最終更新日 2026-06-19
合戦地域分類:近畿
「近畿」に属する合戦:153件
| 合戦 | 概要 |
|---|---|
| 英賀城の戦い(1580) | 天正八年、秀吉は播磨平定の最終章で英賀城を攻囲。水城の堅固さと門徒衆の抵抗に直面するも、調略と奇襲で落城。播磨を完全に掌握し、中国攻めへの足場を固めた。 |
| 芥川山城の戦い(1568) | 芥川山城の戦い(1568)は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、三好三人衆が籠る芥川山城を無血開城させた戦い。信長は心理戦で城下町を焼き払い、三好三人衆は撤退。 |
| 安土城の戦い(1582) | 天正十年、安土城の戦いは本能寺の変後の混乱で勃発。信長の夢の象徴は、明智光秀の占拠と秀吉の反攻の中、何者かの手で炎上。この焼失は織田政権の終焉を告げ、天下の覇権争いを加速させた。 |
| 姉川の戦い(1570) | 元亀元年、織田・徳川連合軍は姉川で浅井・朝倉連合軍と激突。織田軍の苦戦を徳川家康の側面攻撃が救い、勝利を収めた。この戦いは浅井・朝倉氏滅亡の端緒となり、信長包囲網形成の引き金ともなった。 |
| 尼崎城の戦い(1579) | 天正七年、荒木村重は有岡城を脱出し尼崎城に籠城。信長は人質助命と引き換えに開城を迫るも村重は拒否。激怒した信長は人質約六百七十名を処刑。村重はその後も抵抗を続けた。 |
| 尼崎城の戦い(1614~15) | 大坂の陣、徳川家康は尼崎の戦略的価値を重視。池田重利を代官に任命し、圧倒的兵力で西国からの豊臣支援を封殺。尼崎城は無血制圧され、徳川方の戦略的勝利を象徴する。 |
| 有岡城の戦い(1578~79) | 天正六年、織田信長に重用された荒木村重は、摂津有岡城で信長に反旗を翻す。一年以上に及ぶ籠城戦の末、村重は脱出し、有岡城は落城。この戦いは信長の天下統一事業に大きな影響を与えた。 |
| 有子山城の戦い(1579) | 天正八年、羽柴秀長は但馬国を電撃的に平定。山名祐豊が籠る有子山城は孤立し、無血開城。名門山名氏の但馬における歴史は終焉を迎え、秀吉の中国攻めにおける重要な布石となった。 |
| 有子山城の戦い(1580) | 天正八年、羽柴秀吉は但馬の有子山城を攻囲。中世以来の名門山名氏は、織田信長の天下統一の奔流に飲み込まれ、最後の拠点である有子山城は落日を迎えた。 |
| 有田川の戦い(1578) | 天正六年、織田信長の多方面作戦中、紀州雑賀衆は織田方先鋒を撃退。この戦いは信長の限界と中世的自治の抵抗を示し、雑賀衆の独立を一時保つも、後の秀吉による徹底的な征伐へと繋がった。 |
| 有馬温泉口の戦い(1578) | 天正六年、織田信長は荒木村重と別所長治の謀反に直面。羽柴秀吉は有馬回廊を巡る兵站戦を制し、両者の連携を断つ。これは信長の天下統一と秀吉の戦術覚醒を示す戦役であった。 |
| 飯盛城の戦い(1568~70) | 飯盛城の戦い(1568~70)は、織田信長亡き後の天正加越紛争における前田利家と佐々成政の死闘。末森城の戦いで利家が勝利し、成政は「さらさら越え」で家康に助けを求めるも失敗。 |
| 飯盛山城の戦い(1564) | 永禄七年、畿内の覇者三好長慶が居城飯盛山城で病没。その死は三好政権を内部崩壊へと導き、三好三人衆と松永久秀の対立を激化させた。この内紛は織田信長の天下統一を加速させる契機となった。 |
| 池田城の戦い(1569) | 永禄十一年、信長は池田城を攻略し池田勝正を摂津三守護に任命。元亀元年、荒木村重らが勝正を追放し三好方へ寝返る。元亀二年、白井河原の戦いで村重は織田方を破り、摂津を統一した。 |
| 石山合戦(1570~80) | 元亀元年から天正八年にわたり、織田信長と石山本願寺の間で繰り広げられた十一年の総力戦。信長包囲網や一揆と連動するも、最後は勅命講和で終結した合戦。 |
| 石山・天満川口の舟戦(1576) | 天正四年、毛利水軍は第一次木津川口の戦いで織田水軍を焙烙火矢で撃破。石山本願寺への海上補給に成功し、信長を苦しめた。この敗北が鉄甲船建造の契機となる。 |
| 出石城の戦い(1569) | 永禄十二年、木下藤吉郎は但馬へ侵攻し、山名祐豊の此隅山城を十三日で陥落させた。この戦いは山名氏衰退と織田氏台頭を象徴し、但馬を織田・毛利の代理戦争の舞台へと変えた。 |
| 出石城の戦い(1580) | 天正八年、羽柴秀長率いる織田軍は但馬へ侵攻。名門山名氏の有子山城を半月で落とし、山名氏の支配を終焉させた。但馬は織田の支配下となり、中国攻めの拠点となった。 |
| 和泉・大鳥郡の戦い(1576) | 石山合戦において織田信長の原田直政率いる包囲軍と、本願寺勢力が木津川河口の補給線をめぐり天王寺等で激突した戦い。信長包囲網と本願寺の防衛戦略の実相を示す。 |
| 茨木城の戦い(1580) | 天正六年、荒木村重の謀反に際し、茨木城は不戦で陥落。信長の巧みな調略により、高山右近に続き中川清秀も降伏。これは荒木勢力崩壊の決定打となり、信長の心理戦の勝利を象徴する。 |
| 今福・鴫野の戦い(1615) | 慶長十九年の大坂冬の陣における今福・鴫野の堤防上での激戦。泥深い低湿地での白兵戦で、徳川家康が包囲網完成のために部隊を配し、豊臣軍の防衛線と対峙した。 |
| 宇陀松山城の戦い(1585) | 天正十三年、秀吉の紀州征伐後、弟・秀長が大和国主となり宇陀松山城へ入城。秋山氏は無血で退去。これは豊臣政権の無血制圧であり、戦国終焉を象徴する。 |
| 永正の乱(1508~11) | 細川政元暗殺後、細川家は三養子間で内紛。大内義興が義稙を奉じ上洛し高国と結び新政権樹立。澄元は京を奪還するも義澄急死と六角氏裏切りで船岡山合戦に敗北。戦国乱世本格化。 |
| 応仁の乱(1467~77) | 応仁元年、将軍家・管領家の家督争いから応仁の乱が勃発。11年間京都を舞台に戦火が続き、室町幕府の権威は失墜。下剋上の戦国時代を招いた。 |
| 近江・高島郡湖岸戦(1573) | 天正元年、信長は武田信玄の死と足利義昭追放に乗じ、琵琶湖西岸の高島郡を制圧。大船団と磯野員昌を使い、浅井・朝倉攻めの後方脅威を排除し、近江支配の礎を築いた。 |
| 大坂城下・京口の戦い(1614) | 慶長十九年、大坂冬の陣序盤。京口の湿地帯で豊臣軍が徳川軍を奇襲。木村重成らの奮戦で佐竹隊に大打撃を与えるも、上杉景勝の援護で徳川軍は戦線を維持。豊臣方は城外拠点を失い、完全籠城へ移行した。 |
| 大坂夏の陣(1615) | 慶長二十年、徳川家康は豊臣家を滅ぼすべく大坂夏の陣を開始。真田信繁らの奮戦も虚しく、大坂城は落城し豊臣家は滅亡。戦国時代は終焉を迎え、元和偃武の時代が到来した。 |
| 大坂冬の陣(1614) | 慶長十九年、徳川家康は方広寺鐘銘事件を口実に大坂冬の陣を開始。真田丸の奮戦で力攻めを断念するも、大砲による心理戦で豊臣方を屈服させ和睦。堀を埋め立て、大坂城を裸城とした。 |
| 太田城水攻め(1585) | 天正十三年、羽柴秀吉は紀州の太田城を水攻めにより陥落させた。これは小牧・長久手の戦い後の紀州征伐の一環であり、秀吉の天下統一事業における強力なデモンストレーションとなった。 |
| 太田城・和泉岸和田方面追撃(1585) | 天正十三年、羽柴秀吉は紀州征伐で和泉国境を突破。根来寺を焼き、雑賀衆を壊滅させ、太田城を水攻めで陥落させた。この戦役は刀狩りの原型を生み、中世の自治を破壊し、天下統一の礎を築いた。 |
| 大津城の戦い(1600) | 慶長五年、関ヶ原の前哨戦。京極高次は大津城に籠城し、立花宗茂率いる西軍1万5千を九日間足止め。西軍の関ヶ原参戦を阻み、東軍勝利に貢献。 |
| 置塩城の戦い(1577) | 天正五年、羽柴秀吉は播磨平定のため置塩城を攻めた。黒田官兵衛の仲介と上月城の悲劇を背景に、赤松則房は無血開城。秀吉は戦わずして播磨最大級の堅城を手に入れ、中国攻めの足がかりとした。 |
| 小谷城の戦い(1573) | 天正元年、織田信長は浅井・朝倉連合を滅ぼすべく小谷城を攻めた。朝倉氏を刀根坂で壊滅させ、秀吉の奇襲で小谷城は陥落。長政は妻子を逃がし自害、浅井氏三代の歴史は幕を閉じた。 |
| 貝塚寺内町の戦い(1577) | 天正五年、信長は紀州征伐の緒戦として貝塚寺内町を攻撃。一揆勢は戦闘を避け海上へ脱出、町は焼き払われた。これは石山合戦の戦略的転換点であり、信長の冷徹な合理性を示す戦いなき戦いであった。 |
| 樫井の戦い(1615) | 慶長20年、大坂夏の陣の緒戦、豊臣方の塙団右衛門は樫井で浅野軍と激突。先陣争いによる連携不足で豊臣方は壊滅し、塙も討死。豊臣家滅亡への一撃となった。 |
| 堅田合戦(1570) | 堅田合戦は、信長包囲網下の元亀元年、信長が琵琶湖の要衝・堅田を奇襲せしも失敗。浅井・朝倉軍の反撃で織田軍壊滅。比叡山焼き討ちの遠因となる。 |
| 堅田・湖上戦(1570) | 第一次信長包囲網の志賀の陣における琵琶湖の要衝堅田をめぐる攻防。信長と結ぶ湖上の支配者堅田衆を、浅野朝倉の連合軍が比叡山延暦寺から攻めた二日間の死闘。 |
| 交野城の戦い(1568) | 永禄十一年の織田信長の上洛戦における交野城の無血開城。三好三人衆と松永久秀の対立で自壊した畿内に対し、信長の電撃作戦により安見右近が帰順した実相を示す。 |
| 桂川原の戦い(1558) | 永禄元年、三好長慶の改元強行に激怒した将軍義輝は六角氏と結び京都奪還を図るも、北白川で三好軍に敗北。この戦いは三好長慶の覇権を決定づけ、義輝の京都帰還を許すも悲劇の遠因となる。 |
| 鎌刃城の戦い(1570) | 元亀元年、織田信長と浅井長政の対立激化。鎌刃城主堀秀村が織田に寝返り、姉川の戦いの導火線となる。浅井軍の猛攻で落城寸前となるも、木下秀吉の奇襲救援で城は守られ、秀吉の将器を天下に示した。 |
| 亀山城の戦い(1579) | 天正七年の丹波平定の最終攻略戦。織田信長の命を受けた明智光秀が、黒井城包囲戦の失敗から長期戦への戦略転換を行い、新城の亀山城を拠点に丹波を平定した軌跡。 |
| 神吉城の戦い(1578) | 神吉城の戦い(1578)は、織田信忠率いる大軍が神吉頼定の神吉城を攻めた激戦。別所氏の離反に端を発し、織田軍の物量と最新兵器で落城。三木合戦の転換点となり、信長の苛烈な天下統一事業を象徴する。 |
| 観音寺城の戦い(1568) | 永禄十一年、織田信長は足利義昭を奉じ上洛。六角氏の観音寺城を夜襲で落とし、六角父子は城を放棄。信長は無血で入京し、室町幕府を再興。天下布武の第一歩。 |
| 紀伊征伐・粉河寺の戦い(1585) | 天正13年、秀吉は紀伊征伐で根来・雑賀衆を攻めた。泉州防衛線崩壊、根来・粉河寺炎上。太田城水攻め陥落。中世的自治共同体は終焉、秀吉の中央集権的支配へ。 |
| 紀州攻め(1577) | 天正五年、信長は石山合戦の兵站を断つべく紀州雑賀衆を攻めた。雑賀衆は鉄砲と地の利を活かし織田軍を苦しめ、信長は和睦撤兵。この戦いは雑賀衆の内部対立を深め、後の自壊を招いた。 |
| 岸和田城の戦い(1585) | 天正十三年、羽柴秀吉は紀州征伐の拠点として岸和田城を攻略。前年の防衛戦で紀州勢の猛攻を耐え抜いた岸和田城は、秀吉の天下統一事業における紀州平定の要衝となった。 |
| 木津川口の戦い(第一次・1576) | 天正四年、織田水軍は毛利水軍の焙烙火矢に惨敗。この屈辱が信長に鉄甲船建造を決意させ、日本の海戦史を白兵戦から火力戦へと転換させた。敗北が革新を生んだ象徴的な戦いである。 |
| 木津川口の戦い(第二次・1578) | 天正六年、織田信長は鉄甲船を投入し、木津川口で毛利水軍と激突。焙烙火矢を無効化し、大砲で敵船を粉砕。この勝利により石山本願寺は孤立、信長の天下統一を決定づけた。 |
| 木之本の戦い(1570) | 元亀元年に近江国で発生した姉川の戦いへ至る一連の軍事行動。朝倉義景との同盟を重んじた浅井長政の離反に対し織田信長が報復侵攻し激突した合戦。 |
| 教興寺の戦い(1562) | 永禄五年に発生した畿内の支配者三好長慶と畠山高政ら旧守護勢力による最終決戦。久米田の敗戦から反撃した三好軍が教興寺で大勝し畿内覇権を盤石にした合戦。 |
| 朽木谷の戦い(1570) | 元亀元年、信長は越前侵攻中に浅井長政に裏切られ、金ヶ崎で絶体絶命の危機に陥る。朽木谷で朽木元綱の助けを得て辛くも京へ生還。この経験が後の信長を変えた。 |
| 熊野灘沿岸戦(1585) | 天正十三年、羽柴秀吉の紀州征伐において、熊野灘沿岸の国人衆はゲリラ戦で豊臣軍を苦しめた。しかし、和睦後に指導者は謀殺され、抵抗勢力は壊滅。中世の在地領主が天下人の秩序に屈した戦いである。 |
| 久米田の戦い(1562) | 永禄五年、畿内の覇権を巡り三好長慶と畠山高政が対立。三好実休は和泉国久米田で畠山・根来連合軍と激突。序盤は優勢も、根来衆鉄砲隊の奇襲で実休は戦死。 |
| 黒井城の戦い(1579) | 明智光秀、丹波の赤鬼・赤井直正の黒井城を攻略。一度は敗れるも、戦略転換し八上城を兵糧攻め。直正病死後、黒井城を陥落させ丹波を平定。この功績は光秀の栄光となるが、本能寺の変へと繋がる。 |
| 黒田庄の戦い(1580) | 天正八年、羽柴秀吉は黒田官兵衛に命じ、播磨に残る敵対勢力を掃討。官兵衛の故郷たる黒田庄の名を冠したこの戦いは、三木合戦後の播磨を完全に平定し、秀吉の中国攻めを盤石とした。 |
| 黒田城(播磨)攻防(1577) | 天正五年、羽柴秀吉は播磨福原城を攻略。黒田官兵衛の智略と秀吉の冷徹な戦略が融合し、播磨平定の試金石となった。この戦いは、その後の上月城攻防へと繋がり、官兵衛の評価を確立した。 |
| 甲賀郡諸城掃討(1570~85) | 甲賀郡は織田信長と豊臣秀吉による掃討と再編を経験した。独立自治「惣」は解体され、甲賀衆は中央集権体制に組み込まれた。徳川家康との縁で武士の道を見出し、甲賀組として新たな時代を生き抜いた。 |
| 上月城の戦い(1577~78) | 天正五年、織田信長の中国攻めが本格化。播磨上月城を巡り、羽柴秀吉率いる織田軍と毛利軍が激突。尼子再興を願う山中幸盛らは孤立し、悲劇的な最期を遂げた。 |
| 高野口・九度山口の戦い(1585) | 天正13年、秀吉は紀州征伐で根来・雑賀を壊滅させ高野山を包囲。武力衝突なく、木食応其の交渉で高野山は存続、世俗的権力を失い秀吉の庇護下へ。宗教勢力と天下人の新たな関係性。 |
| 高野山攻め(1585) | 天正十三年、羽柴秀吉は紀州征伐で根来寺を焼き、高野山に最後通牒を突きつけた。木食応其の交渉で焼き討ちは免れたが、高野山は独立を失い、天下人の秩序に組み込まれた。宗教国家の終焉を告げる戦いである。 |
| 粉河寺攻防(1585) | 天正十三年、秀吉の紀州征伐で粉河寺は陥落。根来寺の炎上を見て戦意を喪失し、電光石火で制圧された。これは秀吉の巧みな心理戦の勝利であり、紀州の独立自治の終焉を告げる象徴的な戦いであった。 |
| 此隅山城の戦い(1569) | 永禄十二年、羽柴秀吉は毛利氏の要請で但馬へ侵攻。此隅山城を電撃的に攻略し、名門山名氏を滅亡させた。信長の西進と生野銀山掌握の足がかりとなった。 |
| 木幡山城の戦い(1582) | 「木幡山城の戦い」は誤称で、実際は天正十年「山崎の戦い」。本能寺の変後、秀吉が光秀を破り天下人への道を拓いた。光秀は小栗栖で最期を遂げ、この戦いが日本の歴史を大きく変えた。 |
| 御着城の戦い(1577) | 天正五年、秀吉の中国攻めに対し小寺政職は織田に帰順。別所・荒木の謀反で毛利に寝返り官兵衛は幽閉。秀吉の兵糧攻めで御着城は孤立し政職は逃亡。城は無血開城され官兵衛は飛躍。忠誠心争奪戦の象徴。 |
| 雑賀崎城の戦い(1585) | 天正13年、秀吉は紀州征伐で雑賀衆を攻めた。雑賀衆は内紛で自壊、根来寺も壊滅。雑賀崎城は無血開城。秀吉の圧倒的な力と中世的自治共同体の終焉。 |
| 雑賀・根来攻め(1585) | 天正13年、秀吉は紀州征伐で雑賀・根来衆を攻めた。鉄砲独立勢力は、秀吉の圧倒的兵力、水攻め、内紛で壊滅。中世的自治共同体は終焉し、近世的支配へ。 |
| 堺攻略(1568) | 永禄十一年、信長は自治都市・堺に矢銭二万貫を要求。堺は抵抗するも三好氏の敗北で孤立。今井宗久の仲介で屈服し、信長の経済・軍事基盤に組み込まれ自治を失った。 |
| 坂本城の戦い(1582) | 天正十年、山崎の合戦で敗れた明智光秀は小栗栖で落命。明智秀満は坂本城へ帰還し、一族を介錯後、城に火を放ち天守で自刃。光秀が築いた壮麗な湖城は炎上し、明智一族は滅亡した。 |
| 桜井城の戦い(1562) | 永禄五年、松永久秀は大和国人一掃作戦を展開。教興寺の戦い後、筒井氏や十市氏の経済基盤を焼き払い、桜井城周辺の十市郷を蹂躙した。これにより十市氏は屈服、大和は松永の支配下に。 |
| 真田丸の戦い(1614) | 慶長19年、大坂冬の陣で真田信繁は「真田丸」を築き、徳川大軍を迎え撃った。徳川軍は功を焦り無謀な突撃を敢行し、真田丸の巧妙な防御と信繁の采配により大敗。信繁は「日本一の兵」と称された。 |
| 佐和山城前哨戦(1573) | 元亀元年、織田信長は浅井長政の離反後、佐和山城を八ヶ月にわたり包囲。猛将・磯野員昌は孤立無援の中、奮戦するも開城。この前哨戦が浅井氏滅亡と北近江の織田支配を決定づけた。 |
| 佐和山城の戦い(1600) | 慶長五年、関ヶ原の戦い後、徳川家康は石田三成の居城・佐和山城の攻略を命じた。三成の再起を阻むべく、家康は迅速な行動でこの危険な火種を完全に消し去った。 |
| 三田城の戦い(1579) | 天正七年、羽柴秀吉は荒木村重討伐の一環として三田城を攻略。信長の調略で孤立した城は、村重脱出後に無血開城した。城主荒木重堅は秀吉に仕え、後に大名に出世。荒木一族の悲劇と対照的であった。 |
| 志賀の陣(1568) | 元亀元年の第一次信長包囲網において、浅井・朝倉連合軍が南下し織田信長と比叡山周辺で対峙した戦役。森可成らの犠牲を伴い宇佐山城を死守し和睦に至った戦い。 |
| 信貴山城の戦い(1577) | 天正五年、松永久秀は織田信長に反旗を翻し、信貴山城に籠城。反信長勢力との連携を試みるも、信長の猛攻と孤立により落城。戦国の梟雄の最期は、天下統一の趨勢を決定づけた。 |
| 賤ヶ岳の戦い(1583) | 天正十一年、羽柴秀吉は柴田勝家との賤ヶ岳の戦いに勝利。信長亡き後の主導権争いを制し、天下人への道を確固たるものとした。この戦いは織田政権の終焉と豊臣政権の黎明を告げる転換点となった。 |
| 忍山合戦(1555) | 天文二十四年、近江国では浅井氏と六角氏の間に恒常的な緊張が続いた。浅井久政は六角氏に従属するも、家中の不満が募り、後に長政が独立。忍山合戦は、この両氏の「冷戦」を象徴する出来事であった。 |
| 勝竜寺城の戦い(1579) | 天正七年、明智光秀は丹波・丹後平定を完了。勝竜寺城は戦場ではなく、光秀の娘婿細川忠興の居城として、明智・細川同盟の象徴たる戦略拠点であった。この平定で光秀は織田家中の地位を確立した。 |
| 新宮城の戦い(1585) | 天正十三年の豊臣秀吉による紀州征伐において、熊野水軍を率いる堀内氏善の居城・新宮城を巡る戦い。圧倒的な豊臣軍の圧力を前に、氏善が降伏・開城した歴史。 |
| 上平寺城の戦い(1573) | 天正元年、織田信長は上平寺城を無血開城させた。竹中半兵衛の調略により、城将・堀秀村と家老・樋口直房が織田に内応。この静かなる落城が浅井氏滅亡の引き金となり、信長の合理的な戦略を示した。 |
| 住吉・天満浜の海戦(1576) | 天正四年、毛利水軍は第一次木津川口の戦いで織田水軍を焙烙火矢で撃破。石山本願寺への海上補給に成功し、信長を苦しめた。この敗北が鉄甲船建造の契機となる。 |
| 洲本城の戦い(1581) | 天正九年、羽柴秀吉は淡路国を電撃的に平定。洲本城の戦いとは、安宅氏を無血降伏させ、白巣城の抵抗を鎮圧したこの淡路平定戦を指す。四国攻めへの重要な布石となった。 |
| 園部城の戦い(1579) | 天正六年、明智光秀は丹波の要害荒木城を攻囲。水の手を断つ兵糧攻めで城将荒木氏綱を降伏させ、八上城を孤立させた。天正七年には丹波平定を完了し、光秀の武名を天下に轟かせた。 |
| 高砂城の戦い(1580) | 天正八年、羽柴秀吉は播磨灘沿岸の残敵を掃討。高砂城の戦いと称されるこの作戦は、三木城陥落後の播磨を完全に平定し、秀吉の中国攻めを盤石とした。かつて高砂城主梶原景秀は毛利と連携し織田に抗した。 |
| 高砂・英賀合戦(1580) | 天正八年、羽柴秀吉は播磨平定の総仕上げとして、高砂・英賀の残敵を掃討。三木城陥落後の播磨を完全に掌握し、後の中国大返しを可能とする盤石な後方基地を築き上げた。 |
| 高槻城の戦い(1569) | 永禄十二年、高槻城の戦いは京の本圀寺の変に連動。旧城主入江氏は三好方に与し敗北、和田惟政が無血入城した。これは信長の畿内支配強化と摂津再編の要となり、流血を最小限に抑えた政治的転換であった。 |
| 高槻城の戦い(1576) | 天正四年、高槻城は石山合戦の織田軍重要拠点。二年後の荒木村重謀反時、城主高山右近は信仰と忠義の狭間で苦悩。信長の脅迫を受け無血開城。この決断は有岡城孤立を招き、信長の摂津平定と天下統一を加速させた。 |
| 高取城の戦い(1580) | 天正八年、高取城の戦いは信長の城割令による破城。筒井順慶はこれを利用し越智氏を弱体化させ大和国を統一。武力なき政治闘争が中世秩序を終焉させ、近世への転換を告げた。 |
| 高浜城の戦い(1571) | 元亀二年、若狭高浜城主・逸見昌経は、織田と朝倉の狭間で孤立。水軍を駆使し、情報戦と持久戦で城を守り抜いた。その忠誠が信長に報いられ、若狭は織田体制へ移行した。 |
| 高屋城の戦い(1562) | 永禄五年、三好長慶と畠山高政が畿内の覇権を争う。久米田で畠山軍が三好実休を討ち取るも、長慶は迅速に再編。教興寺の戦いで鉄砲を封じ、挟撃で畠山軍を壊滅させ、三好氏の覇権を再確立した。 |
| 高屋城の戦い(1575) | 天正三年、織田信長は河内高屋城を攻略。三好康長らの抵抗を退け、畿内最後の反信長勢力を一掃した。この勝利は石山本願寺を孤立させ、信長の総力戦の完成形を示し、長篠の戦いへの布石となる重要な戦役であった。 |
| 長比城の戦い(1580) | 元亀元年、織田信長は竹中半兵衛の調略により、長比城を無血開城させた。この戦いは、信長が戦わずして敵の要衝を奪い、直後の姉川の戦いを有利に進める決定的な布石となった。 |
| 竹田城の戦い(1580) | 竹田城の戦い(1580)は、羽柴秀吉の中国経略における但馬平定戦。太田垣輝延は織田軍の圧倒的兵力と三木城の悲惨な末路を目の当たりにし、無血開城。 |
| 辰市の戦い(1567) | 元亀二年、大和辰市で筒井順慶が松永久秀を破った。義昭の政治工作で順慶は松永を誘引し、伏兵と挟撃で大勝。この勝利で筒井氏は大和を掌握し、信長に臣従。畿内政治の転換点となり、松永久秀は凋落した。 |
| 龍野城の戦い(1577~80) | 天正五年、羽柴秀吉の播磨侵攻により龍野城は無血開城。上月城の悲劇を鑑みた若き城主・赤松広秀の決断は、一族存続の道を選んだ。播磨は三木合戦を経て平定され、秀吉の中国攻めの拠点となった。 |
| 田辺浦海戦(1582) | 天正十年、紀伊田辺浦にて小規模な海戦勃発。これは織田の天下統一戦略と本能寺の変後の権力空白が交錯し、紀伊の在地勢力が激動の時代を生き抜くための闘争の一端であった。 |
| 田辺城の戦い(1600) | 慶長五年、細川幽斎は丹後田辺城に籠城。西軍1万5千に囲まれ、500の兵で50日間耐え抜く。幽斎の文化的権威と「古今伝授」が朝廷を動かし、勅命で開城。 |
| 多聞山城攻防(1562~68) | 永禄年間、大和国を巡り松永久秀、筒井順慶、三好三人衆が多聞山城を舞台に激戦を展開。旧時代の終焉と新時代の到来を象徴するこの攻防は、畿内の権力構造変革の縮図であった。 |
| 多聞山城の戦い(1577) | 天正五年、松永久秀は信長に二度目の謀反。信忠率いる織田軍に信貴山城を包囲され、筒井順慶の調略で落城。久秀は平蜘蛛釜と共に爆死したと伝わる壮絶な最期を遂げた。 |
| 大物崩れ(1531) | 享禄4年、細川高国は浦上村宗と共に細川晴元・三好元長軍と激突。赤松政祐の裏切りにより大敗し自刃。畿内の覇権は三好氏へと移る転換点となった。 |
| 竹生島・琵琶湖水上戦(1573) | 天正元年、織田信長は琵琶湖の制水権掌握へ巨大船を建造。竹生島周辺を制圧し、朝倉軍の連携を断ち小谷城を孤立させた。水陸連携作戦で浅井氏は滅亡、信長の覇業の礎を築いた。 |
| 長光寺城の戦い(1568) | 永禄11年、織田信長は上洛の途上、六角氏の長光寺城を攻略。箕作城の陥落と観音寺城の自焼により、六角氏は甲賀へ敗走。信長の電撃戦が近江を制圧した。 |
| 筒井城の戦い(1567) | 永禄十年、松永久秀と筒井順慶は大和で激突、南都対陣にて東大寺大仏殿が炎上。翌年、信長上洛で久秀が臣従、孤立した順慶は筒井城を失う。大和の中世を終焉させ、近世の幕開けを告げし戦いなり。 |
| 豊島沖の海戦(1576) | 天正四年、毛利水軍は木津川口で織田水軍を焙烙火矢で撃破し、石山本願寺への兵糧搬入に成功。この勝利は毛利の海戦術の頂点を示すも、信長に鉄甲船建造を決意させ、二年後の雪辱戦と海戦史の転換点へと繋がった。 |
| 天王寺の戦い(1576) | 天正四年、織田信長は石山合戦で本願寺を包囲。織田軍は本願寺勢の反撃で壊滅。信長は自ら出陣し、負傷しながらも本願寺勢を撃破。この戦いは信長の戦略転換を促した。 |
| 天王寺・岡山口の戦い(1578) | 天正四年に発生した織田信長と石山本願寺・雑賀衆の激突。塙直政の戦死で窮地に陥った織田軍を、信長が僅かな供回りで急襲し本願寺軍を破って逆転した野戦。 |
| 天王寺・岡山の戦い(1615) | 戦国の世の終焉を決定づけた大坂夏の陣の最終決戦。真田信繁や毛利勝永らの豊臣軍が、圧倒的兵力差を覆すため家康本陣へ強襲を試みたが、連携を欠いて大坂城が落城した。 |
| 東大寺大仏殿の戦い(1567) | 永禄十年、三好三人衆と松永久秀が東大寺を挟み対峙。久秀の夜襲で大仏殿が炎上し、大仏も損傷。通説では久秀の放火とされるが、同時代史料は失火を示唆。この悲劇は戦国乱世の非情さを象徴する。 |
| 刀根坂の戦い(1570) | 天正元年、信長は武田信玄の死と足利義昭追放に乗じ、浅井・朝倉氏を攻めた。暴風雨の中、信長は奇襲で朝倉軍前線を崩壊させ、刀根坂で追撃殲滅。朝倉義景は裏切りにより自害し、名門朝倉氏は滅亡した。 |
| 鞆の浦海戦(1573~92) | 鞆の浦海戦は、足利義昭の亡命政権を巡る織田・毛利の瀬戸内制海権争奪戦。毛利水軍の焙烙火矢に対し、信長は鉄甲船で応酬。この技術革新が石山合戦の帰趨を決め、天下統一と新たな海上秩序の確立に繋がった。 |
| 虎御前山砦の戦い(1570) | 元亀元年、虎御前山砦の戦いは信長による北近江平定戦。金ヶ崎の裏切り後、信長は小谷城を封殺すべく巨大陣城を築き、兵站と調略で浅井・朝倉を追い詰めた。秀吉の活躍もあり、浅井氏は滅亡した。 |
| 虎御前山砦の戦い(1573) | 天正元年の小谷城攻略戦において、織田信長が本拠・小谷城の眼前に築いた監視拠点・虎御前山砦を巡る攻防。朝倉・浅井両氏を孤立させ滅亡へ導いた合戦。 |
| 道明寺の戦い(1615) | 慶長20年、大坂夏の陣で豊臣方は道明寺に布陣。濃霧と連携不足で後藤又兵衛が孤立し討死。真田信繁も奮戦するも撤退し、豊臣方の敗北を決定づけた。 |
| 長浜城の戦い(1573) | 天正元年、長浜城の戦いは史実になく、小谷城の戦いを指す。織田信長は浅井氏を滅ぼし、信長包囲網を崩壊させた。この戦功で羽柴秀吉は長浜城を築き、近世城下町経営の才を発揮。秀吉飛躍の転換点となった。 |
| 二条御所の変(永禄の変・1565) | 二条御所の変(永禄の変・1565)は、足利義輝が三好三人衆らに襲撃され非業の死を遂げた事件。幕府の権威に終止符を打ち、信長による天下統一への道を拓く転換点。 |
| 根来寺焼討(1585) | 天正十三年、豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いの遺恨を晴らすべく、紀州の根来寺を焼き討ち。鉄砲集団根来衆は千石堀城の爆発で壊滅し、秀吉は紀州を平定。中世的寺社勢力の終焉を告げた。 |
| 根来寺・雑賀攻め(1585) | 天正十三年、羽柴秀吉は紀州の根来寺・雑賀衆を攻め、独立王国を徹底的に平定。鉄砲を主力とする彼らは秀吉を苦しめたが、中央集権化に抗う中世的自治共同体は終焉を迎えた。 |
| 野田城・福島城の戦い(1570~71) | 元亀元年、織田信長は野田城・福島城を攻囲。三好三人衆と激戦中、石山本願寺が蜂起し水攻め。浅井・朝倉連合軍も挙兵し、信長は二正面作戦を強いられ撤退。石山合戦の本格化と信長包囲網の完成を告げた。 |
| 野田・福島の戦い(1570) | 元亀元年、織田信長は野田・福島城を攻囲。三好三人衆と石山本願寺の連合軍に苦戦し、背後からの浅井・朝倉軍の脅威で撤退を余儀なくされた。この戦いは信長包囲網を完成させ、石山合戦の幕開けとなった。 |
| 花隈城の戦い(1580) | 天正八年、織田信長に反旗を翻した荒木村重は、最後の拠点花隈城に籠城。信長の猛攻と兵糧攻めに耐えきれず落城し、村重の反乱は終焉を迎えた。これは信長の天下布武における冷徹な論理を示す。 |
| 比叡山焼き討ち(1571) | 元亀二年、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ち。中世以来の宗教的権威と、天下布武を目指す信長の武家権力が激突し、日本の権力構造と政治・宗教の関係性を根底から揺るがした画期的な事件である。 |
| 福原城の戦い(1580) | 福原城の戦い(1580)は、秀吉の播磨平定における二つの局面。1577年の福原城攻略と、1579-80年の三木城支城掃討戦。秀吉は兵糧攻め「三木の干殺し」で三木城を落とし、播磨平定を完成させた。 |
| 福連寺城の戦い(1577) | 天正五年、羽柴秀吉は中国攻めの緒戦として播磨福原城を攻撃。竹中半兵衛・黒田官兵衛らが福原則尚を攻め、城は落城。秀吉は女子供まで処刑し、播磨国衆に恐怖を植え付け、上月城攻略の布石とした。 |
| 伏見城の戦い(1600) | 慶長五年、豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下の政権掌握へ動き出す。伏見城の戦いは、関ヶ原への序曲として、家康の戦略的意図と忠臣たちの覚悟が交錯する激戦となった。 |
| 堀江川口の戦い(1576) | 天正四年、石山合戦の最中、毛利水軍は織田水軍を木津川口で撃破。村上水軍の焙烙火矢が猛威を振るい、本願寺への兵糧搬入に成功。この敗北が信長に鉄甲船建造を決意させ、日本の海戦史を転換させた。 |
| 本圀寺の変(1565) | 永禄八年、室町幕府13代将軍・足利義輝が三好義継らに二条御所で襲撃され非業の死を遂げた「永禄の変」。将軍弑逆は幕府の権威終焉を天下に知らしめた。義輝は剣豪将軍として奮戦。 |
| 鈎(まがり)の陣(1568) | 永禄十一年、織田信長は足利義昭を奉じ上洛。南近江の六角氏が立ちはだかるも、信長は電撃的な戦術で箕作城を陥落させ、観音寺城を無血開城。名門六角氏は滅亡し、信長の天下布武の第一歩となった。 |
| 槇島城の戦い(1573) | 元亀四年、織田信長は室町幕府将軍・足利義昭を京都から追放。槇島城の戦いは、約240年続いた室町幕府の終焉を決定づけ、信長による新たな時代の到来を象徴する画期的な出来事となった。 |
| 三木合戦(1578~80) | 天正六年、播磨の別所長治は織田信長に反旗を翻し、毛利氏に通じた。羽柴秀吉は三木城を兵糧攻めし、二年に及ぶ激戦の末に落城。これは織田と毛利の衝突の象徴である。 |
| 三雲城の戦い(1568) | 永禄十一年、信長は観音寺城を攻略し六角氏を甲賀へ追放。六角氏は三雲城を最後の拠点としゲリラ戦を展開。元亀元年、野洲河原の敗戦後、三雲城も落城し六角氏は滅亡した。 |
| 三雲寺口・野洲川渡河戦(1568) | 永禄十一年、信長は観音寺城を電撃攻略し六角氏を追放。元亀元年、六角氏は野洲河原で再起を図るも柴田・佐久間軍に大敗。三雲一族も討死し、六角氏は事実上滅亡した。 |
| 箕作城の戦い(1568) | 永禄十一年に発生した織田信長の上洛戦における最初の軍事衝突。足利義昭を奉じ上洛を目指す信長が、六角氏の支城・箕作城を一日で陥落させた合戦。 |
| 三根山城の戦い(1581) | 天正十年、細川忠興は丹後守護一色氏の最後の拠点弓木城を攻略。本能寺の変後、明智光秀に与した一色義定を謀殺し、稲富鉄砲隊の奮戦も空しく城は落城。名門一色氏は滅亡した。 |
| 宮津城の戦い(1580) | 丹後国を巡る「宮津城の戦い」は、織田・細川連合軍による一色氏平定、宮津城築城、そして本能寺の変後の細川忠興による一色義定謀殺を経て、細川氏が丹後を完全に掌握する権力移行の過程であった。 |
| 宮津城の戦い(1582) | 天正十年、本能寺の変後の混乱に乗じ、細川忠興は明智光秀に与した一色義定を宮津城に誘殺。丹後一国を掌握し、細川氏の天下取りへの重要な布石を築いた。 |
| 宮部城の戦い(1578) | 天正六年、但馬国で織田・毛利の代理戦争が勃発。宵田城を巡る攻防は、羽柴秀吉に但馬平定の教訓を与え、宮部継潤の活躍と共に、後の但馬統一への重要な序幕となった。 |
| 妙顕寺の変(1536) | 天文5年、京都で法華宗と延暦寺の対立が激化。松本問答を契機に延暦寺・六角氏らが法華一揆を攻撃。京都は焦土と化し、法華宗は壊滅。宗教勢力の武装化と武家権力による統制。 |
| 室津港の戦い(1577) | 天正五年、黒田官兵衛は英賀合戦で毛利水軍の浦宗勝を奇襲。兵力十倍の敵を破り、室津港を確保した。この勝利は播磨の趨勢を織田方へ傾け、秀吉の中国攻めの足がかりとなった。 |
| 明応の政変の戦闘(1493) | 明応2年、管領細川政元は将軍義材を河内に出兵させ、京都でクーデターを敢行。義材は孤立し、畠山政長は自刃。義材は捕縛され、義澄が新将軍に。下剋上を体現し、戦国時代幕開け。 |
| 八上城の戦い(1575~80) | 明智光秀は、丹波の難攻不落八上城を付け城と兵糧攻めで攻略。波多野氏を滅ぼし丹波を平定した。この勝利は光秀を方面軍司令官へと押し上げ、後の本能寺の変へと繋がる力を与えた。 |
| 山崎の戦い(1582) | 天正十年、本能寺の変後、羽柴秀吉は「中国大返し」で神速の進軍。山崎の戦いで明智光秀を破り、信長の仇を討ち天下の主導権を掌握した。この勝利は、秀吉の天下統一への第一歩となった。 |
| 山科本願寺焼討(1532) | 天文元年、細川晴元は三好元長打倒のため本願寺と結ぶが、一向一揆の暴走に危機感を抱き、法華一揆・六角氏と連合。山科本願寺を焼き討ちし、本願寺は大坂へ移転。宗教勢力の変質と畿内政治の転換。 |
| 山城国一揆(1485~93) | 文明17年、畠山氏の内紛に疲弊した南山城の国人・農民が宇治平等院で集会。両畠山軍の国外退去を要求し、8年間の自治「惣国」を樹立。明応の政変後、伊勢貞陸の介入で分裂し、武力鎮圧され終焉。 |
| 大和川口・博労淵の戦い(1614) | 大坂冬の陣における木津川口や博労淵の砦をめぐる攻防。大坂湾からの海上補給路の遮断を狙う徳川家康に対し、蜂須賀至鎮らの外様大名が豊臣軍の砦を急襲し陥落させた。 |
| 大和川渡河戦(1615) | 慶長二十年、大坂夏の陣。豊臣方は大和川流域で徳川軍を各個撃破するも、濃霧で連携失敗。後藤基次、木村重成が討死し、長宗我部盛親も撤退。真田信繁は奮戦するも、豊臣方は野戦能力を失い滅亡へ。 |
| 大和郡山城の戦い(1580) | 天正八年、大和郡山城は武力なき攻略戦にて織田信長の手に落ちた。筒井順慶が国主となり、一国一城令と粛清で大和の支配を確立。戦国から近世への転換を告げ、豊臣秀長の大和支配の礎を築きし戦いなり。 |
| 由良城の戦い(1581) | 天正九年、羽柴秀吉は淡路国を電撃的に平定。由良城の戦いとは、安宅氏を無血降伏させ、白巣城の抵抗を鎮圧したこの淡路平定戦を指す。四国攻めへの重要な布石となった。 |
| 横山城の戦い(1570) | 元亀元年に発生した織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍による攻防戦。金ヶ崎での裏切りへの報復として信長が要衝・横山城を攻め姉川の戦いを経て陥落させた。 |
| 横山城(近江)再包囲(1573) | 天正元年、羽柴秀吉が守る横山城は浅井氏滅亡の要衝となる。信長は朝倉氏を滅ぼし、小谷城を攻め落とし、浅井氏は滅亡。秀吉は北近江を得て飛躍した。 |
| 与坂の戦い(1570) | 元亀元年、信長が摂津出兵中に浅井・朝倉連合軍が京へ進軍。森可成は宇佐山城で寡兵ながら奮戦し、信長の弟信治らと共に討死するも、連合軍の進撃を阻止。信長は急遽帰還し、志賀の陣へと移行した。 |
| 与謝・加悦谷の戦い(1579) | 天正七年、明智光秀と細川藤孝は丹後守護一色義道を攻囲。調略と武力で本拠を陥落させ、義道は裏切りで最期を迎えた。嫡男義定は奮戦するも政略で和睦。本能寺の変後、一色氏は滅亡した。 |
| 淀城の戦い(1600) | 慶長五年の関ヶ原の戦いの前哨戦において、京都と大坂を結ぶ淀川水運の要衝・淀を巡る攻防。実質的な武力衝突はなく、東軍の圧力で西軍が開城した合戦。 |
| 若江の戦い(1615) | 大坂夏の陣、木村重成は若江で徳川軍と激突。緒戦で藤堂勢を破るも、井伊直孝の赤備えに苦戦し戦死。長宗我部盛親も八尾で奮戦するが、木村隊壊滅の報を受け撤退。豊臣家滅亡を決定づけた。 |