最終更新日 2026-06-19
事変地域分類:北陸
「北陸」に属する事変:23件
| 事変 | 概要 |
|---|---|
| 朝倉孝景条々(1483) | 1483年頃、朝倉孝景は『朝倉孝景条々』を制定。応仁の乱での下剋上経験を基に、家臣集住、実力主義、権力集中を掲げ一乗谷を整備。朝倉氏百年支配の礎を築いた統治理念だった。 |
| 一乗谷文化振興(1550) | 1550年前後、越前朝倉氏の一乗谷は「北ノ京」と称され、応仁の乱後の文化人流入で独自の武家文化が爛熟した。しかし信長包囲網の危機に滅亡した。 |
| 越中一向一揆体制(1530頃) | 十六世紀初頭の越中国で確立された一向一揆による独自の宗教的自治体制。本願寺教団の門徒たちが強固な信仰の力で結集し、大名によらず約半世紀も維持された。 |
| 小浜港改修(1602) | 慶長7年、京極高次は小浜港を大規模改修。中世山城から近世港湾都市への転換を象徴する壮大な都市開発だった。関ヶ原の功で若狭国主となった高次は、小浜を日本海側の戦略拠点として再構築した。 |
| 小浜城築城(1601) | 京極高次、関ヶ原の功臣として若狭国主となり小浜城を築く。中世山城から海城への転換は、戦国から泰平の世への移行を象徴。港町と一体化した都市設計で、日本海交易の要衝として小浜の繁栄を築いた。 |
| 加賀一向一揆政権確立(1540頃) | 加賀一向一揆政権は、大小一揆を経て本願寺中央の直轄統治体制を確立。法主を頂点とする宗教国家として、武力と信仰で戦国大名と渡り合うも、信長に滅ぼされた。 |
| 加賀一向一揆蜂起(1488) | 長享二年に加賀で起きた一向一揆。守護の富樫政親を自害させ、以後約百年にわたり「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒と国人衆の連合による自治支配を確立した。 |
| 金沢城石垣整備(1592) | 前田利家が文禄元年(1592)から着手した金沢城の石垣整備。朝鮮出兵に伴う長期不在と有事に備え、本拠地の防衛力向上と領国経営の基盤強化を図った土木事業。 |
| 金沢城下町碁盤化(1592) | 文禄元年、前田利家は金沢城下町を碁盤化した。これは単なる都市計画にあらず、文禄の役を契機とした要塞化と、前田氏の支配を確立する軍事・政治戦略であった。 |
| 金沢城大火(1602) | 慶長7年、金沢城が落雷で大火。天守焼失、弾薬庫爆発で甚大な被害。徳川の監視下、前田利長は天守再建を断念し、御三階櫓を建造。戦国終焉と近世幕開けを告げる象徴的な出来事となった。 |
| 金沢城三御門整備(1592) | 文禄元年、前田利家は金沢城三御門を整備。文禄の役を背景に、高山右近の築城術も取り入れ、堅固な枡形門を築き、前田家の威信と防備を確立した。 |
| 金沢寺町台造成(1599) | 慶長4年、秀吉死後、家康台頭で前田利長は危機に。金沢城下を惣構えで要塞化し、卯辰山に寺院を配置。これは前田家の存亡をかけた戦略的決断であった。 |
| 高岡城築城(1609) | 慶長14年(1609)、前田利長は富山城焼失後、高岡城を築城。徳川幕府の警戒下、前田家存続をかけた戦略的要塞であり、隠居城を装いつつも実戦本位。後の商工業都市高岡の礎を築いた。 |
| 高岡町人町形成(1609) | 1609年、前田利長は徳川家康の警戒をかわし、前田家存続のため高岡に新城と町人町を形成。富山城焼失を契機に、軍事・政治・経済の戦略的拠点として計画され、加賀藩繁栄の礎を築いた。 |
| 富山城改修(1605) | 慶長10年(1605)、前田利長は富山城を大改修。徳川家康の天下統一が進む中、前田家存続のため、隠居を装い強大な軍事拠点を確保。百万石の礎を築く野心と苦悩が込められた。 |
| 富山城下復興町割(1605) | 前田利長が慶長十年(1605)の隠居に伴い実施した富山城と城下町の復興・整備。水陸交通の要衝を軍事・経済の結節点として再編し、加賀藩の領国支配の基盤を強化した。 |
| 七尾港整備(1590) | 天正18年(1590)、前田利家は七尾港を本格整備。これは中世の防衛重視から近世の経済・行政重視への転換を示す都市計画であり、後の加賀藩繁栄と北前船交易の礎を築いた。 |
| 七尾城下復興(1594) | 1594年、前田利家は能登畠山氏の旧七尾城下を、港湾都市として再編。上杉謙信による壊滅から、軍事から経済への転換を象徴する都市革命を推進し、後の金沢城下町建設の礎を築いた。 |
| 福井城下一乗谷移転(1606) | 慶長11年、結城秀康が福井城を完成。信長の一乗谷破壊、柴田勝家の北ノ庄築城を経て、越前支配の中心は山間から平野へ。徳川の威信を示す新府「福井」が誕生し、北陸の要衝として確立された。 |
| 福井城築城(1606) | 徳川家康の次男、結城秀康が越前に築いた福井城。関ヶ原後の徳川覇権確立と前田家牽制を目的とした天下普請。秀康早世、寛文大火で天守は焼失するも、その歴史は戦国終焉と泰平の世への移行を物語る。 |
| 前田家家中掟改訂(1602) | 慶長七年、前田利長は家中掟を改訂。父利家死後、徳川圧力と内紛に苦悩し、母芳春院人質下向で危機回避。掟は戦国武士団を近世家臣団へ変革、百万石の礎を築いた。 |
| 前田利家金沢入城(1583) | 1583年、前田利家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に与し金沢城に入城。織田家権力闘争の帰結であり、加賀百万石の礎を築く転換点。城下町を整備し融和策で統治した。 |
| 丸岡城築城(1576) | 天正四年、織田信長の命で柴田勝豊が越前丸岡城を築城。北陸平定の要衝として一向一揆や上杉謙信に備えた。江戸初期に再建され、幾多の危機を乗り越え現代に至る。 |