『大坪流桐坪巻』は、大坪流馬術の極意書。小笠原流から独立し「馬術専一」を掲げ、戦国武将の機動力と武威の象徴。斎藤好玄らが隆盛させ、精神と技術を体系化。
日本の戦国時代は、武士のあり方を根底から変革した動乱の時代であった。「弓馬の道」という言葉に象徴されるように、古来、武士の武芸の中核は馬上の弓射、すなわち騎射に置かれていた。平安・鎌倉期における戦闘の華は、名乗りを上げての一騎討ちであり、そこでは馬を自在に操り、馬上から正確に矢を射る技術が武士の価値を決定づけた。しかし、応仁の乱(1467-1477)を境に、戦いの様相は一変する。足軽と呼ばれる徒歩の兵が戦場の主役となり、彼らが用いる長槍や、のちに伝来する鉄砲による集団戦術が戦闘の帰趨を決するようになった 1 。
この戦術的変革は、伝統的な「弓馬の道」の価値を相対的に低下させたかに見える。しかし、馬術そのものの重要性が失われたわけではなかった。むしろ、その役割はより多岐にわたり、専門分化していく。馬は、大軍を率いる指揮官にとって、広大な戦場を駆け巡り、刻々と変化する戦況を把握し、的確な指示を伝達するための不可欠な機動力となった。また、奇襲や追撃、あるいは敗走時の迅速な離脱といった局面において、優れた馬術は武将の生死を分かつ技能であり続けた 3 。さらに、泰平の世とは異なり、武功こそが身を立てる最大の手段であった戦国時代において、見事な馬を乗りこなし、人馬一体の妙技を披露することは、自らの武威と権威を高めるための絶好の機会でもあった 4 。
このような時代の要請の中で、武芸としての馬術もまた、変革を迫られる。小笠原流に代表されるような、礼法や弓術を含む包括的な「弓馬故実」を伝える伝統的な流派に対し、より実践的な「馬術」そのものに特化し、その技術を深く追求する流派が登場する。その代表格こそ、本報告書が主題とする大坪流である。
武士社会における馬術の価値が、戦場で直接敵を討ち取る戦闘技術としての側面と、指揮官の高度な移動術、そして武威の象徴としての「芸」という側面に二極化していく中で、大坪流は後者の需要、すなわち、戦場で卓越した能力を発揮し、自らの身分と実力を証明したいと願う上級武将たちの期待に応えることで、和式馬術における最大の流派へと発展を遂げた 5 。本報告書は、この戦国時代という特異な時代背景を基軸に据え、大坪流の極意書とされる『大坪流桐坪巻』を、時代の要請に応えた技術革新と、武士の精神性を体現した文化遺産として多角的に分析・考察するものである。
大坪流の創始者とされる大坪慶秀(おおつぼ すけひで、または、よしひで)は、その功績の大きさとは裏腹に、経歴の多くが謎に包まれた人物である 6 。彼は大坪式部大輔広秀とも記され、剃髪後は道禅と号したと伝えられる。室町幕府の将軍、足利義満や義持、あるいは義教から義勝の時代に仕えた馬術師範であったとされるが、そのいずれが正確であるかは定かではない 8 。出自についても上総国(現在の千葉県)、信州村上、常州鹿島、鎌倉、三州岡崎など諸説が入り乱れ、生没年に関しても1407年(応永14年)、1457年(康正3年)、1492年(明応元年)など、複数の説が存在し、いまだ確説を見ていない 9 。
この情報の錯綜の一因として、慶秀の伝記に、同時代に活躍した鞍作りの名工「大坪左京亮有成入道道禅」の事績が混入している可能性が古くから指摘されている 9 。『寛永諸家系図伝』には「大坪道禅(秀)は鎌倉の人なり。龍馬の鞍をつくる」との記述があり 11 、慶秀が馬術のみならず、馬具、特に大坪流の名を冠する「大坪鞍」の製作にも優れた名人であったという伝説と深く関わっている 12 。このことから、後世の門人たちの間で、卓越した馬術家と優れた馬具職人という二つの理想像が一人の人格に統合され、流祖・大坪慶秀の人物像が形成されていった可能性が考えられる。
さらに踏み込んだ説として、慶秀の実在そのものを疑問視し、流派の第二代とされる村上加賀守永幸こそが実質的な創始者ではないかとする見方もある 9 。これは、あらゆる流派がその権威を高めるために、より古く、より高名な人物を流祖として掲げる傾向があったことを示唆している。
これらの錯綜した伝承は、単なる記録の欠落として片付けるべきではない。むしろ、後世の門人たちが、自らの流派の権威をいかにして構築していったかを示す重要な証左と捉えるべきである。最も権威ある将軍の一人である足利義満の師範であったという伝承 7 は、流派の格を最大限に高めるための戦略的な「物語」であった可能性が高い。複数の人物の優れた逸話を慶秀一人に集約させることで、彼は馬術から馬具製作までを網羅する万能の「馬の専門家」として神格化された。この「伝説の曖昧さ」こそが、武芸流派が自らのブランド価値を確立していく過程を如実に示しており、歴史的事実そのものよりも「流祖がどのように語られてきたか」という点に、流派の本質を読み解く鍵が隠されているのである。
大坪流の成立を語る上で、その母体となった小笠原流の存在は不可欠である。諸伝によれば、大坪慶秀は小笠原流の小笠原政長に師事し、その教えを基礎として自らの流派を大成させたとされる 6 。小笠原流は、鎌倉時代の初代・小笠原長清が源頼朝の師範を務めたことに始まるとされ、武家社会における礼法の家として広く知られている 14 。しかし、その本質は単なる礼儀作法に留まらず、礼法、弓術(歩射)、弓馬術(騎射)を三位一体のものとして捉える、総合的な「弓馬故実」の体系であった 14 。その教えは、無駄を省いた合理的で実用的な動作を追求し、そこに「美」を見出すという、武家文化の精神性を色濃く反映している 17 。
この包括的な教えを誇る小笠原流に対し、大坪流は明確な一線を画した。それは「馬術専一」という思想である 8 。大坪流は、小笠原流の体系から「馬術」という要素を抽出し、それを専門的に深化させる道を選んだ。これは、戦国時代という社会背景と密接に関連している。戦場における主要武器が弓矢から槍や鉄砲へと移行し、馬上での弓射や刀槍の技術よりも、純粋な騎乗技術、すなわち人馬一体となって戦場を自在に駆け巡る操馬術の専門性がより強く求められるようになった時代の変化を的確に捉えたものであった 5 。
さらに、両派の普及戦略も対照的であった。小笠原流が足利将軍家、のちには徳川将軍家の御留流として、その教えを秘匿し、限られた層にのみ伝承したのに対し 14 、大坪流は広く門戸を開放し、身分を問わず多くの弟子を受け入れた 5 。この開放性により、大坪流の技術と名は全国の武士たちに急速に広まり、後代に至るまで和式馬術における最大の流派としての地位を築く強力な基盤となった。
大坪流の成功は、現代の経営戦略における「選択と集中」の好例として分析することができる。すなわち、①小笠原流という確立されたブランドから権威と技術の正統性を引き継ぎ(選択)、②その広範なカリキュラムの中から、時代の需要が最も高まっていた「馬術」という分野に特化して専門性を高め(集中)、③さらにターゲット層を限定しないオープンな戦略で、武士社会という巨大な市場のニーズを的確に捉え、急速に影響力を拡大したのである。これは、伝統を尊重しつつも、時代の要請に応じて大胆な改革を断行した、武芸における革新の事例と言えるだろう。
室町中期に確立された大坪流が、戦国の動乱期においてその命脈を保ち、さらなる隆盛を迎える上で決定的な役割を果たしたのが、「中興の祖」と称される斎藤安芸守好玄(さいとう あきのかみ こうげん、1500-1572)である 20 。彼は斎藤芳蓮に師事して大坪流の奥義を究め、その卓越した技術をもって、戦国武将たちの間で大坪流の名声を不動のものとした。
好玄の経歴は、戦国時代の武芸者の生き様を象徴している。彼は能登国(現在の石川県)の熊木城主であったとされるが、戦国の世の常として、その地位は安泰ではなかった 21 。晩年には摂津国(現在の兵庫県・大阪府)の花隈城主であった荒木元清のもとに身を寄せ、その庇護下で過ごしたと伝えられる 21 。この能登から畿内への移動と、荒木氏という有力武将との結びつきが、大坪流の技術が畿内およびその周辺地域の武将たちへ伝播する上で、極めて重要な経路となった。
斎藤好玄のような武芸者は、自らが体得した高度な専門技術を、それを求める大名や有力武将といったパトロンに提供することで、動乱の世を生き抜くための生活基盤と活動の場を得ていた。そして、パトロンとなった武将は、その武芸者から得た技術を自らの武威の源泉とすると同時に、さらなる伝播の媒体となった。斎藤好玄から荒木元清へ、そして荒木元清からまた次の世代へと、大坪流の馬術は、こうした師弟関係とパトロネージの緊密なネットワークを通じて、戦国の世に深く根を張り、発展していったのである。
大坪流が戦国武将たちにいかに受容され、影響を与えたかを示す好例が、六角義賢と荒木元清という二人の武将である。彼らは大坪流を学ぶに留まらず、それを基に新たな流派を創始するに至った。
近江守護であり、南近江に覇を唱えた戦国大名・六角義賢(ろっかく よしかた、のち承禎)は、弓馬の名手として知られていた。弓術は日置流の印可を受けるほどの腕前であり、馬術においては大坪流を当代一流の師から学んだと記録されている 23 。彼の特筆すべき点は、単に大坪流を修めるだけでなく、それを発展させ、自らの家名(六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流)を冠した「佐々木流」馬術を興したことである 23 。これは、習得した技術を単なる個人の技能として終わらせず、自らの一族の伝統と権威の象徴として昇華させようとする、名門守護大名としての強い自負の表れであった。
一方、摂津の武将・荒木元清(あらき もときよ)は、織田信長に反旗を翻した荒木村重の一族であり、自身も戦国乱世の荒波を生き抜いた武将である 26 。彼は、前述の斎藤好玄から直接大坪流馬術の教えを受け、その技術に自らの実戦経験に根差した新たな工夫を加え、「荒木流」馬術を創始した 22 。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の天下人に仕えた彼の経歴を考えれば、その馬術が極めて実践的なものであったことは想像に難くない。
これら二人の武将の歩みは、日本の芸道における「守破離」の精神を見事に体現している。まず、確立された権威である大坪流の教えを忠実に学ぶ(守)。次に、その技術を自らの思想や戦場での経験と照らし合わせ、既存の枠組みを打ち破る新たな試みを加える(破)。そして最終的に、独自の理論と技術を体系化し、新たな流派として独立させる(離)。戦国武将は、単に武芸を消費するだけの存在ではなく、自らが主体となって技術革新を担うイノベーターでもあった。彼らにとって新たな流派を興すことは、武芸の道を究める行為であると同時に、乱世において自らの武名と家名を後世に伝えるための、極めて重要な自己表現だったのである。
表1:大坪流と関連流派の比較
流派名 |
成立時代 |
流祖 |
中核思想・特徴 |
小笠原流 |
鎌倉期~室町初期 |
小笠原長清 |
弓馬故実・礼法を重視した総合的武家作法。将軍家の御留流 14 。 |
大坪流 |
室町中期 |
大坪慶秀 |
小笠原流から分派。「馬術専一」を掲げ、門戸を広く開放した 5 。 |
八条流 |
戦国前期 |
八条房繁 |
大坪流と並び称された主要流派の一つ 29 。 |
佐々木流 |
戦国中期 |
六角義賢 |
大坪流を基礎とし、自らの家名を冠して創始。武将の権威の象徴 23 。 |
荒木流 |
戦国後期 |
荒木元清 |
大坪流に独自の工夫を加え創始。実戦的な性格が強いとされる 8 。 |
戦国時代の合戦を理解する上で、当時の馬と騎馬武者の実像を正確に把握することは極めて重要である。映画やドラマで描かれるような、大柄なサラブレッドに跨った重装騎兵が隊列を組んで敵陣に突撃する、といった光景は、歴史的現実とは異なる。当時の日本で軍馬として用いられていたのは、木曽馬に代表される、体高が125センチから140センチ程度の小柄な在来馬であった 30 。これらの馬は頑健で山道にも強かったが、数十キログラムに及ぶ甲冑を装着した武者を乗せて、ヨーロッパの重騎兵のような衝撃力を伴う集団突撃を行うことは、物理的に困難であったと考えられている 31 。
したがって、戦国時代における騎馬の戦術的役割は、大規模な突撃ではなく、その優れた機動力を活かした多岐にわたる任務にあった。具体的には、大将の戦場における迅速な移動と部隊指揮、部隊間の情報伝達を担う伝令、敵の側面や後方を攪乱する奇襲、敗走する敵を追撃する場面、あるいは自軍が退却する際の離脱などである 1 。騎馬武者は、独立した「騎兵科」として編成されるのではなく、各戦国大名が定めた「備(そなえ)」と呼ばれる軍団編成単位の中に、精鋭部隊として組み込まれていた 1 。
このような戦場の現実において、大坪流が掲げた「馬術専一」の教えは、極めて実践的な価値を持っていた。人馬一体となり、複雑な地形や混戦の中で馬を意のままに操る技術は、指揮官たる武将の生存率と指揮能力を直接的に高めるものであった。また、当時の日本では去勢の技術が普及しておらず、気性の荒い牡馬を乗りこなすこと自体が武士としての名誉とされた風潮もあり 33 、大坪流の高度な調教・騎乗技術は、武士個人の威信を示す重要な指標でもあった。
集団戦術への移行は、皮肉にも兵科の専門分化を促し、結果として専門技術への需要を高めた。槍足軽や鉄砲足軽といった歩兵の専門部隊が戦力の中心となる中で、「馬という機動兵器を専門的に扱う者」としての騎馬武者の役割が、より明確になったのである。大坪流は、まさにこの「馬の専門家」を育成するための最適な教育体系を提供した。それは、馬上から武器を振り回す複合的な技術ではなく、馬という存在の能力を最大限に引き出し、いかなる状況下でも制御するための、高度なソフトウェア、すなわち技術と精神の修養だったのである。
『大坪流桐坪巻(おおつぼりゅうきりつぼのまき)』は、その名の通り、大坪流馬術の極意を記した伝書として知られている 13 。その存在は複数の資料で確認でき、特に京都大学附属図書館には、実業家・谷村一太郎(号:秋邨、1871-1936)の旧蔵書コレクションである貴重な「谷村文庫」の中に、一冊の写本が現存している 34 。この写本は和綴じで、大きさは縦25.2センチメートルと記録されている 34 。また、国文学研究資料館のデータベースにも所蔵情報が見られ、そこでは『大坪流桐坪之巻』や『大坪流上田傳桐坪之巻』といった別名も確認できる 39 。後者の名称は、大坪流から分派した上田流の系統で伝承された写本が存在することを示唆しており、流派の伝播の歴史を物語る上で興味深い。
『桐坪巻』が、光明皇后の願経や五山版などの国宝・重要文化財級の資料を数多く含む谷村文庫に収蔵されていたという事実は、この伝書が単なる一武芸の秘伝書としてではなく、文化史的にも高い価値を持つ資料として認識されていたことを示している 38 。
しかしながら、現状ではこれらの写本はデジタルアーカイブ上で書誌情報が公開されているに留まり、本文や図の具体的な内容を直接閲覧し、分析することは困難である 35 。したがって、本報告書における『桐坪巻』の内容に関する考察は、他の大坪流関連の伝書や、流派全体の思想からその内容を類推するという方法に依らざるを得ない。この点は、今後の研究における課題として明記しておく必要がある。
『大坪流桐坪巻』という名称、特に「桐坪(桐壺)」という巻号は、馬術という武骨なイメージとは一見そぐわない、優雅な響きを持つ。この名称の由来を解き明かすことは、大坪流の思想的背景と自己認識を理解する上で重要な鍵となる。
「桐壺」は、言うまでもなく日本古典文学の最高峰である『源氏物語』全五十四帖の第一帖の巻名である。主人公・光源氏の誕生と、帝の寵愛を一身に受けた母・桐壺更衣の悲劇が描かれ、壮大な物語全体の序章として、また物語の格調を決定づける極めて重要な巻として認識されている。
大坪流が、足利将軍家の馬術師範という高い格式を誇りとしていたこと 8 を踏まえれば、その極意書の巻名に「桐壺」を冠したことには、明確な意図があったと考えられる。それは、自らの流派が単なる実用的な武術に留まらず、宮廷文化にも通じる高い教養と権威を背景に持つものであることを、内外に示すための戦略であった。
これは、大坪流の巧みなブランディング戦略と解釈することができる。第一に、『源氏物語』の「始まり」の巻である「桐壺」を巻名とすることで、この『桐坪巻』が、大坪流の教えの「根源」であり、全ての技術の出発点となる最も重要な極意書であることを象徴させている。第二に、戦国時代の上級武士にとって、「武」の技芸だけでなく「文」の教養もまた、その人格と地位を構成する必須の要素であったという時代背景を反映している。馬術という「武」の世界に、「桐壺」という「文」の世界の最高峰のイメージを重ね合わせることによって、大坪流は自らを「文武両道」を体現する、他の武芸流派とは一線を画す格調高い流派として位置づけたのである。これは、競争の激しい武芸の世界において、特に高い身分の弟子たちを惹きつけ、自らのブランド価値を高めるための、高度な文化的戦略であったと言えよう。
『大坪流桐坪巻』は「極意を記した書」とされていることから 13 、流派の根幹をなす思想や、門外不出とされたであろう核心的な技術が記されていたと推察される。現存写本の全容解明は今後の課題であるが、大坪流全体の思想や、後代に成立した分派の伝書から、その内容をある程度論理的に推考することは可能である。
まず、精神論が重要な位置を占めていたことは間違いないだろう。大坪流が技術論と共に精神論を確立した流派であること 5 、そして「乗馬禅」という概念が存在したこと 6 から、『桐坪巻』には、単なる技術解説に先立ち、馬との精神的な一体化の重要性や、騎乗という行為を通じた自己修養の道筋といった、流派の哲学的根幹が説かれていたと考えられる。
技術的な側面では、具体的な操馬法が記されていたはずである。現代の相馬野馬追における甲冑競馬でも、その特徴的な手綱捌きが注目される大坪流であるが 40 、その基本となる手綱の持ち方、力の伝え方、馬への合図の送り方といった秘伝が図解などを交えて解説されていた可能性がある。
また、馬の調教と選定に関する知識も含まれていたと推測される。戦国武将にとって馬は貴重な財産であり、優れた軍馬を確保することは死活問題であった。江戸時代に成立した大坪本流が、馬の能力や性質を見抜く「相馭(そうぎょ)」の法を重要視したこと 41 を考えれば、その源流となる『桐坪巻』にも、良馬の見分け方、気性の見極め方、そして基本的な調教の心得といった内容が盛り込まれていたであろう。
そして、全ての基礎となる基本的な乗法も詳述されていたに違いない。和式馬術の基本姿勢である「居鞍乗り(いぐらのり)」や、甲冑着用時や戦闘時に用いられた、鐙に体重をかけて腰を浮かす「立ち透かし(たちすかし)」 42 といった姿勢の作り方、体重移動、鐙の踏み方など、人馬一体を実現するための身体操作の要点が、極意としてまとめられていたと考えられる。
大坪流の技術体系を貫く最も重要な思想は、「馬術専一」という哲学である。高松藩に伝わった大坪流の伝書『大坪流軍馬』には、刀槍や薙刀といった馬上での武器の扱いについては「それぞれ特別な指南役があるので、それについて聞くべし」と記されており、馬上武芸とは明確に一線を画していた 8 。これは、武器を操る技術よりも、まず人馬が一体となり、馬を意のままに操縦することこそが馬術の根源であり、至上の目的であるという、流派の確固たる信念を示すものである。
この思想は、やがて「乗馬禅」と呼ばれる精神修養の境地へと昇華される 6 。これは、騎乗という身体的な行為を通じて、雑念を払い、心を無にし、馬という生命と自己の精神を一体化させることを目指す、禅的な修行の側面を強く示している。馬の動きを感じ、その呼吸に合わせ、自らの意思を力ではなく気を通じて伝える。この過程で、乗り手は自己を深く内省し、不動の精神を養う。技術の錬磨が、そのまま精神の鍛錬に直結するという思想こそ、大坪流が単なる「術(jutsu)」に留まらず、後世に大きな影響を与える「道(dō)」として大成した根源である。
戦国時代、武士は常に死と隣り合わせの日常を生きていた。その中で求められたのは、敵を殺傷する技術だけではない。極限状態にあっても冷静さを失わず、的確な判断を下すことができる強靭な精神力であった。大坪流は、馬を操るという行為の中に、自己の心を制御し、馬という自然と一体化する禅的な修行の道を見出した。これにより、馬術は武士にとって、戦場で生き残るための実用的な技術であると同時に、自らの生と死に深く向き合うための、精神的な支柱ともなり得たのである。
大坪流の教えが、江戸時代に入り、より体系的に整理・発展させられた形が、分派である「大坪本流」の「五馭の法(ごぎょのほう)」である。大坪本流は、江戸時代中期に福岡藩士であった斎藤主税定易(さいとう ちから さだやす)が、大坪流の伝統を基に「五馭の法」を編み出して開いた流派である 8 。この「五馭の法」は、大坪流が内包していた馬に関する広範な知識を、五つのカテゴリーに分類・体系化したもので、流派の総合性を見事に示している。
表2:大坪本流「五馭の法」の概要
項目 |
読み |
目的 |
内容 |
乗馭(常馭) |
じょうぎょ(つねぎょ) |
日常の騎乗技術 |
基本的な乗法、調教法、手綱や鞭の操作法など、馬術の基礎全般 41 。 |
相馭 |
そうぎょ |
馬の資質鑑定 |
馬の骨格、性質、能力を見抜き、良馬を選定するための相馬眼を養う知識 41 。 |
礼馭 |
れいぎょ |
儀礼・式典での騎乗 |
武家の礼法に則った、公式な場での格式ある乗馬法。威儀を正すための技術 41 。 |
軍馭 |
ぐんぎょ |
戦場での実践的騎乗 |
軍陣における特殊な操馬術、陣形の中での行動、合戦時の応用技術 41 。 |
医馭 |
いぎょ |
馬の治療・健康管理 |
馬の病気の診断、治療法、日常的な健康管理に関する知識。馬医術 43 。 |
この「五馭の法」の体系は、大坪流が単なる乗馬教室ではなく、馬に関するあらゆる知識を網羅した「総合馬学」とも言うべき学問であったことを明確に証明している。戦国から江戸時代にかけて、武士にとって馬は高価な戦略物資であり、戦場を共にする最高の相棒であった。その馬を、①正しく乗りこなし(乗馭)、②最高の資質を持つ個体を選び出し(相馭)、③儀礼の場で自らの威厳を示し(礼馭)、④戦場でその能力を最大限に引き出し(軍馭)、そして⑤常にその健康を維持し、病や怪我から救う(医馭)という五つの側面は、すべてが武士にとって実利に直結する極めて重要な知識であった。特に、馬の医療までを体系に含んだ「医馭」は、大坪流の先進性を示すものであり、斎藤定易が著した『武馬必用』は、日本で初めて「獣医」という言葉を用いた書とされる 43 。『桐坪巻』の時代にその萌芽があったであろう包括的な教えが、泰平の世となった江戸時代に「五馭の法」として結実したことは、大坪流の思想がいかに先進的で、かつ普遍的な価値を持つものであったかを物語っている。
馬術の技術は、乗り手の身体操作のみによって成立するものではない。その技術を物理的に支え、可能にする道具、とりわけ鞍と鐙は、技術と不可分の一体をなす存在である。大坪流の流祖・大坪慶秀が、馬術の名手であると同時に鞍作りの名人「大坪道禅」としても語り継がれていることは 9 、この事実を象徴している。
日本の伝統的な鞍(和鞍)は、公家が用いた優美な水干鞍に対し、武士が用いる軍陣鞍は、甲冑を着用した重装備の乗り手が安定して座れるよう、鞍壺(くらつぼ、座面)が深く、前輪(まえわ)・後輪(しずわ)と呼ばれる前後の支えが大きく堅固に作られているのが特徴である 46 。大坪流で用いられた「大坪鞍」も、この軍陣鞍の形式を踏襲し、激しい動きの中でも乗り手の姿勢を安定させるための工夫が凝らされていたと考えられる。
特に、和式馬術に特有の乗り方である「立ち透かし」―鐙に体重の多くを預け、腰を浮かせて馬の反動を吸収し、上半身を安定させる騎乗法― 42 を行うためには、足場となる鐙と、それを支える鞍の安定性が決定的に重要となる。大坪流の創始者たちが、自らが理想とする馬術を実現するために、最適な道具としての鞍を自ら開発・改良していったことは想像に難くない。
ここには、技術と道具の間に存在する、密接な相互作用が見て取れる。すなわち、①特定の乗り方(技術)が、②それに適した鞍(道具)の形状や構造を規定し、逆に、③改良された優れた鞍(道具)が、④より高度で安定した乗り方(技術)を可能にする、という共進化の関係である。大坪流の馬術の発展は、この技術と道具の絶え間ないフィードバックの歴史でもあったと言えるだろう。
本報告書を通じて多角的に分析してきたように、『大坪流桐坪巻』は、単に大坪流馬術の極意を記した一介の伝書に留まるものではない。それは、戦国時代という激動の時代が生んだ、武士の身体知と精神性を凝縮した、極めて重要な文化遺産である。
その歴史的意義は、以下の三点に集約される。第一に、戦国時代の戦術的変化という時代の要請に的確に応え、伝統的な「弓馬故実」から「馬術専一」という革新的なコンセプトを打ち出した点である。これは、武芸が時代の変化と共にいかにその姿を変容させていくかを示す好例である。第二に、その教えが単なる技術論に終わらず、「乗馬禅」という精神修養の道や、「五馭の法」に代表される包括的な「馬学」へと昇華された点である。これにより、馬術は武士にとって、実利的なスキルであると同時に、自己の人格を陶冶するための道となった。第三に、『桐坪巻』という名称に象徴されるように、武骨な武芸の世界に「文」の教養と権威を取り込むことで、独自のブランド価値を確立した点である。
『大坪流桐坪巻』、そしてその背景にある大坪流の存在は、戦国武士が単なる戦闘機械ではなく、高度な専門技術と深い精神性をたゆまず追求する、知的な存在であったことを我々に力強く物語る。馬を自在に操るという行為は、彼らにとって戦場での生存と勝利に直結するスキルであると同時に、自らの武威と教養、ひいては人間性を証明するための象徴でもあった。『大坪流桐坪巻』は、その実利と象徴の二重性を内包した、戦国武士の精神世界を解き明かすための、比類なき鍵なのである。
今後の展望としては、京都大学などに現存する『桐坪巻』写本の完全な翻刻と、その内容の学術的な分析が待たれる。その秘められた教えが解明された時、本報告書で推察した技術体系や思想はより具体的に裏付けられ、日本の武芸史、ひいては戦国時代の精神史研究に、新たな光が当てられることになるだろう。