最終更新日 2026-06-19
事変地域分類:九州
「九州」に属する事変:72件
| 事変 | 概要 |
|---|---|
| 天草代官所設置(1604) | 慶長九年、寺沢広高は天草に代官所を設置。小西行長時代のキリシタン文化は終わり、過酷な年貢と禁教により島原・天草一揆を招いた。後に天領となり、鈴木重成の善政で復興した。 |
| 天草版印刷開始(1592) | 1592年、天草で活版印刷開始。ヴァリニャーノの適応主義戦略に基づき、日本人技術者ドラードが育成され、学習書や教化書が刊行。しかし、禁教令で事業は終焉。 |
| 有馬晴信改易(1612) | 慶長十七年、キリシタン大名有馬晴信は改易。旧領回復の執念から岡本大八に欺かれ、長崎奉行暗殺計画の嫌疑で失脚。信仰を貫き殉死。この事件は全国禁教令と島原の乱の遠因となった。 |
| 有馬晴信洗礼(1579) | 1579年、有馬晴信は龍造寺隆信の脅威に対抗するため、イエズス会巡察師ヴァリニャーノの支援を受けキリスト教に改宗。南蛮貿易の利益と軍事力を得て、沖田畷の戦いで勝利し、家門存続の道を拓いた。 |
| 壱岐検地実施(1600) | 平戸藩主・松浦鎮信の命により慶長五年(1600)に壱岐で実施された検地。国境の島における石高を確定して年貢体系を整え、幕藩体制下での近世領国支配の基盤を構築した。 |
| 糸割符制度開始(1604) | 家康、ポルトガル独占の生糸貿易を是正すべく糸割符制度を開始。国富流出を阻止し、経済主権を確立。鎖国体制の礎を築き、日本の経済秩序を確立した。 |
| 臼杵城石垣整備(1592) | 1592年、文禄の役で大友義統が失態。臼杵城は豊臣直轄地となり、福原直高、太田一吉により近世城郭へ大改修。石垣技術の変遷は時代の転換を物語り、中世の砦は支配・行政拠点へと変貌した。 |
| 臼杵南蛮寺破却(1587) | 豊臣秀吉の伴天連追放令により、1587年、大友宗麟が築いた豊後府内の南蛮寺は破却された。これはキリシタン文化の終焉と弾圧の時代の始まりを告げる歴史的事件であった。 |
| 大友氏衰退顕在化(1587) | 1587年豊薩合戦で大友氏の衰退が顕在化。耳川の敗北、宗麟のキリスト教傾倒による家中亀裂、二頭政治の歪みが複合し、島津侵攻で内部崩壊した。 |
| 大友宗麟洗礼(1578) | 天正六年、九州の覇者大友宗麟はキリスト教に傾倒し洗礼を受け、日向にキリシタン王国を夢見た。しかし、耳川の戦いで島津に大敗、大友家は衰退の一途を辿り、宗麟の理想は挫折した。 |
| 岡本大八事件(1612) | 慶長十七年、岡本大八事件。有馬晴信は旧領回復を望み大八に欺かれ、幕府のキリシタン弾圧の口実となる。晴信は信仰を貫き殉死、大八は火刑。禁教令拡大、島原の乱遠因。 |
| 小城藩政基盤整備(1608) | 慶長十三年、佐賀藩祖鍋島直茂は関ヶ原の危機を乗り越え、佐賀藩の基盤を整備。嫡男廃嫡の元茂は、直茂の隠居領を継ぎ小城藩を立藩。二代直能の時代に藩庁を小城に移し、独自の藩政基盤を確立した。 |
| 飫肥城改修(1603) | 慶長8年、伊東祐慶は飫肥城を大改修。関ヶ原後の混乱を収め、功臣稲津を粛清し家中の統制を確立。戦国から近世城郭への転換を図り、城下町整備と飫肥杉植林で藩の礎を築き、伊東家の未来を拓いた。 |
| 飫肥城下再整備(1604) | 伊東祐慶が慶長九年(1604)に開始した飫肥城下の再整備。島津氏との長期抗争を終えた伊東氏が、戦国的な城下を近世都市へ改造し、領国経済の復興と支配体制を確立した。 |
| 鹿児島城築城(1601) | 島津家久が慶長六年(1601)に開始した鹿児島城の築城。関ヶ原の敗戦後に恭順を示しつつ天守を持たない屋形造りとし、独自の郷士制(外城制)と藩統治の基盤を確立した。 |
| 加藤清正検地徹底(1600) | 慶長5年、加藤清正は関ヶ原後に肥後一国を拝領。佐々成政の失敗を教訓に、徹底検地と大規模治水事業で石高を増大。表高を低く申告し、余剰資金で熊本城を築城。肥後社会の近世的変革を推進した。 |
| 唐津城築城(1608) | 寺沢広高は、名護屋城の資材と九州諸大名を動員し、唐津城を築城。天守なき天守台は徳川への政治的配慮を示す。しかし、寺沢家は島原の乱で改易され、唐津城は幕府の西国支配の要となった。 |
| 己酉条約締結(1609) | 対馬の宗氏が徳川家康の後押しで慶長十四年(1609)に朝鮮と締結した国交回復条約。文禄・慶長の役による断交を清算し、宗氏の貿易独占や近世日朝外交の秩序を規定した。 |
| 口之津港整備(1570) | 1570年、有馬氏の口之津港は南蛮貿易で栄えるも、大村純忠が長崎を開港。イエズス会は長崎を選び、口之津は経済的役割を終え、宗教・文化拠点へ転換。天正遣欧少年使節の構想が練られた。 |
| 熊本城下町建設(1601) | 関ヶ原後、加藤清正は肥後一国を領し、熊本城下町を建設。茶臼山丘陵に難攻不落の城を築き、河川改修で治水と経済を両立。軍事・経済・統治を統合した機能都市を創り上げた。 |
| 熊本城築城(1607) | 加藤清正は1607年、肥後に熊本城を築城。戦国終焉の時代、統治困難な肥後を治めるため、蔚山での経験を活かし難攻不落の要塞を完成させた。城は清正の忠誠心と政治的メッセージを秘める。 |
| 黒田家藩政開始(1600) | 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで功績を挙げた黒田長政は筑前国を与えられ、藩政を開始。名島城を放棄し、博多に隣接する福崎に新城「福岡城」を築き、武士の町「福岡」と商人の町「博多」を分離した。 |
| 黒田長政筑前入封(1600) | 関ヶ原の戦い後、黒田長政が筑前国52万3千石を与えられ入封。父如水による九州平定と長政の調略が評価され、福岡藩の礎を築いた。名島城から福岡城への移転も行った。 |
| 小倉城下碁盤整備(1602) | 細川忠興が慶長七年(1602)から着手した小倉城と城下町の整備。道路を碁盤の目状に整備して武家地と町人地を分離した城下町を建設し、領国統治と経済の基礎を確立した。 |
| 小倉城築城(1602) | 細川忠興は1602年、徳川家康の命で豊前小倉に築城を開始。関門海峡に面した要衝に、周囲8kmの総構と、常識を覆す「唐造り」天守を持つ城を約7年で完成。九州支配の拠点として徳川覇権を確立した。 |
| 佐賀城本丸再建(1608) | 慶長13年、鍋島氏が佐賀城を大普請。龍造寺氏から実権を掌握した鍋島氏の権威を示すもので、広大な水堀と土塁は幕府への恭順、本丸石垣は旧龍造寺勢力への威嚇を意図した。 |
| 相良氏法度制定(1600) | 慶長五年、相良氏は関ヶ原の動乱で存亡の危機に瀕した。家老犬童頼兄の智謀と非情な決断により、西軍に属しながらも東軍に内通し、所領安堵を勝ち取った。これにより相良氏は近世大名として存続した。 |
| 佐土原城下整備(1600) | 慶長5年、関ヶ原で島津豊久が戦死。佐土原は島津以久が領主となり藩を創設。以久は戦国の武将から新時代の統治者へ転身し、城郭改修と城下町整備を推進。佐土原藩の礎となり、現代都市の原点となった。 |
| ザビエル来日(1549) | 1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝来させた。彼の布教活動は各地で反響を呼び、日本の歴史に大きな影響を与えた。 |
| 使節ローマ謁見(1585) | 天正遣欧少年使節、1582年長崎を出帆。欧州で国王・教皇に謁見し栄光を極めるも、帰国後はバテレン追放令下の激変した故国で、四者四様の過酷な運命を辿る。日欧交流史に刻まれし壮大な旅路。 |
| 志布志港整備(1595) | 島津氏が文禄四年(1595)頃に整備した志布志港の兵站拠点。朝鮮出兵に伴う物資や兵員の輸送拠点として港湾を拡張し、薩南における物流と軍事ロジスティクスを支えた。 |
| 島津義久臣従(1587) | 1587年、島津義久は秀吉に臣従。九州統一寸前も惣無事令を拒否し、秀吉の九州征伐を招く。戸次川で勝利も根白坂で敗北し、泰平寺で降伏。秀吉は本領安堵し九州国分を断行。 |
| 島原城築城(1604) | 島原城は1618年、松倉重政が築城。一国一城令下の異例で、幕府の九州支配戦略と重政の野心が合致。過酷な労役と重税が領民の不満を募らせ、島原の乱の遠因となった。 |
| 朱印船貿易許可(1604) | 徳川家康は1604年、朱印船貿易を本格化。戦国時代の海上秩序の混乱を収拾し、国家管理下の貿易体制を確立した。これにより、日本の経済的利益を確保し、東南アジアとの交流を深めた。 |
| 田中吉政筑後統治着手(1600) | 田中吉政は関ヶ原の戦いで石田三成を捕縛し、筑後国主となる。柳川城を拠点に、検地、治水、干拓、街道整備など大規模な国土改造を行い、筑後発展の礎を築いた。その功績は後世に引き継がれた。 |
| 長宗我部盛親改易(1600) | 長宗我部元親の四男盛親は、関ヶ原の戦いで西軍に与するも戦わず敗北。家名存続のため兄津野親忠を殺害するが、徳川家康の怒りを買い改易。大坂の陣で豊臣方として奮戦するも敗れ、斬首された。 |
| 鉄砲伝来(1543) | 1543年、ポルトガル人により種子島へ鉄砲が伝来。時堯が国産化し、堺などで普及。戦術や城郭を変革し、日本の歴史を転換させた。伝来には諸説あり。 |
| 天正遣欧使節帰国(1590) | 1590年、天正遣欧使節が8年ぶりに帰国。信長亡き後、秀吉の禁教令下で激変した日本に直面。政治的成果は得られぬも、活版印刷機や西洋文化をもたらし、日本のキリシタンに希望を与えた。 |
| 天正遣欧使節出発(1582) | 天正十年、伊東マンショら四少年が長崎から欧州へ出発。イエズス会の構想とキリシタン大名の思惑が合致した日本初の公式使節団。しかし出発直後に本能寺の変が起こり、帰国時には日本の状況は激変した。 |
| 外城制再編(1600) | 薩摩の島津氏が関ヶ原の戦い後の領国危機に直面し、慶長五年(1600)に再編した統治防衛体制。兵農分離に逆行して郷士を分散配置し、藩の自立と軍事力を維持した。 |
| 中津蔵屋敷設置(1601) | 慶長六年、細川忠興は中津藩の大坂蔵屋敷を設置。関ヶ原後の新時代、武力から経済へ転換する中で、膨大な石高を現金化し、藩財政を確立する戦略的拠点とした。これは小倉城築城の財源ともなった。 |
| 中津城築城(1588) | 天正十六年、黒田官兵衛が築いた城。日本三大水城。築城中に敵将・宇都宮鎮房を謀殺し豊前国人一揆を鎮圧した、実戦的合理性に貫かれた近世城郭の代表例。 |
| 長崎開港(1571) | 元亀二年、大村純忠は龍造寺氏に対抗すべく、ポルトガルと協力し長崎を開港。後に長崎をイエズス会に寄進し、治外法権的な自治都市とした。これは純忠の生存戦略であり、長崎の特異な発展の礎となった。 |
| 長崎活版印刷所開設(1590) | 1590年、長崎で日本初の活版印刷所が開設。秀吉の追放令下、ヴァリニャーノの戦略と天正遣欧少年使節の尽力で実現。キリシタン版を出版したが、禁教により終焉を迎えた。 |
| 長崎代官設置(1603) | 慶長八年(1603年)、徳川家康は長崎に代官を設置し、豊臣政権下の国際港湾都市の統治を再編。家康の朱印船貿易の要衝として、奉行・代官の二元統治体制を確立。鎖国体制への序章。 |
| 長崎直轄化(1587) | 天正十五年に豊臣秀吉が下した、イエズス会領の長崎を豊臣氏の直轄地とした決定。海外貿易の権益掌握と統一政権の確立を狙った、対外関係史における大転換点。 |
| 長崎奉行設置(1614) | 慶長19年、徳川家康は大坂の陣を前に、キリシタンの温床である長崎に奉行を設置。これは貿易管理と禁教を徹底し、西国大名への統制を強化する戦略であり、後の鎖国体制の礎を築いた。 |
| 長崎・茂木寄進(1580) | 天正八年、大村純忠は龍造寺氏の脅威に対抗し、長崎と茂木をイエズス会に寄進。秀吉の九州平定後、伴天連追放令により長崎は直轄領となり、教会領は終焉を迎えた。 |
| 名護屋城下撤収(1598) | 豊臣秀吉の死去に伴う朝鮮出兵の終結により、肥前国名護屋の巨大軍事都市から兵員や商人が一斉に退去した事変。豊臣政権の急速な瓦解と対外戦争の終焉を象徴する。 |
| 名護屋城築城(1592) | 1591年、秀吉は朝鮮出兵拠点として名護屋城を築城。天下普請で短期間に巨大軍事都市を出現させ、最高司令部として機能。秀吉死後解体され「幻の都市」となるも、特別史跡に。 |
| 名島から福岡へ移転(1601) | 慶長六年、黒田長政は関ヶ原の功により筑前国を拝領。旧名島城の限界を認識し、新時代に相応しい本拠として福崎に福岡城を築城。博多と一体化した双子都市を形成し、黒田藩の礎を築いた。 |
| 二十六聖人殉教(1597) | 1597年、豊臣秀吉の命により、26名のキリシタンが長崎西坂の丘で処刑された。サン・フェリペ号事件を契機とした秀吉のキリスト教弾圧は、徳川幕府の禁教政策と鎖国体制への道を開いた。 |
| 延岡城下碁盤化(1603) | 関ヶ原を生き抜いた高橋元種は、慶長八年、延岡城下を碁盤割に整備。これは徳川幕府への忠誠と近世大名としての統治能力を示す戦略的事業であり、延岡の礎を築いた。 |
| 延岡城築城(1601) | 高橋元種が慶長六年(1601)に日向国縣に築城した延岡城。関ヶ原の戦い後に所領を安堵された元種が、領国支配の拠点および近世的な統治体制を確立した。 |
| 博多太閤町割(1587) | 1587年、秀吉は九州平定後、戦火の博多を「太閤町割」で復興。官兵衛・三成らが奉行となり、革新的な政策で商都を再生。碁盤目状の街路と「流」の創設で、現在の福岡・博多の基礎を築いた。 |
| 博多荷駄税整理(1587) | 1587年、秀吉は博多荷駄税を整理。九州平定後の博多を大陸侵攻の兵站基地として再建するため、太閤町割りや定め九ヶ条を伴う複合的な国家戦略であった。 |
| 伴天連追放令(1587) | 天正十五年、豊臣秀吉は伴天連追放令を発布。九州平定で露見したキリスト教勢力の主権侵害、奴隷売買、社会混乱を背景に、国家の安全保障と秩序維持のため断行。貿易は許し宣教師を排除。 |
| 日田代官所設置(1601) | 慶長6年、徳川家康は九州支配の要として日田に代官所を設置。西軍の小川光氏を任命し丸山城を築城。島津氏牽制と外様大名監視を目的とした戦略的布石で、後の天領日田の礎となった。 |
| 人吉城改修(1601) | 慶長六年、相良家は関ヶ原の危機を犬童頼兄の奇策で乗り越え、人吉城を近世城郭へと大改修。徳川への恭順と領内示威を兼ね、七百年続く家系の礎を築いた。 |
| 平戸英国商館開設(1613) | 1613年、平戸に英国商館が開設。家康の国際戦略と英国東インド会社の挑戦だったが、商品不振、オランダとの競争、幕府政策転換、アンボイナ事件で10年で撤退。 |
| 平戸オランダ商館開設(1609) | 1609年、平戸にオランダ商館が開設。新興勢力オランダと海外貿易を重視する徳川家康の戦略が合致し、鎖国体制下で日本と西洋を結ぶ唯一の窓口となった。 |
| 平戸南蛮貿易活発化(1550) | 1550年、ポルトガル船が平戸に来航し南蛮貿易が活発化。松浦隆信は領国経営のため王直仲介で貿易とキリスト教布教を許可。鉄砲や生糸がもたらされ、日本の戦国時代と世界経済が接続する転換点となった。 |
| 平戸日蘭条項整備(1610) | 1610年、平戸でオランダ商館の約定が成立。家康はカトリック排除と実利追求の対外戦略を推進。松浦鎮信は藩存続のためオランダを誘致。これは日本の国際関係の画期であり、鎖国体制の礎となった。 |
| 平戸藩キリシタン取締強化(1614) | 平戸藩が慶長十九年(1614)の幕府禁教令に伴い実施したキリシタン取締の強化。幕府への恭順を示すことで藩の存亡を図り、独自の貿易拠点で弾圧を余儀なくされた事変。 |
| 福岡城築城(1601) | 関ヶ原の功労者、黒田長政は父如水と共に筑前国に福岡城を築いた。これは黒田家の安泰と繁栄を願う壮大な計画であり、武士の町「福岡」と商都「博多」の双子都市を生み出した。 |
| 府内町割再編(1588) | 天正16年、大友義統は豊薩合戦で焦土と化した府内を町割再編。秀吉の九州平定後、制約下で祇園社領安堵や町人居住許可で復興を試みた。地方の現実的再生策で、後の府内発展の礎となった。 |
| 豊後南蛮寺再建(1552) | 大友宗麟の庇護下、宣教師らが天文二十一年(1552)頃に豊後府内へ設けたキリスト教布教拠点。南蛮寺や病院が建ち、南蛮貿易と西洋医学が融合した国際都市が形成された。 |
| 戸次川敗報を受けた処断(1587) | 1586年戸次川の戦いで豊臣先遣隊は壊滅。秀吉は命令無視の仙石秀久を厳罰、忠義の長宗我部元親には温情を示し、武士の新たな行動規範を天下に示した。 |
| 細川忠興豊前統治整備(1600) | 慶長5年(1600年)、細川忠興は関ヶ原の戦功により豊前国を与えられ、藩政を開始。黒田家との年貢問題を経て権威を確立し、小倉城を築城。紫川を境に武家地と町人地を分けた。 |
| 身分統制令(1591) | 天正十九年、豊臣秀吉は朝鮮出兵に備え身分統制令を発令。武家奉公人の離脱や百姓の離農を禁じ、兵力と兵糧を確保し、国家総動員体制を確立。近世社会の礎を築いた。 |
| 柳川城改修(1601) | 田中吉政が筑後入封後の慶長六年(1601)から実施した柳川城の改修。独自の掘割網を築いて治水と水上交通、防衛力を強化し、水郷都市としての柳川の経済基盤を確立した。 |
| キリシタン右近所領没収(1587) | 天正15年、豊臣秀吉は伴天連追放令を発令。高山右近は信仰を捨てず、播磨明石六万石の所領を没収された。信仰に生きた武将の悲劇は、日本のキリスト教史の転換点となる。 |