最終更新日 2026-06-19
合戦地域分類:九州
「九州」に属する合戦:41件
| 合戦 | 概要 |
|---|---|
| 縣城(延岡城)の戦い(1587) | 天正15年、豊臣秀吉の九州平定において、日向の縣城は無血開城した。根白坂の戦いで島津本隊が壊滅し、救援の望みが絶たれたため、城主土持久綱は抵抗を断念した。 |
| 石垣原の戦い(1600) | 関ヶ原前夜、黒田如水と大友義統が石垣原で激突。如水は天下取りの野望を抱き大軍を組織、義統は旧領回復を願い奮戦。吉弘統幸の最期と共に大友軍は敗れ、如水は九州を平定。 |
| 伊集院口の戦い(1587) | 天正十五年、豊臣秀吉の九州征伐において、島津氏は根白坂の敗北後、薩摩伊集院口で最後の抵抗を試みた。しかし、圧倒的な物量の前に大規模な戦闘なく降伏。九州の覇者の時代は静かに幕を閉じた。 |
| 今山の戦い(1570) | 元亀元年、肥前の龍造寺隆信は、大友宗麟の大軍を鍋島直茂の奇襲で撃破。この「佐賀の桶狭間」は龍造寺氏興隆の契機となり、九州の勢力図を大きく塗り替える転換点となった。 |
| 岩屋城の戦い(1586) | 高橋紹運、岩屋城に籠もり島津の大軍を迎え撃ち、十四日間の激戦の末、全兵玉砕。その壮絶な忠義は豊臣秀吉に「乱世の華」と称賛され、九州の歴史を変えた。 |
| 臼杵城の戦い(1586) | 天正十四年、島津軍の豊後侵攻に対し、大友宗麟は海城・臼杵城に籠城。戸次川の敗戦後も「国崩し」で島津軍を翻弄し、粘り強く抵抗。九州平定に貢献した。 |
| 馬ヶ岳城の戦い(1587) | 天正15年、豊臣秀吉の九州平定で馬ヶ岳城は無血開城し、本営となる。新領主黒田長政は、後の国人一揆で当城を拠点に苦戦しつつも、謀略で旧領主宇都宮鎮房を滅ぼした。 |
| 岡城の戦い(1586~87) | 天正十四年、島津大軍の豊後侵攻。岡城主・志賀親次は、孤立無援の中、天険の要塞と戦術で半年籠城。豊臣秀吉の九州上陸まで島津軍を釘付けにし、平定に貢献。 |
| 沖田畷の戦い(1584) | 天正十二年、肥前沖田畷で龍造寺隆信と島津家久が激突。隆信は慢心から大敗し討死、龍造寺氏の勢力は衰退。この戦いは九州の勢力図を大きく塗り替え、島津氏の覇権を決定づけた。 |
| 飫肥城の戦い(1587) | 天正十五年、秀吉の九州平定で飫肥城は戦闘なく開城。城将・上原尚近は伊東祐兵への引き渡しを拒否。武士の抵抗は一年続き、交渉の末、無血で城は引き渡された。 |
| 加久藤城の戦い(1587) | 「加久藤城の戦い(1587)」は史実と異なり、1572年の加久藤城防衛、1587年の根白坂での敗北、1600年の関ヶ原「島津の退き口」という三つの戦いが混同された歴史的誤解である。 |
| 加久藤の戦い(1572) | 元亀三年、島津義弘は加久藤・木崎原の戦いで伊東氏三千を三百余の寡兵で破る。加久藤城の堅守と「釣り野伏せ」戦術を駆使し、南九州の覇権を確立。島津氏飛躍の契機となった。 |
| 岩石城の戦い(1587) | 天正十五年、豊臣秀吉の九州平定において、堅城岩石城は一日で陥落した。圧倒的鉄砲の前に秋月氏の抵抗は崩れ、旧来の戦術の終焉と新時代の到来を告げた戦いである。 |
| 木崎原の戦い(1572) | 元亀三年、島津義弘は日向国木崎原で伊東義祐の大軍3000と激突。義弘は謀略と「釣り野伏せ」で伊東軍を誘引し、伊東祐安らを討ち取り大勝。 |
| 隈本(熊本)城の戦い(1587) | 天正15年、肥後国主佐々成政の性急な検地が国衆一揆を招く。隈本城は包囲されるも、立花宗茂の救援で落城を免れた。結果、成政は切腹、秀吉は肥後を完全に掌握した。 |
| 甲佐城の戦い(1587) | 天正15年、肥後国人一揆の田中城攻防戦。豊臣軍の調略で落城し、中世的国衆支配は終焉。秀吉による近世的中央集権統治の確立を象徴する戦いとなった。 |
| 高山城の戦い(1587) | 天正十五年、豊臣秀吉の九州平定における大隅国平定戦役。根白坂の戦いで島津軍は敗北し、在地領主肝付氏の旧拠点高山城は、中央の支配を象徴する存在となった。 |
| 佐土原城の戦い(1587) | 天正十五年の豊臣秀吉による九州征伐における日向佐土原城の出来事。関白の惣無事令を無視し統一を急ぐ島津義久に対し、豊臣秀長率いる十万の大軍が日向を席巻した。 |
| 佐土原・木崎浜口の戦い(1587) | 天正十五年、豊臣秀吉の九州平定において、島津家久は佐土原・木崎浜口で陸海からの圧力を受け無血開城。根白坂の敗北後、家久は謎の急死を遂げ、九州の覇者の終焉と新時代の到来を告げた。 |
| 志布志城の戦い(1587) | 天正15年、豊臣秀吉の九州平定において、大隅の要衝・志布志城は戦わずして開城した。根白坂の戦いで島津本隊が壊滅し、主家の降伏決定に従い、抵抗を断念したのである。 |
| 高城の戦い(1587) | 天正十五年、豊臣秀吉は九州征伐で島津氏と激突。秀長は高城を包囲し、根白坂で島津本隊を迎え撃つ。島津軍は夜襲を仕掛けるも豊臣軍の鉄壁の防御と側面攻撃で壊滅。島津氏は降伏し、九州平定が完了。 |
| 立花山城の戦い(1586) | 天正14年、島津軍は立花山城を包囲。立花宗茂は父・紹運の岩屋城玉砕で稼いだ時間と知略で島津軍を翻弄。毛利軍の九州上陸で島津軍は撤退し、宗茂は城を奪還。九州平定の趨勢を決定づけた。 |
| 鶴崎城の戦い(1586) | 天正十四年、戸次川の敗戦後、鶴崎城は島津軍に包囲された。城主不在の中、妙林尼は老兵らを率い智謀で猛攻を退け、撤退する島津軍を奇襲し将を討ち取った。女丈夫の武勇が輝く戦いである。 |
| 都於郡城の戦い(1587) | 天正15年、豊臣秀吉の九州平定において、日向の要衝・都於郡城は戦わずして開城した。根白坂の戦いで島津軍主力が壊滅したため、戦略的価値を失い放棄されたのである。 |
| 名護屋湾岸集結を巡る小競(1591~92) | 豊臣秀吉の朝鮮出兵時、肥前名護屋に全国大名が集結。軍事都市では大名間の軋轢や小競り合いが頻発したが、秀吉の統制で抑えられた。この経験は、後の豊臣政権崩壊の遠因となった。 |
| 根白坂の戦い(1587) | 天正15年、豊臣秀吉の九州平定における決戦。島津軍は高城救援のため根白坂の豊臣軍砦に夜襲をかけるも、圧倒的な物量と鉄砲の前に大敗。九州の覇権は秀吉の手に渡った。 |
| 肥後国人一揆(1587) | 天正十五年、豊臣秀吉の九州平定後、佐々成政の検地強行で国人一揆が勃発。成政は窮地に陥り、秀吉は立花宗茂らを派遣し鎮圧。成政は責任を問われ切腹。 |
| 府内城の戦い(1586~87) | 天正十四年、島津軍は豊後府内城を攻めた。戸次川で豊臣先遣隊を壊滅させ府内城を占領するも、大友宗麟は臼杵城で「国崩し」を使い抗戦。秀吉本隊の到来で島津は撤退し、戦国の終焉を告げた。 |
| 府内湾口の戦い(1586) | 天正十四年の豊薩合戦における大友氏の首都府内周辺の攻防。島津義弘・家久軍の侵攻に対し、戸次川で敗れた大友・豊臣軍が府内城を失い臼杵城等で抵抗した戦い。 |
| 豊後岡城の戦い(1586~87) | 天正十四年、豊後岡城は島津大軍に包囲された。若き城主・志賀親次は寡兵で数ヶ月徹底抗戦し、巧みな戦術と不屈の精神で猛攻を退けた。孤塁を守り抜き、九州の命運を繋いだ死闘である。 |
| 戸次川の戦い(1586) | 天正十四年、豊後戸次川で島津家久は豊臣先遣隊を「釣り野伏せ」で壊滅させた。仙石秀久の功名心と内部不和が招いた悲劇は、長宗我部信親の命を奪い、秀吉の九州征伐本格化の引き金となった。 |
| 戸次川の戦い(1587) | 天正十四年、豊臣秀吉の九州平定に際し、豊後戸次川で島津軍と豊臣援軍が激突。島津軍の奇襲により豊臣援軍は大敗し、九州の覇権を巡る戦国最後の激戦となった。 |
| 宝満城の戦い(1586) | 天正14年、島津軍の筑前侵攻。高橋紹運は岩屋城で玉砕し島津軍の戦力を削いだ。宝満城は14歳の高橋統増が家族の命を救うため開城。立花宗茂が電光石火の反撃で両城を奪還した。 |
| 水俣城の戦い(1587) | 天正15年、秀吉の九州平定で水俣城は無血開城。根白坂の戦いで島津主力軍が壊滅し、豊臣水軍が海から包囲したことで、薩摩本国への侵攻路が確保された。 |
| 耳川の戦い(1578) | 天正六年、日向耳川で島津義久と大友宗麟が激突。島津軍の奇襲により大友軍は大敗し、九州の勢力図は大きく塗り替えられた。この戦いは大友氏の衰退と島津氏の覇権を決定づけた。 |
| 都之城(都城)の戦い(1587) | 天正15年、豊臣秀吉の九州平定において、南日向の要衝・都之城は無血開城した。根白坂で島津本隊が壊滅し、城主北郷氏は主家の降伏命令に従い、抵抗を断念したのである。 |
| 門司城合戦(1559~60) | 永禄元年、毛利元就と大友宗麟は北九州の要衝・門司城を巡り激突。大内氏滅亡後の権力空白を埋めるべく、両雄は関門海峡を挟んで攻防を繰り広げ、九州の覇権を争った。 |
| 門司城の戦い(1561~62) | 関門海峡の要衝、門司城を巡り毛利元就と大友宗麟が激突。毛利の水軍戦略が優位に立ち、将軍の調停で和睦。九州三国時代への序曲となった。 |
| 柳川城の戦い(1587) | 天正15年、豊臣秀吉の九州平定において、難攻不落の柳川城は戦わずして開城した。島津軍の敗北が決定的となり、当主の命令で城は明け渡され、戦後立花宗茂が入城した。 |
| 与賀城の戦い(1585) | 天正十三年の肥前国における秩序再編の戦い。沖田畷の戦いでの当主隆信の戦死により生じた龍造寺氏の権力の真空に乗じ、島津氏が調略により勢力を広げた実態を示す。 |
| 与賀・神野口の戦い(1585) | 天正十三年、隆信討死後の龍造寺家を狙い、離反国人衆が佐賀城下へ侵攻。鍋島直茂はクリーク地帯の地の利を活かし反乱軍を撃退。この勝利で直茂の地位は確立し、後の佐賀藩成立の礎となった。 |