斎藤義龍(さいとう よしたつ)、またの名を高政(たかまさ)は、戦国時代の美濃国(現在の岐阜県南部)にその名を刻んだ武将である。彼の生涯は、父であり「美濃の蝮(まむし)」と恐れられた斎藤道三(どうさん)との宿命的な対立と葛藤、そして美濃国主としての短いながらも濃密な治世によって特徴づけられる。従来、「父殺し」という負の側面が強調されがちであった義龍であるが、本報告では、現存する史料を丹念に読み解き、彼の政治家として、また戦略家としての多面的な実像に迫ることを目的とする。その出自の謎から、父との確執、運命を分けた長良川の戦い、国主としての統治政策、そしてその早すぎる死が戦国史に与えた影響に至るまでを包括的に検証し、斎藤義龍という人物の歴史的意義を再検討したい。
斎藤義龍は、通説によれば1527年(大永7年)7月8日に生まれたとされる 1 。幼名は豊太丸(とよたまる)と伝えられている 1 。成人してからは、斎藤利尚(としなお)、斎藤高政、そして斎藤(一色)義龍と名を改めている 1 。父・道三(当時の名は利政)から家督を譲られた際に「高政」を名乗った可能性が高く、これは父の名の一字を拝領する慣習に沿ったものと考えられる 1 。また、父・道三との決戦を前にして「范可(はんか)」という名を名乗ったことも知られている 1 。この「范可」という名は、中国の故事に由来し、父の頸を切って孝行とされた人物にあやかったものと『信長公記』には記されているが、この故事自体の実在は確認されておらず、義龍の複雑な心境や自らの行動を正当化しようとする意志の表れであった可能性が示唆される 3 。
義龍の生涯における主な活動拠点は、美濃国稲葉山城(現在の岐阜城)であった 1 。官位としては、治部大輔(じぶだゆう)、左京大夫(さきょうのだいぶ)、美濃守(みのかみ)などを称したことが記録されている 1 。これらの官位叙任は、単に名誉を求めるだけでなく、義龍が中央の権威を巧みに利用し、自身の政治的地位を公的に高めようとした戦略の一環であったと見ることができよう。
義龍の度重なる改名は、単なる儀礼的なものを超えて、彼の政治的立場や自己認識の変遷を映し出している可能性がある。特に「范可」という特異な名は、父との対決という異常事態を前にした彼の苦悩や、あるいは自らの行為を天命として受け入れようとする覚悟の表れであったのかもしれない。歴史の記録に残る名の変遷は、その人物が生きた時代の動乱と、その中で彼が抱えたであろう内面の葛藤を我々に垣間見せる。
斎藤義龍 略年表
年代(和暦) |
年齢(数え) |
出来事 |
関連人物 |
備考 |
1527年(大永7年) |
1歳 |
斎藤道三(当時の名は西村勘九郎か)の子として生まれる(通説) 1 |
斎藤道三 |
幼名・豊太丸 1 |
1538年(天文7年) |
12歳 |
父・道三が斎藤新九郎利政と名乗る 4 |
斎藤道三 |
|
1554年(天文23年) |
28歳 |
父・道三より家督を相続し、稲葉山城主となる。高政と改名か 1 |
斎藤道三 |
道三は出家し道三と号す 5 |
1555年(弘治元年) |
29歳 |
弟の孫四郎、喜平次を謀殺 1 |
孫四郎、喜平次 |
道三との対立が決定的となる |
1556年(弘治2年)4月 |
30歳 |
長良川の戦いで父・道三を討つ。「范可」と名乗る 1 |
斎藤道三 |
美濃国主としての地位を確立 |
1558年(弘治4年)2月 |
32歳 |
治部大輔に任官 3 |
伊勢貞孝 |
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1559年(永禄2年)4月 |
33歳 |
上洛し、足利義輝に謁見。御相伴衆に任じられる 3 |
足利義輝 |
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1559年(永禄2年)8月 |
33歳 |
幕府より一色氏の家督を認められ、一色義龍と称す 1 |
足利義輝 |
家臣の姓も改めさせる |
1560年(永禄3年) |
34歳 |
伊勢太神宮へ過所印判状を発給 3 |
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貫高制の導入を進める |
1561年(永禄4年)2月 |
35歳 |
左京大夫に任官 3 |
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1561年(永禄4年)5月 |
35歳 |
病死(5月11日説 9 、6月23日説 1 などあり) |
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死因は「奇病」、マルファン症候群の可能性も指摘される 1 |
義龍の出自を語る上で欠かせないのが、その母とされる深芳野(みよしの)の存在と、それにまつわる土岐頼芸(とき よりのり)の子ではないかという説である。深芳野は、元々美濃守護であった土岐頼芸の愛妾であったが、後に道三に下げ渡されたと伝えられている 3 。そして、義龍が道三の子ではなく、頼芸の子であるという説は、主に江戸時代に編纂された『美濃国諸旧記』や『濃陽諸士伝記』といった書物に見られるものである 3 。これらの記述は、義龍が父・道三を討ったという衝撃的な事件の背景を説明するため、あるいは物語としての劇的効果を高めるために、後世に創作された可能性が研究者によって指摘されている 3 。
実際に、太田牛一が著した『信長公記』や、それ以前に成立したとされる史料には、深芳野という名の女性の存在や、義龍の出自に関する疑義はほとんど見られない 3 。また、永禄3年(1560年)に近江の六角承禎(ろっかく じょうてい、義賢)が家臣に宛てた書状の中にも、義龍の父が道三以外であるといった記述は存在しない 3 。
近年の歴史研究、特に木下聡氏らの詳細な史料批判によれば、この土岐頼芸の子とする説は後世の創作であり、義龍の実際の母は、稲葉一鉄(良通)の妹であったとする説が有力視されている 3 。義龍が「六尺五寸殿」と称されるほどの巨躯であったことは後述するが、この身体的特徴も、長身であったと伝えられる母方の稲葉氏の遺伝的影響によるものと考える方が自然であろう 3 。深芳野という名の女性が実在したかどうかについても、同時代史料にはその名が見出せないことから、その実在性すら疑われているのが現状である 8 。
しかしながら、義龍が土岐頼芸の子であるという噂は、彼が父・道三と対立し、美濃の国主としての地位を固めていく過程において、戦略的に利用された可能性も否定できない。父殺しという汚名を負う可能性があった義龍にとって、自らを旧主・土岐氏の血を引く者として位置づけることは、旧土岐家家臣団の支持を取り付け、自らの行動を正当化する上で有効な手段となり得たであろう 1 。事実、長良川の戦いにおいて、多くの旧土岐家家臣が義龍に味方した背景には、こうした出自の噂が影響していた可能性も考えられる 5 。義龍自身がこの噂を積極的に流布したという直接的な証拠はないものの、彼がその曖昧さを自身の政治的立場を強化するための資源として巧みに活用したとしても不思議ではない。これは、彼の冷徹な現実主義と、優れた戦略家としての一面を示唆しているのかもしれない。
斎藤道三と嫡男・義龍の関係は、家督相続後、徐々に悪化の一途を辿った。道三は、義龍よりもその弟である次男・孫四郎(まごしろう)や三男・喜平次(きへいじ)を偏愛し、次第に義龍を廃嫡し、彼らを後継者に据えようと望むようになったとされる 3 。『信長公記』によれば、道三は義龍を「たわけ者(愚か者)」と思い、利口者と考えた孫四郎を嫡子とし、喜平次には名門一色氏を継がせようとしたことが、親子の対立の直接的な原因であったと記されている 3 。
一方の義龍は、父の寵愛が弟たちに注がれていることに強い不信感を抱き、自らの立場に深刻な危機感を覚えていた 5 。道三が美濃の実権を掌握した強引な下剋上の手法や、家督を譲った後も隠居地の鷺山城から影響力を行使し続ける独断的な政治姿勢は、美濃国内の多くの武士たちの不満を鬱積させていた 1 。こうした家臣団の道三に対する反感も、義龍と道三の対立をさらに深刻化させる要因となったと考えられる。
加えて、道三が娘婿である尾張の織田信長を高く評価し、将来的には美濃を信長に譲るという内容の遺言状のようなものを残したとされる逸話も、義龍の道三に対する不満と警戒心を増幅させたであろうことは想像に難くない 1 。
道三の義龍に対する評価は、当初「暗愚」あるいは「無能」と見下すものであったが、長良川の戦いで自らを追い詰める義龍の巧みな采配を目の当たりにし、初めてその将器を認めたと伝えられている 1 。道三が死の間際に漏らしたとされる「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いた。しかし斎藤家は安泰」という言葉 5 は、自らの不明を恥じると同時に、斎藤家の将来を、かつて見下した息子・義龍の手に託さざるを得ないという、戦国武将としての非情な現実認識と、親としての複雑な心境が入り混じったものであったのかもしれない。この親子の愛憎と対立は、単なる家庭内の不和を超え、戦国時代における実力主義の厳しさ、そして家督継承を巡る非情な権力闘争の一断面を象徴していると言えよう。
父・道三による廃嫡の動きと、それに伴う自らの身の危険を察知した斎藤義龍は、ついに実力行使へと踏み切る。弘治元年(1555年)、義龍は病と称して、道三が寵愛していた弟の孫四郎と喜平次を居城である稲葉山城へ見舞いに呼び寄せた。そして、油断していた両名を謀殺するという凶行に及んだのである 1 。この冷酷な決断の背後には、叔父にあたる長井道利(ながい みちとし)が共謀していたとも伝えられている 3 。
この義龍による弟たちの殺害は、単なる兄弟間の憎悪によるものではなく、自らの生存と権力掌握のためには手段を選ばないという、冷徹な政治的判断に基づくものであった。道三による廃嫡の意思が明確になる中で、将来的な禍根を断つための非情な選択であり、戦国という時代の権力闘争の厳しさを如実に物語っている。
愛息たちを立て続けに失った道三の怒りは頂点に達し、義龍討伐を決意。ここに、父子の雌雄を決する戦いの火蓋が切られることとなった 5 。
弘治2年(1556年)4月、斎藤義龍と父・斎藤道三の両軍は、美濃国を流れる長良川の河畔(現在の岐阜市長良付近)において激突した 1 。この戦いは、斎藤家の、そして美濃国の運命を大きく左右する決戦であった。
両軍の兵力には圧倒的な差があった。義龍軍が約17,000から17,500の兵力を擁していたのに対し、道三軍はわずか2,500から2,700程度であったと記録されている 1 。この兵力差の背景には、美濃国内の武士たちの道三に対する長年の不満があった。道三の強引な国盗りや、旧守護・土岐氏一族の追放といった行いは、多くの国人たちの反感を買い続けていたのである 1 。彼らは、道三の支配からの解放を願い、義龍の旗の下に馳せ参じたのであった。義龍が土岐頼芸の子であるという風聞も、旧土岐家家臣の心を掴み、義龍方への参集を促した一因となった可能性は否定できない 5 。
長良川の戦い 両軍兵力比較
項目 |
斎藤義龍軍 |
斎藤道三軍 |
総大将 |
斎藤義龍(高政、范可) |
斎藤道三(利政) |
推定兵力 |
約17,000~17,500 1 |
約2,500~2,700 5 |
主な味方勢力 |
長井道利、美濃国人の大半(旧土岐家家臣、道三に不満を持つ勢力など) 1 |
娘婿・織田信長の援軍を期待(間に合わず)、明智光秀など一部の近臣 1 |
背景・士気 |
父・道三の圧政からの解放、自らの正当性(土岐氏の血筋という噂)を掲げ、高い士気。美濃国人の広範な支持を得る 1 。 |
嫡男・義龍の謀反に対する怒り。兵力で圧倒的に不利な状況 5 。 |
義龍は、この圧倒的な兵力を背景に、周到な準備と巧みな采配で道三軍を終始圧倒したと伝えられる 1 。一方の道三は、かつて「美濃の蝮」と恐れられた老獪な武将であったが、数の上での劣勢はいかんともしがたく、奮戦空しく討ち死を遂げた。その最期は、義龍方の長井忠左衛門や小牧源太の手にかかったとされる 15 。享年63歳であった 6 。
道三は死の間際に、それまで「暗愚」と見下していた息子・義龍の将器を初めて認め、自らの不明を後悔したと伝えられている 5 。「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いた。しかし斎藤家は安泰」という言葉を残したとも言われるが 5 、これは敗軍の将の述懐であると同時に、自らが築き上げた斎藤家の行く末を、皮肉にも自らが討とうとした息子に託さざるを得なかった複雑な心境の表れであったのかもしれない。
道三の娘婿にあたる尾張の織田信長は、舅の危機を知り援軍を派遣したが、戦場への到着は間に合わなかった 1 。信長の援軍が間に合っていれば、戦いの趨勢に影響を与えた可能性も考えられるが、歴史に「もしも」はない。
長良川の戦いにおける義龍の圧勝は、単に兵力差や戦術の優劣のみによるものではなく、道三政権に対する美濃国人衆の長年の不満を巧みに取り込み、彼らの広範な支持を結集し得た「人心掌握」の賜物であったと言えよう。これは、戦国時代において軍事力と並び、領国経営における領民や家臣の支持がいかに重要であったかを示す好例である。義龍の勝利は、軍事的天才性のみならず、政治的な立ち回りの巧さ、そして人心を見抜く洞察力の結果であったと評価できる。
長良川の戦いに勝利した斎藤義龍は、名実ともに美濃国主としての地位を確固たるものとした 1 。しかし、実の父を討ったという事実は、「父殺し」という重い汚名を彼に負わせる可能性があった。義龍はこの汚名を回避するため、あるいはその印象を薄めるため、自身が土岐氏や一色氏の血を引く者であるという噂を巧みに利用し、父・道三を討ったのではなく、国を乱した反逆者を成敗したのだという大義名分を掲げ、自らの行動を正当化したとされる 1 。
この戦いの結果、道三に味方した明智光秀らは敗走を余儀なくされ、明智一族の拠点であった明智城は義龍軍によって攻め落とされた 1 。これにより、光秀は美濃を離れ、越前の朝倉氏を頼ることとなる。この出来事は、後の明智光秀の人生に大きな転機をもたらし、彼の波乱に満ちた生涯の序章となったと言えるだろう。
長良川の戦いを経て美濃国主となった斎藤義龍は、父・道三とは異なる統治体制の構築に着手する。その治世は短期間であったものの、内政・外交両面において注目すべき政策が見られる。
義龍の統治は、道三の強権的な支配からの転換を目指したものであったと考えられる。まず家臣団の再編においては、道三派の重臣を一部排除しつつも、有能な者は引き続き登用し、新たな統治基盤の安定を図った 11 。特筆すべきは、日根野弘就(ひねの ひろなり)、竹越尚光(たけごし ひさみつ)、日比野清実(ひびの きよざね)、長井衛安(ながい もりやす)、桑原直元(くわばら なおもと)、そして安藤守就(あんどう もりなり)といった6人の有力な側近に連署状を出させ、政治を補佐させる合議制的な体制を導入した点である 1 。これは、道三の独裁的な統治スタイルとは一線を画し、家臣団の意見を国政に反映させようとする試みであったと評価できる。
知行制度においては、義龍の時代になると国内の武士に宛てた知行宛行状が数多く発給されるようになり、その所領高が石高ではなく「貫高(かんだか)」で表示され、それに結び付けられる事例が見られるようになる 1 。この貫高制の導入は、中世以来の複雑な荘園制に基づく知行体系に終止符を打ち、より統一的で合理的な新しい知行制・軍役体系を構築しようとする先進的な試みであった。これは戦国大名の領国支配における重要な特質であり、義龍が美濃国の支配体制を近代化しようとしていたことを示唆している 3 。
また、永禄3年(1560年)には、伊勢太神宮への供米(くまい)輸送に対する過所(かしょ、通行許可証)を、現地の役人たちに向けて印判状(いんばんじょう)の形式で発給している 3 。印判状は、戦国大名が自らの権威を示すために多用した文書形式であり、義龍がこれを用いたことは、彼が中央の権威や伝統的な宗教的権威との結びつきを意識し、それを自らの統治に利用しようとしていたことを示している。
楽市楽座の実施については、義龍自身が大規模な楽市楽座令を発したという直接的な史料は見当たらない。しかし、父・道三が稲葉山城下に楽市場を設けたという記録があり 20 、義龍も美濃の特産品である刀剣や傘の生産を奨励し、商業の発展に力を注いだことが伝えられていることから 11 、何らかの形で市場の活性化や商業振興策を講じた可能性は考えられる。織田信長が後に岐阜で発した楽市令が、斎藤氏時代の政策を引き継いだものであった可能性を指摘する見解もあるが 21 、義龍による積極的な楽市楽座の推進を具体的に示す史料は現在のところ確認されていない。
義龍の行った貫高制の導入や合議制の試みは、父・道三の旧体制からの脱却と、より合理的で安定した領国支配を目指す先進的な取り組みであったと言える。しかし、彼の治世はわずか数年という短期間であり、これらの改革が美濃の地に完全に定着し、その効果を十分に発揮する前に、彼の早すぎる死によって中断されてしまった可能性が高い。義龍の統治は、戦国時代中期における過渡的な支配体制の一つの様相を呈しており、その先進性と、時代的制約や早世による限界の両側面を併せ持っていたと評価できよう。
斎藤義龍は、美濃国主としての地位を固めると同時に、中央の権威である朝廷や室町幕府との関係構築にも意欲的に取り組んだ。これは、戦国乱世において自らの支配の正当性を高め、周辺勢力に対する優位性を確保するための重要な戦略であった。
斎藤義龍 主要官位一覧
官位・称号 |
任官・改称時期 |
背景・意義 |
出典 |
治部大輔 |
弘治4年(1558年)2月 |
幕府政所頭人・伊勢貞孝の仲介。伊勢氏との姻戚関係(義龍の娘が貞孝の子・貞良に嫁す)。通常は足利一門に許される官位であり、家格上昇を示す。 |
3 |
御相伴衆 |
永禄2年(1559年)4月 |
上洛し、将軍・足利義輝に謁見した際に任官。幕府における高い家格の象徴。 |
3 |
一色左京大夫義龍 |
永禄2年(1559年)8月 |
幕府より一色氏の家督を認められ改姓。斎藤氏や旧守護・土岐氏よりも格上の名門であり、権威向上、父殺しの汚名回避、国内結束の意図があったとされる。家臣の姓も一色氏家臣の苗字に改めさせた。 |
1 |
左京大夫 |
永禄4年(1561年)2月 |
官位において旧主・土岐頼芸(美濃守)を凌駕。周辺大名(織田、朝倉、六角など)と同等以上の家格となる。 |
3 |
美濃守 |
任官時期不明確 |
美濃国主として称した。 |
1 |
弘治4年(1558年)には治部大輔に任官。これは幕府の政所頭人(まんどころとうにん)であった伊勢貞孝(いせ さだたか)の仲介によるものであり、義龍の娘が貞孝の子・貞良(さだよし)に嫁いでいたという姻戚関係が背景にあったと考えられている 3 。治部大輔は通常、足利一門にしか許されない官位であり、この任官は義龍の家格を大きく引き上げるものであった。
さらに永禄2年(1559年)4月には上洛して将軍・足利義輝(あしかが よしてる)に謁見し、幕府における名誉職である御相伴衆(おしょうばんしゅう)に任じられた 3 。同年8月には、幕府から一色氏(いっしきし)の家督を継ぐことを認められ、これより「一色左京大夫義龍」と称するようになる 1 。一色氏は足利一門に属する名門であり、その家格は斎藤氏はもとより、かつての美濃守護家であった土岐氏よりも上位に位置づけられていた。義龍はこの改姓に伴い、家臣たちの姓も一色氏家臣の苗字へと改めさせている 3 。
そして永禄4年(1561年)2月には左京大夫に昇進し、これにより官位においても旧主であった土岐頼芸(美濃守)を凌駕することとなった 3 。これは、隣国の織田信長や朝倉義景、六角義賢といった有力大名と比較しても同等以上の家格を内外に示すものであった。
義龍の一連の官位獲得と一色姓への改姓は、単なる名誉欲の発露ではなく、戦国乱世を生き抜くための高度な政治戦略であったと評価できる。父殺しという負のイメージを払拭し、朝廷や幕府の権威を背景に自らの支配の正当性を補強するとともに、美濃国内の求心力を高め、さらには織田信長をはじめとする周辺の競合勢力に対して外交的・軍事的に優位に立とうとする多層的な狙いがあったと考えられる。特に「一色姓」の獲得は、旧守護である土岐氏の権威を相対的に低下させ、足利一門としての新たな立場を確立するという、極めて戦略的な意味合いを含んでいたと言えよう。木下聡氏の研究によれば、当時まだ土岐頼芸が健在であったため、土岐氏を名乗ることを避け、かつ管領家ほど上位でもなく、隣国の六角氏のように確実に反発を招くこともない一色氏を名乗ることが、義龍にとって最も適切な選択であったと分析されている 3 。
斎藤義龍の寺社政策において特筆すべきは、「別伝の乱(べつでんのらん)」と呼ばれる事件である。義龍は、京都妙心寺(みょうしんじ)の長老であった亀年禅愉(きねんぜんゆ)に相談し、その弟子である別伝宗亀(べつでんそうき)という臨済宗妙心寺派の禅僧を美濃に招いた 3 。そして永禄3年(1560年)、義龍は別伝を開山和尚とし、稲葉山城下に少林山伝灯護国寺(でんとうごこくじ)を創建した 28 。
問題が生じたのは、義龍が同年12月、美濃国内の禅宗寺院の寺統権(じとうけん、寺院を統括する権利)をこの新設の伝灯護国寺が行使するように布告したことである 28 。妙心寺には当時、東海派・龍泉派・聖沢派・霊雲派という四つの主要な派閥があり、別伝が属する霊雲派は美濃における勢力が弱小であった。このため、美濃で大きな勢力を持っていた東海派をはじめとする他の派閥の禅僧たちはこれに強く反発し、多くの住持が美濃を離れて尾張などへ出奔するという事態に発展した 3 。
義龍は妙心寺に別伝を擁護する文書を送るなどして事態の収拾を図り、さらには正親町(おおぎまち)天皇の綸旨(りんじ)を得て伝灯護国寺の寺格を上昇させようと試みたが、その最中に病死したため実現には至らなかった 3 。義龍の死後、後ろ盾を失った別伝は失脚し、この騒動は終息した 3 。
「別伝の乱」は、義龍が自らの権威を背景に特定の宗教勢力を重用し、美濃国内の既存の宗教勢力図に介入しようとした結果、引き起こされた混乱であったと言える。これは、一色姓改姓による権威確立とは異なる側面、すなわち国内の複雑な利害関係の調整の難しさや、彼の統治における強引な一面を示している。この事件は、義龍の権力基盤の確立や、家臣・領民の支持に少なからず影響を与えた可能性があり、戦国大名がしばしば直面する宗教勢力との関係性の難しさを物語る事例として注目される。
美濃国主となった斎藤義龍は、国内の統治基盤を固めると同時に、周辺諸国との外交にも積極的に取り組んだ。特に、父・道三の代からの宿敵であり、また道三の娘・帰蝶(きちょう、濃姫)を正室としていた尾張の織田信長との関係は、義龍の治世を通じて常に緊張をはらんでいた。
織田信長との継続的な対立
道三の死後、義龍と信長の関係は決定的に険悪化した 6 。信長は舅である道三を殺害した義龍を許さず、美濃攻略の機会を虎視眈々と狙っていた。一方の義龍も、急速に勢力を拡大する信長を最大の脅威と捉え、その侵攻を幾度となく撃退し続けた 1 。
具体的な戦闘や謀略としては、『信長公記』に、永禄2年(1559年)に信長が少数で上洛した際、義龍が火縄銃で武装した刺客を派遣して暗殺を試みたが、金森長近(かなもり ながちか)や丹羽兵蔵(にわ ひょうぞう)の活躍により未遂に終わったという逸話が記されている 3 。また、義龍は信長の弟である織田信行(信勝)や織田信広(のぶひろ)と連絡を取り、織田家中の内紛を煽って信長の勢力を削ごうと画策したことも確認されている 1 。史料には「及河原の戦い」といった特定の戦闘名は主要なものでは見出し難いが、両者の国境付近では継続的な小競り合いや緊張状態が続いていたと考えられる 9 。なお、森部の戦い 9 は義龍の死後の戦いである。
六角氏・浅井氏との同盟関係
義龍は、信長の脅威に対抗するため、周辺勢力との連携を模索した。近江国(現在の滋賀県)の浅井氏とは、当初、浅井亮政(あざい すけまさ)の娘を正室に迎えるなど同盟関係にあった 3 。しかし、浅井氏が後に六角氏に従属するようになると関係が悪化し、義龍は浅井氏と手を切ったとされている 3 。
その後、義龍は同じく近江の有力大名である六角氏との関係改善を図る。上洛のためにも六角氏との連携は不可欠であった。永禄3年(1560年)、義龍は自身の娘と六角義治(ろっかく よしはる)との婚姻政策を進めたが、義治の父である六角承禎(義賢)の反対により実現には至らなかった 3 。しかし、婚姻は成立しなかったものの、永禄4年(1561年)には義龍が六角氏に援軍を送るなど、両者の関係は改善されたとみられている 3 。
また、飛騨国(現在の岐阜県北部)の三木(みつき)家とは、義龍の娘が三木頼綱(よりつな)に嫁いだことから、良好な関係を築いていた 3 。
義龍のこれらの対外政策、特に六角氏や浅井氏との関係構築やその変化は、後に顕在化する「信長包囲網」の萌芽とも見て取れる動きである。信長の急速な台頭を早期に警戒し、周辺勢力との連携によってこれに対抗しようとした義龍の戦略は、彼の早すぎる死によって未完に終わったものの、戦国時代中期の外交の複雑性と、彼の先見性を示すものと言えるだろう。彼の死が、この対信長連携の動きを一時的に頓挫させ、結果的に信長の美濃攻略を容易にした可能性は高い。
斎藤義龍という人物を理解する上で、その特異な身体的特徴や、史料から垣間見える性格・能力、そして彼を取り巻く武将たちとの関係性は重要な手がかりとなる。
斎藤義龍は、その並外れた長身で知られていた。『美濃国諸家系譜』などの記録によれば、その身長は六尺五寸(約197センチメートル)にも及んだとされ、「六尺五寸殿」と称されたという 1 。中には六尺八寸(約206センチメートル)とする記述も存在する 4 。当時の成人男性の平均身長が158センチメートルほどであったことを考えると 4 、義龍の巨躯がいかに際立っていたかがわかる。「馬に乗ると地面に両足がついた」という逸話も伝えられているが、これはさすがに誇張であろうとされている 4 。
この長身は、母方の遺伝的要因によるものと考えられている。義龍の母とされる深芳野(ただし、近年の研究では稲葉良通の妹が有力視されている)もまた、六尺二寸(約187センチメートル)と、女性としては破格の長身であったと伝えられているためである 3 。
義龍の「六尺五寸殿」という異名やその巨躯に関する逸話は、単に身体的特徴を記録するに留まらず、彼の人物像を際立たせ、後世の評価にも影響を与えた可能性がある。その威圧的な外見は、父殺しという冷徹な決断や、強敵・織田信長をも苦しめた武将としての強さを、視覚的にも補強する役割を果たしたのではないだろうか。また、後述するマルファン症候群の可能性とも結びつき、その悲劇的な生涯に更なる陰影を与えているとも言える。
斎藤義龍の性格は、父・道三に似て冷徹かつ現実的な判断力を持ち合わせていたと評されることが多い 1 。家臣団を統制し、自らの地位を確固たるものにするためには、肉親である弟たちをも排除する非情さを見せたことは、その一端を物語っている 1 。
能力面においては、多岐にわたる才能を発揮した。
まず謀略家としては、父譲りの悪知恵に長け、流言飛語を巧みに操る計略を得意とした 1。織田信長の弟・信行(信勝)に接近し、信長に対する謀反を唆して織田家中の内紛を誘発させようとした策謀はその代表例である 1。また、失敗には終わったものの、信長上洛の際に狙撃による暗殺を企てたという逸話も伝えられており 1、その大胆不敵な一面をうかがわせる。
戦略家・将帥としての器量も高く評価される。長良川の戦いにおける見事な采配は、敵対した父・道三をして「さすが我が息子」と感嘆させたとされるほどであった 1 。戦いに臨んでの準備も周到であり、敵の動きを的確に読んだ上で兵を動かす能力に長けていた 1 。
さらに統治者としても、父・道三の独裁的な体制から脱却し、有力家臣による合議制を導入したり、先進的な貫高制を実施したりするなど、領国経営において確かな手腕を見せた 1 。
家臣や領民からの評価については、道三の強引な手法に不満を抱いていた美濃の国人の多くが、長良川の戦いに際して義龍に味方したという事実から 1 、少なくとも道三時代よりは広範な支持を得ていたと推測される。
斎藤義龍の生涯は、いくつかの重要な武将たちとの関係性によっても彩られている。
明智光秀:
光秀の叔母にあたる小見の方(おみのかた)が斎藤道三の正室であったという説があり、この説が正しければ、義龍と光秀は義理の従兄弟のような関係になる 6。しかし、長良川の戦いにおいて光秀は道三方に与したため、義龍とは敵対関係にあった。この戦いで道三が敗死すると、明智城は義龍軍によって攻め落とされ、光秀は美濃を追われて越前の朝倉義景のもとへ逃れることとなった 1。義龍の存命中に、両者の間に直接的な接触や関係修復があったことを示す確かな史料は乏しい。
竹中半兵衛(重治):
竹中半兵衛は、義龍の直接の家臣ではなく、その子である斎藤龍興(たつおき)の代に仕えた武将である 7。一部の記述で「義龍の放蕩癖に嫌気がさした」とされることがあるが 45、これは龍興の逸話との混同である可能性が高い。
稲葉一鉄(良通):
稲葉一鉄は、美濃の有力国人であり、土岐頼芸、斎藤道三、斎藤義龍、斎藤龍興、そして織田信長、豊臣秀吉と、目まぐるしく変わる美濃の支配者に仕え続けた人物である 38。前述の通り、義龍の母が稲葉一鉄(良通)の妹であるという説が有力視されており 3、もしこれが事実であれば、義龍と一鉄は甥と叔父という極めて近しい血縁関係にあったことになる。
斎藤義龍の治世は、父・道三を乗り越え、美濃国に新たな秩序を築き上げようとした矢先に、あまりにも早く終焉を迎えることとなる。彼の死は、斎藤家のみならず、戦国時代の勢力図にも大きな影響を及ぼした。
斎藤義龍は、永禄4年(1561年)に病没した。没日については5月11日説 9 や6月23日説 1 など諸説あるが、享年は34歳または35歳であったとされる 1 。その死因は「奇病」を患ったためと伝えられている 1 。彼が薬を服用していた記録も残っており 8 、何らかの持病を抱えていた可能性が示唆される。
その特異な巨躯と若すぎる死から、現代では遺伝性疾患であるマルファン症候群であったのではないかという説も提唱されている 1 。マルファン症候群は、結合組織の異常により高身長や骨格異常、心血管系の合併症などを引き起こす疾患であり、義龍の伝えられる特徴と一部合致する。しかし、これを裏付ける直接的な医学的史料や、当時の記録は乏しく、あくまで推測の域を出ない。
また、『大かうさまぐんきのうち』には、義龍が奇病により妻や子と共に亡くなったとの記述があるとされるが 1 、一部の二次資料 1 でも同様の記述が見られるものの、この情報の確度についてはさらなる史料的裏付けが必要である。他の多くの史料では、妻子の同時死については確認されていない 8 。
義龍の早すぎる死と、その巨躯という際立った身体的特徴が結びつき、後世において「奇病」による死という、ある種伝説的な色彩を帯びた物語として語られるようになった可能性は否定できない。マルファン症候群という現代的な病名が後から当てはめられるのも、その尋常ならざる死に様を何とか説明しようとする試みの一つと解釈できる。「妻子と共に死去」という情報も、もし事実であれば、その死の悲劇性を一層際立たせるが、現時点では確たる証拠に乏しいと言わざるを得ない。これらの要素が複合的に絡み合い、義龍の死が単なる病死としてではなく、何か特別な、あるいは宿命的な出来事として人々の記憶に刻まれる素地を形成したのかもしれない。
斎藤義龍の死は、美濃斎藤家にとって致命的な打撃となった。家督を継いだのは、義龍の嫡男である斎藤龍興であったが、彼はまだ若年であり、父・義龍のような将器や統率力には恵まれていなかった 6 。その結果、家中の結束は急速に緩み、家臣たちの離反が相次ぐなど、斎藤家の屋台骨は大きく揺らいだ。これが、後の織田信長による美濃攻略を容易にし、斎藤家滅亡の大きな要因となったことは疑いない。
一方、敵対関係にあった織田信長にとって、義龍の死はまさに「天佑」とも言うべき好機であった 33 。義龍は生前、信長の美濃侵攻を幾度となく退けており、信長にとって最大の障壁の一つであった。その義龍が世を去ったことで、信長は美濃攻略を本格化させ、後の天下布武への大きな足がかりを得ることになる。もし義龍が長命を保ち、美濃国主として君臨し続けていたならば、信長の美濃攻略はさらに困難を極め、その後の天下統一への道程も大きく遅延したか、あるいは全く異なる展開を迎えていた可能性が高いと専門家は指摘している 3 。
斎藤義龍の存在と、そのあまりにも早すぎる死は、戦国史における重要な「if(もしも)」のシナリオを我々に提示する。彼がもう数年、あるいは十数年長生きしていれば、織田信長の急速な台頭は効果的に阻まれ、日本の歴史は大きくその様相を変えていたかもしれない。彼の死は、単に一個人の終焉を意味するだけでなく、戦国時代の勢力図を劇的に塗り替える決定的な転換点であったと言えるだろう。
斎藤義龍の歴史的評価は、時代と共に大きく変遷してきた。伝統的には、実の父である斎藤道三を長良川の戦いで討ったという事実から、「父殺し」「不孝者」という道徳的な非難を伴う否定的なイメージが強かった 1 。これは、儒教的道徳観が重視された江戸時代以降の歴史観に大きく影響されていると考えられる。
しかし近年、一次史料の再検討や新たな研究の進展に伴い、義龍の単なる「父殺し」という側面だけでなく、美濃国主としての統治能力や、織田信長との関係性における戦略的手腕などが注目され、「有能な統治者」あるいは「信長の好敵手」として再評価する動きが顕著になっている 1 。
再評価における具体的な論点と根拠としては、以下の点が挙げられる。
これらの再評価は、『信長公記』などの一次史料の丹念な再解釈や、木下聡氏 1 や横山住雄氏 20 といった専門家による精力的な研究成果に支えられている。
斎藤義龍の評価が長らく「父殺し」という一点に偏っていた背景には、歴史記述における「勝者の視点」が影響している可能性も考慮すべきである。最終的に美濃を制圧し、天下統一へと邁進した織田信長の側から見た歴史記述(例えば『信長公記』の一部記述)や、後の江戸幕府体制下における儒教的道徳観が、義龍の人物像形成に作用したことは想像に難くない。近年の再評価の動きは、こうした一元的な視点から脱却し、残された史料を多角的に分析することで、歴史の敗者や志半ばで倒れた人物の歴史的役割や意義を正当に捉え直そうとする、歴史学そのものの進展を示すものと言えるだろう。歴史を記述し解釈する際には、常に史料批判の精神を持ち、多様な視点から光を当てることが肝要である。
斎藤義龍の生涯は、戦国という激動の時代を象徴するかの如く、劇的な出来事と複雑な人間関係に彩られていた。父・斎藤道三との宿命的な対決を乗り越え、美濃国主としてその辣腕を振るった期間は決して長くはなかったが、その間に彼が残した足跡は決して小さくない。先進的な統治政策の導入、巧みな外交戦略、そして何よりも宿敵・織田信長の美濃侵攻を断固として阻み続けたその力量は、特筆に値する。
彼の存在は、織田信長の天下統一への道程において、無視できない大きな影響を与えた。もし義龍が夭折せず、美濃国主として信長と対峙し続けていたならば、戦国時代の勢力図は大きく異なっていたかもしれない。その意味で、義龍は単に「父殺し」という一面的な評価で語られるべき人物ではなく、戦国時代の一時期において、確かに歴史の歯車を動かした重要な戦略家であり、有能な統治者であったと評価できる。
本報告が、斎藤義龍という武将の多面的な実像を理解し、その歴史的意義を再確認するための一助となれば幸いである。彼の生涯は、戦国時代の非情さと、その中で生き抜こうとした人々の力強さ、そして歴史の偶然性と必然性が織りなす複雑な綾を、我々に改めて教えてくれる。