最終更新日 2026-06-19

事変地域分類:近畿

「近畿」に属する事変:192件

事変概要
明石浦港整備あかしうらこうせいび(1605)明石浦港の本格整備は慶長十年ではなく、元和三年(1617年)明石藩成立後、小笠原忠真により開始。城・町・港一体の国家プロジェクトとして、瀬戸内海の要衝たる明石の礎を築いた。
赤穂塩田開発着手あこうえんでんかいはつちゃくしゅ(1600)慶長五年、関ヶ原の戦後、池田輝政は播磨国赤穂に塩田開発を着手。これは徳川政権の経済基盤を固め、赤穂を「塩の国」へと変貌させる画期となった。
安土宗論あづちしゅうろん(1579)織田信長が天正七年(1579)に安土浄厳院で行わせた浄土宗と法華宗の宗派論争。信長の介入により法華宗を屈服させ、宗教勢力への絶対的な統制力を確立した政治的事件。
安土城下瓦舗装導入あづちじょうかがわらほそうどうにゅう(1578)天正六年、織田信長は安土城下で「瓦舗装」を導入。これは瓦屋根の壮麗な建築群と石畳の道が織りなす革新的な都市景観を指し、信長の絶対的権力と新時代の秩序を象徴する、天下布武の舞台装置であった。
安土城焼失あづちじょうしょうしつ(1582)天正十年、信長の夢安土城は本能寺の変後、炎上。明智秀満、織田信雄、野盗など諸説あるが、信雄放火説が有力。信長の権威を象徴した巨城は、その役割を終え、今や文化遺産として語り継がれる。
安土城築城あづちじょうちくじょう(1576)天正四年、信長は天下統一の拠点として安土城を築城。総石垣と高層天主が特徴の新時代の城は、楽市楽座で発展。信長の権威を象徴するも、本能寺の変で焼失。近世城郭の原型となった。
安土セミナリヨ設置あづちせみなりよせっち(1579)織田信長の庇護下、イエズス会が天正七年(1579)に安土へ設置した日本初の神学校。キリスト教義や西洋科学等の教育を行い、国際都市安土の文化交流を象徴した。
安土楽市令あづちらくいちれい(1577)天正5年(1577)に織田信長が安土城下町に対して発布した、全13条からなる法令。座の特権や課税を免除し、自由取引や身分保障を定めて新首都の経済的繁栄を図った。
尼崎運河開削あまがさきうんがかいさく(1600)尼崎運河開削は1600年の史実ではなく、1617年以降、戸田氏鉄による近世尼崎城築城に伴う庄下川等の大規模改修が実態。これは幕府の西国戦略の一環であり、地域の景観と社会に強烈なインパクトを与えた。
荒木村重謀反あらきむらしげむほん(1578)1578年、摂津国主荒木村重が信長に謀反。有岡城に籠城するも孤立し、妻子家臣を残し脱出。信長は一族を処刑。村重は茶人「道薫」として秀吉に仕え、後半生を生き延びた。
家康征夷大将軍任官いえやすせいいたいしょうぐんにんかん(1603)慶長八年、徳川家康は征夷大将軍に任官。豊臣家を凌駕する武家政権「江戸幕府」を創設し、二条城で諸大名に新秩序を示した。わずか二年後の将軍職世襲で、徳川の天下を盤石とした。
生野銀山直轄化いくのぎんざんちょっかつか1600頃1600ごろ1600年頃、徳川家康は生野銀山を直轄化。関ヶ原の戦後処理として、幕府の財政・貨幣戦略、対外貿易の要とし、長期政権の経済的礎石を築いた。
池田輝政播磨入封いけだてるまさはりまにゅうほう(1600)慶長五年、池田輝政は関ヶ原の功により播磨52万石に封じられ、姫路城に入城。徳川家康の娘婿として西国将軍と称され、姫路城大改築で徳川の威光を示し、西国支配の要を担った。
石田三成襲撃いしだみつなりしゅうげき(1599)慶長4年(1599年)、秀吉死後、徳川家康と石田三成の対立が激化。前田利家死後、武断派七将が三成を襲撃し、家康仲裁で三成は佐和山へ蟄居。豊臣政権空洞化を招き、関ヶ原の序曲となった。
石部宿整備いしべしゅくせいび(1601)石部宿は、1601年に徳川家康が整備した東海道の宿場。関ヶ原後の国家統治の一環として、軍事から行政への転換を象徴し、伝馬制度により交通・経済・情報網を確立。地域社会に大きな影響を与え発展した。
石山本願寺退去いしやまほんがんじたいきょ(1580)顕如率いる石山本願寺が信長との十一年におよぶ攻防の末、天正八年(1580)に退去した事件。最強の武装宗教勢力が解体され、信長による近世天下統一への道が拓かれた。
今井町自治確立いまいちょうじちかくりつ(1568)1568年、信長上洛。大和国の一向宗寺内町・今井は、当初抵抗し町を要塞化するも、後に巧みな交渉で恭順。武装解除と引き換えに自治権を獲得し、『陸の堺』と称されるほどの繁栄を築いた。
永正の錯乱えいしょうのさくらん(1507)永正四年、管領細川政元が暗殺され「永正の錯乱」が勃発。三人の養子による家督争いは、細川京兆家を二つに分裂させ、将軍家も巻き込む大乱へと発展。戦国時代の下剋上を象徴する事件となった。
永禄期梅毒流行えいろくきばいどくりゅうこう1560頃1560ごろ永禄期(1560年頃)、日本に梅毒が流行。世界的パンデミックの一環で、戦乱による人の流動性や都市化、性風俗の変化が感染拡大を助長。鼻が落ちる症状は社会不安と差別を生み、武将の運命にも影響。
永禄の変えいろくのへん(1565)永禄八年、三好義継らが二条御所を襲撃し、足利義輝は奮戦の末討死。この事件は将軍権威を失墜させ、三好政権の内部分裂を招き、織田信長に上洛の大義名分を与え、天下統一への道を開く転換点となった。
逢坂関跡管理再編おうさかのせきあとかんりさいへん(1603)逢坂関跡は、古代から中世を経て、1603年の徳川家康による管理再編で交通管理拠点へ変貌。織豊政権の交通自由化から幕府の国家管理化への転換を象徴。
近江国総検地おうみのくにそうけんち(1591)天正19年、豊臣秀吉は近江国総検地を断行。中世の土地制度を解体し、石高制と一地一作人の原則を確立。強固な財政基盤を築き、朝鮮出兵の準備を整え、近世社会の礎を築いた。
近江八幡町割おうみはちまんまちわり(1585)豊臣秀次が天正十三年(1585)から開始した近江八幡城下町の造成。安土の商人を集住させ、八幡堀と琵琶湖を直結させて商業・流通を活性化し、水郷商都の基礎を築いた。
正親町天皇譲位おおぎまちてんのうじょうい(1586)天正十四年、正親町天皇は豊臣秀吉の支援で約120年ぶりに譲位。皇太子誠仁親王の急逝という危機を乗り越え、孫の後陽成天皇が即位。これは朝廷の権威回復と豊臣政権の正統性確立を象徴する。
大坂銀座設置おおさかぎんざせっち(1601)慶長6年、家康は大坂に銀座を設置。豊臣家経済力を削ぎ、全国の銀流通を掌握する戦略。鋳造せず、西日本の銀を集積・管理し京都へ送るハブ。戦国貨幣混乱を収束させ、幕府経済基盤を確立した。
大坂港改修おおさかこうかいしゅう(1594)文禄3年、秀吉は伏見城建設と並行し大坂港を改修。淀川水系整備と惣構普請で物流を革新し、大坂を「天下の台所」へ。政治拠点伏見と経済拠点大坂を水運で結び、豊臣政権の基盤を盤石にした。
大坂城石垣増築おおさかじょういしがきぞうちく(1594)1594年、秀吉は大坂城石垣を増築。秀頼の安全確保、諸大名への権威誇示、伏見との二都体制確立という三重戦略で、防備強化以上の政治的意図があった。
大坂城下川筋再編おおさかじょうかかわすじさいへん(1597)豊臣秀吉は1597年、大坂城下川筋を再編。これは惣構の防衛強化と舟運効率化を目的とした。大坂冬の陣で軍事的価値を発揮するも、豊臣家滅亡後は経済インフラとして「天下の台所」繁栄の礎となった。
大坂城下町整備おおさかじょうかまちせいび(1583)天正十一年、豊臣秀吉は賤ヶ岳の戦い後、大坂城築城と並行し城下町を整備。地政学的優位性を活かし、計画的な都市開発と商業振興で全国から商人誘致。大坂は「天下の台所」の基礎を築いた。
大坂城築城おおさかじょうちくじょう(1583)天正十一年、豊臣秀吉は石山本願寺跡地に大坂城を築城。後継者争いを制し、天下統一拠点として大坂を選んだ。天下普請で築かれた壮大な城は豊臣政権の象徴となり、大都市大阪の基礎を築いた。
大坂町奉行職設置おおさかまちぶぎょうしょくせっち(1615)1615年大坂夏の陣で豊臣家滅亡後、大坂は焦土と化す。徳川幕府は松平忠明による暫定統治を経て、1619年に大坂城代と町奉行を設置し、直轄地として再建・支配。
大津宿整備おおつしゅくせいび(1601)大津宿は、1601年に徳川家康が関ヶ原後の国家戦略として整備。琵琶湖水運と陸路の要衝を軍事拠点から宿場へ転換し、伝馬制度で情報・物流を掌握。東海道最大の宿場町として発展、徳川支配確立に貢献。
大津城築城おおつじょうちくじょう(1586)豊臣秀吉の命で浅野長政らが天正十四年(1586)に築城した大津城。坂本城に代わり琵琶湖水運の要衝に置かれ、大坂城を中心とする物流網と近江支配の重要拠点となった。
大津町割整備おおつまちわりせいび(1590)豊臣秀吉が天下統一直後の天正十八年(1590)に命じた大津の町割整備。京都防衛と物資輸送の要衝として再開発し、物流港湾都市・大津の経済的基礎を築いた。
大溝城築城おおみぞじょうちくじょう(1571)元亀2年、織田信長は琵琶湖掌握戦略の一環として、明智光秀に大溝城築城を命じた。湖西の要衝に位置し、水運を活用したこの水城は、信長の先進的な国家構想を体現。本能寺の変で信澄自害、城は廃城。
小谷城下再編おだにじょうかさいへん(1573)羽柴秀吉が天正元年(1573)に実施した小谷城城下の解体と長浜への完全移転。中世的山城と城下を廃し、水陸交通に優れた長浜に拠点を移した近世領国支配の先駆的事例。
御土居築造おどいちくぞう(1591)1591年、秀吉は京都に御土居を築造。軍事防衛、治水、都市計画、権威誇示を目的とし洛中洛外を区画。秀吉の絶対的権力と京都改造の集大成であり、近世都市の礎となった。
刀狩令かたながりれい(1588)天正十六年、豊臣秀吉は刀狩令を発布。これは武装解除に留まらず、兵農分離を推進し武士の特権を確立。中世の自力救済社会を終焉させ、近世の身分秩序と泰平の世の礎を築く。
亀山城かめやまじょう丹波たんば築城ちくじょう(1609)1609年、家康は天下普請で丹波亀山城を改築。西国大名の財力を削ぎ大坂を包囲する狙いで、城主は岡部長盛、設計は藤堂高虎。高虎は今治城天守を献上し、五層天守を築いた
関白任官かんぱくにんかん(1585)天正十三年、羽柴秀吉は朝廷の混乱を収め、近衛家との猶子縁組を経て関白に任官した。これは武家関白制を確立し、天下統一を加速させる画期的な出来事であった。
岸和田城改修きしわだじょうかいしゅう(1597)1597年、秀吉の叔父婿・小出秀政が岸和田城を近世城郭へ改修。大坂南方防衛と紀州への備えが目的で、五層天守で政権の威信を示した。関ヶ原・大坂の陣で役割を担った。
北野大茶湯きたのおおちゃのゆ(1587)天正十五年、豊臣秀吉は北野大茶湯を催す。九州平定を祝し、身分問わず参加を許し文化の民主化を図る。秀吉の権威を天下に誇示する政治的祝祭であったが、肥後国人一揆により一日で中止。
旧二条御所破却きゅうにじょうごしょはきゃく(1573)織田信長が足利義昭のために築いた旧二条御所は、両者の権力闘争の象徴。1573年、信長は義昭を追放し御所を破却、室町幕府は事実上滅亡し、信長の新時代が到来した。
京都御馬揃えきょうとおうまぞろえ(1581)天正9年、織田信長は京都で大規模な御馬揃えを挙行。信長の武力と朝廷の権威を融合、天下統一の新たな秩序を内外に宣言する政治的パフォーマンスであった。
京都学問所再興きょうとがくもんじょさいこう(1604)慶長9年、徳川家康は文治政治を推進し、京都で学問復興を主導。藤原惺窩、林羅山、角倉素庵、板倉勝重が連携し、近世日本の知的基盤となる「見えざる学問所」を再興。
京都御所再建開始きょうとごしょさいけんかいし(1596)慶長伏見地震後、豊臣秀吉は京都御所の再建に着手。これは単なる復旧ではなく、秀吉の権威回復と朝廷との新関係構築を目的とした政治的事業であり、近世公武関係の画期となった。
京都所司代設置きょうとしょしだいせっち(1595)文禄四年、豊臣秀吉は秀次事件後、京都所司代を再編強化。前田玄以に加え石田三成らを増員し、京都統治を絶対化。これは豊臣政権の権力深化と同時に、滅亡の遠因となった。
京都大火きょうとたいか(1596)文禄五年(1596)に京都を襲った巨大地震。指月伏見城や方広寺大仏殿などの巨大建築物を崩壊させ、朝鮮出兵などで動揺する豊臣政権に甚大な政治的打撃を与えた。
京都南蛮寺建立きょうとなんばんじこんりゅう(1576)天正4年、信長の庇護下、京都に南蛮寺が建立。和風三層構造の教会は、信仰と南蛮文化交流の中心地となった。しかし、天正15年、秀吉の伴天連追放令で破壊され、その栄華はわずか11年で幕を閉じた。
京都町奉行職設置きょうとまちぶぎょうしょくせっち(1603)1603年、京都町奉行職が設置。戦国乱世の遺産を乗り越え、天下泰平の礎を築く徳川政権の都市支配戦略の核心であり、板倉勝重が民政・司法・警察機能を本格執行した年である。
京都町割再整備きょうとまちわりさいせいび(1580)天正8年、織田信長は石山合戦終結後、京都の機能的再編に着手。二条新御所を建設し、楽市令を適用。物理的改造ではなく、政治・経済の中心を再定義し、後の秀吉の都市改造の礎を築いた。
京枡の統一きょうますのとういつ(1590)天正18年、豊臣秀吉は京枡を全国統一。太閤検地の基盤となり、石高制確立と兵農分離を推進。この政策は近世社会の秩序形成に不可欠な経済的天下布武であった。
京枡流通徹底きょうますりゅうつうてってい(1592)豊臣秀吉が文禄の役を契機に徹底させた度量衡統一事業。公認の京枡を基準として年貢や兵糧の計量を平準化し、太閤検地や石高制による全国支配の経済基盤となった。
きょう御土居補修おどいほしゅう(1592)文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮出兵という国家的危機に対応するため、京都の御土居を首都防衛と統治強化のための戦略的事業として補修した。これは豊臣政権の危機管理能力と中央集権化を示す。
きょう公家町地子免許くげまちじしめんきょ(1587)天正15年、秀吉は京都公家町に地子免許を発令。応仁の乱で荒廃した公家町の復興を促し、内裏周辺に集住させ朝廷を統制下に置く戦略。近世京都の都市構造の礎となり、現代の京都御苑の原型を形成した。
禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっと(1615)家康、禁中並公家諸法度を公布。戦国乱世を終え、朝廷の権威を尊重しつつも政治から分離。天皇を儀礼の君主とし、幕府が実権を握る新秩序を確立した。
草津宿整備くさつじゅくせいび(1601)草津宿は、1601年に徳川家康が整備した東海道と中山道の結節点。関ヶ原後の国家交通網の中核として、伝馬制度により人流・物流・情報流を掌握し、江戸時代の安定を支える重要な役割を担った。
鯨組形成くじらぐみけいせい(1606)慶長11年、太地浦に日本初の鯨組が誕生。戦国終焉の世、郷士・和田頼元が浪人・伊右衛門、漁師・伝次と連携し、軍事組織を模した捕鯨産業を確立。地域経済を潤し、後の技術革新の礎を築いた。
蔵入地拡張くらいりちかくちょう(1585)天正13年、豊臣秀吉は蔵入地を拡張。関白就任で権威を確立し、太閤検地で土地支配を深化。旧来の権威を体制内に取り込み、近世的な社会経済構造の基礎を築いた「静かなる革命」であった。
慶長金銀鋳造開始けいちょうきんぎんちゅうぞうかいし(1601)家康、慶長金銀鋳造を開始。戦国期の貨幣混乱を収拾し、金銀山を直轄。慶長小判・丁銀を鋳造し、三貨制度を確立。全国市場を形成し、徳川幕府の経済基盤と泰平の礎を築いた。
慶長伏見地震けいちょうふしみじしん(1596)文禄5年(1596年)、慶長伏見地震が発生し、秀吉の伏見城と方広寺大仏が壊滅。この天災は豊臣政権の威信を揺るがし、外交破綻や財政悪化を招き、徳川家康の台頭を許すなど、豊臣家滅亡の遠因となった。
検地騒動けんちそうどう(1591)天正19年、豊臣秀吉の太閤検地に対し紀伊国で騒動が発生。秀長の死が引き金となり、在地勢力の自立と中央の強権が衝突。武力鎮圧され、近世社会への転換を象徴。
高野街道整備こうやかいどうせいび(1600)慶長五年、関ヶ原の戦乱下、高野街道は西軍の軍事確保、高野山の防衛、徳川の新秩序構築という三様の「整備」を経験。この動乱が街道を軍事路から信仰・経済路へと変え、近世の礎を築いた。
高野山寺領安堵こうやさんじりょうあんど(1585)天正十三年、秀吉は紀州征伐を開始。根来寺を焼き、高野山に降伏を迫る。滅亡の危機に、僧・木食応其が交渉役に。彼は巧みな弁舌で寺領安堵を勝ち取り、聖山を救った。
郡山市場免許こおりやまいちばめんきょ(1592)文禄元年、豊臣秀長死後の郡山は、文禄の役で危機に直面。若き城主・秀保不在の中、「箱本十三町」が秀長が与えた特権を再保証され、戦時経済を支える兵站拠点として機能。豊臣政権の統治能力を示す。
小西行長処刑こにしゆきながしょけい(1600)1600年関ヶ原後、西軍小西行長は捕縛され、武士の常識に反し自害を拒否。信仰を貫き、三成、恵瓊と共に六条河原で処刑。徳川の秩序を示す政治的儀式。
五條新町成立ごじょうしんまちせいりつ(1590)1590年、豊臣秀長の治世で安定した五條。その土壌の上に1608年、新領主・松倉重政が近世的な商業都市『新町』を創設。諸役免許で商人を集め、南大和随一の商家町の礎を築いた。
五大老設置ごたいろうせっち(1595)文禄4年、豊臣秀吉は秀次事件後の政権安定のため五大老を設置。徳川家康を牽制し、幼い秀頼の後見体制を築くも、制度の矛盾と秀吉・利家の死により関ヶ原の戦いへと繋がる。
雑賀惣国一揆自治さいかそうこくいっきじち1550頃1550ごろ紀伊雑賀の地にて、領主を持たず合議で統治する「雑賀惣国一揆」が興る。鉄砲を巧みに操り、信長を苦しめるも、秀吉の水攻めに屈し自治は終焉。
堺会合衆解体さかいえごうしゅうかいたい(1585)1585年、豊臣秀吉の紀州征伐後、堺会合衆は自治を解体。環濠を埋め立てられ、石田三成らが代官に就任し、堺は天下人の直接支配下に。中世の自由都市は終焉を迎え、近世都市へと変貌した。
堺環濠補修さかいかんごうほしゅう(1585)豊臣秀吉は1586年、自治都市堺の環濠埋め立てを命じた。紀州征伐後の軍事的無力化と大坂への経済集中が目的。堺は自治を失い、大坂夏の陣で焼失。秀吉の天下統一戦略で、中世都市の終焉を告げた。
堺学問所設置さかいがくもんじょせっち(1603)慶長8年、堺に公式学問所はなかったが、豪商の茶室、禅寺、工房が独自の知的ネットワークを形成。徳川幕府成立後、堺は直轄地となり、今井宗薫が代官に。堺の知性は新たな秩序に適応し始めた。
堺自治停止さかいじちていし(1585)天正13年、豊臣秀吉は紀州征伐後に関白に就任し、堺の自治を停止。会合衆の統治権を剥奪し、環濠を埋め立てた。堺の経済的・文化的中心地としての地位は大坂へ移り、中世的自治都市は終焉を迎えた。
堺鉄炮鍛冶保護さかいてっぽうかじほご(1586)1586年、秀吉は堺鉄炮鍛冶を保護。これは単なる技術者保護ではなく、九州征伐に向けた軍需産業掌握と兵站システム構築のための国家戦略であった。
堺鉄砲商統制さかいてっぽうしょうとうせい(1590)天正18年、秀吉は小田原征伐に際し堺の鉄砲商を統制。石田三成を通じ生産・流通を掌握し、国家規模の兵站を確立。堺は自治を失い天下人の兵器廠へ変貌。近世的武器管理体制の原型となった。
堺納屋衆さかいなやしゅう会合衆調停えごうしゅうちょうてい(1560)1560年、三好長慶の覇権確立で堺会合衆は親三好派と自治派が対立。畠山高政流入で港湾混乱、三好氏介入で調停成立。堺は三好政権下で秩序を再編した。
堺南蛮寺建立さかいなんばんじこんりゅう(1576)織田信長の庇護と堺の豪商らの経済的支援を得て、天正四年(1576)に京都で建立されたキリスト教の教会堂。異文化交流とキリスト教布教の畿内における一大拠点となった。
堺の貿易統制強化さかいのぼうえきとうせいきょうか(1586~98)1590年代、豊臣秀吉は堺の貿易統制を強化。環濠埋め立て、千利休切腹、朱印状制度導入で自治を奪い、貿易を国家管理下に置いた。これは近世国家形成における経済支配の象徴である。
坂本城築城さかもとじょうちくじょう(1571)元亀二年、織田信長は比叡山焼き討ち後、明智光秀に坂本城を築かせた。琵琶湖を制する水城は、信長の天下布武戦略の要衝となり、旧権威破壊と新秩序創造を象徴する近世城郭の先駆けであった。
佐久間信盛追放さくまのぶもりついほう(1580)天正8年、織田信長は宿老・佐久間信盛を追放。石山合戦での「不作為」を理由に、旧来の忠誠より成果を重視する合理主義を徹底。この粛清は家臣団に恐怖を与え、本能寺の変の遠因となった。
篠山城築城ささやまじょうちくじょう(1609)1609年、徳川家康は天下普請で篠山城の築城を西国大名に命じた。豊臣家を封じ込め、大名の財力を削ぐ政治的意図があった。設計は築城の名手、藤堂高虎が担当した。
佐和山城改修さわやまじょうかいしゅう(1596)石田三成が文禄五年(1596)に実施した居城の改修。有事に備えて京都防衛や東国大名の牽制を担う軍事的・行政的要衝として、過分と称される壮麗な城郭を築き上げた。
三条河原処刑さんじょうがわらしょけい(1595)1595年、豊臣秀吉の命で甥の秀次の妻子ら39名が三条河原で処刑された。この事件は秀吉の権威を揺るがし、豊臣政権の道徳的権威を失墜させ、豊臣家滅亡の遠因となった。
四天王寺再建してんのうじさいけん(1601)慶長6年、家康は病気平癒を祈願し四天王寺に「千返楽」を奉納。これは豊臣家再建の四天王寺権威を家康が接収する政治的行為。戦国から近世への権力移行を象徴する出来事であった。
将軍義昭将軍宣下しょうぐんよしあきしょうぐんせんげ(1568)永禄十一年、足利義昭は織田信長に擁され将軍宣下。室町幕府再興を果たすも、信長との同床異夢は殿中御掟で亀裂を生み、信長包囲網へと発展。束の間の蜜月は次なる動乱の序曲となった。
将軍義稙再出奔しょうぐんよしたねさいしゅっぽん(1521)大永元年、将軍足利義稙は管領細川高国との対立から京都を出奔。天皇即位式を放棄し、高国に新将軍擁立の大義名分を与えた。堺・淡路での再起も叶わず、阿波で客死。室町幕府の権威失墜を象徴した。
将軍義稙復帰しょうぐんよしたねふっき(1508)永正五年、足利義稙は大内義興の軍事力を背景に将軍職へ復帰。細川高国を管領に据え、三頭政治を形成。しかし、その権力は有力大名に依存し、将軍権威の空洞化と戦国乱世の長期化を招いた。
将軍義輝近江退去しょうぐんよしてるおうみたいきょ(1547)天文十六年、将軍足利義輝は父義晴と共に京都を追われ近江へ退去。細川晴元との対立と六角定頼の裏切りが原因。舎利寺の戦いで三好長慶が台頭し、将軍家の権威は失墜。戦国下剋上の象徴となった。
将軍義晴一時帰京しょうぐんよしはるいちじききょう(1530)享禄三年、細川高国と足利義晴は京都奪還を目指し摂津へ侵攻。義晴は坂本へ動座し東西から圧力をかけたが、翌年の大物崩れで高国が敗死。義晴の帰京は果たせず、畿内は新たな権力闘争へ。
将軍義晴近江遷座しょうぐんよしはるおうみせんざ(1527)大永七年、桂川原の戦いで細川高国・足利義晴連合軍は敗北。義晴は近江へ遷座し、京都幕府は機能停止。畿内には義晴の「江州幕府」と義維の「堺公方府」が並立し、戦国乱世の権力構造を象徴した。
新宮城改修しんぐうじょうかいしゅう(1600)慶長五年、関ヶ原で西軍に与した堀内氏善は改易され、新宮は浅野氏の支配に。浅野忠吉は丹鶴山に新宮城を築城し、熊野の統治を刷新。これは中世的支配の終焉と近世国家の確立を象徴する。
聚楽第行幸じゅらくだいぎょうこう(1588)天正十六年、豊臣秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎え、天下統一の祝祭を催す。大名統制を強化し豊臣政権の正当性を確立したが、秀次事件で聚楽第は破却され、栄華は短命に終わった。
聚楽第御所返上じゅらくだいごしょへんじょう(1591)豊臣秀吉が天正十九年(1591)に、関白職と政庁である聚楽第を甥で後継者の豊臣秀次に譲渡した事変。豊臣政権における関白職の世襲と権力継承を内外に示した。
聚楽第造営じゅらくだいぞうえい(1587)天正十五年、豊臣秀吉は京都内野に聚楽第を造営。政庁、居館、城郭を兼ね、天下普請で築く。後陽成天皇行幸で大名統制を強化したが、秀次事件で破却され、栄華は短命に終わった。
聚楽第破却じゅらくだいはきゃく(1595)文禄4年(1595年)、秀吉は甥の関白秀次を粛清し、権威の象徴たる聚楽第を破却。秀頼への権力集中を図る冷徹な決断は、豊臣政権の不安定化を招き、後の滅亡の遠因となった。
城下で御用金徴収じょうかでごようきんちょうしゅう(1590~98)秀吉は1590年代、朝鮮出兵と伏見城築城の費用を賄うため、大坂豪商から御用金を徴収。財政逼迫と蓄積された貨幣資本を国家事業に動員する画期的な試みであった。
住吉大社社領安堵すみよしたいしゃしゃりょうあんど(1600)徳川家康が関ヶ原の戦い直前の慶長五年(1600)に住吉大社へ行った社領安堵。宗教保護を掲げつつ大坂の海上交通要衝を掌握し、豊臣秀頼を牽制するための政治的戦略。
洲本城改修すもとじょうかいしゅう(1585)1585年、秀吉は四国平定後、大坂防衛の要として洲本城を脇坂安治に与えた。安治は登り石垣などを導入し城を近世城郭へ改修、水軍の拠点として城と町を一体で整備した。
関所撤廃令せきしょてっぱいれい(1568)永禄十一年、信長は義昭を奉じ上洛。六角氏を駆逐し京を掌握後、経済活性化と軍事力強化、旧勢力解体のため関所撤廃令を発布。これは天下布武への重要な一歩となった。
千利休切腹せんのりきゅうせっぷく(1591)天正十九年、豊臣秀吉の命により千利休が切腹。表向きは木像問題や茶器売買だが、権力闘争や美意識の衝突が背景に。利休の死は豊臣政権の性格と近世文化の萌芽を象徴する画期であった。
惣無事令そうぶじれい(1585)天正十三年、豊臣秀吉は惣無事令を発令。大名間の私戦を禁じ、豊臣政権の裁定に委ねさせた。九州平定や小田原征伐で天下統一を推進し、近世国家の基礎を築いた。
太閤検地開始たいこうけんちかいし(1582)天正十年、豊臣秀吉は山城国で太閤検地を開始。本能寺の変後の混乱期に権力掌握と経済基盤確立を図る。石高制や一地一作人の原則へと発展し、荘園制を終焉させ、近世社会の礎を築いた。
太閤検地完了たいこうけんちかんりょう(1598)慶長三年、太閤検地が完了。秀吉の死により中断するも、16年かけ全国の土地と人民を公儀に直結。石高制を確立し、中世的土地所有を解体。近世社会の礎を築き、江戸幕府に継承された。
太閤堤築造たいこうづつみちくぞう(1594)1594年、秀吉は伏見遷都計画で太閤堤を築造。宇治川流路変更と伏見港開港で治水・水運・陸運を整備し新首都とした。権力誇示と経済掌握の戦略だった。
高瀬川開削たかせがわかいさく(1611)慶長16年、角倉了以は徳川家康の命で高瀬川を開削。京都の物流を革新し、大坂と京都を結ぶ経済動脈を築いた。大坂の陣では兵站を支え、江戸時代の経済基盤を確立。
高槻城下町整備たかつきじょうかまちせいび(1586)天正14年、豊臣秀吉は高槻城下町を整備。高山右近転封後の空白を機に、職人町・寺町を配置し、大坂城の兵站・防衛拠点として再編。キリシタン色を払拭し、豊臣政権の畿内支配を強化した。
高取城改修たかとりじょうかいしゅう(1585)天正十三年、豊臣秀長は大和支配の要衝として高取城の大改修を決定。難攻不落の山城は、秀吉政権の権威と戦略を天下に示す象徴となり、その後の歴史に名を刻んだ。
高山右近改宗たかやまうこんかいしゅう(1564)永禄七年、高山右近はキリスト教に改宗しジュストと名乗る。父友照も受洗。三好政権動乱期、信仰と生存戦略が交錯。キリシタン大名としての波乱の生涯の原点となる。
多聞山城御殿整備たもんやまじょうごてんせいび(1565)永禄八年、松永久秀は多聞山城に壮麗な御殿を完成させ権勢を誇示した。しかし、将軍暗殺や大仏殿炎上の動乱を経て、城は信長に明け渡され破却。その部材は新たな城の礎として転用された。
太政大臣任官だいじょうだいじんにんかん(1586)天正14年(1586年)、秀吉は太政大臣に任官し「豊臣」姓を賜った。関白就任に続く公家最高位への昇進で、武力に加え朝廷権威も掌握。天下統一事業を加速させる戦略的な一手であった。
大徳寺聚光院創建だいとくじじゅこういんそうけん(1566)永禄9年、三好長慶の死後、三好三人衆は権力掌握のため大徳寺に聚光院を創建。禅僧・笑嶺宗訢を開山に、千利休が深く関与し、若き狩野永徳が国宝「花鳥図」を描いた。戦乱期の文化事業、桃山文化の黎明。
大名知行宛行状統一だいみょうちぎょうあてがいじょうとういつ(1595)豊臣秀吉が文禄四年(1595)に実施した知行宛行状の形式統一。大名の領国支配の正統性を秀吉の文書に一元化し、全国の知行給付と統治システムを標準化した。
町人請負の大工事拡大ちょうにんうけおいのだいこうじかくだい(1592~98)秀吉、伏見に新都を建設。天下普請と町人の資本・技術を融合し、宇治川改修や伏見港整備を推進。震災を乗り越え、近世城下町の原型と公民連携の萌芽を築いた。
町人請負普請拡大ちょうにんうけおいふしんかくだい(1595)文禄四年(1595)に大坂の都市普請で拡大した請負制度。従来の強制的な夫役から大坂町人が主体となる近世的な契約請負工事へと移行し、都市建設と経済の近代化を促した。
土山宿整備つちやまじゅくせいび(1601)関ヶ原後の徳川家康による土山宿整備は、戦国から江戸への転換点を示す「静かなる戦」。鈴鹿峠の無法地帯を秩序化し、甲賀武士の自律から幕府支配への移行を象徴。
鶴松死去つるまつしきょ(1591)豊臣秀吉の嫡男鶴松は天正19年(1591年)に3歳で病死。秀吉は悲嘆に暮れ、その死は豊臣政権の後継者問題や朝鮮出兵に影響を与え、豊臣家滅亡の遠因となった。
寺町通形成てらまちどおりけいせい(1591)天正十九年、太閤秀吉は京都改造の総仕上げとして寺町通を創出。洛中に散る寺院を強制移転させ、都市防衛と支配強化の礎とした。これは戦国の世の終焉を告げる事業であった。
天文地震てんぶんじしん(1542)天文十一年、戦国日本を複合災害が襲う。京都で激震、東海に津波、甲斐に大洪水。若き武田信玄はこれを機に信玄堤を築き、領国を強化。乱世の災害が新たな統治を生んだ。
天文の大飢饉てんぶんのだいききん(1540)天文の大飢饉(1540年)は小氷期と戦乱が重なり発生。異常気象で飢餓と疫病が蔓延し社会崩壊。武田信虎追放など大名の統治能力が問われ、後の天下統一に影響を与えた。戦国乱世を解き明かす鍵。
天文法華の乱てんぶんほっけのらん(1536)天文五年、京都で法華宗と比叡山延暦寺が対立。延暦寺は連合軍を率いて法華宗徒を襲撃し、京都は焦土と化し法華宗は壊滅。この乱は、宗教勢力武装化の限界と、信長による比叡山焼き討ちの遠因となった。
東大寺大仏殿炎上とうだいじだいぶつでんえんじょう(1567)永禄十年、畿内の戦乱で東大寺大仏殿が炎上。松永久秀と三好三人衆の戦場となり、偶発的な失火が原因とされる。この悲劇は戦国時代の本質を象徴し、大仏殿の復興は長きにわたり放置。
鞆幕府樹立ともばくふじゅりつ(1573)足利義昭が信長に追放された後、毛利氏の庇護を得て天正四年(1576)に鞆の浦で樹立した亡命政権。室町幕府の存続を主張し、反信長連合の政治的司令塔として機能した。
豊臣姓下賜とよとみせいかし(1586)天正十四年、羽柴秀吉は関白任官後、正親町天皇より「豊臣」の氏を賜る。既存氏族を超克し、武家と公家を統合する「豊臣公儀」を確立、天下統一を盤石にする画期であった。
豊臣政権五奉行制確立とよとみせいけんごぶぎょうせいかくりつ(1595)1595年、豊臣政権は秀次粛清後、五奉行制を確立。五大老との二重構造で秀頼体制を支えるも、秀吉死後に対立を生み、関ヶ原の戦いへと繋がり豊臣家滅亡の遠因となった。
豊臣秀次関白就任とよとみひでつぐかんぱくしゅうにん(1592)豊臣秀次は文禄元年(1592年)、秀吉の養子として関白に就任。鶴松の夭逝と秀長の死により後継者となったが、秀頼誕生後は秀吉の猜疑心を受け、悲劇的な最期を遂げた。
豊臣秀吉死去とよとみひでよししきょ(1598)1598年、豊臣秀吉死去。幼い秀頼への継承のため五大老・五奉行制度を構築したが、朝鮮出兵と秀吉の死が豊臣政権崩壊を招き、徳川家康の台頭を許し関ヶ原へ繋がった。
豊臣秀頼誕生とよとみひでよりたんじょう(1593)豊臣秀頼は1593年大坂城で誕生。秀吉は狂喜し、関白秀次を冷遇・粛清。秀頼の誕生は豊臣政権の後継者問題を複雑化させ、淀殿の権力増大と共に滅亡への序曲となった。
富田林寺内町成立とんだばやしじないまちせいりつ(1578)1578年、織田信長の軍勢が畿内に迫る中、富田林は恭順を選択。武装解除の道を選び、信長から町の存続を許された。この政治判断が、後の繁栄の礎を築いたのである。
長浜改名ながはまかいめい(1573)天正元年、秀吉は浅井氏滅亡後の北近江を統治。小谷城を廃し今浜に新城を築き、信長から「長」字を拝領し「長浜」と改名。革新的な政策で繁栄させ、天下統一の礎とした。
長浜楽市令ながはまらくいちれい(1573)天正元年、秀吉は長浜に楽市令を発布。座の特権を廃止し、税免除と営業の自由で商人誘致。長浜は急速に発展し、秀吉の経済基盤を確立。この「長浜モデル」は秀吉の都市経営の原点となった。
長束正家自害なつかまさいえじがい(1600)長束正家は豊臣政権の能吏として活躍したが、関ヶ原で西軍につき敗北。水口岡山城で降伏するも裏切られ自害。彼の死は豊臣政権の終焉と徳川の時代の始まりを象徴する。
鍋島蔵屋敷設置なべしまくらやしきせっち(1604)鍋島氏が慶長九年(1604)に大坂へ設置した蔵屋敷。関ヶ原の戦い後に恭順と生き残りを目指し、特産品の流通を管理して藩財政の経済基盤を確立した戦略的拠点。
奈良町再整備ならまちさいせいび(1591)天正十九年、豊臣秀吉は奈良町を再整備。これは興福寺の宗教支配を解体し、郡山への経済移転と検地で中央集権化を図る政策。中世都市奈良は近世都市へと変貌し、新たな時代を迎えた。
南都復興支援なんとふっこうしえん(1585)豊臣秀長は1585年、大和国を拝領し南都復興を支援。寺社勢力の武装解除や経済基盤解体を通じ、中世的支配構造を解体し近世的武家支配を確立する戦略。京都新大仏造立と対比される。
二条御所新造にじょうごしょしんぞう(1569)永禄十二年、織田信長は足利義昭のため京都に二条御所を新造。本圀寺の変を受け、短期間で本格的な城郭様式で築く。信長の権威と合理性を示すも、義昭との対立で戦場と化し、最終的に破却。
二条城会見にじょうじょうかいけん(1611)大御所徳川家康と豊臣秀頼が京都の二条城で行った歴史的会見。徳川幕府の基礎が固まる中、依然として独自の権威を保持する豊臣家との力学と覇権の行方を決した。
二条城下武家地設定にじょうじょうかぶけちせってい(1603)慶長八年、徳川家康は二条城と武家地を築き、京都支配の楔を打つ。これは朝廷を監視し、町衆の自治を解体する深謀。戦国の終焉と新たな天下泰平を空間に刻んだのである。
二条城行幸にじょうじょうぎょうこう(1603)徳川家康が将軍就任に際して二条城で執り行った将軍拝賀の儀。朝廷との関係を規定しつつ諸大名へ徳川の絶対的な権力を示し、幕藩体制の正統性と支配秩序を確立した。
二条城築城にじょうじょうちくじょう(1603)1603年、徳川家康は京都に二条城を築城。関ヶ原後の豊臣家への牽制と朝廷掌握のため、天下普請で諸大名に労役を課し、将軍宣下の舞台とした。この城は徳川公儀の誕生を天下に宣言した。
根来寺再建途上ねごろじさいけんとじょう(1586)天正十三年、秀吉に焼かれた根来寺。翌年、再建は進まず、寺は解体の途上にあった。しかし、離散した根来衆は家康に仕え、僧玄宥は法灯を継承すべく奔走。再生への道は水面下で始まっていた。
年貢皆済状の統一ねんぐかいさいじょうのとういつ(1596)慶長元年、豊臣秀吉は山城国で「年貢皆済状の統一」を断行。朝鮮出兵と慶長伏見地震の国難の中、徴税の透明化と効率化を図り、豊臣政権の財政基盤を強化。近世的統治システムの礎を築く。
八幡堀整備はちまんぼりせいび(1597)豊臣秀次が築いた八幡堀は、城の防御と琵琶湖の物流を結ぶ運河を兼ね備える。掟書で商船の寄港を義務付け富を独占。秀次の死後、城が失われても堀は経済基盤として自立し、近江商人の町の礎となった。
比叡山焼討ひえいざんやきうち(1571)元亀二年、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ち。浅井・朝倉連合軍を匿い敵対した延暦寺を、旧権威破壊と武力統一の象徴として殲滅。この事件は信長の「第六天魔王」イメージを決定づけた。
彦根城完成ひこねじょうかんせい(1607)慶長12年、徳川家康は天下統一のため彦根城を完成。井伊直政の遺志を継ぎ、佐和山城資材を転用。対豊臣の最前線基地として築城し、徳川の武威と井伊家の基盤を確立。
彦根山城普請開始ひこねやまじょうふしんかいし(1604)慶長9年、徳川家康は天下統一のため彦根山城を築城。井伊直政を配し、佐和山城資材を転用。対大坂を睨んだ軍事拠点として、徳川の武威と井伊家の基盤を確立する国家事業。
秀忠将軍宣下ひでただしょうぐんせんげ(1605)慶長十年、徳川家康は三男秀忠に将軍職を譲位。豊臣秀頼が健在の中、徳川家による将軍職世襲を天下に宣言。16万の大軍を率いた上洛は豊臣家への示威となり、徳川の永続的な支配体制を確立した。
秀次事件ひでつぐじけん(1595)文禄4年(1595年)、秀吉は甥の関白秀次を謀反嫌疑で高野山へ追放、切腹させた。妻子39名も三条河原で処刑。この事件は豊臣政権を弱体化させ、徳川家康の台頭を許す結果となった。
秀長大和移封ひでながやまといほう(1585)天正13年、豊臣秀吉は弟・秀長を大和に移封。畿内統治体制確立の戦略として、秀長は郡山城を拠点に旧勢力を解体、検地や刀狩りを推進。経済の中心を奈良から郡山へ移し、豊臣政権の安定に貢献した。
姫路城大改修ひめじじょうだいかいしゅう(1601)1601年、徳川家康の命により池田輝政が姫路城を大改修。関ヶ原後の西国監視拠点として、壮麗な連立式天守と巧妙な防御機構を持つ「白鷺城」が誕生。戦火を免れ、現代にその威容を伝える。
姫路寺町形成ひめじてらまちけいせい(1601)慶長六年、池田輝政は姫路城大改築と並行し、戦略的要衝に寺町を形成。これは軍事防衛、防火、宗教統制、都市計画を兼ね、徳川政権下の姫路を西国支配の拠点とする壮大な構想であった。
兵庫津改修ひょうごのつかいしゅう(1602)慶長七年、池田輝政は慶長伏見地震と関ヶ原後の兵庫津を大改修。中世港を近世物流拠点へと再生させ、徳川幕府の全国流通網と経済戦略の要衝とした。これは戦国から近世への転換を象徴する。
琵琶湖水運座廃止びわこすいうんざはいし(1587)天正15年、豊臣秀吉は琵琶湖水運座を廃止。中世的権益を解体し、大津百艘船を組織。船奉行による一元管理で、大坂中心の物流を確立。中央集権化政策の一環として、近世国家形成を促進した。
福知山城改修ふくちやまじょうかいしゅう(1580)1580年、丹波を平定した明智光秀は福知山城を近世城郭へ大改修。転用石の石垣や治水事業、地子銭免除など善政で知られ、領国経営の拠点とした。
伏見居住開始ふしみきょじゅうかいし(1594)文禄3年(1594年)、秀吉は伏見城での居住を開始。秀頼誕生後の新政治中枢として築城・都市開発を進めた。秀次事件を経て権力集中を図るも、慶長伏見地震で被災。再建されるも後の徳川政権拠点となった。
伏見舟運統制ふしみしゅううんとうせい(1605)慶長10年、徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、伏見舟運を統制。過書座を設置し、角倉了以に保津川開削を命じ、淀川水系を掌握。豊臣家の経済基盤を弱体化させ、大坂の陣への布石とした。
伏見城下運河整備ふしみじょうかうんがせいび(1594)文禄3年、秀吉は伏見を新首都と定め、運河整備に着手。巨椋池と宇治川の流路を変え「太閤堤」を築造し、伏見港と大坂を結ぶ水運を確立。現代の京都南部にも影響を残す壮大な国土改造であった。
伏見城再建ふしみじょうさいけん(1597)文禄5年、慶長伏見地震で指月伏見城が壊滅。秀吉は権威回復のため木幡山に新城建設を命じ、天下普請で突貫工事。わずか1年で壮麗な伏見城を再建したが、秀吉死後、城は徳川に継承され廃城。
伏見城指月造成ふしみじょうしげつぞうせい(1592)文禄元年、太閤秀吉は伏見指月に隠居屋敷の造成を命ず。だが朝鮮出兵と並行し天下普請へと発展。水陸の要衝に新都を築き、権勢を天下に示す壮大な計画であったのだ。
伏見城築城ふしみじょうちくじょう(1592)文禄元年(1592年)、秀吉は伏見城築城を開始。当初は隠居屋敷構想だったが、秀頼誕生後は本格的な城郭へ変更。聚楽第部材移築等で秀頼への権力継承を盤石にする新政治中枢として機能した。
伏見町奉行所設置ふしみまちぶぎょうしょせっち(1594)文禄3年、豊臣秀吉は伏見を事実上の首都とする国家プロジェクトを始動。伏見城築城、宇治川治水、城下町整備を推進し、政権中枢の奉行衆が都市統治を担った。秀吉の個人的意志と国家戦略が融合。
武家諸法度ぶけしょはっと(1615)家康、大坂夏の陣後、武家諸法度を公布。戦国武士の価値観を否定し、法と秩序による新時代を強制。大名統制を強化し、福島正則改易で法の牙を示す。元和偃武を宣言し、徳川泰平の礎を築いた。
方広寺再建企図ほうこうじさいけんきと(1597)豊臣秀吉は慶長伏見地震で大破した方広寺大仏の再建をせず、慶長の役を優先。耳塚を築造し武力支配を誇示。晩年、善光寺如来を遷座させるも祟りを恐れ返還。秀吉死後、豊臣家は家康の策略で滅亡へ。
方広寺鐘銘寄進ほうこうじしょうめいきしん(1602)慶長7年、豊臣秀頼が再建中の方広寺大仏殿が火災で焼失。豊臣家の威信回復を阻み、徳川家康が豊臣家を経済的に疲弊させる口実となった。鐘銘事件を経て、大坂の陣の遠因となる。
方広寺鐘銘事件ほうこうじしょうめいじけん(1614)慶長19年(1614年)、家康は豊臣家再建の方広寺鐘銘「国家安康」等を問題視。呪詛と断じ大坂の陣開戦理由とした。豊臣家の失策と家康の謀略が絡み、豊臣家滅亡の直接的な引き金となった。
方広寺大仏開眼ほうこうじだいぶつかいがん(1589)天正17年(1589年)、秀吉は方広寺大仏造立を開始。権威誇示と刀狩令口実を兼ねた国家事業だったが、慶長伏見地震で損壊。秀吉死後も再建難航し、最終的に豊臣家滅亡の引き金となった。
方広寺大仏地震被害ほうこうじだいぶつじしんひがい(1596)豊臣秀吉が建立した方広寺大仏は、慶長伏見地震で大破。秀吉の権威を揺るがし、伏見城も壊滅。秀吉は怒り、大仏を解体。善光寺如来を遷座させるも祟りを恐れ返還。この地震は豊臣家滅亡の遠因となる。
方役免除朱印状ほうやくめんじょしゅいんじょう(1588)天正十六年、太閤秀吉は京都の地子銭を永代免除す。これは刀狩りと対をなす深謀。商都の活力を呼び覚まし、その富で天下を掌握。中世を終わらせ近世を拓く一策であった。
細川ガラシャ自害ほそかわがらしゃじがい(1600)慶長5年、細川ガラシャは石田三成の人質作戦に対し、信仰と武家の誇りを貫き自害。この死は三成の戦略を破綻させ、東軍の結束を固め、関ヶ原の戦局に決定的な影響を与えた。
細川忠興丹後移封ほそかわただおきたんごいほう(1600)1600年、細川忠興は関ヶ原で東軍として武功を挙げ、丹後から豊前へ大加増転封。妻ガラシャの死と父幽斎の田辺城籠城が背景。細川家は徳川政権下で九州の重鎮となり、近世大名としての地位を確立した。
堀川開削ほりかわかいさく(1608)慶長13年、角倉了以は丹波と京都を結ぶ大堰川を開削。これは戦国から江戸への物流革命を牽引し、京都経済を活性化させた。後に高瀬川も開削し、グローバルな富と技術を国内インフラに再投資した。
本能寺の変ほんのうじのへん(1582)織田信長の重臣・明智光秀が天正十年(1582)に謀反を起こし、信長を本能寺で自害させた事件。信長の死で織田政権が瓦解し、豊臣秀吉が台頭する歴史的転換点となった。
前田家加賀百万石確立まえだけかがひゃくまんごくかくりつ(1599)前田利家没後に徳川家康が画策した前田征伐の危機を、前田利長が母・芳春院を江戸へ人質に送ることで回避した事変。加賀百万石としての前田家存続と確立の契機となった。
前田利家死去まえだとしいえしきょ(1599)1599年、秀吉死後、前田利家が死去。豊臣政権の重石だったが、その死で家康が台頭。三成襲撃、前田家屈服を経て、関ヶ原の戦いへの道が開かれた。
前田利長加賀領確定まえだとしながかがりょうかくてい(1600)前田利長が関ヶ原の戦いの功績と弟の旧領吸収により、計百二十万石余りの所領を確定させた事変。徳川幕藩体制における外様筆頭である加賀藩百万石の基礎を確立した。
増田長盛改易ましたながもりかいえき(1600)1600年、豊臣五奉行の増田長盛は関ヶ原で西軍に与するも家康に内通。戦後、大和郡山20万石を改易され高野山へ追放。大坂の陣では豊臣家への忠義を貫き自害した。
町木戸常設化まちきどじょうせつか(1587)天正十五年、太閤秀吉は京の町木戸を常設化す。これは町衆の自治に終止符を打ち、住民を監視下に置く深謀。自衛の木戸は支配の枷となり、近世の夜の静寂が始まったのだ。
松永久秀自爆まつながひさひでじばく(1577)1577年、松永久秀は信長包囲網に呼応し信貴山城で反乱。謙信南進頓挫で孤立し、織田信忠軍に攻められ自害。名物茶器「平蜘蛛」を破壊したとされるが、「爆死」は後世の創作伝説。
三木城廃城みきじょうはいじょう(1600)三木城は1600年に廃城ではなく、池田輝政により姫路藩の重要支城として再編。真の廃城は1615年の一国一城令による。軍事拠点としての役割を終え、三木金物産業の発展へと転換した。
水口宿整備みなくちじゅくせいび(1601)水口宿は、1601年に徳川家康が甲賀地域の独立性を解体し、東海道の要衝として整備。関ヶ原後の国家統治戦略の一環で、軍事拠点から経済・交通の中心への転換を象徴し、幕府の支配を確立した。
三好長慶死去みよしながよししきょ(1564)永禄七年、三好長慶は肉親の死と心身衰弱により病死。その死は秘匿されたが、カリスマ喪失は松永久秀と三好三人衆の権力闘争を激化させ、永禄の変による将軍義輝殺害と三好政権の崩壊を招いた。
三好長慶の入京みよしながよしのにゅうきょう(1549)戦国時代、畿内に覇を唱えた最初の天下人。江口の戦いで細川晴元らを破り、将軍を凌ぐ実力で入京し三好政権を樹立した。信長に先んじて中央権力を掌握した稀代の傑物。
室町幕府滅亡むろまちばくふめつぼう(1573)織田信長が元亀四年(1573)に将軍・足利義昭を京都から追放した事件。約二百四十年続いた室町幕府が事実上滅亡し、信長の覇権確立と新秩序への移行を決定づけた。
明応の政変めいおうのせいへん(1493)明応二年、細川政元は将軍・足利義稙を追放し義澄を擁立。このクーデターは将軍の権威を決定的に失墜させ、有力大名が将軍を廃立する時代を到来。下剋上が本格化し、戦国時代の真の始点となった。
山科本願寺焼討やましなほんがんじやきうち(1532)天文元年、山科本願寺は細川晴元ら連合軍に焼討ちされた。巨大な要塞都市は灰燼に帰したが、この悲劇は石山本願寺の武装化を促し、畿内の勢力図を大きく塗り替える契機となった。
山城国一揆やましろのくにいっき(1485)文明17年(1485年)、山城国で国人・農民らが蜂起し畠山両軍を追放。8年間「惣国」として自治を確立したが、内部対立と明応の政変で崩壊。民衆が自ら秩序を築いた画期的な事件であった。
大和郡山城改修やまとこおりやまじょうかいしゅう(1580)天正八年、信長の命で筒井順慶は大和郡山城の改修に着手。旧来の城を破却し、権力を集約した。後に豊臣秀長が城主となると、百万石にふさわしい大城郭へ拡張され、城都として繁栄した。
淀城築城よどじょうちくじょう(1594)1594年の淀城築城は、実は秀吉による淀古城の「廃城」である。秀頼誕生と伏見城築城を背景に、資材転用と権力集中のため、鶴松の記憶が残る城は解体された。
淀殿側室入りよどどのそくしついり(1588)1588年、茶々(淀殿)が秀吉の側室に。後継者不在に悩む秀吉は織田・浅井の血を求めた。懐妊・出産で淀殿の地位確立、豊臣家内に権力二極化を生み、滅亡の遠因となった。
六角氏式目制定ろっかくししきもくせいてい1558頃1558ごろ六角氏は観音寺騒動後、家臣団主導で「六角氏式目」を制定。大名権力制限と家臣団権益保護を目的とした異例の分国法で、六角氏の権力構造を象徴。
和歌山城築城わかやまじょうちくじょう(1585)豊臣秀吉の命で羽柴秀長らが天正十三年(1585)に開始した和歌山城の築城。一揆衆が割拠した紀伊国の独立体制を終わらせ、豊臣政権の支配秩序を確立する象徴となった。
キリシタン改易相次ぐキリシタンかいえきあいつぐ(1614)慶長19年、徳川幕府は岡本大八事件を機にキリシタン弾圧を強化。高山右近らを国外追放し、キリスト教を反乱分子と断定。鎖国体制確立、潜伏キリシタンの時代へ。
ヴァリニャーノ巡察再来日ヴァリニャーノじゅんさつさいらいにち(1581)ヴァリニャーノは1581年の再来日で信長と関係を築き、適応主義を徹底。日本人聖職者育成、教育機関整備、天正遣欧少年使節構想、活版印刷導入を推進、日本布教基盤確立。