最終更新日 2026-06-19

合戦地域分類:四国

「四国」に属する合戦:40件

合戦概要
天霧城の戦いあまぎりじょうのたたかい(1585)天霧城の戦い(1585)は、豊臣秀吉の四国平定における天霧城の無血開城。黒田官兵衛の戦略的判断により、豊臣軍は天霧城を迂回し、香川氏は戦わずして開城。
一宮城の戦いいちのみやじょうのたたかい(1585)天正13年、羽柴秀長率いる豊臣軍は阿波一宮城を攻囲。長宗我部軍は地の利を活かし抗戦するも、秀長の坑道掘削で水の手を断たれ落城。この戦いは四国平定を決定づけた。
今治いまばり来島周辺海戦くるしましゅうへんかいせん(1573~92)瀬戸内の村上水軍は、毛利氏と織田氏の狭間で激動の時代を迎えた。来島通総は秀吉の調略に応じ、旧主を滅ぼし大名となる。海賊停止令により海賊の時代は終焉し、来島氏は新たな時代の担い手となった。
植田城の戦いうえだじょうのたたかい(1585)天正十三年、紀州の太田城は秀吉の水攻めで陥落。讃岐の植田城は黒田官兵衛の洞察で回避。信濃の上田城では真田昌幸が徳川軍を破った。三つの「うえだ城」は戦国末期の多様な戦いを示す。
牛岐城の戦いうしきじょうのたたかい(1585)天正13年、豊臣秀吉の四国侵攻で木津城が陥落。牛岐城主・香宗我部親泰は無益な戦闘を避け、兵力温存のため無血撤退を決断。情報と戦略が物理を凌駕した。
浦戸城の戦いうらどじょうのたたかい(1600)慶長5年、関ヶ原後、土佐国主・長宗我部盛親は改易され、徳川上使が土佐へ。反発した長宗我部旧臣「一領具足」は浦戸城に籠城。約50日抵抗後、謀略で城を失い273名が斬首。土佐の歴史に深い亀裂を残す。
宇和島うわじま板島城の戦いいたじまじょうのたたかい(1588~92)天正15年、伊予南予の新領主戸田勝隆の圧政に旧西園寺家臣団が蜂起。板島城を包囲するも、西園寺公広の暗殺で鎮圧された。これは中央集権化に伴う在地勢力の抵抗であった。
大洲城再包囲おおずじょうさいほうい(1589)天正15年、伊予南予の新領主戸田勝隆の圧政に対し、旧西園寺家臣団が蜂起。しかし、旧主公広の暗殺と徹底的な粛清により鎮圧された。大洲城再包囲とはこの動乱の終結を指す。
大洲城の戦いおおずじょうのたたかい(1585)天正十三年、秀吉の四国征伐で大洲城は無血開城。東予の金子元宅が討死し、総大将長宗我部元親も降伏したことで、城主大野直之は孤立。無益な抵抗を避け降伏を決断し、伊予は豊臣の支配下となった。
大洲城の戦いおおずじょうのたたかい(1588~92)天正15年、伊予南予の新領主戸田勝隆の圧政に対し、旧西園寺家臣団が蜂起。大洲城を拠点とする勝隆は、旧主公広の暗殺と徹底的な粛清により一揆を鎮圧した。
岡豊城の戦いおこうじょうのたたかい(1585)天正十三年、豊臣秀吉は大軍で四国征伐を開始。元親は三方面から攻められ、岡豊城は戦火を免れ降伏。四国は豊臣支配下となり、元親は土佐一国を安堵された。
海部城の戦いかいふじょうのたたかい(1585)天正十三年の豊臣秀吉による四国平定において、土佐と阿波の国境の要衝・海部城を巡る攻防。香宗我部親泰が守るも、豊臣軍の圧力を前に撤退し開城した合戦。
勝賀城の戦いかつがじょうのたたかい(1585)天正十三年、秀吉の四国征伐で勝賀城は無血開城。圧倒的物量と戦略的包囲に城主香西佳清は降伏し、家と領民の存続を選んだ。これは戦国末期の中央集権化を示す典型例である。
勝山城の戦いかつやまじょうのたたかい(1585)勝山城の戦い(1585)は、豊臣秀吉の四国征伐における伊予侵攻。金子元宅は玉砕したが、河野氏は湯築城を無血開城し、伊予国は豊臣政権に。
川之江城の戦いかわのえじょうのたたかい(1585)天正十三年の豊臣秀吉による四国平定戦において、伊予国の要衝・川之江城をめぐり繰り広げられた攻防。小早川隆景率いる毛利軍の猛攻の前に陥落した戦い。
鬼ノ城口の戦いきのじょうぐちのたたかい(1585)天正十三年、「鬼ノ城口の戦い」は史実と異なり、讃岐植田城を巡る知謀戦であった。長宗我部元親の罠を黒田官兵衛が見抜き、戦わずして四国征伐の趨勢を決した。知略が武勇を制した戦いである。
来島城の戦いくるしまじょうのたたかい(1585)天正十三年、秀吉の四国征伐で来島城は無血開城。来島通総の調略により、毛利軍は芸予水道の要衝を確保。周辺の怪島城を制圧し、伊予侵攻の橋頭堡を築いた。これは秀吉の巧みな戦略の勝利であった。
小松島沖の海戦こまつしまおきのかいせん(1585)天正十三年、豊臣秀吉の四国征伐において、小松島沖の海戦は豊臣水軍が制海権を掌握し、陸上部隊の進軍を支えた。長宗我部元親は圧倒的な技術と戦略の前に敗れ、戦わずして勝敗が決した。
小松城の戦いこまつじょうのたたかい(1585)天正十三年の秀吉の四国平定における伊予東予での攻防戦。小早川隆景率いる豊臣軍が、長宗我部方の金子元宅らが籠る金子城や高尾城を攻撃し陥落させた戦い。
西条さいじょう国分寺口の戦いこくぶんじぐちのたたかい(1585)天正13年、秀吉の四国征伐で小早川隆景率いる毛利軍が伊予に侵攻。金子元宅は徹底抗戦、野々市原で玉砕。元親降伏を決定づけ、秀吉の天下統一を加速。
讃岐さぬき高松たかまつ玉藻たまも城の戦いじょうのたたかい(1585)天正13年、秀吉の四国征伐で讃岐の喜岡城(旧高松城)が陥落。元親の夢潰え、讃岐は豊臣支配下。官兵衛の智略で植田城回避。生駒親正が新高松城(玉藻城)を築き、近世統治。
勝瑞城再攻略しょうずいじょうさいこうりゃく(1585)天正十三年、秀吉の四国征伐で阿波勝瑞城は無血接収。長宗我部元親は防衛拠点を一宮城へ移しており、秀吉は政治的象徴の城を巧みに利用。戦後、蜂須賀家政が徳島城を築き、阿波の中心は徳島へ移った。
勝瑞城の戦いしょうずいじょうのたたかい(1585)天正13年、秀吉の四国平定戦役。阿波の勝瑞城は一宮城陥落後、戦わずして無血開城。中世的支配の終焉と、豊臣政権による近世的統治への移行を象徴する。
小豆島沖の海戦しょうどしまおきのかいせん(1585)天正十三年、小豆島沖の海戦は豊臣秀吉の四国征伐における制海権確保と水陸両用作戦の総称。仙石秀久の敗戦を教訓に、小豆島を拠点とした海上優位が長宗我部元親の夢を打ち砕いた。
十河城の戦いそごうじょうのたたかい(1582)天正10年、本能寺の変後、長宗我部元親は十河城を攻囲。城代・十河存之は寡兵で堅守し、元親の四国統一を阻んだ。この戦いは秀吉の四国介入の契機となった。
高松城の戦いたかまつじょうのたたかい(1585)天正十三年、秀吉の四国征伐において、喜岡城(旧高松城)は豊臣軍に包囲。城主・高松頼邑は絶望的な兵力差の中、忠義を貫き玉砕。秀吉の讃岐平定を加速させ、玉藻城築城の契機となった。
多度津城の戦いたどつじょうのたたかい(1585)天正十三年「多度津城の戦い」は、秀吉の四国征伐における無血開城であった。讃岐方面軍の阿波転進で香川信景は孤立し降伏。秀吉の戦略的チェックメイトが戦国の終焉と新時代の到来を告げた戦いである。
中富川の戦いなかとみがわのたたかい(1575)天正十年、長宗我部元親は本能寺の変後の好機を捉え、中富川の戦いで十河存保を撃破。勝瑞城を攻略し阿波を平定した。四国統一に王手をかけるも、秀吉の四国征伐で夢は潰えた。
中富川の戦いなかとみがわのたたかい(1582)天正十年、織田信長の四国征伐が迫る中、本能寺の変により長宗我部元親は滅亡を免れた。阿波中富川で三好家と激突し、四国統一への道を切り開いた。
中村城の戦いなかむらじょうのたたかい(1585)天正十三年、秀吉の四国平定において、中村城では戦闘なし。各戦線崩壊の中、谷忠澄の進言で元親は降伏を決断。中村城は戦火を免れ、その不在は、戦国末期の総力戦における兵站と政治の重要性を示唆。
長浜の戦いながはまのたたかい(1563)長浜の戦い(1563)は、長宗我部元親が「姫若子」から「鬼若子」へと覚醒した初陣。本山氏との激戦を制し、智略と武勇で朝倉城を放棄させ、土佐中央部の覇権を確立。土佐統一への礎を築いた。
能島城の戦いのしまじょうのたたかい(1586)天正十四年「能島城の戦い」は、秀吉による能島村上氏の解体過程を指す。秀吉は村上三家を分断し、無血開城と海賊停止令で海の支配を奪い、陸の論理に組み込んだ。海の独立勢力が終焉した戦いである。
引田城の戦いひけたじょうのたたかい(1585)天正13年、秀吉の四国征伐で引田城は戦火を交えず。黒田孝高の戦略で迂回され無力化。秀吉の兵站と柔軟な戦略が四国平定と瀬戸内海制海権確立に貢献した。
福見城の戦いふくみじょうのたたかい(1585)天正13年、豊臣秀吉は四国平定へ羽柴秀長率いる大軍を阿波に侵攻。岩倉城では大筒が投入され、長宗我部元親は圧倒的兵力と新兵器の前に降伏。秀吉の天下統一は加速した。
屋島城の戦いやしまじょうのたたかい(1585)天正十三年、豊臣秀吉の四国征伐における屋島城の戦いは、讃岐侵攻の第一歩。宇喜多秀家率いる豊臣軍は屋島に上陸し、喜岡城を攻略。黒田孝高の戦略で讃岐は平定され、長宗我部元親の夢は潰えた。
湯築城の戦いゆづきじょうのたたかい(1585)湯築城の戦い(1585)は、豊臣秀吉の四国征伐における伊予侵攻。金子元宅の玉砕で河野氏は戦意を喪失し、湯築城は無血開城。伊予国は豊臣政権に。
吉野川の戦いよしのがわのたたかい(1585)天正13年、秀吉は10万超の大軍で四国征伐を開始。吉野川流域を主戦場とし、長宗我部元親の「一領具足」は豊臣軍の物量と戦略に敗れ、四国統一の夢は潰えた。
与島よしま小豆島沖の海戦しょうどしまおきのかいせん(1585)天正十三年の四国攻めにおいて讃岐沖で展開された海上作戦。豊臣秀吉の圧倒的な輸送能力により、瀬戸内の制海権を握って大軍を投射し、長宗我部氏を孤立させた。
脇城の戦いわきじょうのたたかい(1585)天正十三年、秀吉の四国征伐で脇城は陥落。長宗我部親吉は岩倉城の降伏を受け、城兵の命を救うため開城。親吉は帰途に謀殺されたが、脇城の陥落は長宗我部氏の夢を砕き、豊臣の天下を象徴した。
渡川わたりがわ四万十川しまんとがわの戦いのたたかい(1575)天正三年、長宗我部元親は土佐統一を賭け、一条兼定と渡川で激突。元親は陽動と精鋭「一領具足」で一条軍を翻弄し、短時間で勝利。この戦いは土佐の権力構造を転換させ、元親の四国制覇への礎となった。