての基本的な、しかし極めて重要な貢献である 1 。これは、家の存続が至上命題であった戦国時代において、正室や継室に期待される最大の役割の一つであった。
また、信勝の助命嘆願に見られるように、限定的ではあるものの、織田家の家政や政治の舞台裏で一定の影響力を行使した可能性も否定できない 3 。本能寺の変後、孫の織田信雄から「大方殿様」として遇され、手厚い化粧料を与えられたという事実は、彼女が信長亡き後の織田家においても、依然として一定の敬意を払われるべき存在であったことを物語っている 1 。
戦国時代の高位の女性は、婚姻を通じて家と家を結びつける外交的役割や、夫の留守中の家政の切り盛り、さらには人質としての役割など、多岐にわたる重要な機能を担うことがあった 23 。土田御前が具体的にどのような政治的活動に関与したかについては、史料が乏しいため断定的なことは言えないが、彼女の存在が織田家の内部結束や、時には外部との関係において、間接的な影響を及ぼした可能性は十分に考えられる。
土田御前に関しては、その出自の確定、実名の特定、そして最も注目される織田信長との具体的な関係性の真相など、未だ解明されていない謎が多く残されている。これらの謎を解き明かすためには、新たな史料の発見が待たれると同時に、既存史料のより精密な再解釈や、女性史、家族史、地域史といった関連分野からの学際的なアプローチが不可欠となるであろう。
特に、『信長公記』のような主要史料において、なぜ信長の母である彼女に関する記述がこれほどまでに少ないのか、その背景にある当時の女性の記録のあり方や、織田家の家族関係の実態、さらには太田牛一の執筆意図などを深く掘り下げていくことは、今後の重要な研究課題である。
土田御前の歴史的評価は、彼女自身の行動に関する直接的な史料の乏しさ故に、息子たち、特に信長と信勝の人物評価や、織田家の歴史的文脈に大きく左右されてきた。今後の研究においては、こうした間接的な評価から一歩進み、彼女自身の主体性や、戦国という特異な社会構造の中で生きた一人の女性としての実像を、より客観的かつ多角的に描き出す努力が求められる。それは、土田御前個人のみならず、戦国時代を生きた多くの名もなき女性たちの歴史を再構築していく上でも、大きな意義を持つ作業となるであろう。
表2:土田御前 関連年表(推定含む)
年代(和暦・西暦) |
土田御前の動向・出来事 |
主な関連人物 |
関連史料・備考 |
生年不詳 |
生誕(美濃国土田城主・土田政久の娘説など諸説あり) |
土田政久(父とされる) |
一次史料なし 1 。可児市に伝承あり 7 。 |
天文年間初期(推定) |
織田信秀の継室となる |
織田信秀(夫) |
信秀の最初の正室は織田達勝の娘(離縁) 1 。 |
天文3年(1534年) |
織田信長を出産 |
織田信長(子) |
1 |
天文5年(1536年)頃(推定) |
織田信行(信勝)を出産 |
織田信行(信勝)(子) |
生年諸説あり 11 。 |
天文20年(1551年)または21年 |
夫・信秀死去。信勝と共に末森城へ移り住む |
織田信秀、織田信行(信勝) |
1 |
弘治2年(1556年) |
信行(信勝)が信長に謀反(稲生の戦い)。敗北後、土田御前の嘆願により信行は赦免される。 |
織田信長、織田信行(信勝) |
1 |
弘治3年(1557年)または永禄元年(1558年) |
信行(信勝)、再度謀反を企て、信長により誅殺される。一説に土田御前が信長の謀略に加担。 |
織田信長、織田信行(信勝) |
1 |
信勝誅殺後~天正10年(1582年) |
信長や市と共に暮らし、孫たちの面倒を見る。 |
織田信長、市、織田信忠、織田信雄、織田信孝、茶々、初、江 |
1 |
天正10年(1582年)6月 |
本能寺の変。信長・信忠自害。その後、孫の織田信雄の庇護下に入る。「大方殿様」と尊称され、640貫文の化粧料を与えられる。 |
織田信長、織田信忠、織田信雄 |
1 。『織田信雄分限帳』に記載あり 27 。 |
天正18年(1590年) |
織田信雄、豊臣秀吉により改易。土田御前は子の織田信包に引き取られ、伊勢国安濃津へ移る。 |
織田信雄、織田信包、豊臣秀吉 |
1 |
文禄3年1月7日(1594年2月26日) |
伊勢国安濃津にて死去。 |
織田信包 |
1 。法名:報春院花屋寿永大禅尼。墓所:津市・塔世山四天王寺。 |