最終更新日 2026-06-19

事変地域分類:中国

「中国」に属する事変:33件

事変概要
赤間関港修復あかまがせきこうしゅうふく(1600)慶長五年、関ヶ原敗戦で毛利氏は大減封。赤間関港は軍事要衝から経済生命線へ転生。長府藩が管理し、北前船寄港地として繁栄。これは毛利家再建の象徴であり、港湾都市の再生を物語る。
尼子氏滅亡あまごしめつぼう(1566)1566年、尼子氏は月山富田城開城で滅亡。経久の覇権は晴久の新宮党粛清で内部分裂し、若き義久の経験不足と毛利元就の兵糧攻めにより、内部崩壊した。
出雲大社修造寄進いずもたいしゃしゅうぞうきしん(1602)慶長7年(1602年)、徳川家康の深謀と豊臣秀頼の威信、そして新領主堀尾吉晴の戦略が交錯し、戦乱で荒廃した出雲大社の修造が決定。これは戦国終焉と近世社会の到来を告げる象徴的な出来事であった。
出雲国銀山御料化いずものくにぎんざんごりょうか(1598)慶長三年に豊臣秀吉が断行した石見銀山の直接支配化。朝鮮出兵による財政難の打開と後継体制強化を狙い毛利氏から管理権を接収、後の徳川による天領化の先駆となった。
岩国城築城いわくにじょうちくじょう(1608)吉川広家が慶長十三年(1608)に築いた岩国城。毛利家防衛の拠点および領国統治の中枢として築城されたが、幕府の一国一城令に伴い、わずか七年で破却された。
石見銀山開発拡大いわみぎんざんかいはつかくだい(1533)天文二年、神屋寿禎は石見銀山に灰吹法を導入。銀生産が飛躍的に増大し、銀山は戦国大名の争奪戦の的となる。毛利元就が掌握し、その富は毛利氏の勢力拡大と世界経済に大きな影響を与えた。
石見銀山直轄鉱区拡大いわみぎんざんちょっかつこうくかくだい(1598)1598年、豊臣秀吉は朝鮮出兵戦費のため、毛利氏支配下の石見銀山に貢納強化を要求。これは直轄化ではなく、毛利氏の面子を保ちつつ税収を増やす政治的妥協。秀吉死後、徳川家康が石見銀山を掌握。
宇喜多家家中騒動収束うきたけかちゅうそうどうしゅうそく(1598)豊臣秀吉死後、宇喜多秀家家中では中央集権化を巡る武功派と吏僚派の対立が激化。徳川家康の介入により、反秀家派は家康に吸収され、宇喜多家の軍事力は低下。関ヶ原の戦いでの敗北に繋がった。
宇喜多家粛清うきたけしゅくせい(1570~76)1570年代、宇喜多直家は毛利氏と結託し主君浦上宗景を打倒。天神山城の戦いを経て備前・美作を掌握し岡山城を整備。その後織田氏に寝返り、梟雄として備前を統一した。
宇喜多秀家改易うきたひでいえかいえき(1600)1600年、豊臣五大老の宇喜多秀家は関ヶ原で西軍副大将として奮戦するも敗北。宇喜多騒動による家中分裂も響き、改易され八丈島へ流罪。秀吉寵愛の貴公子の悲劇的な生涯だった。
大内氏滅後再編おおうちしめつぼうごさいへん(1557)1557年、大内氏滅亡後の防長再編は、毛利元就が旧大内統治を継承しつつ、石見銀山と瀬戸内海交易で経済基盤を刷新、「毛利両川体制」を確立し、中国地方の覇者となった。
岡山城天守完成おかやまじょうてんしゅかんせい(1597)宇喜多秀家が慶長二年(1597)に完成させた岡山城の天守。黒塗りの外壁を持つ近世的巨城を創出し、豊臣五大老の一人である秀家の政治的権威と領国支配の中枢を誇示した。
海賊停止令かいぞくていしれい(1588)天正十六年、豊臣秀吉は海賊停止令を発令。独立勢力であった海賊衆を解体し、武力独占と海上交通安定化を図る。刀狩令と連動し、陸海両面で兵農分離を徹底、近世社会の礎を築いた。
児島湾干拓着手こじまわんかんたくちゃくしゅ(1580)天正8年、宇喜多直家は児島湾干拓構想を確立。織田・毛利に挟まれ、国土改造で国家存続を図る。子の秀家が備中高松城水攻めの技術を応用し宇喜多堤を築造。これは400年続く国土創出の出発点となった。
小早川秀秋入封こばやかわひであきにゅうほう(1600)1600年、小早川秀秋は関ヶ原で西軍を裏切り東軍に寝返り、備前・美作50万石余りを与えられ岡山に入封。秀吉養子として栄華を極めたが、秀頼誕生後は冷遇され、21歳で急逝し小早川家は断絶した。
西国街道整備さいごくかいどうせいび(1604)徳川幕府が慶長九年(1604)に発令した西国街道の整備。一里塚の設置や宿駅・伝馬制の整備によって幹線交通を標準化し、公儀の行政支配を全国に浸透させる基盤となった。
大寧寺の変たいねいじのへん(1551)1551年、陶晴賢が大内義隆を大寧寺で自害させ大内氏滅亡。義隆の文治傾倒と月山富田城敗戦が背景。毛利元就の台頭を招き、西国の勢力図を塗り替えた。
高梁川治水たかはしがわちすい(1590)宇喜多秀家は1590年頃、高梁川治水と児島湾干拓を統合した「宇喜多堤」を建設。高松城水攻めの技術を転用し、洪水防御と新田開発を推進。戦国末期の先進的領国経営で、岡山平野発展の礎となった。
津山城普請開始つやまじょうふしんかいし(1604)森忠政は1604年、徳川家康の西国経営戦略の一環として津山城の普請を開始。戦国技術の粋を集め、実戦本位の巨大城郭を築いた。これは戦国の終焉と近世津山の誕生を告げ、後の津山藩発展の礎となった。
津和野城改修つわのじょうかいしゅう(1601)慶長六年、関ヶ原の戦後、坂崎直盛は徳川家康の命で津和野城主となる。対毛利の要衝として、中世山城を総石垣の近世城郭へ大改修。城下町も整備し、鯉の泳ぐ風景の礎を築いた。
鳥取城改修とっとりじょうかいしゅう(1601)慶長6年、池田長吉は徳川家康の命で鳥取城を大改修。戦国山城から近世城郭へ変貌させ、西国支配の拠点とした。兄・輝政の姫路城改修と連携し、徳川天下を盤石にする国家戦略の一環であった。
灰吹法普及はいふきほうふきゅう1533~1600頃1533~1600ごろ16世紀、朝鮮半島から伝来した灰吹法は日本の銀生産を革命的に増大させ、戦国大名の財政を支え天下統一を加速。世界経済にも影響を与え、日本の地位を高めた。
萩城築城はぎじょうちくじょう(1604)慶長九年、関ヶ原敗戦の屈辱を背負い、毛利輝元は徳川幕府の命で萩城を築城。不便な地は臥薪嘗胆の拠点となり、長州藩の礎を築く。城下町は維新の志士を育み、幕府打倒の原動力となった。
広島城下町造成ひろしまじょうかまちぞうせい(1590)毛利輝元が天正十八年(1590)頃から開始した広島城下町の造成。山間部の郡山城から水上物流に優れた太田川河口へと拠点を移し、近世的な領国支配体制を構築した事業。
広島城築城ひろしまじょうちくじょう(1589)天正十七年、毛利輝元は広島城を築城。旧来の山城の限界を越え、秀吉の意向を汲み水運を活かした近世城郭都市を創出。関ヶ原で毛利氏は退去するも、広島城は現代広島の礎となった。
備中松山城改修びっちゅうまつやまじょうかいしゅう(1600)慶長5年、徳川家康は関ヶ原後、備中松山城を西国経営拠点とし、小堀遠州に改修を命じた。遠州は山麓に政庁、山上に詰の城を置く二元的構想と「綺麗さび」を融合。中世山城を近世城郭へと転生させた。
布教公許ふきょうこうきょ(1551)天文二十年、周防国の大内義隆はザビエルにキリスト教布教を公許。国際都市山口の特性、義隆の知的好奇心と政治的計算、ザビエルの戦略転換が合致。日本の国際関係とキリスト教布教に影響を与えた。
福島正則城郭普請停止ふくしままさのりじょうかくふしんていし(1609)福島正則は広島城無断修築で家康の不興を買い、一度は赦免されるも、武家諸法度制定後の再度の無断修築で改易された。これは徳川幕府による豊臣恩顧大名統制の象徴である。
松江城築城まつえじょうちくじょう(1607)慶長十二年、堀尾吉晴・忠氏父子は関ヶ原の功で出雲・隠岐を領し、月山富田城から松江へ移る。水の都に松江城を築城し、戦国の記憶と泰平の世の要請を融合。城下町も整備し、藩の礎を築いた。
三原城築城みはらじょうちくじょう(1567)永禄10年、小早川隆景は毛利氏の瀬戸内海覇権確立のため三原城を築城。水軍運用効率を高める海城として、隆景の戦略思想と最先端技術が結集。後に「浮城」と称された。
毛利家減封処置もうりけげんぽうしょち(1600)毛利輝元は関ヶ原で西軍総大将となるも、吉川広家の内通で毛利軍は動かず敗北。家康に所領安堵を反故にされ防長二国に減封。これが長州藩の倒幕の原動力となった。
毛利両川体制確立もうりりょうかわたいせいかくりつ(1555)毛利両川体制は、元就が次男元春、三男隆景を吉川・小早川両家に入れ、宗家を支える体制。1555年厳島の戦いで確立し、中国地方の覇者となる。三子教訓状で理念を明文化。
米子城築城よなごじょうちくじょう(1591)吉川広家が天正十九年(1591)に築城を開始した米子城。豊臣政権下における山陰支配の政治・軍事拠点であり、同時に日本海交易と兵站ロジスティクスの要衝となった。