最終更新日 2025-05-10

斎藤道三

日本の戦国時代における斎藤道三:その実像と後世への影響

I. 序論:謎多き梟雄、斎藤道三――「美濃の蝮」

斎藤道三(さいとうどうさん)は、日本の戦国時代において、「下剋上」という言葉を体現した最も著名な武将・大名の一人である 1 。彼の生涯は、下位の者が上位の者を実力で打倒し、成り上がるという戦国乱世の風潮を象徴している 2 。道三は、「美濃の蝮(みののまむし)」という異名で広く知られ、その名は彼の怜悧狡猾さ、目的達成のためには手段を選ばない冷酷さ、そして底知れぬ野心を想起させる 2

しかし、この道三像は、歴史の変遷とともに大きな変化を遂げてきた。かつては、司馬遼太郎の小説『国盗り物語』に代表されるように、一介の油商人から身を起こし、一代で美濃一国を掌握した立志伝中の人物として語られることが一般的であった 2 。だが、近年の研究、特に「六角承禎条書」などの史料の発見により、美濃の「国盗り」は道三一代ではなく、彼の父との親子二代にわたる事業であったとする「親子二代説」が学界の主流となっている 2 。この歴史解釈の転換は、道三という人物をより深く、多角的に理解する上で極めて重要である。道三の生涯に関する歴史的評価がこのように変遷した事実は、史料の発見や解釈がいかに歴史像を塗り替えていくかを示す好例と言える。それは単に道三個人の物語に留まらず、歴史学という学問分野そのものの進展を映し出しているのである。

また、「美濃の蝮」という強烈な呼称も、同時代的な評価というよりは、後世の文学作品、特に坂口安吾や山岡荘八の小説を通じて定着した可能性が指摘されており 8 、史実としての道三と、物語の中で形成された道三像とを慎重に区別する必要がある。

本報告では、最新の歴史研究の成果を踏まえ、斎藤道三の出自、権力掌握の過程、美濃国における統治政策、主要人物との関係、そしてその最期と後世に与えた影響について、史料に基づき包括的に論じることを目的とする。

基本情報

  • 生年: 1494年(明応3年)説 1 、または1504年(永正元年)説 9 など諸説あり、その出自の不確かさを物語っている。
  • 没年: 1556年5月28日(弘治2年4月20日) 1
  • 出身地: 山城国 1

II. 出自と権力掌握への道程:親子二代の物語

A. 神話の解体:「親子二代説」の登場

斎藤道三の出自と権力掌握の過程は、長らく一代での「国盗り」として語られてきたが、現代の歴史学では「親子二代説」が有力視されている 2 。この説の根幹を成すのが、1560年(永禄3年)に近江の戦国大名・六角義賢(承禎)が、息子・義治と斎藤義龍の娘との縁談を阻止するために重臣に宛てた書状「六角承禎条書」である 2 。この書状には、斎藤義龍の祖父(道三の父)である新左衛門尉が京都妙覚寺の僧侶から身を起こし、美濃で長井氏に仕えて台頭したこと、そして義龍の父である左近大夫(道三)が主家を乗っ取り斎藤氏を名乗った経緯などが記されており、従来の道三一代記を覆す重要な史料となっている。

B. 父の礎:松波庄五郎(長井新左衛門尉)

親子二代説によれば、道三の父は松波庄五郎(または庄九郎)といい、その後の長井新左衛門尉である 2 。彼の経歴は以下の通りである。

  • 京都西郊の西ノ岡出身の可能性があり、北面の武士・松波左近将監基宗の子とも伝わる 2
  • 若くして京都の妙覚寺に入り、法蓮房と名乗る修行僧となった 2
  • 後に還俗して松波庄五郎と改名し、油商人となり、京都の油問屋「奈良屋」の娘婿になったとされる 2 。油売りの際、一文銭の穴に油を通すという離れ業で評判を得たという逸話も残る 2
  • 油の販路拡大のため美濃へ進出し、妙覚寺時代の弟弟子が住職を務める常在寺を拠点とした 2
  • 美濃土岐氏の家老・長井利隆の弟である日運上人の推薦などもあり、長井藤左衛門秀弘に仕官。京の情報を伝えられることや、文化的な素養、背後の油問屋「山崎屋」の財力が評価されたと考えられる 2
  • 武士となり、西村勘九郎正利と名乗る 2
  • 船田の乱などで戦功を挙げ、長井家中で頭角を現す 2
  • 主君長井秀弘の死後、その嫡男長弘に仕え、永正14年(1517年)には長井姓を拝領し、長井新左衛門尉と改名。守護代斎藤氏の重臣という地位を得た 2
  • さらに土岐家の内紛などで活躍し、長井豊後守と称するまでになり、天文2年(1533年)頃に病没したとされる 2

道三の父が築いたこの基盤は、単なる一介の商人からの立身出世ではなく、美濃国内である程度の地位と影響力を確保するものであった。この父の存在が、道三自身の野望の実現にとって不可欠な土台となったことは想像に難くない。

表1:斎藤道三の父(松波庄五郎/長井新左衛門尉)の主な名乗り

時期

名乗り

典拠

修行僧時代

法蓮房(ほうれんぼう)

2

還俗後

松波庄五郎(まつなみしょうごろう)、松波庄九郎(まつなみしょうくろう)

2

長井家臣時代

西村勘九郎正利(にしむらかんくろうまさとし)

2

長井氏同名衆

長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)

2

晩年

長井豊後守(ながいぶんごのかみ)

2

C. 道三の初期の経歴と権力基盤の確立(長井規秀・利政として)

父の死後、その地盤を引き継いだ道三は、当初長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)と名乗った 2 。彼は、主君であった長井長弘に仕えつつ 15 、美濃国内の土岐氏の内紛、特に土岐頼芸(よりなり、政頼・頼武とも)とその兄弟である土岐頼純(よりずみ、頼武とも)との守護職を巡る争いに巧みに介入していった 17

享禄3年(1530年)頃、道三は自らの主君である長井長弘を「行状が悪い」として殺害し、長井氏の実権を掌握 10 。この冷酷な行動は、彼の野心の大きさと、目的のためには手段を選ばない性格を早くから示している。

天文7年(1538年)、美濃守護代であった斎藤利良が病死するという好機が訪れると、道三は斎藤姓を名乗り、斎藤新九郎利政(さいとうしんくろうとしまさ)と改名した 8 。これは、美濃国内における名門・斎藤氏の権威と正統性を自らのものとするための戦略的な行動であった。

D. 「国盗り」:土岐氏の追放と美濃掌握

斎藤利政と名乗った道三は、土岐頼芸を傀儡(かいらい)として擁立しつつ、その実権を徐々に奪っていった 15 。彼は土岐氏内部の対立を巧みに利用し、反対勢力を次々と排除していった。

  • 天文10年(1541年)には、土岐頼芸の弟である頼満を毒殺したとされる 7
  • 「六角承禎条書」によれば、頼芸の婿であった土岐頼充(頼芸の娘婿で早世)や、稲葉山に呼び寄せて自害させた土岐頼香(頼芸の弟か)、その他の土岐氏一族も毒殺や暗殺によって葬ったとされている 2

そして天文11年(1542年)、ついに土岐頼芸を尾張へ追放し、美濃国の実質的な支配者となった 3 。この一連の行動が、まさしく「国盗り」と呼ばれる所以である。稲葉山城(後の岐阜城)を本拠とし 3 、美濃を平定した後に出家し、道三と号した 9

道三の権力掌握過程は、単なる軍事力による征服ではなく、既存の権力構造の内部的弱点を的確に見抜き、それを最大限に利用する高度な政治的策略家としての側面を強く示している。土岐氏の内紛は、道三にとって自らの野望を実現するための絶好の機会を提供したのであった。また、父・庄五郎から道三へと続く名乗りの変化は、単なる改名ではなく、社会的地位の上昇、権力の掌握、そして新たな野望の表明といった、彼らの生涯における重要な転換点を印づけるものであった。それぞれの名前が、彼らの「国盗り物語」における各章のタイトルとも言えるだろう。

表2:斎藤道三の主な名乗り

時期

名乗り

典拠

初期

長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)

2

斎藤氏継承後

斎藤(新九郎)利政(さいとう(しんくろう)としまさ)、斎藤左近大夫利政(さいとうさこんのたゆうとしまさ)、斎藤山城守利政(さいとうやましろのかみとしまさ)

2

出家後

(斎藤)道三((さいとう)どうさん)

9

III. 蝮の領域:美濃国における統治と政策

美濃国主となった斎藤道三は、その冷酷な権力掌握術とは裏腹に、領国経営においては注目すべき政策を展開した。彼の統治は、単なる軍事支配に留まらず、経済の振興や都市整備にも及んでおり、その後の織田信長の政策にも影響を与えた可能性が指摘されている。

A. 経済政策:商業の育成と独占への挑戦

道三の経済政策で特筆すべきは、美濃特産の美濃紙に対する改革である。当時、美濃紙は「座」と呼ばれる同業者組合によって価格が高騰していたが、道三はこの座の特権を打破し、誰もが比較的安価に美濃紙を利用できるようにしたと伝えられている 6 。この政策の背景には、道三の父・庄九郎が油商人として座の制度や寺社勢力の経済的特権に苦しめられた経験があった可能性があり、それが道三の改革への動機となったとも考えられる 6 。この種の改革は、既得権益を持つ寺社勢力との対立を意味するものであり、道三の果敢な一面を示すものである。

さらに、道三は織田信長に先駆けて「楽市楽座」に近い政策を実施した可能性も示唆されている 6 。信長が実施した楽市楽座は、市場の閉鎖性を打破し、自由な商業活動を保障することで城下町の繁栄を図るものであったが 6 、道三が既に関所の撤廃や市場の保護といった商業振興策を行っていたとすれば、その先進性は注目に値する。これらの経済政策は、美濃国の経済的活力を高め、道三の権力基盤を強化する上で重要な役割を果たしたと考えられる。それは、彼が単なる簒奪者ではなく、領国経営にも長けた為政者であったことを示唆している。

B. 城郭と城下町の整備:稲葉山城と井ノ口

道三は、本拠地である稲葉山城(後の岐阜城)とその城下町・井ノ口の整備にも力を注いだ 3 。稲葉山城は難攻不落の山城として知られるが、近年の発掘調査では、道三時代に既に大規模な石垣が築かれ、山頂部に御殿が、山麓に居館が設けられるという二元的な構造を持っていたことが明らかになっている 19 。これは、織田信長が小牧山城で採用した構造の先駆けとも言え、道三の築城術の先進性を示している。一部の石垣は信長時代よりも古い、道三時代のものである可能性も指摘されており 19 、道三が信長の城郭建築に影響を与えた可能性は高い。

城下町の井ノ口も、道三によって計画的に整備された。山麓の居館を中心に、東西に延びる道路に沿って町人地が形成され、町全体が総構え(外郭)で囲まれ、その内外に神社仏閣が配置されるという大規模なものであった 16 。道三は城内に「地上の楽園」とも称される壮麗な館を築き、城郭に「魅せる」という独創的な要素を加えたとも言われる 21 。こうした城と城下町の一体的整備は、領国の政治・経済・軍事の中心地としての機能を高めるとともに、道三の権威を内外に示すものであった。この点においても、道三は信長の先駆者であったと言えるかもしれない。

C. 軍事組織と戦略

道三は戦巧者としても知られ、数々の戦いでその軍事的才能を発揮した 16 。特に、織田信秀の大軍を稲葉山城下で破った加納口の戦い(1547年)は、彼の戦術眼を示す好例である 7 。圧倒的な兵力差があった長良川の戦いの序盤においても、道三軍が優勢だったと伝えられており 16 、その指揮能力の高さがうかがえる。

彼の軍事力は、美濃三人衆(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)のような有力な家臣団によって支えられていたが 24 、彼らの忠誠心は必ずしも盤石ではなく、後の義龍との争いでは多くが義龍側に与した。これは、道三の強引な権力掌握に対する旧来の勢力からの反発が根強かったことを示している。

D. 外交関係

道三の外交政策は、隣国との力関係を巧みに利用する現実的なものであった。当初、尾張の織田信秀とは敵対関係にあり、数度にわたり干戈を交えた 7 。しかし、加納口の戦いで信秀に大勝した後、戦略的判断から和睦へと転換。天文17年(1548年)、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男・織田信長に嫁がせることで同盟関係を築いた 3 。この婚姻同盟は、南方の脅威を取り除き、美濃国内の支配固めに専念するための重要な布石であった。

その後、道三は信長を支援し、村木砦攻めには援軍を送るなど、同盟関係を維持した 16 。この同盟は、信長にとっても初期の勢力拡大において大きな後ろ盾となった。

道三の統治は、権力掌握の過程で見せた冷酷さとは対照的に、領国経営においては経済振興や都市整備といった建設的な側面も持ち合わせていた。彼の政策は、美濃国を強化し、戦国大名としての地位を固める上で効果的であったが、その基盤には常に「下剋上」によって生じた国内の不満と緊張が潜んでいたと言える。

IV. 主要な人間関係と対立

斎藤道三の生涯は、同時代の有力者たちとの複雑な人間関係と、時として悲劇的な対立によって彩られている。特に、織田信長との関係と、実子・斎藤義龍との確執は、彼の運命を大きく左右した。

A. 織田家との同盟:織田信秀と織田信長

1. 織田信秀との対立と和解

尾張国の実力者であった織田信秀とは、当初激しく対立した。数度にわたる合戦の後、天文16年(1547年)の加納口の戦いで道三が信秀軍に大勝すると 16 、両者の力関係は変化し、和睦へと向かった。この和睦の証として、天文17年(1548年)、道三は娘の帰蝶(濃姫とも呼ばれる)を信秀の嫡男・信長に嫁がせた 3 。この政略結婚は、道三にとって尾張からの脅威を取り除き、美濃国内の支配を固める上で極めて重要な意味を持った。

2. 織田信長との関係

道三と信長の関係は、単なる舅と婿という間柄を超え、戦国史における最も興味深い人間関係の一つとして知られている。

  • 正徳寺の会見(天文22年・1553年頃): この会見は、道三が信長の器量を見抜いたとされる有名な逸話である。当初「尾張の大うつけ」と評されていた信長に対し、道三は警戒心と侮りを抱いていた。しかし、会見場に現れた信長は、それまでの奇抜な振る舞いとは打って変わって威風堂々たる武将の姿であり、その兵もよく統率されていた。これに感銘を受けた道三は、信長の非凡な才能を確信したと伝えられる 27 。この逸話は、道三が人物の本質を見抜く鋭い眼力を持っていたことを示唆している。たとえ周囲が奇人と見なす人物であっても、その奥に秘められた革新的な可能性を察知する能力は、道三自身が既成の秩序を打ち破って成り上がった人物であったからこそ持ち得たのかもしれない。
  • 信長の才能への高い評価: 道三は信長を高く評価し、「我が子たちは、いずれあの者の門前に馬を繋ぐことになるだろう」と述べたとされる 16 。これは、実子である義龍らよりも、婿である信長に将来を託そうとした道三の心情の表れとも解釈できる。
  • 「美濃国譲り状」: 道三が死に際し、美濃一国を信長に譲るという内容の遺言状を残したとされる 10 。この譲り状の真偽については議論があるものの 16 、道三が信長の器量を高く買い、自らの後継者として美濃を託そうとしたという意思を示すものとして語り継がれている。この譲り状の存在は、たとえ後世の創作であったとしても、信長が後に美濃を攻略する上で、道三の遺志を継ぐという大義名分として機能した可能性は否定できない。
  • 濃姫(帰蝶): 道三の娘であり、信長の正室。知性と気概に富んだ女性として描かれることが多い。嫁ぐ際に道三から「信長が本当にうつけ者であれば、この短刀で刺せ」と渡されたのに対し、「父上の首を刺すことになるかもしれません」と返したという逸話は有名である 22 。また、明智光秀とは従兄妹の関係にあったともされる 15 。しかし、その後の歴史的記録は乏しく、謎の多い人物でもある 28

B. 悲劇的な父子の確執:斎藤道三 対 斎藤義龍

道三とその嫡男・義龍との関係は、最終的に破滅的な結末を迎える。

  • 斎藤義龍(よしたつ): 道三の長男であり、後継者 1
  • 対立の原因:
  • 道三が義龍の弟である孫四郎や喜平次を偏愛したこと 23
  • 道三が義龍を「無能」と見なし、疎んじていたこと 8
  • 義龍の出生に関する疑惑。義龍は道三の実子ではなく、道三がかつての主君・土岐頼芸から譲り受けた側室・深芳野の子であり、実父は頼芸であるという噂があった 8 。この噂が義龍の道三に対する不信感や憎悪を増幅させた可能性は高い。
  • 道三が義龍に家督を譲った後も、実権を握り続けたことへの義龍の不満 30
  • 義龍の先制攻撃(弘治元年・1555年): 義龍は、病と偽って弟の孫四郎と喜平次を稲葉山城に呼び寄せ、寵臣の日根野弘就らに殺害させた 23 。これは道三に対する明確な反逆行為であった。
  • 長良川の戦い(弘治2年4月20日・1556年):
  • 息子の反逆に驚いた道三は稲葉山城を脱出し、大桑城などで兵を集めた 23
  • 兵力差は歴然としており、義龍軍約17,500に対し、道三軍は約2,700と劣勢であった 10 。美濃の国人の多くは、道三の強引な下剋上を快く思っておらず、義龍に味方した 10 。この事実は、道三の支配が美濃の武士層に深く浸透していなかったことを示している。義龍は、こうした道三への不満を巧みに利用し、自らの旗頭としての正当性を高めたと言える。
  • 戦いは、道三の巧みな指揮により序盤は善戦したものの、兵力差はいかんともしがたく、道三は敗死した。その首は長井忠左衛門や小牧源太によって討ち取られたと伝わる 16
  • 道三の婿である織田信長は援軍を派遣したが間に合わず、義龍軍と小競り合いの後に撤退した 23

道三と義龍の対立は、単なる親子間の感情的なもつれに留まらず、道三の「国盗り」によって生じた美濃国内の旧勢力や不満分子の存在が複雑に絡み合った結果であった。義龍は、これらの反道三勢力の受け皿となり、父を討つことで美濃国主としての地位を確立しようとしたのである。

V. 遺産と歴史的再評価

斎藤道三の生涯は、その劇的な「国盗り」と悲劇的な最期によって、後世に強烈な印象を残した。彼の評価は、史料の発見や時代の価値観の変化とともに変遷を重ねている。

A. 永続するイメージ:「美濃の蝮」――事実と虚構

道三の最も一般的なイメージは、「美濃の蝮」という異名に集約される。これは、彼の怜悧狡猾さ、冷酷非情さ、そして下剋上を成し遂げた野心家としての側面を強調するものである 2 。このイメージは、以下の要素によって形成されたと考えられる。

  • 実際の行動: 主君や恩人を次々と排除し、美濃国を奪取した事実は、彼の非情さを裏付けている 2
  • 史料による描写: 親子二代説の根拠となった「六角承禎条書」自体が、道三親子による裏切りと簒奪の物語として描いている 2
  • 近世の軍記物: 江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』などの軍記物は、道三の一代での成り上がりをドラマチックに描き、その梟雄としてのイメージを広めた 9
  • 近代以降の文学作品: 特に司馬遼太郎の小説『国盗り物語』は、道三をマキャベリスト的な英雄として描き、その大衆的なイメージ形成に決定的な影響を与えた 3 。この小説や、それを原作としたテレビドラマ(例:1973年の大河ドラマでの平幹二朗による道三像 4 )は、「美濃の蝮」のイメージを国民的規模で定着させた。実際に、「蝮」という呼称が一般化したのは、坂口安吾や山岡荘八といった近代の作家による小説の影響が大きいと指摘されている 8

しかし、この強烈なイメージの裏で、道三が有能な行政官であり、先見性のある政策を実施した側面も見逃すべきではない。

B. 歴史学における評価の変遷:史料発見の衝撃

道三研究における最大の転換点は、「六角承禎条書」の発見と、それに基づく「親子二代説」の確立である 2 。この史料は、『岐阜県史』編纂の過程で発見され、道三の出自と美濃攻略の経緯に関する従来の通説を根本から覆した 2 。この発見は、歴史研究がいかに新たな史料によって進展し、修正されていくかを示す好例である。

その他の重要な史料としては、以下のようなものが挙げられる。

  • 『信長公記』: 織田信長の家臣・太田牛一によって記された、信長の一代記。道三と信長の関係や長良川の戦いなどについて、同時代に近い視点からの記述を含んでおり、一級史料として価値が高い 9
  • 『美濃国諸旧記』: 江戸時代初期に成立したとされる美濃国の地誌・軍記物。道三の一代記を伝え、近世における道三像形成に大きな影響を与えたが、その前半生に関する記述は、現在では道三の父の事績と混同されていることが明らかになっている 9

C. 大衆文化における道三

斎藤道三は、その劇的な生涯と強烈な個性から、多くの小説、漫画、ドラマの題材とされてきた。中でも司馬遼太郎の『国盗り物語』は、道三の知名度とイメージ形成に絶大な影響を与えた 3 。この作品を通じて、道三は単なる戦国武将としてだけでなく、下剋上の象徴、あるいは魅力的なアンチヒーローとして広く認識されるようになった。大河ドラマをはじめとする映像作品でも、その狡猾さ、野心、そして時折見せる人間的な魅力が様々な俳優によって演じられてきた 4 。このような大衆文化における道三像の再生産は、彼に対する歴史的関心を喚起し続ける一方で、史実とフィクションの境界を曖昧にする側面も持つ。

D. 戦国時代と主要人物への影響

  • 織田信長への影響:
  • 道三との同盟は、信長にとって初期の勢力拡大における重要な後ろ盾となった 27
  • 道三の経済政策や城郭建築が、信長の政策に影響を与えた可能性は前述の通りである 6
  • 「美濃国譲り状」は、真偽はともかく、信長の美濃攻略における大義名分の一つとなった 10
  • 下剋上の体現者として: 道三(とその父)の成功物語は、戦国時代の流動的な社会階層と実力主義を象徴するものであった。それは同時代の武将たちにとって、野心を抱かせる刺激となると同時に、いつ裏切られるか分からないという警戒心をも抱かせるものであっただろう。

親子二代説の確立は、道三個人の冷酷さや野心を否定するものではなく、むしろそれをより大きな文脈の中に位置づけるものである。それは、劇的な下剋上とされる出来事も、しばしばより長期的で段階的な準備や、相続された野心、あるいは有利な条件といった要素が絡み合っていることを示唆している。道三の物語は、歴史的史料と大衆的記憶との間で揺れ動く。史料はより客観的(ただし、それ自体も特定の視点を持つ)な姿を提示しようとするのに対し、物語はより神話的な人物像を創造する。歴史家は、この両者を踏まえつつ、その人物の実像に迫ろうと努めるのである。

VI. 結論:斎藤道三の戦国史における不朽の地位

斎藤道三は、その生涯を通じて戦国時代の激動を体現した人物であり、後世に多大な影響を残した。彼の評価は複雑であり、一面的な解釈を許さない。

道三は、「美濃の蝮」の異名が示す通り、目的のためには手段を選ばない冷酷さと、底知れぬ野心、そして卓越した政治的策略を駆使して美濃一国を掌握した。その過程は、裏切りと簒奪に満ちていた。しかし同時に、彼は有能な行政官であり、経済政策や城郭・城下町の整備において先見の明を示し、領国経営にも手腕を発揮した。彼の台頭が、父・松波庄五郎(長井新左衛門尉)の長年にわたる努力の土台の上に成り立っていたという「親子二代説」は、彼の「国盗り」をより重層的な物語として理解する視点を提供する。それは、道三個人の並外れた(そしてしばしば非情な)才能と、父から受け継いだ遺産とが結実した結果であった。

道三の最も重要な功績の一つは、美濃国における下剋上を成功させ、その後の政治情勢に大きな変化をもたらしたことである。また、彼の経済政策や城郭整備は、後の織田信長の政策にも影響を与えた可能性があり、戦国時代の統治における革新的な試みとして評価できる。そして何よりも、信長との複雑な関係は、信長の初期の台頭を支え、日本の歴史を大きく動かす遠因となった。

斎藤道三は、戦国時代の混沌としたダイナミズムと、容赦ない実力主義を象徴する存在として、歴史にその名を刻んでいる。彼の物語は、一代での成り上がりであれ、親子二代にわたる事業であれ、社会秩序が大きく揺らぎ、新たな価値観が生まれる時代における野望と権力掌握の壮大なドラマとして、今もなお我々を魅了し続けている。そして、新たな史料の発見や研究の進展によって、彼の人物像が絶えず再検討され続けているという事実は、歴史理解が決して固定的なものではなく、常に発展途上にあることを示している。

VII. 付録

A. 表1:斎藤道三の生涯と主要年表

年代(西暦)

出来事

典拠

1494年頃または1504年頃

誕生

1

1530年頃(享禄3年)

主君・長井長弘を殺害し、長井氏の実権を掌握

10

1533年頃(天文2年)

父・長井新左衛門尉が死去。道三(規秀・利政として)がその地位を継承

2

1538年(天文7年)

斎藤姓を名乗り、斎藤利政となる

8

1541年(天文10年)

土岐頼満を毒殺

7

1542年(天文11年)

土岐頼芸を追放し、美濃国を掌握

3

1547年(天文16年)

加納口の戦いで織田信秀を破る

16

1548年(天文17年)

娘・濃姫(帰蝶)が織田信長に嫁ぐ

7

1553年頃(天文22年)

織田信長と正徳寺で会見

27

1554年(弘治元年)

嫡男・斎藤義龍に家督を譲る

8

1555年(弘治元年)

斎藤義龍が弟の孫四郎・喜平次を殺害

23

1556年(弘治2年)

4月20日(旧暦)、長良川の戦いで斎藤義龍に敗れ、戦死(享年62歳または52歳)

1

B. 表2:斎藤道三に関連する主要人物

人物名

道三との関係

松波庄五郎(長井新左衛門尉)

父。美濃における権力基盤を築いた。

土岐頼芸(とき よりなり)

美濃国守護。道三が当初支援し、後に追放した。

織田信秀(おだ のぶひで)

尾張の戦国大名。当初は敵対したが、後に和睦し、信長の舅となる。

織田信長(おだ のぶなが)

婿。道三がその才能を高く評価し、同盟を結んだ。後に美濃を支配。

濃姫(のうひめ)/帰蝶(きちょう)

娘。織田信長の正室。

斎藤義龍(さいとう よしたつ)

嫡男。道三に反旗を翻し、長良川の戦いで父を討った。

明智光秀(あけち みつひで)

濃姫の従兄妹とされ、道三に仕えた可能性も指摘される 15

C. 美濃国および周辺地域の地図(概念)

美濃国(現在の岐阜県南部)を中心に、尾張国(現在の愛知県西部)、稲葉山城(岐阜城)、長良川などの主要な地理的位置関係を把握することは、道三の戦略や行動を理解する上で助けとなる。美濃は、京都と東国を結ぶ交通の要衝であり、戦略的に重要な地域であった。

D. 斎藤道三ゆかりの史跡

  • 常在寺(じょうざいじ): 岐阜市にある日蓮宗の寺院。斎藤氏の菩提寺であり、道三とその父・長井新左衛門尉が美濃攻略の拠点とした。国指定重要文化財である絹本著色斎藤道三像・同斎藤義龍像を所蔵する(通常は複製を展示) 13
  • 岐阜城(ぎふじょう)/稲葉山城(いなばやまじょう): 岐阜市の金華山山頂にある城。道三が本拠地とし、難攻不落を誇った。後に織田信長が攻略し、天下統一の拠点とした 3
  • 道三塚(どうさんづか): 岐阜市内にある道三の墓所。長良川の戦いで討死した後、この地に葬られたと伝わる 13
  • 大桑城(おおがじょう): 山県市にあった城。元は土岐氏の拠点であり、道三が長良川の戦いの前に一時立てこもった 13

引用文献

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  4. 【写真あり】“美濃のマムシ”斎藤道三を演じた歴代キャストが ... https://sengoku-g.net/blog/2020/02/saito-dosan.html
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  22. 信長の父・織田信秀が辿った生涯|織田家繁栄の礎を築いた勇猛果敢な戦国武将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1107616
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  25. 長良川の戦いから信長の美濃侵攻 - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト http://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E9%95%B7%E8%89%AF%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  26. 蝮とうつけが築いた城~斎藤道三と織田信長を支えた岐阜城 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/dosan-nobunaga-gifujocastle/
  27. 織田信長と斎藤道三を不思議な絆で結びつけた『聖徳寺会見』の真相【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/391147
  28. 濃姫 | Precious days*:..。 *゚¨゚゚・ https://ameblo.jp/yucchi87/entry-12603001923.html
  29. 戦国の梟雄・斎藤道三の生涯とは?道三ゆかりの「鷺山城」「道三塚」「常在寺」へ https://favoriteslibrary-castletour.com/dosan-sagiyamajo/
  30. 偉人・敗北からの教訓 第41回「シリーズ信長① 信長と斎藤道三・同盟の行方」 https://topics.bs11.jp/ijin-haiboku-kyoukun_41/
  31. 長良川の戦い/城郭図鑑 https://joe.ifdef.jp/99-01nagara/nagara.html
  32. 大河ドラマ 国盗り物語/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/taiga-list-detaile/kunitoristory/
  33. 戦国時代が舞台のおすすめ歴史・時代小説 - ブックオフオンラインコラム http://pro.bookoffonline.co.jp/hon-deai/jidai-shousetsu/20160927-sengoku.html