最終更新日 2026-06-19

事変地域分類:甲信越

「甲信越」に属する事変:34件

事変概要
飯山城改修いいやまじょうかいしゅう(1607)慶長12年、飯山城は皆川広照により大規模改修。戦国期の軍事拠点から徳川の威光を示す近世城郭へ変貌。松平忠輝の付属大名として、北信濃の徳川支配を確立する象徴となった。
岩村田宿整備いわむらだしゅくせいび(1602)1602年の岩村田宿整備は、関ヶ原後の徳川家康による中山道宿駅伝馬制度の一環。戦国期の戦略拠点が幕府の統治インフラとして再編され、商人の町として発展した。
上杉家軍役帳整備うえすぎけぐんやくちょうせいび1570頃1570ごろ上杉謙信は1570年頃、領国統治と対外戦略改革のため軍役帳を整備。近代的動員体制構築と家臣団統制を目的とし、謙信の軍事思想を反映した実践的なもの。
上杉謙信死去うえすぎけんしんしきょ(1578)天正6年、軍神上杉謙信が急逝。後継者未指名により御館の乱が勃発し、上杉家は衰退。武田勝頼の外交的失策を誘発し、織田信長の天下統一を加速させた、戦国史の転換点。
上田城再建うえだじょうさいけん(1601)関ヶ原で西軍についた真田氏の上田城は、戦後徳川の命で破却された。信之の治世を経て、仙石氏が再建に着手するも、未完のまま終わったのである。
越後御館の乱えちごおたてのらん(1578)上杉謙信の急死に伴い、養子の景勝と景虎との間で天正六年(1578)に勃発した後継者争い。周辺大名を巻き込む激しい内乱となり、景勝が勝利するも上杉家を衰退させた。
追分宿整備おいわけじゅくせいび(1602)慶長7年(1602年)の追分宿整備は、徳川家康の五街道整備の一環。戦国から泰平への転換点であり、真田信之が指揮。交通の要衝として発展し、独自の文化を育んだ。
小千谷縮生産拡大おぢやちぢみせいさんかくだい(1600)慶長五年、越後小千谷は関ヶ原と連動した上杉遺民一揆で戦禍にあり、生産拡大は誤認。堀次郎将俊の技術革新と江戸中期の安定が、小千谷縮の真の発展を促した。
甲斐国総検地かいのくにそうけんち(1582)天正10年、武田氏滅亡後の甲斐国で徳川家康が総検地を断行。天正壬午の乱を制し、石高制導入と蔵入地化で支配を再編。武田遺臣を登用し、近世的統治の礎を築き、天下取りの基盤とした。
春日山城下町整備かすがやまじょうかまちせいび(1570)元亀元年、上杉謙信は春日山城下町を整備。織田・武田の脅威に直面し、家臣集住と二元政庁で領国を総力戦体制へ移行。信仰と経済を統合した要塞都市を築いた。
軽井沢宿整備かるいざわしゅくせいび(1602)慶長7年(1602年)軽井沢宿は徳川家康の五街道整備で創設。碓氷峠麓に位置し、戦国終焉と泰平の礎石。強制移住を伴い、交通の要衝として発展した。
沓掛宿整備くつかけじゅくせいび(1602)慶長7年(1602年)沓掛宿は徳川家康の五街道整備で創設。浅間三宿の一つで、戦国終焉と泰平の象徴。交通の要衝として機能し、地域経済を潤し発展した。
甲州法度之次第こうしゅうはっとのしだい(1547)天文16年(1547年)、武田晴信(信玄)は「甲州法度之次第」を制定。父信虎追放後の不安定な状況と信濃侵攻激化の中、家臣統制と領国経営を強化し、武田氏発展の礎を築いた。
甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい(1554)1554年、武田信玄、北条氏康、今川義元は甲相駿三国同盟を締結。婚姻で背後の安全を確保し、信玄は信濃、氏康は関東、義元は尾張へと勢力拡大。義元死後、信玄の駿河侵攻で同盟は崩壊した。
甲府城築城こうふじょうちくじょう(1590)天正18年、豊臣秀吉は徳川家康の関東移封後、甲斐に甲府城を築城。武田氏の統治思想を否定し、石垣と最新技術で豊臣の権威を誇示。対家康の最前線基地として、天下統一後の政治的緊張を象徴した。
小諸城改修こもろじょうかいしゅう(1590)天正18年、小田原征伐で大名に復帰した仙石秀久は小諸城主となった。城を近世城郭へ大改修し、豊臣の東国支配の拠点、自身の再起の証とした。
佐渡金山開発さどきんざんかいはつ(1601)慶長6年、徳川家康は佐渡金山を直轄領とし、大久保長安を代官に任命。道遊の割戸の発見と灰吹法の導入で産金量が飛躍的に増加。幕府財政の基盤を確立し、慶長小判の鋳造を支えた。
佐渡金山直轄化さどきんざんちょっかつか(1601)徳川家康は1601年、佐渡金山を直轄化。上杉氏から没収し、豪商・田中清六を代官に。相川金山発見後、大久保長安が先進技術と計画都市で生産を飛躍させ、幕府財政の礎を築いた。
真田信之上田入封さなだのぶゆきうえだにゅうほう(1600)慶長五年、真田信之は犬伏の別れで東軍につき、関ヶ原後、父昌幸の旧領上田へ入封。徳川に徹底的に破却された上田城で藩政を確立し、真田家を近世大名として存続。後に松代へ移封。
真田昌幸配流さなだまさゆきはいる(1600)慶長五年、真田昌幸は関ヶ原で西軍に与し、徳川秀忠軍を上田城で翻弄。西軍敗北後、死罪を免れ紀伊九度山へ配流。昌幸は九度山で信繁に兵法を伝授し、真田家存続の礎を築く。
塩尻宿整備しおじりじゅくせいび(1602)塩尻宿は戦国期の軍事拠点から徳川期の計画都市へ変遷。慶長7年に中山道から外れるも、大久保長安失脚後、慶長19年に新ルートで再整備され、交通の要衝として繁栄した。
新発田城改修しばたじょうかいしゅう(1598)慶長三年、溝口秀勝は新発田城を改修。豊臣政権末期の越後を治め、水と土を活かした要塞を築いた。関ヶ原の戦いでは上杉遺民一揆を鎮圧し、新発田藩の礎を築いた。
新発田用水整備しばたようすいせいび(1600)初代新発田藩主・溝口秀勝が慶長五年(1600)頃から開始した新発田用水の整備。蒲原平野の治水と干拓を進め、大規模な新田開発により新発田藩の財政経済の基盤を築いた。
諏訪頼重自害すわよりしげじがい(1542)天文11年、武田晴信の信濃侵攻により諏訪頼重は甲府東光寺で自害。信玄の謀略が信濃平定の序章となり、頼重の娘が産んだ勝頼が武田家滅亡を招く皮肉な運命を辿った。
政庁移転至甲府せいちょういてんいたるこうふ(1590)豊臣秀吉の甲斐支配に伴い、天正十八年(1590)から進められた行政中枢の移転。旧武田氏の館から甲府城へ政庁を移し、領国統治の中央集権化と豊臣体制への統合を図った。
高島城築城たかしまじょうちくじょう(1590)天正18年、家康の関東移封で諏訪は秀吉配下の日根野高吉の所領に。彼は高島城を築き豊臣支配を確立したが、後に旧領主の諏訪氏が復帰した。
高田城下外堀掘削たかだじょうかそとぼりくっさく(1614)慶長19年、家康は大坂の陣に備え、越後に高田城を築城。松平忠輝を城主、伊達政宗を総監督とし、わずか4ヶ月で完成。石垣なき「土の城」は、北陸の抑止力として家康の天下統一に貢献した。
高田城築城たかだじょうちくじょう(1614)慶長19年、徳川家康は高田城を築かせた。大坂の陣を前に、伊達政宗を総裁に据え、外様大名を動員。石垣なき土の城は、松平忠輝の悲劇と共に戦国の終焉を告げた。
武田氏滅亡たけだしめつぼう(1582)1582年、武田勝頼は木曾義昌らの裏切りと織田・徳川連合軍の甲州征伐により滅亡。信玄死後の求心力低下、長篠の戦いの爪痕、外交戦略破綻が重なり天目山で自害。戦国最強武田氏の終焉だった。
武田晴信出家改名たけだはるのぶしゅっけかいめい(1551)永禄二年、武田晴信は「信玄」と号して出家。上杉謙信との軍事的膠着と権威上昇に対抗し、信仰と戦略的意図から新たな権威を確立。武田信玄という強力なブランドを確立する画期であった。
妻籠宿整備つまごじゅくせいび(1602)慶長7年(1602年)に整備された妻籠宿は、戦国期の軍事拠点から徳川の宿駅へ変貌。山村氏らが幕府指令を執行し、伝馬役や助郷制度で支えられ、社会変革を促した。
奈良井宿整備ならいじゅくせいび(1602)慶長7年(1602年)に整備された奈良井宿は、徳川家康の天下統一戦略の一環。軍事・交通・経済の要衝として機能し、木曽檜輸送拠点として繁栄、「奈良井千軒」と称された。
松本城下拡張まつもとじょうかかくちょう(1598)慶長3年、石川康長は父数正の遺志を継ぎ、松本城下を拡張。対徳川の最前線基地として、三重の水堀と天守を備えた堅固な城郭を築く。武家屋敷と町割りを整備し、近世都市の骨格を完成させた。
松本城天守完成まつもとじょうてんしゅかんせい(1594)文禄3年、石川数正・康長親子は信濃松本に漆黒の天守を完成。豊臣秀吉の対徳川戦略の要として、軟弱地盤を克服し、実戦的防御と豊臣への忠誠を示す、戦国末期の象徴的城郭。