大野城の戦い(1575)
天正三年、信長は長篠の戦い後、越前一向一揆を討伐。金森長近らが大野郡を平定し、杉浦玄任を撃破した。越前一揆は壊滅し、翌年、金森長近は越前大野城を築城した。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正三年 越前大野郡平定戦の全貌:織田信長の電撃戦と「天空の城」前史
序章: 「大野城の戦い」の真実 ― 歴史的誤解の解明
天正3年(1575年)に越前国で繰り広げられた「大野城の戦い」は、織田信長の天下統一事業において、越前一向一揆勢力を根絶やしにした重要な戦役の一部として知られている。しかし、この戦いの名称は、後世に生まれた一つの大きな歴史的誤解を内包している。今日、「天空の城」として名高い越前大野城は、大野盆地の中央に位置する亀山に築かれた近世城郭であるが、この戦いが勃発した天正3年の時点では、まだ存在していなかった 1 。
著名な越前大野城の築城が開始されるのは、この戦役が終結した翌年の天正4年(1576年)のことである。信長より大野郡の支配を任された金森長近が、新たな統治拠点として築いたのがこの城であった。したがって、天正3年の戦いは、この近世城郭「越前大野城」をめぐる攻防戦ではなく、より正確には**越前国大野郡に割拠した一向一揆勢力の拠点を掃討する「平定戦」**と定義するのが妥当である。
この平定戦における一揆方の中心拠点は、大野郡司に任じられていた杉浦玄任が本拠とした戌山城(いぬやまじょう)、あるいは亥山城(いやまじょう)、土橋城とも呼ばれる中世の山城であった 6 。加えて、郡内に点在していた一揆門徒の砦や防衛拠点も、織田軍の攻撃対象となった。
本報告書は、この「大野郡平定戦」という歴史的実像に焦点を当て、その背景にある越前の混乱、織田信長による周到な戦略、そして合戦のリアルタイムな状況を、現存する史料を基に包括的かつ時系列に沿って解き明かすことを目的とする。この戦いは、単なる一地方の戦闘に留まらず、織田政権の支配体制確立の試金石であり、後の北陸方面軍の編成、そして名城・越前大野城誕生の直接的な前史となる、極めて重要な出来事であった。まず、この激動の年の出来事を概観するため、以下の年表を提示する。
表1:天正3年 越前侵攻 主要関連年表
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年月日 |
出来事 |
主要人物 |
場所 |
典拠資料 |
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天正3年5月21日 |
長篠の戦い。織田・徳川連合軍が武田軍に大勝し、東方の脅威を減じる。 |
織田信長、徳川家康、武田勝頼 |
三河国設楽原 |
8 |
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天正3年8月12日 |
信長、3万余の大軍を率いて越前一向一揆討伐のため岐阜を出陣。 |
織田信長 |
岐阜 |
10 |
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天正3年8月14日 |
信長本隊、敦賀に着陣。 |
織田信長、武藤舜秀 |
越前国敦賀 |
10 |
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天正3年8月15日 |
織田軍、木ノ芽峠・杉津口の二方面から総攻撃を開始。 |
羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益 |
越前国木ノ芽峠、杉津口 |
12 |
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天正3年8月15日夜 |
羽柴・明智軍が府中の竜門寺砦を夜襲し、一揆勢約2,000を討ち取る。 |
羽柴秀吉、明智光秀 |
越前国府中 |
13 |
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(8月中旬) |
金森・原の別動隊、美濃国から山間ルートを越え、大野郡へ侵攻開始。 |
金森長近、原長頼 |
美濃・越前国境 |
14 |
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天正3年8月16日 |
信長本隊、木ノ芽峠を越え、府中へ進駐。徹底的な掃討を開始。 |
織田信長 |
越前国府中 |
14 |
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天正3年8月18日 |
柴田勝家らが鳥羽城を攻略。大野郡でも金森・原軍が一揆勢を撃破。 |
柴田勝家、金森長近、杉浦玄任 |
越前国鳥羽、大野郡 |
6 |
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天正3年8月23日 |
信長、羽柴秀吉らに加賀の一部(能美・江沼郡)への侵攻を命令。 |
織田信長、羽柴秀吉 |
越前国 |
10 |
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天正3年9月2日 |
信長、北ノ庄にて越前の「国割」を発表。柴田勝家を越前八郡の支配者とする。 |
織田信長、柴田勝家、金森長近、原長頼 |
越前国北ノ庄 |
14 |
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天正4年(1576年) |
金森長近、大野郡の新たな拠点として亀山に越前大野城の築城を開始。 |
金森長近 |
越前国大野 |
1 |
第一部: 混沌の越前 ― 一向一揆支配の実態
第一章: 朝倉氏滅亡と権力の真空地帯
天正3年(1575年)の越前大虐殺に至る道筋は、その2年前に遡る。天正元年(1573年)8月、織田信長は怒涛の勢いで越前に侵攻し、一乗谷を本拠とする名門・朝倉義景を滅ぼした 19 。これにより、応仁の乱以来、約100年にわたって越前を支配してきた朝倉氏の体制は完全に崩壊し、この地に巨大な権力の真空地帯が生まれた。
信長は、この新たな征服地を安定させるため、戦後処理に着手する。彼が越前の実質的な統治者として選んだのは、朝倉氏の旧臣でありながら、信長の越前侵攻時に道案内役を務めた前波吉継であった。信長は吉継に「桂田長俊」という名を与え、越前守護代に任命した 17 。これは、信長による支配体制構築の第一歩であったが、同時に新たな混乱の火種を蒔くことにもなった。
桂田長俊は、朝倉家中において決して重臣クラスの人物ではなかった。そのため、かつて同格、あるいは格上であった他の朝倉旧臣たちにとって、長俊が自分たちの上に立つことは屈辱以外の何物でもなかった。特に、府中を拠点とする富田長繁は、長俊とは朝倉家臣時代から犬猿の仲であり、その敵愾心は抜き差しならないものがあった 17 。さらに、守護代という新たな権威を笠に着た長俊が、旧同僚たちに対して尊大な態度を取ったことで、不満は越前全土で急速に膨れ上がっていった 17 。信長が敷いた新体制は、在地勢力の複雑な人間関係と力学を十分に考慮しないまま構築されたため、その基盤は極めて脆弱であった。
第二章: 「百姓の持ちたる国」の成立と崩壊
桂田長俊への不満が頂点に達した天正2年(1574年)1月、ついに富田長繁が行動を起こす。彼は長俊を打倒すべく、越前各地の有力者と談合し、反桂田を掲げる大規模な「土一揆」を扇動した 17 。この蜂起には、長俊の支配を快く思わない国人領主や、支配者交代に伴う混乱に疲弊した民衆が広範に加わった。一揆勢は一乗谷を急襲し、桂田長俊とその一族を滅ぼすことに成功する。
しかし、一揆の主導権を握った富田長繁の支配もまた、長くは続かなかった。彼は当初の目的を達成した後、敵対関係になかった魚住一族を謀殺するなど、次第に独裁的な行動が目立つようになる 17 。さらに、彼が信長に恭順するのではないかという噂が広まると、一揆勢の間に長繁への不信感が蔓延した。
指導者を失い、内部不信に陥った一揆勢が次に頼ったのが、隣国・加賀で強大な勢力を誇る本願寺(一向宗)であった。彼らは加賀から一向一揆の指導者である七里頼周や杉浦玄任らを招聘し、自らの新たな指導者として仰いだ 10 。この瞬間、越前の一揆は、在地領主主導の「土一揆」から、本願寺教団の直接的な指導下にある宗教的・政治的武装集団「一向一揆」へと、その性格を完全に変質させたのである。
遠く大坂の石山本願寺宗主・顕如は、この事態を好機と捉え、越前を「門徒が持ちたる国」とするべく、直接統治に乗り出す。彼は腹心である下間頼照を「越前守護」として派遣し、さらに杉浦玄任を大野郡司、下間頼俊を足羽郡司に任じるなど、越前各地に坊官を送り込み、支配体制を確立した 10 。
だが、この本願寺による支配は、越前の民衆が期待した善政とは程遠いものであった。下間頼照をはじめとする坊官たちは、「織田軍との臨戦態勢」を大義名分に、自らの私利私欲を満たすため、民衆に対して桂田長俊時代を上回るほどの重税や過酷な賦役を課したのである 17 。この圧政は、一向宗の門徒内部からでさえ激しい反発を招いた。さらに、もともと越前に根を張っていた天台宗の平泉寺や真言宗、そして同じ浄土真宗でも本願寺とは系統の異なる高田派(専修寺派)などの諸勢力も、本願寺の独善的な支配に強く反発した 17 。
その結果、天正3年(1575年)に入る頃には、越前一向一揆の結束は内部から完全に崩壊し始めていた。かつては共通の敵(桂田長俊)打倒のために団結した勢力は、宗派間の対立や、本願寺から派遣された支配層と在地門徒との間の亀裂により、四分五裂の状態に陥っていた。信長が越前への再侵攻を決意したのは、まさにこの一揆内部の深刻な対立と弱体化を見抜いたからに他ならない。彼が攻撃を仕掛けようとしていたのは、強固な一枚岩の「百姓の国」ではなく、自らの内紛によって崩壊寸前となっていた統治機構だったのである。
表2:越前一向一揆・大野郡平定戦 主要人物一覧
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氏名 |
所属・立場 |
役割 |
主要な動向と結末 |
典拠資料 |
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織田方 |
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織田信長 |
織田家当主 |
越前侵攻軍 総大将 |
長篠の戦いの後、主力を率いて越前に侵攻。一向一揆を殲滅し、新たな支配体制を構築。 |
11 |
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柴田勝家 |
織田家宿老 |
越前侵攻軍主力部隊大将 |
越前平定後、北ノ庄城主として越前八郡75万石を与えられ、北陸方面軍司令官となる。 |
17 |
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羽柴秀吉 |
織田家臣 |
越前侵攻軍主力部隊大将 |
杉津口から進撃し、府中の夜襲を成功させるなど、侵攻の先鋒として活躍。 |
12 |
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明智光秀 |
織田家臣 |
越前侵攻軍主力部隊大将 |
羽柴秀吉と共に杉津口から進撃。戦後、丹波攻略を命じられる。 |
12 |
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金森長近 |
織田家臣(赤母衣衆) |
大野郡侵攻別動隊大将 |
美濃から山間部を越えて大野郡を制圧。戦後、大野郡の3分の2を領し、越前大野城を築城。 |
1 |
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原長頼(政茂) |
織田家臣 |
大野郡侵攻別動隊大将 |
金森長近と共に大野郡を制圧。戦後、大野郡の3分の1を領す。 |
15 |
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原田直政(塙直政) |
織田家臣(赤母衣衆) |
越前侵攻軍部隊長 |
越前牢人衆を率いて先手を務めた。山城・大和守護を兼務する重臣。 |
14 |
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一揆方 |
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下間頼照 |
本願寺坊官 |
越前一向一揆総大将(越前守護) |
圧政により一揆内の離反を招く。織田軍侵攻時に敗走後、潜伏中に討死。 |
16 |
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杉浦玄任(壱岐守) |
本願寺坊官 |
大野郡司 |
戌山城を拠点に大野郡を統治。武闘派として知られたが、金森・原軍に敗れ、敗死または処刑される。 |
6 |
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七里頼周 |
本願寺坊官 |
府中郡司 |
加賀から招聘され一揆の指導者となる。府中方面の防衛を担当したが、織田軍に敗れる。 |
10 |
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下間頼俊 |
本願寺坊官 |
足羽郡司 |
虎杖城などを拠点に防衛。織田軍に敗れ、敗走後に討死。 |
10 |
第二部: 織田軍、越前へ ― 殲滅戦のリアルタイム再現
第三章: 長篠の勝利、そして北陸へ
天正3年(1575年)は、織田信長の天下統一事業において、決定的な転換点となった年である。その最大の要因は、同年5月21日に三河国設楽原で繰り広げられた長篠の戦いである 8 。この合戦で、信長は徳川家康と共に、当時最強と謳われた武田勝頼の騎馬軍団を、鉄砲の組織的運用という革新的な戦術で壊滅させた 26 。この歴史的な勝利は、武田家の勢力を大きく削ぎ、信長にとって長年の脅威であった東方戦線を安定させるという、計り知れない戦略的価値をもたらした 9 。
東の憂いが減少したことで、信長はついに、織田軍の主力を他の戦線へ大規模に投入する戦略的自由を獲得した。彼の次なる標的は、一年以上にわたって「百姓の持ちたる国」として織田家の支配を拒み続けてきた越前の一向一揆勢力であった。内部崩壊の兆候を掴んでいた信長にとって、今が越前を再征服する絶好の機会であった。
長篠の戦いからわずか3ヶ月後の天正3年8月12日、信長は岐阜城から出陣の号令を下した 10 。動員された兵力は3万とも、水軍を含めればそれ以上ともいわれる大軍であった。その陣容は、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、佐久間信盛といった織田軍団の主力をほぼ網羅しており、この戦役に賭ける信長の決意のほどが窺える 12 。
織田軍の進軍は、驚くべき速度と計画性をもって実行された。『信長公記』によれば、信長本隊は12日に美濃国垂井で一泊し、翌13日には近江の旧浅井領に位置する羽柴秀吉の居城・小谷城に入り、兵糧の補給を行った 10 。そして14日には、越前の玄関口である敦賀に到着し、敦賀郡司・武藤舜秀の城に本陣を構えた 10 。岐阜出陣からわずか2日で、大軍が前線基地への展開を完了させたのである。この迅速な行動は、一揆勢に十分な迎撃準備をさせないという意図があったことは明らかである。
第四章: 南部戦線 ― 木ノ芽峠の攻防と府中の惨劇
織田軍の侵攻に対し、一向一揆の総大将・下間頼照は、越前の南北を隔てる天然の要害、木ノ芽峠の山岳地帯に防衛線を集中させた 12 。鉢伏城(はちぶせじょう)や木の芽峠砦、西光寺丸城といった城塞群に兵を配置し、織田軍の南下をここで食い止める戦略であった 10 。この地は古来より軍事上の要衝であり、ここを突破されれば、府中を中心とする越前平野部は一気に蹂躙されることになる。
天正3年8月15日、信長は全軍に総攻撃を命令した。攻撃は二手に分かれて行われた。丹羽長秀、滝川一益、蜂屋頼隆らの部隊が木ノ芽峠の正面へ向かう一方、羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家らの主力部隊は海岸沿いの杉津口(すいづぐち)へと進撃した 12 。これは、一揆方の防衛力を分散させ、一点突破を図るための巧みな作戦であった。
戦況は、織田軍の電撃的な行動によって、わずか一日で決した。特に戦局を決定づけたのは、羽柴秀吉の動きであった。『泉文書』によれば、秀吉は明智光秀と相談の上、15日の夜陰に乗じて山道を迂回し、一揆勢の防衛線の背後にある府中へと奇襲をかけた 13 。この夜襲は完璧に成功し、府中にあった一揆の拠点・竜門寺砦は陥落。不意を突かれた一揆勢は混乱に陥り、この戦闘だけで2,000人以上が討ち取られたと記録されている 13 。
防衛線の心臓部である府中が陥落したことで、木ノ芽峠の城塞群は完全に孤立し、戦意を喪失した。翌16日、信長は1万余の馬廻衆を率いて、もはや抵抗のなくなった木ノ芽峠を越え、府中の竜門寺に本陣を移した 10 。
ここから、信長の容赦ない殲滅戦が開始される。信長は府中とその周辺地域の一揆勢力に対し、徹底的な掃討を命じた。『信長公記』は、その凄惨な光景を「府中町ハ死がい計にて一円あき所なく候」(府中市中は死体ばかりで、まったく空いている場所がなかった)と、簡潔かつ克明に記している 16 。15日、16日の両日だけで、府中で殺害された者は1,500人に達したという 30 。さらに18日には、柴田勝家らが今立郡の鳥羽城を攻略し、ここでも500人ほどが討ち取られた 14 。この徹底した虐殺は、単なる軍事行動に留まらず、一向一揆の抵抗意志を根底から粉砕し、その社会基盤ごと破壊しようとする、信長の冷徹な政治的意図の表れであった。
第五章: 東部戦線 ― 大野郡平定戦
織田軍本隊が越前南部を席巻していたのと全く同じ時期、もう一つの戦線が越前の東部、大野郡で展開されていた。これは、信長の越前侵攻作戦が、単一の正面攻撃ではなく、複数の侵攻軸を組み合わせた、高度に計画された立体作戦であったことを示している。
この東部戦線を担当したのは、金森長近と原長頼(史料によっては原政茂とも記される)が率いる別動隊であった 5 。彼らは本隊とは全く異なるルート、すなわち美濃国から郡上を抜け、根尾や徳山といった険しい山間部を越えて、直接大野郡へと侵攻したのである 14 。この作戦の意図は明白であった。南からの主力が「金槌」だとすれば、東からの別動隊は「鉄床」の役割を果たす。つまり、府中で敗れた一揆勢が、一向宗の勢力が強い大野郡や、さらにその先の加賀へと退却し、再起を図ることを阻止する。そして、大野郡に盤踞する一揆指導部を孤立させ、南北から挟撃することで、越前の一揆勢力を一網打尽にするという、周到な戦略的包囲であった。
この作戦の指揮官として、美濃の地理に明るい金森長近が選ばれたのは、極めて合理的な人事であった。彼は信長の親衛隊である赤母衣衆の一員であり、武勇だけでなく、統治能力にも長けた武将であった 31 。
当時、大野郡を支配していたのは、本願寺から郡司に任じられていた杉浦玄任(すぎうら げんにん)であった 6 。彼は壱岐守を称し、本願寺の坊官でありながら、元亀年間には越中で上杉謙信と戦うなど、武闘派として知られた人物であった 33 。彼は、南北朝時代からの古い山城である戌山城(亥山城)を本拠とし、織田軍の侵攻に備えていた 6 。
金森・原の別動隊は、単に武力で進攻するだけでなく、巧みな調略を併用した。彼らは、大野郡内で一向一揆(本願寺派)と対立していた高田派の寺院や在地国衆と事前に連絡を取り、織田軍が攻撃を開始した際には味方するよう内応工作を進めていたのである 22 。
8月中旬、金森・原軍が大野郡に姿を現すと、杉浦玄任は一揆勢を率いて鉢伏山などに陣を敷き、これを迎え撃った 6 。しかし、結果は一方的なものであった。南部戦線での本隊の圧勝の報は、すでに大野郡の一揆勢の士気を著しく低下させていた。加えて、織田軍の圧倒的な兵力と、事前に仕掛けられた調略により、一揆勢からは裏切りや逃亡者が相次いだ 6 。杉浦玄任の抵抗は短期間で粉砕され、彼はこの戦いで敗死したとも、あるいは捕らえられて加賀へ送られた後に処刑されたとも伝えられている 6 。
こうして、織田軍本隊が府中を制圧するのとほぼ時を同じくして、別動隊もまた大野郡の平定を完了した。信長の描いた壮大な挟撃作戦は、完璧な成功を収めたのである。
第三部: 新たな秩序の創生
第六章: 残党狩りと戦後処理
越前南部の府中と東部の大野郡という、一揆勢力の二大拠点が陥落した後、信長の命令はさらに苛烈を極めた。彼は諸将に対し、「山へ捜索に入り男女問わず斬り捨てよ」と命じ、文字通りの残党狩りを開始させた 14 。この結果、一揆に加担した民衆は、山中や村落に隠れていた者までことごとく捜し出され、殺戮された。降伏した者も容赦されず、一連の合戦と掃討作戦を通じて、処刑された者は1万2,250人以上、さらに奴隷として尾張や美濃に送られた者は3万から4万人に上ったと記録されている 17 。
この常軌を逸したともいえる徹底的な殲滅は、信長の冷酷な性格のみに起因するものではない。それは、一向一揆という存在が持つ特異性に対する、信長の明確な政治的回答であった。「百姓が国を持つ」という理念を掲げ、武士階級の支配秩序そのものを否定しかねない一向一揆は、天下統一を目指す信長にとって、絶対に共存できない存在であった。そのため、軍事的に勝利するだけでなく、その社会基盤、すなわち門徒の共同体そのものを根絶やしにする必要があったのである。9月2日には、一揆勢の拠点の一つであった豊原寺が、一揆に味方した罪を問われて全山焼き討ちに処せられた 17 。
越前国内の抵抗勢力がほぼ一掃された後、信長は次の一手を打つ。8月23日、羽柴秀吉、明智光秀らに加賀国への侵攻を命じた 10 。これは一向一揆の本拠地である加賀に直接打撃を与え、その勢力を削ぐことを目的としていた。織田軍は、加賀の中でも比較的抵抗が弱い能美・江沼の二郡を制圧し、一揆勢にさらなる圧力を加えた後、越前に引き上げた。
そして天正3年9月2日、信長は北ノ庄(現在の福井市)に入り、越前の新たな支配体制、すなわち「国割」を発表した 14 。この戦後処理は、後の織田政権の地方支配の雛形となる、極めて巧妙なものであった。
まず、越前の中心部である足羽、吉田、丹生、坂井、今立、南条、大野、敦賀の八郡、実に75万石に及ぶ広大な領地を、筆頭家老である柴田勝家に与え、北ノ庄城主とした 14 。これにより、勝家は織田家中で最大級の領地を持つ方面軍司令官となり、対上杉謙信、対加賀一向一揆の最前線を担うことになった。
しかし信長は、勝家に強大な権力が集中しすぎることを警戒した。そのため、府中とその周辺の10万石を、前田利家、佐々成政、不破光治の三人に均等に与え、配置した 14 。彼らは「府中三人衆」と呼ばれ、公式には勝家の与力(補佐役)であったが、同時に信長直属の目付として、勝家の動向を監視する役割も担っていた。これは、方面軍司令官に大きな裁量権を与えつつも、中央からの統制を効かせるという、信長ならではの巧みな権力分散と牽制のシステムであった。
第七章: 大野郡の再編と「天空の城」の誕生
越前の新たな支配体制が確立される中で、今回の平定戦の主戦場の一つであった大野郡にも、新しい支配者が誕生した。美濃から進撃し、大野郡を平定した軍功により、金森長近に大野郡の3分の2にあたる3万石、そして彼と共に戦った原長頼に3分の1にあたる2万石が与えられたのである 1 。
大野郡の新たな領主となった金森長近は、当初、一揆勢の拠点であった戌山城に入り、領国経営を開始した 2 。戌山城は、防御に優れた中世の山城であったが、長近はすぐにその限界を見抜く。山上に位置するこの城は、大野盆地全体を見渡し、平時の政治や経済を司るには不便であり、広大な城下町を建設するにも不向きであった 5 。
長近の構想は、単なる軍事拠点の確保に留まらなかった。彼は、この地を北陸と美濃を結ぶ交通の要衝として、新たな政治・経済・文化の中心地に変貌させようと考えていた。そのビジョンを実現するため、彼は戌山城を放棄し、盆地の中央に孤立してそびえる亀山に、全く新しい城を築くことを決断する。
天正4年(1576年)、金森長近による新城、すなわち後の「越前大野城」の普請が開始された 1 。築城と並行して、彼は亀山の東麓に、京都の街並みを模した整然たる碁盤目状(短冊型)の城下町の建設にも着手した 5 。武家屋敷を城の近くに配置し、その外側に町人地を設け、さらに町の防衛線として東端に寺院群を集中させる「寺町」を形成するなど、その都市計画は極めて計画的かつ先進的なものであった 37 。これが、後に大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる。
この一連の動きは、戦国時代における統治のあり方の変化を象徴している。天正3年の大野郡平定戦が、抵抗勢力を武力で徹底的に排除する「破壊」の段階であったとすれば、翌年から始まる大野城と城下町の建設は、新たな秩序を創造し、地域の経済と文化を育む「創造」の段階であった。金森長近は、信長から与えられた土地を、単なる知行地としてではなく、自らの理想とする国づくりの舞台として捉えていたのである。今日、私たちが目にする美しい「天空の城」は、その前年に行われた血塗られた殲滅戦という歴史の礎の上に築かれたものであった。
結論: 越前平定が織田政権に与えた影響
天正3年(1575年)の越前平定戦、とりわけその一環として行われた大野郡での戦いは、織田信長の天下統一事業全体を見渡した時、極めて重要な画期をなす出来事であった。
第一に、この戦いは、信長が長年対峙してきた石山本願寺を中核とする一向一揆勢力との闘争において、決定的な勝利の一つとなった。長島一向一揆の殲滅に続き、一国規模で「門徒の国」と化していた越前を、わずか1ヶ月足らずで完全に制圧したことは、織田軍の圧倒的な軍事力と、信長の宗教勢力に対する非妥協的な姿勢を天下に知らしめた。これにより、本願寺の勢力は大きく削がれ、信長は包囲網の一角を完全に崩すことに成功した。
第二に、越前の平定は、織田政権の北陸方面における支配権を確立し、その後の戦略展開を可能にした。この戦役の戦後処理によって、柴田勝家を総司令官とし、府中三人衆が脇を固めるという強力な北陸方面軍が編成された。この軍団は、北ノ庄を拠点として、宿敵である上杉謙信との手取川の戦いや、一向一揆の最後の牙城である加賀の平定戦など、織田家の北陸経略において中心的な役割を果たしていくことになる。大野郡に金森長近が配置されたことも、加賀や飛騨への睨みを効かせる上で、重要な戦略的布石であった。
そして最後に、この戦いは、今日多くの人々を魅了する歴史的景観の直接的な起源となった。大野郡平定戦の恩賞として金森長近が大野の地を得なければ、亀山に近世城郭が築かれることも、また「北陸の小京都」と称される美しい城下町が生まれることもなかったであろう。血で血を洗う凄惨な殲滅戦という「破壊」の果てに、新たな秩序と文化を担う名城が誕生する「創造」へと繋がっていく。このダイナミズムこそ、戦国という時代の本質を象徴している。
結論として、1575年の「大野城の戦い」は、その名称が示唆するような単一の城をめぐる攻防ではなく、越前一向一揆の支配体制を根底から覆した広域的な「平定戦」であった。そしてこの戦いは、織田政権の支配を北陸に確立させると同時に、戦乱の時代から新たな秩序と文化が生まれる歴史の転換点として、記憶されるべきなのである。
引用文献
- 大野城について | 天空の城 越前大野城 https://www.onocastle.net/about/
- 大野城 (越前国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%9F%8E_(%E8%B6%8A%E5%89%8D%E5%9B%BD)
- 天空の城「越前大野城」の歴史と戦国大名「金森長親」 https://sengoku-story.com/2023/01/21/echizen-trip-0006/
- 越前大野城の概要 https://www.onocastle.net/about/outline/
- 大野城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/hokuriku/ohno.j/ohno.j.html
- 杉浦玄任 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E7%8E%84%E4%BB%BB
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