最終更新日 2026-06-19
合戦地域分類:東北
「東北」に属する合戦:46件
| 合戦 | 概要 |
|---|---|
| 飯坂城の戦い(1590) | 天正18年、飯坂城は葛西・大崎一揆に際し、伊達政宗の政治交渉の司令部となった。政宗は秀吉の疑念を晴らすため、重臣を人質に差し出し、伊達家の存亡を賭けた外交戦を繰り広げた。 |
| 大内宿口の戦い(1589) | 天正17年、伊達政宗は会津侵攻にあたり、大内宿口からの正面攻撃を避けた。重臣の内応を利用し猪苗代から侵入、蘆名氏の防衛網を無力化し、摺上原の決戦に勝利した。 |
| 大崎合戦(1588~89) | 天正16年、伊達政宗は大崎氏の内紛に介入するも、最上義光の妨害や同盟国の裏切りに遭い大敗。この政宗の生涯唯一の敗北は、彼の野望に初めて現実の壁を突きつけた。 |
| 小高城の戦い(1589) | 天正17年、伊達政宗は蘆名氏を滅ぼし、その矛先を相馬義胤に向けた。相馬氏は小高城で玉砕を覚悟するが、秀吉の小田原征伐の命により伊達軍は撤退、相馬氏は滅亡を免れた。 |
| 小手森城の戦い(1588) | 天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐において、武蔵国の要衝たる小机城は戦わずして開城。情報戦と心理戦の末、徳川家康の政策により廃城となるも、その遺構は今に歴史を語り継ぐ。 |
| 角田城周辺戦(1590) | 天正十八年、奥羽仕置で伊達政宗は会津を没収され、蒲生氏郷が会津に入封。角田城は対蒲生氏の最前線となり、葛西大崎一揆では伊達家の後方支援拠点として機能した。 |
| 角館城の戦い(1590) | 天正十八年、戸沢盛安が小田原参陣中、角館城で一門の謀反が勃発。留守居役は討死するも家臣団が鎮圧。盛安は陣没するも、秀吉の裁定で戸沢家は存続した。 |
| 葛西・大崎一揆(1591) | 天正十八年、豊臣秀吉の奥州仕置後、葛西・大崎旧領で一揆が勃発。新領主・木村吉清の性急な統治が原因。伊達政宗は一揆扇動を疑われ、徹底的な撫で斬りで鎮圧。 |
| 亀ヶ城(猪苗代)攻防(1589) | 天正17年、伊達政宗は蘆名氏の重臣・猪苗代盛国を調略し、亀ヶ城(猪苗代城)を無血開城させた。これにより会津盆地への道を開き、摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした。 |
| 亀田城包囲(1600) | 慶長五年、慶長出羽合戦。上杉軍は庄内から最上領へ侵攻。志駄義秀は亀田城を包囲し由利衆を牽制、迅速に最上領深部へ進撃。この作戦は上杉軍の二方面作戦成功に貢献した。 |
| 清川口の戦い(1600) | 慶長出羽合戦は、関ヶ原と同時期に最上義光と上杉景勝が奥羽の覇権を争った「北の関ヶ原」。最上軍は孤立無援ながらも上杉軍を釘付けにし、徳川家康の天下統一に貢献した。 |
| 九戸城の戦い(1591) | 天正十九年、豊臣秀吉の奥州仕置に対し、九戸政実が南部信直と秀吉に反旗。難攻不落の九戸城に籠城し奮戦するも、謀略により降伏。城兵は撫で斬りにされ、九戸氏は滅亡。天下統一最後の戦い。 |
| 黒川城の戦い(1589) | 天正十七年、伊達政宗は蘆名氏の内紛を突き、摺上原の戦いで勝利し黒川城を無血開城。会津を掌握するも、秀吉の惣無事令違反で領地没収、覇権は束の間であった。 |
| 郡山合戦(1588) | 天正十六年、伊達政宗は蘆名・佐竹連合軍の侵攻を受け、郡山で絶対的劣勢に陥る。しかし、四十日間の対峙を耐え抜き和議に持ち込み、後の摺上原での勝利への布石とした。 |
| 鮫ヶ浦・能代湊の戦い(1590) | 天正17年、安東氏の内紛「湊合戦」が勃発。若き当主実季は劣勢の中、檜山城に籠城し鉄砲で抗戦。秀吉の惣無事令下、激戦を制し、奥羽の戦国時代終焉を象徴する戦いとなった。 |
| 三戸城の戦い(1591) | 天正19年、九戸政実が豊臣秀吉に反抗し九戸城に籠城。秀次率いる大軍に包囲され、偽りの和睦で開城後、城兵は撫で斬りに。政実は処刑され、戦国時代の終焉を告げた。 |
| 庄内・藤島城の戦い(1588~92) | 天正16年、本庄繁長は十五里ヶ原で最上軍を破り庄内を奪還。しかし、後の庄内一揆を扇動した嫌疑で改易される。藤島城は一揆の拠点となったが、直江兼続に鎮圧された。 |
| 白河小峰城の戦い(1600) | 慶長五年、白河小峰城周辺で「幻の白河決戦」が計画されたが、関ヶ原の報で中止。「関山の戦い」で徳川方が上杉軍の南下を阻止し、奥羽南口の防衛線を確立。 |
| 白石川・刈田原の戦い(1590) | 天正18年、豊臣秀吉の奥州仕置後、葛西・大崎一揆が勃発。伊達政宗は一揆扇動を疑われ、潔白証明のため白石川・刈田原で一揆勢と激突し勝利。京での弁明で偽造書状を見破り改易を免れ、近世大名へ転換。 |
| 白石城の戦い(1600) | 慶長五年、関ヶ原前夜の白石城の戦い。伊達政宗は旧領奪還と百万石の夢を懸け上杉軍と激突。二日で落城させるも、家康の小山評定で戦略的価値は変質。政宗の野望と時代の転換点。 |
| 志波姫の戦い(1591) | 天正十九年、葛西大崎一揆最終局面「志波姫の戦い」。伊達政宗は一揆を鎮圧し佐沼城で撫で斬り敢行。秀吉の奥州再仕置で実質減封も、近世大名として生き残る。奥州中世の終焉を告げる。 |
| 新庄城の戦い(1587) | 天正15年、最上義光は謀略で庄内を制圧。この動きが連鎖し、戸沢盛安が小野寺領へ侵攻した。新庄城は直接の戦場ではなく、最上軍の北方戦略を支える兵站拠点であった。 |
| 須賀川城の戦い(1589) | 天正17年、伊達政宗は叔母の阿南姫が守る須賀川城を攻めた。家臣の裏切りもあり城は一日で落城。政宗は南奥州を制圧するが、惣無事令違反で領地は没収された。 |
| 摺上原の戦い(1589) | 天正十七年、伊達政宗は摺上原で蘆名氏を滅ぼし、南奥州の覇権を確立。これは豊臣秀吉の天下統一に抗う、政宗最後の挑戦であり、奥州の勢力図を塗り替える転換点となった。 |
| 仙道口・白河小峰の戦い(1596~1615) | 仙道口・白河小峰の戦いは、関ヶ原の戦いに連動した奥羽の軍事動静を指す。上杉景勝と伊達政宗・最上義光が激突し、白河口での対峙や長谷堂城の死闘を経て、徳川家康の天下統一を決定づけた。 |
| 高畠城の戦い(1588) | 天正十六年、秀吉の惣無事令下で本庄繁長と最上義光が庄内を巡り激突。十五里ヶ原で最上軍は壊滅するも、義光は後に政治力で再起し、戦国の終焉を告げた一戦。 |
| 楯岡城の戦い(1600) | 慶長五年、慶長出羽合戦。楯岡満茂は湯沢城で小野寺軍を阻止し、最上氏を南北挟撃の危機から救う。この隠れた功績が、最上義光の大大名への道を拓いた。 |
| 鶴ヶ岡城の戦い(1592) | 1592年の鶴ヶ岡城の戦いは、庄内を巡る最上・上杉氏の争いと藤島一揆の最終局面。上杉氏が庄内を平定し、直江兼続による統治が確立。戦乱終結と近世支配秩序の始まりを告げる。 |
| 天童城の戦い(1591) | 最上義光が出羽村山郡を統一するため、国人連合・最上八楯の盟主天童氏の居城・天童城を攻略した戦い。天正十九年の奥州仕置における最上氏の領有権確定に繋がった。 |
| 東禅寺の変(1578) | 天正六年、出羽国で安東氏の内紛「湊騒動」が発生。これは「東禅寺の変」と混同されるが、檜山安東氏と湊安東氏の経済的対立が原因。安東愛季が武力で鎮圧し、湊の利権を掌握した。 |
| 長井・伊達境目の戦い(1542~48) | "伊達父子の家督争いである天文の乱にて、晴宗方の長井郡と稙宗方の伊達郡の境目で勃発した攻防。蘆名氏の寝返りと将軍の和睦仲介により、晴宗の勝利で終結した。" |
| 浪岡城の戦い(1578) | 天正六年、津軽為信は謀略と奇襲で浪岡城を陥落させ、名門北畠氏を滅ぼした。これは津軽統一への転換点であり、為信の冷徹な智謀を示す戦いとして歴史に刻まれた。 |
| 二本松城の戦い(1586) | 二本松城の戦い(1586)は、伊達政宗が父の仇討ちとして畠山義継の二本松城を攻めた戦い。人取橋の戦いで伊達軍は壊滅寸前となるも生還。和平交渉により二本松城は開城。 |
| 根白坂の戦い(1591) | 天正十九年、豊臣秀吉の奥州仕置に反発した九戸政実は、九戸城で豊臣大軍に抗戦。これは天下統一最後の戦役であり、中央集権化に抗う辺境の強者の最後の抵抗となった。 |
| 長谷堂の戦い(1600) | 慶長出羽合戦、長谷堂城を巡る攻防。直江兼続率いる上杉軍の猛攻を、最上義光の志村光安らが十五日間耐え抜く。関ヶ原の報で上杉軍は撤退、「直江の退き口」を成功。 |
| 八戸根城の戦い(1591) | 九戸の乱において根城南部氏が敢行した島守館攻略戦などの軍事行動。八戸政栄が主家・三戸南部氏を支援し、南部一族内の三国鼎立の権力闘争において果たした役割を示す。 |
| 人取橋の戦い(1585) | 天正十三年、伊達政宗は父輝宗を失い、佐竹・蘆名連合軍と人取橋で激突。生涯最大の危機に瀕するも、奥州の覇権を巡る戦いを生き抜き、独眼竜の野望を加速させた。 |
| 檜山城の戦い(1588~89) | 天正十七年、安東氏の内訌「湊合戦」が勃発。安東実季は檜山城に籠城し、由利衆の援軍を得て安東通季を退けた。戦後、実季は豊臣秀吉の裁定で減封されるも、秋田氏として近世大名へ。 |
| 檜山城の戦い(1600) | 慶長五年、秋田実季は東軍として仙北へ出兵。最上義光との確執が転封を招き、檜山城は佐竹氏の支配下へ。物理的落城ではないが、秋田氏の城としては終焉を迎えた。 |
| 湊合戦(1514) | 永正11年(1514年)の湊合戦は、安東氏の二元的な権力構造と北方交易利権を巡る対立が背景。大規模戦闘は無かったが、安東舜季が誕生し、未来の紛争の種子が蒔かれた。 |
| 山形城の戦い(1600) | 慶長五年、関ヶ原の影で「北の関ヶ原」慶長出羽合戦が勃発。最上義光は寡兵で上杉軍を食い止め、徳川の勝利に貢献。最上家は大大名へと飛躍。 |
| 横手城の戦い(1600) | 慶長五年、関ヶ原に連動し、小野寺義道は宿敵最上義光への復讐のため西軍に内通。東軍勝利で孤立し横手城を開城。小野寺氏は滅亡、最上氏が覇権確立。奥羽の勢力図が塗り替えられた。 |
| 横手・増田口の戦い(1590) | 天正十八年、奥羽仕置で仙北一揆が勃発。小野寺義道不在の中、上杉景勝が鎮圧し、小野寺氏は領地を失い最上義光が勢力を拡大。この事件は関ヶ原の遠因となる。 |
| 和賀・稗貫一揆鎮圧(1591) | 天正十八年、奥州仕置に反発した和賀・稗貫一揆が蜂起。南部信直の救援も冬季で撤退し、一揆は一時旧領を回復。しかし天正十九年、豊臣秀次率いる再仕置軍に鎮圧され、和賀・稗貫氏は滅亡。 |
| 和賀・稗貫一揆(1596~97) | 天正十八年、奥州仕置で所領を失った和賀・稗貫氏が蜂起。慶長五年、関ヶ原に乗じ伊達政宗の扇動で再蜂起するも、南部軍に鎮圧され旧領回復の夢は潰えた。 |
| 亘理・吉田浜の戦い(1589) | 天正17年、伊達政宗は相馬領北部の駒ヶ嶺・新地城を攻略。相馬義胤は失地回復を図るも、亘理重宗率いる伊達軍に吉田浜で迎撃され敗北。伊達氏の浜通り支配を決定づけた。 |