最終更新日 2025-08-21

稲葉山城

稲葉山城は、斎藤道三が難攻不落の要塞へと改修し、織田信長が「天下布武」を掲げ岐阜城と改名。戦国の二大英雄の夢が交錯した地。

戦国時代における稲葉山城の総合的研究:斎藤道三の要塞から織田信長の天下布武の拠点へ

序章:天下を望む山、金華山

美濃国南部に位置する稲葉山城は、戦国時代の動乱期において、単なる一地方の城郭にとどまらない極めて重要な戦略的価値を有していた。その価値の根源は、城が築かれた金華山(旧称:稲葉山)の特異な地理的・地質的条件に深く根差している。本報告書は、戦国時代という視点から稲葉山城を徹底的に調査し、その創築から斎藤道三による難攻不落の要塞化、そして織田信長による天下統一の拠点「岐阜城」への昇華と終焉まで、その歴史的変遷と意義を多角的に解明するものである。

濃尾平野に屹立する天然の要塞

金華山は、標高329メートルの独立峰であり、広大な濃尾平野の北縁、現在の岐阜市の中心部に位置する 1 。この山の地質は、古生代ペルム紀後期から中生代三畳紀中期(約2億6000万~2億3000万年前)にかけて形成された、放散虫の化石を含む極めて硬質なチャート層から成る 2 。長年にわたる長良川などの浸食作用により、周囲の軟弱な堆積物が削り取られ、この硬い岩盤だけが険しい山容として残ったのである 2 。特に、城の西麓は長良川に接し、高さ100メートルを超える断崖絶壁を形成しており、これが天然の防御壁として機能した 4

この地形は、大規模な土木工事を施さずとも、山全体が一個の巨大な要塞として機能することを意味する。硬いチャート層は崩落しにくく、急峻な斜面を維持するため、攻城側にとっては物理的に乗り越えがたい障壁となった 3 。さらに、濃尾平野に孤立してそびえ立つその姿は、優れた視認性をもたらし、遠方からの敵軍の動向をいち早く察知する上で絶大な軍事的利点を提供した。

「美濃を制す者は天下を制す」:戦略的価値の解読

稲葉山城の重要性は、その堅固さのみに由来するものではない。「美濃を制す者は天下を制す」という言葉が象徴するように、美濃国自体が日本の地政学的な中心に位置し、東西を結ぶ交通の要衝であった 6 。稲葉山城は、その美濃国の中心にあって、眼下に大動脈である長良川と美濃街道を望む、まさに扇の要というべき地点を占めていた 6

この地を掌握することは、京都への上洛を目指す東国の武将にとっても、東国への影響力拡大を企図する西国の武将にとっても、避けては通れない戦略目標であった。稲葉山城を支配下に置くことは、美濃一国を掌握するだけでなく、兵站、情報、交通の結節点を確保し、天下取りの事業を推進するための絶好の拠点を得ることを意味したのである。

金華山の圧倒的な地理的優位性は、稲葉山城を「籠城」を基本戦術とする難攻不落の城たらしめた一方で、その後の城主たちの運命をも規定した。斎藤道三はこの天険を最大限に活用して織田信秀の大軍を撃退したが、その孫・斎藤龍興はこの天険に驕り、家臣団の離反という内部からの崩壊を招いた。そして織田信長は、この山の軍事的価値を認めつつも、政治の中心としては不便であると考え、山麓に壮大な居館を築くという新たな城のあり方を模索するに至る。このように、金華山の「天険」は、稲葉山城の栄光と悲劇、そして革新の全ての源泉となったのである。

表1:稲葉山城・岐阜城 関連年表

西暦(和暦)

出来事

主要関連人物

1201-04年頃(建仁年間)

二階堂行政が稲葉山に砦を築いたと伝わる

二階堂行政

1525年(大永5年)

土岐氏の内乱で「稲葉山ノ城」が史料に初見

長井長弘、土岐頼武

1535年頃(天文4年)

斎藤道三(利政)が稲葉山城を拠点とし、改修を開始

斎藤道三

1539年頃(天文8年)

道三、城と城下町「井ノ口」の本格整備を行う

斎藤道三

1547年頃(天文16年)

加納口の戦い。道三が織田信秀軍を撃退

斎藤道三、織田信秀

1554年(天文23年)

道三、義龍に家督を譲り、稲葉山城は義龍の居城となる

斎藤道三、斎藤義龍

1556年(弘治2年)

長良川の戦い。義龍が道三を討つ

斎藤義龍、斎藤道三

1561年(永禄4年)

斎藤義龍が病死。子の龍興が跡を継ぐ

斎藤龍興

1564年(永禄7年)

竹中半兵衛が稲葉山城を一時占拠

竹中半兵衛、斎藤龍興

1567年(永禄10年)

織田信長、稲葉山城を攻略。城を「岐阜城」と改名

織田信長、斎藤龍興

1569年(永禄12年)

ルイス・フロイスが来訪し、山麓居館などを記録

織田信長、ルイス・フロイス

1576年(天正4年)

信長が安土城へ移り、城主は織田信忠となる

織田信長、織田信忠

1582年(天正10年)

本能寺の変後、織田信孝が入城

織田信孝

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦いの前哨戦で落城

織田秀信、福島正則

1601年(慶長6年)

徳川家康の命により廃城となる

徳川家康


第一部:斎藤道三の城 ― 難攻不落の要塞の完成

下剋上の代名詞としてその名を轟かせる斎藤道三。彼が美濃国をその手に収める過程で、稲葉山城は彼の権力基盤の中核を成す存在へと変貌を遂げた。この部では、道三がいかにしてこの城を自らの拠点とし、戦国屈指の堅城へと昇華させたのかを、最新の研究成果を交えながら詳述する。

第一章:創築から斎藤氏の拠点へ

鎌倉時代の創築と戦国初期の動乱

稲葉山城の創築については、鎌倉時代の建仁年間(1201-1204年)に幕府の文官であった二階堂行政が砦を築いたのが始まりとする伝承が広く知られている 8 。しかし、この説を直接裏付ける同時代の具体的な史料は発見されておらず、その信憑性については慎重な検討を要する 8

史料上で稲葉山城が明確にその姿を現すのは、16世紀前半、美濃守護・土岐氏の内部抗争が激化した時代である。1525年(大永5年)、土岐氏の重臣であった長井長弘らが、守護であった土岐頼武を追放し、その弟・頼芸を擁立した事件が起こった。この時、頼武側についた越前の朝倉氏が「稲葉山ノ城を攻撃した」という記述が『朝倉家伝記』に見られ、これが稲葉山城に関する最も古い確実な記録とされている 8 。この記述から、稲葉山城が少なくとも16世紀初頭には美濃の政治・軍事の中心地の一つとして機能し、守護家の内乱の舞台となるほどの重要な拠点であったことが確認できる。

第二章:「美濃の蝮」による大改修

定説の変容:父子二代による「国盗り」の実像

斎藤道三の生涯は、長らく司馬遼太郎の歴史小説『国盗り物語』に描かれたように、一介の油売りから身を起こし、一代で美濃一国を盗み取った下剋上の典型例として語られてきた 14 。しかし、昭和期に「六角承禎条書写」をはじめとする新たな史料が発見されたことにより、この通説は大きく修正されることとなった 16

近年の研究では、道三の前半生とされてきた逸話の多くは、実は彼の父である長井新左衛門尉の事跡であったことが明らかになっている 16 。すなわち、美濃守護・土岐氏に仕え、徐々に頭角を現して守護代家老・長井氏の有力家臣にまでのし上がったのは父の代の功績であり、道三は父が築いたその地位を足掛かりとして、さらなる飛躍を遂げたのである 15 。この「国盗り」が父子二代にわたる事業であったという事実は、道三の評価を何ら貶めるものではない。むしろ、父の築いた基盤を巧みに利用し、主家である長井氏、さらには守護代斎藤氏、そして守護土岐氏をも次々と凌駕していく過程は、単なる一代の成り上がり物語以上に、道三の類稀なる謀略と政治手腕を浮き彫りにする。稲葉山城は、この父子二代にわたる壮大な下剋上事業の最終的な到達点であり、その権力の象徴であった。

城郭と城下町「井ノ口」の整備

道三がいつ稲葉山城に本拠を移したかについては明確な史料を欠くものの、1535年(天文4年)に城を改修したとされ、1539年(天文8年)頃には、城郭および城下町「井ノ口」の本格的な整備に着手したと伝えられている 8 。この道三による大改修こそが、後の岐阜城の原型となる縄張りを構築したと評価されている 17

道三の整備は、単なる軍事施設の強化にとどまらなかった。油商人の出自とも言われる鋭い経済感覚を活かし、城下町「井ノ口」の繁栄にも力を注いだ 9 。特に注目されるのは、織田信長に先駆けて「楽市楽座」の原型となる政策を導入したという説である 18 。信長が1567年10月に岐阜で楽市楽座の制札を出したことは確実であるが 20 、道三がそれ以前に同様の自由市場政策を構想していた可能性は、彼の先進性を示すものとして興味深い。山上の城郭、山麓の居館、そして城下の商工業地区を一体的に整備するその手法は、後の信長の城づくりに直接的な影響を与えたと考えられる。

難攻不落の証明:「加納口の戦い」

道三によって大改修された稲葉山城の真価が問われたのが、尾張の雄・織田信秀(信長の父)との「加納口の戦い」であった。1544年(天文13年)または1547年(天文16年)、道三に追放された土岐頼芸を支援するという名目で、信秀は大軍を率いて美濃に侵攻した 8

織田軍は破竹の勢いで稲葉山城下に迫り、周辺の村々を焼き払った 8 。しかし、道三は城の天険を頼りに籠城するだけではなかった。織田軍が日暮れのために一時兵を引き始めた隙を突き、突如として城から打って出たのである 8 。この奇襲は織田軍の意表を突き、一説には5,000人もの兵が討ち死にするという壊滅的な打撃を与えた 8 。この戦いは、稲葉山城が単なる籠城用の受け身の要塞ではなく、城兵が効果的に出撃し、敵を撃退できる能動的な攻撃拠点でもあったことを証明した。山頂の詰城と、道三が整備したであろう山麓の施設や複数の登城路が連携し、敵の注意が山頂に向いている隙に、意表を突く場所から出撃することを可能にしたと考えられる。この大敗北が、後の信秀と道三の和睦、そして信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)との政略結婚へとつながる大きな転機となったのである 17

第三章:親子の相克と城の運命

長良川の戦い:稲葉山城は義龍の拠点

1554年(天文23年)、道三は家督を嫡男の義龍に譲り、自身は稲葉山城を離れて鷺山城へ隠居した 9 。これにより、美濃支配の象徴である稲葉山城は、義龍の居城となった。しかし、この家督相続は父子の確執を解消するには至らず、両者の対立はむしろ先鋭化していった。

義龍は、自身が道三の実子ではなく土岐頼芸の落胤であるという噂を巧みに利用し、道三の強権的な支配に不満を抱いていた旧土岐家家臣や美濃の国衆の支持を集めることに成功した 12 。そして1556年(弘治2年)、両者の対立はついに「長良川の戦い」として武力衝突に至る。この戦いにおいて、義龍は稲葉山城を拠点とし、美濃の国人たちの圧倒的な支持を得て、兵力で劣る道三を討ち取った 25 。舅である道三を救援すべく駆けつけた織田信長の援軍も、間に合わなかった 23

この戦いにおいて、稲葉山城はもはや「道三の城」ではなく、反道三勢力の中核拠点として機能した。美濃の象徴たる稲葉山城を義龍が掌握していたことが、彼の大義名分と求心力を高める上で極めて重要な役割を果たしたことは疑いようがない。道三が築き上げた難攻不落の城は、皮肉にもその息子によって、道三自身を滅ぼすための牙城となったのである。


第二部:織田信長の城 ― 「天下布武」の象徴へ

斎藤道三・義龍と二代にわたり美濃支配の中核であり続けた稲葉山城は、やがて尾張の織田信長の手に渡ることで、その歴史的役割を大きく転換させる。単なる一国の軍事拠点から、天下統一事業の理念を体現する象徴へと昇華していく過程を、この部では詳細に追跡する。

第四章:稲葉山城、落城す

美濃攻略の長期化と戦略転換

斎藤義龍の死後、その子・龍興が若くして跡を継ぐと、信長はこれを好機と捉え、1561年(永禄4年)頃から美濃への侵攻を本格化させた 28 。しかし、稲葉山城を中心とする斎藤氏の抵抗は根強く、戦況は当初、一進一退の状況が続いた 30

信長は当初、西美濃からの攻略を試みたが、思うように進展しなかった。そこで彼は戦略を転換し、1563年(永禄6年)に尾張北部に小牧山城を築城、これを新たな拠点として東美濃・中美濃方面からの圧力を強める方針へと切り替えた 25 。さらに、1566年(永禄9年)には、後に豊臣秀吉となる木下藤吉郎が美濃との国境地帯に墨俣城を築城したとされ、これが稲葉山城攻略のための重要な前線基地となった 28 。稲葉山城の攻略が、単一の戦闘ではなく、数年にわたる周到な戦略と、状況に応じた柔軟な方針転換の末に成し遂げられたものであったことは、この城の戦略的重要性の高さを物語っている。

内部からの崩壊:竹中半兵衛と西美濃三人衆

稲葉山城が難攻不落と謳われたのは、その地理的条件だけではなく、それを守る家臣団の結束があってこそであった。しかし、若き城主・斎藤龍興には、父・義龍のような家中を統率する器量がなく、家臣団の結束に次第に亀裂が生じ始めた 17

その象徴的な出来事が、1564年(永禄7年)に起きた。家臣の竹中半兵衛が、わずか16名(一説に17名)の手勢で稲葉山城を一時的に占拠するという前代未聞の事件である 17 。これは龍興の惰弱な振る舞いを諫めるための抗議行動であったとされるが、斎藤氏の権威が失墜したことを内外に知らしめる結果となった 31

信長はこの好機を逃さなかった。斎藤氏の重臣であり、美濃の軍事力を支える中核であった「西美濃三人衆」(稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就)に対し、執拗な調略工作を展開したのである。そしてついに、彼らを織田方へ内応させることに成功する。この内部からの切り崩しこそが、難攻不落の稲葉山城を陥落させる決定打となった 28

稲葉山城の最終的な陥落は、力攻めによるものではなく、信長の巧みな調略による内部崩壊が主因であった。これは、物理的な城の防御力がいかに高くとも、それを運用する「人」の結束がなければ脆弱であることを示している。信長は、竹中半兵衛の事件によって露呈した斎藤家の「内部の脆弱性」という最大の弱点を突き、「城を攻める」のではなく「城の人間を攻める」という、より高度な戦略眼で臨んだ。この情報戦と心理戦の勝利こそが、攻略の核心であった。

電光石火の最終攻略戦

1567年(永禄10年)8月、西美濃三人衆からの内応の確証(人質)を得た信長は、最後の攻勢に出る 28 。彼は「三河方面へ出陣する」という偽情報を流して斎藤方の油断を誘い、その実、全軍を美濃へ向けて電撃的に進軍させた 28

この奇襲は完全に成功した。信長が攻めてくることはないだろうと安心しきっていた斎藤軍は、初動が大きく遅れた 28 。信長軍は瞬く間に稲葉山城下に到達すると、城下町に火を放って城を裸にし、四方を鹿垣で囲んで完全に包囲した 30 。内部の重臣にまで裏切られ、完全に孤立した城内では、もはや抵抗する気力も失われていた。包囲から約2週間後、城主・斎藤龍興は城を捨てて長良川を下り、伊勢長島へと逃亡。ここに、道三から三代続いた戦国大名斎藤氏は滅亡した 28

第五章:「岐阜城」への昇華

「岐阜」命名と「天下布武」

長年の宿願であった美濃平定を成し遂げた信長は、稲葉山城を新たな本拠地と定めると、城の名を「岐阜城」、城下町の名を「井ノ口」から「岐阜」へと改めた 8

「岐阜」という名は、古代中国において周の文王が拠点とし、そこから天下統一の基礎を築いたとされる聖地「岐山」の故事に由来すると言われている 10 。これは、信長が自らの事業を、単なる領土拡大ではなく、天下に新たな秩序を打ち立てるという壮大な構想のもとに行うことを、内外に宣言するものであった。

そして、この改名とほぼ時を同じくして、信長は「天下布武」という四文字を刻んだ印判を公式に使い始める 17 。武力をもって天下に新しい秩序を布く、というその革新的な理念は、この岐阜城から始まったのである。改名と印判の使用は、信長の天下取りが新たな段階に入ったことを示す、強力な政治的メッセージであった。

山上の要塞と山麓の居館:城郭の二元構造

信長は、斎藤氏時代の縄張りを基礎としながらも、自らの理念を体現すべく、岐阜城に大規模な改修を加えた 32 。山頂の城郭部分は、本格的な石垣を多用し、天守を築くなど、権威を「見せる」ための象徴的な空間として整備された 39

その一方で、信長は山城が平時の政治や生活の拠点としては不便であることを理解していた。そのため、山麓に壮麗な居館(御殿)を建設し、ここを自らの居住空間とするとともに、政務や賓客の接待の場とした 17 。これにより、岐阜城は、山上の軍事・象徴機能と、山麓の政治・迎賓機能という、二元的な構造を持つに至った 41 。この構造は、従来の防御一辺倒であった中世山城とは一線を画す、画期的なものであった。それは、統治者の権威を視覚的に演出しつつ、平時における統治機能を重視するという、近世城郭の思想の萌芽であった。

フロイスの記録と発掘成果が語る「地上の楽園」

この壮麗な山麓居館の様子は、1569年(永禄12年)に岐阜を訪れたポルトガル人イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録によって、生き生きと現代に伝えられている 40 。フロイスは、その居館を「宮殿」と呼び、見事に組まれた石垣、清流を引き込んだ美しい庭園、そして複数の建物が立ち並ぶ様を絶賛している。特に、建物群が「4階建てのようであった」という記述は有名である 17

1984年(昭和59年)から始まった発掘調査は、このフロイスの記録を裏付ける多くの発見をもたらした。斎藤道三の時代に造成されたとみられる段状の平坦地の上に 42 、通路の両脇に巨石を立て並べた威圧的な石垣、複数の庭園跡、そして建物の礎石などが次々と確認されたのである 10 。フロイスが述べた「4階建て」とは、実際に4層の建物があったわけではなく、この段状の地形に建てられた建物群を麓から見上げた際の印象であったと推測されている 45

信長が岐阜城で実践した「権威を見せるための天守」「政治と迎賓のための壮大な山麓居館」「石垣の多用」「計画的な城下町整備」といった要素は、すべて後の安土城において、さらに大規模かつ洗練された形で実現される。中世の城が純粋な軍事拠点であったのに対し、信長は岐阜城で、城に新たな役割を与えた。この経験と試行錯誤なくして、近世城郭の出発点と評される安土城の革新性は生まれ得なかったであろう。その意味で、岐阜城は安土城の直接的なプロトタイプであり、日本の城郭史が中世から近世へと移行する、まさにその転換点に位置する城郭遺産なのである 40

表2:斎藤道三と織田信長による城郭・城下町整備の比較

比較項目

斎藤道三の稲葉山城

織田信長の岐阜城

城の主目的

軍事防衛拠点、美濃統治の中心

天下統一事業の拠点、政治・外交・権威の象徴

縄張りの特徴

自然地形を最大限に活用した中世山城の完成形

山上(軍事・象徴)と山麓(政治・迎賓)の二元構造

主要構造物

山頂の詰城、山麓の居館(原型)

山頂の「見せる」天守、山麓の壮麗な「宮殿」、巨石列

建築技術

曲輪、堀切、土塁が主体

本格的な石垣の多用、瓦葺き建物の導入

城下町政策

「井ノ口」の整備、楽市楽座の原型導入説

「岐阜」への改名、楽市楽座令による商業の活性化、計画的な方形街区の創出

思想的背景

下剋上による領国支配の確立(国盗り)

天下統一理念の表明(天下布武)

第六章:信長以後、そして終焉へ

信長の天下統一事業と共に

岐阜城は、信長の天下統一事業における最初の輝かしい拠点であったが、その中心地としての役割は永続的なものではなかった。1576年(天正4年)、信長が近江に安土城を築城し、本拠を移すと、岐阜城は嫡男の織田信忠に譲られた 10 。これにより、岐阜城は織田家の本拠地から、美濃・尾張を統治し、東国方面に睨みを利かせるための重要拠点へとその役割を変えた。

1582年(天正10年)の本能寺の変で信長・信忠親子が非業の死を遂げると、岐阜城は織田家の内紛と、その後の豊臣政権下での権力構造の変化を反映するように、目まぐるしく城主を変えることとなる。信長の三男・織田信孝が入城した後、池田元助・輝政親子、豊臣秀勝などを経て、最終的には信長の嫡孫である織田秀信(三法師)が城主となった 10

関ヶ原の戦いと廃城

天下分け目の関ヶ原の戦いが迫る1600年(慶長5年)、岐阜城主・織田秀信は西軍に与することを決断する。しかし、これは城にとっての最後の戦いとなった。徳川家康率いる東軍の先鋒、福島正則や池田輝政らの猛攻を受け、岐阜城は関ヶ原の本戦に先立つ前哨戦において、激戦の末に落城した 6

戦後、天下の覇権を握った徳川家康は、翌1601年(慶長6年)、岐阜城の廃城を命じた 7 。家康にとって、織田信長の「天下布武」の象徴であった岐阜城を存続させることは、政治的に望ましいことではなかった。新たな支配体制の拠点として、近くに加納城を築くことを選択したのである。岐阜城の天守や櫓などの壮麗な建造物の多くは解体され、その資材は加納城の建築に転用されたと伝えられている 10 。信長の夢と野望が刻まれた天下の名城は、こうしてその歴史に幕を下ろした。


結論:戦国史における稲葉山城の不滅の価値

稲葉山城、そして後の岐阜城の歴史は、戦国時代の権力闘争、戦略思想、そして統治理念の変遷そのものを体現している。その歴史的価値は、二つの大きな側面に集約することができる。

第一に、城郭史上の意義である。この城は、斎藤道三の時代に、金華山の自然地形を最大限に活用した中世山城として一つの完成形に達した。そして、織田信長の時代には、単なる軍事拠点という役割を超え、統治者の権威を「見せる」という新たな価値観を導入し、政治・迎賓機能を持つ壮大な山麓居館を組み合わせることで、近世城郭への扉を開いた。高層の天守、本格的な石垣、そして瓦葺きの建物を備え、政治の中心地としての役割を担った岐阜城は、後の安土城へと続く近世城郭の直接的なプロトタイプであり、日本の城郭史における極めて重要な転換点に位置する城郭遺産である。

第二に、戦国史における役割である。この城は、「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三という下剋上大名の権力の象徴であり、その父子二代にわたる「国盗り」事業の集大成であった。そして、織田信長にとっては、父・信秀も果たせなかった美濃平定という長年の宿願を達成した地であると同時に、「天下布武」という壮大な理念を初めて天下に示し、その統一事業への確固たる第一歩を記した記念碑的な場所であった。

斎藤道三の下剋上と、織田信長の天下統一事業。戦国時代を象徴する二人の英雄の夢と野望が交錯し、昇華した舞台として、稲葉山城の名は日本の歴史に不滅の価値を刻み続けているのである。

引用文献

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